Thomas Jefferson
Pen of The Revolution
民主共和党
Democratic-Republican
在任期間
1801年3月4日〜1809年3月4日
生没年日
1743年4月13日〜1826年7月4日
身長・体重
189.2cm/不明
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大農園主の子
トマス・ジェファソン大統領は1743年4月13日(ユリウス暦では1742/43年4月2日) 、ヴァージニア植民地ゴッホランド郡シャドウェル(現アルブマール郡)で生まれた。10人中3番目の子供であり、長男であった。父ピーター(1708.2.29-1757.8.17)は大農園を所有する地元の有力者である。母ジェーン(1720.2.9-1776.3.31)はイギリス生まれである。
革命のペン
1775年、トマス・ジェファソンはヴァージニア植民地代表として第2回大陸会議に参加した。翌年、独立宣言の起草に携わった。ジェファソンは、18世紀啓蒙主義的自由主義の文脈から独立の正当性の原理を見出している。「革命の剣」ジョージ・ワシントン、「革命の舌」パトリック・ヘンリーと並んで、トマス・ジェファソンは「革命のペン」と称される。その後、ヴァージニア州知事、外交官を歴任し、ワシントン政権で国務長官を務めた。次いでジョン・アダムズ政権では副大統領を務めた。
西部への発展の扉を開く
1800年の大統領選挙で民主共和派を率いて勝利したジェファソンは、1801年、第3代大統領に就任した。トマス・ジェファソン大統領は1803年にルイジアナ購入を実現した。ルイジアナ購入は西部への発展の扉を開いたことでトマス・ジェファソン大統領の大きな功績として最も高く評価されている。しかし、ヨーロッパでの戦乱に巻き込まれないようにトマス・ジェファソン大統領が実施した出港禁止法は、ニュー・イングランド諸州で不興をかった。
1743年4月13日 |
ヴァージニア植民地ゴッホランド郡(現アルブマール郡)シャドウェルで誕生 |
1744年3月15日 |
ジョージ王戦争勃発 |
1755年4月19日 |
フレンチ・アンド・インディアン戦争勃発 |
1757年8月17日 |
父ピーター、亡くなる |
1760年3月25日 |
ウィリアム・アンド・メアリ大学に入学する |
1762年4月25日 |
学位を取得することなくウィリアム・アンド・メアリ大学を去る |
1767年4月5日 |
ヴァージニアの法曹界に入る |
1769年5月11日 |
ヴァージニア植民地議会下院議員に選出される |
1772年1月1日 |
マーサ・ウェイルズ・スケルトンと結婚 |
1775年3月25日 |
第2回大陸会議のヴァージニア植民地代表代理に選ばれる |
1775年4月19日 |
レキシントン=コンコードの戦い、独立戦争始まる |
1776年3月31日 |
母ジェーン、亡くなる |
1776年6月11日 |
独立宣言起草委員に選ばれる |
1776年7月4日 |
独立宣言公布 |
1779年6月1日 |
ヴァージニア邦知事に就任 |
1781年6月3日 |
再々選を辞退してヴァージニア邦知事を退任 |
1782年9月6日 |
妻マーサが亡くなる |
1784年7月5日 |
ヨーロッパ諸国との通商条約交渉のためにヨーロッパに向けて旅立つ |
1788年6月21日 |
合衆国憲法発効 |
1789年7月14日 |
フランス革命勃発 |
1789年11月23日 |
ヨーロッパから帰国 |
1790年3月22日 |
国務長官に就任 |
1793年7月31日 |
大統領に辞表を提出 |
1797年3月4日 |
副大統領に就任 |
1798年9月 |
ケンタッキー決議を起草 |
1801年3月4日 |
大統領就任 |
1803年4月30日 |
フランスからルイジアナを購入 |
1804年12月5日 |
大統領再選 |
1809年3月4日 |
大統領退任 |
1812年6月19日 |
1812年戦争勃発 |
1817年 |
ヴァージニア大学設立法案を起草 |
1826年7月4日 |
リュウマチと慢性的下痢による衰弱で亡くなりモンティチェロに埋葬される |
ヴァージニア王朝
ヴァージニア植民地の概要については、 ジョージ・ワシントンを参照せよ。
シャドウェルはジェファソンの父が築いた農園の名前である。それは母ジェーンが生まれたロンドンの教区に由来している。生家があったアルブマール郡は、ブルーリッジ山脈に抱かれた未開の地といってもよい自然豊かな場所で山麓地帯に属する。1770年2月21日に生家は、ジェファソンが大切にしていた書物とともに焼失している。シャドウェルは、ヴァージニア州中部のシャーロッツヴィルに位置している。
ウェールズ系移民の末裔
ジェファソン自身の言葉を借りると、「私の父の家族の伝統によれば、先祖はウェールズ、イギリスの最高峰スノードン山の麓から我が国に来た」という。母方を通じて系譜をはるかにたどればイギリス国王エドワード1世までたどることができる。17世紀後半、ジェファソンの曽祖父トマス1世Tはヘンライコ郡に小さな農園を得た後、タバコを栽培していた。祖父トマス2世は1706年にチェスターフィールド郡の判事になり、ヴァージニア植民地の名家であるランドルフ家の親戚にあたる娘と結婚した。
測量技師となった父ピーターは、ゴッホランド郡に移った。ジェファソンによると「私の父はほとんど教育を受けられなかったが、強い精神を持ち、健全な判断力と旺盛な知識欲があり、たくさんの本を読んで修養に務めたので、[中略]ヴァージニアとノース・カロライナの境界を測定する役目に選ばれ、[中略]最初のヴァージニアの[詳細な]地図を作った」という。
ピーターは「[アルブマール]郡のこの辺りに3番目か4番目か1737年頃に」居住し、1000エーカーの土地を購入したという。順次、土地を買い足して2650エーカーにまで所有地を増やした。またジェーン・ランドルフとの結婚は、ピーターに大きな社会的信用をもたらした。郡の測量技師に任命されただけではなく、1754年から1755年にわたって植民地議会議員も務めている。父ピーターは郡内でも有数の実力者の1人であった。母ジェーンはイギリス生まれで、母方の祖父を通じてジェファソンはスコットランド王デイヴィッド1世の血を引く。
少年期の記憶
ジェファソンは1743年から1745年頃までシャドウェルで暮らした。その後、1745年か1746年にジェファソン一家はリッチモンド西郊にあるタカホーに移転した。ジェファソンの幼少時の記憶は、2才になるかならない頃に馬の背に揺られてタカホーに移った記憶に始まるという。一家がタカホーに移った理由は、母ジェーンの従兄が亡くなった時に、遺言で3人の遺児と農園の経営を父ピーターに託したからである。
5才の頃、ジェファソンは学校を抜け出し、家の後ろで熱心に食事時に行う主の祈りを繰り返したという。ご飯の時間を早めようと空腹に我慢できなくなった少年は考えたからである。
1751年か1752年頃、ジェファソン一家はシャドウェルに戻った。シャドウェルは首府ウィリアムズバーグと辺縁を結ぶ公道に隣接していた。そのため、首府に向かうネイティヴ・アメリカンに宿を提供することが多く、ネイティヴ・アメリカンと接触する機会が多くあった。後年の回想によれば、ジェファソンは、「チェロキー族の戦士であり雄弁家でもあった偉大なアウタセット」がイギリスに向けて出発する前夜に行った「卓越した告別演説」を聞き、「彼の朗々と響く声、明瞭な発音、活き活きとした動作といくつかの火に寄り集まっている[ネイティヴ・アメリカンの]人々の厳粛な沈黙」に「畏敬と尊敬」の念を抱いたという。
父ピーターはジェファソンが14才の時に亡くなった。完全な古典教育を受けるようにという遺言を残した。父の死によってジェファソンは、「私に助言を与え導いてくれるのに適任な親族も友人も全くなく」放り出されたと感じたという。とはいえ、ジェファソンはピーターが築いた社会的信用のみならず、1764年には2750エーカーに及ぶ土地と数十人の奴隷も受け継いでいる。以後、ジェファソンは、約1万エーカーの土地と100人から200人に及ぶ奴隷、数百頭の家畜を保有した。農園ではタバコを中心にとうもろこしや小麦、果物などが栽培された。
名家出身の母
母ジェーンの家系であるアイシャム・ランドルフ家は、「イングランドとスコットランドまではるかにさかのぼることができる」ヴァージニアの名家であり、父ピーターの出自よりも高かった。こうした血筋はジェファソンにとって大きな政治的資産となっている。ランドルフ家とジェファソン家の間で多くの婚姻関係が結ばれている。
イギリス生まれのジェーンは独立運動に対して反感を抱いていた。それは何らかの影響をジェファソンに与えていたかもしれない。1776年に母が亡くなった時、叔父ウィリアムにそれをごく簡潔に報せた。母に対するジェファソンの言及は少ないが、エリク・エリクソンは、ジェファソンが母に対して強いノスタルジアを持っていたのではないかと示唆している。
兄弟姉妹
ジェーン・ジェファソン
長女ジェーン(1740.6.27-1765.10.1)はシャドウェルで生まれた。ジェファソンが最も愛していた姉であったが、25才で未婚のまま亡くなった。
メアリ・ジェファソン
次女メアリ(1741.10.1-1817) はシャドウェルで生まれた。1760年6月24日に結婚し、1817年に亡くなった。
エリザベス・ジェファソン
長妹エリザベス(1744.11.4-1773.1.1)は、シャドウェルで生まれ、未婚のまま、1773年に亡くなった。
マーサ・ジェファソン
次妹マーサ(1746.5.29-1811.9.3)はタカホーで生まれた。1765年7月20日に結婚し、1811年に亡くなった。夫ダブニー・カーは、独立前夜、ヴァージニアの通信連絡委員会の設立に携わっている。
ピーター・ジェファソン
長弟ピーター(1748.10.16-1748.11.29)はタカホーで生まれ夭折した。
―・ジェファソン
次弟(1750.3.9-1750.3.9)はタカホーで生まれ夭折している。
ルーシー・ジェファソン
3妹ルーシー (1752.10.10-1811)はタカホーで生まれた。1769年9月12日に結婚し、1811年に亡くなった。
アンナ・ジェファソン
末妹(1755.10.1-1828) はシャドウェルで生まれた。1788年10月に結婚し、1828年に亡くなった。
ランドルフ・ジェファソン
末弟(1755.10.1-1815.8.7) はシャドウェルで生まれた。
少年時代の教育
タカホーに設けられた教室がジェファソンの教育の始まりであった。その小さな教室でジェファソンは、姉妹や従兄弟とともに個人教師から教えを受けた。それからジェファソンは9才から14才まで寄宿しながらウィリアム・ダグラス牧師の下でラテン語とギリシア語、そしてフランス語を学んだ。
さらに14才から16歳までフレデリックスヴィルのジェームズ・モーリー牧師の家に下宿し、「歓喜の豊かな源」であるギリシア・ローマ古典を学んだ。週末には12マイル離れた自宅に帰った。「正確な古典の学者」であるモーリー牧師は400冊程度の蔵書を持っていた。それは書籍がまだ高価だった当時としては多い数である。ジェファソンがモーリーの蔵書で様々な分野の本に親しんだことは想像に難くない。
ウィリアム・アンド・メアリ大学
ジェファソンは、1760年3月25日、ウィリアム・アンド・メアリ大学に「今後、自分に役に立つと思われるより広範な知識を得る」ために入学した。大学では特にウィリアム・スモールlという数学教授の影響を受けた。スモールの教えを受けることで、「科学の広がりと物事の仕組みに対する最初の観点」が養われ、「私の人生の運命が定まった」とジェファソンは記している。ジェファソンに多大な影響を与えたもう1人の学者はジョージ・ウィスである。ジェファソンによれば「若き時代の信頼できる敬愛すべき師」であった。ウィスは著名な法律家であり、後に独立宣言の署名者の1人にもなった。その後もウィスとの交際は続き、「生涯を通じて最も心から愛する友人」となっている。
法曹界
法律の修得
ジェファソンは約2年間大学に通ったが、結局、学位は取得していない。その後、ジェファソンはウィスの下で法律を学んでいる。ジェファソンの他に ジェームズ・マディソン、パトリック・ヘンリー、そして、 ジョン・マーシャルも同じくウィスの下で教えを受けている。
この頃のジェファソンの日課は、午前8時前に物理化学、倫理学、宗教について学び、朝食後に法律を4時間勉強し、午後に歴史、夕方に文学を読むというものであった。このような日課は、一日の中でもそれぞれの時間帯で精神の働き方が違うので、それに応じて日課を振り分けるべきだという考え方に基づいている。またジェファソンは、弁護士として成功するためには、様々な分野の学問、特に歴史を学ぶべきだと主張している。さらに「精神の機能は、身体の一部と同じく、鍛錬によって強化され改善される」ので、法律の難解な思考を読み解くために数学的な論法や推論を身につけておけば非常に有益であるとジェファソンは後に述べている。
ジェファソンの法律の修得方法は文字通り「法律を読むこと」であった。しかし、当時、弁護士を志す若者は弁護士の下で修行を積むのが一般的であった。そうした修行についてジェファソンは、「弁護士は法律事務で生徒の勉強の時間を不当に奪おうとする」ので「むしろ助けとなるどころか害をもたらすもの」だと断言している。生徒が最も必要とする助けは、「どんな本を何のために読むのか」という指針であるとジェファソンは勧めている。
ロマンス
法律を学び始めた頃、ジェファソンはレベッカ・バーウェルという女性に思いを寄せていた。レベッカはヴァージニア植民地総督代理の娘であり、大学の同級生の姉妹であった。ジェファソンはレベッカの名前を暗号やイニシャルを使ったり、スペルを逆に綴ったり、それをギリシア文字で書いたりもしている。ダンス・パーティーでレベッカと一緒に踊った時のことを友人に1763年10月7日付の手紙で次のように書き送っている。
「私は彼女にたくさんのことを言うつもりでした。頭の中に浮かんだ考えをできるだけ感動的な言葉で飾り、相当立派な作法で伝えるつもりでした。しかし、困ったことに、いざそれを言う機会が訪れた時、切れ切れの文章が、全くばらばらに、奇妙な長さの息継ぎに中断されながら出てきただけでした。それは私が未熟にも混乱していたことを明らかに示しています」
この時、ジェファソンはレベッカに法律を勉強するためにイギリスに行くつもりだと語ったらしい。しかし、1764年にレベッカが結婚することが分かった。その時、ジェファソンは、2日間、ひどい頭痛に悩まされたという。後にレベッカの娘は、最高裁長官を務めたジョン・マーシャルと結婚している。
印紙法
1765年に印紙法に反対する決議がヴァージニア植民地議会で行われた。それを傍聴していたジェファソンは、パトリック・ヘンリーが「[パトリック・]ヘンリー氏が素晴らしい議会弁舌を行うのを聞いた」と述べている。
リヴァンナ川の改修
1765年10月、ヴァージニア植民地議会は中部を流れるジェームズ川水系の改修を可決した。改修は植民地政府自体によって行われるのではなく、民間に委託されて行われた。3つの請負人のグループが組織され、ジェファソンはその中でリヴァンナ川を担当するグループに属した。リヴァンナ川は、リッチモンドから遡ること約40マイルでジェームズ川に合流する河川である。モンティチェロはリヴァンナ川流域に属する。
この改修事業はジェファソンが手がけた最初の大掛かりな公的事業である。リヴァンナ川は航行できる部分が限られ、「かろうじて空のカヌーが通れる」くらいであった。事業は1772年頃までには完了し、生産物を積んだ船を通過させることができるようになった。
法曹界に加入
ジェファソンは、1767年4月5日、ヴァージニアの法曹界に加入を認められた。ジェファソンは法廷弁論を好まなかったが、独立戦争が勃発する頃まで弁護士業を続け、ヴァージニア各郡の法廷を回った。ジェファソンはありとあらゆる種類の訴訟を扱い、多くの顧客を得た。毎年200件近くの訴訟を扱ったと推定されている。1770年に扱った訴訟に関して作成した書類の中で、ジェファソンは、「自然法の下で、すべての人々は生まれながらにして自由である」と後の独立宣言を思わせる文章を既に書いている。
父から受け継いだ農園からは一年に平均2000ドル程度、弁護士業からは3000ドル程度の収入を得ていた。また1770年、アルブマール郡の治安官に任命された。さらに1773年、郡の測量技師にも任命されている。
エリク・エリクソンは、「彼には、近くのものの詳細と、遠くの地平線の境界とを、両方とも測量したいという強い情熱がありました。ですから、わたしは何ら躊躇することなく、彼のアイデンティティのいま一つの重要な要素として、測量師としての資質をあげたいと思います。この要素は、後にルイジアナの購入や、彼の意を受けてルイスとクラークが行なった探検において、国家的な重要性を帯びることになったのです(五十嵐武士訳)」と指摘している。
ヴァージニア植民地議会議員
イギリスの植民地政策に異を唱える
1769年5月11日、ジェファソンはヴァージニア植民地議会議員に選出された。その後すぐに、タウンゼンド諸法に抗議して結成されたイギリス製品に対する不買同盟に参加している。タウンゼンド諸法は、イギリス議会が制定した法律に従わなかったニュー・ヨーク植民地議会を解散させる法律、日常必需品に輸入税を課す法律、そして新たに税関委員会を設置する法律からなる。またジェファソンは、1773年、ヴァージニア植民地通信委員会の設立にも携わっている。
1774年、イギリスは、ボストン茶会事件に対する報復としてボストン封鎖を断行した。それはジェファソンにとって「マサチューセッツの人々に対する同情を喚起する出来事」であった。そのためジェファソンは、ヴァージニア植民地議会にボストン封鎖に対する決議を採択するように提案した。その決議の目的をジェファソンは後に、「内戦の害悪を回避することができるように神に願い、確固たる信念を持って権利を貫くことができるように我々を鼓舞し、そして[イギリス]国王と議会の心を宥和と正義に向けさせる」と語っている。
植民地議会の解散
決議が採択された結果、ヴァージニア植民地総督は植民地議会を再び解散した。ジェファソンも含む、イギリスの政策に反対する議員達はローレー亭に集い、5月27日、全植民地への抗議運動の拡大を決定した。それは、1つの植民地に対した行われた攻撃であっても、それを全植民地に対する攻撃と見なすことを宣言している。さらに他植民地の通信委員会に、毎年、ある場所で植民地代表者会議を開催することも提案された。
「イギリス領アメリカの諸権利の意見の要約」の執筆
1774年7月末頃、ジェファソンはシャーロッツヴィルで開催されたアルブマール郡の集会に参加した。集会が採択したアルブマール決議はジェファソンによって起草されている。それは、「全く別の議会が、植民地に対して何であれ正当に権限を行使することはできない」ことを謳い、「植民地の自然権と法的権利」がイギリス議会によって侵害されていることをと訴えている。さらに集会は、ジェファソンを首府ウィリアムズバーグで開かれる会議の代表に選んだ。
しかし、「道中で赤痢に罹り、進むことができなくなったために」、ジェファソンは翌月に開催されたヴァージニア革命協議会に参加できなかった。その代わりに「イギリス領アメリカの諸権利の意見の要約」を議長のペイトン・ランドルフとパトリック・ヘンリーに1冊ずつ送っている。
ジェファソンはかつて行われたサクソン人のイングランド入植と同じく、自然法に由来する占有権を新大陸の入植者にも認めることを訴え、イギリス議会は北アメリカ植民地に対していかなる権限も持たないと唱えた。そして、ジェファソンは、王とアメリカ人の主従関係は入植によって一旦中断され、アメリカ人の自発的な意思によって再度、主従関係が結ばれたという独自の見解を述べる。
さらにイギリスは、アメリカ植民地の自由貿易を阻害しようとする試みとアメリカ植民地内の財産に対する課税を止めるべきであるとジェファソンは主張した。また世界中の国々と通商を行う権利はアメリカ植民地人の自然権であり、イギリス議会はその権利を侵害することはできないと論じている。加えて母国からもたらされる恩恵は通商上の利益のみであり、それに対して貿易上の特権を以って報いれば十分であると述べた。そのうえ、イギリス議会が「我々を隷属に貶める周到な組織的計画」を持っていたとジェファソンは糾弾する。そうした「計画」を裏付けるものとして、ジェファソンはイギリスが植民地に対して課した数々の法を列挙して、各々その問題点を指摘した。
奴隷制の問題については「域内の奴隷制の廃止は、植民地が希求する目標であるが、それはまだ初期の頃に不幸にも導入された。しかし、我々が所有する奴隷を解放する以前に、アフリカからのさらなる持ち込みを除外する必要がある。しかしながら、それを禁止するか、または禁止に相当する義務を課そうとする我々の幾度の試みは、これまでイギリス国王の拒否権によって打ち砕かれてきた。したがって、アメリカ植民地の利益よりも僅かなアフリカの海賊船の直近の利益を優先し、また人間性の権利よりもそれを優先させ、不名誉な行いにより人間性を深く傷付けた」と述べている。こうした考え方は後の独立宣言の草稿にも現れている。
しかし、「イギリスから分離することは、我々の願望でもなく、我々の利益でもない」と明白に述べているように、「独立」という言葉は使われていない。そして、末尾では、アメリカ植民地の不満を解消することで「イギリス領アメリカの臣民の心を静める」ように請願している。つまり、ジェファソンは、国王の下で平等な自治権を授与された諸邦からなる帝国制度の樹立を示唆している。
それにも拘らず、「現状では急進的過ぎる」としてジェファソンの提言は採用されなかった。しかし、この提言はパンフレットとして印刷され広く行き渡った。イギリスではエドモンド・バークによって手を加えられたものが流布し、そのためジェファソンの名前は私権剥奪法案に植民地で煽動を行った者として記載された。
独立宣言起草者
第2回大陸会議
1775年3月25日、ジェファソンは第2回大陸会議のヴァージニア植民地代表補欠に選ばれた。そして、6月、ペイトン・ランドルフに代わってヴァージニア植民地代表となり、英首相ノース卿が提示した和解案を拒否するようにヴァージニア植民地総督に求める請願を起草した後にフィラデルフィアへ向けて出発した。
6月21日に着任したジェファソンは、その5日後、ジョン・ディキンソンとともに「武力抵抗の必要な理由の宣言」の起草を命じられた。ジェファソンが起草した草案は「ディキンソン氏にとって強烈過ぎた」ために受け入れられなかった。ディキンソンはジェファソンの草案を参考に最終案を新たにまとめ、大陸会議に提出した。7月6日に採択された「武力抵抗の必要な理由の宣言」は、植民地は独立を欲しないが、従属は拒むことを明言し、イギリスに反して外国の支援を受けることを示唆している。
ノース卿の和解案に対する返答を大陸会議でも準備することになり、7月22日、ジェファソンは起草委員会の1人に選ばれた。その他にもジェファソンは大陸会議で数多くの公文書を起草している。しかし、急進的な要素が目立ったために、いまだにイギリスとの和解を望む大陸議会に受け容れられなかった。
ジェファソンは、「我々の公正な権利を取り戻すこと」が最善の選択であるのにも拘らず、「[イギリス]議会は、受け入れることができると考える条件の中でも最低限の条件しか提示していない」と8月25日付の手紙の中で不満を述べている。最大の問題はイギリス議会が、アメリカで不満が一部ではなく全体に広がっていることを認識せず、「我々の本当の決意」を全く理解していないことだ論じている。したがって「[イギリス]首相の迷夢を醒まさせること」が必要であるとジェファソンは提言している。
しかし、次第にジェファソンはイギリス政府の「横柄な態度」に失望し始めた。それに加えて、イギリス国王は自国民の分裂を仲裁するどころか、それをさらに深化させようと扇動していると非難している。そうしたジェファソンの感情は、11月末頃までに、イギリス国王を「最も無常な敵」と称するほどに悪化していった。イギリス国王がアメリカに対して敵意を持っているとジェファソンは確信するようになっていた。
独立宣言起草委員会
1776年6月11日、「優れた文才の評判」の故に、ジェファソンは起草委員会の一員に選ばれた。委員会にはジェファソンの他、 ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、ロジャー・シャーマン、ロバート・リヴィングストンが名を連ねている。
当時の様子をジェファソンは後年、「独立宣言起草委員会は、私に独立宣言を起草するように望んだ。よって起草はなされ、起草委員会に認められた。6月28日金曜日、私は大陸会議にそれを報告した。それは読まれて、棚上げするように命じられた」と回想している。ジョン・アダムズはジェファソンが起草者に選ばれた理由を「雄弁と公論[を書くこと]において他の誰もジェファソンに匹敵する者がいなかった」からだと説明している。
独立宣言でジェファソンは、ジョン・ロックの思想を、簡潔な表現で手際良く説明した。ヴァージニア植民地の対英抗議運動を指導したジョージ・メイスンによるヴァージニア権利宣言と酷似している部分があることは従来、よく指摘されている。しかし、それは、独立宣言の特徴を説明したジェファソンの次のような言葉からすると当然のことであった。以下は1825年5月8日付の手紙からの抜粋である。
「不正を正すために武力に訴えざるを得なくなった時、国際世論に訴えることが我々[の行い]を正当化するために適切であると思われました。これがアメリカ独立宣言の目的でした。[アメリカ独立宣言の目的は]それまで考えられたことのないような新しい原理や新しい論拠を見つけ出すためではなく、また単に従来、言われたことがなかったことを語るためでもなく、[独立の]問題に対する共通認識を、できるだけ分かり易く確実に、同意を得られるように人々に示すためであり、そして、我々がやむを得ず取った独立の立場を正当化するためでした」
草稿から削除された内容
起草委員会では主にジョン・アダムズとベンジャミン・フランクリンにより推敲が行われた。さらに議会は40か所にわたる修正を行った。その結果、全体の約4分の1にあたる630語が削除され、一方で146語が挿入された。大幅に削除された部分は以下の2点である。まず奴隷貿易に関する文章が削除された。
「彼[イギリス国王]は、彼に何も危害を加えたことがない遠方の人々を捕らえて、西半球に送って奴隷とし、または、その輪送途上で惨めな死に至らしめ、こうした人々にとって最も神聖な権利である生命と自由とを侵害するような、人間性そのものに対する残虐な戦いを行っている。この海賊のような戦い、軽蔑に値する不信心な権力行使がキリスト教徒であるイギリス国王の戦争なのである。人間を売買するための市場を開放し続けようと、彼は、この忌まわしい通商を禁止、または制限しようとする[植民地]議会のあらゆる試みを抑えるために拒否権を悪用した。そして、このような一連の恐るべき行いにもまだ飽き足らず、彼は我々の間にいる奴隷を指嗾して反抗させ、彼が奴隷を押し付けた人々を殺すことによって、彼が奪った自由を奴隷に購わしめんとしている。すなわち彼は、以前、黒人の自由に対して犯した罪を、他の人々の生命を脅かすように促すという犯罪によって償おうとしている」
上記の部分が削除されたことについて、後にジェファソンは、「[イギリス国王が]アフリカの住民を奴隷化したことを非難した項目も、サウス・カロライナとジョージア[の主張]に従って削除された。サウス・カロライナとジョージアは奴隷輸入を控えようと全くしないどころか、それを続けようと依然として望んでいる。我が北部の同胞達も、あのような[国王に対する]非難の下でちょっとした痛みを感じているだろう。というのは、北部の人々も、奴隷を自ら所有する数は少ないとはいえ、他の人々に奴隷を運ぶ役割を大いに果たしているからである」と語っている。
さらに次の箇所も削除されている。イギリスとの決別を強く示した箇所である。
「法の通常の手続きを通して、我々の調和を乱す者を彼ら[イギリス人]の議会から除くべき機会が訪れても、自由選挙によって彼らはそうした者達を元の地位に復帰させた。まさに今、彼らは、彼らの主君が我々を侵略し破滅させようと、血を同じくする兵士だけではなく、スコットランドと外国の傭兵を派遣しているのを黙認している。こうした事実は、苦しみに満ちた愛情に対する最後の一撃であり、精神は非情な同胞と永遠に別れを告げることを命じる。我々は、彼らに対して抱いてきた以前の親愛の情を忘れ、人類のその他の人々と対するのと同様に、戦争においては敵、平和においては友と見なすように努めよう。我々はともに自由にして偉大な国民であった。しかし、高邁で自由な交渉は、彼らの品位を汚すもののようである。彼らは報いを受けるであろうから、それならそれでよい。幸福と栄光へ至る道は我々にも開かれている。彼らと別れて、我々はその道を辿ろう」
また、この部分の削除についてもジェファソンは、「イギリスには関係を継続する価値がある友人がいるという気弱な考えをいまだに多くの人々が心に浮かべていた。イギリス人の気分を害さないようにするために、イギリスの人々に対する非難を伝える文章が削除された」と述べている。
