James Monroe
Last Cocked Hat
民主共和党
Democratic-Republican
在任期間
1817年3月4日〜1825年3月4日
生没年日
1758年4月28日〜1831年7月4日
身長・体重
182.9cm/不明
|
|
小農園主の子
ジェームズ・モンロー大統領は1758年4月28日、ヴァージニア植民地ウェストモーランド郡で生まれた。ワシントンと同郡である。父スペンス((?-1774.2.14?))と母エリザベス(?-?)の間に生まれた5人の子供の中で2番目の子供であり、長男であった。父スペンスは、小農園主であり大工であった。ウェストモーランド郡の巡回裁判所の判事も務めた。また印紙条例に反対するヴァージニア決議の署名者の1人でもあった。
最後の三角帽
ジェームズ・モンロー大統領は「最後の三角帽」という渾名を持っている。三角帽は独立戦争時に軍務に服していたことを示している。ジャクソンを除けば独立戦争に参加した最後の世代である。
ジェームズ・モンローはヴァージニア邦議会議員を皮切りに、駐仏アメリカ公使、ヴァージニア州知事を歴任した。またフランス特使としてルイジアナ購入の実務交渉にあたっている。帰国後、マディソン政権下で国務長官ならびに陸軍長官を務めた。
好感情の時代
1816年の大統領選挙で勝利したジェームズ・モンローは第5代大統領に就任した。モンロー政権期は「好感情の時代」と呼ばれるように、実質的に民主共和党による一党支配の時代であった。奴隷制に関して1820年にミズーリ妥協が成立した。また外交に関して1823年にモンロー大統領はモンロー・ドクトリンを発表した。
1758年4月28日 |
ヴァージニア植民地ウェストモーランド郡で誕生 |
1774年6月20日 |
ウィリアム・アンド・メアリ大学に入学 |
1774年 |
父と死別 |
1775年4月19日 |
レキシントン=コンコードの戦い、独立戦争始まる |
1775年9月28日 |
ヴァージニア第3連隊の少尉の辞令を得る |
1776年3月25日 |
軍に入隊するためにウィリアム・アンド・メアリ大学を退学 |
1776年7月4日 |
独立宣言公布 |
1776年9月15日 |
ニュー・ヨークでワシントンの軍に合流 |
1778年12月20日 |
軍を退役 |
1782年 |
ヴァージニア邦議会議員に選出される |
1783年6月 |
連合会議のヴァージニア邦代表に選ばれる |
1786年2月15日 |
エリザベス・コートライトと結婚 |
1788年6月2日 |
ヴァージニア邦合衆国憲法批准会議に参加 |
1788年6月21日 |
合衆国憲法発効 |
1789年7月14日 |
フランス革命勃発 |
1790年11月9日 |
連邦上院議員に選出される |
1794年5月27日 |
駐仏アメリカ公使に指名される |
1796年8月22日 |
駐仏アメリカ公使を罷免される |
1797年12月 |
『合衆国外交における大統領の指導に関する考察』を執筆 |
1799年12月5日 |
ヴァージニア州知事に選出される |
1803年1月12日 |
フランス特使に任命される |
1803年4月18日 |
駐英アメリカ公使に任命される |
1807年12月 |
帰国 |
1810年 |
ヴァージニア州下院議員に選出される |
1811年1月 |
ヴァージニア州知事就任 |
1811年4月2日 |
国務長官に指名される |
1812年6月19日 |
1812年戦争勃発 |
1814年9月27日 |
陸軍長官に指名される |
1815年2月28日 |
再び国務長官に指名される |
1817年3月4日 |
大統領就任 |
1820年12月6日 |
大統領再選 |
1823年12月2日 |
第7次一般教書でモンロー・ドクトリン発表 |
1825年3月4日 |
大統領退任 |
1825年8月 |
ジョン・クインシー・アダムズ大統領とラファイエットを自宅で歓待 |
1829年 |
ヴァージニア州憲法修正会議議長に選ばれる |
1830年9月23日 |
妻と死別 |
1831年7月4日 |
死去 |
ヴァージニア王朝
ヴァージニア植民地の概要については、 ジョージ・ワシントンの出身州を参照せよ。1819年の恐慌は、ヴァージニア州をはじめ南部に大きな損失を与え、相対的地位の低下をもたらした。かつて新生国家の中心であったヴァージニア州は徐々に辺縁と化し、外部との繋がりが薄れていった。ヴァージニア王朝はモンローで以って終焉する。
目立たない家系
モンロー家はスコットランドのフォーリスの男爵家に端を発する。8世の祖ロバートの5男ジョージは、1547年のピンキーの戦いで戦死している。このジョージの家系がモンローの祖である。
アメリカに最初に渡った家祖は高祖父アンドリューである。1641年頃にメリーランド植民地セント・メアリ郡に渡った。同地の1642年7月の課税台帳にその名が認められる。しかし、植民地副総督に対する騒乱に関与したために地所を没収され、1648年にスコットランドに帰った。そして、8月17日のプレストンの戦いの参加し、捕虜となってヴァージニアに追放された。1650年、アンドリューはノーサンバランド郡に地所を得た。さらにウェストモーランド郡にも地所を得ている。こうした地所はそれほど大規模なものではなく、モンロー家はヴァージニアの支配層の中でも特に目立った存在ではなかった。
成人前に父を亡くす
父スペンスはモンローが16才の時に亡くなった。この父のことをモンローは「立派で尊敬すべき市民であり、良い土地やその他の資産を有していた」と評しているくらいで詳細はあまりよく分かっていない。母エリザベスについても「とても親しみやすく尊敬できる女性で、良妻賢母としての家庭的な性質を持っていた」とモンローが評しているくらいで父と同じく詳細はよく分かっていない。エリザベスの父、つまりモンローにとって母方の祖父はウェールズ系の移民であり、キング・ジョージ郡に地所を持っていた。母エリザベスは夫に先立つこと1年か2年で亡くなったらしい。
父の死後、母方の叔父ジョゼフ・ジョーンズが遺言執行人となった。叔父ジョゼフはヴァージニア植民地の政治家で後に大陸会議および連合会議のヴァージニア代表を務めた人物である。甥モンローの良き助言者となっただけではなく、有力者との繋がりをモンローにもたらした。
限嗣相続制によってモンローは父の遺産をすべて受け継ぎ、弟達の養育の責任を負った。それは当時のごく普通の慣習であった。モンローの父がウェストモーランド郡に所有していた地所は僅かに500エーカーほどで農園主と言ってもワシントン家に比べるとかなり小規模であった。
少年時代
少年時代のモンローはその当時の若者によくあるように騎乗や狩猟に精を出した。また農作業に強い関心を抱き、それは生涯にわたって変わることはなかった。政界に入った後も、農園主が本分であることを常に忘れなかったという。
兄弟姉妹
エリザベス・モンロー
姉エリザベス (1754-1802.9) は1754年に生まれ、結婚後はヴァージニア州キャロライン郡に住んだ。兄弟姉妹の中で姉エリザベスとの仲かが最も親密であった。
スペンス・モンロー
長弟スペンス (1759?-?)は1759年に生まれた。おそらく20才を迎える前に亡くなった。
アンドリュー・モンロー
次弟アンドリュー(?-1826.12.2)は、短期間、ウィリアム・アンド・メアリ大学に通った後、商人と競売人になったが成功を収めなかった。兄ジェームズの代わりに農園の管理をしばしば行った。借金を抱え、兄ジェームズの支援を度々、受けていた。
1789年に結婚しヴァージニア州アルブマール郡に住んだ。アンドリューの次男ジェームズはウェスト・ポイントの陸軍士官学校で学び陸軍で成功を収めた。さらに連邦下院議員を務めている。次男ジェームズの孫ダグラス・ロビンソンは セオドア・ルーズベルトの妹コリーヌと結婚している。
ジョゼフ・モンロー
末弟ジョゼフ(1764- 1824.8.6)は、エディンバラで教育を受け、グラスゴーの大学に通った。法律を学び、ヴァージニア州アルブマール郡の検事や同州ノーサンバランド郡の巡回裁判所の事務官などを務めた。また兄ジェームズの個人秘書も務めた。飲酒やギャンブルのために借金が嵩むこともあり、兄ジェームズはその度に救いの手を差し伸べなければならなかった。
徹底的な教育を受ける
1769年から1774年にかけてアーチボルド・キャンベル師lが運営していたキャンベルタウン・アカデミーに通った。朝早く家から森の中を縫って通学していた。その途中、携帯したライフル銃で獲物を撃つことがよくあったという。
キャンベルタウン・アカデミーは植民地の中で非常に評判の高い学校で、生徒数は24人に限られていた。アカデミーでモンローは大学に進学する準備としてラテン語、ギリシア語、数学、古典などの徹底的な教育を受けた。この当時の友人として後の ジョン・マーシャル最高裁長官がいる。マーシャルは生涯にわたる友人となった。
血気盛んな大学時代
父が亡くなった後、叔父ジョゼフ・ジョーンズの薦めでモンローは、1774年6月20日、ウィリアム・アンド・メアリ大学に入学した。その当時、ウィリアム・アンド・メアリ大学があったウィリアムズバーグは政治的騒乱の坩堝であった。大学の教授陣は学生達を勉学に専念させようとしばしば試みたが無駄に終わっている。そうした教授陣の試みを尻目に学生達は町の人々が行う集会や軍事教練などに競って参加した。モンロー自身もライフル銃を購入してそうした学生達の輪に加わっていた。
イギリスとの決裂が決定的になると、1775年6月24日、24人の集団が総督公舎を急襲した。総督は既に退去した後だったので、彼らは何の抵抗も受けずに総督公舎に蓄えてあった200丁のマスケット銃と300本の剣を手に入れてウィリアムズバーグの民兵隊に引き渡した。彼らの中で最年少の一員がモンローであった。翌1776年春、モンローは軍隊に入隊するために大学を飛び出した。
陸軍将校
入隊
1775年9月28日、モンローはヴァージニア第2連隊の中尉に任じられた。身長6フィート(約183cm)で広い肩幅に頑健な骨格を持つモンローはまさに軍隊向きであった。モンローがヴァージニア第2連隊に正式に入隊したかどうかは公式記録がないので明確ではない。しかし、ウィリアムズバーグの新聞がそれを伝えている。
翌年2月、新たにヴァージニア第3連隊が編成されると同じく中尉として配属された。ウィリアムズバーグで教練を受けた後、1776年9月12日、700人の連隊兵とともにマンハッタン島に駐留していた ジョージ・ワシントン率いる大陸軍本隊に合流した。モンローは陸軍中尉の辞令を得た。
その頃、アメリカ軍はイギリス軍とニュー・ヨークをめぐって攻防を続けていた。9月15日、イギリス軍はマンハッタン島のキップス・ベイに上陸を開始した。その周辺を守備していたコネティカット民兵は練度も戦闘経験も不足していたのでほとんど抵抗せずに撤退した。モンローが所属する部隊はキップス・ベイから離れた所に布陣していたので交戦する機会はほとんど与えられなかった。
翌日、150名からなるコネティカットのレンジャー部隊が約1500名のイギリス軍と遭遇した。レンジャー部隊を救援するためにヴァージニア第3連隊から応援部隊が派遣された。その中にモンローは加わっている。戦闘の結果、コネティカットのレンジャー部隊と応援部隊の指揮官が戦死したが、敵軍を撃退することに成功した。約一ヶ月間、両軍は睨み合ったが、イギリス軍が側面を衝く構えを示したので、アメリカ軍は北方に兵を退いた。
10月26日、モンローが属する部隊はイギリス軍に夜襲を仕掛け、自軍は全く戦死者を出すことなく損害を与えた。しかし、2日後の28日に起きたホワイト・プレーンズの戦いの主戦場には参加していない。ホワイト・プレーンズの戦いの後、アメリカ軍はイギリス軍の動きに備えるために大きく3つに分かれた。ヴァージニア第3連隊はワシントンに従ってニュー・ジャージーを横切ってフィラデルフィアに向かった。この行軍の最中、モンローの連隊の兵士達は次々と脱落し、僅かに200名を数えるほどになっていた。また将校の数も、11月初めには17名が任にあたっていたが、クリスマスの頃にはモンローを含め僅か5人の将校しか残っていなかった。
トレントンの戦いで活躍
12月25日夜、トレントンに駐留するヘッセン傭兵部隊を急襲するためにアメリカ軍はデラウェア川を渡った。トレントンの戦いの始まりである。モンローは自分の部隊から離れて先にデラウェア川を渡っていた。そして、ウィリアム・ワシントン率いる先行部隊に将校として加わった。モンローは斥候としてトレントンに至る道を辿った。
その途上、モンローは一人の医師と遭遇した。犬が吠える声で目を覚まし様子をうかがいに来たのである。モンロー一行の姿を認めると医師は自宅で食事を提供しようと申し出た。モンローはそれを断ったが、医師は自宅から食事を運び、さらに軍医として同行することを申し出た。この出来事が後にモンローの命を救った。
