John Adams
Atlas of Independence
連邦党
Federalist
在任期間
1789年4月30日〜1797年3月4日
生没年日
1732年2月22日〜1799年12月12日
身長・体重
170.2cm/不明
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聖職者になるために高い教育を受ける
ジョン・アダムズ大統領は1735年10月30日(ユリウス暦では1734/35年10月19日)、マサチューセッツ植民地ブレインツリー(現在のクインジー)で父ジョン・アダムズ(1691.1.28-1761.5.25)と母スザンナ(1699.3.5-1797.4.17)の間に長男として生まれた。ちなみにジョン・アダムズという名前は父に因んでいる。父ジョンは息子を聖職者にするために高い教育を施そうと考え、アダムズをハーヴァード大学に進学させた。しかし、ジョン・アダムズは聖職者の道には進まず弁護士の道に進んだ。
独立のアトラス
1774年に第1回大陸会議が開かれた際に、ジョン・アダムズはマサチューセッツ植民地代表の1人に選ばれ、翌年の第2回大陸会議でも続いて代表に選ばれた。翌年の独立宣言起草にも携わった。そうした活躍によりジョン・アダムズは「独立のアトラス(ギリシア神話に登場する巨人)」と呼ばれる。ジョン・アダムズは大陸会議では戦争・軍需品局の長を務め、大陸軍の支援を行った。さらにヨーロッパで約10年にわたって外交官として働いた。帰国後に副大統領に選出された。ジョージ・ワシントン大統領の引退後、1796年の大統領選で勝利し、その後を襲った。
ワシントンの後継者
ワシントン政権末期から激しさを増した連邦派と民主共和派の対立により政権は混迷を深めた。ジョン・アダムズ大統領自身はジョージ・ワシントンの後継者として連邦派と目されたが、連邦派の中心的人物であるアレグザンダー・ハミルトンと良好な関係を築くことができなかった。そのような困難な状況の中、大統領としてジョン・アダムズ独自の判断で悪化した対仏関係を改善し、中立を守った。
1735年10月30日 |
マサチューセッツ植民地ブレインツリー(現クインジー)で誕生 |
1744年3月15日 |
ジョージ王戦争勃発 |
1751年11月 |
ハーヴァード大学に入学 |
1755年4月19日 |
フレンチ・アンド・インディアン戦争勃発 |
1755年7月16日 |
ハーヴァード大学を卒業 |
1758年11月6日 |
マサチューセッツの法曹界に入る |
1764年10月25日 |
アビゲイル・スミスと結婚 |
1765年3月22日 |
英議会の印紙条例可決により北米植民地各地で反対運動激化 |
1770年 |
マサチューセッツ植民地議会議員に選ばれる |
1774年9月5日 |
第1回大陸会議にマサチューセッツ植民地代表として出席 |
1775年4月19日 |
レキシントン=コンコードの戦い、独立戦争始まる |
1775年5月10日 |
第2回大陸会議にマサチューセッツ植民地代表として出席 |
1776年6月 |
独立宣言の起草に携わる |
1776年7月4日 |
独立宣言公布 |
1778年2月17日 |
使節としてフランスに向けて出航 |
1779年8月 |
マサチューセッツ邦憲法制定会議のブレインツリー代表に選ばれる |
1779年9月27日 |
イギリスとの講和および通商条約締結に関する全権公使に任命される |
1781年2月25日 |
オランダに全権公使の辞令を受け取る |
1781年10月19日 |
ヨークタウンの戦いでコーンウォリス率いる英軍が降伏 |
1782年10月7日 |
オランダとの修好通商条約に調印 |
1783年9月3日 |
イギリスとの講和条約に調印 |
1788年4月28日 |
母国に向けて出航 |
1788年6月21日 |
合衆国憲法発効 |
1789年4月21日 |
副大統領に就任する |
1789年7月14日 |
フランス革命勃発 |
1792年12月5日 |
副大統領再選 |
1797年3月4日 |
大統領就任 |
1799年 |
フリーズの反乱勃発 |
1801年3月4日 |
大統領退任 |
1804年 |
自伝の執筆を始める |
1812年6月19日 |
1812年戦争勃発 |
1818年10月28日 |
妻アビゲイルが亡くなる |
1820年 |
第2回マサチューセッツ州憲法制定会議の一員に選出される |
1826年7月4日 |
老衰で死去、クインジーのファスト・ユニタリアン教会に葬られる |
ニュー・イングランドの中心マサチューセッツ
アダムズの出身地であるマサチューセッツは、ヴァージニアを中心とする南部に対して、北東沿岸部を占めるニュー・イングランドの中心である。初めて行われた大統領選挙では、ニュー・イングランド6州の中でも最多の大統領選挙人を割り当てられている。また1796年の大統領選ではヴァージニアに次いで多くの大統領選挙人を輩出している。マサチューセッツの人口は、1790年の統計では約37万9000人であり、人口約1万8000人を抱えるボストンはニュー・ヨーク、フィラデルフィアに次ぐ主要都市であった。
マサチューセッツはネイティヴ・アメリカンの言葉で「大きな丘のある場所」という意味である。1620年にピルグリム・ファーザーズがニュー・イングランド初のプリマス植民地を建設し、さらに1630年ジョン・ウィンスロップ率いるピューリタンがマサチューセッツ湾植民地を建設した。そのため「古い植民地」や「湾岸州」というニックネームで呼ばれる。
大規模農業には適さない土地柄であり、南部に見られるような大規模かつ商業的な農業とは異なり自給自足の農業が主であった。その一方で沿岸部はアフリカにまで及ぶ広域交易で栄えた。独立革命前後に起きた産業革命では、交易を通じて蓄積された財により主導的な役割を果たした。そのため長らくアメリカの製造業の中心であった。
また1773年にボストン茶会事件、さらに1775年にはレキシントン=コンコードの戦いが勃発し、マサチューセッツは独立革命で重要な役割を果たした。
アダムズの故郷であるブレインツリー(現クインジー)はボストンの西郊外にある。生家は1940年までアダムズ一家が所有していたが、現在では国の史跡に指定されている。
ピルグリム・ファーザーズの血統
アダムズの先祖はイギリスのサマセットのバートン・デイヴィッドに住んでいた。アダムズの7世の祖ジョン・アダムズの名が1539年の軍役名簿に記載されている。
1638年、アダムズの高祖父ヘンリー・アダムズがアメリカに移住し、新大陸における最初の世代となった。マウント・ウォラストン (ブレインツリー)に居を定めたヘンリーは農業と麦芽製造業を営んだ。アメリカにおけるアダムズ家の祖である。ヘンリーの孫ジョゼフは、ジョン・オールデン(ピルグリム・ファーザーズの一員としてヘンリー・ロングフェローHの詩に登場することで名高い)の孫娘ハンナ・バスと結婚した。ハンナとジョゼフの間に生まれた子がアダムズの父ジョンである。つまり、系譜を遡るとアダムズはピルグリム・ファーザーズの玄孫にあたる。ちなみに建国の父の1人であるサミュエル・アダムズはアダムズの又従兄弟にあたる。
アダムズは「高潔で独立心に富んだニュー・イングランドの農夫」の子孫であることを誇りに思っていた。アダムズにとって、自ら保有する土地を耕し、誰もが平等なニュー・イングランドの農夫こそ理想的な人々であった。
のどかな町での暮らし
実直な父
父ジョンは農夫であった。農閑期には革製品を作っていた。それだけではなく、会衆派教会の執事をはじめとして民兵隊将校、保安官、徴税人、行政委員などブレインツリーの町で様々な役割を務めた人物である。息子アダムズは父ジョンの死に際して「合わせて20年間にわたって、ほぼすべての町の雑事を父はこなしていた。父は私が知る中で最も実直な人物であった」と評している。
激しい気性の母
町の雑事に関わることが多かったために父ジョンは貧困家庭を助けることもよくあったらしい。母スザンナはそれを良く思ってはいなかった。父ジョンが貧しい2人の少女を家に連れ帰った時も怒りを露にしている。母スザンナの実家のボイルストン家は、マサチューセッツの医学の歴史の中で有名な家柄であった。
アダムズは膨大な量の自筆文書を残しているが、母に関する言及は数少ない。またスザンナ自身も何も書き残していないうえに、家族からスザンナに宛てた手紙も残っていない。しばしば手紙を他の人に声に出して読んでもらっていたことからすると、スザンナは読み書きができなかったと推測される。当時の社会では読み書きができないことは特に珍しいことではなかった。
そのように数少ない資料からすると、スザンナは時に激しい気性を見せる女性であったらしい。一方で、アダムズの妻アビゲイルは義母を家族に献身的で「模範的な慈愛」の心を持った女性だと述べている。もちろんアダムズ自身にとってもスザンナは「愛すべき母親」であったことは疑いも無い。
生家と家族
アダムズの生家は暖炉を中心に5部屋からなる2階建てのごく普通の住居であった。煉瓦とオーク材、そして松の羽目板などでできていた。裏には納屋があり、農場や果樹園に続いていた。家族は父と母、アダムズ、そして2人の弟ピーターとエリヒューの5
人であった。
少年時代の遊び
少年時代のアダムズは玩具のボートを作って浮かべたり、凧を飛ばしたり、時には輪回し遊びで友達と競い合った。春は輪投げやおはじき、夏は水泳やボート、そして冬はスケートや罠猟を楽しんだ。アダムズ自身は「お楽しみの中で絶えず放蕩三昧だった」と述べている。中でもレスリングはアダムズの得意の遊びであった。小柄ながらも敏捷で力が強かったという。成人後の身長は5フィート6インチ(約168cm)である。こうした遊びは当事ではごく普通の遊びであった。最も熱中したことはハンティングである。暇を見つけてはウッドチャックやリス、ウサギ、猛禽類を銃で狩っていた。授業が終わったらすぐに狩りに行けるように学校にまで鳥撃ち銃を持って行くほどの熱中ぶりであった。アダムズは、こうした少年時代を「お伽話のように過ぎ去った」と後に回想している。
農夫を志す
父ジョンは少年時代のアダムズに何とかして本に興味を持たせるようにしようとしたがなかなかうまくいかなかった。ある日、父は10歳の息子に「何になるつもりなのか、我が子よ」と問いかけた。「農夫になるよ」と息子は躊躇うことなく答えた。父は「農夫だって?ではおまえさん、農夫になることがどういうことかを教えてやろう。明朝、ペニーの渡し場に一緒に行き、萱刈りを手伝ってもらおう」と言った。翌日、アダムズ親子は一日中、湿地帯で萱を刈っては束ね、束ねては刈って過ごした。アダムズは父に遅れまいと懸命に働いた。その日の夕食の後、父は息子に「どうだジョン、農夫になることに満足できるかな」と聞いた。息子は泥まみれになりながらも「農作業はとてもいいね、お父さん」と全く動じることなく答えた。息子の答えに面食らいながらも父は、「いや私はそれほどいいとは思えないよ。おまえは学校に戻ることになるよ」と言った。アダムズは「私は[学校に]行ったけれども、川での萱刈りの最中と比べてもたいして楽しいとは思えなかった」と記している。
兄弟
ピーター・アダムズ
長弟ピーター(1738.10.16-1823.6.2)は、マサチューセッツ植民地ブレインツリーで生まれた。農夫であり、ブレインツリー民兵大尉であった。
エリヒュー・アダムズ
末弟エリヒュー(1741.5.29-1776.3.18)は、マサチューセッツ植民地ブレインツリーで生まれた。独立戦争時、民兵中隊の指揮官を務めたが、1776年、ボストンで病没した。
父の希望でハーヴァードに進学
ピューリタン教育と数学
父ジョンから読み書きの基本を教わったアダムズは近所にある私塾に通うようになった。私塾では読み書きや簡単な算数を学ぶことができた。生徒たちは『ニュー・イングランド祈祷書』を暗証させられ、ピューリタンの価値観を徹底的に叩き込まれた。例えば「激しく燃え盛る地獄在り。邪悪な者が永遠に住まう処。悦楽に満ちた天国在り。善良な者が永遠に住まう処。死を迎えるその時に我が魂はそのいずれかに旅立たねばならぬ」というような文章が含まれていた。