最終的に独立宣言は7月4日に大陸会議で採択された。そして、清書されたうえで各植民地に送付された。8月2日、ジェファソンは独立宣言に代表の1人として署名した。
連合規約
1776年6月11日、大陸会議は連合規約を作成することを決定した。ジェファソンは連合規約を作成する委員に任命されていないが、全体討論には参加している。全体討論の中でジェファソンはそれほど多くの発言をしなかったようである。アダムズは、ジェファソンについて「議場にはほんの僅かの時間しか出席せず、出席した時も公衆の面前では決して話さなかった。議会の間中、私は彼とともに座っていたが、彼が一時に3つの文章を話すのを聞いたことがなかった」と述べている。ただ邦間の土地をめぐる問題の処理に関してジェファソンは、「連合会議がヴァージニアの権利を左右する権利を持つことに対して反対する」と発言している。またジェファソンはアダムズと同様に議論の推移を克明に記録していた。
ヴァージニア邦憲法草案
独立宣言を起草した一方で、ジェファソンはヴァージニア革命協議会に邦憲法案をフィラデルフィアから送付している。少なくとも3つの草案が準備され、そのうちの1つをジョージ・ウィスがヴァージニア革命協議会に持ち込んだ。ウィスが到着した頃には、邦憲法案の起草作業は終わっていた。そのためジェファソン案は、後から付け加える形で前文のみ採用された。
前文は独立宣言と同じく、イギリス国王の「嫌悪すべき耐え難い専制政治」に対する非難が連ねられている。そして、前文の末尾では「立法府、行政府、そして司法府の職は永久に分かたれていなくてはならない。いずれかの職に就いている者は何人もその他のいずれかの職に就くことを得ず」と三権分立が謳われている。
立法府は二院からなる。下院は毎年、10月1日に人々の投票で選出され、11月1日に登院する。下院の議席は人口に比例して郡や区に分配され、総計で125議席から300議席になるようにする。選挙権は、街中に4分の1エーカーの土地か郊外に25エーカーの土地を所有し、かつ健全な精神を持つ全成人男性に与えられる。上院議員は下院によって選出され、15人を下限とし50人を上限とする。任期は9年とし、3分の1ずつ改選される。一度、上院議員になった者は再選されてはならない。
ジェファソンが上院議員の再選を禁じた理由は、もし再選が可能であれば、上院議員は次期も当選することを考えるようになり選挙人の動向に惑わされるようになるからである。また議員の任期を終身としない理由について、「一定の期間、大衆の中に戻り、支配者ではなく被支配者になることで、議員の職務が公益と関っていることを肝に銘じるであろうし、おそらくそうしなければ議員は、[大衆から]独立していることでそれを忘れるようになるだろう」とジェファソンは1776年8月26日付の手紙の中で述べている。
行政府は、「知事」が管轄する。知事は毎年、下院によって任命され、再任はその後、3年間にわたって許されない。立法府の法案について拒否権を持たない。さらに議会を解散する権利、宣戦布告する権利、和平を講じる権利、拿捕免許状を発行する権利、軍隊を召集する権利など様々な権利を有しないことが明記されている。そのうえ、知事は、下院によって選ばれる枢密院の助言を得なければならなかった。つまり、ジェファソンが提案した行政府は立法府に比べると非常に弱体であり、三権の抑制と均衡という点では問題があった。
司法府に属する判事は、知事によって指名される。しかし、枢密院の承認を必要とした。その判事の権限は立法によって定められ、不正行為が認められた場合は控訴裁判所の審理によって免職される。
こうした制度に関する規定に加えて、ジェファソンは、「50エーカーの土地を所有していないすべての成人」に50エーカーを与えることを提案している。さらに信教の自由、言論の自由、奴隷制の廃止、邦憲法修正手続きの保障などが盛り込まれている。特に「直接的な人民の同意による」邦憲法修正手続きの保障は、この当時では画期的な規定であった。
このような草案に加えて、ジェファソンは1783年にも草案を起草している。1776年の草案との相違点は、知事の権限を拡大させ任期を5年に延長する点、そして、上院議員を下院ではなく選挙人によって選出するように改めた点である。
ヴァージニア邦議会議員
法改訂委員会
ヴァージニア邦の改革と家族の傍で暮らすことを願ってジェファソンは9月2日に大陸会議を辞した。そして、1776年10月7日にヴァージニア邦議会議員(ヴァージニア革命協議会議員から移行)として初登院した。「我々の法律には、迅速な改善が必要とされる多くの非常に悪い点」があるとジェファソンは考えていたので、議会に法改訂の実施を提案した。10月24日、議会は法改訂の実施を認め、11月5日、法改訂委員会を設立し、ジェファソンを委員長に任命した。
まずジェファソンは、「一般の読者のみならず法律家自身にとっても複雑であり不便な」法律の文体を改めて「そうした文体をもっと分かり易くする」ことを目指した。1779年6月18日、法改訂委員会は126の法案を含む「法改訂委員会報告書」を議会に提出した。それはマディソンの言葉を借りればまさに法律案の「宝庫」であった。最終的に、その中で少なくとも100程度の法案が成立した。報告書には、相続制度、信教の自由、公教育制度、刑罰に関する法案の他にも郵便制度、寡婦に対する手当て、貧窮者の救済、邦民の規定、非合法な集会に対する処罰、ウィリアム・アンド・メアリ大学の改革、公立図書館の設置などに関する法案が含まれていた。
奴隷制に関する諸法案もジェファソンは発案している。それは、以後、いかなる人間も奴隷にすることを禁じる内容を含んでいたが、一方で既に奴隷身分にある者を解放することを禁じる内容も含まれていた。
さらにジェファソンは、ヴァージニアの貴族的な特権を廃止し、「美徳と才能の貴族のために道を開くこと」を目指した。ジェファソンはヴァージニア社会に存在する貴族的な上層階級について次のように述べている。
「初期植民地時代、ごく少数しか土地を手に入れる者がいなかった時、ある先見の明がある人々が大きな区画の土地を手に入れて、彼ら自身のために偉大な家系を築き上げようと望んで子孫に限嗣相続を行うように定めた。独特な一連の家系として示される同じ家名の下で、世代から世代へ財産は受け継がれた。そうした家系は、法によって彼らの富を永続化させる特権を与えられ、貴族制を構成し、支配者層の奢侈と贅沢によって際立っている」
ジェファソンは、「こうした[生得的な]特権」を否定し、限嗣相続と長子相続の廃止することを提案した。さらに、ジェファソンは、「富の貴族」の代わりに、「美徳と才能の貴族」を重視するように訴えた。それは、血縁による貴族ではなく、個人の才覚に基づく「天性の貴族」を意味する。そして、「天性の貴族」こそ秩序ある共和制にとって必要不可欠な存在であった。
ヴァージニア信教自由法
ジェファソンは植民地人が、公定教会制度によって英国国教会(後に監督派)を維持するために、不公正にも負担金を支払うように強要されたと非難している。公定教会制度は、英国国教会(後に監督派)を唯一の公認宗派とする制度である。新たにヴァージニア邦議会が設けられると、「この精神的な専制の廃止を求める誓願が殺到した」という。ジェファソンは1777年に草案を書いたと述べている。
ヴァージニア信教自由法の草案でジェファソンは「全能なる神は、人間の精神を自由なるものとして造り給い、抑圧から完全に免れることにより精神を自由のままにおくべしという至高の意思を明らかにしている。この世における刑罰や重荷を課し、市民権を剥奪することによって人間の精神に影響を及ぼそうとする試みは、偽善と不品行を育むにすぎず、すべて我らが信ずる神の思し召しから逸脱している」と言明している。
また同法案は「何人に対しても、特定の宗教的礼拝に出席すること、あるいは特定の信教、聖職者に経済的支援を与えることを強制してはならない。また何人に対しても、その宗教上の見解、あるいは信仰の故に、一切の困苦を加えてはならない。何人も、宗教上の事柄に関する自らの見解を自由に公言し、弁論を以ってそれを保持する自由を有し、無思慮にもその市民権を狭められたり広げられたり、影響を受けたりしない」ことを規定している。
さらにもう1つ重要な点として、政府が特定の宗教を強制も支持もしてはならないという原則が盛り込まれている。それは、公定教会制度の否定を意味し、ヴァージニアにおける政教分離運動を大いに促進した。ジェファソンにとって「教会と国家を分離する壁」を作ることは何にもまして重要なことであった。信教自由法は、ジェファソンが滞欧中の1786年1月16日に成立し、ヨーロッパでも啓蒙主義哲学の1つとして広く読まれた。
刑法案
ジェファソンは、死刑の代わりに労役刑を課するというイタリアの刑法学者ベッカーリアの論を取り入れて36項目からなる刑法案を作成した。受刑者が「もし更正し、社会の健全な構成員に復帰することができれば」有益であるとジェファソンは論じている。そして、公共事業で使役することは有用とみなされ、受刑者が労役に従事している姿をさらすことによって犯罪の抑止効果を望めると述べている。
ただし後年、イギリスで独房監禁が導入されたことを知ったジェファソンは、その方式をヴァージニア邦知事に紹介している。その結果、公共事業で使役する代わりに監房で使役する方式が採用された。
受刑者の処罰についてジェファソンはさらに、「これ以降、生命もしくは四肢を奪う刑罰を、以下に定められた犯罪を除いて、いかなる犯罪に対しても下してはならない」と規定している。
死刑に相当する犯罪は、まず邦に対する反逆罪である。また「夫がその妻を、親がその子供を、子供がその親を殺害した場合は絞首刑に処せられ、遺体は解剖に付される」ことが定められている。さらに毒殺を行った者は同じく毒を以って死刑に処せられ、決闘を挑み相手を殺害した者は絞首刑のうえ、遺体は晒されることになっていた。このように反逆罪や殺人罪によって死刑判決を受けた場合は、その翌日に死刑が執行されることが記されている。
こうした刑罰に加えて、「男女を問わず強姦罪、重婚罪、ソドミー罪を犯した者は何人であれ罰せられる。男の場合は去勢、女の場合は少なくとも直径2分の1インチ[約13ミリメートル]の穴を鼻の軟骨に開ける[ことによって罰せられる]」という項目がある。また「舌を切除したり使えなくしたり、もしくは鼻や唇や耳を切除したり、焼印を押したり、またはその他の方法で故意に他者の外観を傷付けた者は何人であろうと、同様に傷を負わさされ、外観を損なわれる」という項目もある。これはまさに同害復讐法に他ならない。
さらに奴隷については特別に「奴隷が公共事業における労役刑に処せられるべき罪を犯した場合、知事が指定する、西インド諸島、南米、もしくはアフリカのどこかに移送され、その場で続けて奴隷にされる」という項目が設けられている。もともと奴隷として労役に従事している者に、労役刑を課しても全く処罰として効果はないと考えられたためである。
しかし、このような刑法案は、ヴァージニア邦の「一般の考えは、まだその点まで到達していなかった」ために僅差で成立しなかったとジェファソンは述べている。
公教育関連法案
公教育関連法案としてジェファソンは「知識のより一般的な普及のための法案」を起草している。これは後に一部は実現したものの、実質的には議会に否決されている。この法案は、普遍的な道徳感覚を持つ人々がそれぞれ合理的な判断を下せば、必ず正しい結果が導かれるであろうというジェファソンの信念を表している。つまり、多数決の決定に絶対的に服従することが共和政治の基本原理であるが、人民を啓蒙して合理的な判断を下せるようにしなければ選挙や多数決は無意味であるとジェファソンは考え、共和制を健全に維持するためには教育の普及が不可欠であると結論付けたのである。また「専制政治を防止する最も効果的な手段」は、人民が歴史から教訓を得られるようにすることだと主張している。それは「人民を遍く啓蒙せよ。そうすれば、悪霊が夜明けに消えてしまうように専制と身体の抑圧は消えてしまうだろう」というジェファソンの信念に基づいている。
ジェファソンが提唱した公教育制度は次のような内容である。邦を24学区に分割し、各学区にラテン語、ギリシア語、国語、地理、数学を教える学校を設ける。さらに郡を地勢にしたがってハンドレッドに分割し、各ハンドレッドに読み書きや算数、歴史を教える学校を設ける。男女ともに3年間学費が免除される。貧困家庭の子弟を選抜し奨学金を支給する。ハンドレッドは直接民主制によって運営される最小の政治組織でもあった。
私権剥奪法
1777年、王党派のジョサイア・フィリップスという人物が一味を率いてヴァージニア南東部で略奪を行っていた。1778年5月、邦知事であったパトリック・ヘンリーはフィリップス一味を逮捕するように民兵に命じたが失敗に終わった。ヘンリーはジェファソンに私権剥奪法案の起草を依頼した。ジェファソンはヘンリーの依頼に応じて法案を起草し、5月28日に議会に提出した。
同法は、「通常の法廷における形式と手続き」による猶予があったために、フィリップス一味が善良な市民を殺害するにまかせたという根拠をもとに、もし規定日までに自ら出頭しなければ、「誰であれ許可の有無を問わず、先述のジョサイア・フィリップスとその一味を追跡し殺害することを合法とする」と宣告している。
5月30日、議会は全会一致で私権剥奪法案を可決した。フィリップスは同法が発効する前に逮捕されたために、12月に通常の裁判手続きの下に絞首刑に処せられた。ジェファソンが起草したこの私権剥奪法は法的根拠が非常に希薄であったと考えられる。後にジェファソンは、「この手続きが全く正しかったと私は納得しているし、よく考えれば考えるほどそれを確信する」と語っている。
ヴァージニア邦知事
イギリス軍のヴァージニア侵攻
1779年6月1日、ジェファソンはパトリック・ヘンリーの後任としてヴァージニア邦知事に就任した。独立戦争の最中、ジェファソンは1期目を全うし、再選された。
1780年12月末、27隻からなるイギリス艦隊がチェサピーク湾に襲来し、ベネディクト・アーノルド率いる900名のイギリス軍がヴァージニアの首府リッチモンドに迫った。1781年1月5日から6日にかけてイギリス軍はリッチモンドを占拠した。ジェファソンは、「すべての反逆者達の中でも最大の反逆者」であるアーノルドに対して、「最も厳しい判決」で以って報いるべきだと述べ、さらに彼を生け捕りにした者に報奨金を与えることを約束している。
ジェファソンに長年仕えた奴隷の回想によれば、ジェファソンはイギリス軍の大砲の音を聞くなり、馬で一目散に逃げてしまい、それ以後6ヶ月もの間、姿が見えなかったという。さらにその奴隷は、ジェファソンの奴隷達はイギリス軍に連行されたが、後にワシントンによってリッチモンドまで連れ戻されたと回想している。ジェファソンはいったんモンティチェロから逃れたが、家族をポプラー・フォレストに避難させてから1月26日、モンティチェロに戻った。
5月28日、ジェファソンはシャーロッツヴィルからワシントンに来援を要請している。ジェファソンの見積もりによれば敵軍は7000人に対し、ラファイエットが率いる守備軍は3000人であった。さらに制海権が握られていたために外部からの支援も望めないとジェファソンは訴えている。他にもイギリスに味方するネイティヴ・アメリカンの脅威もあった。ジェファソンはネイティヴ・アメリカンに局外中立の立場をとるように要請している。6月4日、イギリス軍の一隊がモンティチェロに襲来し、ジェファソンは危うく難を逃れている。
邦議会による審問
6月12日、邦議会は知事としてのジェファソンの一連の行動に対する審問を行うことを決議した。その結果、卑怯な振る舞いを裏付ける確証はないという調査報告がなされた。12月15日に邦議会は報告を認め、ジェファソンに対して感謝の意を表する決議を採択した。
イギリス軍のヴァージニア侵攻に対するジェファソンの一連の行動については次のような批判がある。第1に、事前に予測できたはずの侵攻に対して軍備を怠った。第2に、侵攻に直面して、公文書や軍需品を放棄して首都から逃れた。第3に、邦議会の弾劾から逃れるために辞任した。
一方、ジェファソン自身は辞任の理由について、戦時下では、軍司令官に行政権も委ねたほうが邦の防衛にとって有益であると考えて辞任したと弁明している。また知事の任期は1781年6月2日に切れていた。
ヴァージニア侵攻をめぐる批判は後々までもジェファソンについて回った。そうした批判を招く原因の1つとして、ジェファソンが危機に際しても、知事に与えられた権限を越える可能性がある措置を敢えてとらなかったことがある。仮にそうした措置をとっていたとしてもイギリス軍の侵攻を防ぐことはできなかっただろうと擁護する論がある。
いずれにせよ、ジェファソン自ら軍事に向いていないと認めながらも、イギリス軍のヴァージニア侵攻に抗し得なかったことはジェファソンの職歴において汚点となった。1781年、ジェファソンは知事に再々指名されたが、それを断っている。その代わりに邦議会議員に再び選出された。1782年5月20日の手紙の中でジェファソンは、「あらゆる政治的野心が完全になくなっているどうか、個人的な生活の範疇に戻ってしまった場合にひとかけらでも心に不安が残るかかどうかをよく問うてみた」とモンローに語っている。そして、自ら、「そうした情熱は一切合財、消えてしまっていることに満足した」という答えに至っている。州知事の職歴はジェファソン自身にとっても不本意な結果に終わったようである。
州知事を務める傍ら、ジェファソンはウィリアム・アンド・メアリ大学の学制の再編にも着手している。ヘブライ語、神学、古代言語の教授職を廃し、新たに解剖学、医学、法学、現代言語の教授職を設けた。
『ヴァージニア覚書』の執筆
1781年6月、モンティチェロからポプラー・フォレストに逃れていたジェファソンは落馬により負傷した。傷の回復を待ちながらジェファソンは、かねてより書き溜めていたヴァージニアに関する覚書を整理して『ヴァージニア覚書』の初稿を執筆した。
『ヴァージニア覚書』は一問一答形式を採っているが、それは本来、フランス公使館の書記官フランソワ・バルベ・マルボアから寄せられた質問に答えるという趣旨で書かれたからである。マルボアは、フランス政府からアメリカの各邦の様々な情報を集めるように命じられ、仲介者を経てヴァージニア邦に関する質問をジェファソンに送った。ジェファソンは質問をもとに「マルボアの要望に応じるために、そして自分自身が便利なように」覚書を整理した。1781年12月20日、ジェファソンはマルボアに足して回答を送っている。
それは後にいわゆる『ヴァージニア覚書』としてパリで私家版として200部出版された。そして、1787年にロンドンで、翌年にはフィラデルフィアで公刊された。パリで最初に出版されたのは、ジェファソン自身がパリに渡ったからであり、印刷費が4分の1という安価だったからである。印刷が仕上がるのを待っている時間は無かった。この『ヴァージニア覚書』は科学者としての名声をジェファソンにもたらした。しかし、ジェファソンは1785年に「奴隷制とヴァージニア州憲法に関する批評」はあまり公表して欲しくないと述べている。ジェファソンが懸念した通り、黒人に関する記述は、後にしばしば政治的攻撃の的になった。奴隷制反対派はジェファソンの人種的偏見を非難し、逆に奴隷制擁護派はジェファソンを危険な奴隷制反対派と見なした。
連合会議代表
聞き役に徹する
1783年6月6日、ジェファソンは連合会議のヴァージニア邦代表に選ばれた。しかし、ジェファソンは人前であまり演説しなかった。ある日、1人の代表がジェファソンに、「どうしてあなたはこんなにたくさんの異議を唱えるべき間違った論法を聞いていても沈黙を保って座っていられるのですか」と聞いた。するとジェファソンは、「異議を唱えることはまことに容易いが[相手を]沈黙させることはできない。私が提案する方策は、自分に課せられた義務として[議論を聞く]労を厭わないことです。概ね私は喜んで聞いています」と答えた。
連合会議へ提出した報告書
1784年、ジェファソンは連合会議に「通貨単位の確定に関する覚書」を提出した。それは、ドルを「我々の通貨と支払いの単位」とし、10進法を採用するように勧めている。
また1790年7月4日にジェファソンは「貨幣制度と度量衡に関する報告」を議会に提出している。当時、採用されていた複雑な計算を要する貨幣制度と度量衡を多くの人々が容易に使えるように改革するようにジェファソンは勧めている。特に度量衡については、将来、貨幣制度と同じく10進法を導入することを提言している。例えば1フィートを10インチ(12インチ)にし、1マイルを10ファーロング(8ファーロング)にするといった具合である。しかし、度量衡の改正については今に至るまで受け入れられていないのは周知の事実である。
また1784年3月1 日に「西部領地のための政府案に関する報告」を提出した。4月23日、報告は議会の修正を受けたうえで採択された。それは、オハイオ川とミシシッピー川の間の地域で暫定政府を樹立し、それをさらに正式な邦として昇格させる過程を規定している。つまり、北西部を共和制に基づき連邦制に組み入れる指針を示したものであった。また「西暦1800年以後、前述のいかなる邦においても奴隷制、および不本意な労役を禁じる」という条項も盛り込まれていた。この条項は連合会議によって削除されたが、北西領地に奴隷を連れて入植することを禁じる条項を含む1787年の北西部領地条令の先駆けと言える。
ジェファソンは新たに設けられる邦の名称候補として、シルヴェニア(現ミネソタ州北東部、ウィスコンシン州北部、およびミシガン州北西部)、ミシガニア(現ウィスコンシン州南部)、チェロネソス(現ミシガン州北部)、アセニシピア(現イリノイ州北部とウィスコンシン州南端部)、メトロポタミア(現ミシガン州南部、インディアナ州北端部、およびオハイオ州北端部)、イリノイア(現イリノイ州中部)、サラトガ(現インディアナ州中部)、ワシントン(現オハイオ州南部)、ポリポタミア(現イリノイ州南部とケンタッキー州西端部)、ペリシピア(現ケンタッキー州東部とインディアナ州南端部)などを挙げている。こうした区分は後の西部諸州の原型となった。
さらに1784年4月、ジェファソンは行政委員会の設置を提案している。連合会議は立法と行政を兼ねていたため、会議が休会中に行政機能を果たす組織が必要であった。ジェファソンの提案は採択され、各州の代表が集まって行政委員会が組織された。
行政委員会は指導者を欠いた組織で各代表が平等であり、意見の調整がうまくいかなかった。多くの委員達が職務をすぐに放棄したために、ジェファソンが提案した行政委員会は全く体をなさなかった。こうした経験は、行政府の長は複数よりも単数のほうが適切であるという考えのもとになった。
駐仏アメリカ公使
3度目にして実現した渡欧
1784年5月7日、ジェファソンはヨーロッパ諸国と通商交渉を行う使節に選ばれた。当時、アメリカ経済は海運と貿易に主軸を置いていたので、イギリスとの貿易途絶は深刻な打撃であり、新たな貿易相手国を探すことは非常に重要な外交課題であった。既にその任にあたっていたフランクリンとジョン・アダムズを助けるために連合議会はジェファソンの派欧を決定したのである。3度目にしてようやく実現した渡欧であった。
ちなみに1度目の機会は1776年10月8日である。その時、ジェファソンは任命を断っている。次いで2度目の機会は1782年11月12日である。今度は任命を受諾したものの、氷結のためにすぐに出港することができなかった。さらにその間に講和予備条約締結の報せが届いたため、任を解かれていた。
渡欧を決めた頃の心境をジェファソンは、「私はヴァージニア邦知事を辞職し、公的生活にはもう2度と戻らないという固い決意を持って退隠した。しかし、[妻の死という]家庭内の不幸が起り、暫くの間、心を解放して場を変えることが私にとって好都合だと思い付いたので、2年間に限り外交官の職を引き受けた」と語っている。
7月5日、ジェファソンは長女パッツィをともなってボストンを出港し、8月6日、パリに到着した。1785年3月、ジェファソンはフランクリンの後任として駐仏アメリカ公使に任命された。そのため、しばしば「フランクリン博士に取って代わったというのはあなたですか」と問い掛けられた。それに対してジェファソンは「誰も彼に取って代わることはできません。私は単に彼の後任者に過ぎません」と毎回返答したという。
1785年、プロシアとの通商条約締結交渉を行い7月に締結にこぎつけた。さらに翌年3月から4月末にかけてアダムズの要請に応じてイギリスを訪れ、外交交渉を支援したがあまり実を結ばなかった。この際、ジェファソンはジョン・アダムズとともに数多くの庭園を周遊し、詳細な記録を残している。例えばロンドン西郊のキュー国立植物園では、アルキメデスの揚水機について図入りでその仕組みを書き留めている。他にも各庭園の広さや土質、建築物の配置などが庭園にもたらす効果について詳細に検討を加えている。ジェファソンにとってイギリスの園芸は世界一素晴らしいものであった。しかし一方で、「かの国は我々を憎んでいる。かの国の大臣達は我々を憎んでいる。そして彼らの王は他の誰よりも我々を憎んでいる」と語っているようにジェファソンはイギリスからの敵意を強く感じていた。こうしたジェファソンの不信感は「イギリスの目的は、海洋を永久に支配することであり、世界貿易を独占することだ」と晩年にも述べているように終生ほとんど変わることはなかった。
バーバリ国家への対応
またこの頃、バーバリ(16世紀から19世紀にかけてのモロッコ、アルジェリア、チュニス、トリポリ)の海賊によってアメリカ船が拿捕され、船員が監禁されていた。ジェファソンは、「不法な海賊達に貢納金を支払うこと」を潔しとせず、ヨーロッパ列強が連携して事に当たるべきだと考えた。そして、各国の外交官に「海賊バーバリ国家との戦争に際した列強間の共同作戦提案」の締約を呼びかけている。それは、貢納金を支払うことなく海軍力を背景にして、バーバリ国家に安全航行を保証させることを最終目的としていた。しかし、こうした試みはジェファソンの滞欧中にほとんど実を結ぶことはなかった。
借款問題
次いで1788年、ジェファソンはアムステルダムの銀行家から借款の利子支払いについて通知を受けた。もしそれを支払うことができなければ新たな憲法の下に成立したアメリカの信用が著しく損なわれ、将来の資金調達が難しくなる恐れがあった。3月初め、ジェファソンはオランダのアダムズのもとに向かった。そして、アダムズと協議し、支払い方法を決定した後、パリに帰った。
通商交渉
さらに1788年11月14日、ジェファソンはフランスと改正領事協約を締結している。そして、アメリカ製品に対する関税の軽減を取り付けた。特にジェファソンが担当した業務は、「有利な条件でアメリカの鯨油、塩漬け魚、塩漬け肉を受け入れてもらうこと、ピエモンテ[現イタリアの1州]、エジプト、レヴァント[東地中海沿岸諸国]と同等の条件で米を受け入れてもらうこと、徴税請負人によるタバコの独占の緩和、そして、アメリカの製品に対して[植民地の]島々を自由解放すること」であった。こうした交渉においてジェファソンは、ラファイエットの助けを受けたことを感謝している。
その他にも、ジェファソンは「西インド諸島への参入が我々にとって不可欠である」と考えていた。そして、互恵主義を以って西インド諸島との交易権を獲得すべきだと主張しているが、滞欧中にそれを実現する機会はなかった。
フランス文化の愛好
自らを「アメリカの山中の野蛮人」と呼んだジェファソンはヨーロッパの文化をこよなく愛した。1787年2月28日から6月10日までアルルやニーム、マルセイユなど南仏とトリノ、ミラノ、ジェノヴァなど北伊を巡り、古代ローマ建築やワインの産地などを歴訪した。特にニームでは、メゾン・カレ(紀元後1世紀頃に建てられたローマ神殿)をまるで「恋人が情婦を見るようにまる数時間」も見つめていたという。他にも洗米機を見学したり、米の標本を持ち帰ったり、オリーヴを観察したりしている。この旅の様子は「南仏旅行ノート」に記録されている。
旅先からジェファソンはラファイエットに同行して地方の実情をつぶさに視察するように誘いかけている。ラファイエットに宛てて、1787年4月11日、次のような手紙をジェファソンは書いている。
「自国のすべての地方の実情を自らの目で確かめることは、大いなる慰めとなるでしょうし、あなたがそうして確かめたことは、将来、そうした地方の関心をひくことになるでしょう。今回は、あなたにとってそうした知識を得ることができる唯一の機会です。視察を最も効果的に行うためには、完全に身分を隠さなければなりませんし、私がしたように、人々を家から出して、彼らの釜を覗き、彼らが食べているパンを食べ、休みたいという口実を設けて彼らが寝るベッドに横になり実際にそれが柔らかいかどうかを見てみなくてはなりません。こうした視察を行っているうちに、あなたは崇高な喜びを感じるようになるでしょうし、彼らのベッドを柔らかくするために、または野菜しか入っていなかった釜に僅かばかりでも肉が入るようにするために、あなたが得た知識を活用できるようになれば、さらなる崇高な歓びを感じるようになるでしょう」
視察旅行