そのままモンローは先鋒としてトレントンの町に北側から入った。ヘッセン傭兵が侵入してくるアメリカ軍に3ポンド砲2門を向けようとした。もし砲門が開けばアメリカ軍に甚大な被害が及ぶ恐れがあった。それを阻止するためにモンローはウィリアム・ワシントンの指揮下で強襲を仕掛けて大砲を奪取した。モンローは左肩に重傷を負ったが、先述の医師が幸いにも居合わせたために落命せずに済んだ。こうした活躍が認められて大尉への昇進が認められた。
療養とその後
1777年1月から3月にかけて、モンローはペンシルヴェニア邦バックス郡で療養した。傷が癒えた後、モンローはヴァージニアで新兵を募るためにキング・ジョージ郡の各地に赴いたが1人の新兵も集めることができなかった。他の将校達も同様で、集めることができた新兵は僅かに15人であった。これ以上の募集は無益だと考えたモンローは、8月11日、ワシントンの本営に帰還した。ワシントンはモンローを陣営に迎え入れたが、与えるべきポストが特になかった。
そのためモンローはウィリアム・アレグザンダー将軍の副官を務めることになった。アレグザンダー将軍の下でモンローは1777年9月11日のブランディワインの戦いと10月4日のジャーマンタウンの戦いの戦いに参戦した。この間、モンローは少佐に昇進している。副官としての職務は、大規模な軍事行動について得難い経験をもたらした。こうした経験は後の1812年戦争に役立った。またこの頃、ラファイエットとの親交を深めている。
1777年から翌年にかけて、ヴァリー・フォージの冬営地での厳寒も体験している。冬の間、アメリカ軍は多くの兵士を失ったが、フィラデルフィアを撤退してニュー・ヨークに向かうイギリス軍を追尾した。イギリス軍は、フランス遠征軍との戦いに備えてニュー・ヨークに兵力を結集しようと意図していた。1778年6月28日に起きたモンマスの戦いでは、両軍ともに損失は数百名程度であり、お互いに決定打とはならなかった。
自分の部隊を指揮したいとかねてからモンローは望んでいたが、それはかないそうになかった。指揮すべき軍隊よりも士官の数のほうがはるかに多かったからである。一時的な措置だと思って引き受けた副官の地位は、恒久的なものとなりそうであった。
ヴァージニア邦が新たな連隊を編成するようだという情報を知ると、モンローは1778年12月20日(発効は1779年1月12日)、大陸軍を退役した。ワシントンはモンローを「あらゆる場合に彼は勇敢であり、活発であり、分別のある将校だという評判を保った」と評価している。
大陸軍から退役後、モンローはヴァージニア邦軍の大佐として念願の自分の部隊を編成する許可を得た。しかし、残念ながら連隊を編成するに足る兵員を確保できなかった。自分の部隊を指揮するというモンローの願いは最後まで実現することはなかった。
退役後
1780年1月、モンローはウィリアム・アンド・メアリ大学に一旦戻り、ヨーロッパで学ぶ計画を立てたが便船がないために断念した。またこの頃から1783年まで、その当時、邦知事を務めていた トマス・ジェファソンの指導で法律を学んだ。「時間の使い方と計画を私の友であり、最も賢明で徳操優れた共和主義者であるジェファソン氏に示した。彼の助言でこれまで何とかやってこられた」とモンローは記している。ジェファソンは生涯にわたってモンローに大きな影響を与えた。
3月、リッチモンドへ赴くジェファソンに同行するためにウィリアム・アンド・メアリ大学を去った。また6月から8月にかけて、軍監としてノース・カロライナ邦に滞在した。
ヴァージニア邦議会議員
1782年4月4日、ヴァージニア邦議会議員に選ばれた。さらに6月7日、ヴァージニア邦議会によって行政評議会の一員に選ばれた。この時、ジョン・マーシャルも行政評議会の一員であった。同月、モンローはヴァージニアの法曹界に加入している。
連合会議
西部に対する権利を擁護
1783年6月6日、連合会議のヴァージニア代表に選ばれる。そして12月23日、モンローは他の代表達とともにアナポリスで大陸軍総司令官を退任するジョージ・ワシントンを迎えている。
モンローは1784年6月から10月にかけて、五大湖とカナダ周辺を視察している。北西部領地の視察が主な目的である。またネイティヴ・アメリカンと諸邦の間の交渉の立会人も務めた。モンローは、西部がアメリカの将来の発展に重要であることを認識すると同時に、既に西部に居住している人々の権利の代弁者としての役割を務めた。また西部の土地を独立戦争の退役軍人に与えるように働きかけている。
モンローはジェファソンと西部の管理について多くの見解を共有していたが、視察をして現状を知った後、ジェファソンの「西部領地のための政府案に関する報告」の実現性に疑問を抱き、例えば人口増加を待って徐々に邦の加盟を認めるなど別の政策をとるように連合議会に勧めた。西部における準州設置に関してはモンローの貢献によるところが大きい。
1785年、外務長官 ジョン・ジェイはスペインとの条約案を連合会議に提出した。それは、アメリカがミシシッピ川の自由航行権を断念する代わりに、スペインが貿易特権をアメリカに与えるという骨子であった。ジェイは数少ない西部の居住者の利益を守るよりも東部の商人の利益を獲得するほうが賢明だと考えたのである。モンローは一貫してその提案に反対を唱えた。スペインは貿易相手として見込みは薄いとモンローは思っていただけではなく、ミシシッピの自由航行権なしでは西部の発展は見込めないと固く信じていたからである。
ジェイの提案に反対を唱えたのは主に南部諸邦である。南部からすれば、それは単に北部が南部の成長を阻害する試みに過ぎなかった。一方で提案を支持する北部諸邦は、南部は西部における利益を守ることしか眼中にないと非難した。モンローは反対派の中心となって条約の承認を阻んだ。
憲法制定会議への道筋を開く
モンローはより強力な政治体制を築くために、連盟規約の修正を望んだ。ただ急進的ではなく穏健な手法をモンローは好んだ。1785年3月28日に行った報告では、通商問題を規定する権限を連合会議に与える一方で、関税を課する権限は各邦に残しておくべきだと主張している。しかし、こうした主張を実現に移すために積極的な動くことはなかった。
さらにモンローは通商問題の解決を連合会議以外の場で行うことが必要だと考えるようになっていた。そのため、マディソンに「我々の問題の中で最も重要な領域」と述べているように、1786年のアナポリス会議の開催にモンローは積極的に協力した。ニュー・ハンプシャー邦がアナポリスに代表を送らないことを知ると、モンローは知事に会議の重要性を訴えて翻意を促している。
アナポリス会議から、13邦の代表からなる会議、いわゆる憲法制定会議の開催を求める報告書を受け取ったモンローは、それを検討する委員会の設立を連合議会に早速提議した。その結果、10月11日に委員会が設立された。モンローが任期を終えてヴァージニアに帰る数日前であった。それが連合会議でのモンローの最後の仕事となった。
ヴァージニア邦議会議員
連合会議の任期終了
1786年10月13日、連合会議での任期が終了した。ヴァージニアに戻ったモンローはフレデリックスバーグに居を定め、法律事務所を開所し、検事にも指名された。1787年4月、モンローはヴァージニア邦議会議員に選出された。さらに同年7月11日、フレデリックスバーグの町議会議員にも指名されている。
ヴァージニア憲法批准会議
1788年6月2日から6月27日かけて、モンローはヴァージニア憲法批准会議の代表を務めた。憲法批准会議で、モンローは連盟規約の欠陥を十分に認識していたのにも拘らず、パトリック・ヘンリーやジョージ・メイスンとともに批准反対派に回り、賛成派の ジェームズ・マディソンと袂を分かった。
モンローは、会議に参加する1週間ほど前にモンローは「憲法に関する考察」と題する草稿を準備している。それには憲法案へのモンローの反対意見がまとめられている。
モンローの反対論の要点はいくつかある。憲法が、大統領や連邦議会の権力濫用を防止するための対策が不十分な点、連邦と州の間で衝突が起きることが予想される点、直接課税を認めている点、そして大統領に無制限に再選が許されている点などである。そして、特にモンローが強く主張した点は、合衆国市民の基本的権利の擁護がほとんど明記されていない点であった。憲法批准に反対票を投じたモンローであったが、新政府が樹立されることになると一転、支持に回っている。モンローの反対はヘンリーやメイスンに比べると強固なものではなかった。ヴァージニアにおける反対が、新政府に必要な憲法修正を促す契機となるとモンローは考えていたのである。それは後に、マディソンの提案によって権利章典という形で実現した。
連邦下院選挙に落選
翌1789年2月2日に行われた連邦下院選挙でモンローは、ジェームズ・マディソンに972票対1308票で敗れた。モンローの出馬は象徴的なもので、当選を期待していたわけではない。選挙活動で権利章典の必要性を唱えることで、マディソンに権利章典の早期提案を約束させることが目的であった。
連邦上院議員
1790年11月9日、欠員に伴ってヴァージニア州議会がモンローを連邦上院議員に選出した。12月6日、モンローは初登院した。モンローは上院を一般に公開するように初めて提案している。モンローは アレグザンダー・ハミルトン財務長官が推進する政策を上院だけではなく、数多くのパンフレットや新聞の論説などで攻撃した。1792年には、ハミルトン元財務長官の公金運用問題に関する上院委員会の一員となっている。モンローは、ジェファソンや ジェームズ・マディソンと連携して民主共和派を徐々に形成するようになった。
1793年4月22日、 ジョージ・ワシントン大統領はフランス革命戦争に関して中立を宣言した。当初、モンローはこの中立宣言を支持していたが、次第に反対するようになった。大統領に中立を宣言する権限を認める前例を作ることによって、議会の宣戦布告する権限が侵害されると恐れたためである。また大統領が宣戦布告を正当化する前例として利用する危険があるとも考えられたからである。
独立戦争後も残っている懸案事項を解決するために、ハミルトンがイギリスに特使として派遣されるという噂が流れた時、モンローはワシントン大統領に抗議の手紙を送っている。民主共和派は、ハミルトンを頭とする連邦党が過度に親英的であると疑念を抱いていたからである。
1794年5月28日、モンローはフランス全権公使の任命を受けて上院議員を辞任した。ワシントンはモンローが民主共和派として現政権の諸政策に反対していること、そして親仏的であることを認識していたが、フランスとの関係改善を図るためにモンローを駐仏アメリカ公使に任命したのである。またジョン・ジェイを駐英アメリカ公使に任命する一方で、モンローを駐仏アメリカ公使に任命することにより中立宣言を批判する民主共和派を宥めるという目的もあった。
駐仏アメリカ公使
ラファイエット夫人を救出
1794年6月19日、ボルティモアを出港したモンローは8月2日、パリに着いた。ロベスピエールの恐怖政治が終焉を迎えた直後であった。8月15日、国民議会はモンローを公使として接受した。接受は非常に華々しいものであったので、その報せを受け取った エドモンド・ランドルフ国務長官は、中立国であるアメリカの公使として過度にフランスに肩入れするような姿勢を示すべきではないと説諭している。
モンローの考えでは、恐怖政治の終焉による新政府の樹立は関係改善の好機であった。フランスとの友好関係を維持しながら、アメリカの中立を維持する方途をモンローは模索した。それと同時に、モンローの注意はフランス革命に関する悪い印象を払拭することに向けられた。モンローはアメリカに向けた多くの書簡の中でフランスが共和主義と安定に向かって進歩していることを強調している。
モンローは、牢獄からトマス・ペインを解放するように働きかけている。『コモン・センス』の作者で知られるペインはパリに移住し、ルイ16世の処刑に反対したために収監されていたのである。ペインの他にもすべてのアメリカ市民も解放するように働きかけている。11月4日に解放された後、ペインは約1年半、公使邸に滞在し、ワシントン政権を非難する文章を発表した。特に、牢獄からすぐに解放されるようにワシントンが取り計らわなかったことをペインは槍玉にあげている。モンローはペインの活動を抑えようとしたが、悪評が本国に伝わることは避けられなかった。
外交官の任務としてアメリカ市民を救い出すことはまだ容易であったが、フランス市民を救い出すことは用意ではなかった。モンローの友人であるラファイエットの妻が処刑の候補者として収監されたのである。夫人だけではなくラファイエット自身も異国の地で収監されていた。
モンローは友人の妻を救出したいと考えたが、両国間の関係を損なわないために公的に介入することは難しかった。そこで妻エリザベスを外交官用の馬車に乗せてラファイエット夫人のもとへ行かせることにした。その話がパリ市民の間に広まって同情論が高まったお蔭で、モンローはラファイエット夫人を解放させることに成功した。
その他の業務
旅券の取り締まりは公使の重要な職務であった。この頃、フランスを旅行する外国人、特にイギリス人によるアメリカ旅券の不正使用が横行していた。モンローはそうした不正使用を減らすように努めた。