学校に退屈したアダムズは、本や勉強にあまり興味を示さなかった。その当時、農夫になるのであれば高い教育は必要ではなかったからである。私塾を卒業した後、アダムズはラテン語学校に通った。ラテン語学校の進度は、アダムズが既に身に付けている算数を教えるほどとても遅かった。それに業を煮やしたアダムズは、教師に頼ることなく自力で一連の課題を終えてしまった。このことはアダムズにとってその後の人生を変える体験となった。自ら進んで勉強することの喜びを知ったのである。
ハーヴァード進学に備える
数学の面白さに目覚めた一方で、アダムズはラテン語に全く興味を持つことができなかった。そのためアダムズの学業は捗らなかった。決して豊かではない家計から学費を捻出していることを申し訳なく思ったアダムズは、ある日、学校を辞めて農場で働くことを父に申し出た。父は「おまえに大学教育を受けさせると私が心を決めていることは分かっているだろう。それになぜ逆らう必要がある?」と息子を問い詰めた。父の落胆する姿を見たくなかったアダムズは、「先生が好きになれない。先生はとても怠慢で怒りっぽいから、もうそういう先生の下で何も学びたくはない。もし、僕を受け入れてくれるようにマーシュ先生を説得してくれるなら、僕に素質がある限り、勉強に専念して準備が整ったら大学に進学するよ」と答えた。息子の思いを聞いた父は早速、マーシュを訪問し、翌朝、息子に問題は解決したと告げた。
マーシュの下で、アダムズは見違えるほど熱心に勉強するようになった。あれだけ熱中したハンティングさえも忘れて本を耽読するようになった。マーシュは懇切で辛抱強い先生であり、アダムズの素質をいち早く見抜いた。僅か1年足らずでアダムズは入学試験に必要な知識を習得した。
進学先は最初からハーヴァード大学以外に選択肢はなかった。父ジョン自身は高い教育を受けていなかったが、兄ジョゼフは、1710年にハーヴァードを卒業し、ニュー・ハンプシャーの教会で牧師を務めていた。父は息子が聖職者になることを希望していたので、兄ジョゼフと同様の道をたどれるように取り計らったのである。
当初、ハーヴァード大学の入学試験にマーシュが同行する予定であったが、急病のために15歳の少年は独りで大学に向かわなければならなかった。その道すがら、アダムズは、入学試験を受けずに家に帰ることも考えたが、父と先生を落胆させまいと勇気を振り絞ってハーヴァードの門をくぐった。ラテン語に苦戦したアダムズであったが、幸い入学を認められた。
順調な大学生活と聖職者になる道への疑念
この当時から既にハーヴァード大学は創建されて100年以上を経た名門校であった。しかし、現在とは違って学生数は僅かに100名程度に過ぎなかった。大学の教科は、ラテン語、ギリシア語、論理学、修辞学、哲学、形而上学、物理学、地理学、数学、幾何学、そして神学などであった。特に好んだ教科は数学と哲学である。
アダムズは学びの傍ら、読書クラブに入っていた。新しく出た本や詩などをお互いに音読しあうクラブである。特に悲劇を演じることにアダムズは長じていた。このクラブに所属することで、アダムズは言葉によって他人を動かす醍醐味に気付いたらしい。またディベート・クラブに参加した際も、聖職者よりも弁護士のほうが向いているのではないかと思ったという。この頃、「私はよく、何よりも特に悲劇を朗読するよう頼まれていた。で、私は演説の才能があるから、実に有能な弁護士になるに違いない、と耳もとで囁かれたり、学生たちの間で噂されたものである(曽根田憲三訳)」とアダムズは語っている。
後にアダムズは自伝の中でこうした大学生活を、「すぐに私は、広がりつつある好奇心、本に対する愛好、そして勉強への没頭に目覚めた。それはスポーツへの私の興味を失わせ、さらに社交界のご婦人方への興味さえ失わせた」と回想している。卒業後、アダムズは聖職者への道へ進むことになっていた。しかし、アダムズの胸のうちには厳格なカルヴィニズムの「教条主義と偏狭さ」に対する疑念が生じていた。父の期待は大きかったが、そうした疑念を払拭しない限り、聖職者になったとしても「教区を受け持つことができないし、よしんば受け持つことができたとしてもすぐに去らざるを得なくなる」とアダムズは考えていた。1755年7月16日、アダムズは24人中14位で卒業を迎えた。順位は純粋に本人の学業成績だけではなく、社会的地位も勘案して付けられたのでアダムズの順位は決して悪いものとは言えない。
教師を務める傍ら法学を学ぶ
熱意と不安
1755年8月、アダムズはブレインツリーから約60マイル(約97km)離れたウスターの町で教師として働き始めた。「大勢のおちびさん達はABCがやっとのことで言えるくらいで、教師に手を焼かせる」と困惑しながらも、熱心に生徒を指導した。そうした経験からアダムズは、「懲罰や脅かし、そして非難することよりも約束や励まし、賞賛することのほうが容易く人間の気持ちを動かしたり、左右したりする」という教訓を引き出した。アダムズは教室の様子を「この小さな国で、私はすべての偉大なる天才、すべての驚くべき行動、そして小規模だが偉大なる世界の革命を見出した。身長3フィートに過ぎないが誉れ高き将軍達とペティコートに身を包んだ深い洞察力を持った政治家達がいる」と語っている。アダムズにとって小さな教室はまさに世界の縮図であった。
しかし、この時期から継続的に付け始めた日記には、アダムズの様々な迷いや不安が表れている。将来の希望と疑念、自らの野心と可能性、そして神と人間に関する思索などが書き連ねられている。アダムズは資産家に、できれば偉大な人物になりたいと考えるようになっていた。そして、広い世界に出て自らの才能を発揮して立身出世することを夢見ていた。「私自身の手で宝を掘ることが私の運命だ。誰も私に鶴嘴を貸したり売ったりしてはくれないのだから」とアダムズは記している。生徒の一人は、アダムズ先生がよく独りで物思いに耽ったり、何かを忙しく書いていたりする様子を記憶に留めている。
1756年7月21日の日記にアダムズは「木曜日、金曜日、土曜日、そして日曜日の朝は日の出とともに起きて聖書を勉強し、他の曜日の朝はラテン語の著作を勉強することを決心する。午後と夜は英語の著作を読もう。精神を奮い立たせて注意力を引き付けなければならない。自分自身の中に冷静さを保ちつつ、私が読んだものと私が知るものについてよく考えよう。私よりも恵まれない人々を超えて重要な人物になれるように全身全霊で努力しよう」と記している。しかし、早くも翌日、アダムズは7時まで寝過ごし、何もせずにぼんやりと時間を過ごしてしまった。「私は本も時間も友も持っていない。それ故、私は無名で世に知られず生き、そして死んでいくことに満足しなければならない」とアダムズは嘆いている。他人からすると過度の自己卑下のように思える考え方は、自惚れが最も甚だしい悪徳だと考えていたアダムズにとって奇異な考え方ではなかった。
弁護士を目指す
共に寄宿していた内科医から本を借りて読んでいたアダムズは、一時期、医者になることも考えた。しかし、地方法廷を見学したアダムズは法学を志す決意を固めた。ミルトンやヴァージル、ヴォルテール、ボーリングブルックなどを熟読した。またこの頃は北米植民地の人々が自らをアメリカ人と呼び始めた時期にあたる。そうした時代の雰囲気も手伝って、アダムズの目は次第に政治と歴史に向けられるようになった。1755年10月12日の親類に宛てた手紙の中でアダムズは「私が政治家に転向したとしても驚かないでくれ。町中が政治[談義]に熱中している」と語っている。
1756年8月21日、アダムズは弁護士になる道を進む決意を固め、ウスターの弁護士ジェームズ・パットナムの下で法学を2年間勉強する契約を交わした。日中は学校で教鞭をとり、夜に法学書を読んだ。そうした厳格な生活により体調を崩すこともあった。そのような時、アダムズは牛乳とパンと野菜を常食とした。体調が悪い時にそうした食事法を守ることは生涯にわたる習慣となった。
パットナムとアダムズはしばしば政治や宗教について議論を交わしていた。パットナムがしばしば侮蔑的な態度をとったとアダムズは記している。その当時、弁護士は若者が自らの才能を発揮して立身出世を果たすことができる数少ない選択肢の一つであった。
弁護士として成功
弁護士業と恋愛
1758年10月、法学の勉強を終えたアダムズはブレインツリーに戻った。そしてボストンの法曹界に入る準備を始めた。11月6日、ボストンの法曹界はアダムズを迎え入れた。アダムズはブレインツリーで不動産証書や遺言状の作成などの業務に携わった。
しかし、アダムズの目標は、「世界を驚かせるような何か新しいこと」を見つけて名声を得ることであった。法曹界に入っても不安が完全になくなったわけではなかった。名声と同じくアダムズが強く求めていたものは、不安に満ちた心を落ち着かせてくれる何かであった。それが何かはまだアダムズには分からなかった。
弁護士として働く傍ら、「1日に少なくとも6時間」は法律や政治関連の書籍を読んで勉学に勤しむことを自らに課した。書籍による学問だけではなく、居酒屋、市場、町民会などにも足を運び、人間の様々な実情を理解しようとした。
もちろんアダムズは弁護士業や読書に専念しているだけではなかった。この頃、友人に送った手紙の中で「法学の本を私が見ているのであれば、私の目が本に向けられていることは間違いない。しかし、想いは茶卓にさまよい、彼女の髪、瞳、姿、そして親しみやすい顔立ちに向かっている。私はベッドに横たわって夜の半ば眠れないでいる。ようやく眠りに落ちれば全く同じ魅力的な光景を何度も夢見ている」と恋愛について語っている。
相手はハンナ・クインジーという女性であった。アダムズよりも一つ年下で、求婚者の列が耐えることが無い魅力的な女性であった。弁護士として成功し、経済的に安定するまで結婚できないと考えていたアダムズは結局、ハンナに求婚することなかった。1760年、ハンナは別の男性と結婚し、アダムズ自身もその4年後、アビゲイル・スミスと結婚した。アダムズは生涯、彼女を忘れなかったという。それから60年後の1820年、寡婦となっていたハンナは同じく伴侶を失っていた84歳のアダムズを訪ねた。表情を輝かせながら老アダムズが、「キューピッズ・グローヴ[恋人達がよく散歩していた地元の小道]を一緒に歩きませんか」と問うと、かつての恋人は「そこを歩いたのは初めてではありませんわ」と答えたという。
1761年2月、アダムズはボストンでジェームズ・オーティスが演説するのを聴いた。オーティスは、関税を支払っていない外国製品の捜索のために個人の商店や住居に対して立ち入り調査を認める臨検令状はイギリス憲法に違反すると訴えた。アダムズはこうしたオーティスの訴えを「イギリスの恣意的な行動に対する最初の抵抗であった。そして、そこからアメリカの独立が生まれた」と評価している。
同年5月25日、父ジョンが、マサチューセッツ東部で猛威を振るった流行性感冒に罹患して亡くなった。家屋と約40エーカーの土地を相続した。これを機にアダムズは家屋を改築してささやかながらも自分の法律事務所を開設した。同年11月にはマサチューセッツ植民地最高裁の法廷弁護士に選ばれた。これは弁護士の中でも非常に高い地位である。またアダムズはブレインツリーの公道の測量技師にも選ばれている。アダムズには測量の実務経験は無かったが、その当時、能力のある男性は何らかの公用を果たすように求められた。これがアダムズにとって最初の公職となった。さらに1764年には父と同じく徴税人に選ばれた。
飛躍の年
「1765年は私の人生の中で最も際立った年であった」と日記に記しているように、1765年はアダムズにとって飛躍の年であった。3月、イギリス議会が印紙条例を可決した。その報せを聞いてアメリカ人の不満は頂点に達し、北米各地で反対運動が激化した。法的文書にも印紙の添付が義務付けられるために、弁護士であるアダムズ自身も大きな影響を受けることは必至であった。アダムズにとって印紙条例は「私の破滅への一歩であると同時にアメリカ人一般の破滅への一歩」であった。