翌年3月3日から4月23日にかけてもオランダのアムステルダム、フランス北東部のストラスブールを訪れている。この時の様子は、「パリからアムステルダムおよびストラスブルグへの往還に関する覚書」にまとめられている。ジェファソンの関心の対象は非常に広く、開閉の際に雨が入りにくい窓の仕組み、雷を逃がす旗竿の構造、折りたたみ机の形状、堰堤で空船を引き上げる装置、跳ね橋の動き方、荷物運搬用の一輪車、建築物の外観、暖房の方法、磁器の刻印などありとあらゆることを記録している。特にワインについては製法、ブドウの品種、品質、生産量に至るまで克明に書いている。
ジェファソンは、旅においてアメリカにとって有用な事柄を仔細に視察することを勧めている。ジェファソンが挙げた視察対象は、農業、機械技術、製造業、庭園、建築、絵画・彫像、政治制度、法廷などである。
フランスの国民性
駐仏アメリカ公使としてジェファソンはオテル・ドゥ・ランジャックを公邸に定め、改築を行った。オテル・ドゥ・ランジャックは24室からなり、当時まだ珍しかった屋内トイレを備えた新築の建物であった。議会に改築費用を請求したが一部しか認められず、結局、費用の大部分は自腹を切ることになった。
またジェファソンは、ネッケル夫人やスタール夫人のサロンに出入りし、コンドルセやデュポン・ドゥ・ヌムールなどと交際した。
フランス人の国民性と国柄に関してジェファソンは次のように述べている。
「[フランス人よりも]慈愛に満ち、緊密な友情の中で温かさと情け深さを持つ国民を私は知らない。他所者に対するフランス人の親切さともてなしは比類なく、パリで受けた厚遇はこのような大きな町で思い描く以上のものであった。科学に卓越していること、科学的な関心を持つ人々と気軽に話せること、礼儀正しい一般的なマナー、そして、気安く活気に溢れた会話は他では見られない魅力をフランス社会に与えている。他国と比べれば、フランスが優れていることを証明できる。[中略]。フランスを旅したあらゆる国の住民に、あなたはいったいどこの国に住みたいと思うかを問うてみよ。きっと私自身は、友人、親類、そして私の人生の最初期の甘美な愛着と思い出がある場所[であるアメリカ]を選ぶ。しかし、もしあなたが2番目の選択肢を挙げるのであればどうか。それはフランスである」
ヨーロッパの文化を愛好する一方でジェファソンは、アメリカはヨーロッパよりも文化的に劣っていても、よい広範な政治的・経済的平等を達成し、資源に恵まれ、道徳的に優れていると考えていた。そうした考え方を持っていたために、ジェファソンはヨーロッパの上流階層に蔓延している奢侈や特権がアメリカの若者に悪影響を与えると指摘している。
また医学については若者がヨーロッパに赴いて学ぶ利点を認めているが、その他の学問については母国で学ぶほうがよいとジェファソンは勧めている。それは、母国で礼儀、慣習、道徳を身につけた人間のほうが母国で愛されるからである。
新たな憲法に対する意見
この当時、アメリカ合衆国は連合規約の下で連邦を形成していた。連合規約についてジェファソンは、「連合会議は人民に直接基づいて行動する権利を与えられておらず、連合会議自体の役人によって行動する権利も与えられていない。連合会議が持つ権限は要請を行う権限のみであり、道義的な義務より他に何ら強制も伴わずに、各邦に要請を実行するように伝えられるだけである」と欠陥を指摘している。特にジェファソンが欠陥だと見なしていた点は、何か問題が起きても、連合会議が各邦の通商を規制する権限を持たない点である。こうした欠陥を是正する必要があるとジェファソンは述べている。
しかし一方で、合衆国憲法の下で強力な中央政府を樹立する必要性を保守派に痛感させたシェイズの反乱に対して、ジェファソンは恐怖を抱くどころか、むしろ肯定的な評価を与えている。ジェファソンの考えによれば、それは、イギリスへの「反乱」であった独立戦争と同じく、人民の自由を守るための反乱だからである。
憲法制定会議は、ジェファソンが滞欧中の1787年5月25日から9月17日にわたって行われていた。11月初めに合衆国憲法案の詳細を知ったジェファソンは ジェームズ・マディソンに、「[私が憲法案に賛成できない]第1の点は、信教の自由と出版の自由をこじつけに頼ることなく明確に規定した権利章典が欠落している点、さらに常備軍の防止、専売の規制、永久不変の効力を持つ人身保護律、そして、国際法ではなく国法による審理が可能なあらゆることに関する裁判に陪審を認めることが欠如している点である」と1787年12月20日付の手紙の中で指摘している。
また第2の点として、ジェファソンは大統領の任期についても論じている。つまり、任期を7年とし、再任を認めるべきではないと主張している。大統領が終身任期に留まるようになれば、大統領職が世襲化される危険性も増大すると考えたためである。
権利章典の問題や大統領の任期の問題がありながらも、ジェファソンは最終的に、合衆国憲法が「かつて人類に示されたもっとも賢明なものであることは疑問の余地がない」ことを認めている。しかし、憲法批准をめぐる論争については、「私はフェデラリスト[憲法批准推進派]でもなく、反フェデラリスト[憲法批准反対]でもない」と述べているように局外中立の立場を保っている。
フランス革命を見聞
ジェファソンが帰国する直前、フランス革命が勃発した。ジェファソンはアメリカ革命が、フランスの知識層を「専制政治の眠り」から覚醒させたと指摘している。そして、「陽気で無思慮なパリは今や政治の坩堝」となり、「全世界は今や政治的狂乱」に包まれている。また、アメリカ独立戦争に参加した士官達、特にラファイエットのような人物がアメリカから新しい思想を持ち帰ってフランスに行き渡らせたとジェファソンは述べている。
1789年5月5日、ヴェルサイユで開かれた三部会をジェファソンは見ている。また7月14日のバスティーユ襲撃についても目撃者から直後に話を聞いている。その3日後の国王のパリ訪問はその目で直接見ている。ジェファソン自身は革命に伴う混乱を特に危険に思っていなかったようで、「私は我が家で、最も平穏な時と同じように全く静かに眠っていました」と友人に語っている。
公職に就く者としてジェファソンは、表立ってフランスの政治に関与することはなかったが、ラファイエットの叔母テセ夫人を通じて名士会の議事手続きについて助言を行っている。さらに第三身分の代表の1人であるラボー・ドゥ・サンテチエーヌとラファイエットに「人権宣言」案を送っている。
またジェファソンは7月20日に憲法起草委員会に参加を求められたが、公職にある者として自らの責務は自国に直接関ることに限るという理由で断っている。しかし、度々、名士会や三部会を足繁く傍聴しに行っている。
8月のある日、開明貴族の1人であるラファイエットはジェファソンに、話し合いの場として公邸を使う許しを求めた。ジェファソンの公邸でラファイエット達は王の拒否権や立法議会の設置などを話し合った。傍らで黙って議論の推移を見守っていたジェファソンはその様子を、「クセノフォン[ソクラテスの弟子の1人]やプラトン、そしてキケロによって我々に伝えられてきた古の最高の対話」に比肩する議論であったと賞賛している。
ジェファソンはラファイエットに代表される穏健的な改革派に好意的であった。中でも地方議会の設置については、「根本的な改善」であると高く評価している。ジェファソンの考えによれば、「人民によって選ばれた者は、過酷な法律の適用を緩和するであろうし、王に対して代表として意見を表明する権利を持てば、悪法を告発することができるであろうし、善法を勧め、[権利の]濫用を暴くこともできる」からである。
ジェファソンは、後年の流血については遺憾の意を示しながらも、1791年8月24日付の手紙の中で「世界中の苦しみつつある人間のために、この革命が樹立され、全世界に広がることを望みますし、また、そうなると信じている(富田虎男訳)」と述べているようにフランス革命自体は善であったと信じていた。また「フランス革命が長く続き、非常にたくさんの流血を要する」とはその当時、ジェファソンは全く思っていなかった。
ルイ16世と王妃マリー・アントワネット
ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの関係についてジェファソンは興味深い洞察を行っている。ジェファソンの考えによれば、ルイ16世が改革を主導することもできたはずだが、「彼の弱い精神と臆病な性質に絶対的な影響力を持つ王妃」の存在が、王自身による改革の障害となったという。
帰国
1789年10月22日、ジェファソンはアメリカに向けて出港し、11月23日にヴァージニア州ノーフォークに上陸した。5年半ぶりの祖国であった。帰国時に、ジェファソンがともなった荷物は78箱にも及び、輸送費だけでも約540ドルを要した。
荷物には、ワイン、各種の食物、調理器具、磁器、家具、絵画、時計、衣類、書籍、ヴォルテール、テュルゴー、ラファイエット、フランクリン、ワシントン、ジェファソンの像など非常に様々な物が含まれ、その総額は1万3000リーヴル(当時の換算レートで1850ドル相当、現在の価値では数百万円以上) にのぼった。特に書籍については、「一夏か二夏の間、仕事がない場合、すべての午後を主要な書店を調べ、私自身の手であらゆる本をひっくり返すことに費やした」ほどであった。
帰国の際、後から送るように指示した銀鍍金の馬具や馬車用のクッションが盗まれている。また同じく注文したはずのワインの一部も失われている。ジェファソンは帰国した頃はまさに革命の混乱の最中にあった。ジェファソンの公邸が強盗に襲われたために、窓や柵にベルを取り付けなければならなかったほどであった。
国務長官
就任を受諾
フランスから帰国した時、ジェファソンは10月13日付の ジョージ・ワシントン大統領からの手紙を受け取った。その手紙は、9月26日にジェファソンを国務長官に任命したことを伝える内容であった。ジェファソンは12月15日付の手紙で、革命の成り行きを見守るためにフランスにまた戻って、それ以後は公職から退きたい旨をワシントンに回答した。その回答を待たずしてワシントンから再度、11月30日付(ジェファソンが受け取ったのは12月23日以降)の就任要請の手紙が届いた。ジェファソンによると、ワシントンはもし国務長官職が合わないと思えば、駐仏アメリカ公使に戻ってもよいと約束したという。結局、ジェファソンは1790年2月14日に就任を受諾し、3月21日、ニュー・ヨークで国務長官に着任した。
国務長官の職務
国務長官としてどのような実務を担当するのかについては、当然のことながら、まだ先例はなかった。まずジェファソンは、外交関係の実務は大統領の専権事項であるという先例を確立している。革命フランス政府の駐米公使エドモン=カール・ジュネが議会との直接交渉を仄めかした時にジェファソンは、大統領こそ「我が国と諸外国の唯一の伝達経路であり、諸外国、もしくはその関係者が、何が国家の意思かを知ることができるのは彼1人からのみである」と返答している。
さらにジェファソンは、各州知事と書状を交わして州と大統領を媒介する役割を果たしている。それに加えて、当時はまだ司法省がなかったので、判事や執行官にも国務長官が書状を送らなければならなかった。
閣内対立の兆し
新しい憲法が成った今、憲法批准をめぐる政争は終焉し、連邦制度と共和主義の下で特に目立った政争は起きないだろうとジェファソンは当初、期待していた。しかし、そうした期待は、徐々に アレグザンダー・ハミルトン財務長官と「閣僚の中で毎日2羽の雄鶏のように闘う」ようになったことで打ち砕かれた。
ジェファソンはハミルトンが財務長官の地位を利用して不正な投機に関与しているのではないかという疑念を次第に深めた。また公債償還の方法についてジェファソンは反対するようになった。つまり、ハミルトンは公債の元来の所有者と公債の値上がりを見込んで買い漁った投機家を全く区別せずに償還を行おうとしており、それは多くの人々の反感を買うだろうとジェファソンは考えていた。
また外交方針をめぐってもジェファソンとハミルトンは衝突した。ジェファソンはイギリスに対して強硬姿勢を取るべきだと考えていたが、ハミルトンはそれに反対していた。
公債償還計画実現に一役買う
ジェファソンは初めからハミルトンと対立していたわけではなく、公債償還計画の実現に一役買っている。議会で公債償還計画が審議されていた時に、ジェファソンは「合理的な人間であれば、冷静に話し合い、相互の意見の違いをいくらか犠牲にすれば、妥協を結ぶことは不可能ではない」と考え、ハミルトンを晩餐会に招いた。1790年6月20日、ジェファソンにハミルトンの他にマディソン達数人の議員が招かれた。
ジェファソン自身は、「私はその妥協を進める役割を果たした他は何の関わりも持っていない。なぜなら私はそれを決定する状況に全く不案内だったからである」と述べている。
この晩餐会の結果、フィラデルフィアを10年間暫定首都にした後、ポトマック川沿いに恒久的な首都を設けるという案によって、南部の議員を懐柔することに成功し、ハミルトンの公債償還計画はようやく議会を通過した。公債償還計画に一役買った理由についてジェファソン自身は、「今、停止している政府の機能を再び作動させる」ために議員達に対する影響力を行使したと述べている。
外交問題
1790年12月28日、ジェファソンは地中海の情勢をまとめた報告をワシントンに提出している。これをもとにして数隻の戦艦が建造され、地中海に派遣されたが、バーバリ国家(16世紀から19世紀にかけてのモロッコ、アルジェリア、チュニス、トリポリ)の海賊からアメリカ船を守ることはできなかった。
さらに1792年5月29日、北西部領地に残留するイギリス軍の問題を解決するべく駐米イギリス公使に覚書を手交した。さらに1793年12月16日、ジェファソンは通商上の制裁を課すことで解決を図るように議会に提案したが実を結ぶことはなかった。
1793年4月、ヨーロッパ情勢の悪化の報がアメリカに届き始めた。4月19日、ワシントンは対応策を協議するために閣議を開いた。閣議でジェファソンは、中立の実施方法についてハミルトンと激しく議論を交わした。ジェファソンの考えでは、「我々の港から交戦国の製品、産物、船舶を締め出す」措置が適切にして望ましい選択肢であった。ジェファソンは即時に中立宣言を出すことに反対したが、結局、1793年4月22日、ワシントンは中立宣言を公表した。しかし、宣言の文面に「中立」という言葉を盛り込むべきではないというジェファソンの進言が採用され、「交戦諸国に対して友好的かつ公平である」という表現に留められた。さらにジェファソンは革命フランス政府の駐米公使ジュネを接受するようにワシントンに勧めている。すなわちそれは革命フランス政府を承認することであった。とはいえ後に、アメリカの中立を脅かすジュネの一連の行動が問題になった時は、ジュネの解職を求める文書をジェファソンは用意している。
このままでは中立宣言だけではなく、米仏同盟が破棄されるのではないかと危惧したジェファソンは、1793年4月28日付の「米仏同盟に関する意見書」でハミルトンに反論を試みた。それによれば、ハミルトンは、フランスが政体を確定させるまでいったん同盟を停止するべきだと論じ、さらに「米仏同盟を破棄するか、もしくは停止することは、中立を守る際に必要な措置ではないか」と主張したという。ハミルトンの主張に対してジェファソンは次のように反論している。
たとえ政体が君主制から共和制に変わろうとも条約遵守の義務がある。そして、実質的に遵守することができない場合は不道徳ではないし、自身に危険が及ぶ際は義務に縛られることはないが、個人が道徳律に基づいて契約遵守の義務を負うのと同じく、国家間の契約も遵守されなければならない。しかし、義務を放棄しても許される危険とは「深刻で、不可避であり、かつ甚大」でなければならない。米仏同盟は、アメリカに「深刻で、不可避で、かつ甚大」な危険を及ぼすようには思われない。もし「正当な理由、もしくは補償なし」に同盟を破棄すればフランスに宣戦布告の口実を与えることになる。「傷付けられた友は、最も手厳しい敵になる」であろうから、フランスを過度に刺激しないために米仏同盟は維持すべきである。ジェファソンはこのような論を、ハミルトンも引き合いに出したプーフェンドルフやグロティウスなどを援用しながら展開している。
さらにハミルトンが「パシフィカス」の筆名で中立宣言を擁護する記事を新聞に掲載し始めた。それに対抗してジェファソンは自ら筆をとることはなかったが、マディソンに「ヘルヴィディウス」の筆名で反論を展開させた。それは、平和状態か戦争状態を決める権限は議会にあるので大統領にはそうした状態を決定する権限はないというジェファソンの立場を如実に示している。
通商問題
1791年2月1日、「捕鯨産業に関する所見」でジェファソンは捕鯨産業の重要性を述べている。その当時、鯨油は照明による消費に加えて、製造業に原材料として用いられていた。しかし、国際競争が激しいために鯨油の価格は下落し、アメリカの捕鯨産業は打撃を被っていた。特にイギリスは自国の捕鯨産業に助成金を与えることでアメリカに代わってシェアを著しく拡大し、他国の捕鯨業者を圧迫しているとジェファソンは分析している。このままではイギリスとの競争に敗北することは必至であるから「何らかの救済策が必要である」と訴えている。もし救済策を講じなければ、イギリスに市場を独占され、終には「敵から必需品を受け取らざるを得なくなる」とジェファソンは危機感を示した。救済策としてジェファソンは「第1に、[アメリカが輸入品購入の]支払いにあてる製品の専売や禁制を撤廃するか、できる限り緩和する。第2に、主要産業が新規顧客の需要や性質に応じることができる仕組みとなるように促す」ことを提言している。
こうした「捕鯨産業に関する所見」に加えて、1793年12月16日付で、ジェファソンは「合衆国の外国交易における特権と規制に関する報告」を記している。その中でジェファソンはアメリカの貿易における問題点を挙げている。第1に、ヨーロッパ各国は、アメリカ産の穀物、タバコ、インディゴ、塩漬け魚、鯨油などに高い関税や禁制を課している。第2に、アメリカは西インド諸島と自由に交易することができない。第3に、アメリカ船が自国の製品をヨーロッパに持ち込もうとすれば、高い関税を課せられるか、もしくは持ち込みを禁じられる。こうした貿易上の不利を、自由貿易主義と互恵主義で以って是正すべきだとジェファソンは提唱した。
こうした提案にも拘らず、アメリカの産品に高い関税を課したり、禁制を課したりする国に対しては、アメリカもその国の産品に対して同様の措置で以って報いればよいとジェファソンは論じている。
民主共和派の形成
1791年10月31日、フィラデルフィアでフィリップ・フレノーがナショナル・ガゼット紙を創刊した。ジェファソンはフレノーを翻訳官として雇用した。一方で、アレグザンダー・ハミルトン財務長官はガゼット・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ紙のジョン・フェノを後援した。両紙は激しい論戦を繰り広げた。
ジェファソンは自ら表立ってハミルトン非難の先頭に立つことはなかった。なぜなら新聞に文章を掲載しないという固い信条がジェファソンにあったからである。その信条は、1つ1つ記事にいちいち反論する時間を割くよりは、国民の判断に任せたほうがよいという考え方に基づいている。しかし、多くの人々はジェファソンをマディソンとともに反ハミルトン派、つまり民主共和派の代表だと目するようになった。両者は1791年5月から6月にかけてニュー・イングランドを旅して反連邦派の支持を固めている。
1791年の初め頃から手紙の中でジェファソンは「株の仲買人と王の仲介人」を含む一派の存在について言及していた。民主共和派と連邦派が形成される主な契機となった問題は第1合衆国銀行設立であり、ジェファソンは、ワシントンがハミルトンに騙されていたと主張している。
建国の父祖達の考えでは、政党や党派は決して好ましい存在ではなかった。むしろ、そのような存在がなくても政治を行えるはずだという考えていた。ジェファソン自身もそうした考え方を持っていたが、「あらゆる自由で議論が活発な社会において、人間の本質から、対立する政党、荒々しい意見の衝突、仲違いが生じるに違いない」と次第に「政党」の存在を認めるようになった。もちろんこの「政党」は、現代のように明確な組織を伴ったものではなく、個人的な紐帯に基づく「党派」に近い存在であった。
第1合衆国銀行めぐる論争
1791年、ワシントンは閣僚に第1合衆国銀行設立の合憲性について意見を求めている。それに応じてジェファソンは「合衆国銀行の合憲性に関する意見書」を提出し、憲法修正第10条の規定、すなわち「本憲法によって合衆国に委任されず、また各州に対して禁止されなかった権限は、各州それぞれに、あるいは人民に留保される」という規定に基づき合衆国銀行が違憲であると論じた。つまり、合衆国銀行に特許を与える権限は憲法によって合衆国に委任されていないので、その権限は各州に存するという考えがジェファソンの論の要点である。さらにジェファソンは、連邦政府が権限を行使する場合は、利便性ではなく、本当に必要性があるかでその合憲性を問わなければならないとした。こうした論拠に基づいて、ジェファソンは、もし合衆国銀行設立法案に違憲性を認めるのであれば、拒否権を行使するべきだとワシントンに助言した。
一方、ワシントンからジェファソンの意見書を受け取ったハミルトンは、「合衆国銀行特許法の合憲性に関する意見書」を提出し、ジェファソンの意見に反論した。ハミルトンは、連邦政府は憲法によって規定されている権限を行使するために必要となるあらゆる手段を用いることができるという「黙示的権限」の原則に言及し、合衆国銀行設立は合憲であると結論付けている。
こうしたジェファソンとハミルトンの論争は主に書面で行われたので、当時、その詳細を知るのは2人の他は大統領のみであり、1807年に ジョン・マーシャルの『ジョージ・ワシントンの生涯』が出版されるまで公には知られなかった。結局、ワシントンはハミルトンの意見を採用し、2月25日、合衆国銀行特許法案に署名した。
農本主義
民主共和派と連邦派はよく次のように対比される。民主共和派は南部諸州の農園主を支持基盤として立法府と州権の尊重、農本主義、親仏姿勢などを標榜する。一方、連邦派は、ニュー・イングランド地方の商人を支持基盤として強力な中央政府、中央銀行の設立、製造業の振興、公債償還、親英姿勢などを標榜する。
特に農本主義についてジェファソンは、自作農を中心にした農業こそ最も大事な産業であり、工業はヨーロッパに任せておけばよいと考えていた。農民は「最も価値ある市民」であり、また「最も活発で、最も独立心に富み、最も高潔」であるから農業で事足りる限り、農民をその他の職業に就けることは望ましくないとジェファソンは早くから主張している。
しかし、1801年12月8日の第1次一般教書で「農業、製造業、商業、そして海運業は我々の繁栄の4本の柱であり、最も自由に個人企業に委ねられた時に活況を呈します」と述べているようにジェファソンは完全な農本主義者というわけではなかった。例えば「製造業の精神」は国民の間に既に深く根付いているので、それを放棄しようとすれば「多大な犠牲」を要するとも後に述べている。つまり、「4本の柱」の中でも最も農業を重視すべきであり、投機に興ずる一部の少数者の利益を重視するのではなく、堅実な暮らしを営んでいる多数者の利益を重視すべきだという理念をジェファソンは持っていたのである。
またジェファソンの農本主義は、『ヴァージニア覚書』で「もし神が選民をもつものとすれば、大地に働く人々こそ神の選民であって、神はこれらの人々の胸を、根源的な徳のための特別な寄託所として選んだのである」と述べているように道徳的な意味合いが強かった。こうした考えは晩年に至るまで変わることはなく、1816年6月20日付の手紙で「わたしは無制限な商業と戦争を好む州には脱退してもらって、平和と農業を好む州とだけ連合することを望んでいます(清水忠重訳)」と語っている。
筆禍事件
1791年に、ジョン・アダムズとの友好関係を損なう事件が起きた。それは、トマス・ペインが『人間の権利』を発行した際に、前文としてジェファソンの文章を無断で掲載したことがきっかけであった。ジェファソンはそれを見て「ひどく驚かされた」という。その文章の中には、ジョン・アダムズを「政治的異端」と呼んだ部分があった。ジェファソンは、何事も起きずに済むように願っていたが、「プブリコラ」という署名で『人間の権利』を批判するだけではなく、その支持者としてジェファソンも名指しで非難する文章が、6月から7月にかけてコロンビアン・センティネル紙に掲載された。
その後すぐに、『人間の権利』を擁護し、プブリコラは実はアダムズであると見なして批判する論者が現れた。そのためジェファソンとアダムズは「対立者」であるかのように見られるようになった。しかし、実際にプブリコラという署名で文章を書いたのはアダムズ自身ではなく、アダムズの息子ジョン・クインシー・アダムズであった。
一連の報道を受けて、ジェファソンは7月17日、アダムズに弁明の手紙を書いている。政治思想の違いはあるにしろ、お互いにその動機が純粋であるとよく分かり合っているとジェファソンはアダムズに訴えた。アダムズがすぐにジェファソンの弁明を受け入れたため、筆禍事件は深刻な事態に陥らずに済んだ。
辞任
1792年5月23日、ジェファソンはワシントンに宛てて政策上の意見を述べた書簡を送っている。ジェファソンは次のように主張している。投機家が公債で得る利子は「国民のポケット」から支払われている。さらに資本を「賭博台」に振り向けることは不毛である。それよりも商業や農業に振り向けるべきである。投機は市民の勤勉さと道徳を損ない、怠惰と悪徳を生む。さらに議会も腐敗させられるだろう。その究極的な目的は、「現在の共和政体から、イギリスの君主制をモデルにした君主政体に移行する」ことなのである。こうしたジェファソンの非難は、もちろん主にハミルトンに対して向けられていることは明らかである。またこの手紙の中でジェファソンは、「あなたが舵取りをすることは、どの派の人々も不安に陥らせ、暴力か脱退かに導くあらゆる議論に対する答え以上のことになります。もし彼らがあなたを続投させるのであれば、北も南も団結するでしょう」とワシントンに続投を勧めている。
ワシントンはジェファソンとハミルトンの対立を仲裁しようと1792年8月に2人にそれぞれ手紙を書いた。それに対してジェファソンは9月9日にワシントンに返書を送った。返書の中でジェファソンは「私は財務長官に騙され、彼の陰謀を進める道具にされました。その時は十分よく分かっていませんでした。私の政治人生のすべてのあやまちの中でもこれは最大の後悔です」とはっきり述べ、ワシントン政権の第1期終了とともに辞職する意向を示した。さらにハミルトンへの攻撃は続く。ハミルトンは、財務省の影響力を議員に及ぼして共和制の原理を覆そうとしている。さらに憲法の原理を徐々に蝕もうと企んでいる。これだけに留まらず、「あるアメリカ人」の名を使って公然と名指しでジェファソンを非難したという。このようにジェファソンはハミルトンの非難を1つ1つ取り上げて反論を試みている。
ジェファソンは、ワシントンにハミルトンの「陰謀」を告げただけにとどまらず、ウィリアム・ジャイルズ連邦下院議員による決議の起草にも関与している。それは、違法に資金を動かした容疑でハミルトンを弾劾する決議であった。
結局、ジェファソンとハミルトンの溝は埋まらず、ジェファソンは1793年7月31日、ワシントンに辞表を提出した。12月31日、ジェファソンの辞任が確定した。後年、ジェファソンは、ワシントンとの意見の違いは、「私が彼よりも人民が生まれながらに持つ品位や思慮を信頼した」点にあると述べている。
このように自身が閣僚から去ったとはいえ、この頃に確立した閣僚制度についてジェファソンは後に、「大統領は閣僚の叡智と情報の恩恵を受け、彼らの意見を集約することができ、政府のすべての部門で統一した行動と管理ができる」と肯定的に評価している。さらに大統領と閣僚の関係については、「大統領はそれぞれの意見や判断を冷静に聞き、追求すべき進路を決定し、扇動に惑わされることなく政府を常に安定させなければならない」と述べている。
退隠生活
1793年12月31日、ジェファソンの辞任が確定した。その後、ジェファソンはモンティチェロに退隠した。「私は困難が好きではありません。私は静謐を好み、義務は進んで果たすとはいえ、中傷に過敏であり、それによって職を放棄せざるを得なくなりがちです」と自ら語ったことがあるように、ジェファソンは批判の矢面に立つのを避ける傾向があった。
モンティチェロでジェファソンは農園の管理に勤しんだ。長期間の不在のために農園が「非常に荒れた」ので収穫物の利益はあまり見込めなかった。そのため「当座の資金」を稼ぐために釘製造が行われた。この釘製造は最低でも10数人の人手を要する事業であったが、結局、それほどうまくいっていない。
1794年9月、ワシントンはジェファソンにスペインへ特使として赴くように勧めたが、それを拒否している。ジェイ条約をめぐって民主共和派の不満が高まった時、ジェファソンは表立った動きはとっていないものの、ジェイ条約を親英的で党派的な偏向がある条約であり「違憲」であるとみなしていた。ジェイ条約は、ジェファソンやマディソンの通商政策を根本から覆すものであった。そのためジェファソンは、大統領が条約を認めた後でも、議会が「憲法上、無効」の故を以ってそれに反対すべきだと示唆している。