その一方で、フランスの各港に配置された係員を監督して、アメリカ船の船長や船主がフランス政府に抑えられた貨物を取り戻す手助けをした。フランスに滞在しているアメリカ人の便宜を図った。またフランスで教育を受けているアメリカ人子弟にも気を配らなければならかった。
召還
両国の関係は改善に向かいつつあるとモンローは信じていたが、その一方でフランス政府が不安定であるためにその友好関係は確かなものではないとも考えていた。そうした状況の下で、ジェイ条約締結に関する情報が広まった。それはフランスのアメリカに対する態度を硬化させた。
フランス政府は、ジェイ条約が米仏同盟に付随する義務を何ら損なうものではないと保証する様にモンローに求めた。モンローは条約の内容を確認するために ジョン・ジェイに条約の写しを送るように依頼した。しかし、ジェイは、条約が米仏同盟に付随する義務を損なう条件を含まないと請合ったものの、上院に承認されるまで条約の内容は秘密であるとしてモンローの依頼を拒絶した。
「ジェイ条約は、私がジェイの派遣で恐れていたものよりもはるかに恐ろしいものだ。本当に、それは私が今まで聞いた中でも最も恥ずべき交渉だ」と書き留めているように、モンロー自身もジェイ条約を快く思っていなかったが、駐仏アメリカ公使としてそれを公的に表明することはなかった。フランス政府は、アメリカが米仏同盟を破棄してイギリスと手を組むのではないかという疑いを強めたが、モンローにはそれを晴らすことができなかった。
その一方で、ワシントン政権は、フランスの非難からジェイ条約を擁護する役割をモンローに期待したが、モンローはその役割をほとんど果たすことはできなかった。そのため、1796年8月22日、ワシントンはモンローの召還命令を出し、「フランス政府の思いのままになる単なる道具」と厳しく叱責した。11月、召還命令がモンローのもとに届いた。そのためモンローは12月30日、フランス政府に離任を伝えた。
1797年1月20日から2月8日にかけて、オランダとベルギーを旅行した後、4月9日に、モンローを乗せた船はボルドーからアメリカに向けて出港した。
ヴァージニア州知事
帰国
1797年6月27日、モンローはフラデルフィアに到着した。アダムズ政権下でモンローの居場所はなかったが、ジェファソンとマディソンを筆頭とする民主共和派からはまるで英雄の帰還のような歓待を受けた。
フィラデルフィアに滞在している間、モンローはフランスにおける自分の行動を擁護し、召還命令を出した政権を批判するパンフレットの執筆にとりかかった。これは12月に「合衆国外交における大統領の指導に関する考察」という題で出版された。
ハミルトンとの衝突
ハミルトンとの衝突の発端は『1796年のアメリカの歴史』という本であった。この本はハミルトンの不倫問題を暴露しただけではなく、それが汚職と関係していることを示唆していた。
実は1792年12月15日に、モンローは2人の議員とともに汚職の嫌疑でハミルトンのもとを訪れている。その際に、汚職の嫌疑を晴らすため、ハミルトンは自らの不倫を告白した。モンローは他の2人とともにハミルトンの告白を口外しないことを誓った。そして、モンローは証拠文書の写しを預かった。
こうした経緯から、ハミルトンは不倫の証拠文書をモンローが作者に横流ししたのではないかという疑いを抱いた。この問題をめぐるハミルトンとモンローの確執は決闘寸前まで紛糾したが、幸いにも決闘は立ち消えになった。モンローは生涯にわたって証拠文書を横流しした事実はないと一貫して否定している。
ハイランドに移転
1798年8月、ヴァージニアに戻ったモンローは弁護士業を再開した。そして、1799年11月23日、完成したハイランド(現アッシュ・ローン)に移転した。ハイランドはシャーロッツヴィル近郊にあり、ジェファソンの設計に基づいて建設された。モンローの公職からの引退期間は、1799年12月5日にヴァージニア州知事に選ばれたことによって終わりを告げた。
外国人・治安諸法に対する抵抗
州知事としてモンローは最初の州刑務所と兵器庫の建築を監督した。兵器庫の建築は、ヴァージニア民兵の兵装を近代化する計画の一環であった。モンローは新たな兵器の調達や製造契約に従事している。
連邦政府を去ってヴァージニア州議会議員となっていたマディソンは、1800年1月7日、ヴァージニア州議会に外国人・治安諸法に関する報告書を提出した。マディソンの報告書はモンローの指示によって広く配布された。
ゲーブリエルの陰謀
モンローの州知事在任中に起きた最大の事件であるゲーブリエルの陰謀である。ゲーブリエルの陰謀はアメリカ史上、最も大規模な奴隷反乱の1つである。その中心人物はゲーブリエルという名の1人の奴隷である。1800年8月30日、ゲーブリエルとその追随者達は武装して州都のリッチモンドの襲撃に向かった。武器庫を制圧し、州知事を拘束して奴隷解放を約束させるつもりであった。しかし、この計画に参加していた1人が一味から抜け出し、あらましを奴隷主に告げたことで事件が発覚したのである。
翌日昼にはモンローのもとに事件の報せが届いた。モンローは州の非常事態を宣言したうえ、すぐにヴァージニア民兵を招集して一味を取り囲んだ。ゲーブリエルが行方をくらましたのでモンローは300ドルの懸賞金をかけた。結局、ゲーブリエルは仲間に裏切られて逮捕された。30人から40人の黒人奴隷が逮捕されリッチモンドの牢に投獄された。
1800年10月10日、ゲーブリエルは死刑に処された。ゲーブリエルの他にも26人が処刑された。モンローはそうした処置に関して「この場合、慈悲と厳罰のどちらが良い方策かを言うことは難しいが、疑惑が残るのであれば前者を採るがよいだろう」と述べている。また12月5日、モンローは危機が過ぎ去ったことが、同じような危機は今後、またいつ起こるかは分からないとヴァージニア州議会に警告している。不幸にもモンローの警告は後に現実のものとなった。
奴隷制問題
ゲーブリエルの陰謀は奴隷制問題を改めて認識させる契機となった。奴隷制をどう扱うべきかについてモンローとジェファソンは内密の書簡を交わしている。
モンローはヴァージニア州の奴隷解放を促進するために、自由黒人を西部に移すべきだと主張した。そして、ジェファソンに解放した奴隷を移住させる土地を見つけることができるように協力を求めている。数多くの解放奴隷を移住させるのに適当な土地は見つからないとジェファソンは回答している。そして、もし適当な土地があったとしても、アメリカの周辺よりもできるだけ離れたアフリカのどこかにするべきだと述べている。両者の内密の書簡は1816年に再発見され、アメリカ植民地協会結成の重要な契機となった。
1801年の危機
1800年の大統領選挙の結果、ジェファソンと アーロン・バーが同数の選挙人を獲得していることが判明した。そのような場合、連邦下院の裁定に委ねられることが憲法で規定されている。民主共和派は、下院がバーを大統領に選び、ジェファソンから大統領の椅子を奪うのではないかと恐れた。
モンローはワシントンの情報を素早く知るために早馬を整備して動静を注意深く見守った。ジェファソンが選に漏れた場合に備えて民兵を招集するようにモンローに助言する者もいた。しかし、モンローは、ヴァージニア州議会の特別招集を準備するだけにとどめた。結局、下院の36回にも及ぶ決選投票の結果、ジェファソンが無事に大統領当確となり、モンローの危惧は杞憂に終わった。
1802年12月9日、ヴァージニア州知事の任期が終了し、モンローは弁護士業を再開した。しかし、公職から離れていた期間は束の間のことであった。
駐仏特使
1803年1月12日、ジェファソン大統領はモンローをニュー・オーリンズと西フロリダの購入交渉を行う特使に任命した。さらにスペインとも交渉を行う必要性から3月2日、モンローは重ねてスペイン特使に任命された。1803年1月13日付の手紙でジェファソンは、「すべての目とすべての希望が今、君に向けられている」と述べ、さらに「この任務に我が共和国の未来の命運がかかっている」とモンローを激励している。
3月8日、ニュー・ヨークを発ったモンローは、4月12日、パリに到着し、ロバート・リヴィングストンと合流して交渉の任にあたった。
モンローは、ナポレオンの申し出を受け入れるようにリヴィングストンを促した。ルイジアナ購入は本国の指令を逸脱する行為であり、越権行為ととられかねなかった。しかし、ジェファソンはモンローとリヴィングストンのルイジアナ購入を歓迎した。ルイジアナ購入の成功はモンローの名声を大いに高めた。
駐英アメリカ公使
ルイジアナ購入を取りまとめた後、今度は駐英アメリカ公使としてモンローはパリを出発し、1803年7月18日、ロンドンに赴任した。モンローの使命は、強制徴用の停止と失効を迎えるジェイ条約に代わって新たな条約を、通商上、できるだけ有利な条件を付けて、イギリスと締結することであった。しかし、ヨーロッパでの戦争に没頭していたイギリスは、アメリカの主張にほとんど耳を傾けようとしなかった。イギリスとの交渉に見切りをつけたモンローはスペインに向かうことにした。
1805年7月23日、モンローはマドリッドからロンドンに帰着した。翌1806年8月27日、モンローは、イギリスと通商条約締結交渉を開始した。交渉を支援するためにウィリアム・ピンクニーがモンローのもとに派遣された。交渉の結果、12月31日、両者はイギリスと、フランスの植民地と本国間の貿易にアメリカ船が従事することを認める通商条約を締結した。イギリスは新条約締結には乗り気であったが、強制徴用停止は頑として拒んだ。最終的にモンローは、強制徴用停止の確約を取り付けるように指示されていたのにも拘らず、アメリカ市民を傷付けないように最大限配慮して強制徴用の権利を行使するとイギリス政府に言明させたにとどまった。
モンローとピンクニーは所定の目的を果たさずに条約を締結したことを十分に理解していたが、両国間の諸問題を解決する契機となることを望んで締結に同意したのである。さらにモンローにはヨーロッパ諸国間の外交関係に根差した思惑もあった。アメリカがイギリスに接近する姿勢をちらつかせれば、それを妨害しようと考えてフランスやスペインもアメリカとの交渉に応じるようになるだろう。さらに、フランスやスペインが交渉に応じるようになれば、イギリスもアメリカの気を引こうとして交渉に応じるようになる。
しかし、こうしたモンローの思惑をジェファソン大統領も国務長官マディソンも理解できなかった。そのため条約の草案を受け取った両者はそれを上院に上程せずに廃案とすることに決定した。その代わりに交渉を再開するようにモンローとピンクニーに指示した。
モンローは交渉再開をイギリス側に要請したが拒否された。さらにチェサピーク号事件が勃発したために両国の関係は決裂した。最終的にモンローは両国の関係修復を断念し、1807年10月29日、母国に向けてロンドンを発った。そして、同年12月13日に帰国した。
スペイン特使
1804年10月8日、ロンドンを発ったモンローは、10月24日、パリに到着した。そして、12月2日にノートル・ダム大聖堂で行われたナポレオンの戴冠式に出席している。その後、家族をパリに残し、12月8日、マドリッドに向けて出発した。スペイン特使としてモンローに課せられた使命は、スペイン人によって接収されたアメリカ人の船舶や貨物に対する補償を求めることと西フロリダを獲得することであった。フランスに1ヶ月以上滞在している間、モンローは、スペインとの交渉に関してフランスの支持を得ようとしたが失敗している。
1805年1月1日にマドリッドに到着し、チャールズ・ピンクニーと合流した。アメリカ側の主張は、スペインがフランスにルイジアナを割譲した際に、西フロリダもその一部として含まれているはずなので、ルイジアナ購入の結果、西フロリダも当然、アメリカの領土と見なされるという論理である。もちろんアメリカ側もこの主張が通るとは思っていなかった。しかし、今後のスペインとの交渉に有利にはたらくと考えたのである。結局、スペインとの交渉は実を結ばず、1805年5月26日、モンローはマドリッドを後にした。
ヴァージニア州知事
マディソンとの衝突
モンローはイギリスとの通商条約を廃案にした件で、当時、国務長官だったマディソンを非難した。そのため4月頃には両者の仲は決裂した。両者の間の亀裂をさらに深めたのが1808年の大統領選挙である。
ヴァージニア州の保守的な民主共和党員はマディソンの政権継承に不信感を抱いていた。
1808年1月21日、そうした一派がモンローを大統領候補に擁立しようとした。この時、モンロー自身は大統領の椅子が獲得できるとは全く思っていなかった。しかし、こうした動きはモンローにとってジェファソンとマディソンの外交政策に対する抗議の表明であった。その一方でモンローは、マディソンとの意見の相違は外交政策に関してのみであり、その他の問題についてはすべての点で一致していると述べている。最終的にはジェファソンの影響の下、後継者はマディソンに決定した。