アダムズは、サミュエル・アダムズやジェームズ・オーティス達とともに同年1月に結成した「ソダリタス・クラブ」で印紙条例について議論を交わした。その成果は、8月から10月にかけて、匿名でボストン・ガゼット紙上に発表された。それはアダムズにとって最初の政治に関する著作であり、後に『教会法と封建法について』)として広く知られるようになった。
その内容は、決して暴徒を扇動するような内容ではなかった。反対運動に伴う暴動を「平和を酷く乱す」行為として退ける一方で、「いかなる自由人も、彼自身の行動か過失によらずして財産から分かたれることはない」と述べている。アダムズが強調した点は、アメリカには、神から与えられ、先祖達の勇気と犠牲によって築き上げられた自由があるという点である。そう述べることでアダムズは、植民地であるアメリカが独自の自由を持つ根拠を明示した。そして、教会の監督制度と印紙条例の導入は、それぞれアメリカの自由を抑圧する専制的な体系に他ならないと訴えた。
この著作によりアダムズは政治に深入りするようになる。しかし、一方で「生業の準備に三十年もの歳月が過ぎてしまった。私は貧困と闘ってこなければならなかった。嫉妬と妬みと敵の悪意に遭遇してきた。友人もなく、あったとしても私を助けてくれる者はほとんどいない。最近まで暗やみの中を手探りで進んできたのだ。今やっとのことで僅かながらの知名度を得た。だが、そんな時、この忌まわしい出来事がアメリカとイギリスと、そしてこの私の破滅を開始したのだ(曽根田憲三訳)」とアダムズは記している。
さらにアダムズはマサチューセッツ植民地総会に出席するブレインツリー代表のために「ブレインツリー訓令書」を執筆した。10月にそれがマサチューセッツ・ガゼット・アンド・ボストン・ニューズ・レター紙上で発表されると、瞬く間に40以上の町に受け入れられた。さらにボストンの町民集会でアダムズは総督へ請願書を提出する委員の1人に選ばれた。
「ブレインツリー訓令書」の中でアダムズは、印紙条例が、自由人は同意なく課税されないというマグナ・カルタの原則を侵害する法律であり、かつてアイルランドで使われた「代表なければ課税なし」という言葉でそれを説明している。そして、陪審員を伴わず海事裁判所tが法を執行することは誤りであり、陪審員、もしくは独自の司法制度による審理を行うべきだと説いた。
「ブレインツリー訓令書」を執筆するだけではなく、アダムズはサミュエル・アダムズとともに「自由の息子」創立に加わっている。「自由の息子」は、印紙条例に反対する急進的な抵抗組織であった。また通信連絡委員会の創立にもサミュエル・アダムズとともに関与した。
2つの大きな勝訴
またアダムズは印紙条例に関して1766年にキング対スチュアート事件で原告の弁護を務めた。印紙条例施行の際に、イギリス政府側に立った商人リチャード・キングが、1766年3月のある夜、自宅を襲撃された事件である。襲撃者の中にはキングから借金をしている者も含まれていた。アダムズは襲撃を個人的な復讐だと主張して勝訴した。
結局、イギリス議会は印紙条例を撤回したが、それと同時に1766年の宣言法を制定した。それは、イギリス議会の定めた法律が植民地を専権的に拘束することを意味し、アメリカの自由に対する最大の脅威だと見なされた。後にアダムズは「独立を求める戦争は、アメリカ革命の結果である。真の革命は1776年より10年から20年前に植民地の人々の心の中で起こっていた」と語っている。
キング対スチュアート事件に続いてアダムズの知名度を高めた仕事はジョン・ハンコックの弁護である。ハンコックは密貿易王の異名をとった人物で後に大陸会議の議長を務めたことで知られている。ボストン港にワインを密輸した嫌疑でハンコックは告訴された。船の差し押さえに加えて莫大な罰金を科せられる恐れがあった。アダムズは、アメリカ人によって代表されていないイギリス議会が通商規定を定めている点と不当にも陪審員なしで裁判にかけられている点を主張して最終的に告訴を取り下げさせることに成功した。
プレストン裁判
さらに1770年、アダムズの弁護士としての名声をより高める事件が起きた。ボストン虐殺事件である。3月5日、税関の警備をしていたイギリス兵達とボストン市民の一群が小競り合いになった。数で圧倒的に勝るボストン市民はイギリス兵達を取り囲んだ。トマス・プレストン大尉は彼らを救出しようとして発砲、5人の市民が犠牲となった。
アダムズはイギリス兵達とプレストンの弁護するように依頼された。ボストン市民の怒りをかうことを恐れて他の誰もが弁護を引き受けることに尻込みしたが、アダムズは、誰もが公平な裁判を受ける権利があるという強い信念の下、依頼を受諾した。まずプレストンの弁護では、兵士達がプレストンの命令無く発砲したことを陪審員に納得させて見事に無罪を勝ち取った。さらに残る兵士達に関しても、兵士達が平和的な市民の一群に対して無差別に発砲したという証言に真っ向から対決した。アダムズの主張によると、市民の一群は「無法な少年、黒人、混血、アイルランド系のならず者、異国の水兵からなる雑多なやじ馬達」であって、「叫んで虐待を行い生命を脅かし、鐘を打ち鳴らし、野次を飛ばし、奇声をあげ、インディアンの叫び声を使い、あらゆる場所から来た人々が路上のあらゆるがらくたを拾って投げつけた」という。アダムズの訴えに動かされた陪審員は、2名を有罪としたものの、他6名の無罪を認めた。
この事件で弁護を務めたことにより、アダムズは一時的に多くの顧客を失い、「我々[事件を弁護した者達]がボストンの通りに姿を現す時はいつでも、最も不名誉な形で我々の名前がけなされる」ようになった。しかし、時が経つにつれて、アダムズが示した冷静な判断は却ってアダムズに名声をもたらすようになった。後にアダムズは、この事件で弁護を務めたことを「私の人生の中で最も勇敢で、高潔で、雄々しく、公平無私な行いの一つであり、私が我が国へ尽くしてきた奉仕の中でも最善の奉仕の一つであった」と回想している。
大陸会議での活躍が認められる
第1回大陸会議
1770年、アダムズはボストンを代表してマサチューセッツ植民地議会議員General Courtに選出された。しかし、翌年、体調不良と神経衰弱が原因でアダムズは公職を離れた。以後、16ヶ月にわたって、旅に出たり、コネティカット植民地スタッフォードの鉱泉に滞在したりして、療養生活を送った。1773年5月、植民地議会議員の中の急進派達は、アダムズを総督評議会の一員に指名したが、総督トマス・ハッチンソンは、アダムズが反動的であるという理由でその指名を拒否した。
マサチューセッツでの抵抗運動はさらに強まり、1773年12月16日、ボストン茶会事件が起きた。その報復としてイギリスは懲罰諸法に基づいてボストン封鎖を断行した。ボストン茶会事件についてアダムズは12月17日の日記に「昨夜、下等紅茶3荷が海に投げ込まれた。これは最たる壮挙である。歴史の中で画期的な出来事だと考えざるを得ない」と記している。この頃、アダムズはボストンに住居を移していたので、身を以ってボストン封鎖を体験している。こうした懲罰諸法は第1回大陸会議開催の主な契機となった。
1774年9月5日、アダムズはマサチューセッツ植民地の5人の代表の一人として第1回大陸会議に出席した。日記には「新たな、素晴らしい場面が私の前に開かれた。大陸会議である」と記されている。その一方で「私は独り悩み、考え、憂鬱になり、沈思黙考した。私の目の前にある目標は大きすぎて理解が及ばない。時代にうってつけの人物がいないのか」とアダムズは不安も吐露している。なお会議開催の3日前にアダムズは初めて ジョージ・ワシントンに会っている。大陸会議でアダムズに割り当てられた役割は、「権利と抗議の宣言」を起草する委員であった。「権利と抗議の宣言」の草稿はアダムズの手による。「権利と抗議の宣言」の中でアダムズは、イギリス議会による北アメリカ植民地に課税や懲罰諸法が「違法であり無効である」ことを訴えている。
当初、アダムズは第1回大陸会議に期待を寄せていたが、大陸会議は懲罰諸法の廃止を求めてイギリス製品に対して不買運動を行なうことを決定した他は特に際立った政策を打ち出さなかった。そうした方針はアダムズにとって満足のいくものではなかった。
この頃のアダムズの考えは「ノヴァングラス」によく表れている。1775年1月から4月にかけてボストン・ガゼット紙に掲載された「ノヴァングラス」は、イギリス議会を支持するマサチューセッツ人への返答という形で書かれた。
アダムズは、新大陸という自然状態の環境に建設された北アメリカ植民地は独自に運命を決定する権利を持ち、「この地域の愛国者達は新しいものを何も望んでおらず、ただ古い特権を守ろうとしているだけである」と主張した。さらに、イギリス外務省の腐敗を非難しただけではなく、イギリスの国制について体系的に論じ、アメリカが一方的にイギリス議会の支配下に置かれることは不当であることを歴史的に論証した。
第2回大陸会議
翌1775年に開催された第2回大陸会議に再びアダムズはマサチューセッツ植民地代表の1人として参加した。この会議の意義を「これだけ多くの偉大な目標を持った会議は今までになかった。諸地方や諸国、諸帝国など我々の前では小さなものに思えた」とアダムズは語っている。
会議は、4月19日にレキシントン=コンコードの戦いが起こっていたために、前年よりも緊迫した雰囲気に包まれていた。アダムズはボストン周辺に展開するニュー・イングランド各邦の民兵隊約1万6000名を大陸会議の統率と管理の下に置くことを強く主張した。さらに6月15日、ジョン・アダムズは、「将校としての技能と経験、自活するのに十分な資産、偉大な才能、そして素晴らしく諸事に通じた性質を持つ紳士は、この国のどんな人物よりも、全アメリカの称賛を恣にし、全植民地の尽力を一つにまとめあげる」と演説し、ワシントンの大陸軍総司令官選出の立役者になった。6月17日にアビゲイルに宛てた手紙の中で、アダムズは「会議は、慎み深く高徳、親しみやすく思いやりがあり、勇敢なジョージ・ワシントン氏をアメリカ軍の将軍に選出した。ワシントンは、ボストンの前に布陣する陣営を迅速に立て直すだろう。この任命は、国の連帯を固め保つのに大きな効果をもたらすだろう」と語っている。
しかし、事態ここに至っても、依然としてイギリスとの和解を希望するジョン・ディキンソン達の主張は衰えなかった。7月8日、彼らはオリーヴ・ブランチ請願を決議した。請願はイギリス国王に送られたが、完全に拒絶された。アダムズはこうした請願は全くの無駄であると考え、ディキンソンに反感を抱いていた。
この頃、アダムズはリウマチと悪疾の風邪に悩まされながらも毎日12時間から14時間も働き続けた。午前7時から10時は委員会に出席した後、今度は総会に午後遅くまで出席し、また午後6時から10時まで委員会に取って返すという働き振りであった。渡欧のために大陸会議を離れるまでにアダムズは90以上の委員会に携わり、25の委員会で委員長を務めた。「大陸会議は嬉々として、私の能力以上に仕事を与えている」と語っているように、アダムズは他の誰よりも多くの委員会に参加し、大陸会議のメンバーの中で重要な役割を果たすようになった。
非常に早い時期からアダムズはイギリスからの独立を考えていた。それだけではなく、フランスおよびスペインとの同盟、憲法を起草し全植民地に責任を負う政府を樹立すること、海軍の創立を構想していた。特に海軍の創立については、10月30日に委員の1人として任命された海軍委員会で、大陸海軍規定を起草している。アダムズは12月初旬に休暇を取ってマサチューセッツに戻った。大陸会議に戻ったのは翌1776年2月9日である。
アダムズが大陸会議に戻った頃、トマス・ペインによる『コモン・センス』が世を賑わしていた。『コモン・センス』ほどはっきりと本国イギリスとの決別を宣言した書物はこれまでになかった。アダムズは『コモン・センス』の影響力は認めたものの、独立後にどのような国家を建設するかという視点を欠いていると批評している。