副大統領
1796年の大統領選挙
ジェファソンは「野心の欠片もない」と自ら述べているように、当初、次の大統領選挙では、マディソンが民主共和派の大統領候補として適任であると考えていた。退隠生活で、「私の農園、私の家族、そして私の書籍」を十分に楽しみ、「それらの枠を超えることに首を突っ込まないと決意した」からである。また「若い時に持っていたちょっとした野心ももはや消えうせた」とジェファソンは言っていた。しかし、また「真の正義の風下に流され過ぎる前に、[アメリカという]船を共和主義の針路に戻さなければならない」と述べているように次第に公職への復帰を考えるようになった。ワシントン政権下で連邦政府は、ハミルトンを中心とする「反民主共和派」の手に落ちたとジェファソンは固く信じていた。
結局、1796年の大統領選挙でジェファソンは、ジョン・アダムズに次ぐ68票を獲得した。アダムズとは僅かに3票差であった。ジェファソンにとって、それは予想以上の得票であったらしい。ジェファソンが票を得た州は、ジョージア、ケンタッキー、メリーランド、ノース・カロライナ、ペンシルヴェニア、サウス・カロライナ、テネシー、ヴァージニアであり、ニュー・イングランド地方ではほとんど票を得ることができなかった。しかし、ヴァージニアとペンシルヴェニアでは、アダムズの1票に対して20票と14票を得ている。「ペンシルヴェニアの票を求めよう。そうすれば全体を恐れる必要はない」とジェファソンはマディソンに語っている。
ジェファソンは、アダムズを「ハミルトンの権力掌握に対する唯一の確かな防壁となる」人物だと考えていた。惜しくも大統領の椅子は逃したものの、アダムズとの連携は次善の策として悪い策ではなかった。それ故、ジェファソンは副大統領職を辞退しなかった。とはいえ、副大統領職はジェファソンにとって「名誉であり簡単」であったが、「非常に苦痛」でもあった。
当時、「政党」は明確に存在していなかったが、ジェファソンは民主共和派、アダムズは連邦派と考えられていた。つまり、1796年の大統領選挙では、異なる「政党」から大統領と副大統領が選出されるという結果となった。現在では、憲法修正第12条によって、異なる政党から大統領と副大統領が選出されることはない。
「議会運営の手引き」をまとめる
1797年3月4日、フィラデルフィアでジェファソンは副大統領に就任したが、それ以後、任期の大半をモンティチェロで過ごしている。
副大統領としてジェファソンが果たした最も重要な職務は上院で議長を務めることであった。そうした職務は1801年2月、「議会運営の手引き」にまとめられ印刷された。それはジェファソン自身の考えを表したというよりも必要な事柄を編集したものであったが、今でも上院で参考にされている。
マッツェイ書簡
1797年5月、ジェファソンが隣人であったイタリア人フィリップ・マッツェイに宛てた書簡がアメリカで公刊された。それは先にフレンツェの新聞で公表された書簡であった。1796年4月24日付けの手紙の中でジェファソンは、連邦派を「イギリスの君主的かつ貴族的な党派」であり、「その公然とした目的は、もう既に実現しつつあるが、実質的に我々をイギリス政府側に引き込むことである」という非難をはじめ、ワシントン政権を批判する内容が含まれていた。連邦派の新聞は、ジェファソンを「中傷者」、「虚言者」、「刺客」などと呼んで非難した。
この書簡はジェファソンとワシントンの仲を著しく傷付けた。それ以後、ワシントンが亡くなるまで2人は全く手紙を交わしていない。当時、ジェファソンは沈黙を守ったが、後年、公刊された文章とオリジナルの手紙の文章の一部が異なっていたと弁明している。
XYZ事件
「XYZはマーシャルによるでっちあげ」と語っているように、ジェファソンにとってXYZは、人々を騙して扇動するための連邦派の「陰謀」に過ぎなかった。そして、民主共和派が、司法長官チャールズ・リーによって「フランスの殺人的なジャコバン主義者」と同一視されたと憤っている。
フランスとアメリカの衝突に際してジェファソンは、フランスへの特使に選ばれたエルブリッジ・ゲリーに1799年1月26日付の手紙で「フランスの侮辱は甚だしいものだとは感じますが、戦争がそうした侮辱を正す確かな手段だとは私は思いません。平和を保持しようと心から望む使節こそ我々に平和で名誉ある解決と報いをもたらすでしょう」
ケンタッキー決議
1798年、アダムズ政権下で導入された外国人・治安諸法に対してジェファソンは権利章典を損なう法律だと考えた。また同法は民主共和派を攻撃する目的が含まれているとジェファソンは信じていた。そうした法律を認めようとする上院の議長を務めずにすむように、6月27日以後、モンティチェロに引き篭もった。連邦派は、フランスとの戦争を忌避するジェファソンを裏切り者と激しく非難した。
ジェファソンは、「もう少し辛抱していれば、魔女達の支配が終わるのを見ることができる」し、「再び政府を正義に立ち返らせる日」が来ると考えた。「外国人・治安諸法は南部でXYZ熱を冷ます強力な薬として既に作用している」と信じていたからである。
10月、ジェファソンはマディソンと協力して密かに外国人・治安諸法に対する反撃の狼煙をあげた。ジェファソンは匿名でケンタッキー決議の草案を書いている。ジェファソンがケンタッキー決議を起草したことは長い間、内密にされ、それが判明したのは1821年であった。当時、もしジェファソンが起草したことが露顕していれば、扇動罪、最悪の場合は反逆罪で弾劾される恐れがあったとデュマス・マローンは指摘している。
また当時、ワシントンも危惧したように、各州がそれぞれ独自に連邦法を適用するかどうかを判断するようになれば、連邦の解体をまねく可能性があった。もしそうした事態に陥れば、ケンタッキー決議は外国人・治安諸法に劣らず「自由に対する大きな脅威」となっていたかもしれないとギャリー・ウィルズは指摘している。
ケンタッキー決議の草案でジェファソンは、外国人・治安諸法が憲法修正第10条の「本憲法によって合衆国に委任されず、また各州に対して禁止されなかった権限は、各州それぞれに、あるいは人民に留保される」という規定に反していると主張している。そして、外国人・治安諸法の制定は合衆国に委任されていない権限に属するので無効である。つまり、ジェファソンは、連邦政府は憲法によって規定されている権限を行使するために必要となるあらゆる手段を用いることができるという「黙示的権限」を明確に否定している。さらに合衆国憲法は各州の「契約」に過ぎないので、連邦政府が定める法律について、各州はそれが正しいかどうかを「判断する平等な権利」を有し、もし間違っていると判断した場合は、その法律を「無効にすることが正しい救済策」であると訴えた。各論の詳細は以下の通りである。
連邦政府や連邦議会、または大統領に対する中傷や名誉毀損を行った者を処罰することを認めた治安法は、連邦議会は言論および出版の自由を制限する法律を制定することはできないと謳う憲法修正第1条に反する。
また、危険だと見なされる外国人を国外退去させる権限を大統領に与える外国人法Alien Actは、憲法第1条第9節1項の「現在の諸州中どの州にせよ、入国を適当と認める人びとの来往および輸入に対しては、連邦議会は1808年以前においてこれを禁止することはできない」という規定に反している。
さらに、交戦期間中、敵国人を検挙し収監することを認める敵性外国人法は、「正当な法の手続き」を保障する憲法修正第5条と陪審と弁護を受ける権利を保障する修正第6条に違反する。さらにそれは、合衆国の司法権が司法部に存することを謳う第3条第1節にも違反している。
このように外国人・治安諸法の違憲性を述べたうえで、ジェファソンは「もし入り口で[外国人・治安諸法が]阻まれなければ、[対象となった]これらの州を必ず革命と流血に陥らせることになり、共和政治に対する新たな災厄をもたらす」と危機感を露にしている。そして、「どこであれ[為政者の]過信は専制政治の生みの親であり、自由な政府は過信ではなく[憲法に基づいた]不断の配慮に基づく」と警句を述べている。
ケンタッキー州議会は決議案を審議した。主な変更点は、州の権利を侵害する法律の実施を拒否する項目を削除した点である。1798年11月16日、この決議は州知事の署名を受けて正式に成立し、各州に送付された。
ケンタッキー決議とヴァージニア決議でジェファソンが期待したことは、「巧妙な策略」によって眠らされた「1776年の精神」を喚起し、「国民の目を開かせる」ことであった。さらに、「巧妙な策略」から免れて、フランスが心から平和を望んでいることを国民が理解することであった。
ところがケンタッキー決議とヴァージニア決議に対する諸州の反応は期待通りのものではなかった。そのためジェファソンはさらに「連邦から脱退すること」も辞さないとする急進的な草案を準備した。マディソンはそれが内包する危険性を指摘し、ジェファソンをようやく思い止まらせた。
初めての政党選挙
1800年の大統領選挙は、武力によらずして政権交代を成し遂げたとして高く評価されている。またアメリカの政党政治が始まった年とみなされる。連邦派は、ジェファソンに対して、フランス革命の過激派と繋がりがあるという批判を行ったり、無神論者であるという非難を浴びせたりした。1800年の大統領選挙は議員幹部会で大統領候補を初めて選んだ選挙である。投票の結果、選挙人の獲得票数がジェファソンと アーロン・バーで同数となって決選投票が初めて行われることになった。本来であればジェファソンが大統領候補であり、バーが副大統領候補であったが、バーは譲歩しなかった。その頃の憲法上の規定には、大統領候補と副大統領候補を明確に区別する規定がなかった。
決選投票
1801年2月11日、憲法第2条第1節第2項の「過半数を得た者が二名以上に及びその得票が同数の場合には、下院は秘密投票により、そのうちの一名を大統領に選任しなければならない」という規定にしたがって連邦下院で決選投票が開始された。各州がそれぞれ1票を投じ、全体の過半数、つまり、16票のうち過半数である9票を占めれば大統領に当選される。各州がどちらに票を投ずるかは、州選出議員の多数決によって決定された。
ジェファソンが、ニュー・ヨーク、ニュー・ジャージー、ペンシルヴェニア、ヴァージニア、ノース・カロライナ、ジョージア、ケンタッキー、テネシーの8州を押さえていたのに対し、アーロン・バーはニュー・ハンプシャー、マサチューセッツ、ロード・アイランド、コネティカット、デラウェア、サウス・カロライナの6州を押さえていた。残りの2州、ヴァーモントとメリーランドでは、州選出議員の票数が均衡し、両者ともに票を獲得することができなかった。
連邦派は上院議長に大統領の職務を代行させようと考えるようになった。ジェファソンはその案に対して ジョン・アダムズ大統領に拒否権を行使するように求めた。しかし、アダムズは事態に介入することを断った。過激な民主共和派の中には、もしジェファソンが大統領の座に就けないのであれば武力蜂起を厭わないと仄めかす者さえいた。連邦解体の危機を未然に防止するためにジェファソンは憲法修正会議の開催を一時、検討していた。
幸いにも2月17日の36回目の決選投票でようやくジェファソンの大統領当選が確定した。それは、ヴァーモントとメリーランドでそれぞれバーを支持する議員が棄権したために均衡が破れ、両州の票がジェファソンに投じられたためである。このようにして1801年2月の危機は回避された。
ワシントン初の就任式
ジェファソンはワシントンで就任式を行った最初の大統領である。1801年3月4日の就任式当日は晴天に恵まれた。10時になると、儀仗兵に囲まれたジェファソンはコンラッド夫人の寄宿舎から歩いて国会議事堂に向かった。官職を示すものは特に身に付けず、一般市民の装いであった。
ジェファソンを迎えた議会場は1000人以上の人々で埋め尽くされ、立錐の余地もないほどであった。その当時、国会議事堂は、北翼が完成しているだけで中央部分は完成していなかった。上院議長席に座っていたアーロン・バーはジェファソンを迎えて席を譲った。それから短い間をおいて、就任演説が始まった。しかし、ジェファソンの声は低く小さかったので、すぐ横に控えていたマーシャルとバー以外に聞き取れた者はほとんどいなかったという。
就任演説が終わった後、 ジョン・マーシャル最高裁判所長官によって宣誓式が執り行われた。ちなみに前大統領のジョン・アダムズは就任式に出席していない。式がすべて終わると祝砲が鳴り響いた。そして、ジェファソン一行はコンラッド夫人の寄宿舎に戻った。
ジェファソン自身は民主共和派と連邦派という2つの派閥は既に「ほぼ完全に1つに融合している」と感じていた。
1805年3月4日の就任式は、1期目と同じく上院会議場で行われた。今回もマーシャルが宣誓を執り行った。その夜、大統領官邸のイースト・ルームで祝賀会が開かれた。
就任後、4週間も経たずしてモンティチェロに帰り、約1ヶ月間滞在した。以後、22ヶ月間に3回、あわせて約8ヵ月間、ジェファソンはモンティチェロに滞在している。
1800年の革命
1800年の大統領選挙は「1800年の革命」と呼ばれることが多い。トマス・ジェファソンはそれを、「1776年の革命が政府の形体上の革命だったように、それは政府の原理上、真の革命でした。それは剣によって達成されたのではなく、理性的かつ平和的な改革の手段、すなわち人民の投票によって達成されました」と説明する。ジェファソンにとって「1800年の革命」は「第2のアメリカ革命」であった。さらにアメリカという広大な領域に共和制を樹立するという「実験」は、ジェファソンにとって「共和政ローマ時代以来、全く例を見ない」ものでもあった。ジェファソンの理念はアメリカだけにとどまらず、「我々自身のためだけに行動するのではなく、全人類のために行動している」と述べているように全人類をも対象にしている。それは当時のアメリカの使命感を如実に示している。
従来、トマス・ジェファソンは弱体な行政府を望み、「黙示的権限」の合憲性に対して疑義を唱えていた。ジェファソンの考えによると、各州はその領域内で大幅な権限を保持し、連邦政府は専ら外交と通商問題を担うようにするべきであった。そうすれば連邦政府を「非常に簡素な組織」にとどめることができ、僅かな職員と費用で済ませることができると大統領になる少し前にジェファソンは語っている。
それにも拘らず、「 ハミルトンの金融制度を我々は取り除くことはできない」として、トマス・ジェファソンは自らが設立に反対していた第1合衆国銀行の特許を取り消していない。とはいえ、州立銀行の設立を後援することで合衆国銀行の相対的な地位を低下させている。つまり、ジェファソンは、州債と国債を一本化し、忠実に返済することで国の信用を高め、通商を奨励するという、これまでの基本政策を継承したのである。また熱烈な民主共和派の中には、急進的な憲法修正を通じて「1800年の革命」を制度化すべきだと唱える者が多かったが、ジェファソンはその圧力に屈しなかった。そのため「革命」と言えるほどの政策上の大きな変化はなかったと多くの歴史家は指摘している。しかし、連邦派政権から民主共和派政権へ血を流さずして政権交代が実現したという点では高く評価されている。
財政の健全化
公債償還計画
トマス・ジェファソン大統領は、財務省の改革、減税、公債償還、政府の効率化という4つの方針の実現に努めた。まず関税収入で公債償還や歳費が十分まかなえると考えて、すべての内国税の即時廃止を行った。その結果、内国税の徴収官が不要になり、財務省の規模拡大が抑えられた。
アルバート・ギャラティン財務長官は、歳入の約4分の3を利子と元本の支払いにあてて1817年までにすべての公債を償還する計画を立案した。ジェファソン大統領はこの計画を推進した。その結果、8600万ドルの公債を4600万ドルまで減少させることに成功した。
また「合衆国の会計は普通の農民の会計のように単純であることが望ましく、またそうあるべきであって、普通の農民も理解できるものでなければならない」という理念に従ってトマス・ジェファソンは、ギャラティンに会計方式を簡潔化するように求めた。あらゆる人々が会計を理解することにより、「不正使用を調べることができ、ひいては不正使用を抑えることができる」とジェファソンは述べている。またジェファソンは、政府の経済への介入を特定の利益集団を利する不正な手段であると見なしていた。
民兵への信頼
またトマス・ジェファソン大統領は陸軍、海軍、外交団の規模の縮小を提言している。陸軍は1796年のレベル、つまり1砲兵連隊と2歩兵連隊の規模に戻された。さらに海軍に関しては、後のトリポリ戦争時は歳出が増大したとはいえ、1802年の歳出は1801年に比べて約半分程度にまで削減されている。
常備軍が削減されても民兵という組織があればアメリカの安全は保たれるとトマス・ジェファソンは信じていた。第1次一般教書でジェファソンは、常備軍の数がたとえ不十分であっても「侵略してきた敵の数に応じて」民兵を招集し、「最初の攻撃に対抗するだけではなく、もし侵略が長引く恐れがあれば、正規軍が彼らに代わって戦いに従事するまで防衛を維持できればよい」と論じている。ジェファソンにとって「よく組織化され、武装化された民兵は最善の防衛手段」であった。
新しい慣例
接見会の廃止
トマス・ジェファソン大統領は、貴族的であるとして ジョージ・ワシントン大統領が導入した大統領の「接見会」を廃止した。さらに誕生日を祝って開催される舞踏会、感謝祭のような記念日を指定することなどを取り止めている。しかし、一方で議会の会期中は連日、午後3時半から8時まで晩餐会が行われた。晩餐会には8人の議員と1人の閣僚が交替で招かれた。そうした晩餐会では席次を平等にするために円卓が使われ、着席の順序も従来とは異なり自由であった。招待状は大統領名義ではなく単に「Th.
ジェファソン」名義で発行された。こうした非公式な晩餐会は大統領が議員達に政策を伝える有効な手段として作用した。
儀礼は簡略化されたものの、食事の内容は凝っていた。8名から10名の給仕によってフランス料理やイタリア料理が供せられた。そうした料理の中にはパンケーキやマカロニなど当時のアメリカ人にとってはまだ珍しい品目も含まれていた。こうした晩餐会の費用は莫大な額にのぼり、ジェファソンは大統領の年俸2万5000ドルのほとんどを使い果たしている。
また1801年7月4日にトマス・ジェファソン大統領はホワイト・ハウスで祝賀会を行い、1000人以上と握手を交わしている。それまでの慣習では、大統領は堅苦しくお辞儀をするのみであったので、それは全く新しい慣例であった。こうした祝賀会は年に2回、元旦と独立記念日に行われ、誰もが参加することができた。こうした様子を前任者のアダムズは、「私は接見会を週に1回行ったが、ジェファソンは丸8年間が接見会だった」と評している。
メリー問題
1803年11月28日、駐米イギリス公使アンソニー・メリーは ジェームズ・マディソン国務長官に伴われて大統領公邸に向かった。大統領に謁見するためである。謁見を控えてメリーは外交官の正装を着用していた。奇妙なことにマディソンとメリーが官邸に到着した時、謁見の間にトマス・ジェファソン大統領の姿はなかった。そのためマディソンはメリーを残してジェファソンを探しに行った。メリーはマディソンについていこうとしたが、事情がよく分からないので諦めた。
狭い廊下をメリーが歩いていると、突然、書斎からトマス・ジェファソン大統領が出てきた。驚いたメリーは、咄嗟のことにも拘らず、貴賓に対して背中を向けないという外交儀礼を守りながら謁見の間まで戻った。メリーは狼狽しながらもジェファソンを迎え、予め準備しておいた献辞を述べた。さらにメリーを驚かせたのは大統領の服装であった。メリーはその様子を、「[ジェファソンが]ただ平服であっただけではなく、かかとの擦り減ったスリッパを履いて立っていた」と書き記している。献辞が終わった後、両者は会話を交わしたが、その最中、ジェファソン大統領はそのかかとの擦り減ったスリッパを足で投げ上げて爪先で受け止めてみせたという。
謁見終了後、マディソンはメリーに、大統領だけではなく各閣僚も訪問するように伝えた。メリーは前例を盾にしてそれを断った。するとマディソンは、現政権は前政権の古い外交儀礼を守る必要はないと言った。怒りを抑えながらメリーはマディソンの要請に従った。
3日後、今度は夫婦揃ってメリーは官邸で開かれる晩餐会に赴いた。その会場に入ってまずメリーが驚いたことに、交戦中であるフランスの外交官が招かれていた。それだけではなく、トマス・ジェファソン大統領が定めた席次はメリーを憤慨させた。本来であれば、メリー夫人がジェファソン大統領の右側に、マディソン夫人が左側に、そしてメリー自身はその隣が定席であった。しかし、ジェファソンが席次を全く守らなかったために、メリーは自分の席を探さなければならなかった。ようやく納得できる席をメリーが占めようとした時、1人の議員が割って入り、その席を要求した。それでもジェファソン大統領は何もしようとしなかったのでメリーはますます困惑し、晩餐会が終わるとすぐに馬車を呼んで立ち去った。
こうした新しい形の儀礼をトマス・ジェファソン大統領は「ざっくばらん」と呼んだ。それは、平等主義に基づいた儀礼で、従来の優先権を認めない方式であった。しかし、メリーへの仕打ちは多分にイギリスに対する反感が込められていることは指摘すべきである。一連の出来事はメリー問題と呼ばれるが、幸い深刻な外交問題に発展せずに終わった。
一般教書を文書で送達
憲法第2条第3節は、「大統領は、随時連邦の状況につき情報を連邦議会に与え、またみずから必要にして良策なりと考える施策について議会に対し審議を勧告する」ことを規定している。しかし、教書を伝える具体的な方法については何も指定されていない。そのためトマス・ジェファソン大統領は教書を口頭ではなく文書で伝える形式を採用した。大統領が議会で一般教書演説を行う様子は、国王が議会で開会を宣言する様子を想起させるからである。
1801年12月8日の一般教書が文書で伝えられた最初の一般教書となった。文書で伝える形式が採用された理由としては、ジェファソンは会話の妙手ではあったが、大勢の前に出ると不明瞭に口ごもる癖があったことが考えられる。
教書を文書で送付する慣習は ウッドロウ・ウィルソン大統領の時代まで100年以上も継続した。1913年12月2日、ウィルソンは第1次一般教書を口頭で述べた。それは ジョン・アダムズが1800年11月22日に第4次一般教書を口頭で述べて以来、久しく途絶えていた。
ホワイト・ハウスの改築
トマス・ジェファソン大統領が就任した頃のワシントンはまだ閑散としていた。土地はまるで湿地のようで、家畜が舗装されていない街路を歩き回っていたという。建物の数も僅かに40軒ほどであった。
トマス・ジェファソン大統領は大統領官邸を「2人の皇帝、1人の法王、そしてダライ・ラマを入れるのに十分なほど大きなもの」にしようと努めた。庭に芝生を敷き、植樹を行なって整備した。さらに建築家ベンジャミン・ラトローブの監督の下、正面にポーチが増築され、1階の間取りが変更された。しかし、こうしたジェファソン大統領による改修は1812年戦争の戦火で灰燼と化している。
トリポリ戦争
1801年5月14日、トリポリのパシャが貢納金の額を不服としてアメリカに宣戦布告した。まだ宣戦布告の報せは届いていなかったものの、報告でトリポリの不穏な動きを知ったトマス・ジェファソン大統領は5月20日、4隻からなる艦隊を地中海に派遣した。派遣の理由をジェファソン大統領は、第1次一般教書の中で「私は小規模なフリゲート艦隊を、平和を保つことを我々は真摯に望んでいることをトリポリに確信させるために、そして攻撃の脅威から我々の通商を守るという命令の下、地中海に派遣した」と説明している。
1801年8月1日、スクーナー船エンタープライズ号Eがトリポリの船舶と交戦した。これがトリポリ戦争で最初の衝突となった。3時間に及ぶ戦闘の結果、エンタープライズ号は勝利をおさめ、敵船を武装解除のうえ解放した。武装解除のうえ敵船を解放した理由についてトマス・ジェファソン大統領は、「議会の認可なく防衛の線を踏み越えることは憲法によって認められていない」からであると釈明している。こうしたジェファソン大統領の判断をロバート・ターナーは「大統領の戦争権限について、かつてアメリカ大統領が述べた中でも最も厳密な解釈の1つである」と評価している。
その後、徐々に増援が行われ、アメリカはトリポリの封鎖を開始した。しかし、モロッコとの衝突の恐れがあるので1803年6月26日、トリポリの封鎖はいったん解除された。モロッコと平和条約を締結した後、封鎖が再開された。ナポリからの支援を得た司令官エドワード・プレブルは、1804年8月から9月の間に5度にわたって激しい攻撃をトリポリ市街に加えた。こうした度重なる攻撃にも拘らず、トリポリのパシャを講和の席に着かせることはできなかった。
1805年4月27日、戦況が一変する事態が起きた。位を奪われて亡命していたパシャの兄がアメリカの支援で軍を率いてトリポリに至り、デルナDernaの町を占拠したのである。ようやくパシャは講和交渉に応じ、6月3日、講和予備条約が締結された。それは、アメリカ側が捕虜の身代金として60万ドルを支払い、デルナを返還する一方で、トリポリ側は貢納金を要求する権利を放棄するという内容であった。
海軍再編
トマス・ジェファソン大統領はトリポリ戦争における「ジブラルタル近海における小型砲艦の有効性」に着目し、1807年2月10日に「小型砲艦に関する特別教書」を議会に送付している。「あらゆる近代的な海軍国で防衛に使われている」小型砲艦は、建造費用や維持費が安く済むことをジェファソンは小型砲艦導入の利点として挙げている。そして、小型砲艦を配備する計画を推進した。
既に就役中、もしくは建造中の艦船は73隻であり、127隻の新規建造が必要とされた。それに要する費用は50万ドルから60万ドルである。建造期間は、費用や資材の準備を考慮に入れて2年とするべきであるとジェファソンは提言している。
ルイジアナ購入
購入の経緯
仏領ルイジアナ購入実現の背景として、アメリカを取り巻く当時の国際情勢が関連している。1800年、ニュー・フランス建設を目論んだフランスはルイジアナを秘密裡にスペインから取り戻した。さらに1802年10月16日、スペインの監督官が、ニュー・オーリンズでの荷物積み替えを突如停止したため、アメリカの西部は生産品の積み出し港を失う結果となった。西部の住民の怒りは激しく、フランスとの戦争を求める声さえあった。フランスの行いに抗議する文書が出回り、西部の住民の怒りを宥めるためにはニュー・オーリンズと両フロリダをフランスから購入する以外に根本的な解決策はないと思われた。
トマス・ジェファソン大統領は、早くからフランスがルイジアナの支配権を確立することで生じる危険性を示唆していた。それはジェファソンの外交意識を根本から変える問題であった。従来、フランスとアメリカは利害衝突が少なく、「本当の友」であり、ジェファソンは「フランスの成長をアメリカ自身の成長である」かのように歓迎してきた。しかし、フランスがニュー・オーリンズを扼することはアメリカを「公然と無視」することに等しかった。それはアメリカの利益の侵害である。したがって、たとえフランスとの友好関係を損なう恐れがあっても、ニュー・オーリンズと両フロリダの購入を提案すべきだとジェファソンは考えた。なぜなら、もし利害衝突の種となりかねない両地をアメリカが購入してしまえば、それ以降は「すべての諸国と恒久的な平和と友好」が望めたからである。
1803年1月11日、問題を根本的に解決するために、トマス・ジェファソン大統領は ジェームズ・モンローをニュー・オーリンズと西フロリダの購入交渉を行う特使として任命した。モンローは駐仏アメリカ大使ロバート・リヴィングストンとともにフランス側と交渉にあたった。
その頃、フランス側は仏領サント・ドミンゴで勃発した奴隷制反対闘争に悩まされていた。それはフランスのルイジアナ占有を遅らせ、その結果、フランスはお金に困るだろうとジェファソンは早くから予想していた。ジェファソンの予想通り、ナポレオンはニュー・フランス建設を断念し、アメリカにルイジアナ全域の売却を提案した。しかし、フランスとイギリスの戦争が実際に再開されるまでナポレオンは譲歩しないだろうとジェファソンは考えていたので、この提案が早々に行われたことは予想外の出来事であった。
1803年5月2日(4月30日付)、モンローとリヴィングストンはパリでルイジアナ割譲条約を締結した。仏領ルイジアナは、現在のアーカンソー、アイオワ、カンザス、ルイジアナ、ミネソタ、ミズーリ、モンタナ、ネブラスカ、オクラホマ、ワイオミング、サウス・ダコタ、ノース・ダコタにまたがる広大な地域である。アメリカはその広大な地域を1500万ドルで入手した。しばしば史上最大の不動産取引と言われるルイジアナ購入であるが、価格についても破格であり、1エーカーあたりの土地価格は僅か約3セントであった。両者はもともとニュー・オーリンズと西フロリダの購入のために派遣されたので、ルイジアナ全域の購入は与えられた指示から逸脱することであった。つまり、ジェファソン大統領はルイジアナ購入を事前に全く知らされずに追認したことになる。