ジェファソンも通商条約を廃案にした張本人であるが、マディソンに比べて目上という意識が強かったのでモンローは非難の矛先をジェファソンに向けなかったと考えられる。結局、両者を仲裁する労をとったのもジェファソンである。まずマディソンはモンローにルイジアナの長官職就任を打診した。その申し出をモンローは和解の証だと考えたが就任を断った。権力の中枢から離れた役職であり、 ロバート・スミス国務長官の下風に甘んじるのを好まなかった。
私財の整理
1808年夏、モンローは私財の整理のためにケンタッキーに向かった。もしモンローが大統領の椅子を真剣にねらっていたのであれば、2ヶ月間もヴァージニアを留守にすることはなかったはずである。独立戦争の報奨としてケンタッキーとオハイオにある土地がモンローに与えられていた。できればその土地を売却して利益を得ようとモンローは考えたのである。しかし、結局、適当な買い手を見つけることはできなかった。
モンローは熱心に自分が所有する農園を管理していたが、公職のために、いつも自ら管理に携わることができたわけではなかった。さらに他のヴァージニアの農園主と同じく、旱魃、穀物価格の低迷、土地価格の下落などに見舞われ資金繰りに悩んでいた。そのため土地の売却益で何とか借金を返済する必要があった。こうした現象はその当時のヴァージニアでは珍しくなかった。
さらに外交官としてモンローがヨーロッパに滞在している間、公使としての体面を保つために政府が支給する以上の費用を自費で賄う必要があった。これは当時では特に珍しいことではない。しかし、もともと財産があまりなかったモンローにとってヴァージニアの上流階級の生活を維持することは経済的に非常に負担となった。
3ヶ月間の在任
モンローは1810年4月にヴァージニア州議会議員に選出された。その後、ヴァージニア州知事に選出され、1811年1月18日から着任した。州知事として4選目である。
その頃、マディソン大統領はロバート・スミス国務長官に不満を抱いていた。スミスはしばしば職務を遅滞させたので、マディソン自ら国務長官の職務を果たさなければならないほどであった。そこでマディソンはスミスを退任させモンローの助けを求めることにした。またモンローの国務長官就任は民主共和党内の派閥対立を宥める効果も望めた。連邦党の再興を抑えるために民主共和党内の調和は是非とも必要であった。マディソンの求めに応じるために、4月3日、モンローは州知事を辞任した。任期は僅かに3ヶ月間であった。
国務長官
対英関係
1811年4月6日、モンローは国務長官に就任した。その頃、ヨーロッパでナポレオンは絶頂期を迎えていた。ナポレオン戦争によってアメリカの中立を脅かす様々な問題が生じた。
モンローが国務長官に着任する前、議会はメーコン第2法を可決している。それは、フランスとイギリスのいずれかがアメリカの船舶を拿捕する命令を撤回しなければ、アメリカは通商断絶で以って報いる権限を大統領に与える法律であった。
後に誤報であることが判明したが、ナポレオンがアメリカに対してベルリン勅令を破棄したという報せを受けたマディソンは、イギリスとの通商を停止することを宣言していた。こうした状況下で国務長官として最も優先すべき課題は対英関係の改善であった。
モンローは新たに着任した駐米イギリス公使オーガスタス・フォスターと交渉を開始した。フランスに向かうアメリカ船舶の拿捕を停止するようにアメリカ側は要求した。モンローはフランスとイギリスを両天秤にかけて有利な条件を引き出そうとしたが、フォスターはフランスが実質的に通商規制を撤廃していないと主張した。またイギリス政府は、アメリカの考えをフランスに示すまではいかなる交渉にも応じないと返答した。
最終的にモンローは、「[戦争をしても]現状よりも我々が被害を受けることはない」と述べているように、戦争が避けられないと悟るようになった。タカ派の中で人気が高いモンローが国務長官として在任していることで、マディソンは対英政策を円滑に進めることができた。イギリスとフランスに対してもっと強い姿勢を示すべきだという共通見解を抱くようになった。
モンローは交渉の過程におけるアメリカ側の努力を一連の新聞の論説で発表した。さらにもし戦争になった場合もアメリカが迅速に勝利を収めるという見込みを示している。モンローは、当時の多くのアメリカ人と同じく、英領カナダの防備が脆弱で容易く制圧できると思っていた。さらに英領カナダの返還を条件としてアメリカの中立国としての権利の尊重と強制徴用停止を確約させることができるとモンローは考えていた。
イースト・フロリダ侵攻を黙認
1811年、議会は、もしイースト・フロリダの総督が併合に合意するか、もしくはイースト・フロリダが他の外国勢力の手に落ちる可能性があれば、併合を試みる許可を与えた。そうした議会の承認の下、マディソン政権は元ジョージア州知事ジョージ・マシューズを西フロリダに派遣した。
1811年6月28日と8月3日の2度にわたってマシューズは、スペイン総督がイースト・フロリダ併合に同意しないことをモンローに報告した。さらにマシューズは現地の住民がスペインに対して反乱を起こしそうだが、ほとんど支援を受けられずにいると報告した。マシューズの報告にモンローは返答を与えなかった。マシューズはモンローが自分の行動を黙認していると判断して、1812年3月18日にイースト・フロリダ侵攻を開始した。
イースト・フロリダ侵攻を知ったモンローはマシューズを非難したが、撤退命令は出さなかった。モンローは「今や事ここに至っては、前進するよりも後退するほうが危険でしょう」と述べている。
1812年戦争
戦争が始まると、在米イギリス人の登録や戦争捕虜の交換の他、主だった仕事はなかった。戦争遂行に関してもっと積極策をとるようにというモンローの進言はマディソンに受け入れられていないように思えた。閣僚の中での自らの役割にモンローは疎外感を強め、軍を指揮する役割を担いたいと考えるようになった。モンローを最高司令官に据えるという計画もあったがマディソンはそれを採用しなかった。
戦争が進展する一方で、和平交渉の兆しが見え始めると、モンローは使節団に指示を与える責務を担った。1812年6月26日、モンローは駐英アメリカ公使ジョナサン・ラッセルに1806年枢密院令の撤回と強制徴用の停止を条件にイギリスと休戦を協議するように訓令している。譲歩として、アメリカ船舶によるイギリス水兵の雇用禁止とアメリカが被った損害賠償の取り決めを先送りすることを提示した一方で、モンローは、イギリスによる脅威がない限り、フランスと同盟する気がないことを示唆した。イギリスはこの申し出を拒否した。これにより早期休戦の道が絶たれた。
1814年8月、イギリス軍がメリーランド州沿岸に上陸した。さらにイギリス軍はワシントンを攻撃する構えを見せた。かねてよりモンローはその危険性を陸軍長官に指摘していたが受け入れられなかった。そこでモンローは、8月20日、自ら数十名の騎兵部隊を率いてワシントンから偵察に出発した。22日、敵軍がワシントンを目指している可能性が高く、公文書類を移動させ、防備のために橋を落とす準備をしておくべきだとモンローはマディソンに警告した。
24日、モンローはマディソンとともに、ワシントン周辺管区指揮官のウィリアム・ウィンダー将軍の本営にいた。敵軍がブレーデンズバーグに向かって進軍中との報を受けると、モンローは前線にいるスタンズベリー将軍のもとへ一足先に向かった。そして、軍の第2陣の配置を指揮官の許可無く変更した。こうした行為は越権行為であった。
陸軍長官
陸軍長官代理
モンローは国務長官に在任のまま陸軍長官代理を2度にわたって務めている。1度目は1812年12月19日から2月5日にかけてである。 ウィリアム・ユースティス陸軍長官は戦争遂行を続行する自信を失って辞職した。ユースティスの代わりにモンローが陸軍長官代理を兼ね、モンローの願望はかなうように思えたが、 ジョン・アームストロングがすぐに後任に指名された。モンローはアームストロングの能力を評価していなかったので、苛立ちは強まる一方であった。
またアームストロングも、ルイジアナ購入の功績をリヴィングストンから掠め取ったと信じてモンローに敵意を抱いていた。リヴィングストンはアームストロングの義理の兄弟である。
正式就任
ブレーデンズバーグの戦いの後、アームストロング陸軍長官が辞職すると1814年9月3日から9月27日にかけて陸軍長官代理を務めた。さらに9月27日、マディソンはモンローをコロンビア特別区の司令官と陸軍長官に正式に任命した。そのためモンローは9月30日、国務長官を退任した。しかし、臨時国務長官として1815年2月28日まで留任したので、実質的に国務長官と陸軍長官を兼任していたと言える。
陸軍長官としてモンローは徴兵を議会に提案したが失敗している。そのため土地を報奨として志願兵を募った。また陸軍省の再編を行い、滞りがちであった補給線が改善され、沿岸部の諸都市を防衛するための戦費も集まった。モンローの陸軍長官就任は戦争遂行の梃入れとなった。
戦争遂行の努力の一方で臨時国務長官としてモンローは、ベルギーのガンで行われていた和平会談で、強制徴用の公式な停止の要求を撤回するように伝える指示を起草している。
国務長官
講和条約締結の報せが届いた後、モンローは国務長官に戻り、3月15日、陸軍長官を退任した。戦後の最優先課題は、戦争によって途絶したヨーロッパ諸国との外交関係を常態に戻すことであった。それに加えて、アメリカ人の国外での活動を支援するために領事制度の再建を図ることも重要な任務であった。他にもモンローは、1817年のラッシュ=バゴット協定に至る交渉に着手している。こうした閣僚としての目覚しい働きはモンローの衆評を高め、マディソンの後継者としての地位を不動のものにした。
1816年の大統領選挙
選挙動向
ヴァージニア王朝の継続に辟易した多くの民主共和派はモンローの対抗馬として ウィリアム・クロフォードを担ぎ出した。クロフォードもヴァージニア生まれであったが、地盤はジョージア州であった。マディソン政権で陸軍長官と財務長官を務めていた。
3月16日、65対54の票差で民主共和党の議員幹部会はモンローを大統領候補に公認した。副大統領候補は ダニエル・トンプキンズである。こうした公認過程について アーロン・バーやその他の急進派は、ヴァージニアが大統領選挙を支配しようとしていると非難した。
一方、1812年戦争に対する反対姿勢を示して以来、党勢が衰えていた連邦党はルーフス・キングへの支持を明らかにした。
選挙結果
大統領選挙は1816年12月4日に行われ、217人の選挙人(19州)が票を投じた。モンローは16州から183票を獲得し圧勝した。副大統領候補のトンプキンズも同じく183票を獲得した。
連邦党が支持するキングは、コネティカット、デラウェア、マサチューセッツの3州から34票を得るにとどまった。また副大統領候補の票は4人の候補者に分かれた。
就任式
就任式は1817年3月4日、連邦議会議事堂の東ポーチの上にもうけられた演壇で行われた。これまで就任式は屋内で行われてきたが、上院と下院が席の配分をめぐって争った結果、議事堂の外側で行われることになった。屋外で行われた最初の就任式である。宣誓は ジョン・マーシャル最高裁判所長官が執り行った。
髪粉に弁髪という古風な髪型をモンローは守っていた。黒のブロード生地のスーツに膝上までの長さの半ズボンを着用した。
一連の儀式が終わった後、モンローはオクタゴン・ハウスに向かった。1812年戦争で焼失したホワイト・ハウスの再建はまだ終わっていなかったからである。そのためオクタゴン・ハウスが臨時の大統領官邸として使用されていた。当日夜の祝賀会はデイヴィーズ・ホテルで行われた。
1820年の大統領選挙
選挙動向
モンローの1期目は、まさに「好感情の時代」の恩恵を受けて高い支持を受けた。一方で連邦党は実質的に消滅していた。モンローの対抗馬はいなかったと言っても過言ではない。
選挙結果
大統領選挙は1820年12月6日に行われ、235人の選挙人(24州)が票を投じた。モンローはすべての州から231票を獲得した。また副大統領候補のトンプキンズは218票を獲得し、他4名の候補に14票が流れた。
モンローは投票人の死去による無効票の3票を除けば、あと1票でワシントンと同じく全会一致で大統領に選出されるという栄誉を手に入れることができた。残りの1票はニュー・ハンプシャーの選挙人の1票である。その選挙人は ジョン・クインジー・アダムズに自分の票を投じた。その理由は、全会一致で大統領に選出されるという栄誉を ジョージ・ワシントンだけに限りたいと考えたからだとされる。また一説によると、その選挙人がモンローと仲が悪かっただけではなく、ヴァージニア王朝の継続に反対していたためともされる。
就任式
1821年3月4日が日曜日であったために、モンローは翌日の月曜日まで宣誓を行わなかった。雨天のためにモンローは下院会議室で就任式を行った。宣誓はジョン・マーシャルが執り行った。
好感情の時代
民主共和党の一党支配