『コモン・センス』に対抗して、1776年1月、アダムズは「政府論」を発表した。トマス・ペインは『コモン・センス』の中で直接民主制と一院制を示唆しているが、アダムズはそうした政治形態を危険なものと見なし、『コモン・センス』に対抗する形で「政府論」を発表することにしたのである。
「政府論」は、政府は万人の幸福を実現するために存在するという理念の下、どのような政体がその目的を実現し得るのかという問題を追究している。アダムズは「人間は危険な生物」であるので、「人間ではなく法の支配」に基づく共和政体こそ最も優れた政体であると主張した。さらにアダムズは「その政府が一院制であれば、国民は長らく自由でいることはできないし、ずっと幸福でいることもできない」と一院制に対して反対を唱えている。「政府論」は古から当代に至るまで様々な政府を論じた事例集であり、多くの政治家が邦憲法案や後の合衆国憲法案を構想する際に参考にした。
米英関係は悪化の一途をたどり、1776年5月10日、大陸会議は諸邦に「構成員とアメリカの幸福と安全のために最善を尽くす政府を採択する」ように通告を出すことを決議した。さらに5月15日にアダムズの手によって、あらゆるイギリスの権力を停止する旨を闡明した前書きが付け加えられた。アダムズにとってはそれが独立そのものであった。
独立宣言の起草に協力
1776年6月7日、ヴァージニア代表がヴァージニア革命協議会からの指示に従って独立決議を提出した際に、アダムズは賛同の意を示した。6月11日、独立宣言を準備する委員会と諸外国と締結する条約を準備する委員会が設立された。アダムズは両方の委員に選ばれ、独立宣言の起草に深く関与した。
アダムズによると、 トマス・ジェファソンはアダムズが独立宣言を起草するように提案し、委員会の議事録を手渡そうとしたという。それに対してアダムズはジェファソンが起草すべきだと言った。そして、ジェファソンがその理由を問い質すと、アダムズは4つの理由を挙げた。つまり、ジェファソンがヴァージニア人であること、南部人であること、アダムズよりも議会で受ける反感が少なくて済むこと、卓越した文才を持つことの4つである。
アダムズは、植民地間の政治バランスを考慮してジェファソンに起草を行うように強く勧めたと考えられる。それから1日か2日経った後、ジェファソンはアダムズに草稿を渡した。そして、委員会による推敲を経て独立宣言は大陸会議に提出された。後年、アダムズは独立宣言について、「独立宣言はわざとらしい見世物のようなものだったと私はずっと思ってきた。ジェファソンはそのすべての舞台効果、つまり栄誉のすべてを持ち逃げしてしまった」と語っている。
大陸会議で行なわれた独立宣言をめぐる激しい議論の中でアダムズは、独立宣言を擁護する主導的な役割を果たした。後にこの時の様子を回想してジェファソンはアダムズを「[独立宣言をめぐる]議論における巨人」と呼び、「独立宣言が直面した多種多様の攻撃に対抗した最も有能な提唱者にして擁護者」と称賛している。また他の代表もアダムズを「アメリカ独立における巨人」と称している。
模範条約の起草
ジェファソンが独立宣言を起草していた一方、アダムズは模範条約を起草していた。模範条約を起草するにあたってアダムズは、イギリスの条約や通商法、1713年の英仏貿易協定などを参考にした。模範条約は9月に大陸会議によって採択され、フランスとの通商協定の基礎となった。またフランスへ旅立つ使節のための信任状もアダムズが起草した。
独立宣言に名を連ねた者の中で、後に大統領となった者はアダムズとジェファソンの2人のみである。ジェファソンは大陸会議が独立宣言を採択するにあたってアダムズが及ぼした影響力を「アダムズ氏の演説は、思想と表現において、我々を席から動かしめるほどに力強かった」と評価している。1776年7月3日付の妻アビゲイルへの手紙の中でアダムズは、「1776年7月2日[大陸会議で独立の決議が行われた日]は、アメリカの歴史の中で最も記憶に留められるべき画期的な日になるだろう。将来の世代がその日を偉大な記念祭として祝うだろうと私は信じるばかりである」と語っている。
戦争・軍需品局長
1776年6月12日、大陸会議はアダムズを戦争・軍需品局長に指名した。戦争・軍需品局は、軍内人事、徴募、編成、戦費出納、配給など非常に多岐にわたる雑務を果たさなければならなかった。アダムズはアビゲイルに「士官達はマスチフのように次から次へとうるさくせがみ、サルが木の実を奪い合うように階位や給与を奪い合う」と不満を述べている。
雑務の傍ら、戦争・軍需品局はしばしば大陸軍に指令を下したが、それはほとんど現場を混乱させただけであり、大局的な戦略など望むべくもなかった。アダムズは軍隊を指揮した経験が全くなく、さらに軍に長い間、大きな権限を与えることを恐れていたので指揮系統の混乱がもたらす弊害を省みなかったのであろう。さらに、イギリス軍がボストンの次にニュー・ヨークを攻撃するというワシントンの警告を戦争・軍需品局は受け入れなかった。
ワシントンの読み通り、イギリス軍はニュー・ヨークに上陸し、ロング・アイランドの戦いでアメリカ軍を破った。ハウ兄弟は、和平会談の開催を望んだ。そこで9月11日、大陸会議は、ベンジャミン・フランクリン、エドワード・ラトレッジ、そしてアダムズの3人をリチャード・ハウ提督が待つスタテン・アイランドに派遣した。
代表団はハウ提督に独立の承認を求めたが、ハウ提督は、もし過ちがあるならば国王と内閣は過ちを正すように努めるだろうと示唆するだけであった。ハウには降伏と休戦を受諾する権限しかなかったからである。結局、会談は何も実を結ばなかった。
最後の事件
1777年10月下旬に大陸会議を去ったアダムズは自身の経済状態を改善しようと弁護士業を一時期再開していた。しかし、渡欧を命じられたために弁護士業は断念せざるを得なくなり、ルーザンナLusanna号事件が最後に取り扱った事件となった。この事件は、マサチューセッツ邦のルーザンナ号が、敵と交易を行ったという理由でニュー・ハンプシャー邦の私掠船に拿捕された事件である。アダムズは、大陸会議の決議の下、ルーザンナ号の船主の弁護を務めたが敗訴した。アダムズは敗訴したものの、この事件は邦と大陸会議の関係を考え直す契機を与えた。
長期にわたる滞欧生活
1度目の渡欧
1777年11月28日、大陸会議はサイラス・ディーンの後任としてアダムズを駐仏アメリカ公使に任命した。それは、アダムズの活躍を目の当たりにしていた大陸会議が、既に始まっていた英仏同盟締結交渉を促進させるにあたってアダムズこそ最適の人物だと判断したからである。とはいえ、アダムズは、当時、外交官にとって必須であったフランス語を話すことはできなかったし、外交官の経験はなかった。フランス語を習得するためにアダムズは、大西洋を横断する船中でモリエールの英仏対訳『招待主』を読み、パリに着いてからは台本を片手に観劇したという。また外交官の経験に関しては、アダムズと同じく、議会の誰もが全く経験を持っていなかった。
翌1778年2月、アダムズは長男 ジョン・クインジー・アダムズを伴い、フランスに向けて母国を発った。途中、落雷で乗船が損傷したり、イギリス商船と交戦したりしたものの、航海は概ね順調であった。アダムズがフランスに到着した時、英仏同盟は既に成立していたので、締結交渉を促進するというアダムズの使命は失われていた。6週間の船旅を経て4月8日、アダムズ親子はパリに到着した。
ルイ16世とマリー・アントワネットに謁見
1778年5月8日、アダムズは既にフランスに着任していたベンジャミン・フランクリンやアーサー・リー達とともにルイ16世と王妃マリー・アントワネットに謁見した。フランス国王の印象をアダムズは「善良で純心」な容貌をしていると述べている。
ルイ16世やマリー・アントワネットの他にアダムズは劇場で偶然、ヴォルテールを目撃している。その時の印象をアダムズは「彼は非常に年をとっていて、死者のように青ざめ、深い皺が刻まれた顔をしていたけれども」、その瞳は「活き活きと輝いていた」と記している。
ヨーロッパを初めて訪れたアダムズは他の多くのアメリカ人がそうであったように、西欧の文化と芸術の素晴らしさに感動した。例えば1778年4月12日に妻アビゲイルに送った手紙の中で「フランスの満足のいく点は無数にあります。礼儀、優美さ、柔軟性、繊細さは際立っている。つまり、私は厳格で横柄な共和主義者ですが、人を喜ばせようとして素直に励むフランスの人々を愛さざるを得ません。この国、特にパリとヴェルサイユの様子を書き記そうとするのは馬鹿馬鹿しいくらいです。パリとヴェルサイユは公共の建物や庭園、絵画、彫像、建築、音楽で満ち溢れています。贅美にして壮大、そして華麗なることは筆舌に尽くし難い」と賞賛している。しかし、手放しでヨーロッパを賛美したのではなく、贅沢品の生産や社会の腐敗はアメリカを自由で徳の高い共和国として長く存続させる妨げになると考えていた。
一時帰国
1779年1月、ラファイエット侯爵がボストンからフランスに到着し、フランクリン1人を代表とするという大陸会議の意向を伝えた。アダムズが「私の2人の同僚は何においても同意することはない」と記しているように、フランスに派遣されていた3人はお互いに協同歩調をうまく取れなかったからである。「ここには私の信頼に足る人物がいない」とさえアダムズは述べている。これまで度々、一緒に仕事をする機会があったフランクリンをアダムズはかねてより尊敬していたが、この頃からフランクリンの実務能力に疑念を抱くようになった。このような経緯から、アダムズは自分がヨーロッパに滞在する必要がないと感じるようになった。会議からの正式な通知を受けてからアダムズは、長男とともにナントに向かって帰国の船出を待った。3月22日、親子は出航しようとしたが、駐米フランス公使に随伴するために6月中旬まで船出することができなかった。
マサチューセッツ邦憲法の起草
1779年8月2日、ボストンに到着したアダムズは、その7日後、マサチューセッツ邦憲法制定会議のブレインツリー代表に選出された。この時、制定された1780年のマサチューセッツ邦憲法はアダムズの手による。アダムズは憲法草案を邦憲法制定会議に提出したものの、和平交渉について協議するために大陸議会に召還されたために、最終決議には参加することはできなかった。しかし、アダムズの憲法草案は若干の修正を除いて受け入れられた。最も大きな修正を受けた部分は信教の自由に関する条項である。アダムズは邦憲法の前文で次のように社会契約論を展開している。
「政府を組織し、運営し、維持する目的は、邦民一般の生存を保障し、邦民一般を保護し、そして、邦民一般を構成する個々人に自然権やこの世における祝福を享受できる力を、安全かつ平穏に与えることである。こうした偉大な目的が達成できない時はいつでも、人々は政府を革め、彼らの安全、幸福、そして財産のために必要な措置を取る権利を有する」
そして、教育の普及が共和制を保持するために不可欠であると次のように述べている。
「美徳と同じく、人々の間に遍く行き渡った叡智と知識は、彼らの権利と自由を守るために必要であり、そして、それらは教育の効果と機会を邦の様々な場所に、異なる階層の人々の間に普及させるかどうかにかかっている。文芸と科学、そしてそれらを教えるすべての学校の利益を大事にすることは立法と行政の義務である」
アダムズは邦憲法案で、二院制の立法府、強力な行政府、独立した司法府を提唱した。さらに、一定以上の財産を持つ21才以上の男性による投票で上院議員を選出する方法を提案している。財産規定はそれほど厳しい条件ではなかった。上院議員の任期は1年間であった。また下院議員は150人の選挙民を基準に各地区に議席が割り当てられた。下院議員の任期は上院議員と同じく1年間に定められた。知事も1年ごとに選出された。他の邦憲法と大きく異なる点は、知事の権限が大きい点である。三権の均衡をはかるためにアダムズは、立法に対する絶対的な拒否権を知事に認めている。それについてアダムズは、「行政府は、[中略]立法府が自由の擁護者であるのと同じく、叡智の擁護者となるべきです。[拒否権という]防衛するための武器がなければ、猟犬の前の野ウサギのように知事は倒されてしまうでしょう」と述べている。