ルイジアナ購入の経緯については、1803年10月17日の第3次年次教書でジェファソン自身が次のように詳細を述べている。
「西部交易の要所が外国の勢力下に置かれる中で、我々の平和が絶え間なくさらされている危険に我々は気付いていませんでした。我々の領土内に源を発し隣接地域を流れる河川の航行に関して困難が生じました。それ故、公正な条件でニュー・オーリンズ、および我々の平穏にとって利益となる区域の中で、できる限りの領域の主権を得ようという提案は正しいように思われます。合衆国大統領の要求よって計上された200万ドルの暫定予算は、割譲提案に対する議会の承認を伝えるものとして考えられますし、対価の一部となるでしょう」
さらにトマス・ジェファソン大統領はルイジアナ購入で生じる利点を次のように論じている。
「ミシシッピー水系の所有権と主権があれば、西部諸州の農産物のための独自の水路を確保できるでしょう。そして、全流路を規制されることなく航行できること、他国との衝突とそれが原因でもたらされる我々の平和に対する危険から免れること、そして、肥沃な土地、およびその気候と広がりは、しかるべき時に国庫に大いなる恵みを約束し、我々の子孫のための十分な蓄えと自由と平等な法の祝福を受けるにふさわしい広大な原野を約束するでしょう」
そしてトマス・ジェファソン大統領は、「もしルイジアナ割譲が合憲的に確定し成立したならば、総計約1300万ドルが我が国の公債に加わりますが、その大半は以後15年で支払うことができます」と償還計画についても言及している。
一般教書に続いて1803年11月14日、トマス・ジェファソン大統領は「ルイジアナに関する報告」を議会に提出している。それはジェファソン大統領が各地の人々に質問を送り、その回答をまとめたものである。
憲法上の疑義
連邦派は、ルイジアナ購入を憲法からの逸脱と批判した。連邦政府が外国の領土を併合する権限を持っているのか。また併合された地域を連邦政府の一存で将来、連邦に加入するように約束することができるのか。さらに憲法に明記されていない権限を連邦政府は持っているのかという憲法上の疑義があった。
またトマス・ジェファソン自身、連邦政府には憲法に明文化された範囲内の権限しかなく、「解釈によって成文憲法を白紙委任状にしてはならない」と長らく主張してきた。ルイジアナ購入は、憲法に規定された範囲内の権限を越える判断であり、それを中央政府で専権的に行うことは、すなわち強力な中央政府の存在を認めたに等しかった。またルイジアナ購入は歳出の増加をもたらし、第1次就任演説で約束した「労働者の口から稼いだパンを奪い取らない政府」の実現から遠ざかる危険性をはらんでいた。ジェファソンは、このような論理的矛盾を解消する必要があった。
そのためトマス・ジェファソン大統領は憲法修正を考えていた。それは「新しい権限を国民に求めること」で、従来通り黙示的権限は否定しながらも、ルイジアナ購入の合憲性を遡及的に確かなものにするという方針に基づいている。憲法を恣意的に「解釈」して権限の拡大を求めるよりも、憲法修正によって「権限の拡大を国民に求める」道をジェファソン大統領は選ぼうとしたのである。ジェファソンにとって、憲法を恣意的に「解釈」することは、権限の無制限な拡大を招く危険性があったからである。
トマス・ジェファソン大統領の修正案には、ネイティヴ・アメリカンをミシシッピーの向こう側に移住させ、新たに加わった領域のうち北緯33度以北は白人の移住を禁止するという項目が盛り込まれていた。結局、この修正案は提出されることはなかった。ジェファソンの友人達は、もしジェファソン自ら条約に関する憲法上の疑義を明らかにすれば、上院は条約承認を拒否するかもしれないと危惧していたからである。「我々の友人達が[憲法修正について]違うように考えているようであれば、我が国の良識が悪い効果を生み出し得る解釈を是正してくれると信じて、私は[友人達の考えを]黙認するのに吝かではありません」とジェファソンは述べている。
トマス・ジェファソン大統領は、1803年8月12日付の手紙の中で、ルイジアナ購入が憲法に規定された連邦政府の権限を越える行為であったと認めながらも、後見人が幼い被後見人の将来を思って越権行為であるのにも拘らず土地を購入する例と同じく、人民の利益を増進させるという善良で誠実な動機に基づいているので問題はないと弁明している。
フロリダ問題
ルイジアナ獲得は利害衝突の種をなくすように思われたが、スペインとの間に新たな問題を引き起こした。アメリカはパーディド川(現フロリダ州とアラバマ州の州境)まで「古くからルイジアナの領域」に含まれると主張した。またアメリカは、スペインが両フロリダもフランスに割譲していたと思っていた。
その一方、スペインは1800年にルイジアナをフランスに割譲した際に、その部分は含まれていなかったと主張した。ジェファソン大統領は、もしナポレオンがスペインを完全に屈服させることができれば、将来、必ずフロリダをアメリカの中立を購うために差し出すだろうと考えていた。スペインは、ウェスト・フロリダに対するアメリカの要求とイースト・フロリダ購入の申し出を拒絶した。また1805年12月に議会にフロリダ購入のために200万ドルの予算を求めている。しかし、この係争問題はジェファソン政権時代には解決せず、最終的な決定は後の時代に持ち越された。
ルイスとクラークの探検隊
1803年1月18日、トマス・ジェファソン大統領は議会にルイスとクラークの探検隊に関する特別教書を送付している。メリウェザー・ルイスはジェファソンの私設秘書であり、ウィリアム・クラークをパートナーに選んだ。ルイスとクラークの探検隊の主目的はミズーリ川の流域を探査し、交易ルートとして最適な太平洋への水路を見つけることであった。またネイティヴ・アメリカンの居住地域や人口、諸部族の関係、言語、風習、生業などを記録するようにルイスは命じられた。それは主にネイティヴ・アメリカンとどのような交易が行えるかを調べるためであった。他にも土壌、動植物、昆虫、鉱産資源、気候にいたるまでありとあらゆる事象を報告するように綿密な指示をジェファソン大統領はルイスに与えている。
奴隷制関連政策
1801年、トマス・ジェファソン大統領は当時、ヴァージニア州知事であったモンローから奴隷制問題について相談を受けている。1800年、ヴァージニア州議会は罪を犯した奴隷を送り込む用地を州外に購入することを決議した。そして、モンローにその実現を大統領に相談するように求めたからである。
まずトマス・ジェファソン大統領は国外で用地を準備するように助言した。もし合衆国の領域内に用地を設ければ、将来、その地が州として連邦に組み入れる際に問題が生じると考えたからである。さらに北アメリカ大陸内のイギリス領やスペイン領に奴隷受け入れを求めることは難しいとし、西インド諸島、特にサント・ドミンゴが適当であるとした。サント・ドミンゴには既に黒人が多く居住し、また気候も問題なく、輸送費もアフリカに比べて安く済むというのが主な理由である。アフリカはあくまで「他のすべての手段が失敗した場合の最後の手段」であった。もしヴァージニア議会が詳細に計画を決定するのであれば、然るべき外国当局と契約を交わすことをジェファソンは約束した。
トマス・ジェファソンの回答を得てヴァージニア議会は1802年1月16日、奴隷移住に関してさらなる決議を採択した。それは解放奴隷や混血者、将来、解放されるであろう奴隷をアフリカに移住させることを示唆している。
こうした決議を受けてトマス・ジェファソンは、移住候補地としてシエラ・レオネをモンローに勧めた。シエラ・レオネ植民地はイギリスの植民会社によって運営され、独立戦争時に逃げた数多くの奴隷も入植していた。1802年、ジェファソンは植民会社に奴隷受け入れを求めた。しかし、植民会社の回答は、入植者を今後、受け入れる予定はないという内容であった。植民事業がうまくいかず、近々、事業を放棄しイギリス政府の管理に委ねる予定だったからである。さらに南米に植民地を持つポルトガルとも交渉したが、同じく実を結ばなかった。
こうした経緯を通じてトマス・ジェファソン大統領は、「合衆国がアフリカ沿岸にそうした植民地を建設することに自ら取り組むことが何よりもまして望ましい」という結論に至っている。つまり、それはアフリカ沿岸の植民地に黒人を移住させることが「黒人自身にとっても白人にとっても最も有益である」という考え方であった。アメリカから有用な技術を持った黒人がアフリカ大陸に帰還し「文明化の種」となれば、結果的に黒人がアメリカで味わった苦難は「恩恵」となる。また、こうした「人道的な動機」に加えて、通商的な利益も見込めるので、植民に要した費用は十分に回収できるとジェファソンは論じた。しかし、「国民の心情はまだ用意ができてない」と考えていたジェファソンは、後にアメリカ植民協会の設立にマディソンやモンローとともに名を連ねるように依頼されたとはいえ、本格的な政策として植民事業を実施することはなかった。
アーロン・バーの陰謀
陰謀の推移
副大統領在任中から アーロン・バーは陰謀をめぐらしていたと言われているが詳細は明らかではない。それは、西部をアメリカから分離させ、さらにスペイン領メキシコを征服してニュー・オーリンズを首都とする新たな国家を建設する陰謀であったと言われている。また駐米イギリス公使に資金援助と軍事支援と引き換えに西部で反乱を起こそうと申し出たとされる。
副大統領退任後、バーは西部各地を巡り、地方の有力者の協力を募った。その中には アンドリュー・ジャクソンも含まれている。1806年夏に、バーはオハイオ川中のブレナーハセット島に赴き私兵を集めた。続いてバーは兵を募るためにケンタッキーとテネシー各地を周った。しかし、共謀者のジェームズ・ウィルキンソンがバーを裏切りジェファソン大統領に「深甚で凶悪で狡猾、そして幅広い陰謀」があると密告した。ケンタッキー州の連邦地方検事はバーを反逆罪で告発したが、バーは起訴を免れている。12月、バーはミシシッピー川を下り始めたが、ウィルキンソンの裏切りによって陰謀が明るみに出たことを知ると自ら出頭した。再びバーは反逆罪で告発されたが、法廷に出頭することを誓約することと引き換えに一時釈放された。バーは逃亡を図ったが2月19日に逮捕され、リッチモンドに身柄を移された。
大統領の対応
トマス・ジェファソン大統領はウィルキンソンの密告以前から既にバーの動きを警戒していた。さらにウィルキンソンの密告を受け取って陰謀の確証を得たジェファソンは1806年11月26日に、メキシコに対して軍事遠征を行おうとする者を逮捕する布告を発した。この布告はバー一味を対象としている。
そして12月2日の第6次一般教書でも「合衆国のある場所で、多くの民間人が寄り集まって武装し、法に反する行動をとり、スペイン領に軍事的遠征を企てています。私は、声明や特別命令によって、こうした企てを抑止し、船や武器、その他の手段を差し押さえ、その首謀者と扇動者を逮捕して裁きを下すための措置を講ずることが必要だと考えました」と警告している。
それに加えて1807年1月22日、トマス・ジェファソン大統領は特別教書を議会に送付している。特別教書の中でジェファソンは、「[1806年]9月後半のある日、西部地方を煽動する、連邦の平和にとって不当であり好ましくない陰謀があり、こうした陰謀の首謀者が、これまで故国のおかげで名を成してきたアーロン・バーであったという知らせを私は受け取りました」とバーを名指しで非難している。
また2月3日、トマス・ジェファソン大統領は、オーリンズ準州長官ウィリアム・クレイボーンに書簡を送り、「公の治安」を維持するために、一連のバーの行動に対して「超法規的措置」で対応するように求めている。この際にジェファソンが述べた次のような言葉はしばしば引用される。
「成文法の厳格な遵守は確かに良き市民の崇高な義務ですが、最も崇高な義務ではありません。必要に迫られた際の行動規範、自己保存の行動規範、そして国を救うという行動規範は、危難の際に、より崇高な義務になります。成文法に固執して亡国の憂き目に会えば、生命、自由、財産、そしてそれらを我々とともに享受しているすべての人々だけではなく法自体も失われるでしょう。したがって目的と手段を履き違えることは馬鹿げています」
アーロン・バー裁判
1807年、バーは、1806年12月10日から11日にかけてブレナーハセット島に私兵を集結させ、ニュー・オーリンズ占領を計画し、さらにスペイン領メキシコへの軍事遠征を企てた罪状で告訴された。バー裁判と呼ばれる一連の裁判は、予審)、起訴審理、反逆罪公判、軽罪公判からなり、ヴァージニア州リッチモンドの連邦第5巡回裁判所で行われた。
首席判事は ジョージ・マーシャル最高裁長官が務めた。マーシャルは、問題とされている期間にバーはブレナーハセット島の私兵と離れていたこと、さらにブレナーハセット島の私兵がアメリカに対する戦争を実際に行ったことを立証できないことから、憲法第3条第3節1項の「合衆国に対する反逆罪を構成するのは、ただ合衆国に対して戦いを起こし、あるいは敵に援助および助力を与えてこれに加担する行為に限る」という規定にバーは該当しないという判断を示した。9月1日、陪審団はマーシャルの判断を受け入れ、バーの有罪を立証できないとして無罪を宣告した。続いて軽罪についても9月15日、陪審団は無罪を宣告した。
有罪宣告が下されることを強く望んでいたトマス・ジェファソン大統領は、バーの無罪宣告について、「連邦を破壊しようと結成されるかもしれないあらゆる反逆的な集団に対して刑事上の免責を与えるのに等しい」と述べ、連邦派のマーシャルが政治的意図で法を曲げたと見なした。
一方でトマス・ジェファソンはマーシャルの文書提出命令を拒否している。なぜなら大統領は国事を優先すべきであり、「憲法上の義務」を差し置いてまで命令に応じる必要はないとジェファソンは考えていたからである。これは、大統領の職務が一般法の規定に優先するという前例となった。
出港禁止法
チェサピーク号事件
ヨーロッパではフランスとイギリスが中心となって戦いを繰り広げていた。その最中、1804年から1807年にかけて1500隻のアメリカ船が拿捕され、アメリカの中立性が脅かされるようになった。ジェファソン大統領は、ウィリアム・ピンクニーとモンローをイギリスに派遣して「従来通りの通商と強制徴用」の問題の解決にあたらせた。1806年12月31日、モンローとピンクニーはイギリスと通商条約を締結した。しかし、1807年3月3日、ジェファソンはモンローとピンクニーが取りまとめた条約を上院に提出しないことに決めた。強制徴用の停止を定めた条項が含まれなかったためである。
さらに事態を悪化させる事件が起きた。1807年6月22日、イギリス艦レパード号が、ノーフォーク沖Norfolkで臨検を拒否したアメリカ軍艦チェサピーク号に発砲したという事件である。その結果、3人のアメリカ人が死亡し、4人が強制徴用された。7月2日、ジェファソン大統領はイギリス海軍の国内港立ち寄りを禁じる布告を発令した。さらに、万が一、戦争が起きた時に備えるために、閣僚と相談のうえ、小型砲艦を建造するための資材とその他の軍需品の購入を手配している。
目的
チェサピーク号事件は国民を憤激させた。その結果、開戦を求める声が高まったが、ジェファソン大統領は孤立主義を採った。1807年12月22日、出港禁止法が制定された。それは沿岸航行を除き、すべての船舶に対してアメリカの港からの出航を禁じている。すなわち実質上の全面的輸出禁止措置である。
その目的は第1に、アメリカ船が拿捕されるのを防ぐことである。第2に、アメリカからの輸出を途絶させ、フランスとイギリスに経済制裁を課して中立国の権利を尊重させることである。そして、その結果、フランスとイギリスが戦争遂行を断念せざるを得ないようにすることであった。またアメリカ自体が戦争に巻き込まれることを防止する目的もあった。もし戦争が起きて戦費が嵩めば、公債をすべて償還できる日が遠のくことをトマス・ジェファソンは危惧していた。
補則の追加
出港禁止法には4度にわたって補則が追加された。1808年1月9日、出港禁止法第1次補則が成立した。それは、違反に対する罰金を重くし、密輸を規制するという内容であった。出港禁止法に反対する人々は、敵意を込めて出港禁止法を「Ograb
me (Embargoを後ろから読む)」と呼ぶようになった。トマス・ジェファソン大統領はそうした反対にも拘らず、「[国家間の]信義を失わしめる嵐の猛威からわが国を守るには、方法は唯一つ、互いに交戦中のすべての国との通商を断絶することであります
(明石紀雄訳)」と訴え、国民の理解を求めた。
1808年3月12日、第2次補則が成立した。陸輸による密輸の阻止を目的とする。ただし海外から国内へアメリカの資産を輸送することが条件付で許可された。
さらに1808年4月25日、第3次補則が成立した。密輸の疑いがある船舶に対して臨検を行い、拘留することを規定した補則である。同月19日には、米加国境地帯で頻発する密輸に対して、トマス・ジェファソンはシャンプレーン湖地域が反乱状態にあると宣告している。
そして最後に1809年1月9日、第4次補則(ジャイルズ法)が制定された。それは出港禁止法の施行に関して必要となれば軍隊を用いることを認める補則であった。
撤廃
出港禁止法に対して多くの国民が激しく反発した。特にニュー・イングランド地方の商工業者は、民主共和派が連邦派を処罰するために出港禁止法を強いていると反発した。貿易額が落ち込んだために破産が続出し、トマス・ジェファソンに対する非難が高まった。
遂に1809年3月4日、出港禁止法が撤廃されることになった。議会が出港禁止法を撤廃する代わりに、フランスとイギリスを除く諸国との貿易再開を決定したからである。フランスとイギリスに対しては、アメリカの中立の権利を認めるまで輸入と船舶の入港を禁止することが定められた。ジェファソン大統領は議会の決定に従って、3月1日、禁輸法に署名した。既に「年間5000万ドルの輸出」が犠牲になっていたので、たとえ戦争になろうとも現状より悪くなることはないだろうとジェファソンは述べている。
多くの歴史家は、出港禁止法は、目的は崇高であったが、実施方法で失敗したと評価する。また市民的自由を損なう恐れがあったという指摘もある。しかし、国際紛争を解決するために経済制裁という平和的手段を用いようとした点を評価する論者もいる。
ネイティヴ・アメリカン政策
ネイティヴ・アメリカンに対してトマス・ジェファソン大統領は農業に基づく定住を強く勧めた。ネイティヴ・アメリカンが広大な土地を要する狩猟を放棄し、それよりも狭い土地で事足りる農業で生計を立てるようにすれば、余った土地を白人に売却することができ「双方の善」となるとジェファソンは考えていたのである。さらに土地の売却によって手に入れたお金を農機具や家畜を購入する費用にあてれば、農業をうまく軌道にのせることができるとジェファソンは論じている。ただしジェファソンは、「あなた方が売却を望まない限り、我々は土地を求めることはないでしょう」と述べている。
またトマス・ジェファソン大統領は、交易所でネイティヴ・アメリカンに安価で生活必需品を供給することを提唱している。それはネイティヴ・アメリカンを懐柔する最善の方法だと考えられた。それに加えて、ネイティヴ・アメリカンが交易所でお金を使うようになれば、いずれは借金をするようになり、その結果、容易に土地の売却に応じるようにだろうとジェファソンは考えていた。その一方で交易所を運営することにより、ネイティヴ・アメリカンに害を与えるような交易品を売る商人を排除すべきだとも述べている。なぜなら交易品の1つであった蒸留酒がネイティヴ・アメリカンの間で早くから広まり、その過度の使用が、ネイティヴ・アメリカン社会で深刻な社会問題になっていたからである。そのためジェファソンは、ネイティヴ・アメリカンの族長が蒸留酒の禁止を呼びかけた際に賛意を示している。
さらにトマス・ジェファソン大統領はネイティヴ・アメリカンに代議制民主主義を採用し、土地を個々人が所有することで生じる争いを調停する仕組みを作るように勧めている。例えば、1806年1月10日、にチェロキー族の族長達に向かって「自分の労働で稼いだ財産を持つある男は、他の男がやって来て、たまたま彼のほうが強いという理由で彼の財産を取られたくはないでしょうし、財産を守るために血を流したくはないでしょう。理性とあなた方が決めた規則にしたがって、紛争を裁くために良識ある人々を判事に任命する必要があるでしょう」と助言している。
トマス・ジェファソンの弁では、ネイティヴ・アメリカンは「家族」であった。「我が子供達よ、私が今、あなた方に話す言葉を忘れないで下さい。フランスやイギリス、スペインなどは決して再び帰ってきません。今や我々があなた方の父親なのです」と呼びかけているようにアメリカが「父親」であり、ネイティヴ・アメリカンが「子供達」という擬制的家族関係が提示されている。ただし、こうした言い回しは特に珍しいものではなく、ジェファソン独自のものではない。
父親であるアメリカは、子供達であるネイティヴ・アメリカンを守るために「あなた方の土地に侵入しようとする人々を罰する法律」を制定し、「個人があなた方から土地を購入すること」を禁じた。さらにネイティヴ・アメリカンが州に土地を売却する場合、合衆国の調査官が売買に立会い、合意が自由になされたものか、満足な対価が支払われているか確かめることをジェファソンは保証している。
とはいえ、そのような親密な呼びかけを行いながらもトマス・ジェファソン大統領は、ルイジアナ購入によってフランスが決して再び帰って来ないことをネイティヴ・アメリカンに理解させれば、拠り所を失った彼らがより容易に土地の売却に応じるだろうと考えていた。ジェファソンにとって、ネイティヴ・アメリカンを農業に従事させ、白人に同化・統合させ「1つの人々」にすることがまさに「物事の自然な進歩」であり、「彼らの安息と幸福のための」最終的な目標であった。またネイティヴ・アメリカンがそのように「進歩」すれば、諸外国の干渉に惑わされることはなくなるだろうとジェファソンは期待していた。
しかし一方で、ネイティヴ・アメリカンに「我々が手の一打ちするだけで彼らを粉砕できる」ことを分からせることも必要だとジェファソンは示唆している。そして、「愚かでずうずうしくも[戦うために]斧を取る部族は、その全領地を奪い取り、唯一の講和条件としてミシシッピーの向こう側へ追いやってしまえばよいでしょう。それは他部族に対する見せしめになるでしょうし、我々の最終的な統合を促進することになるでしょう」と述べている。
こうした考えの下、推進されたネイティヴ・アメリカン政策により、ジェファソン政権下で、チョクトー族、カホキア族、ピオリア族、カスカスキア族、オセージ族などの領地が買収された。また新たにフランスから獲得したルイジアナについては、人口が多い海岸部は早期に州として連邦に組み入れる一方で、ミシシッピー西岸はネイティヴ・アメリカンを現住地から移住させる用地にするのが「最善の利用法」であるとジェファソンは述べている。この案は後の時代に実現されることになる。
モンティチェロの賢者
3選の辞退
早くから表明していた通り、ジェファソンは、「自発的に引退する前例を作った」 ジョージ・ワシントン大統領にならって3選を辞退した。自らもワシントンの前例にならうことで、「任期を延ばそうと努める者に対する障壁」になることを期待したのである。さらに、そうした前例を確定するために憲法の修正が必要であろうとジェファソンは示唆している。
政権を退くにあたって、後継者が忠実な ジェームズ・マディソンであることからほとんど不安はなかったと考えられる。マディソン、そしてその後に続くモンローは、ジェファソンからすれば「最も真正な共和主義」の体現者であった。特にマディソンは、「人生を通じて支えの柱」となった人物であった。
ようやく大統領の重責から解放された感想をジェファソンは、「鎖から解き放たれた囚人でさえ、決して私のように権力の枷をふるい落す際のような救いを感じることはないでしょう」と述べている。
退任後、ジェファソンは愛するモンティチェロに退隠したが、訪問客が絶えず、多い時には50人もの滞在客がいたという。中には勝手に侵入して家具や什器を持ち去る者や、ジェファソンの姿を一目見ようと廊下で張り込む者まで現れたと伝えられている。その頃、独立宣言の署名者の中で、まだ存命していたのは「せいぜい半ダースくらい」であり、ポトマック川以南ではジェファソンだけであった。ジェファソンは既に伝説上の人物になりつつあった。
引退生活
ジェファソンは、いつも夜明けには起床し、朝食まで読書や手紙を書いた。健康法として毎朝、冷水に足を浸していた。また極度の医者嫌いで骨折した時でさえも医療処置を受けようとしなかったという。
朝食から夕食まで邸内や農園の見回りをして過ごしたので、毎日3,4時間は馬に乗っていた。時には30マイルか40マイル程度の遠乗りに出かけることもあった。乗馬は「身体、精神、そして諸々のことに健康的」であると述べている。その一方で、ジェファソンは「私はほとんど歩くことがないので、1マイルでさえ私には大変に思えます」とも述べている。
ジェファソンの夕食の時間は午後3時から4時の間に夕食であった。それから暗くなる
まで隣人や友人と語らったり、遊んだりして過ごす。午後9時に自室に退き、10時から11時の間に就寝するまで本を読んだ。夜には眼鏡をかけ、昼間でも小さな字を読む時はかけることがあった。耳は遠くなったものの歯はほとんど悪くならなかった。
睡眠時間は「5時間から8時間」であった。引退後は、6年か8年かおきに2、3週間程度悩まされていた頭痛から解放されていた。健康に恵まれていたジェファソンは「76歳にして私は再び勤勉な学徒になりました」と語っている。大統領退任後のジェファソンの様子をある人物は次のように描写している。
「ジェファソン氏が出てきて、我々に加わった。子供たちは彼のところに走って行き、すぐ競争しようと言った。我々は[本館の西側の]柱廊に座りました。ジェファソン氏が子供たちを大きさに従って並べてから始めの合図を出すと、子供たちは走り始めた。この庭[ウェスト・ローン]を一周するコースは四分の一マイルだった。小さな女の子たちは出発点に戻った時にはすっかり疲れていて、息を弾ませながら、祖父の広げた腕に飛び込んだ。彼は子供たちを強く抱き、キスの褒美をあげた(明石紀雄訳)」
衰えない政治的関心
このように平穏な日々を過ごしながらも、ジェファソンの政治的関心は衰えることはなく、様々な政治的問題について見解を書き留めている。例えば1812年戦争について、ジェファソンは「先の戦争の間、[連邦派が]我が国の敵と裏切りとなるような繋がりを持った時から連邦主義と君主制主義は停滞を迎えた。我が国の連帯を分離させようと企み、ハートフォード会議で彼らは自ら墓穴を掘った」と述べて、「私は、『我々は皆、共和派であり、連邦派である』と今、我々が本当に言えるように、そして『連邦国家と共和主義政府』が、[その下で]我が国が永遠に結集できる規範の標語とならんことを心から願う」と述べている。
1812年戦争の見通しについてジェファソンは楽観的な見方を持っていたようである。海軍力ではイギリスに適わないものの、陸ではアメリカが圧倒的に優勢であり「アメリカ大陸のすべてのイギリス領をイギリスから奪取できるだろう」と述べている。ニュー・ヨークが焼き討ちにあう可能性を示唆しているものの、後にワシントンが焼き討ちにあうとは予測できなかったようである。
またマディソン大統領の戦争遂行能力に対する国民の不信感を払拭するために、ジェファソンを国務長官として迎えて閣僚の再編を図るという計画が持ち上がった。ジェファソンが隠遁を理由にそれを断ったので閣僚再編計画は立ち消えになった。
ヴァージニア州憲法修正を望む
ジェファソンは早くから州憲法修正を望んでいた。もし先例に従って議席の配分が固定されるのであれば、「代議制政体という根本的な性質を失ってしまう」とジェファソンは警告している。1780年代、マディソンも憲法修正会議を開くように州議会に求めていたが、実現に至らなかった。またジェファソンも1776年の草案をもとにして1783年に草案を起草している。
一方、西部では、人口が増えるにしたがって議席配分の不均衡に対する不満が強まった。その結果、正確な人口比例に基づく議席配分を求める西部諸郡の運動が高まった。そうした背景の下、ジェファソンは1816年7月12日付の手紙で、改正が望ましい点として「1、普通選挙。2、1票の価値の平等。3、人民による行政長の選出。4、判事を選挙で選ぶか、もしくは罷免可能にする。5、判事、陪審員、そして保安官を選挙で選ぶ。6、[行政区画を]区に分割。7、州憲法の定期的な改正」の7点を挙げている。
こうした諸点をふまえてジェファソンは次のように論じている。できるだけ人民が直接政治に参加できるようにヴァージニアの行政区画を約6マイル四方の「区」に細分する。区をそれぞれ「小さな共和制」とし、教育、警察、司法、民兵組織、道路建設などあらゆる問題を管轄させる。そうすれば身近な地域の問題を人民自身で解決するようになり、「州のあらゆる男性が州政府の活動的な構成員」となる。そのように人民自身が政治に参加することこそ政府権力の濫用に対する最も効果的な防止策であった。区では直接民主制を採用し、郡、州では代議制民主制を採用する。さらに、こうした区の制度を正しく機能させるために、白人男子普通選挙制、正確な人口比例に基づく議席配分、公職の公選制を導入しなければならない。なぜなら「政府が共和的である[と言える]のは、人々の意思を統合し、それを実行することができるように[議員の]配分を決める場合のみ」だからである。