1817年7月12日、ベンジャミン・ラッセルがコロンビアン・センティネル紙で「好感情の時代」という言葉を始めて使った。1816年の大統領選挙後、連邦党は勢力を大幅に失い、実質的に民主共和党の一党支配となった。
しかし、モンローは政策への支持を得るために党首としての影響力を議会に及ぼすスタイルはあまりとらなかった。それよりも個人的な接触や閣僚を通して影響力を行使するスタイルを好んだ。また閣議を活用してコンセンサスの形成に努めた。モンローは物事をあらゆる面から検討して結論を急がない性格であった。こうした手法は、政権末期に党派的な衝突が顕在化するまで有効に機能した。
一時的な景気後退はあったが、アメリカの製造業は堅実な発展を示し、西部への移住も進んだ。この好感情の時代はミズーリ問題で一時期、中断され、さらに政権末期、次期大統領の選定をめぐる争いで完全に幕を閉じた。
慣例
当時、大使達が出席する晩餐会に国務長官も同席することが慣例になりつつあった。他の閣僚達はその晩餐会に同席できないことを憤った。そのためモンロー大統領は閣僚達も同席できるように改めようとしたが大使達の反対にあった。大使達からすれば自分達が主賓であり、閣僚達の脇役にされたくなかったからである。そこでモンロー大統領は、閣僚達を交代で晩餐会に出席できるように方式を改めた。
連邦議会の会期中、モンロー大統領は2週間に1度、接見会を行っている。正装をしていれば誰でもそれに参加できた。会はオーヴァル・ルームで行われ、大統領が立っている傍らに夫人と長女エリザが座っていた。そして、召使が軽食を配った。こうした接見会は トマス・ジェファソン大統領や ジェームズ・マディソン大統領の時代と比べて堅苦しいものであった。
巡行
モンロー大統領は ジョージ・ワシントン大統領以来、初めて巡行を行った。巡行は1817年6月から9月かけて行われた。まずワシントンを出発し、沿岸部をメイン州まで北上した。さらに五大湖に沿って西の方デトロイトに向かった。それからオハイオ、ペンシルヴェニア、メリーランドを通って帰還した。巡行の目的は主に各地の要塞や港湾を視察することであったが、同時に地域的、党派的な緊張を和らげる効果もあった。こうした巡行は王による巡幸を思わせるものであったので批判もあったが、概ね好意的に受け入れられた。かつて連邦党が強い力を持っていたニュー・イングランドでも熱狂的な歓迎を受けた。ニュー・イングランドでモンロー大統領は各州の連帯を推進する演説を行い、アメリカ独立におけるニュー・イングランドの役割を称賛した。ボストンで独立記念日の祝賀会に参加し、 ジョン・アダムズと食事をともにしている。こうした一連の出来事を見てラッセルは「好感情の時代」という言葉を放ったのである。
また1818年、チェサピーク湾周辺の軍事施設の視察が行われた。さらに1819年4月から7月にかけては南部と西部諸州の巡行が行われた。大西洋岸をジョージア州サヴァナまで南下した後、ナッシュヴィルに向かった。それから北方のケンタッキー州ルイヴィルに達するという旅程である。総距離は少なくとも約1800マイルにも及ぶ。
ホワイト・ハウス再建
1812年戦争の兵火で焼失したホワイト・ハウスはまだ再建が完了していなかった。そのためモンロー一家はホワイト・ハウスの北東約1キロの所にある邸宅に約9ヶ月住んだ。
1818年の新年祝賀会で、ようやく修復が終わったホワイト・ハウスのお披露目が行われた。新年祝賀会で一つ問題となったことは各国大使達の序列であった。もしそれを適切に決めなければ、国際的な緊張を引き起こすとモンロー大統領は危惧していた。そこでモンロー大統領は大使達を迎える新しい手法を導入した。一般客を迎える30分前に先着順で大使達を迎えることにしたのである。この手法は成功した。
またモンロー大統領は兵火でほとんど失われていたホワイト・ハウスの調度品を整えた。議会が支出を認めた2万ドルはすぐに底を尽いた。こうした調度品を整えるための資金の管理についてモンローは非難を受けている。
フランスから調度品を取り寄せるためにモンローが作成したリストは、時計、銀食器、壁紙、コンソール・テーブル、ソファ、椅子、足載せ台、間仕切りなどに及んだ。モンロー大統領の嗜好は今でもホワイト・ハウス各所で認められるが、特にブルー・ルームに色濃く残されている。とはいえ、モンローが購入した調度品の量ではすべての部屋を飾るにはまだ不十分であり、幾つかの部屋はほとんど空であったらしい。 1824年にはさらに半円形のイオニア式のポーチと階段が南側に増築された。ジェファソンをはじめ大部分の人々はこうした増築を大き過ぎるとして好まなかった。この増築により南が正面となり、リンカーン政権期まで訪問者は主に南から建物に入った。現在では、貴賓は北側から入り、それ以外の人々は南側から入る。
第1次セミノール戦争
かねてよりスペインは、メキシコや西インド諸島にある植民地を守るためにフロリダ半島を確保することが不可欠であると考えていた。その一方でアメリカはフロリダ半島を併合することを望んできた。また外国勢力によるフロリダ半島の領有はアメリカの安全保障に対する脅威だとも考えられた。
当然のことながらスペインはアメリカの要求を容易に受け入れようとはしなかった。モンロー大統領もスペインとその同盟国との戦争になるのは避けたいと考えていた。南部ではフロリダを獲得するために直接行動をとろうとする機運が高まっていた。
1812年戦争以来、ジョージア州のアメリカ人はスペイン領フロリダのネイティヴ・アメリカンと衝突を繰り返していた。1817年、アメリカの居住民とセミノール族との戦闘が勃発した。モンロー大統領は アンドリュー・ジャクソンに兵士を召集して騒動を鎮圧するように命じた。ジャクソンはセミノール族をフロリダ半島南部のエヴァーグレイズに追った後、スペイン領フロリダの首都ペンサコーラを陥落させた。
こうしたジャクソンの作戦行動が越権行為と見なし譴責すべきであるという非難が高まった。モンロー大統領はそうした非難を黙殺し、占領地を返還したものの、確かにジャクソンは命令を逸脱したが、それが必要であると判断するに足る情報に基づいて行動したと議会に報告した。それは、事前にモンロー大統領に報告して内密の認可を得たうえで作戦を行ったというジャクソンの主張と食い違っている。晩年にモンロー大統領はジャクソンの主張を明確に否定する手紙を書き遺している。
ラッシュ=バゴット協定
1812年戦争終結後、五大湖周辺でイギリスとアメリカの間で小さな事件が何度か起きた。それがさらなる衝突の引き金とならないように両国政府は五大湖周辺の非武装化に同意した。モンロー自身、国務長官時代にこの交渉を進めていた。
1818年の米英会議
ガン条約で未解決の問題を話し合うために米英間で交渉が行なわれた。まず1812年戦争でイギリスによって連れ去られた奴隷を補償することが決定した。またアメリカはニューファウンドランド沖とマグダレン諸島沖の漁業権を獲得した。
大西洋からオンタリオ湖に至るまでの地域に関してイギリスとアメリカの間で明確な国境線は定められていなかったため、ガン条約に、国境線を画定するための会議を行う条項が盛り込まれていた。しかし、この地域の国境問題は完全に解決されたとは言えず、1840年代後半まで問題が未解決のまま残った。
一方、西部の国境問題では同意が成立した。北緯49度線に沿ってミシシッピ川の源流のウッズ湖からロッキー山脈まで西に広げることが認められた。
さらにオレゴンの両国による共同管理も定められた。アメリカはより明確な条項の取り決めを求めたが、イギリスは毛皮貿易の利益を守るために譲歩を拒んだ。共同管理はアメリカが最終的に望んでいることではなかったが、オレゴンに対するアメリカの領土主張が正当であるとイギリスが認めたに等しかった。しかし、長い間の懸案であった強制徴用問題に関する進展はなかった。
アダムズ=オニス条約
第1次セミノール戦争を好機と捉えたモンロー大統領は、スペインがアメリカに譲歩せざるを得ないと考えた。さらにスペインは国内の情勢不安に悩まされていた。アメリカ人がスペインに対して求めている総額500万ドルの補償を肩代わりし、アメリカとスペインの国境をサビーネ川と画定することを条件に、スペインはフロリダをアメリカに割譲した。その結果、現在のテキサスにあたる領域はスペインの下にとどまり、オレゴンに対するスペインの領土要求は撤回されることになった。
しかし、事は簡単に終わらなかった。スペイン国王フラディナンド7世が翻意し、条約の批准を拒んだのである。アメリカ議会は、戦争に備え、フロリダを即座に占領しようとしたが、モンロー大統領は議会に行動に移るのを待つように説得した。最終的にフェルディナンド7世はフロリダを保ち続けることが不可能であることを悟り、1821年、条約の批准に同意した。
1819年恐慌
1819年恐慌は、1780年代以来、最初の全国的な金融恐慌と言われる。それは第2合衆国銀行が土地投機を抑制するために西部の銀行への与信を過度に引き締めたことが引き金である。
経済に対して連邦政府は介入すべきではないという考え方が当時は一般的であったために、モンロー政権は1819年恐慌による景気後退を改善する策をほとんどとることができなかった。議会も債務者の救済のために公有地購入の関する支払い期限が延長する措置をとった他は抜本的な策を打ち出さなかった。
モンロー自身はこうした景気後退は定期的に起こり得る自然な現象であり、国家経済は景気後退を乗り越える活力を十分に備えていると考えていた。各州の数々の試みもあって、1822年までには景気後退は回復した。しかし、恐慌による歳入現象のために、モンローが既に進めつつあった大規模な沿岸防備計画の縮小を余儀なくされた。
ミズーリ妥協
1819年、奴隷州としてミズーリが連邦の加盟を申請すると、勢いを増しつつあった奴隷制反対論者達はそれに強く反対した。モンロー大統領は最初、そうした反対が政治的動機に基づくものだと思っていた。つまり、連邦党が奴隷制問題を利用して党を復活させようと目論んだと考えたのである。
モンロー大統領はミズーリ問題に直接的に干渉することは控えたが、奴隷制廃止を条件としてミズーリに連邦加盟を認める法律には拒否権を行使すると言明した。州内で奴隷制を認めるかどうかを決定する権限はミズーリ州自体にあるとモンロー大統領は考えていたためである。しかしながら、最終的にはアメリカ全土で奴隷制が廃止されることをモンローは望んでいた。その一方で、モンローが最も恐れていたことは、奴隷制の是非をめぐって連邦自体が解体の危機を迎えることであった。
それ故、メイン州を自由州として認める一方でミズーリに関しては規制を設けないという妥協、いわゆるミズーリ妥協をモンロー大統領は承認した。しかし、モンローは内心では、北緯36度30分以北で今後、新たな州が連邦に加盟した場合は、奴隷制を禁止することは憲法上、疑義があるのではないかと思っていた。この点は閣議でも話し合われた。ほとんどの閣僚はモンローと同様の疑義を抱いていた。最終的にモンローはこの点を未解決のままで触れないことに決定した。
1821年8月10日、大統領の宣言によりミズーリは正式に連邦に加入した。ミシシッピ川以西における奴隷制全面禁止が回避され、議会での勢力均衡が保たれた。行政府による立法府への干渉という非難を受けないように、また妥協を支持することで自らの支持者を失わないように行動することは高度な政治的感覚を必要とした。
国内開発事業
1824年3月30日、保護関税政策を擁護する演説の中で下院議長 ヘンリー・クレイは「アメリカ体制The American System」という用語を使った。それは、主に2つの手段を通じて国家を強化することを目指した。第1に、西部開発を促進するために新しい運河と道路を建設といった国内開発事業を推進する。第2に、国内市場を育成し、北部の製造業の発展を促すために保護関税政策を採用する。
国土の拡大と発展する経済を支えるために交通網を整備する必要があることは多くの人々が同意する共通認識であった。しかし、連邦政府の国内開発事業についてモンロー大統領は憲法の厳密な解釈に基づく疑義があると考えていた。こうした考え方はジェファソンやマディソンと同じである。1817年12月2日の第1一般教書で早くもその考え方を明言している。そして、連邦政府に国内開発事業を行う権限を与える修正を憲法に加えるように議会に勧告している。
議会の大部分の議員達は憲法修正に難色を示したが、1822年にカンバーランド道路の修復と料金所の設置を認める法案を可決した。5月4日、モンロー大統領は同法案に対して拒否権を発動した。拒否通知書には長大な「国内開発事業問題に関する見解」が付されている。これはモンロー大統領が拒否権を行使した唯一の機会であった。
「国内開発事業問題に関する見解」の中でモンロー大統領は、連邦政府が道路や運河を建設し管轄する権限はないと主張する一方で、議会には資金を調達する権限があっても、「共同防衛、地方ではなく国家一般の利益、州ではなく国民の利益という目的に沿って予算を配分するようにその責務によって制限される」と述べている。こうしたモンロー大統領の見解は中道的であり、1823年にカンバー・ロードの修繕に予算を付ける法案と最初の港湾法案を成立させる余地を残した。さらに1824年にモンロー大統領は国土調査法に署名している。国土調査法は道路や運河の測量のために政府の技師を使うことを認めた法律である。それは今後の国内開発事業の端緒となる法律であった。
