ウィリアム・ワート司法長官 |
ウィリアム・ワート(1772.11.8-1834.2.18)は、メリーランド植民地ブレーデンズバーグの酒場の末子として生まれた。8才で孤児となり、叔母のもとで養育された。家庭教師として働きながら法律を学んだ。
1792年にワートはヴァージニア州カルペパー郡に移って法曹界に入った。ワートの弁護士業は成功を収め、隣郡のアルブマール郡までその名は知られるようになった。アルブマール郡は数多くの有力者を輩出していた地域である。さらにワートはトマス・ジェファソンの親友の娘と結婚した。こうした繋がりはワートにヴァージニア上流社会への道を開いた。
1799年の妻の死を契機にワートはリッチモンドに移った。そして、ジェファソンの推薦で下院の書記官に任命された。1802年にはヴァージニア州東部管区書記官に任命された。ワートの評判を一躍高めたのはバー裁判である。ジェファソン大統領の指名によりワートは検事に指名されたのである。1816年、マディソン大統領はワートをヴァージニア州連邦地方検事に任命した。その翌年、ワートはモンロー大統領によって司法長官に任命された。
この当時、司法省はまだ存在せず、司法長官が単独で職務にあたっていた。ワートはその職務を組織立って行なうように改めた。また先例として後に引用できるように、司法長官の公式見解を保存する制度を作った。さらにダートマス大学対ウッドワード事件やマカロック対メリーランド事件に積極的に関与した。ワートはジョン・クインシジー・アダムズ政権でも引き続き留任した。 |
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