古代ローマのカトーが「カルタゴ滅ぶべし」という言葉で常に演説を締め括ったという故事にならって、ジェファソンは「郡を区に分けるべし」という言葉をあらゆる機会で用いるつもりだと述べている。「[共和主義は]憲法の中にあるのではなく、ただ人々の精神の中にある」というのがジェファソンの信念であった。しかし、こうした要望や西部諸郡の運動に対してヴァージニア州議会は、憲法修正を行うことなく、ただ議席配分を変更するだけにとどめた。結局、憲法修正はジェファソンが亡くなるまで行われることはなかった。
国政に関する見識
また1820年、ミズーリ準州が州への昇格を議会に申請したことを契機にして、新たにミズーリ州で奴隷制を認めるか否か、すなわちミズーリ問題が論議の的になった。ジェファソンはミズーリ問題を深刻な問題としてとらえており、「あの暗い独立戦争の時代でさえ、今回の出来事から感じるものに匹敵する憂慮の念を抱いたことはなかった」と述べている。ジェファソンはミズーリ問題を単に奴隷制という観点だけで見ていたわけではなく、連邦議会が憲法に規定された権限を逸脱して、ミズーリ準州に何らかの規制を押し付けるのではないかと危惧していた。
さらに1823年10月24日、 ジェームズ・モンロー大統領から外交に関する意見を求められて返答している。植民地の再復を図るスペインに対して、植民地の現状維持を呼び掛ける共同声明を出すようにイギリスがアメリカに求めたことがその背景にある。ジェファソンは「我々の第1にして根本的な原理は、ヨーロッパの争いに決して関わらないということです。我々の第2の原理は、大西洋のこちら側の問題にヨーロッパの干渉を認めないということです。南北アメリカは、ヨーロッパとは別の一連の利害を持っています。それ故、ヨーロッパの体系と分離した独自の体系を持つべきです」と助言した。それは直後のモンロー・ドクトリンに影響を及ぼしている。ジェファソンは1813年12月6日付の手紙の中で「アメリカはアメリカのための半球を持っている。それはヨーロッパの利害に従属しない全く別の利害の体系を持っている」と早くもモンロー・ドクトリンの萌芽となる考えを述べている。
その後の1825年12月、 ジョン・クインジー・アダムズ大統領が推し進める国内開発事業に対して違憲を宣告する決議の草稿を書いている。それはヴァージニア州議会に提出される予定であったが、結局、提出されずに終わった。ジェファソンは、「道路建設、運河開削、およびその他の国内開発事業を行う権限」は州の専権事項であると訴えている。ヴァージニア州がそうした権限を連邦政府に委託していないのにも拘らず、連邦政府が国内開発事業を行おうとするのは違憲であり、「州に留保されたすべての権限を剥奪する」行為に他ならなかった。そのためジェファソンは、連邦政府が国内開発事業を行えるように憲法を修正すべきだと述べている。その他にも、大統領任期の制限、大統領候補の選択をより民主的にする修正を図るべきだと論じている。
ラファイエットとの再会
1824年から25年にかけて、かつての独立革命の英雄であるラファイエットが連邦議会の招きでアメリカを再訪して国民の熱狂的な歓迎を受けた。1824年11月4日、ラファイエットはモンティチェロでジェファソンと実に35年ぶりの再会を果たした。その時の様子をジェファソンの曾孫サラ・ランドルフ次のように記している。
「ジェファソンは高齢のために弱ってよろめき、ラファイエットもオルムッツの地下牢に長い間入れられていたために、久しく身体が不自由になり健康を損なっていた。お互いに近付くにつれて、2人の覚束ない足取りは早くなり、足を引きずりながら走らんばかりになり、『ああ、ジェファソンよ』、『ああ、ラファイエットよ』と叫びながら、2人は互いの腕の内に飛び込み涙にくれた。その情景を目撃した400人の中に乾いた目はなく、時折、抑えたすすり泣きを除いて、何の音も聞こえなかった。2人の老人は館に入り、人々は深い静寂のうちに散っていった」
ジェファソンに御者として仕えた奴隷イズラエル・ジェファソンは、1873年12月25日のパイク・カウンティ・レパブリカン紙でラファイエットとジェファソンの間で交わされた会話について回想している。それによれば、ラファイエットは、アメリカ人がすべての人間の自由のために戦っていると信じているからこそ独立戦争で協力を惜しまなかったと述べ、奴隷は解放されるべきだとジェファソンに言ったという。しかし、ジェファソンは、ラファイエットの言葉に対して、奴隷が解放される日は来るだろうと答えたが、具体的にその日がいつどのように来るかは話さなかったとイズラエル・ジェファソンは述べている。
ヴァージニア大学創立
創立目的
ジェファソンは、「教育以上に国家の繁栄と勢力、そして幸福を増進させるものは何もない」と「ヴァージニア大学創設のための委員会報告書」の中で述べているように、教育を国家の礎であると考えていた。さらに、ジェファソンにとって、教育によって啓蒙された人民こそ彼ら自身の自由を守る「唯一の安全な受託者」であった。
またジェファソンは、南部の子弟が北部の大学で奴隷制拡大反対論者の思想的影響を受けることを危惧していた。そのため南部の子弟を、ハーヴァード大学、カレッジ・オヴ・ニュー・ジャージー(現プリンストン大学)、イェール大学のような北部の大学ではなく、南部の大学で教育することを目指した。さらにそうした大学で南部の考え方を体得した子弟が南部諸州の議席を占めることを望んだ。そのためジェファソンは、大学で使用する政治学の教科書に対して厳しい監査を行っている。しかし、その他の分野に関しては比較的自由であった。
また進歩を阻害する「国家と教会の連携」を絶つという目的もあった。そうした目的に加えて、従来、州内にあったウィリアム・アンド・メアリ大学が「倦怠と非効率な状態」に長らくあったために、新たに大学を創立しようとジェファソンは考えたのである。
経緯
ヴァージニア大学創立の構想は、少なくとも1800年頃からジェファソンの脳裏にあったことは確かである。しかし、なかなか実現する機会がなかった。1つの契機になった出来事は、1814年3月にアルブマール・アカデミーの理事に推挙されたことである。ジェファソンは同アカデミーの建て直しに着手した。議会に改革案を提出し、それにともなってアルブマール・アカデミーの名称はセントラル・カレッジに改められた。そして、1817年10月から新カレッジの建設が始まった。
さらに1817年から1818年にかけて、ヴァージニア州議会でジェファソンが起草した「公教育制度設立に関する法案」が審議されている。ジェファソンの提案が必ずしも受け入れられたわけではないが、1818年2月21日、州議会はヴァージニア大学設立を認可した。
1818年8月4日、ジェファソンを長とする理事会は、「ヴァージニア大学創設のための委員会報告書」を採択した。報告書では、まずヴァージニア大学の用地決定について述べられている。大学の用地としては、「健康に良い場所、田舎に隣接した沃野、そして全州の白人人口の中心」であることが望ましいとする。そうした条件から、セントラル・カレッジが適当である。さらに大学の建物の配置や建築費用について述べた後で高等教育の目的を列挙する。高等教育の目的はまず、一般社会に繁栄をもたらし、個人の幸福を守るような政治家、議員、判事の養成することである。次に農業、製造業、商業を振興すること、そして「若者の知的能力を向上させ、精神を開き、道徳心を養うこと」である。この報告書を審議した後、州議会は1819年1月25日、ヴァージニア大学に特許を与えた。
開校
ジェファソンは、大学の中心にある講堂をローマのパンテオンに模して設計している。この建築に多額の費用を要したため、議会はジェファソンの設計に反対している。そのため議会が途中で費用の支弁を差し止めたこともあった。
ジェファソンは校舎の設計だけではなく、カリキュラム、学則、教授陣の選定に至るまであらゆる面に自ら関わっている。ヴァージニア大学の用地はモンティチェロから僅か4マイルしか離れておらず、ジェファソンはしばしば建築の進行を監督している。
大学の8人の教授陣のうち、6人をヨーロッパから招聘した。8人の教授陣はそれぞれ、古代言語、近代言語、数学、自然哲学、自然博物史、解剖学・医学、法律学、道徳哲学かならなる。総合大学にも拘らず、神学がない点がヴァージニア大学の大きな特徴であるが、それはヴァージニア大学を「単に無宗教の組織ではなく、すべての宗教に対抗する機関にする」というジェファソンの信念に基づいている。
そして、1825年3月7日、約30人の学生が7人の教授陣(法律学は空席)の下で初めて入学を許可された。学長はもちろんジェファソンである。この日はジェファソンが長い間待ち望んでいた日であった。学則は、飲酒、喫煙、決闘、さらに召使、馬、犬を学内で所持することを禁じている。しかし、それ以外は大学内に学生の自治を導入しようとジェファソンは考えた。報告書では、「恥をかかせること、体罰、そして不面目な服従を若者に厳しく強いることは、人格を陶冶する最善の過程にはなり得ない。父と子の間における愛情溢れる態度のように、教師と学生の間の関係は真の模範となるようにしなければならない」と述べている。
こうしたジェファソンの理想は多くのアメリカの諸大学の模倣するところとなっている。しかし、ジェファソンの期待とは裏腹に、ヴァージニア大学では学生の学則違反や騒動などが相次いだ。開校して最初の年は3分の1以上もの学生が退学している。
独立宣言起草者としての誇り
不思議な偶然
ジェファソンは、数か月にわたりリューマチと下痢に苦しみ、体力をすり減らせていた。7月2日に昏睡状態に陥ったジェファソンは、3日午後7時に一度意識を取り戻し、医師に「今日は4日か」と聞き、そのまま意識を失い、翌4日午後12時50分に亡くなった。同日の約5時間後、 ジョン・アダムズも後を追うようにして亡くなっている。奇しくもこの日は、実は独立宣言調印50周年の記念日であった。
ジョン・アダムズとの交流
1777年5月16日の手紙以来、ジェファソンは長期間にわたってアダムズと書簡を交わしていたが、一時期、その政治的立場の違いから交流が途絶えていた。特に、政権末期にアダムズが行った任命、いわゆる真夜中の任命は、ジェファソンからすれば、自身の「最も強烈な政敵」の中から選ばれていたので「個人的に意地の悪い」行為であった。しかし、晩年になってジェファソンとアダムズはまた書簡をやり取りするようになった。両者の話題は非常に多岐にわたっている。
例えば、1816年8月1日付けの手紙で、ジェファソンは迫り来る死について、「死は誰にもやってきます。我々が退き、他の人々が成長するという時が来ます。与えられた生涯を終えたならば、他人のそれを妨害してはなりません。[中略]私は過去の歴史よりも将来の夢を好みます。それではお休みなさい。私は夢を見続けることでしょう(明石紀雄訳)」とアダムズに向かって述べている。
さらに1825年12月18日付けの手紙では「私はこれまで多くの人々に比べて健康であることができました。私の精神は、貴殿も私も体験したのですが、大きな悲しみがさまざまな形を取って現れた時を除いて自分を裏切ったことはありません。良き健康と爽やかな精神があれば、人生には悲しみより快楽の方が多くあります(明石紀雄訳)」とアダムズに語っている。
墓碑銘と最後の書簡
「アナクレオン[ギリシアの抒情詩人]が『我々は僅かばかりの大地に横たわり、やがて骨はばらばらになる[アナクレオン本人の作ではなく後世の作]』と歌ったことを思えば、死者は記念碑や彼らを偲ばせるものに興味を抱く。次のようにもらえれば我が魂は安らぐだろう」とジェファソンは、墓の作り方のみならず墓碑銘まで生前に自らの手で指定していた。
墓石については「質素な台胴部、もしくは装飾のない3フィートの立方体の上に高さ6フィートのオベリスクを載せる。それぞれ1つの石からなる」と指定している。「ざらざらした石で墓を作れば、石材として価値がないのでこれから先、誰も壊そうとはしないだろう」というジェファソンの予想を裏切って、墓石は、訪問者に次々と削り取られ、著しく損傷を受けた。
墓碑銘は簡素で、「トマス・ジェファソンここに眠る。独立宣言とヴァージニア信教自由法の起草者にして、ヴァージニア大学の父」とあるだけである。「第3代大統領」を務めたことにも「ヴァージニア州知事」を務めたことにも言及していない。その理由をジェファソンは、「これらの言葉は、私が生きた証となるからであり、最も記憶に留めて欲しいと望むからである」と書き記している。
ジェファソンは、1826年6月24日付けの現存する中で最後の書簡で以下のような言葉を遺している。その手紙はワシントンで開催される予定のアメリカ独立50周年を祝う式典への招待を病気の故に断る手紙であった。
「[アメリカ独立宣言が]世界に広まらんことを、私が信じるに、[アメリカ独立宣言は](すぐにある場所から別の場所へ、そして最後にはすべての場所に[広まり])、人類を、彼ら自身を束縛してきた宗教的迷妄の鎖を引きちぎり、そして自治という祝福と保証を得ることができるように目覚めさせる導火線となるでしょう。我々が置き換えた政体は、制約のなしに理性を自由に行使する権利と言論の自由を取り戻しました。あらゆる目が人間の権利に対して開かれているか、もしくは開かれつつあります。遍く広がる科学の光は、人類の大多数は背中に鞍を負って生まれたのではないこと、そして、恵まれた少数の者が長靴を履き拍車を付け、神の恩寵によって、合法的に彼らの背に乗れるわけではないという明白な真実を万人の目さらしてきました」
圧倒的な評価
肯定的評価
エリク・エリクソンはジェファソンの人物像をとらえる難しさについて、「これまでにも、すぐれた研究者たちによって指摘されているとおり、彼という人物をとらえることは至難の業である(五十嵐武士訳)」と述べている。それはジェファソンが、「次々に登場する新しい世代が彼を理解しようと試みる度毎にそのイメージをふくらませてゆく、そんな謎めいた人物として、時間を超越して歩み続けている(五十嵐武士訳)」からである。そうした困難にも拘らず、ジェファソンにまつわるイメージと評価は圧倒的に肯定的である。
トクヴィルは、ジェファソンを「かつてアメリカの民主主義が生み出した中で最も偉大な民主主義者」と評した。1902年にアルフレッド・ルイスは「ジェファソンは完全な人間というよりむしろ完全な市民であった。人間として欠点を持っていたが、市民としては星のように瑕疵がなかった」と賞賛している。ヘンリー・コマジャーも「ジェファソンはアメリカの啓蒙主義者の中で最大の人物(明石紀雄訳)」と称揚している。
1948年から1981年にかけて6巻の『ジェファソンとその時代』を著したデュマス・マローンは、「もし、ジェファソンに単一の規定があたえられねばならないとすれば、かれはリベラルであった。[中略]。かれを啓蒙されたリベラルとよぶことは、かれの偉大なキャリアの第一ステージにおいてかれを要約する最良の方法である。[中略]。個人の自由と人間の尊厳の偉大なる始祖として、かれは、かれ自身の国だけではなく、人類の宝ともなった(山本幹雄訳)」と激賞している。
またメリル・ピーターソンは『トマス・ジェファソンと新しい国家』の中でジェファソンはその「民主主義、国民性、啓蒙という三つの支配的なモチーフの光の中(山本幹雄訳)」にあるとした。
さらに、『トマス・ジェファソン文書』の編者であるジュリアン・ボイドは、ジェファソンにとって、アメリカ革命は一国にとどまる問題ではなく、全人類の未来に関わる問題であり、独立宣言に示された精神こそがジェファソンの生涯を貫いた信念であったと指摘する。
後代の大統領による言及
リンカーンが、度々、共和党のみがジェファソンの伝統を忠実に継承していると主張したように、ジェファソンは正統性を与える存在として言及されてきた。 フランクリン・ルーズベルトは、1943年4月13日、トマス・ジェファソン記念館開館式で、「我々は自由の使徒であるトマス・ジェファソンに負いきれないほどの借りを負っている」と述べ、さらに「政治哲学、教育、芸術、人類の苦悩を和らげる試みにおいて[ジェファソンは]指導者であり、未来への計画を唱導する人物であり、アメリカを永遠不朽の共和国にするように導いた」と賞賛している。
またレーガンはしばしばジェファソンに言及している。例えば、1982年4月13日、レーガンはジェファソンの生誕日に際して、以下のようにジェファソンを州権論者、小さな政府の主唱者として言及している。
「トマス・ジェファソンは、誕生後239年後でもアメリカ史の中で大きな影響力を保っている人物です。政治家、学者、発明家、農民、そして哲学者でしたが、何よりも個人の自由の擁護者でした。生涯を通じてジェファソンは、言論の自由と財産権の神聖性の倦むことなき提唱者でした。なぜなら、完全であるためには、白由は経済的なものであるだけではなく、政治的なものでもなければならないとジェファソンは知っていたからです。トマス・ジェファソンは、大き過ぎる政府は人間の権利を脅かすことも知っていました。ジェファソンは、『この世でかつて存在したあらゆる政府の中で何が人間の自由と権利を破壊してきたのか』と問いました。そして、『すべての監督と権限を1つの組織に集約すること』だと自ら答えました。健全な連邦体制の下、枢要な権限を地方と州、そして国に適切に分譲するような小さな政府がジェファソンの目標でした。ジェファソンはすべての政府に対して歯に衣着せぬ警告をしています。ジェファソンは第1次就任演説で、『賢明で質素な政府・・・お互いに人々が傷つけ合わないように抑止し・・・それ以外は勤勉と進歩の追求を自由に調整させ、勤労者のロから彼の稼いだパンを奪い取らない』と述べました。この2世紀に多くの変化がありましたが、トマス・ジェファソンが信奉した諸原則は、我々の民主的社会の中心に依然として存在しています」
否定的評価
圧倒的な肯定的評価の一方で否定的評価も当然ながら存在する。最も古典的な評価はヘンリー・アダムズによる評価である。アダムズは、『ジェファソン政権期のアメリカ合衆国の歴史』の中で、ジェファソンを「哲学的大統領」と呼び、特に外交関係において「アメリカ史の中でかつて知られている中で最も徹底的に」大統領権限を振りかざしたと批判している。大統領権限の拡大という点から、アダムズはルイジアナ購入についても否定的な評価を下している。
また特に奴隷制に関する立場をめぐってジェファソンは多くの否定的評価を下されている。ウィンスロップ・ジョーダンは、『白人と黒人―1550年から1812年における黒人に対するアメリカの姿勢』でジェファソンは奴隷制に反対しつつも、黒人に対する根強い偏見を持っていたと指摘し、それはアメリカ文化の根底に存在する矛盾であると主張した。ジョー段の他にもコナー・オブライエンやポール・フィンケルマンは、ジェファソンが人種主義偏見も持ち、奴隷制の撤廃に真摯に取り組まなかったと指摘している。またロバート・マッコレーは、ジェファソンの奴隷制に対する思想は矛盾を含み、実践面で消極であったと指摘する。
特にウィリアム・コーエンは、1969年にジェファソンが持つ二面性について以下のように述べている。
「アメリカ民主主義の永続的な英雄のひとり、トマス・ジェファソンが、すべての人びとは平等に造られ、『かれらの創造主によって』、『生命、自由、幸福の追求』という『奪うべからざる権利』を与えられていると宣言しようとしていたまさにその時、一八〇人以上の奴隷のオーナーであったなどとは、パラドキシカルなことに思える。[中略]。大抵のジェファソン研究家たちは、この矛盾・撞着を、それを無視することによって、あるいは、ジェファソンの奴隷制廃止にかんする諸見解を引用することによって、さらには、奴隷主としてのかれの役割というものは元々(家系上)課せられたものであったのだと主張することによって、処理して来た。[中略]。ジェファソンの富とステータス、そして政治的立場は奴隷制を拠りどころとしていたのであり、かれはかつて一度も、奴隷制のすべてを危険に陥し入れるようなプランを積極的に提起したことはなかったのだ。[中略]ジェファソンの世界は、まさにその存在そのものを強制労働に依拠していたのだということを忘れてはならない(山本幹雄訳)」
もちろんジョン・ミラーのように、ジェファソンの個人的特質から奴隷制に対する姿勢の限界を指摘する論もある。ミラーは『狼の耳を掴む―トマス・ジェファソンと奴隷制』で次のように述べている。
「『特有の制度[奴隷制]』に対する彼の本当で揺るぎない恐怖にも拘らず、彼はあまりに政治的現実主義者であり過ぎたために、高遠でありながら実現可能な目標に拘泥したために、そしてヴァージニアの奴隷所有者という育ちの故に、まさにイギリスの専制に立ち向った時に示したような情熱で、この人類の人類に対する専制に顕著な事例に取り組むことができなかった」
日本での評価
『 トマス・ジェファソンと「自由の帝国」の理念 : アメリカ合衆国建国史序説』を著した明石紀雄はジェファソンに関する評価を以下のように述べている。
「広い分野において彼が残した足跡により、また後の合衆国の発展に残した彼の貢献に鑑み、ジェファソンこそ建国期アメリカの象徴として見なされる大きな理由がある。彼は自由の擁護について深い関わりを持ち、そのために最大の努力を払ったのであった。他の「建国の父祖」と比べて彼のこの領域での功績は見劣りするものではない。むしろ他を大きく凌駕する面も多くある。その点から見て、彼はまさにアメリカの代表的な「自由の使徒」であったとするのは、決して誇張ではないのである」
一方で清水忠重は次のようにジェファソンについて述べている。
「ジェファソンは『人間精神に対するあらゆる形態の専制に永遠の敵意を燃やすことを神の祭壇に誓いました』という意味のことを繰り返し口にし、また歴史家たちも『自由こそが独立革命におけるかれの動機であっただけでなく、かれの全生涯を理解する上での唯一の最善の手かがりを提供するものである』などと述べて、ジェファソンを『自由の使徒』と祭り上げてきた。しかし、こうした過大な評価は修正されるべきであろう。[中略]。ジェファソンの政治理論がアメリカ民主政治の源流であるとするならば、その弊害の一端もまたかれに帰せられねばならない」
また一方で清水忠重は、「ジェファソン像を組み立てる際、かれの理性重視の発言だけが従来ピックアップされてきた」と指摘し、「思想史の大きな流れのなかでいえば、理性と道徳感覚を基軸にすえ、両者をともに重視するジェファソンの人間本性論は理性一辺倒の18世紀啓蒙主義と、感性のほとばしりを賛美する19世紀ロマン主義を架橋する位置にあった」とジェファソンの思想を評価している。
このように日本におけるジェファソンの評価は概ね好意的であるが、否定的評価もなされている。ジェファソンに対する否定的評価を示した代表的な研究は、山本幹雄の『 大奴隷主・麻薬紳士ジェファソン―アメリカ史の原風景』である。
文学や映画の題材になったジェファソン
古典的な作品
小説および戯曲を書いた初めての黒人として知られるウィリアム・ブラウンが書いた『クローテル』(1853)にジェファソンは登場している。話の中で、ジェファソンはカラーという名の混血の愛人との間に2人の娘をもうけている。
また南部出身の代表的な知識人と知られるロバート・ウォレンが書いた長編詩『山犬の兄弟』(1953)もジェファソンが登場する作品として知られている。この作品は、ジェファソンの甥であるリルバーン・ルイスとアイシャム・ルイスが関与した不可解な殺人事件を描いている。作中でウォレンはジェファソンにアメリカの歴史を語らせている。
現代の作品
またスティーヴ・エリクソンの『Xの孤曲線』(1993)では、トマスというジェファソンをモデルにした人物が登場し、サリー・ヘミングスとの関係が幻想も交えて寓話的に描かれている。
さらに1995年、『 若き大統領の恋』という映画が封切られている。この映画ではジェファソンがフランスに滞在していた頃が取り上げられている。ジェファソンを中心にマリア・コズウェイ、サリー・ヘミングス、そして娘マーサが織り成す人間模様を描いている。
生い立ち
妻マーサ・ウェイルズ(1748.10.19-1782.9.6)は、ヴァージニア植民地チャールズ・シティ郡で生まれた。肖像画は現存していない。父ジョン・ウェイルズは富裕な農園主であり弁護士であった。1766年11月20日に従兄のバーサスト・スケルトンと結婚し、一子をもうけたが、1768年に夫と死別した。
出会いと結婚
マーサは1770年頃、ヴァージニア植民地の首府ウィリアムズバーグでジェファソンと知り合ったらしい。マーサは、ハープシコード(鍵盤付き撥弦楽器)を弾き、時にはジェファソンのヴァイオリンにあわせて歌った。ジェファソンは、「あなたにとって人生の多くの時間を甘美にしてくれる友となるだろう」という言葉とともにマーサにマホガニー製のピアノを贈っている。伝え聞くところによれば、ある他の求婚者達は、ジェファソンとマーサがウェイルズ家で楽しそうに合奏するのを聴いて、マーサへの求婚を諦めたという。ジェファソンは音楽を「我が魂の最愛の情熱」と呼ぶほどの音楽愛好家であり、楽器の奏者を雇いたいので適当な人物を紹介するようにイタリア人に依頼する手紙を書いたほどである。
2人は、1772年1月1日、チャールズ・シティ郡のマーサの実家で結婚式を挙げた。そして、1月下旬、100マイル離れたモンティチェロに向かった。雪が激しく降り始め、モンティチェロの近くまで来た時には積雪が約18インチ(約46cm)にもなっていた。しかも馬車が壊れてしまったので、直接、騎乗しなければならなくなった。それでも2人はモンティチェロを目指して進んだ。
一方、モンティチェロで主人の帰りを待っていた奴隷達は、この雪の中、2人が帰ってくることはないだろうと考えて、早々に引き取っていた。奴隷達を煩わせないようにジェファソンは厩舎に自分で馬を入れ、当時、唯一完成していた建物に入って火を熾し、そこで新婦と一夜を過ごした。以後、その建物は「ハネムーン・ロッジ」と呼ばれている。
病死
ジェファソンはしばしば妻の健康を理由に公職を断っている。また公職に就いてマーサのもとを離れている時も、マーサの健康状態をたずねる手紙を度々、親族に書き送っている。第2回大陸会議が開催された際に、マーサはフィラデルフィアに同行しなかった。そのためジェファソンは、独立宣言に署名した翌月に早くも大陸会議から退いて帰宅している。外交交渉のためにフランスへ赴くように要請された際も、妻を連れて危険な航海をすることも、妻を後に残すこともできないという理由で断った。ヴァージニア邦知事を退任後、ジェファソンは公職に就くために妻を後に残すようなことはしないと誓った。
ジェファソンにとってマーサは、「あらゆる幸福のための計画において、彼女は中心的存在としてその最前面にある。彼女なしでは私の目には何も映らない(明石紀雄訳)」と言うほど大切な存在であった。
6人目の子供は難産で分娩時の子供の体重は16ポンド(約7200g)もあったという。産後の肥立ちが悪く、マーサは分娩後4ヶ月後に亡くなった。その間、ジェファソンは妻に付きっきりで看病している。
死後
妻が亡くなる間際、ジェファソンは気を失った。そして葬儀の後、丸3週間も部屋に閉じこもった。部屋を出てからも、10才の娘とともにモンティチェロの周辺を当所もなく馬に乗ってさまよっていたという。
死後まもなくして、亡妻の異母妹に送った手紙の中で「この惨めな生活は本当に重荷です[中略]。私に残された責任を放棄することが背信にならないのであれば、この生活を続けようとは一瞬たりとも思えない。いったい何が望めるというのでしょうか」と述べている。また11月26日付の手紙の中で、友人に向かっては「たった1つの出来事が、私の[人生の]計画を覆し、私の心の中に埋めることができない空白を残した」と心境を語っている。
ジェファソンはマーサの手紙を、1通を除いてすべて焼却している。その1通は、マーサからジェファソンに宛てた手紙ではなく、マディソン夫人に宛てた手紙であった。しかし、ジェファソンが亡くなった時、親族が秘密の引き出しの中を開けると、遺髪をはじめマーサに関わる品々が子供達の品々とともに置かれてあったという。包み紙には、ローレンス・スターン)の『トリストラム・シャンディ』の一節(第9巻第8章)が書かれていた。「何しろ、時は容赦なく空費されて行きます。私がたどる一字一字が、いかに急速に私の生命も私のペンのあとを追っているかを告げてくれるのです。私に残されたそこばくの日数、そこばくの時間数は、[いとしいジェニーよ!そなたの首にかかったルビーの珠よりもなお貴重なものなので、しかもそれが]風の日の軽い雲のように、われわれの頭の上をどんどん飛んで行って二度とかえって来ないのです―すべてがたいへんな勢いでどんどん過ぎて行く[―そうやってそなたが髪をひねっている間にも。―ほれ御覧!そなたの髪にも白いものがまじっているではないか](朱牟田夏雄訳)」というマーサの字による前半部に加えて、ジェファソンの字によって「私がそなたの手に与える別れのキスの一回ごとが、それから[その後に]つづく不在期間の一回ごとが、いずれは近々われわれの上に訪れるはずの永遠の別離の序曲なのだ。[―ああ、天よ、われわれ二人に慈悲をたれたまえ!]