国内開発事業に関してアメリカ体制の実現は限定的であったが、クレイは保護関税に関してより多くの成功を収めた。1824年、議会が一般関税率を引き上げたからである。
モンロー・ドクトリン
モンロー・ドクトリン制定の背景
1803年から1815年のナポレオン戦争の間、スペイン本国の混乱にともない、ラテン・アメリカの多くの植民地で独立の気運が高まった。ラテン・アメリカ諸国はブラジルを除いてアメリカに類似した共和制を採用した。モンロー大統領はラテン・アメリカの独立運動に対して好意的な見解を示したが、中立政策を維持した。そうした政策の下、モンロー政権は戦争からは距離を置いたが、革命政府にスペインに認めるのと同じ通商上の優遇措置を与え、交戦国の権利を認めるなど間接的な承認を行っている。
こうした措置は、革命政府の独立を承認するだけではなく、直接的な軍事行動を求める人々を満足させることはできなかった。さらに議会からも独立諸国を早期に承認するように圧力を受けたが、アダムズ・オニス条約が確定し、独立諸国の体制が固まるまで機が熟していないと考えて承認しなかった。1822年3月8日、モンロー大統領はようやくラテン・アメリカ諸国の独立を承認する特別教書を議会に送付した。
その一方で絶対君主制を布くロシア、オーストリア、プロイセンはヨーロッパにおける革命の拡大と共和制国家の樹立を妨げようとしていた。同様の措置が南北アメリカ大陸に対しても取られるのではないかとアメリカは危機感を強めた。さらにフランスをはじめとするヨーロッパ列強が、スペインによる南北アメリカの植民地再復を支援するのではないかという憶測が流れた。
イギリスの打診
これはアメリカだけではなくイギリスにとっても脅威であった。イギリスはラテン・アメリカ諸国と貿易を行っていた。もしラテン・アメリカ諸国が再びスペインの支配化に置かれれば、イギリスの貿易が途絶させられる恐れがあった。そこでイギリス外相ジョージ・カニングは、駐英アメリカ公使のリチャード・ラッシュに、ヨーロッパ諸国による南北アメリカの侵略に対して警告する共同声明を出すように持ち掛けた。
国務長官の提案
1823年10月9日、ロンドンからラッシュの急信が届いた。11日、閣議で初めて対応策が協議された。国務長官として ジョン・クインジー・アダムズは「イギリスの戦艦の航跡に小舟で入るべきではない」と反対を唱えた。アダムズは、アメリカは独自にその立場を表明すべきだとモンロー大統領に勧めた。なぜなら、わざわざ協力関係を結ばなくても、イギリスは独自に海軍力を使って南北アメリカに対するヨーロッパの干渉を防止するだろうと考えたからである。またイギリスと協力関係を結ばずにおくことで、ヨーロッパ大陸の諸国と同じく、イギリスに対してもアメリカの声明を適用することができるという利点もあった。
モンロー大統領は、ジェファソンとマディソンに助言を求めた。両者はイギリスからの提案を受け入れるように勧めた。11月7日の閣議で2時間半にわたって話し合いが行なわれた。モンローの見解は、共同声明の発表受諾に傾いていたが、結論は出なかった。
11月21日、再び閣議が開かれた。その席上でモンロー大統領は、イギリスがスペイン領アメリカ諸国の独立を承認しない限り共同声明を行なわず、ヨーロッパ諸国の南アメリカに対する干渉に関してアメリカは独自の立場を示すべきだと決定した。またフランスによるスペイン介入への反対、ギリシア独立への支持、そして、ヨーロッパ諸国による北アメリカへの新たな植民を拒否することを表明すべきだとモンロー大統領は考えた。
最終的に、1823年12月2日、第7次一般教書、いわゆる「モンロー・ドクトリンMonroe Doctrine」でアメリカ独自の立場が示された。モンロー・ドクトリンは当初は「モンロー氏の諸原則Mr. Monroe’s “principles”」、もしくは「モンロー宣言Monroe Declaration」などと呼ばれていた。モンロー・ドクトリンという名で知られるようになったのは1853年以降である。
モンロー・ドクトリンは大きく3つの部分に分かれる。第1に、アメリカがヨーロッパの問題に関して中立を貫くという伝統的な政策を再確認している。第2に、西半球において、既存の植民地の問題に関してアメリカは干渉しないが、新たな独立諸国の再征服や君主制を樹立使用とする場合はアメリカに対する敵対行為と見なすと主張している。そして、第3に、主に北太平洋で勢力を伸ばすロシアに対して、西半球はもはや新しい植民地化に対して開かれていないことを断言している。
フランスが、スペインによる南北アメリカの植民地再復を支援するのではないかというモンロー・ドクトリンの契機になった問題は結局、イギリスが解決している。イギリスはフランスからスペインへの支援を行わないという約束を取り付けたからである。しかしながら、モンロー・ドクトリンによって定められた諸原則は、アメリカ外交の伝統的原則となり、世界におけるアメリカの立場を明示するものとなった。
モンロー大統領は西半球の諸国がアメリカの例にならって共和制を確立するだろうと確信していた。そうした試みをヨーロッパ諸国が阻もうとすることは、単に西半球諸国の独立を脅かすだけではなく、共和主義に対する、ひいては共和主義の防壁たるアメリカ自体への攻撃だと見なされるとモンロー大統領は考えた。モンロー・ドクトリンにより、新世界の共和主義と旧世界の君主主義の間に明確な線が引かれたのである。しかし、一方で後世の歴史が示しているように、モンロー・ドクトリンはしばしば西半球をアメリカの勢力圏として認める根拠として言及された。
奴隷貿易禁止
1818年、イギリスはアフリカの奴隷貿易を禁止するために、両国の船舶をお互いに臨検しあう提案をアメリカに行った。モンロー大統領は、イギリスが主催する奴隷貿易に対する国際的取締りへの参加を表明するようにアダムズに指示した。その結果、アメリカは少数の海軍をアフリカ海岸に派遣して、イギリス軍とともに奴隷貿易の取り締まりにあたった。しかし、アメリカは、イギリスのアメリカ船に対する臨検と捕らえた奴隷商人をアメリカの港以外に送ることを認めなかった。それは、アメリカが長らく強制徴用問題に悩まされていたからである。
1820年5月15日、奴隷貿易を海賊行為と見なし、死刑で以って処罰する法案が成立した。さらに下院は、1821年12月、モンロー政権に臨検の権利を認めるように促し始めた。1822年4月、下院の委員会が、奴隷貿易を取り締まるためにヨーロッパの海運国とお互いに船舶を臨検しあうことを限定的に認めるように勧告した。さらに1823年2月28日、下院は奴隷貿易の禁止を促進するための条約締結を大統領に促す決議を採択した。
こうした動きにともなって、イギリスと会議を行うことを勧めるアダムズの提案をモンロー大統領は閣僚に示した。閣僚の中で ウィリアム・クロフォード財務長官と カルフーン陸軍長官が反対を表明したが、最終的にはアダムズの提案は受け入れられた。そして、1824年3月13日、駐英大使 リチャード・ラッシュがそれをイギリス側に通達した。
奴隷貿易に関する協定は円滑に進んだ。その結果、主に3つの取り決めがなされた。アフリカの奴隷貿易に従事する両国の国民は海賊として処罰を受けること、両国の海軍は協力して奴隷貿易の取り締まりにあたり、お互いに商船の臨検を許可すること、そして、拿捕した船舶はその本国で裁判を受けるために送還され、いかなる船員もその船舶から離すことを禁じることである。
そもそも下院の動きに刺激されて協定の締結に着手したので、モンロー政権は上院からも容易に条約の承認を取り付けられるだろうと考えていた。しかし、南部の議員達はイギリスとの親善回復に疑念を抱いていた。なぜならイギリスの反奴隷制運動の趨勢が、奴隷貿易禁止のみならず、奴隷制の廃止にまで向かうことに警戒感を抱いていたからである。さらにそうした趨勢がアメリカにも飛び火しないかと危惧していた。こうした南部の反感のために条約は修正を加えたうえでようらく批准された。
リベリア植民地
1816年12月、アフリカに黒人奴隷を送還することを目的とするアメリカ植民協会が結成された。 1817年11月、植民協会はアフリカ海岸の調査を行い、翌年1月、最初の植民者を送り出した。しかし、植民は困難を極め、死者が続出した。
モンロー大統領はこの協会に積極的な支援を行った。1819年、議会は、同協会が黒人を移住させるための土地を購入する資金として10万ドルを与えることを認めた。1821年12月、同協会はモンロー大統領の支援で西アフリカに土地を購入することに成功した。その地はラテン語の「自由人liber」に因んでリベリアと名付けられた。さらに同地に建設された町はモンローの名をとってモンロヴィアと名付けられた。1800年代の終わりまでに1万2000人から2万人程度の黒人がリベリアに移住したが、アメリカ全土の黒人人口からすればほんの僅かな数であった。
1824年にリベリアで内乱が起きた際は、反乱の鎮圧を行っている。リベリアは先住民の相次ぐ攻撃を受け、幾度も植民地崩壊の危機に陥った。1847年にリベリアはアメリカから独立してリベリア共和国となった。ハイチに次ぐ史上2番目に古い黒人共和国である。
ネイティヴ・アメリカン政策
モンローは個人的にネイティヴ・アメリカンに対して概ね好意的な見解を持っていた。しかし、その一方で、彼らの社会が白人社会に比べて劣っており、もし自文化に固執する限り、彼らが生き残る見込みは薄いと考えていた。
ネイティヴ・アメリカンの大半は彼らの土地を明け渡すことを拒み、白人社会への同化も拒んだ。一方でアメリカ人はネイティヴ・アメリカンの土地を獲得しようとしていた。そのためモンローの考えでは、ネイティヴ・アメリカンに代替地としてミシシッピ川の西にある土地を与えて立ち退かせる他に方策はなかった。モンロー政権期にアメリカは数百万エーカーのネイティヴ・アメリカンの土地を獲得した。経済的な圧力や奨励金といった手段を使ったが、モンロー大統領は実力行使を避けた。それは、ネイティヴ・アメリカンを連邦政府が強制退去させるべきだというジョージア州の主張を強く拒んだことからも分かる。
オーク・ヒルに退隠
後任の ジョン・クインジー・アダムズに大統領職を引き継いで3週間後、モンローはヴァージニア州ラウダン郡のオーク・ヒルに向かった。出発が遅れたのはモンロー夫人の体調が悪かったためである。
オーク・ヒルは トマス・ジェファソンの設計に基づき、ホワイト・ハウスも手がけたジェームズ・ホーバンによって 1819年から建築が始まり1823年に完工した。オーク・ヒルの名はモンローが自ら植えたオークの若木に由来する。その若木は、各州の下院議員から提供されたものであった。この地所は1806年に義父から相続したものである。モンローがここに移ったのは1813年のことである。モンローは馬に乗ってオーク・ヒルとワシントンの間を行き来した。
1825年8月7日から9日にかけて、オーク・ヒルでジョン・クインジー・アダムズ大統領とラファイエットを歓待している。さらにラファイエットとともにモンティチェロを訪れている。これが生涯の師であり友であったジェファソンと最後に会った機会となった。また1826年8月1日から1831年5月14日に辞めるまで5年間、ヴァージニア大学の理事を務めている。実は1817年に既に理事となり大学の定礎式にも参加していたが、公職を優先して理事を退任していた。そして1826年7月4日に理事を務めていたジェファソンが亡くなり、その空席を埋める形で再就任したのである。
ヴァージニア大学の他にもモンローは高等教育の推進に携わっている。1802年3月にはウィリアム・アンド・メアリ大学の理事になっている。また大統領時代はウェスト・ポイントの陸軍士官学校の再編を監督し、コロンビア・カレッジ(現ジョージ・ワシントン大学)の設立を認可している。
引退生活に入った時、モンローは既に7万5000ドルにのぼる借金を背負っていた。そのため1825年にハイランドを売りに出し、1828年にようやく売却した。さらに議会に公務に関する支出の償還を求め、1826年と1831年の2度にわたってそれぞれ3万ドルの支払いを得ている。こうして集めたお金でようやく債務を支払うことができた。
ヴァージニア州憲法修正会議
モンローは引退後、ほとんど政治的な表舞台には登場しなかった。1826年10月24日にパナマで行われたアメリカ諸国の会議に出席する代表に指名されたが断っている。また翌年1月、ヴァージニア州知事候補になることを拒んでいる。健康上の問題と経済的な理由から引き受けることができなかったのである。特に1828年のひどい落馬はモンローの健康に大きな害を及ぼした。
