ジョン・カルフーン陸軍長官 |
ジョン・カルフーン(1782.3.18-1850.3.31)は、サウス・カロライナ邦西部のロング・ケーンズ居住地(現アブヴィル近郊)の農園主の3番目の子として生まれた。父はその周辺で大規模な奴隷所有者として知られていた人物である。カルフーンはジョージア州アプリングの学校でラテン語、ギリシア語、数学、そしてロックをはじめとして歴史や政治哲学を読んだ。1802年、イェール大学に進学し、1804年に同校を卒業した。その後、コネティカット州リッチフィールドにある法律学校で1806年まで学んだ。
サウス・カロライナ州に戻ったカルフーンは弁護士として開業したが、農園主と公職で身を立てる決意をした。1808年から1810年までサウス・カロライナ州議会議員を務めた。その1期が終わった後、連邦下院議員に選出された。
1812年4月、カルフーンは下院外交委員会の長に選ばれた。その頃はまさに1812年戦争勃発の前夜であり、カルフーンはイギリスに対して強硬な姿勢をとるタカ派の代表格と見なされていた。戦争終結後、カルフーンの熱意は全国的な経済計画の立案に向けられた。第2合衆国銀行を設立する法案を起草し、連邦政府による国内開発事業の推進を主張した。さらに外国製品からアメリカの製造業を守るために保護関税の導入を支持した。国内開発事業はジェームズ・マディソン大統領の拒否権により実現しなかったが、第2合衆国銀行設立と保護関税は実現している。
1817年、モンロー大統領はカルフーンを陸軍長官に任命した。陸軍長官としてカルフーンは陸軍の再編を行なった。またジョージア州のチェロキー族を西部に移住させ、ネイティヴ・アメリカンと交易を行なう白人の貿易商に対する監督を強めた。さらに北西部の測量を積極的に行なった。議会に対するカルフーンの報告書は高く評価された一方で政敵を刺激することになった。アンドリュー・ジャクソンがスペイン領フロリダに対して許可なく攻撃を行なった際、カルフーンは不服従の咎でジャクソンを査問すべきだと主張したが、モンロー大統領はそれを受け入れなかった。1824年の大統領選挙でカルフーンは副大統領に選出された。 |
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