(朱牟田夏雄訳) 」という後半部が続けられていた。ジェファソンは、この部分を哲学や文学の本からなる抜書き「文芸ノート」に書き留めている。
ジェファソンはマーサの墓にホメロスの『イリアス』の中から選んだ一文を刻んだ。それはアキレウスが、ヘクトルを討ち果たした時に親友パトロクロスを想って語った言葉である。
「よしまた他人は冥府に赴けば、死人のことは忘れ切ろうとも、私だけはなお彼の世でもまだ、愛しい友のことを憶おう(呉茂一訳)」
夫婦の約束
ジェファソンは妻の死後ずっと寡夫で通した。ジェファソンの奴隷監督人を務めた人物による回想『トマス・ジェファソンの個人的生活』によれば、妻の求めに応じて2度と結婚しないことを誓ったからと言われている。義母によって育てられた経験を持つマーサは、娘達が自分と同様の境遇に置かれることを許せなかったという。
後年、ジェファソンは、「もしわたしの愛する人々が生きていたのであったなら、・・・わたしの人生は望みうる限り最高に幸福なものとなっていたでしょう。しかし、運命の恩寵はすぺて、家庭内での不幸で損われてしまいました。六人の子供のうち四人を失い、そのうえ最後には、彼らの母親まで失ってしまったのです(五十嵐武士訳)」と述べている。
1男5女
マーサ・ワシントン・ジェファソン
長女マーサ(1772.9.27-1836.10.10)は、ヴァージニア植民地シャーロッツヴィルで生まれた。父ジェファソンと非常に似ていたという。小さな個人学校に通って古典とフランス語を学んだ。ジェファソンは、マーサに厳しい日課を与え、教養と規律ある人間に育てようとした。その結果、マーサは同時代の女性の中でも非常に高い教養を身に付けた女性になった。
マーサは12才から17才まで父とともにパリで暮らし、全寮制のカトリック系の学校であるパンテモン校に入学した。1788年4月に修道女になることを考えたが、それに反対した父により退学させられた。
帰国後、1790年2月23日に又従兄弟のトマス・ランドルフと結婚した。ランドルフは後に義父と同じく、1819年から1822年にわたってヴァージニア州知事を務めた。マーサは子供達の中でただ1人、父の没後も存命している。ジェファソンが亡くなる2日前、マーサは形見の詩があることを伝えられている。
ジェファソンの死後、マーサは自分の家族の問題だけではなく、ジェファソンの遺産に関わる問題も処理した。サウス・カロライナ州とルイジアナ州は彼女の苦境を知って、1万ドルを拠出している。マーサは1836年に脳卒中で亡くなり、モンティチェロの墓所に葬られた。
ジェーン・ランドルフ・ジェファソン
モンティチェロで生まれた次女ジェーン(1774.4.3-1775.9)は夭折した。
―・ジェファソン
モンティチェロで生まれた長男(1777.5.28-1777.6.14)も生後17日で夭折した。
メアリ・ジェファソン
モンティチェロで生まれた3女メアリ(1778.8.1-1804.4.17)は、母マーサに似ていたという。マーサの死後、亡母の異母妹宅に預けられた。そのためジェファソンがフランスに赴いた際は同行しなかった。しかし、ジェファソンは娘をフランスに呼び寄せることを決意した。
1787年、メアリは奴隷のサリー・ヘミングスに伴われて、ロンドンを経てパリにいる父と姉のもとに向かった。その時、メアリは8才であった。ロンドンでは、当時、駐英アメリカ公使として赴任していたジョン・アダムズとその妻アビゲイルの世話になっている。7月半ば父と姉に再会した。父のことは辛うじて覚えていたが、姉のことはほとんど何も覚えていなかったという。
姉と同じくパンテモン校で学んだ。帰国後、1791年、マリアはフィラデルフィアの寄宿学校に入った。そして1797年10月13日、親類のジョン・エップスと結婚した。エップスは連邦下院議員になっている。この結婚は、ジェファソン家とウェイルズ家を結び付け、経済的にも社会的にも恩恵をもたらした。しかし、マーサは第3子を出産後に亡くなった。
ジェファソンは成人するまで生き残った2人の娘を非常に愛していて、2人が結婚後も何かと口実をもうけてしばしば傍に置きたがった。2人は互いに父の愛を得ようと競合しているようであったが、ジェファソンはメアリに「お前と姉さんの間に区別をもうけることなど私には思いもよらないことだ」という手紙を送っている。
ルーシー・エリザベス・ジェファソン
リッチモンドで生まれた4女ルーシー(1780.11.3-1781.4.15)は夭折した。生まれた時の体重は10.5ポンド(約4800グラム)で元気に成長すると期待された。しかし、生後5ヶ月で亡くなった。
ルーシー・エリザベス・ジェファソン
ヴァージニア邦エッピングトンで生まれた5女ルーシー(1782.5.8-1785.11.17)も同じく百日咳で夭折した。またルーシーの難産が母マーサの死に繋がった。
婚外子と推定される子供
妻マーサとの間に生まれた1男5女の他に、確証は未だにないが、アフリカのヴィーナスという渾名で呼ばれてきたサリー・ヘミングス(1773.7-1835)との間にもうけたと言われる子供が7人いる。
トマス・コービン・ウッドソン
サリー・ヘミングスがフランスでトマス(1790-1880)を生んだ後にアメリカに帰ったという説とアメリカに帰って来た直後にトマスを生んだという説の両説がある。トマスだけがウッドソン姓を名乗っているのは、ウッドソン家の伝承によれば、サリーとの仲の露見を恐れたジェファソンが息子を近隣のウッドソン家に預けたからである。しかし、他にトマスがジェファソンの血を引くことを裏付ける明確な証拠はない。
ハリエット・ヘミングス
モンティチェロで生まれたハリエット(1795.10.5-1797.12)は夭折した。ハリエットの誕生前後、ジェファソンはモンティチェロに退隠している時期であった。
ベヴァリー・ヘミングス
モンティチェロで生まれたベヴァリー(1798.4.1-1822+)は「逃亡」したとされ、後にメリーランドで白人女性と結婚した。ジェファソンの「農事録」に誕生が記録されているが、父親に関する言及がない。当時、女奴隷が生んだ子供の父親を特定して記録に留めることはごく普通の行いであった。それ故、父親に関する記述がない点が不自然であると指摘されている。
セニア・ジェファソン・ヘミングス
セニア(1799.12.7-1802)は夭折した。
ハリエット・ヘミングス
モンティチェロで生まれたハリエット(1801.5-1876)は家内奴隷であったが、1822年に「逃亡」したとされ、ワシントンで白人男性と結婚した。
同じく「農事録」に誕生が記録されているが、父親に関する言及がない。またジェファソンが8月に夏の休暇をモンティチェロで過ごした9ヵ月後に生まれている。
マディソン・ヘミングス
モンティチェロで生まれであり、遺言で解放された5人の奴隷の中の1人であるマディソン(1805.1.19-1877.11.28)はヴァージニア州に住んだ後、オハイオ州に移住し大工仕事で生計を立てた。1870年の国勢調査では、マディソンがトマス・ジェファソンの子供である旨が記されている。しかし、「農事録」には誕生が記録されているものの、父親に関する言及がない。またジェファソンがモンティチェロで行われた娘メアリの葬儀に参加した9ヵ月後に生まれている。
その孫フレデリック・ロバーツは、1918年、カリフォルニア州議会に初の黒人議員として当選したことで知られている。
エストン・ヘミングス
同じく遺言で解放されたモンティチェロ生まれのエストン(1808.5.21-1856?) は兄マディソンとともにオハイオ州に住んだ後、ウィスコンシン州に移住し、後に獄中で亡くなったらしい。同じく「農事録」に誕生が記録されているが、父親に関する言及がない。またジェファソンが8月に夏の休暇をモンティチェロで過ごした9ヵ月後に生まれている。
DNA鑑定による家系調査
サリー・ヘミングスに関する言及
ジェームズ・パートンがが『ジェファソンの生涯』(1874)で早くから指摘したように、フォーン・ブローディも『トマス・ジェファソン―秘史』(1974)の中で、ジェファソンが自分の奴隷であったサリー・ヘミングスとの間に婚外子をもうけていたのではないかと指摘している。しかし、それはジェファソンがサリーに強要したことではなく、38年間も愛情を伴った関係が続いたという。ブロディの業績は、ジェファソンの内面に迫った代表的な業績であるが、ジェファソンの信奉者から厳しい批判を受けた。
近年もサリーの娘の1人であるハリエットを取り上げたバーバラ・チェイス=リブーの小説『大統領の秘密の娘』(1994)が話題を呼んだ。チェイス=リブーは1979年にもサリーの回想を描いた小説『サリー・ヘミングス』を発表している。
こうした指摘は既にジェファソンの生前から行われている。アレグザンダー・ハミルトンも1796年10月15日のガゼット・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ紙でサリー・ヘミングスの存在を匂わせる発言をしている。また1802年9月1日のリッチモンド・レコーダー紙には、「国民からの栄誉を享受している人物が、彼の奴隷の1人を愛人としていること、そして長年にわたってそうしてきたことはよく知られている。彼女の名はサリー。彼女の最年長の息子はトム。トムの容貌は、[肌の色が]やや黒いとはいえ、大統領に酷似していると言われている。その少年は10才から12才くらい。少年の母は、ジェファソン氏と2人の娘とともに同じ船でフランスに渡った[訳注:サリーはジェファソンの後にフランスに渡航している]」という露骨な記事が掲載された。ジェファソン自身はそうした指摘に対する直接的な答えは何も与えていない。それは、どのような問題であれ、新聞の記事にいちいち反論しないことがジェファソンの基本方針であり、そもそも「新聞で見られることは今や何も信じられない。真実自体も、そうした政治的な媒体に記されると疑わしくなる」と述べているように新聞に対して不信感を持っていたことが一因である。
疑惑の対象であるサリーは、マーサの父ジョン・ウェイルズJと奴隷のエリザベス・ヘミングスの間の子と言われている。もしそうであれば、サリーは妻マーサの異母妹にあたる。サリーの母エリザベス自身も白人と黒人の混血であったらしい。そうするとサリーは奴隷と言っても4分の1しか黒人の血を受け継いでいない。『アイザックによるモンティチェロの奴隷としての回想』の中で長年、ジェファソンに仕えた奴隷アイザックIsaacは、サリーの母エリザベスが混血であり、サリー本人は白人とほとんど変わらなかったと証言している。ジョン・ウェイルズが亡くなった後、サリーは母とともにジェファソン家へ移った。母と娘は病気になったジェファソンの妻マーサを看病した。
サリーは14才の時、ジェファソンの娘ポリーがフランスのジェファソンのもとへ旅立つ際に同行している。2年後にサリーがフランスからモンティチェロに帰った時、明らかに妊娠している徴候が見られたという。サリーの息子マディソンは、1873年3月13日のパイク・カウンティ・レパブリカン紙で、「[パリにいる頃]私の母はジェファソン氏の愛人になりました。[中略]。家[モンティチェロ]に戻ってすぐに[母は]子供を生みました。トマス・ジェファソンがその[子供の]父親です」と証言している。さらにフランスで自由を得たサリーがヴァージニアに帰って再び奴隷の地位に戻ることを拒むと、ジェファソンは「母に特権を与えることを約束し、21才に達すれば子供達に自由を与えると固く誓った」という。
反証
しかし、メリル・パターソンは、サリーの子供達の父親はジェファソンの甥ピーター・カーではないかと示唆している。その推測は、1858年にジェファソンの孫エレン(長女マーサの3女)が夫に宛てた手紙の内容に基づいている。その手紙の中でエレンは、ヘミングスの子供達の父親はピーター・カーかその兄のサミュエルのどちらかだと聞いたことがあると記している。また同じくジェファソンの孫トマス・ランドルフ(長女マーサの長男)は、母の要請で調査を行い、サリーが出産する前の少なくとも15ヶ月間、ジェファソンと接触する機会はなかったと結論付け、ピーター・カーがサリーの愛人であったと述べている。しかし、ジェファソン関連文書の中でサリーに言及した箇所は非常に少なく、そうした面から2人の関係の虚実を確定することは難しい。
DNA鑑定の実施
1998年11月5日、ネイチャー誌にイギリスの研究機関によって行われたDNA鑑定の結果が発表された。ジェファソンの叔父フィールド・ジェファソンの子孫である5人の男性からサンプルを採取し、カー兄弟の祖父の子孫である3人の男性からもサンプルを採取した。さらにサリーの息子トマス・ウッドソンの子孫である5人の男性とエストンの子孫である1人の男性からもサンプルを採取した。それらのサンプルから、男系を通じて遺伝するY染色体の比較調査を行った。叔父の子孫からサンプルを採取した理由は、ジェファソンと妻マーサの間には、夭折した長男以外に男子はなく、男系子孫が存在しないからである。
DNA鑑定の結果、トマス・ウッドソンの子孫のY染色体と一致するサンプルはなかった。一方、エストンの子孫のY染色体は、カー兄弟の子孫のY染色体と一致しなかったが、ジェファソンの叔父の子孫のY染色体と一致するサンプルが見つかった。それは、サリーの来孫にあたるジョン・ジェファソンのサンプルであった。その結果、ジェファソンがサリーの息子エストンの父親であると断定はできないものの、少なくとも可能性はあることが証明された。その一方でウッドソン家がジェファソンの血を引く可能性は極めて低いと証明された。
こうしたDNA鑑定の結果についてトマス・ジェファソン記念財団は、それが信頼に足るものであると述べている。しかし一方で、新たに組織されたトマス・ジェファソン遺産協会のジェファソン=ヘミングス問題に関する研究者検討委員会は、2001年4月12の最終報告で、ジェファソンとサリーの間に親密な関係があったことを完全に否定している。
サリー・ヘミングスの問題は、単にジェファソンの個人史上の問題に限定されず、アメリカの人種史、そして建国の理念を根幹から揺さぶりかねない問題である。それ故、この問題は多くのジェファソン研究者の論ずるところとなっている。
その他の子孫
トマス・ジェファソン・ランドルフ
孫トマス・ランドルフ(1792.9.12-1875.10.8)は、ペンシルヴェニア大学で学び、ヴァージニア州議会下院議員を務めた。南北戦争にアメリカ連合国の大佐として従軍した。そのため戦後、奴隷だけではなく多くの財産を失った。1872年にはボルティモアで開催された民主党全国党大会を主宰した。ジェファソンの遺言執行者となり、ジェファソン関連文書と農園を受け継いだ。そして、ジェファソン関連文書を初めてまとめた『言行録』(1829)を刊行した。
ジョージ・ウィス・ランドルフ
同じく孫ジョージ・ランドルフ(1818.3.10-1867.4.3)は、1831年から1839年にかけて合衆国海軍に在籍した後、ヴァージニア大学から法学の学士号を得てアルブマール郡で開業した。南北戦争時はリッチモンド野戦砲部隊に所属し、アメリカ連合陸軍准将まで昇進した。1862年3月17日、アメリカ連合陸軍長官に指名された。デーヴィス大統領との衝突や自身の健康問題から同年11月15日に退任した。
トマス・ジェファソン・クーリッジ
曾孫トマス・クーリッジ(1831.8.26-1920.11.17)は、1892年から1896年にかけて駐仏アメリカ公使を務めた。後にジェファソン関連文書を買い取ってマサチューセッツ歴史協会に寄贈している。
アーチボルド・ケアリー・クーリッジ
玄孫アーチボルド・クーリッジ(1866.3.6-1928.1.14)は、ハーヴァード大学で歴史学を講じ、『世界の大国としての合衆国』(1908)を著した。1889年にモンティチェロを買い戻そうとしたが叶わなかった。
ジェファソン・ランドルフ・アンダーソン
さらに来孫ジェファソン・アンダーソン(1861.9.4-1950.7.17)は、1905年から1906年と1909年から1912年にかけてジョージア州下院議員を務め、さらに1913年から1914年にかけて同州上院議員を務めた。
プロテウス的な大統領
ジェファソンは現代風に肩書きを挙げるのであれば、政治家はもちろんであるが、法律家、外交官、植物学者、農学者、園芸家、地理学者、古生物学者、数学者、天文学者、自然主義者、人類学者、民族学者、哲学者、古典主義者、愛書家、辞書編纂者、言語学者、作家、教育者、美食家、馬術家、発明家、技師、貨幣収集家、ヴァイオリニスト、家具デザイナーなどの肩書きを挙げることができる。また1797年3月3日には、アメリカ哲学協会の会長にも就任している。
ジェファソン自身、「猟で狐をしとめたり、愛馬が競馬で勝ったり、法廷や国家の重大な会議で白熱した議論をたたかわせたり、といった興奮のさなかに、わたしは何度も自問してみた。―さてこのうち、どの分野で声望を得ることがもっとも望ましいのだろうか(五十嵐武士訳)」と自問するほどであった。
エリクソンはこのような多彩な才能を持つジェファソンを「プロテウス的な大統領」と呼んでいる。プロテウスはギリシア神話に登場する海神である。様々な姿に身を変えて予言を行うという。プロテウス的人物は、その神のように多様な性格を持ち、様々な能力を有し、変化する情勢にうまく適応できる人物、または本質を捉え難い人物を指している。
1962年4月29日、 ジョン・ケネディ大統領が49人のノーベル賞受賞者と124人の知識人をホワイト・ハウスに招いて行った晩餐会の席上で「おそらくトマス・ジェファソンが1人で食事した時を除けば、これは、これまでホワイト・ハウスに集った人知と才能の中でも最も非凡な集まりだと私は思います」と述べたという有名な逸話も残っている。
科学者ジェファソン
生物学
ジェファソンは常に巻尺を携行し、目に付くものを片っ端から測定し、綿密な記録を残していたという。また鳥や昆虫が初めて鳴いた日や植物の開花日なども記録している。特に『ヴァージニア覚書』は、当時のヨーロッパに科学者としてのジェファソンの名を知らしめた著作となっている。アルバート・ノックは『ヴァージニア覚書』を「それは統計の本であり、他に意図はない。そして、おそらくこれまで作成された中で最も興味深い統計」と評している。
こうしたジェファソンの科学に対する情熱は、経験主義に裏打ちされた科学であった。『ヴァージニア覚書』の中でビュフォンの説に対して反論していることが最もよく知られている。ビュフォンは、旧世界と新世界の動物を比較し、後者のほうが退化し矮小化していると述べた。その原因をビュフォンはアメリカの湿性と寒冷に帰している。ジェファソンはそれに対し、アメリカがヨーロッパよりも湿性であり、寒冷であるとは必ずしも言えないと反証を示している。さらにアメリカとヨーロッパそれぞれの固有種の重量を比較検証し、前者のほうが重量に勝ると結論付け、ビュフォンの論を否定した。
他にも1797年3月10日に、古生物に関する論文をアメリカ哲学協会に提出している。それはヴァージニア州で発見されたメガロニクスの化石に基づいた研究である。またジェファソンはマンモスの骨をフランスに送っている。
考古学
ジェファソンはアメリカで最初に科学的な考古学調査を行った人物として知られている。長年、ネイティヴ・アメリカンの「古墳」に興味を抱いていたジェファソンは、1782年頃、近隣にある墳墓の発掘に取り掛かった。その墳墓はモナカン族がかつて居住していた場所にあった。
墳墓を発掘する際に採用された手法は、層序に基づいて出土した物を克明に記録するという現代の考古学に通じる手法であった。発掘の結果、ジェファソンは墳墓が「町の集合地下墓所」であり、次々に遺骨を埋葬していく過程で墳丘が形成されたと結論付けた。
種痘法
種痘法はこの頃ようやくアメリカに広まり始めたばかりであった。ジェファソンは家族や奴隷に種痘を施すだけではなく、ルイスとクラークの探検隊に種痘法をネイティヴ・アメリカンに教えるように勧めている。
気象の記録
ジェファソンは自宅から離れている時でさえも気温や風向など気象記録を綿密に記録していた。また当時、発明された気球を気象現象の解明に使用するように提言している。
建築家
モンティチェロ
ジェファソンの自宅として有名なモンティチェロ(イタリア語で「小さな山」の意)は、アメリカ建築史上、擬似古典様式を代表する建築物である。またアメリカ国内で世界遺産に登録された唯一の個人邸宅である。ジェファソン自身の設計によるモンティチェロは、ヴァージニア州中部アルブマール郡の西部に連なるブルーリッジ山脈の麓に位置する、ジェファソンは、様々な建築に関する本を読み、中でもルネサンス時代のイタリアの建築家アンドレ・パラディオの『建築四書』(1570)を愛読したという。
1768年5月15日、ジェファソンはモンティチェロの建設予定地の整備を依頼している。そして、1769年に建築が始まったモンティチェロは1790年頃にいったん工事を終える。さらにその後、大規模な改築が行われ、1809年になってようやく完工した。モンティチェロは3層35室からなり、中央のドームの下に八角形の部屋を有している。モンティチェロには、自動開閉扉、回転式給仕扉、ワイン運搬用エレベーターなどの設備があった。
「私は他のどの場所にいるよりも、どのような仲間と交わっているよりも、モンティチェロにいる時の方が幸せに感じます。私のすべての願いは、私の生涯がそこで終わって欲しいと願うモンティチェロにおいて終わるでありましょう(明石紀雄訳)」という言葉からは、ジェファソンのモンティチェロに対する深い愛着が読み取れる。
ポプラー・フォレスト
またポプラー・フォレストと名付けた別荘もジェファソンの設計による。それはベッドフォード郡の農園に建てられた八角形の建物である。1806年頃から工事が始まり、1809年頃に完成した。ポプラー・フォレストは、モンティチェロから南西約90マイル離れた所にある。ジェファソンはポプラー・フォレストを「隠者の独居」と名付け、年に3,4度、2週間から長い場合は2ヶ月間滞在したという。
それ以前にもジェファソンはポプラー・フォレストを訪れている。1781年に訪れた時は馬から落ちて負傷している。その傷が癒えるのを待つ間にジェファソンは『ヴァージニア覚え書き』の初稿を書いた。
ヴァージニア州議会議事堂
1786年6月、当時、ヨーロッパに赴任していたジェファソンは、ローマ神殿をモデルにした設計案を送っている。それは、公共建築に優美なデザインを採用すべきだとジェファソンが考えていたからである。ジェファソンは、人々の審美眼を養い、世界での評判を高めることを主眼において公共建築のデザインを決定すべきだと論じている。ローマ建築を模したヴァージニア州議会議事堂はアメリカで古典様式が流行する発端となった。
デザイン・コンペに落選
他にもジェファソンはワシントンの都市計画を担当したピーエル・ランファンに、アムステルダム、パリ、ボルドー、モンペリエ、マルセイユなどヨーロッパ各地の都市の図面を貸し与えている。
さらに大統領官邸のデザイン・コンペにもジェファソンは参加している。最終的には、多くのデザイン案の中からジェームズ・ホーバンの案が選ばれ、500ドル相当の金メダルと町の1区画が与えられた。それは3階建てで正面は160フィートに及ぶ設計案であった。
残念ながら日の目を見なかった案の中には、「A.Z.」という署名された案があった。審査員の注目を集めることもなく、コメントも全く残っていない。実は、後に分かったことだが、それはトマス・ジェファソンが匿名で出した案であった。
世界一高いジェファソン・ボトル
10万5000ポンドのワイン
1985年12月5日、パリで18世紀半ばに建てられた住宅を解体中に発見されたというワインがクリスティーズのオークションに出品された。そのボトルには「Th. J.」という文字が刻まれていた。アメリカ人によって10万5000ポンドで競り落とされた。1本のワインとしては世界最高価格である。
これはジェファソンが購入したボトルだとされたが、トマス・ジェファソン記念財団の研究者はその存在を裏付ける明確な文書は見当たらないと否定的な見解を示している。真贋に関して多くの疑問点があるとはいえ、ジェファソンの名が高値を呼んだことは疑問の余地がない。それだけジェファソンはアメリカ人にとって伝説的な存在であることがうかがえる。
アメリカ最初のワイン通
1991年3月15日のワイン・スペクテーター誌で「アメリカ最初のワイン通」として紹介されているようにジェファソンがワインについて造詣が深かったことはよく知られている。
1769年にモンティチェロの建設を始めた際も、最初に取り掛かったのはワイン・セラーであった。それだけではなく、アメリカでワインを生産しようと考え、モンティチェロの裏庭に約200エーカーの広さのブドウ畑を作らせた。また4分の1エーカーの畑にフランス、イタリア、アメリカの23品種の植え付けを行っている。こうした試みはあまりうまくいかなかったが、ジェファソンがワインを愛していたことがよく分かる。またジェファソンはワインと同様に好んでフランス料理を食べていた。 ジェファソンは「甘口」、「酸味がある」、「辛口」、「口当たりがよい」、「渋みがある」の5つでワインの風味を評価していたという。ただし強いワインは飲めず、弱いワインしか飲めないとジェファソンは述べている。蒸留酒は嗜まず、麦芽酒や林檎酒を飲むことが常であり、朝食では紅茶やコーヒーを飲んでいた。
ヨーロッパに滞在していた際も、1787年3月から6月にかけて南仏と北伊各地を巡り、その途上で各シャトーの生産量やブドウ畑の土壌、ブドウの栽培方法に至るまで詳細な記録を残している。
大統領に就任したワシントンのために大量のワインを注文したこともあった。またモンローの大統領選出を祝う手紙では、選挙についてごく僅かに触れただけで、ホワイト・ハウスに備えるべきワインについてより多くの紙幅を割いている。
文芸ノート
ジェファソンは、哲学や文学の本から抜書きを「文芸ノート」としてまとめていた。文芸ノートはもともと無題の手稿であるが、便宜上、そのように呼ばれている。こうした抜書きは、1814年2月10日付の手紙によれば「どのような結果が導かれようとも真実と理性に従うことを恐れず、立ち塞がるあらゆる権威に挑戦して、旺盛に知識を追求した」時に書かれたものである。
ジェファソンは、少なくとも抜書きを15才頃から始め、30才くらいまで続けている。総計407もの抜書きから構成されている。こうした抜書きを作ること自体は、当時の学習方法としてはごく当たり前の方法でジェファソンの独創的な方法ではない。
文芸ノートは、ジェファソンが若い頃に受けた教育の内容やどのような文学作品に関心を抱いていたのかを示す最も重要な資料である。抜書きの中でも一番多くの分量を占めている著作家はボーリングブルックである。ジェファソンはボーリングブルックの神学に対する懐疑主義に影響を受けたようである。例えばジェファソンは次のような抜書きを行っている。
「真実は、キリスト教の最も初期の時代では、すべての人が自分自分の霊性によって判断するものであり、彼が宿す魂の賜物であったので、すべての教会は霊性ある執筆者と書籍が持つ神聖な権威によって判断された。[しかし、]前者が後者を導くようになり、すべての特定の教会がその教義とまことに一致するように、執筆者を霊性があると見なし、また書籍を教典とするようになった。こうした無節制がどれほど行われたのかを考えると驚かされる」
またホメロスの『イリアス』、『オデュッセイア』、エウリピデスの『』、ヘロドトスの『ペルシア戦史』などギリシア古典に加え、ヴェルギリウス 『アエネアス』をはじめ、キケロのやホラティウスなどローマ古典からの引用が多い。古典からの引用は原文で行われている。なおホメロスの『イリアス』についてはアレグザンダー・ポープの英訳からも採っている。
他にもデイヴィッド・ヒュームの『テューダー朝のイギリス史』、エドワード・ヤングの『夜想Night-』、ジョン・ミルトンの『失楽園』、 『苦悩するサムソン』などが挙げられている。さらにシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』からは「臆病者は死の前に何度も死ぬ。勇敢なる者は死を一度しか味わうことはない」という言葉を採っている。小説はローレンス・スターンの作品のみである。
後年、ジェファソンは「英語の韻律に関する考察」で、ラテン語、ギリシア語、英語の韻文を数多く引用し、近代言語は古代言語と同様の韻律法を駆使していると詳細にわたって論じている。ちなみに他に読むことができた言語は、アングロ・サクソン語、フランス語、イタリア語、スペイン語である。
政治法学ノート
「文芸ノート」に加えてジェファソンは、「政治法学ノート」をつけている。文芸ノートと同じく、政治法学ノートはもともと無題の手稿であるが、便宜上、そのように呼ばれている。政治法学ノートは、弁護士業に便利なように重要な判例が記録されている。さらにアルファベット順で並べられた法律用語が掲載されている。
政治法学ノートの具体的な内容は、当時の法律家に必須の基礎文献からの抜書きやイギリスをはじめオランダやスイスなどの政治制度や歴史に関する書物の抜書きなどで占められている。その他にもプルタークの『ペリクレス』、モンテスキューの『法の精神』、刑罰の平等性と死刑廃止を唱えたイタリアの刑法学者ベッカーリアの『犯罪と刑罰』などが散見される。全体的な特徴としては、限嗣相続や封建主義へ反対する傾向が読み取れる。「政治法学ノート」は、後々、ジェファソンの様々な執筆活動で活かされている。ただし、こうした著述家の主張を全面的に受け入れていたわけではない。例えばモンテスキューの『法の精神』についてジェファソンは、「矛盾をはらんだ本」であり、「君主制、特にイギリスの君主制に対する偏愛」を感じさせる点は支持できないと述べている。
ジェファソンは多くの著述家の影響を受けているが、その中でも尊敬していた人物は、ベーコン、ロック、ニュートンの3人である。「かつて生きていた中で最も偉大な3人の人物」と評している。さらにジェファソンは、ベーコンを最上位に、その下にロックとニュートンを配した肖像画を描くように画家に依頼している。この肖像画については有名なエピソードがある。国務長官時代、ジェファソンが閣僚達を晩餐に招いた際の話である。 アレグザンダー・ハミルトン財務長官は肖像画の前で足を止め、ジェファソンの説明に耳を傾けながら、「かつて生きていた中で最も偉大な人物はジュリアス・シーザーだ」と言ったという。
我が頭と我が心の恋文
ジェファソンが駐仏アメリカ公使としてヨーロッパに滞在していた頃、イタリア生まれのマリア・コスウェイという女流画家と知り合った。マリアの夫リチャードも画家で仕事のためにイギリスからフランスに来ていた。その頃、27才だったマリアは夫に同行し、フランスに滞在していた。
ジェファソンはマリアと頻繁にパリ市内や郊外の散策に出掛けている。マリアの帰国を知らされてジェファソンは4000語以上の長大な恋文を送った。オリジナルは見つかっていないが、写しは残っていて、1829年8月23日に公開された。
1786年10月12日付けの手紙は次のような「我が頭」と「我が心」の対話形式から成っている。
「(頭)友よ、どうやら君は良い調子のように見えますが。(心)実のところ、私はこの世のすべての生き物の中でも最も惨めな状態にあります。悲しみに打ちひしがれ、私の身体の全細胞が自然に耐えられる以上に膨張した今、これ以上、何も恐れず、何も感じなくしてくれるような破滅を何であれ歓迎したい気分です。(頭)それらは、君の優しさと軽はずみによってもたらされた変わることのない結果なのです。これは君がいつも我々を引っ張り込む苦境の1つです。君は自分のまことに愚かしい行為を告白していますが、まだ後生大事にそれらを抱えたままです。後悔することがない限り、更正は全く期待できません。(心)我が友よ、今は私の愚行を咎める時ではありません。私は強い悲しみでずたずたに引き裂かれています。もし何か鎮痛薬を持っていたら、私の傷に塗り込んで下さい。さもなければ、新しい苦しみでさらに傷をひどくするようなことをしないで下さい。こんなに嫌な時は、私をそっとしておいて下さい。他の時ならば、辛抱して君の忠告に注意を払ったでしょう」
結局、その時、頭と心のどちらが勝利を収めたのかをジェファソン自身は明らかにしていない。そのため研究者は、頭と心のどちらが勝利を収めたかという論点でこの手紙を論じている。
マリアは翌年8月28日、今度は独りでパリに来訪し、ジェファソンと再会している。しかし、予定がなかなかあわず、すれ違いの日々が続いた。結局、12月にマリアはイギリスに帰ることになった。その日の朝、ジェファソンはマリアのもとを訪れたが、既に彼女は出発した後だった。その後、2人は2度とあうことはなかったが、30年以上も手紙を交わし続けた。
新しい物を広める
トマト
アメリカではトマトはもともと観賞用で、昔は猛毒があると信じられていた。公開の場で勇気ある男がトマトを食べるという催しも行われたという。その様子を見ていた女性の中には気を失ってしまう人も出たと伝わっている。トマトに猛毒があるという俗信は相当根強かったらしい。それにも拘わらず、ジェファソンは、「トマトには毒がある」と言い張る女の子の前でトマトを食べてみせたという。後に ジェームズ・ブキャナン大統領の正式晩餐会のメニューにトマトが加えられていることから、トマトを食べる習慣は徐々に広まったである。
トマトの他にも当時、珍しかったナスをはじめとして、ダムソン・スモモ、チリメンキャベツ、サトウダイコン、カリフラワー、チコリ、ブロッコリ、セロリ、キクイモ、シムリング(カボチャの仲間)などを栽培している。ジェファソンは、「100種類の種の中で1つでも有用な植物があれば、残りの99個はそうでもなくとも十分見返りがある」と述べるほど新種の栽培に熱心であった。新型の鋤を考案したこともよく知られている。また大統領在職期間中もワシントンの市場で売られる野菜について克明に記録を残している。大統領引退後もアルブマール郡で農業協会を組織し知識の普及に貢献した。
ジャガイモ
さらにジェファソンは、ジャガイモを食品として栽培することを試みている。ジャガイモをアイリッシュ・ポテトと呼び、フレンチ・フライを作って来客にふるまったという。フレンチ・フライが供されたのはそれが最初だと言われている。既に18世紀前半にジャガイモは伝わっていたが、ジャガイモには毒があると信じられていた。その毒を除去するためには、ジャガイモを煮る以外ないと思われていたので、油で揚げるフレンチ・フライは画期的な料理法であった。
オリーヴ
この当時、オリーヴはほとんどアメリカで知られていなかった。しかし、ジェファソンは、油を採取できるオリーヴを重要な樹木だと考え、サウス・カロライナとジョージアへの導入を図った。1788年、サウス・カロライナの農業組合から購入資金を受け取ったジェファソンは、オリーヴの苗木を購入し、フランスからアメリカに送るように手配した。積荷はなかなか届かなかったが、1791年になってようやく2箱の船荷が届いた。
ジェファソンの努力にも拘らず、オリーヴの栽培は普及しなかった。なかなかオリーヴに適した気候と土壌を兼ね備えた場所が見つからなかったためである。現在でもアメリカのオリーヴ油の生産量は主要生産国に比べるとごく僅かである。
オリーヴの他にも陸稲をアフリカからアメリカに取り寄せて栽培しようとしている。ジェファソンは「有用な植物」をアメリカに普及させる事業を非常に重要だと考えていた。
ヴァニラ・アイス・クリーム
