リチャード・ラッシュ司法長官 |
リチャード・ラッシュの経歴については、マディソン政権のリチャード・ラッシュ司法長官を参照せよ。
1817年、モンローが大統領に就任すると、ラッシュは新たに国務長官に任命されたジョン・クインジー・アダムズがヨーロッパから帰国するまで国務長官代理を務めた。国務長官代理としてラッシュは、1817年4月28日、ラッシュ=バゴット協定に調印した。それは、アメリカとイギリスが五大湖における海軍配備を制限する協定である。
1817年10月31日、ラッシュは駐英アメリカ公使に任命され、7年半にわたって奉職した。イギリスと様々な分野にわたる交渉を行った。交渉は一応の成果を出したものの、かねてから懸案であった強制徴用の解決と西インド諸島との交易権を獲得することはできなかった。1812年戦争の時にイギリスによって連れ去られた奴隷の補償問題や漁業権の仲裁にあたった。さらにカナダとアメリカの境界を決定し、オレゴンの英米共同管理を締約した。
1823年、フランス軍がスペイン領アメリカで起きた植民地反乱を抑えるために派遣されるという報せが広まった。西半球におけるフランスのさらなる勢力拡大を恐れたイギリス外相は、フランスの行動に警告する共同声明を出すことをラッシュに持ちかけた。ラッシュは共同声明を出す条件として、イギリスがラテン・アメリカ諸国を承認するように提案した。イギリスがこの条件を受け入れなかったために、共同声明は物別れに終わった。こうした経過を伝えたラッシュの報告は、モンロー・ドクトリンの形成に大きな影響を与えた。ラッシュは、ジョン・クインジー・アダムズ政権下で財務長官を務めた。 |
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