さらに1828年の大統領選では、モンローを副大統領候補に推そうとする者もいた。ヴァージニアのアダムズ支持者は、モンローと ジェームズ・マディソンを選挙人に指名することで、アダムズに対する後援を得ようとした。しかし、モンローはマディソンとともにそうした動きを拒んだ。モンローが望んだ立場は局外中立であったが、1812年戦争のニュー・オーリンズの勝利をめぐる アンドリュー・ジャクソンと ジョン・カルフーンの論争に巻き込まれた。
モンローは全く政治的な務めを果たさなかったわけではない。1825年11月15日にはラウダン郡の治安判事に就任している。しかし、これは半ば名誉職のようなもので、モンローが法廷に出席することはまれであった。また1828年7月14日から19日にかけてはヴァージニア州内開発会議に参加し、1829年10月5日から12月12日にかけてヴァージニア州憲法修正会議議長を務めたが、体調不良を理由に退任している。
この会議にはマディソンや ジョン・マーシャルも参加し、旧友が一堂に会する最後の機会となった。モンローとマディソンはヴァージニア州の東部と西部の利害調整を図ろうとしたが成功しなかった。会議で最も注目を集めた問題は投票資格の問題であった。モンローは、それよりもヴァージニアにおける奴隷制廃止を論ずるべきだと思ったが、その問題があまりに激しい論議を呼ぶことが予想されたので深くは追求しなかった。
ニュー・ヨークに移転
1830年10月、妻エリザベスの死にともない、次女を頼ってニュー・ヨークに移った。モンローが公衆の面前に姿を現した最後の機会は、1830年11月にニュー・ヨークのタマニー・ホールで行われた、ブルボン朝最後のフランス国王シャルル10世の打倒を祝う会である。
おそらく結核の兆候と思われるしつこい咳にモンローは悩まされ、徐々に体調が衰えた。夏になればヴァージニアに帰るつもりだとモンローは語っていたが、病のためにそれはかなわなかった。1831年7月4日午後3時15分、モンローはニュー・ヨークで静かに息を引き取った。享年73才と67日であった。最後の言葉は、「彼[マディソン]を再び見ることなくこの世を去ることが心残りだ」であった。
7月7日、ニュー・ヨーク市庁舎で追悼式が行われた後、セント・ポールズ監督派教会で葬儀が行われた。ブロードウェイを進む葬儀用馬車に数千人の弔問客が続いたという。遺体はマーブル墓地にあるグヴァヌア家の墓所に葬られた。グヴァヌア家は次女の嫁ぎ先である。生誕百周年の1858年にリッチモンドのハリウッド墓地に改葬された。
肯定的評価
長年の指導者であり友であった トマス・ジェファソンはモンローについて「彼の魂をひっくり返しても一点の染みもない」とマディソンに語っている。
モンローが亡くなった後、 ジョン・クインジー・アダムズは長大な追悼の辞を捧げている。その中で以下のようにモンローを称賛している。
「モンロー氏は陸海軍をあわせて強化することで祖国の防衛力を強め、国家の権利、威信、そして海外における栄誉を維持した。国家の不和を鎮め、国内の衝突を仲裁した。確固とした、しかし平和的な政策によって、南米の共和国に対するヨーロッパの敵意を抑制した。理性の命じるところにより、スペインによって[アダムズ=オニース条約で]規定された承認から太平洋岸を獲得した。そして、[1818年の米英協定で]北部の帝国的な専制君主が、南部海域に対する領有権主張からその合法的な境界に戻るように導いた。このように、[ローマ初代皇帝]アウグストゥスのように、煉瓦で築かれたローマを得て大理石で築かれたローマを残すと言える資格を得るほど、祖国の連邦体制を強固にした」
またジョゼフ・ストーリー判事は以下のようにモンローを評している。
「共和主義の素朴さという古い概念は急速に色褪せ、人民の嗜好は公的な娯楽やパレードをより有難がるようになった。しかしながらモンロー氏は彼の平明で優雅な振る舞いを保っていて、あらゆる点で価値ある人物である」
さらに ジョン・カルフーンは以下のように記している。
「天才的ではないが、智恵、確固とした態度、そして国家への貢献の点で彼に匹敵する人物はほとんどいない。彼は素晴らしい知的な勤勉さを持ち、重要な決定が必要な場合、問題をすべての関係が分るまで確固たる注意の下に置くことができる私が知る限りで最上の人物である。彼が責任を負うまさに正確な判断は尊敬すべき質である」
否定的評価
アーロン・バーは以下のようにモンローを酷評している。
「生まれつき鈍くて愚かで、きわめて無知。彼を知らない人から見たら、信じがたいほど優柔不断。小心で、もちろん偽善的。いかなる問題にも、何の意見も持っていないので、つねに最悪の者たちに管理されるだろう。私にもそう言うように、いくらか軍事の知識があるようなふりをしているが、小隊を指揮したことも、それどころか一人を指揮するにふさわしかったことすら一度もない。[中略]弁護士として、モンローは並よりはるかに下であった(井上廣美訳)」
ヘンリー・クレイは次のようにモンローを評している。
「モンロー氏は明らかに全会一致で再選されが、彼は議会にほとんど影響力を持っていない。彼の経歴は偏狭なものだと考えられる。彼から期待できるものは何もない」
またカール・シュルツは次にようにモンローを評している。
「[モンローは]高い公的地位にいる尊敬すべき凡人の1人であり、人々から困難な状況にいること、特にとても優れた能力を持つ人々に不必要に攻撃され辱められることで同情をかいがちである」
総評
モンローの出自は、ヴァージニアの郷紳の中では下層に属した。そのため人一倍、自己の名声や栄誉に固執する傾向があった。それは、自分の部隊を指揮したいと何度も願ったことからも分かる。またモンローは、しばしば郷党意識や党派といった狭い意識にとらわれがちであったが、ヨーロッパで外交の経験を積むことによって、幅広い視野を身につけた。
とはいえ独立宣言を起草したジェファソンや「憲法の父」であるマディソンと比べてモンローは理論や理念を構築するという点では劣っていた。しかし、閣僚を統御する能力や協力関係の構築などの点で優れていた。閣議では閣僚達の討論を静かに聞き、最後に判断を下した。閣僚自身の裁定に任せることも多かったが、たいていはモンローが方針を示し、閣僚達はそれに従った。またモンロー・ドクトリンも国務長官ジョン・クインジー・アダムズとの連携なしでは生まれなかった。
アメリカは建国以来、フランス革命とそれに引き続くナポレオン戦争などヨーロッパの騒乱に大きく影響を受けてきた。モンロー政権期はヨーロッパの騒乱と決別してアメリカが独自路線に踏み出す転換期となった。アメリカをヨーロッパ情勢に振り回された建国期から国内発展の新たな段階に導いたモンローの功績は大きい。
生い立ち
妻エリザベス(1768.6.30-1830.9.23)は、ニュー・ヨークでローレンス・コートライトとハンナの娘として生まれた。父ローレンスは、フレンチ=インディアン戦争において私掠船で活躍した。また西インド諸島交易で財を成したが独立戦争期に多くの資産を失っている。しかし、戦後もコートライト一家は富裕な商人としてニュー・ヨークに留まった。母ハンナはエリザベスが9才の時に亡くなったので、その後、エリザベスは祖母によって育てられた。
出会いと結婚
モンローがエリザベスを見初めたのは1785年のことである。1786年2月16日、マンハッタンのトリニティ教会で2人は結婚した。新郎は27才、新婦は17才であった。ロング・アイランドに新婚旅行に行った後、モンローは連合議会が閉会するまで舅とともにニュー・ヨークに住んだ。その後、夫に従ってヴァージニア州フレデリックスバーグに移住した。さらに1788年、同州シャーロッツヴィルに転居した。
アメリカの美しき人
モンローの駐仏アメリカ公使赴任に同行してエリザベスはパリに移住した。その当時のパリは、革命の傷跡が至る所に残り荒涼としていた。エリザベスはフランスの要人だけではなく、フランスにやって来たアメリカ人の接待も行わなければならなかった。
1795年、モンローはラファイエット夫人が処刑の候補者として収監されていることを知った。しかし、公的には思い切った処置を取ることができなかった。もし彼女を救出するために公的に介入すれば両国間の関係を損なう可能性があったからである。その代わりにエリザベスが馬車に乗って彼女を訪問した。
訪問を終えた後に、エリザベスは翌日も再び訪問する予定だと声を上げて言った。とりあえずエリザベスの再訪を迎えるという口実で処刑は無期限に延期されることになった。エリザベスの言葉がパリ市民の間に同情を呼び起こした。世論の風向きが変わったのを見たモンローは当局に掛け合ってラファイエット夫人を解放させることに成功した。この事件がもとになって、パリでエリザベスは「アメリカの美しき人la belle americaine」と愛着を込めて呼ばれるようになった。エリザベスがパリの劇場に姿を現すと、観客は立ち上がって迎え、楽団がヤンキー・ドゥードゥルを演奏したという。
帰国
1799年11月23日、モンロー一家は1794年から建設が進んでいたハイランドAsh Lawn(当初はハイランドHighlandと呼ばれていた)に移った。モンローがヴァージニア知事に選ばれると、エリザベスは知事公舎を修繕して移り住んだ。
再度の渡仏
1803年、夫の再度の渡仏に、今度は長女エリザに加えて次女マリアも伴った。さらにイギリスに渡った。宮廷では表面上、温かく迎えられたが、エリザベスが慣習にしたがって宮廷の貴婦人達を訪問したが、答礼は全くなかった。さらにイギリスの天候によってエリザベスは健康を害した。モンローがスペインのマドリッドに赴く際はフランスで学んでいる長女のもとで夫の帰りを待った。
ワシントン入り
1807年12月、モンロー一家は帰国した。1811年、マディソンがモンローを国務長官に指名したのにともなって、一家はワシントンに移った。マディソン邸で供される夕食は非常に洗練されているとして高く評価されている。この頃、エリザベスは40代半ばであったが、せいぜい30才にしか見えないほど若々しく見えたという。
女王エリザベス
体調不良に悩まされたために度々、長女エリザがホワイト・ハウスの女主人の役割を代行した。就任式に伴う舞踏会でも、食事が供される前にエリザベスは引き取っている。また新たに着任した大使達や新たに選出された議員の妻達に儀礼上の訪問を行わなかったり、次女の婚礼に家族と友人以外を招待しなかったりしたことから社交界での評判は芳しくなかった。特に大使達に表敬訪問を行わないことは問題になった。大使達も表敬訪問が行われるまでホワイト・ハウスを訪問することを拒んだからである。議員の妻達もエリザベスの「公式招待会」をボイコットしたために、出席者が僅かに5人という時もあった。こうした問題は「野暮な戦争senseless
war」と呼ばれ政治的な問題になった。最終的に、大統領もファースト・レディも表敬訪問を行う義務はないということが大統領命令で明らかにされた。
ホワイト・ハウスでの面会の時間も火曜日の朝10時のみに限られた。チャリティの舞踏会に出席を求められた時も、彼女の名前を出さないことと出席することを新聞に教えないことを条件に承諾している。
さらにエリザベスはフランス語で会話することを好み、フランス語を解さない人々を困惑させた。格式張ってお高くとまった感じを受けた人々は、エリザベスを「女王エリザベスQueen Elizabeth」と呼んだ。
エリザベスは多くの家具をフランスの元貴族から購入したが、それはホワイト・ハウスを貴族的に見せる結果になった。それを快く思わなかった人々がいたことは言うまでもない。しかし、後にケネディ夫人はエリザベスの調度品の選択眼が優れたものであったことを認めている。
エリザベスについてジョン・クインシー・アダムズ夫人は、「彼女は最高のスタイルのファッションを身に付けていますが、女王のように振舞っているわけではありません。というのはそういう言葉は我が国では許されないからです。女神のように振舞っているのです」と述べている。
ファースト・レディとしてのエリザベスの評判は徐々に回復した。モンローは妻を「すべての労苦と心痛をともにする者」と評している。1825年の新年祝賀会の参加者の1人はエリザベスの様子を以下のように記している。
「モンロー夫人の物腰は非常に優雅で、彼女は威厳のある風格をした貴婦人です。彼女のドレスは素晴らしい黒のヴェルヴェットで、首周りと腕はむき出しで美しい形です。髪は膨らませてあって高く盛り上げられ、ダチョウの大羽で飾られています。首周りには素敵な真珠のネックレス。もう若くはないけれども、彼女は依然として容姿に優れた女性です」
モンロー政権後
夫の退任後、約3週間してから、ヴァージニア州のオーク・ヒルにエリザベスは移った。出発が遅れたのは体調が優れなかったためである。1826年、激しい発作に襲われ、暖炉に倒れ込みはひどい火傷を負った。
1830年9月23日、オーク・ヒルで夫に先立って亡くなり、リッチモンドに葬られた。その時の様子を親友の1人は次のように記している。
「マディソン夫人が亡くなった後の朝に老人が示した感動的な悲哀を忘れることは決してないだろう。その時、彼は私を彼の部屋に行くように送り出したが、震える身体と涙が溢れる眼が2人の一緒に幸せに過ごした長い年月を物語っていた」