パリ滞在中にジェファソンはフランス料理のレシピを綿密に写し、モンティチェロに持ち帰っている。手書のレシピの1つにヴァニラ・アイス・クリームのレシピがある。ジェファソンはヴァニラがとても好きで、1791年に、パリ駐在の外交官に、フィラデルフィアではヴァニラが入手できないので50莢送るように依頼したほどである。ヴァニラをアメリカに初めて持ち込んだ人物はおそらくジェファソンであると考えられている。
アイス・クリームを製造するためにジェファソンはソルベティエール(今で言う「アイス・クリーム製造機」)をフランスから持ち帰ったと考えられる。
それより前、少なくとも1744年にはアメリカでアイス・クリームが賞味されていることは確かなので、アイス・クリーム自体を初めてアメリカに持ち込んだ人物はジェファソンではない。またワシントンも1790年夏、ニュー・ヨークでアイス・クリームを供するために200ドルを費やしている。しかし、ジェファソンがアメリカで早くからヴァニラ・アイス・クリームを楽しんだ1人であり、普及に一役買ったことは確かである。
マカロニ
1789年、ジェファソンの秘書は、主人の求めに応じてイタリアのナポリで購入した「マカロニを製造するための型」をパリに送るように手配した。荷物がパリに着いた時、既にジェファソンは帰国した後であった。マカロニ製造機は他の荷物とともにアメリカに後送され、1790年にフィラデルフィアに届けられた。これはアメリカ初のマカロニ製造機と言われている。
莫大な負債
負債の原因
豊かな資産に恵まれているはずのジェファソンは莫大な借金を抱え込んでいる。例えば大統領在任の8年間だけでも1万1000ドル(数千万円相当)のワインの請求書を溜め込んだ。大統領としての最初の年度の必要経費だけでも約2万2000ドルを要した。その当時、接待費を大統領個人で支払うのが原則であった。
当時の大統領の年俸は2万5000ドルであった。また所有する農園で栽培するタバコと小麦の売り上げは年平均3500ドルから5000ドル程度と見積もられている。他に所有する奴隷や土地の貸し出しや製粉場、釘製造などにより収入を得ていた。しかし、製粉場は利益をあげるどころか恒常的に赤字であり、釘製造も成功を収めたとは言い難い。その一方で、出港禁止令や1812年戦争によって輸入が途絶えたためにやむを得ない措置だったとはいえ、紡績機を使用して毎年2000ヤードの衣類の自給に成功している。
晩年にジェファソン自らが試算したところ、負債の総額は少なくとも4万ドルに達していた。また3年後に孫のトマス・ランドルフ(遺言執行者)が計算したところ、負債総額は少なくとも10万7000ドル(少なくとも数億円相当)に達していた。モンティチェロの評価額が7万1000ドルであったことからするといかに莫大な額かが分かる。これほど多額な負債を抱え込んだ理由は、モンティチェロの建設費用や莫大な書籍代などジェファソン自身の責任もあるが他にも原因がある。まず手形の保証人になったことで他人の借金を抱え込んだことが挙げられる。また義父ジョン・ウェイルズが亡くなった時に1万1000エーカーの土地と135人の奴隷を相続しているが、負債も同時に相続したために土地の大半を返済に充てるために売り払わなければならなかった。土地の購入者の大半は、革命期の紙幣で支払いを行っていたが、その紙幣の価値下落により、ジェファソンは義父の負債にさらに苦しめられることになった。
蔵書の売却と宝くじ発売計画
1815年には、前年に兵火によって焼かれた連邦議会図書館に約6500冊の蔵書を2万4000ドルで売却している。それは荷馬車で「18台から20台」分という途方もない量であり、約50年間にわたって「苦労も機会も費用も惜しむことなく」集めた「9000冊から10000冊」の蔵書の大半である。新聞でイギリス軍のワシントン焼き討ちを知ったジェファソンは、議会に自ら図書の売却を持ちかけた。もちろんお金に困っているので売却したいと述べたわけではなく、あくまで議会図書館の再建のためという名目ではあったが、売却によりお金を得ることはジェファソンにとって願ってもないことであっただろう。
さらに最晩年にジェファソンは「ジェファソン宝くじ」を企画していた。その利益で負債を清算しようと考え、議会に特別の発行許可を求めた。従来、ジェファソンは「賞賛に値する望ましい目的」であっても宝くじに決して関与しないと言明していたことからすると、よほど切羽詰っていたようである。もし宝くじ発行が認められなければ、モンティチェロを手放して「頭を突っ込むだけの丸太小屋」に移らざるを得なくなり、埋葬地が手元に残るかどうかさえ心もとないとジェファソンは嘆いている。
幸いにも議会はジェファソンの要請を裁可した。それに基づいて1枚2ドルで1万枚の富くじの発行が決まったが、結局、計画は頓挫した。そこで有志からの義捐金が寄せられたものの、負債をすべて返済することはできなかった。
資産の散逸
ジェファソンが亡くなった後、負債を整理するために資産が競売にかけられた。ジェファソンが長年かけて集めた絵画、彫刻のみならず、複写機、奴隷までも含まれていた。こうしてジェファソンの遺産は散逸し、数多くの遺品の行方が分からなくなった。
そのため後世、ジェファソンの遺品が再び姿を現したことがしばしばニュースとなった。1904年6月8日、ニュー・ヨーク・タイムズ紙は、ジェファソンが所有していたという真鍮製の石炭入れが盗難に遭ったという記事を掲載した。また同紙は、1930年10月26日、ジェファソンのフランス革命を伝える手紙やヴァージニア大学の設計図などが競売にかけられたことを報じた。さらに同紙は、1947年2月23日、ジェファソンが考案した新型の鋤のオリジナルの木製模型がパリで発見されたと伝えている。
多くの資産が散逸したとはいえ、ジェファソンが独立宣言をその上で書いたという文箱は幸いにも孫娘に生前贈られたので散逸を免れた。この文箱には、ジェファソンの自筆で「政治には宗教と同じく迷信がある。迷信は時の経過とともに強くなり、ある日、この遺物に、我々の偉大な独立宣言との繋がりのために想像上の価値が与えられるであろう」と記されている。
黒人観
1791年8月、ジェファソンはベンジャミン・バネカーという1人の黒人から暦を受け取った。それは、バネカー自身が計算して作成した暦であった。暦にはバネカーの手紙が添えられていた。バネカーは手紙の中で、黒人に対する根拠のない偏見を是正するべく協力して欲しいとジェファソンに呼びかけた。当時、知的能力の点で黒人は白人に劣っているという根強い偏見があった。バネカーは自ら成し遂げた業績をジェファソンに見てもらうことによって、そうした偏見取り除こうとしたのである。
ジェファソンはバネカーに対して1791年8月30日に「自然は我々の黒人同胞にも他の人種と等しい能力を与えられ、黒人の能力が欠如しているかのように見えるのは、単にアフリカとアメリカにおける黒人の堕落した生活状態のせいだという証拠をあなたがお示しになりましたが、私は他の誰よりもそうした証拠を見たいと願っています」という返事を送っている。
しかし、後に友人に送った手紙の中でジェファソンは、「われわれはバネカーが暦がつくれる程度には球面三角法について知っていたと思うのですが、しかし[白人の]エリコット―この人物はバネカーの隣人であり友人でありまして、つねづねバネカーをおだてあげ、焚きつけていました―の援助なしにこれができたかどうか、疑いなしといたしません。わたしはバネカーから長文の手紙をもらいましたが、その手紙はバネカーがじつにありきたりの精神の持ち主でしかないことを示しています(清水忠重訳)」と本心を語っている。
ジェファソンは、人種の差異に基づいて黒人が生得的に劣っていると断定している。さらにジェファソンは、奴隷解放を望みながらも白人の血と黒人の血が交じり合うことにことによって白人が持つ美質が失われるのではないかと危惧している。
しかし、一方でジェファソンは黒人の道徳感覚については、決して白人に劣るものではないと擁護している点は忘れてはならない。
女性の役割
1788年に記された「パリからアムステルダムおよびストラスブルグへの往還に関する覚書」の中でジェファソンは、ドイツの女性について述べた後で自らの女性一般像について以下のように語っている。
「女性達を便利で分別がある伴侶だと考える一方で、女性達は我々の喜びの源であることも忘れることはできないだろう。女性達はそれを絶対に忘れることはない。泥にまみれて重労働に従事していても、リボンの切れ端、指輪、ブレスレット、耳飾り、ネックレスなどそうした類の物を身につけているが、それは女性達の楽しみを求める気持ちを抑えることができないことを示しているように思われる。男性が身を落ち着けるとすぐに家の中の仕事を女性の伴侶に割り当て、外の仕事を自身に引き受けることは、男性にとって有益な状況である。(中略)。女性は彼女に属する細々とした一連の世話焼きの1つたりとて忘れることはない。男性はしばしばそれを忘れる」
後に女性教育についても「女性達に確かな教育を与えることは不可欠です。教育を受けたことによって、彼女達が母親になった時に、娘達を教育することができますし、もし父親がいないか、能力がないか、無関心である場合、息子達の進路も決めることができます」と述べている。
馬好き
『アイザックによるモンティチェロの奴隷としての回想』によれば、ジェファソンは乗馬を好んで日課としていたという。さらにジェファソンは競走馬を所有し、イギリスやスペインから多くの優良馬を輸入している。また競馬や馬の見世物を見に行くのが何よりも好きであったという。そして、サイコロやトランプで博打を時々楽しんだという。またミシシッピーの西部に野生馬の群れがいるという話を聞いて、詳細を問い合わせる手紙を送っているほど強い関心を示している。
馬の他にはウサギや鹿、フランスから連れて来たブルドッグを飼っていた。鳥の中ではマネシツグミをこよなく愛したという。ホワイト・ハウスでジェファソンは後についてくるようにマネシツグミならそうとしたり、口移しで餌を与えようとしたりしていたという。庭の手入れを毎日1時間半ほど楽しみ、手先が器用で鍵や錠前を自分で作ったという。
多くの地名の由来となる
ジェファソンの名前はワシントンに次いで多くの場所に冠せられている。少なくとも25の郡、10の町の名前がジェファソンに因んで命名されている。他にも3つの山、1つの河川に命名されている。中でも最も有名なのが、インディアナ州のジェファソンヴィルである。ジェファソンヴィルは1802年に建設され、当時、インディアナ準州長官であったウィリアム・ハリソンによって命名されている。ハリソンから手紙を受け取ったジェファソンは、都市計画に関して助言を与えている。また他にもミズーリ州のジェファソン・シティは州都として知られている。
ヨーロッパ諸国の王侯に対する痛罵
王妃マリー・アントワネットに対する酷評もさることながら、ジェファソンは1810年3月5日付の手紙の中でもヨーロッパ諸国の王侯に対する悪評を並べ立てている。
「ルイ16世は、、裁判で彼のためになされた反論にも拘らず、私の知る限り愚か者であった。スペイン王も愚か者であり、ナポリ王も同様であった。彼らは狩猟に明け暮れ、週に2度、1000マイルも急使を走らせてお互いにここ数日の間に殺した獲物について報告しあっていた。サルディニア王も愚か者だった。彼らは皆、ブルボン家である。ブラガンサ家のポルトガル王妃は、天性の間抜けであった。デンマーク王もそうだ。彼らの息子達が摂政として政治権力を行使していた。フリードリヒ大王の後継者であるプロイセン王[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]は、心も身体もただの豚である。スウェーデン王グスタフ[3世]、オーストリア王ヨーゼフ[2世]は本物の馬鹿であり、イギリス王ジョージ[3世]は知っての通り狂人である」
ナポレオン評と歴史観
フランス革命に概ね好意的であったジェファソンであったが、ナポレオンに対しては否定的であった。1799年のブリュメールのクーデーターの直後に、ジェファソンはナポレオンがいずれは終身元首になるのではないかと不安を示している。それはアメリカにとって悪しき前例となる可能性があったからである。君主制が共和制に取って代わることがジェファソンにとって最大の恐怖であったので、そうした不安は当然であったと言えよう。 ジョン・アダムズに宛てた1814年7月5日付の手紙の中では次のように語っている。
「ボナパルトは戦場でのみ獅子であった。しかし、市民生活においては、冷血で利己的、かつ無節操な強奪者であり、美徳がなく、政治家でもなく、商業、政治経済、市民政府について何も知らず、大胆な憶測によって無知を露呈した。私は彼をブリュメール18日のクーデターまでは偉大な人物だと思っていた。しかしながら、その日から私は彼をたいした悪党だとしか思えなくなった」
ジェファソンの考えでは、ナポレオンは、フランス革命が本来、目指していた理念を後退させるだけではなく、夥しい流血ももたらした「残酷な利己主義」を持つ人物であった。「ナポレオンが死ねば、彼の専制政治もともに死ぬだろう」とも述べている。そして、晩年、ナポレオンの没落を聞いたジェファソンは、「フランスは怪物から解放され、再び地球上で最も好ましい国になるに違いない」と評している。『自伝』の中では、フランス革命に関連して次のような歴史観が示されている。
「歴史上、国家の道徳が完全に失われた3つの時代があった。最初の時代は、アレクサンダー大王の後継者達の時代であり、アレクサンダー大王自身も除外することはできない。次の時代は、初代ローマ皇帝の後継者達の時代である。さらに我々の時代である。我々の時代はポーランドの分割から始まり、引き続いてピルニッツ条約、コペンハーゲンの海戦、それから、ナポレオンがほしいままに極悪非道な大地の分割を行い、大地を戦火で荒廃させた。今、諸王やナポレオンの後継者達を共謀して罰当たりにも自分達を神聖同盟と呼び、投獄された統治者の先例をたどろうとしている。綿密に言えば公然と他国の政府の権利をまだ侵害してはいないが、支配形態を軍によって統制し、意のままになる秩序を保ちながら、さらなる権利の侵害が目論まれている」
トマス・ジェファソン記念館
トマス・ジェファソン記念館はナショナル・モール(ホワイト・ハウス・国会議事堂などを含む一帯)の南部に位置する。1938年12月15日に起工式が行われ、ジェファソンの生誕200周年である1943年4月13日に完工式が祝われた。
ローマのパンテオンをモデルにしたボザール様式の大理石の建物である。中央には、高さ19フィートのジェファソンのブロンズ像が据えられている。ポーランドのタディアス・コシューシコ将軍から贈られた毛皮の外套をまとい、左手には独立宣言を持っている。
内壁にはジェファソンの言葉が刻まれている。まず南西壁面にはアメリカ独立宣言から採られた以下の一節が刻まれている。
「われわれは、次のことは自明の真理であると信じている。すなわち、すべて人は平等に造られ、造物主によって一定の誰にも譲ることのできない権利な与えられ、これらの権利の中には、生命・自由および幸福の追求か含まれ、これらの権利を確保するために政府が設置されることである。・・・われわれは次のごとく厳粛に宣言するものである。これらの植民地は自由にして独立な国家であり、また当然そうあるべきである、と。・・・この宣言の支持のために、われわれは神の摂理の加護を信じ、相共に、われわれの生命・財産および神聖なる名誉を捧げることを誓う」
次に北西壁面には、ヴァージニア信教自由法からの一節からの抜粋が記されている。なお最後の一文のみ、1789年8月28日に ジェームズ・マディソンに宛てた手紙の中から抜粋されている。
「全能なる神は、人間の精神を自由なるものとして造り給うた。・・・この世における刑罰や重荷を課すことによって・・・人間の精神に影響を及ぼそうとする試みはすべて我らが信ずる神の計画から逸脱している。・・・何人に対しても、特定の宗教的礼拝に出席すること、あるいは特定の信教、聖職者に経済的支援を与えることを強制してはならない。また何人に対しても、その宗教上の見解、あるいは信仰の故に、一切の困苦を加えてはならない。何人も、宗教上の事柄に関する自らの見解を自由に公言し、弁論を以ってそれを保持する自由を有する。個々人で、または集団で行動するかどうかに拘らず、人々に対する道徳律を私は1つしか知りません」
また北東壁面では次のような言葉を見ることができる。
「我々に生命を与え給うた神は、我々に自由を与え給うた。自由が神の賜物であるという確信を我々が失った時、国民の自由は保たれ得るか。神が公正であり、かの正義は永久に眠っているはずがないと思えば、我が国のためにまことに戦慄を禁じ得ない。主人と奴隷の交わりは、専制と服従である。これらの人々が自由であるべきだということ以上に、運命の書に確実に記されていることはない。一般庶民を教育するための法を確立せよ。広範な計画に基づき、その実施を図ることは、国家のなすべきことである」
この一節は様々な抜粋からなる。まず一文目は「イギリス領アメリカの諸権利の意見の要約」から抜粋されている。次に二文目から四文目は、『ヴァージニア覚書』から抜粋のうえ、若干の編集が加えられている。また五文目は、「自伝」から抜粋されている。さらに六文目は、1786年8月13日付のジョージ・ウィス宛の手紙から抜粋されている。そして最後の文は、1786年1月4日付のワシントン宛の手紙からの抜粋である。
さらに南東壁面には、サミュエル・カーチェヴァルに宛てた1816年7月12日付の手紙の一文が刻まれている。なお完全に原文そのままではなく一部が削られている。
「私は、法律や制度を頻繁に[審理を経ずして]変えるべきだと唱えているわけではありません。[中略]。しかし、法律や制度は、人間の精神の進歩と手を携えて変わらなければなりません。人間の精神が発達して、より啓蒙され、新しい発見がなされ、新しい真実が見出され、そして習慣や意見が変わる時、情勢の変化とともに、制度も時勢にあわせて前進しなければなりません。文明化された社会が、未開の先祖達が持つ制度の下に留まるべきであるというのは、ある大人に子供の時に合っていた服を着なさいということに似ています」
そして、壁面とドームの繋ぐ円帯状の部分には、「私は、人間の精神へのいかなる形の抑圧に対しても、永遠に抵抗することを神の祭壇で誓いました」というジェファソンの言葉の中でも最も有名な一節が大きく刻まれている。それは、1800年9月23日付のベンジャミン・ラッシュに宛てた手紙の中にある言葉である。
暗号の使用
暗号解読の過程
ジェファソンは公式な手紙だけではなく、個人的な書簡でも暗号を用いたことで知られている。主な相手はジェームズ・マディソン、ジョン・アダムズ、 ジェームズ・モンロー、ロバート・リヴィングストンなどである。さらにルイスに探検を命じた際にも暗号を使うように指示している。ジェファソンが使用した暗号は、当時、広くヨーロッパで使われていたヴィジュネル暗号をもとにしている。
独立戦争期、ジェファソンは主に使者に通信を託す方式に主に頼っていた。しかし、ヨーロッパに赴任後は、その距離からして手紙に頼らざるを得なくなった。手紙は途中で開封されて内容が漏洩する危険性が高く、そのため暗号の使用は当然の帰趨であった。
暗号文の内容
ジェファソンはどのような手紙で暗号文を使っていたのか。例えば1787年1月30日付のマディソンに宛てた手紙では一部が暗号で書かれている。その内容は次のような内容である。
「ヴェルジェンヌ[フランス外相]は病気である。彼の回復の可能性について疑念を表明することは我々にとって危険であると見なされる。しかし、彼は危険な状態にある。彼はヨーロッパ関係において偉大な外交官であるが、我々の政体について不完全な理解しか持っていないし、それに対して何ら信頼をおいていない。純粋な専制主義への彼の献身によって、彼は我が政府に愛着を持っていない。しかし、イギリスに対する彼の恐怖が、我々を彼にとって重要な存在にしている」
暗号機の開発
ヨーロッパから帰国して国務長官に就任したジェファソンはさらに暗号機を製作している。26の木製の円盤が、1本の鉄製の軸を中心にそれぞれ回転するようにはめ込まれている。円盤の縁には文字が不規則に刻まれている。円盤を回転させることで暗号文を作成したり、解読したりできるようになっている。
急進的な政治理念
1789年9月6日付の手紙の中でジェファソンは独自の政治理念をマディソンに向けて次のように語っている。まず「地上の使用権は生者に属し、死者は、地上に対して何の権力も、権利も持たない」ことは自明の理である。それ故、人間は生きているうちに支払えないような負債を抱え込んではならない。それは国家も同じであり、19年間、つまり、人間の平均余命から割り出した1世代で償還できないような負債を抱え込むべきではない。
また負債と同じく、「あらゆる憲法もあらゆる法律も19年目の終わりには自然に無効となる」ので、世代ごとの意見を取り入れて修正すべきである。それは、前世代が現世代に道を譲ったように、将来は次世代に道を譲らなければならないにしても、現世代が今の地上の主人だからである。現世代は、「それ自身の幸福を最も増進させると思われる政体をそれ自身のために選択できる」権利を持っているとジェファソンは断言する。ただし、後年、「生まれながらにして備わっている不可侵の人権」は変えるべきではないとジェファソンは付け加えている。メリル・ピーターソンは、こうしたジェファソンの考え方を、「ジェファソンの政治理念のうちで、もっとも独創的かつ急進的なもの(五十嵐武士訳)」と評している。
このようなジェファソンの政治理念に対してマディソンは幾つかの問題点を指摘している。憲法や法律を頻繁に変えれば、「有害な派閥」が形成される可能性がある。さらに前世代が行った「手入れ」が次世代にも利益をもたらすのであれば、それにより生じた負債は次世代も負担すべきである。またマディソンは、憲法や法律の改廃をめぐって「最も暴力的な争い」が起き、その結果、社会に害悪をもたらすと指摘している。そのため、何らかの異議がない限り、現行の憲法や法律に「暗黙の承認」が与えられていると判断するべきだとマディソンは結論付けている。
また政治家として国民の信頼を得るためにジェファソンが最も大事だと考えていた資質は、「公平無私」であった。国民にとって良いかどうかで国の問題に目を向け、自身とその家族のために財を築いたりすることなく、縁故ではなく能力で公職を任命することが政治家に求められるとジェファソンは述べている。
富の社会的分配
1785年10月、ジェファソンがフォンテーヌブローを一望しようと山中に分け入った時の話である。当時、フォンテーヌブローには王家の狩猟地があり、フランス国王はしばしばそこに滞在していた。ジェファソンは外交官の職務を果たすためにパリからフォンテーヌブローに行かなければならなかった。
町を後にして歩いていた時、ジェファソンは、同じ方向に同じような速さで歩いている人影に気がついた。それは1人の貧しい女性であった。道すがらその女性からジェファソンは貧しい人々の生活について話を聞いた。女性の話によれば、労賃は1日8スー(フランスの通貨単位)であり、子供が2人いて、家賃に30リーヴル(1リーヴルは20スー)かかる。しばしば仕事が見つからないのでパンなしで過ごすこともある。
1マイルほど同道した後、別れ際にジェファソンは道案内の謝礼としてその女性に24スーを与えた。すると突然、彼女は泣き出したという。ジェファソンは、彼女が一言も発せず泣いているのを見て、その涙が本物であると思った。またこれまで彼女はたいした援助を受けたこともないのだろうと考えた。
こうした経験は、ヨーロッパ諸国で見られる富の不平等な分配についてジェファソンに考えさせる結果をもたらした。富の平等な分配は「実行不可能」であるが、それにより多くの人々が悲惨な目にあっていることは確かである。政府が富を直接分配することは難しいが、「人間の心の自然な愛情」に反することなく富が分配されるように気をつけることはできるとジェファソンは述べている。富の分配の不平等を是正するための方策として一定基準以下の所得しかない者に対しては税金をすべて免除し、多くの所得を持つ者に対しては累進課税を適用することをジェファソンは提案している。
宗教と哲学
無神論者という非難
ジェファソンはしばしば無神論者として非難されている。それを裏付ける証拠としてよく引用されるのが、1820年8月15日付のジョン・アダムズ宛の手紙の中の次の一文である。
「実体がない物について話すことは、すなわち無について話すことです。人間の魂、天使、神に実体がないと言うことは、すなわちそれらが無であると言うことであり、魂も天使も神も存在しないと言うことなのです。私は他のようには論じることはできません。しかし、私の物質主義の信条は、ロック、トレイシー、ステュアートに支持されると思います。キリスト教会の時代のいつ頃に、こうした非物質論の異教、隠れた無神論が入り込んだかは分かりません。しかし、異教は確かに存在します。イエスはそれについて何も説いてはいません。イエスは『神は精霊である』と我々に説きましたが、精霊が何であるかは定義していませんし、それが物質ではないとも言っていません」
このように述べているとはいえ、ジェファソン自身は無神論者であることを認めているわけではない。自然や宇宙の法則の中に神性を認める考え方を持っていた。そうした考え方はおそらくニュートンの影響と思われる。
またジェファソンは、原罪を懺悔するよりも現世で良い仕事をすることを重視していた。さらに三位一体説に対しても否定的立場をとり、「今、合衆国で生きている若者の中で、ユニタリアン派として死なない者は1人もいないと私は信じる」と述べていることからユニタリアン派であったと考えられることもある。
ジェファソンは腐敗した教義を認めない一方で、全人類に対する博愛を説くキリスト自身の思想は高く評価している。ジェファソンは自らを「真のキリスト教徒」と呼び、信仰は「我々の神と我々の良心との間」の問題であって「もし僧侶がいなければ不信心者もいない」と述べている。そうした考えがどのような考えに基づいているかは次のような言葉から分かる。
「キリスト教の腐敗に私は心から反感を抱いているが、イエス自身の純粋な教えについてはそうではない。私は、イエスが望む意味でのみ、キリスト教徒だと言える。つまり、何にもましてイエスの教えを誠実に守り、人間のあらゆる優秀さが彼自身に由来するものであることを認め、主は、こうすること以外の何ものをも要求するものではないと信じている」
こうした見解は、1803年4月21日付のベンジャミン・ラッシュ宛の手紙で述べられている。手紙には「イエスの教義の特徴の評価の要綱」と題する小文が添えられており、ジェファソンの宗教観を示すものとして重要である。なぜなら、「宗教的な信条について公にしたくはない」と述べているように、ジェファソンは自らの宗教観について明らかにする機会はあまりなかったからである。
理神論者
現在では、ジェファソンは無神論者ではなく、理神論者であったという見解が一般的である。ジェファソンの考えによると、人間は神の啓示や秘蹟によって導かれるのではなく、自らの理性によって導かれるべきであった。甥ピーター・カーに宛てて書いた手紙の中でジェファソンは、「神の存在さえ大胆にも疑ってみなさい。なぜなら、もし神が存在するのであれば、盲目的な恐怖による崇拝よりも、理性による崇拝をお認めになるに違いないからです」と述べている。また「あなた自身の理性こそ神があなたにお与えになった導き手である」とも述べている。
しかし、ジェファソンは理性を絶対視していたわけではない。人間は五感を備えているように生まれながらにして本性として道徳感覚を持っている。それは肉体と同じく鍛錬によって強化することができる。理性の絶対的優越を唱える啓蒙主義時代において、ジェファソンの人間観の特徴は、理性と心情を明確に分けた点にある。
またジェファソンは道徳の基礎を理性ではなく心情に置いている。そして、理性にではなく道徳感覚に普遍性を認め、「人間の精神はすべて他者に対して善をなすこと(清水忠重訳)」にあるとした。そして、道徳には、「神に対する義務」だけではなく、「人間に対する義務」もあると述べている。「イエスの教義の特徴の評価の要綱」の中でジェファソンは、古代の哲学者、ユダヤ教徒、そしてイエスの教義を比較検討している。
ジェファソンは、古代ギリシア・ローマの哲学者が説く徳目は個人主義的な生き方に基づく考えだととらえ、それよりも全人類に共通する普遍的な「他者への義務」が重要であると述べている。そして、イエスは、ユダヤ教の教義を改め、全人類への博愛を説いた点で優れていたと論じている。
こうした宗教観を持ちながらもジェファソンは監督派教会に所属し、数多くの典礼に参加している。しかし、それは、教会に所属することが宗教的な意義だけではなく、社会の構成員として求められる要素であったことに留意しなければならない。またパリ滞在時にフリーメイスンリーに参加していたという説もあるが確証はない。フリーメイスンリーに言及した例があるので、ある程度の関心はあったようである。
ジェファソン版『新約聖書』
キリスト自身の思想を高く評価していたジェファソンは、イエスが遺した教えの断片を丹念に拾い上げれば、最も崇高な道徳の体系が完成するはずだと考えた。そうした考えに基づいて、ジェファソンは新約聖書のラテン語版、ギリシア語版、フランス語版、英語版を比較検討し、イエス自身の思想や生涯にまつわる事項を抜粋し、時間や主題の一定の順序に従って再構成する作業を行った。そうした作業はジェファソンにとって「ガラクタに埋もれている真のイエスの姿を引き出す」ことであった。そして、ジェファソンが解明しようとするイエスの真の意図は、「伝記作家達の無価値な虚飾から容易に判別できる」ものであり、まさに「肥溜めの中のダイヤモンド」であった。
先述のラッシュ宛の手紙に基づけば、少なくとも1803年頃から作業を行っていたことがわかる。その結果編まれたのが、『ナザレ人のイエスの哲学』である。ジェファソン自身の手による手稿は現存していないが、後にジェファソンが使った資料に基づいて復元されている。また1820年代には、『ナザレのイエスの生涯と道徳的教訓』が編まれている。
全体の中心になっている部分は山上の垂訓である。マタイによる福音書の417節、ルカによる福音書の247節、ヨハネによる福音書の67節、マルコによる福音書の8節から構成されている。人間イエスが実際に何を語ったのかという点に注目し、イエスの誕生から死まで人生を再構成している。奇跡や啓示を説く部分は採られていない点が特徴的である。ジェファソンは新約聖書を「イエスと呼ばれる1人の登場人物の歴史」であると考えていた。
第1次就任演説(1801.3.4)より抜粋 原文
我々は、同じ原理を持つ同胞を異なる名前で呼んできました。我々は皆、共和派であり、我々は皆、連邦派です。もし我々の中に、我が連邦を解体しようと望み、あるいは共和政体を変えようと望む者がいても放置しておくことが比類なき安全策です。意見の誤りが容認される場においては、理性がそれに自由に対抗することができるからです。正直者は、共和政治が強固ではないことを恐れているかもしれません。確かに我が政府は十分に強大ではないでしょう。しかし、実直な愛国者は、世界の最善の希望である我が政府がそれ自体を保全する力を欲するかもしれないと理論的に、または目に見える形で恐れ、我々の自由と安定を今まで保ってきた政府を放棄しようというのでしょうか。私はそうは思いません。反対に、世界で最も強大な政府を私は信じます。我が政府は、法が求めるままに、すべての人々が法の旗の下に馳せ参じ、自分自身の問題として公的秩序の侵害に立ち向うという唯一の政府であると信じます。人は彼自身の政府を信頼することができないと言われることもあります。ならば他者の政府であれば信頼することができるのでしょうか。もしくは彼を支配する王達の庇護を求めることができるでしょうか。この問題については歴史が教えてくれるでしょう。
勇気と自信を持って我々自身の連邦と共和制の原理、連帯と代議制政府への愛着を続けましょう。幸いにも自然と広大な海洋によって、[我々は]地球上の一地域で起きている破滅的な大惨事から隔てられています。しかし、[我々は]あまりに気高いために他者の零落に耐えることができません。数え切れないほどの我々の子孫達のために十分な余地を持つ選ばれた国を持っています。生まれによるのではなく、我々の行動とそれに対する我が親愛なる市民の判断によって栄誉と信頼を受けるべきであり、我々自身で勤勉さを身に付け、我々自身の能力を行使する権利が平等にあるという当然の感覚を[我々は]抱いています。確かに恵み深い宗教が様々な形で啓示され、信奉され、営まれていますが、そのすべては実直、真実、穏健、感謝、そして人類愛を説いています。[我々が]感謝の意を捧げ崇拝している神が、すべての摂理によって、我が国で人が幸福を享受し、今後もその幸福は弥増していることを証明しています。こうした恩恵がありながら、我々がもっと幸せで栄えた国民になるためにさらに何が必要でしょうか。親愛なる国民のみなさん、もうlつあります。賢明で質素な政府です。それは人々をお互いに傷付け合わないように抑止し、それ以外は自律的に勤勉と進歩の追求を自由に調整させ、労慟者のロから稼いだパンを奪い取らない政府です。これが良い政府の要点であり、我々の幸福の輪を閉じて完成させるために必要とされています。
国民のみなさん、私は、あなた方にとって大切で価値があることすべてを把握するという職務を遂行しようとしていますが、私が政府の基本原則だと思うもの、そしてひいてはこの政権を形作ることになるものをあなた方に理解してもらうのは当然のことです。私は耐えうるかぎり最も狭い範囲で要約し、一般原則を述べますが、その制約についてすべては述べません。宗教的であれ政治的であれ、いかなる地位や信条のいかんに拘わらず、すべての人々を平等かつ適正に扱います。どの国との同盟に巻き込まれることなく、すべての国々と平和、通商、そして誠実な友好関係を築きます。州内の問題に関する最も有能な管理者として、そして反共和制的な傾向に対抗するための最も堅固な防壁として州政府のすべての権利を支持します。州内の平和と州外の安全の頼みの綱として連邦政府の組織全体の活力を維持します。国民の選挙権を用心深く保護します。平和的な救済手段がもたらされなければ、革命という名の剣で切り取られてしまうはずの権力濫用を、穏健かつ安全に矯正します。多数決への絶対的同意は共和政体の基本原則です。多数決によるのではなく、武力だけに訴えかける同意は専制政治の基本原則であり、まさに専制政治の生みの親です。よく訓練された民兵は、平時に、そして正規軍が救援に来るまでの戦争期に最も信頼できる存在です。軍人の権限に対する文官の優越性を認めます。公費を無駄なく使い、国民の負担を軽くとどめます。負債を実直に返済し、神聖なる国民の信頼を保ちます。農業とそれを助ける商業を振興させます。情報を伝播させ、公論という名の法廷ですべての権力濫用を糾弾するようにします。信教の自由、言論の自由、人身保護律の庇護の下での個人の自由、そして公平に選ばれた陪審員による裁判を保障します。
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連邦議会図書館
The Papers of Thomas Jefferson Digital Edition
Online Library of Liberty
Thomas Jefferson's Monticello
サリー・ヘミングスの子孫のDNA鑑定
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