その他の点で特徴的な点は、「質素倹約」や「勤勉」だけではなく、「ユーモア」を市民の間に普及させることを勧めた点である。それは、日常生活を大らかに楽しんで送ることを意味している。
マサチューセッツ邦憲法について、ロナルド・ピーターズは「公平な評価に基づけば、独立宣言、合衆国憲法、権利章典、そしてフェデラリストと並んで独立革命期の5つの重大な文書の1つとして座を占めるのに、ほぼ間違いなく値するだろう」と評価している。ちなみに「すべて人はうまれながらにして自由で平等である」という有名な言葉は、合衆国憲法にも独立宣言にも含まれておらず、アダムズが起草したマサチューセッツ邦憲法に含まれている言葉である。
再度の渡欧
邦憲法を起草する傍ら、アダムズは大陸会議にアメリカの国益に影響を与えるヨーロッパ列強の動向を報告していた。大陸会議は、帰国して席を暖める暇も与えず、9月25日、アダムズに ジョン・ジェイとともにフランスと講和条約を協議する任を与えた。翌日、大陸会議はさらに両者にスペインとの条約締結交渉の担当に指名した。最終的にはアダムズはフランスに、ジェイはスペインに派遣されることになった。さらにアダムズは、イギリスとの通商条約締結の任も委ねられた。
1779年11月13日、アダムズは長男ジョン・クインジーと次男チャールズを伴いフランスに向けて出発した。海上の旅は嵐による船の浸水のために遅れ、船はスペイン北西部のフェロルに到着した。アダムズ親子はそこからピレネー山脈を越えて、1780年2月5日、ようやくパリに到着した。
パリでのアダムズの境地は不遇であった。講和通商条約締結交渉が開始されるまでアダムズは待機しなければならなかったが、ともに交渉にあたるはずのフランス外相と折り合いが悪かった。フランス外相は、フランス人が所有するアメリカの負債を下落前の価値で返済するように求めたが、アダムズがそれを断ったことが契機である。アダムズはアメリカとフランスは対等の同盟国であり、相互に利益がなければならないと主張した。そうしたアダムズの姿勢はフランス外相の怒りをかうことになった。さらにフランクリンは大陸会議にアダムズを罷免するように要請した。大陸会議はフランクリンの要請を受け入れなかったものの、妥協案として新たに使節を任命した。
こうした状況に失望したアダムズは、7月27日、イギリスとの関係が悪化していたオランダから借款を得るためにパリからオランダに向けて出発した。大陸会議からオランダ全権公使の辞令を受け取るまでアダムズは公的な立場ではなく私的な立場で交渉を行なったことになる。
1781年、アダムズは「国王夫妻に捧げる覚書」を発表し、オランダ人の独立闘争とアメリカ人の独立革命をあわせて論じ、アメリカと早期に緊密な通商関係を結ぶことがオランダの利益となることを説いた。アダムズはペンの力でオランダの「長く眠っていた勇気と自由を愛する心を叩き起こす」ことで、外交を有利に運ぼうと考えたのである。
アダムズの地道な努力は、1782年になってようやく報いられ始めた。2月、オランダ連邦の1州が初めてアメリカを承認した。またこの頃、アダムズはハーグにある一軒の家を購入したが、それはヨーロッパにおいてアメリカが所有する最初の在外公館となった。そして、10月7日、オランダはアメリカとの通商友好条約に調印した。また約140万ドルの借款も取り付けることができた。
イギリスとの和平交渉
オランダで交渉を進める傍ら、1781年7月、アダムズはフランス外相の召還でパリに戻り、講和条約の提案を受けた。それはロシアとオーストリアの仲介によるもので、独立の承認を認めていないだけではなく、フランスとの同盟破棄を要求するものであった。アダムズは、まず独立の承認を取り付けるべきだと考えていたので、それは絶対に受け入れることができない条件であった。翌月、オランダに帰ったアダムズは、新たに和平交渉の辞令を受け取った。その一方で、イギリスとの通商条約交渉の任は解かれた。8月から10月にわたってアダムズは高熱に悩まされ、昏睡が5日間も続き重篤に陥った。
病床から起き上がったアダムズはオランダを離れ1782年10月26日にパリに到着した。パリでは、フランクリンとジェイによりイギリスとの和平交渉が行われていた。和平交渉に参加したアダムズは、それを「朝も昼も夜も絶え間なく続くつかみ合い」のようだと評した。フランクリンが実務的ではなかったために和平交渉は主にアダムズとジェイの双肩に委ねられていた。2人は、フランスがアメリカの利益を犠牲にして和平交渉を進めようとしているのではないかと疑念を抱いていたので、フランスにほとんど諮ることなく和平交渉を進めた。
1782年11月30日、イギリスとの和平交渉がまとまり、翌1783年1月20日、講和予備条約締結にこぎつけた。最終的には、9月3日のパリ条約の調印により正式にアメリカ独立戦争が終結した。その結果、イギリスは、アメリカの独立とミシシッピを西部境界線とすること、そしてニューファンドランドでの漁業権を認めた。特にアダムズが強く主張した点はニューファンドランドでの漁業権である。他にもアダムズは、北東部の国境問題、王党派への賠償問題に関する条項を準備した。さらに諸邦が正当な負債の返還のために法廷審理を行なうことを大陸会議に勧告している。
もちろんこれで仕事が終わったわけではなかった。諸外国との外交関係樹立という急務が残されていたし、また連合会議(大陸会議の後継機関)が外交に不慣れなためにそれに多大な時間を要することが予測された。しかし、アダムズは、職を辞して帰国しようと考えていた。フランスにほとんど相談することなく締結交渉を進めたことが主な理由である。連合会議はフランスと相談して講和予備条約をまとめるように指示していたので、フランクリンとアダムズの行動は明確に会議の指示に反していた。さらにアメリカが王党派の財産を保護することを認め、対英債務の支払いを約したことは激しい非難をかうことが予想された。
しかし、連合会議は引き続いてアダムズに、フランクリンとジェイとともに、通商条約の締結交渉をイギリスと行うように指示した。さらに、フランクリンとジェファソンと協力して、イギリスだけではなくヨーロッパ諸国とも同様に通商条約を結ぶように指示している。続く2年間にオランダからの新たな借款の取り付けやヨーロッパ諸国との通商条約締結に尽力したアダムズは、「交渉におけるワシントン」と呼ばれた。
家族を呼び寄せる
この頃、アダムズは妻と娘ナビィをヨーロッパに呼び寄せることを決意した。最終的にアビゲイルがヨーロッパに着いたのは翌1784年7月である。アビゲイルの到着を知らされたアダムズは早速返事をしたためている。
「23日の君の手紙を読んで私は地上で最も幸せな男になりました。昨日より20歳も若返ったようだ。非常に残念だが私は君にロンドンに会いに行くことはできない。行くと決められない理由がいろいろある。この手紙で、さしあたり迎えに息子[ジョン・クインジー・アダムズ]を送り出すことを伝えよう。息子はその年の割には優れた旅人であるし、前途が約束された雄々しい若者だと思う」
幸いなことに事情が変わったのでアダムズは自ら迎えに行くことができた。1784年8月7日、アダムズは妻と娘におよそ5年ぶりの再会を果たした。
初代駐英アメリカ公使と『擁護論』の執筆
1785年2月24日、連合会議はアダムズを初代の駐英アメリカ公使に任命した。その辞令を4月下旬に受け取ったアダムズは5月25日にロンドンに着任した。6月1日、アダムズは信任状をジョージ3世に奉呈した。3年間に及ぶ駐英アメリカ公使の職務で、アダムズはイギリスから通商上の譲歩や北西部領地からの撤退の確約などを引き出そうとしたが、ほとんど実を結ぶことはなかった。イギリスに滞在している間にアダムズが成し遂げた業績の中で最たるものは、1786年にプロシアと通商条約を締結したことである。
公務の傍ら、アダムズは、『擁護論』を書いている。この当時、アメリカではシェイズの反乱が起きている。連合会議は反乱に対して無力であることを露呈した。そのため強力な中央政府の必要性が広く認識されるようになった。
こうした時代背景の下、アダムズは『擁護論』で、秩序が損なわれる原因を人間の本性の欠陥に求めている。アダムズは「抑制されずにいれば、人民は、無制限の権力を持つ王や上院と同じく不正で専制的かつ残忍で野蛮になる。1つの例外を除き、多数者は常に少数者の権利を侵害する」と述べている。アダムズによれば、独立革命以後、アメリカはヨーロッパ化したために、秩序を維持するのに有用な徳を失った。ではどうすれば秩序を保ちながら自由な政府を維持できるだろうか。失われてしまった徳の代わりに、「混合政体」をアメリカが採用すればそれが可能であるとアダムズは主張し、イギリスの政治制度は「人類が発明した中で最も素晴らしい制度である」と述べている。混合政体とは、社会の諸階層から議会の代表をそれぞれ選び出し、権力を均衡・分立させる政体である。こうした考えはアダムズ独自の発想ではなく、古代ギリシアの政体やイギリスの政体などを参考にしている。
アダムズが『擁護論』を書いた主な目的は、混合政体を実現できる邦憲法を急進的なフランス知識人の批判から擁護することである。アダムズが擁護した邦憲法は、マサチューセッツ邦憲法、ニュー・ヨーク邦憲法、メリーランド邦憲法の3つの邦憲法である。
混合政体による統治を安定させるためには、共同体における影響力の強さに基づく「天性の貴族」の協力が必要である。アダムズの考えでは、どのような政体であろうとも「貴族」は必ず存在すると考えていた。貴族の資格が血統、能力、財産のどれによるかはそれほど重要なことではなく、共同体において強い影響力を持つこと自体が重要なのである。こうした考えは、アダムズが貴族政治や君主政治を望んでいると反対派にしばしば誤解された。
『擁護論』は1787年に第1巻が刊行され、合衆国憲法を正当化する理論的基盤として広く読まれた。その結果、『擁護論』はアダムズにさらなる名声をもたらした。
アダムズ自身は当然のことながら憲法制定会議に参加していないが、憲法案が提議された後、その内容を吟味し、同じく滞欧していたために会議に参加できなかったジェファソンと意見を交わしている。アダムズは憲法案について「連邦を保持できるように十分に考えられている」と歓迎している。大統領の任期に制限が課されていない点についてジェファソンは危惧していたが、アダムズは大統領の権限を強化し、選挙の回数を減らして外国からの干渉をできるだけ排除すべきだと述べている。
借款の焦げ付きを防止
帰国直前、アダムズはオランダに赴き、ジェファソンとともに借款の利子支払い問題を解決している。もしオランダからの借款を焦げ付かせれば新たな憲法の下に成立したアメリカの信用が著しく損なわれ、将来の資金調達が難しくなる恐れがあった。アダムズはジェファソンと協議して、後に議会が認めてから発行するという条件付で新たな公債を振り出し、銀行家の手に託した。その後、アダムズはロンドンに向かい、1788年4月28日、母国に向けて出発した。
第1代副大統領
帰国
1788年6月17日、アダムズ一行を乗せた船はボストン港に入った。アダムズは、1779年11月に旅立って以来、約9年半ぶりに故国の土を踏んだ。ジョン・ハンコック知事とボストン市民はアダムズ一行を熱烈に歓迎した。アダムズは新しく購入したクインジー(元ブレインツリー)の家に引きこもった。前々からアダムズはいろいろな場所に移動しなければならない弁護士の生活の代わりに、「牧草と草、そして玉蜀黍を見守る生活」を送ってみたいと妻に語っていた。
1789年の大統領選挙
1789年2月4日に行われた初めての大統領選挙でアダムズは69人の選挙人のうち34人の票を得て次点になった。一方、ワシントンは69人すべての選挙人の票を獲得している。その当時の投票方式は選挙人一人につき2票を投じる方式であった。第3位のジェイの票数は9票であり、ワシントンには及ばないながらも広く支持を得たと言える。南部を代表するワシントンに対して、ニュー・イングランドを代表するアダムズが副大統領に就任することは新政府の安定には不可欠であった。