死の直後、エリザベスの書簡が焼却されたうえに、家族もエリザベスについて書き記すことは稀であったために不明なことが多い。度々、エリザベスを悩ました発作についても癲癇や関節炎だと推測されているが、原因はよく分かっていない。当時は女性の病状を詮索することは憚れることであった。モンローは妻の病気について「痙攣」と記している。
1男2女
エリザ・コートライト・モンロー
長女エリザ・コートライト・モンロー(1786.12-1835)はヴァージニア邦で生まれた。モンローは娘の誕生を「モンロー夫人は我が家族に娘を加えた。騒々しいけれども、家族に大きな喜びをもたらしてくれる」と記している。
両親に同行してフランスに赴きカンパン夫人(元アントワネット王妃の女官)の学校で教育を受けた。その際、ジョセフィーヌ・ボナパルトの娘ホルテンス・ボーアルネ(オランダ女王・ナポレオン3世の母)と友人になった。友情は長く続き、エリザは娘の1人をホルテンシアと名付けている。
帰国後もフィラデルフィアの学校で学んでいる。
1808年10月17日、バー裁判で検事として活躍したジョージ・ヘイと結婚した。ヘイは ジョン・クインジー・アダムズ大統領によってヴァージニア西部管区の連邦判事に任命されている。
マディソン政権期、度々、体調を崩した母に代わってホワイト・ハウスの女主人役をこなしたが、度々、問題を引き起こした。その一方で、ワシントンで熱病が流行すると、日夜、患者の看病にあたっている。
父と夫の死後、エリザはホルテンスを訪ねるためにフランスに旅立った。その後、ローマに行って法王グレゴリウス16世の洗礼でカトリックに改宗し女子修道院に住んだ。1835年にパリで亡くなり、同地に葬られた。
J. S. モンロー
モンロー家の墓所には「J. S. M.」という頭文字が刻まれた墓石がある。それが「一連の小児病」に罹ったとモンローがジェファソンに書き送った長男(1799.5-1800.9.28)
だと比定される。
マリア・へスター・モンロー
次女マリア・へスター・モンロー(1803-1850)は、モンローがパリ滞在時に生まれた。1807年に生まれて初めてアメリカの土を踏んだ。マリアが着用していたパンタレットはアメリカで流行の衣装となった。その当時、ヨーロッパではパンタレットが高級婦人服として用いられていた。
1820年3月9日、マリアは従兄弟のサミュエル・グヴァヌアとホワイト・ハウスで結婚した。これがホワイト・ハウスで最初に行われた大統領の娘の結婚式である。しかし、式に家族と友人以外を招かなかったので社交界から顰蹙をかった。夫グヴァヌアは一時期、モンローの秘書を務めた。マディソン政権後、マリアは夫とともにニュー・ヨークに移った。サミュエルはジョン・クインジー・アダムズからニュー・ヨークの郵便局長に任命された。
マリアは晩年に貧窮した父を迎え入れ、ともに暮らした。1850年、ヴァージニア州オーク・ヒルで亡くなった。
その他の子孫
サミュエル・ローレンス・グヴァヌア
孫(次女マリアの次男)サミュエル・ローレンス・ジュニア(1820-1880)は、米墨戦争に従軍し、コントレーラスの戦いとシェルブスコの戦いでの活躍が認められて名誉進級中尉になった。ブキャナン政権下で中国福州の初代アメリカ領事となった。
モンローは乗馬と狩りを楽しんだ。しばしば郊外へ馬を進めては地元の人々と会話を楽しんだという。
事務官に間違えられる
ある外交官が初めてホワイト・ハウスを訪問した時の話である。縞柄模様の上着にインクのシミが付いた薄汚いベストを着てスリッパを履いた男が机に向かって書き物をしていた。外交官は随分と粗末な身なりをした事務員を大統領は雇っているものだと驚いた。さらにその男が大統領本人だと知るとさらに驚いたという。
屈辱
モンローが外交官としてイギリスに赴任していた頃の話である。モンローは公式晩餐会に初めて招待された。モンローが席に着いて気付いたことに、その席はテーブルの一番下の方で両隣はドイツの小さな属国に過ぎなかった。晩餐会の列席者が国王のために乾杯を呼び掛けた時、モンローは怒りにまかせてグラスの中のワインをフィンガーボールに投げ捨てた。この様子を見ていたロシア公使は、今度は合衆国大統領のために乾杯を呼び掛けた。モンローはこれでようやく落ち着き、ロシア皇帝のために乾杯を呼び掛けて返礼した。
財務長官とやり合う
ウィリアム・クロフォード財務長官が役職に推薦する人物の一覧表を持ってホワイト・ハウスを訪問した。モンローは一覧表を一目見るなり、どの推薦も受け入れられないと断った。すると怒り狂ったクロフォードは杖を振り回してモンローを罵って大統領に飛びかかろうとした。それに対抗してモンローは暖炉の火箸をつかんでクロフォードを威嚇し、ベルを鳴らして召使を呼んだ。モンローは召使にクロフォードを放り出させようとしたが、クロフォードが謝ったので穏便に済んだ。
モンローとナポレオン
モンローがルイジアナ買収のためにヨーロッパを訪れていた時の話である。1803年5月1日、モンローはルーヴル宮殿でナポレオンに初めて面会した。その時の様子をモンローは書き残している。
ナポレオンは開口一番、「会えて大変嬉しい」と言い、「ここに来てからもう15日経ちますか」と聞いた。モンローは「はい、15日です」と答えた。
ナポレオンは続けてモンローと会話した。ナポレオンが「フランス語を話せますか」と聞くとモンローは「ほんの少しだけ」と答えた。
「良い旅でしたか」
「はい」
「フリゲート艦で来ましたか」
「いいえ、商船ではなく特別に借り上げた船で来ました」
夕食後のサロンでさらにナポレオンはモンローに質問した。
「人口はどのくらいですか」
「まだできたばかりなので隣接する2つの小さな町もあわせればかなりの数になりますが、ワシントンだけだと人口はせいぜい2,3000人足らずです」
「ところで ジェファソン氏は何才になりましたか」
「60才くらいです」
「独身ですか」
「独身です」
「そうですか。未婚ですか」
「いいえ、寡夫です」
「子供はいますか」
「はい、娘が2人いますが、どちらとも結婚しています」
「彼はワシントンの近くに住んでいますか」
「普段はそうです」
「公共の建物は広々としていますか。特に議会や大統領のための建物は」
「はい、広々としています」
「あなた方はイギリスとなかなかうまく戦いましたね。また戦うつもりでしょう」
「そういう羽目になった場合はいつでもうまく戦えると確信しています」
「あなたの国はおそらく、またイギリスと戦争するでしょう」
モンローは監督派の信者であった。しかし、信仰について何か記すことは稀であった。1775年11月9日にウィリアムズバーグ・ロッジ・No.6でフリーメイスンリーに入会している。
第1次就任演説(1817.3.4)より抜粋 原文
我が国の製造業は、政府の組織的保護と育成を必要とします。我々の大地と勤勉の賜物として原材料をすべて我々は所有しているので、これまで依存してきたように我々は他国からの供給に依存するべきではないでしょう。我々が依存している最中に、求めてもいず予期もしない戦争が起きれば、最も深刻な苦境に陥らざるを得ないでしょう。国内資本を我が国の製造業を繁栄させる資本とすることも重要です。国内資本を浪費することなく農業やその他のあらゆる分野の産業に投資すれば、その影響は、外国資本による影響よりも、有益だと思われます。同じく我が国の原材料のために国内市場を整備することも重要です。さらに競争の拡大を通じて外国市場で生じる犠牲から農民を守り、価格を高めることができます。
ネイティヴ・アメリカンに関して、友好関係を養い、我々の交流すべてにおいて親切かつ公平無私に行動することが我々の義務です。同じく文明化の恩恵を彼らに差し伸べるように精励することも当然のことです。
莫大な我が国の歳入と健全な財政状態は、いかなる緊急事態に対しても対応することができる国力があることを示しています。それは、公が必要とする重荷を担う国民の皆様の善意の賜物なのです。日々価値を増す広大な未開の大地は、大きな規模と長い期間にわたって国力を増大させるでしょう。そうした国力は、あらゆる必然的な目的を達成するだけではなく、早期に国債を償還する力を合衆国に与えました。平和は、あらゆる種類の開発や準備をするのに最善の機会です。我が国の商業が最も発達し、租税が速やかに納められ、そして歳入が最も多くなるのは平和な時です。
行政府はその下に諸省庁を擁し、公的資金の支出を任され、またその設立目的に忠実に沿うようにする責任を負っています。立法府は公庫の番人です。公的支出が公正に行われているかを監視することが義務です。求められる責任を果たすために、公的機関に公金を委託し、速やかに支出報告するあらゆる手段が行政府に許されています。公的機関に対して特に口をさしはさむことはないでしょう。しかし、もし必要とする手段を持ちながら、公金が長い間、無駄に寝かされるのであれば、公的機関は義務を怠っているだけではなく、やる気を失わせるような効果が公的機関の埒外にも及ぶでしょう。それは政府が緩み切って正常な状態を欠いていることを示します。社会全体がそれを察するでしょう。私は政府の重要なこの部門において、節制を持つように全力を尽くし、立法府が同様の熱意を持ってその義務を果たすことを疑いません。徹底的な調査が定期的に行われおり、私はそれを推進するでしょう。
合衆国が平和に恵まれている時に、こうした義務の履行に着手することは私にとって特に喜びです。平和は、繁栄と幸福が最も調和する状態です。行政府に責任がある限り、そして、いかなる不当な要求をすることもなく、それぞれが正当と認めることに敬意を示すような公正な原理を諸国が持つ限り、平和を維持することが私の真摯な願いです。
我が国に意見の調和が広まるのを見ることは同じく喜ばしいことです。我が国の制度に不調和はふさわしくありません。個人に恩恵を広める我が政府の自由で善良な原理、そして我が政府が持つその他の著しい長所は連帯を促します。アメリカ国民はともに大きな危機に立ち向い、うまく厳しい試練を耐え抜きました。共通の利益の下でアメリカ国民は1つの大きな家族をなしているのです。経験は、我が国にとって本当に重要な問題が何かを我々に明らかにしてくれます。進歩は緩慢であり、正しい熟慮とそれに繋がるあらゆる関心事に忠実に注意を払うことによって導かれます。最も完全な効果を与えるための方法で、我が国の共和政体と一致するこの調和を推進すること、そして、その他のすべての点で我々の連帯の最善の利益を増進させることが、不変かつ熱意のこもった私の努力の目標なのです。
麻田貞雄『モンロー宣言からトルーマン・ドクトリンへ―アメリカ外交とヨーロッパ観―』南雲堂、1970年。
中嶋啓雄『モンロー・ドクトリンとアメリカ外交の基盤』ミネルヴァ書房、2002年。
Monroe, James. A View of the Conduct of the Executive in the Foreign Affairs of the United States, 1797.
Monroe, James. The Writings of James Monroe. 7 vols. 1898-1903.
Monroe, James. The Papers of James Monroe. 2 vols to date. 2002 -contd.
Ammon, Harry. James Monroe: The Quest for National Identity. New York: McGraw-Hill, 1971.
Ammon, Harry. James Monroe, A Bibliography. 1991.
Bond, B. W. The Monroe Mission to France. 1907.
Cresson, William P. James Monroe. Chapel Hill: University of North Carolina Press, 1946.
Hart, Gary. James Monroe. New York: Times Books, 2005.
Morgan, George. The Life of James Monroe. 1921.
Perkins, Dexter. The Monroe Doctrine, 1823-26. 1927.
Preston, Daniel. A comprehensive catalogue of the correspondence and papers of James Monroe. 2 vols. Greenwood, 2000.
Styron, Arthur. The Last of the Cocked Hats: James Monroe and the Virginia Dynasty. Norman: University of Oklahoma Press, 1945.
James Monroe Museum and Memorial Library
|