副大統領としての職務
4月21日、ワシントンの就任に先立ってアダムズは副大統領に就任した。アダムズが副大統領として果たした役割の中で最も重要な役割は、上院で議決を行う際に票数が同数で均衡した場合に決定票を投ずる職務であった。連邦政府発足当初、上院議員は僅か22名しかいなかったので、票数が均衡することが多かった。そのためアダムズは29回も決定票を投じている。この記録は今でも破られていない。
ワシントンはアダムズにほとんど相談を持ちかけることがなかったので、アダムズは政権運営の埒外に置かれた。政権内で冷遇されていると感じたアダムズは「我が国は賢明にも、かつて人間が考案するか、または思い付く限り、最も無用の職務を考案した」と皮肉を言っている。同時代の人々に不当に無視され、批判されていると信じ込むようなところがアダムズにはあった。アダムズは時にワシントンを辛辣に批評することもあったが、家にワシントンの肖像画を飾っていることからも分かるように、ワシントンに対して概ね敬意を抱いていた。
ジョン・アダムズは「合衆国大統領にしてその権利の擁護者閣下」を大統領に対する呼称として上院に提案した。アダムズは政府に威信を持たせるためにこうした修飾が必要だと考えていたのである。この提案は結局、下院で拒絶されただけではなく、嘲笑のもとになった。またアダムズが鬘に帯剣という正装に拘ったために、「恰幅閣下His Rotundity」という呼称を奉られた。そうした正装はヨーロッパの宮廷で外交官として活躍したアダムズにとって奇異な服装ではなかった。
アダムズが嘲笑をかったのはそれだけではなかった。アダムズは、毎朝、賃借した邸宅から一頭立ての馬車で出勤していたが、この様子を、お仕着せを着た御者が駆る豪奢な馬車に乗って出勤していると報じる新聞もあった。後にはアダムズが世襲の王になろうとしているのではないかと疑う人々さえいた。このようにアダムズは君主制や貴族制を望んでいるのではないかとしばしば批判されている。例えばフランクリンは、「いつもは実直で、多くの場合は賢明な人物だが、時々、場合によっては何を考えているのかが全く分からないこともある」とアダムズを評している。
「ダヴィラ論」の執筆
政治的には不遇であった一方、アダムズは、1791年、ユナイテッド・ステイツ・ガゼット紙に「ダヴィラ論」を発表している。イタリアの歴史家エンリコ・カテリーノ・ダヴィラの『フランス内戦史』の翻訳をもとに自説を展開している。
16世紀のフランスの内戦とフランス革命を比較し、三権分立と二院制によって均衡が保たれた政府がなければフランス革命は失敗に終わるとアダムズは予測した。そもそも一院制の民主主義政体は人間の本性に反する政体であり、特殊な地理的条件に基づくか、もしくは独立戦争時のアメリカのように非常時でなければ長く存続することはできないとアダムズは主張し、フランスの革命指導者達が全権力を一院制議会に集中させることを批判した。そして、もし一院制議会がフランス国民に無制限に平等を与えれば無秩序をもたらすことになるだろうとアダムズは警告している。
なぜならアダムズによれば、人間の本性は平等よりも「区別を求める情熱」に支配されるからである。「若者であれ老人であれ、富者であれ貧者であれ、高貴な者であれ賤しい者であれ、無知な者であれ教養ある者であれ、すべての個人は、理解され、認められ、話題の的にされ、肯定され、そして尊重されたいという欲求によって強く動かされる」とアダムズは述べている。
1792年の大統領選挙
1792年12月5日に行なわれた大統領選挙でアダムズはワシントンの132票に続いて77票を獲得し、副大統領に再選された。しかし、50票がニュー・ヨーク州知事 ジョージ・クリントンに流れたことは民主共和派の勢力が強まっていることを意味した。
選挙動向
1796年の大統領選挙は、実質的に初めての政党に基づく選挙だと言える。ワシントン政権下で広がりつつあった党派間の亀裂はもはや埋めることは不可能であった。 アレグザンダー・ハミルトンを中心とする連邦派はアダムズを大統領に、トマス・ピンクニーを副大統領に推した。一方、ジェファソンを中心とする民主共和派は トマス・ジェファソンを大統領に、 アーロン・バーを副大統領に推した。この際の候補公認は書簡による意見交換や非公式の協議を経て行われた。
連邦派はさらに中央政府を強化することを提唱し、それに対して民主協和派は権限を州に分散させることを主張していた。また外交に関して、アダムズはフランス革命を衆愚政治だと否定的にとらえていたが、ジェファソンはフランス革命を肯定的に評価していた。連邦派は親英の傾向が強く、民主共和派は親仏の傾向が強かった。このように内政においても外交においても両派は真っ向から対立していた。
アダムズにとって最大の強みは ジョージ・ワシントン大統領によって後継者として認められていたことであった。しかし、連邦派の中心であったハミルトンはピンクニーを大統領にしようと秘かに画策していた。アダムズが自己中心的で勝手気ままな人物で大統領として資質に欠けるとハミルトンは判断したからである。事実、アダムズは誰かが自分の名声を貶めているのではないかと根拠無く思い込むようなこともあったし、しばしば癇癪を起こすこともあった。そこでハミルトンは連邦派に属する選挙人に、アダムズとピンクニー両方に票を投ずるように伝達した。南部で優勢であったピンクニーが北部でもアダムズと並べば、総計で最も多く票を獲得することも十分可能であるとハミルトンは予測した。
選挙結果
大統領選挙は1796年12月7日に行われ、138人の選挙人(16州)がそれぞれ2票ずつ票を投じた。選挙の結果は接戦であった。アダムズはニュー・イングランドを中心に12州から71票を獲得し辛うじて首位になったものの、次点のジェファソンは南部を中心に68票を獲得した。ピンクニーはニュー・イングランドの票を完全に把握できず59票にとどまった。バーは南部の票を全く獲得できず、僅か30票にとどまった。また候補として名前があがっていないワシントンに2票が投じられている。
当時、「政党」は明確に存在していなかったが、アダムズ自身は党派に拘ることはあまりなかったものの、連邦派と見なされ、ジェファソンは民主共和派と考えられていた。つまり、この大統領選挙では、異なる「政党」から大統領と副大統領が選出されるという結果となった。現在では、憲法修正第12条によって、異なる政党から大統領と副大統領が選出されることはない。
アダムズは屈辱には我慢できない性格であったので、もし結果が次点か、または同数で裁定が下院に持ち込まれた場合は辞職するつもりであった。ワシントンの後継者を自認するアダムズにとって僅差での勝利は自尊心を傷付ける結果であった。
就任式
さらに就任式もアダムズの虚栄心を満足させることはなかった。就任式は1797年3月4日、フィラデルフィアにあるフェデラル・ホールの下院会議場で行われた。宣誓は最高裁長官 オリヴァー・エルズワースが執り行った。これは最高裁長官が大統領宣誓を執り行った最初の例となった。
前大統領としてワシントンは、黒いヴェルヴェット製の衣装に帯剣、髪粉を付けた鬘、駝鳥の羽飾りを付けたコックド・ハットという豪華な正装で式に臨んでいる。一方、アダムズは、就任式の主役であるにも拘らず、簡素な服装で鬘も付けず、剣も帯びていなかった。さらに護衛兵と儀仗兵は就任式の間、アダムズではなくワシントンに随従していた。就任式が終わるとほとんどの群衆はワシントンの後についていった。
閣僚との確執
史上初めての政権継承であったために、閣僚人事の変更や政策の継続などについて前例はなかった。まずジョン・アダムズ大統領はワシントン政権の閣僚をそのまま留任させた。 ジョージ・ワシントンには アレグザンダー・ハミルトンのような腹心の部下がいたが、アダムズにはそのような部下はいなかった。アダムズ大統領はワシントンの後継者を自ら以って任じていたので、閣僚を留任させることは当然の選択であった。またアダムズは閣僚人事を党派や縁故に基づいて決定すべきではないと考え、大統領自身も党派心に左右されるべきではないと固く信じていた。
閣僚に対して最も影響力を持っていた人物は、ワシントンを除けばハミルトンであった。ハミルトンは既に財務長官の職を退いていたが、閣僚は事あるごとにハミルトンの裁量を密かに仰いでいた。ワシントン政権下でハミルトンは、連邦政府の財政的基盤を整備したが、アダムズ大統領はそうした計画に対してあまり理解を示してはいなかった。またジョン・アダムズはハミルトンに強い不信感を抱いていた。1796年の大統領選挙におけるハミルトンの画策をアダムズが知ったことが原因の一つである。ハミルトンもアダムズを連邦派の領袖だと見なしていなかった。閣僚との確執は彼らの背後にいるハミルトンとの確執であったと言える。
1800年5月、遂に確執は最終局面を迎えた。次期大統領候補にチャールズ・ピンクニーを担ぎ出そうとハミルトンが陰謀をめぐらせていると確信したアダムズ大統領は、 ジェームズ・マクヘンリー陸軍長官と ティモシー・ピカリング国務長官を更迭した。こうした一連の更迭は大統領が自らの判断のみで閣僚の交代を命じることができることを示した。しかし、これは連邦派の分裂を早める結果をもたらした。
憲法修正第11条
1798年1月8日、憲法修正11条が発効した。修正11条は、「合衆国の司法権は、合衆国の一州に対し、他州の市民により、または外国の市民もしくは臣民によって提起された普通法または衡平法上の訴訟にまで及ぶものとすることはできない」と規定する。
ワシントン政権期にジョージア州に対して他州の一市民が負債の支払いを要求する裁判を起こした。しかし、連邦最高裁の判決の履行をジョージア州は拒否した。これにならって他の州も同様の権利を求めた。それに応じて議会は、1794年3月5日、修正11条を可決した。1795年1月23日にデラウェア州の批准によって憲法修正11条は既に成立していたが、州が連邦への告知を怠ったために、1798年になってようやく国務省が正式に発効を確認した。
XYZ事件
フランスとの衝突
フランスはワシントンによる中立宣言とジェイ条約締結を米仏同盟に反すると非難していた。そのうえフランスはイギリスに対する経済封鎖を名目にアメリカ船舶の取締りを強化した。これにより多くのアメリカ船舶が損害を被った。1796年11月、さらにフランスは国交停止を宣言した。就任式の前日、ジョン・アダムズ大統領は トマス・ジェファソンのもとを訪れて、関係改善のためにフランスに赴くように求めたが、断られている。そして、1797年5月16日、アダムズ大統領は議会に戦争教書を送付した。それは、フランスが公使としてチャールズ・ピンクニーの受け入れを拒否し、アメリカ船舶に損害を与えたことを非難し、商船の武装と海軍の増強、そして民兵を再編成することを議会に求める内容であった。最初の戦争教書であるが、正式な宣戦布告を求めたわけではない。議会はアダムズ大統領の要請に応えて、8万の民兵を3ヵ月間動員し、80万ドルの借款を締結する権限を与えた。
その一方で、ジョン・アダムズ大統領はフランスとの和解を図るために特使を派遣した。民主共和派の ジェームズ・マディソンを特使の1人に任命しようとしたが、連邦派の閣僚の反対にあって断念した。最終的に民主共和派からはマディソンの代わりに古くからの友人である エルブリッジ・ゲリー、連邦派からはピンクニーと ジョン・マーシャルが特使に選ばれた。
アメリカ使節団を迎えた仏外相シャルル・タレーランは、ジャン・ホッティンガ、ピエール・ベラミー、リュシャン・オートヴァルを通じて、25万ドルの賄賂を要求し、交渉開始の条件としてフランス公債を引き受けること、アダムズがフランスを非難した演説を取り消すことなどの条件を提示した。その一方で、使節団はフランスに現在のアメリカの立場に関する報告書を提出した。それに対してフランスは、ジェイ条約が米仏同盟に反する条約であること、最も親仏的なゲリーとのみ交渉することを回答した。そのため使節団はゲリーを残して帰国した。帰国の前にマーシャルは交渉の経緯をまとめた報告書を送っている。その報告書の中で、ホッティンガ、ベラミー、オートヴァルはそれぞれX、Y、Zという暗号に変えられていた。そのため一連の経緯はXYZ事件と呼ばれる。
国民感情の激化
1798年1月24日、使節団からの報告を待つ間、ジョン・アダムズ大統領は閣僚と交渉が失敗した場合の善後策を協議した。選択肢は、開戦、出港禁止、もしくはヨーロッパ諸国との関係を変えるかであった。ハミルトンの影響の下、閣僚は強硬な態度を保ち、イギリスとの関係強化を提言した。アダムズ大統領は強硬な態度を保つことには同意したが、イギリスとの関係強化は認めなかった。
3月19日、ジョン・アダムズ大統領は対仏交渉の失敗を議会に報告し、軍備の増強を求めた。そして、4月2日、アダムズはXYZ書簡を議会に提出した。さらに6月21日には議会に対して、「偉大で自由で強力な独立国家の代表として公使が接受され、尊重され、そして栄誉を与えられることが確証できない限り、フランスに代わりの公使を送ることはないでしょう」と通告している。
対仏交渉の経緯を知ったアメリカ国民は激怒した。多くのアメリカ人はフランス革命勃発当初、革命に好意的であった。しかし、革命フランス政府による恐怖政治や非キリスト教運動などが知られるようになると国民感情は一転した。このようなフランスへの反感は「防衛に大金をかけろ、賄賂には一銭たりとも使うな」という当時の言葉に表れている。
こうした国民感情を追い風にして、連邦派は親仏的な民主共和派に熾烈な批判を加えた。一方で民主共和派は、連邦派がXYZ事件を捏造したのではないかと疑いをかけた。米仏間の交易は途絶し、フランスの私掠船がアメリカ船舶を憚ることなく拿捕し始めた。1798年7月7日、議会によって米仏同盟は破棄され、米仏の決裂は決定的になった。アメリカはフランスと海上で小競り合いを続けたが正式な宣戦布告には至らなかったため、約2年間にわたった衝突は「擬似戦争」と呼ばれる。
外国人・治安諸法の制定
外国人・治安諸法の内容
1798年、反仏感情の高まりを追い風にして連邦派は、外国人・治安諸法を制定した。外国人・治安諸法は、帰化法、外国人法、敵性外国人法、治安法の4法からなる。民主共和派は、これらの法律を、フランス革命思想の広がりを阻止し、親仏的な民主共和派の勢力を削ぐことを目的としたものだとして激しく反発した。
帰化法は、アメリカの市民権を得るための在住期間を5年から14年に延長する法律である。その結果、民主共和派が多くを占める移民は投票権を得ることが難しくなった。外国人法は、危険だと見なされる外国人を国外退去させる権限を大統領に与える法律である。これにより移民の中から強固な親仏・民主共和派を追放することが可能になった。また敵性外国人法は、交戦期間中、敵国人を検挙し収監することを認める法律であった。さらに治安法は、連邦政府や連邦議会、または大統領に対する中傷や名誉毀損を行った者を処罰するという法律である。この法律は実質的に出版の自由や言論の自由を侵害する法律であった。ジョン・アダムズ大統領は法案に署名はしたものの、連邦派の期待とは裏腹に積極的に同法を執行しようとはしなかった。そのため同法に基づく告発は僅か25件にとどまった。
民主共和派の反撃
こうした外国人・治安諸法に対して民主共和派は、ケンタッキー決議とヴァージニア決議を動議にかけることで抗議した。ケンタッキー決議は、ジェファソンによって起草され、1798年11月16日、ケンタッキー州議会で可決された。またヴァージニア決議は、マディソンによって起草され、1798年12月24日にヴァージニア州議会で可決された。
両決議は、外国人・治安諸法が憲法修正第10条の「本憲法によって合衆国に委任されず、また各州に対して禁止されなかった権限は、各州それぞれに、あるいは人民に留保される」という規定に反していると主張している。こうした州権の考え方は後世にまで大きな影響を及ぼしている。
軍備の増強
海軍省の創設
ジョン・アダムズ大統領はフランスとの外交関係を一時的に断絶させる一方で1798年1月、海軍省の創設と陸軍を戦時体制に置くための資金を議会に求めた。その結果、4月30日に海軍省が創設された。それ以前は陸軍省が海軍の統括を行っていた。また海軍省に続いて7月11日、海兵隊も創設された。ワシントン政権期、バーバリ国家(16世紀から19世紀にかけてのモロッコ、アルジェリア、チュニス、トリポリ)の海賊に対抗するために議会は合衆国海軍の再建を認めていたが、非常に小規模なものであった。
海軍を増強することでフランスの対米強硬姿勢を牽制しようとアダムズ大統領は考えた。またハミルトンが主導する陸軍増強案を抑える目的もあった。アダムズ大統領はそうした理由に加えて、急速に拡大する海洋貿易を維持するために、アメリカ船舶を保護する海軍は不可欠な存在であった。
フランスとの緊張が高まる中、アメリカはイギリスと互いの商船をフランスの私掠船から守る協定を結んだ。連邦派はさらにイギリスとの同盟を推進しようとしたが、アダムズはそれを認めなかった。アメリカは、フランスとの緊張が緩和された後も、イギリスの海軍力に頼ることなく独自に自国の船舶を保護する海軍力を整備しなければならないと考えていたからである。
臨時軍の創設
1798年5月28日、連邦派の強い影響の下、議会はフランス軍のアメリカ侵攻に備えて臨時軍を編成することを決定した。それを受けてジョン・アダムズ大統領は、7月2日、引退していたワシントンを「中将および合衆国に奉仕するために徴募され、徴募されるであろう全軍の総司令官」に指名した。
ジョン・アダムズはワシントンを頂点にして、 ヘンリー・ノックス、チャールズ・ピンクニー、そしてハミルトンの順序で指揮官を任命しようとした。しかし、ワシントンはハミルトンを次位に置くように強く望んだ。さらに閣僚もワシントンの要請に同調したために、アダムズは不服であったがハミルトンを次位に置く案を承諾せざるを得なかった。また閣僚は大規模な陸軍を編成する計画を推進しようとしたが、アダムズはそれを認めようとしなかった。
フランスとの海戦
擬似戦争では陸戦はなかったが、海戦は何度か起きている。1799年2月9日、ニューヴィス島沖でアメリカ海軍のコンステレーション号はフランスのフリゲート艦ランスルジャント号と交戦し、同艦を捕獲した。さらに1800年2月1日、同じくコンステレーション号が、グアドループ沖でフランスの軍艦ヴァンジャンス号を追尾し、翌2日、砲撃戦をしかけて撃退した。
擬似戦争を通じてアメリカ海軍は大幅に増強された。開戦当初、僅か10隻程度だった艦船は、終戦時には50隻以上になっていた。戦況はアメリカに圧倒的に優位に進んでいる。最終的にアメリカは戦艦を1隻失ったものの、2隻のフリゲート艦を含む85隻のフランス船舶を拿捕している。
フリーズの乱
臨時軍と海軍の増強にともなう歳出の増加を補うために、1798年7月、ジョン・アダムズ大統領は財産税の導入を認めた。翌年、ペンシルヴェニア州東部の農民が財産税の撤廃を求めて反乱を起こした。この反乱は、首謀者である元民兵隊指揮官ジョン・フリーズの名前に因んでフリーズの乱と呼ばれる。または税の査定官に熱湯を注ぎかけて農婦達が抵抗したことから熱湯反乱とも呼ばれる。フリーズは数百人の暴徒を率いて刑務所を襲い、囚人を解き放った。
ジョン・アダムズ大統領は反乱の鎮圧を命じたが、1794年のウィスキー暴動の際にワシントンが自ら鎮圧に乗り出したのとは異なり、クインジーの自宅に滞在していた。アダムズの不在はこの時だけではない。ワシントンが8年の在任期間中に政庁所在地から離れていた日数は合計で181日間であったが、アダムズはその半分の在任期間にも拘らず、合計385日も政庁所在地を離れていた。大統領不在の間、フリーズの反乱に対処したのは主に閣僚であった。
反乱鎮圧後、裁判にかけられたフリーズは反逆罪で絞首刑の判決を受けた。ジョン・アダムズ大統領は、さらなる反乱を阻止するために刑を執行すべきだという閣僚の忠告に反して、1800年5月20日、フリーズに恩赦を与えた。アダムズは、フリーズの反乱を危険な暴動と見なしたものの、反逆罪にはあたらないと考えた。そして、「アメリカ人の人道的で心優しい性質に訴えかける」ために恩赦を与える決定を下した。この決断は、アダムズは気まぐれであるという閣僚の確信を強めた。それは、鎮圧の際の不在に加えて、アダムズが連邦派の支持を失う一因となった。
擬似戦争終結
ジョン・アダムズ大統領は、1798年夏に、逸早くフランスから帰国したマーシャルから、タレーランがアメリカ人の怒りに驚いていること、アメリカ国内の政治的分裂に乗じていること、そして交渉を再開しようとしていることを聞き取っていた。さらに10月1日に帰国したゲリーも、タレーランがホッティンガ、ベラミー、オートヴァルの3人の行いを与り知らないと弁明していることをアダムズに伝えた。
こうしたフランスの対米姿勢の変化を読み取ったジョン・アダムズはフランスに対する態度を和らげた。そして、1799年2月18日、誰にも諮ることなくウィリアム・ヴァンス・マレーを特使としてフランスに派遣するように上院に承認を求めた。マレー派遣案への強い反対を知ったアダムズ大統領は詳細な指示を与えたうえで3人を派遣する案を提案した。結局、アダムズの提案を受け入れた上院はマレーに加えてパトリック・ヘンリーとオリヴァー・エルズワースを特使として指名した。この特使派遣の決断は、大統領としてのアダムズの業績の中でも最も大胆な決断であったが、同時に連邦派の支持を失わせる結果をもたらした。
ジョン・アダムズ大統領と閣僚は特使に与える指示の内容について同意に至ったが、ブルボン王朝の復活が近いと考えていた閣僚は、アダムズの不在を利用して特使の出発を先延ばしにした。10月10日、黄熱病の流行で臨時に政府機能が移されていたトレントンに到着したアダムズは、エルズワースがまだフランスに出発していないのを知った。15日、アダムズは閣僚とともに指令を綿密に検討したうえで、翌日、11月1日までに出発するように特使に命じた。
特使派遣を受けて、1800年9月30日から10月1日にかけて行われた米仏会議によって擬似戦争が終結した。この会議によりアメリカとフランスは次のような合意に至った。差し押さえた資産を元の持ち主に返却する。通商に特別な規制を課さない。フランスは貿易において最恵国待遇を与えられる。輸出入禁止品目を明確に規定する。こうした合意について上院は2ヶ月間にわたって討議し、1801年2月3日、条件付で批准した。
ワシントンD.C.に首都移転
新首都の命名
ジョン・アダムズが大統領に就任した当時、アメリカの首都はフィラデルフィアであった。現在のホワイト・ハウスもまだ完成しておらず、当時の大統領官邸はフィラデルフィアのロバート・モリス邸であった。
1790年7月16日、議会は暫定首都をフィラデルフィアに移転させた後に恒久的な首都を建設する案を既に承認していた。そして、移転の完了日は1800年12月の第1月曜日までとすると定められた。また1791年9月には、恒久的な首都を「ワシントン」と命名することも決定された。その都市計画に、フリーメイスンリーを象徴するコンパスと直角定規が埋め込まれているという説があるが明確な根拠はない。
大統領官邸の建設
大統領邸の建設が始まったのは1792年10月13日であり、ワシントンの在任中には完成しなかった。完成には8年の歳月とおよそ24万ドルの費用を要した。現在では大統領官邸はホワイト・ハウスと呼ばれているが、当時はまだそう呼ばれていなかった。ワシントンD.C.の都市計画を提案したフランスの建築家ピエール・ランファンは、大統領官邸を「大統領宮殿」と呼ぶように勧めたが、ワシントンは単に「大統領官邸」と呼ぶように定めた。
ホワイト・ハウスと一般に呼ばれるようになったのはその白塗りの外観による。1798年に外壁ができた時に凍結防止のために石灰を含んだ水漆喰が塗布されたことが始まりである。大統領官邸が「ホワイト・ハウス」と呼ばれた初出は、1810年11月22日のボルティモア・ホイッグ紙であり、ホワイト・ハウスが公式名称として採用されたのはさらに後の1901年のことである。1812年戦争の戦火にあって修復後に白く塗ったのでホワイト・ハウスと呼ばれるようになったという説もあるが、上述の通り、その前から大統領官邸はホワイト・ハウスと呼ばれていた。
大統領の入居
1800年11月1日、ジョン・アダムズ大統領はワシントンの大統領官邸に入居した。6月3日、アダムズ夫妻はフィラデルフィアからワシントンを訪問しているが、まだ大統領官邸は工事中であった。そのため11月に入居した後も実際に使用できた部屋は僅かに6部屋に過ぎなかった。隙間風が入る大きな部屋を十分に暖めることもできず、漆喰も完全に乾いていなかった。屋内便所は無く、水も5ブロック先の広場から運んでこなければならなかった。アビゲイルは洗濯物を建築中のイースト・ルームに干していたという。このように大統領邸が未完成にも拘らず、アダムズは大統領執務室(現在のブルー・ルーム)で、ワシントンに倣い「大統領の接見会」を催している。
1800年11月2日に大統領邸から初めてアビゲイルに送った手紙の中でアダムズは、「この邸と今後、住まうであろうすべての者達に神が大いなる恩恵を賜らんことを。願わくは永久に、実直で懸命な者以外の何人たりともこの家を占めないように」と記している。この言葉は、後に フランクリン・ルーズベルト大統領によってステート・ダイニング・ルームのマントルピースに刻まれた。
1800年の大統領選挙
ジョン・アダムズは現職大統領として、現職副大統領に敗れた唯一の大統領である。現代では選挙制度が改正されているので、そのような事態になることはない。
ニュー・ヨーク州議会選挙の結果が判明しつつあった頃、ジェファソンはアダムズのもとを訪れ選挙の行く末について語っている。ニュー・ヨーク州の帰趨は1800年の大統領選挙の結果を占う鍵であり、それ故、ニュー・ヨーク州議会選挙で連邦派が敗北したことは、すなわち大統領選挙でアダムズ大統領が敗北する公算が高いことを意味した。また連邦派の意向に反して擬似戦争を終結させたことで、連邦派の支持はほとんど望めなかった。連邦党の中心人物であるハミルトンも「ジョン・アダムズの公的行為と性格に関する書簡」を発表してアダムズを攻撃した。さらに、アダムズに直接の責任はないものの、多くの人々が外国人・治安諸法は悪法と見なすようになっていた。
結局、大統領選挙で、ジョン・アダムズが敗れた一方で、ジェファソンとバーが同じ票数を獲得したことが判明した。連邦下院で決選投票が行われたが、なかなか結果が出なかった。そのため連邦上院議長に大統領の職務を代行させる案が浮上した。ジェファソンはその案に対してアダムズに拒否権を行使するように求めた。しかし、アダムズは、「選挙の成り行きはあなたの手の内にあります。世間の信頼に応えられるように公正であるように努め、海軍を維持し、職務を遂行している者を妨げることがないとあなたは言うことができるだけですが、そうすれば政府はもうすぐ自分の手に帰すことになるでしょう。我々はそれが国民の願いであることを知っていますし、なるようになるでしょう」と答え、事態に介入することを断った。
真夜中の任命
ジョン・アダムズ大統領の任期終了が間近に迫った1801年2月13日、1801年裁判所法に署名した。同法は、最高裁判事の数を6人から5人に減らした一方で、16の巡回裁判所を設置することを規定している。その結果、新たに多くの公職が任命されることになった。アダムズは大統領としての最後の夜の3月3日に、連邦派の影響力を残しておこうと夜を徹して判事を任命したと噂された。こうした任命は「真夜中の任命」と呼ばれた。確かに、任期末の数週間でアダムズ大統領は多くの任命を行ったが、3月3日に任命した判事は噂とは異なり僅か3名である。
しかし、ジョン・アダムズ大統領の努力も甲斐なく、1802年に1801年裁判所法は廃止され、こうした任命は無効になった。しかし一方でアダムズが最高裁長官に任命したマーシャルは、強固な連邦派として34年間もその職にとどまり、連邦最高裁による違憲立法審査権を確立した。
郷里に隠棲
1801年3月4日早朝、1800年の大統領選挙で敗北したアダムズは後任者の就任式に出席することなく郷里のクインジーに向けて出発した。 トマス・ジェファソンの大統領就任式に欠席した理由をアダムズは説明していない。しかし、ジェファソン政権が始まる前に、駐普アメリカ公使を務めていた息子 ジョン・クインジー・アダムズの任をアダムズ自ら解いていることから、就任式を欠席した理由は窺い知れる。再選を果たせなかったアダムズはおそらく自尊心をいたく傷付けられ、ジェファソンによって息子が解任されるくらいなら、自分の手で解任したほうがましだと考えたようである。就任式を欠席したのも同様の理由だと思われる。
アダムズはいかなる時でも独立心を失わず、自ら党派人になることを拒否していた。ジェファソンはアダムズを「彼は自尊心が強く、かんしゃくもちで、人びとを支配している動機のもつ力とその効果を正しく計算できないのである。これが彼の欠点のすべてであるといっていいだろう(高橋健次訳)」と評している。
アダムズは郷里でアビゲイルとともに農園の管理に勤しむ傍ら、読書や自伝の執筆に精を出した。白内障によって視力が衰えると、アダムズは孫や一族に本を音読させた。アダムズの知的探究心は最後まで衰えることはなかった。健康も晩年まで衰えず、毎日3マイルを歩くことを日課にしていたという。
数々の批判に応える
1805年、女流作家マーシー・ウォレン は3巻からなる『アメリカ革命の勃興、進歩、そして終結の歴史』を上梓した。その中でウォレンは、アダムズを虚栄心が強く野心的な人物であり、ヨーロッパに滞在している間に共和主義から君主制支持に鞍替えした腐敗した人物であると酷評した。「揺りかごから今に至るまで、腐敗の例となるものがあったかどうかについて、人類全体、そして天使にも悪魔にも私は異議を申し立てたいと思います」とアダムズは自らウォレンに批判に応えている。
さらに1814年、ジョン・テイラーの『合衆国政府の諸原理と諸政策に関する研究』に関しても32通もの手紙を送っている。テイラーが同書で「擁護論」を批判していたためである。
息子の大統領就任を見届ける
1820年、アダムズはマサチューセッツの15人の大統領選挙人団の一員として ジェームズ・モンローに票を投じた。同年、マサチューセッツ州憲法制定会議にクインジーの代表として参加した。他にも郡の測量士に任命されている。
1824年8月29日、アダムズはラファイエットの表敬訪問を受けた。独立戦争の英雄であるラファイエットは戦争後、母国フランスに帰国していたが1824年8月15日から25年9月3日にかけてアメリカ各地を再訪して国民の熱狂的な歓迎を受けた。2人はともに戦った独立戦争の日々について語り合い、旧交を温めた。しかし、アダムズは後に「私が知っていたラファイエットではない」と語っている。ラファイエットもアダムズに対して同様に感じたようである。ラファイエットはアダムズがほとんど椅子から立ち上がることも自ら食事もできない状態になっていることに気が付いた。
ラファイエットの他にも若き日のラルフ・エマソンがジョン・アダムズを訪問している。その時の印象をエマソンは「彼[アダムズ]は、年の割にはとても明瞭に話した。長い意見をもろともせずに語り始め、息継ぎで中断しながらも、一度も言葉を間違えず揺ぎ無い調子で結論に至る」と綴っている。
1825年3月4日、息子ジョン・クインジー・アダムズが第6代大統領に就任した。当時89才になっていたアダムズは身体が衰えていたために就任式に出席はしなかったものの、息子が自分と同じく大統領になる幸運に恵まれた。同様の例はブッシュ親子のみである。しかし、アダムズは「大統領職を務めた者は、友人が大統領になったからといって祝うことはない」と息子に訓戒した。
永遠のライバルにして理解者
神の恩寵である偶然の一致
1826年7月4日、アダムズは老衰による心疾患と肺炎により死の床に着いていた。数ヶ月前からアダムズの容態は悪化していたが、正午過ぎに「トマス・ジェファソンはまだ・・・」という言葉を最後に昏睡状態に陥った。そして、午後6時頃、死亡が確認された。
アダムズが死の床に着いていたまさにその頃、マサチューセッツ州クインジーからはるか南に離れたヴァージニア州モンティチェロで、ジェファソンも死の床に着いていた。実は、ジェファソンはアダムズが亡くなる約5時間前に逝去していた。つまり、アダムズが「トマス・ジェファソンはまだ・・・(最後の言葉は不明瞭だが「生きている」という言葉であったと推定されている)」という最後の言葉を残したまさにその頃にジェファソンは亡くなっていたのである。
これだけでも不思議な縁だが、さらにこの7月4日は、実は独立宣言調印50周年の記念日であった。独立宣言に署名した人々の中で、後に大統領になったのはアダムズとジェファソンの2人だけしかいない。その2人が記念すべき日に同時に亡くなったことは、アメリカの建国期が過ぎ去ったことを象徴する出来事であった。息子ジョン・クインジーは父とジェファソンが7月4日に亡くなったことを知って、そうした偶然の一致は、「神の恩寵の明確な印である」と記している。
両者の比較
アダムズとジェファソンは外見、育ち、気性に至るまで対照的であった。まず外見に関して、アダムズが丸い体形であったのに対してジェファソンは細長い体形であった。アダムズがほとんど禿げ上がっていたのに対して、ジェファソンは豊かな髪を持っていた。博識という点では似ていたが、アダムズが政治学に強いのに対して、ジェファソンは科学に強かった。農夫の子として慎ましい家庭に生ま、奴隷を所有しなかったアダムズに対して、ジェファソンは富裕な大農園の子として生まれ、数多くの奴隷に囲まれて暮らしていた。いわゆる生まれながらの土地貴族であった。気性については2人の日記の書き方にその違いがよく表れている。アダムズは日記に自分の気持ちをありのままに綴ったが、ジェファソンは事実を単に記録するようなことが多かった。さらにジェファソンは他人と表立って争うことを避けていた。できるだけ苦しみが少なくなるように人間は人生を送るべきだとジェファソンは信じていたからである。一方でアダムズは、自分が正しいと思えば、どのような苦痛も衝突も意に介せず、自分の信念を主張することが大切だと考えていた。
すれ違い
アダムズとジェファソンは現役当時、「その頃、ジェファソンはすべての政治的な問題に関して私と意見を同じくしたわけではないが、とても礼儀正しくそれを認めていた」とアダムズが述べているように、最初は仲が良かった。またジェファソンが一時的に議会を去った時も、「我々は君の精励と手腕を今、ここで必要としている」と帰還を促している。両者ともに独立宣言の起草に関わり、またヨーロッパで協力して外交活動にあたった。『擁護論』を受け取ったジェファソンは、フランスでそれを翻訳出版することをアダムズに勧めている。しかし、政治姿勢をめぐる対立が顕在化するにしたがって、その計画は立ち消えになったようである。
アダムズとジェファソンの政治思想の違いが明確になった契機は合衆国憲法制定である。当時、両者ともにヨーロッパに在留していたので憲法制定会議には参加していない。しかし、アダムズの著作は憲法制定会議の多くの参加者に親しまれていたことは間違いない。
アダムズとジェファソンは憲法について見解を述べた書簡を交換している。アダムズは外国の干渉を排除するためには強大な行政権力の樹立が不可欠であるとジェファソンに明かしている。ジェファソンは自らの考えをアダムズに対して明らかにしなかったが、政府の在り方に関してアダムズと異なった考えを持つことは明言している。
交流の再開
1800年の大統領選挙でジェファソンがアダムズに勝利を収めて以来、両者の音信は途絶えていた。1811年12月25日、両者の仲を取り持とうとしたベンジャミン・ラッシュに対して、アダムズは「私としては、彼[ジェファソン]に言うことは何もないが、彼が死ぬ時に、快適な天国へ旅立つことを望んでいる。まあ、私はできるだけ彼より遅れて天国に行きたいものだが」と答え、翌年1月にジェファソンへ手紙を書き送った。
これを契機に再び手紙の交換が始まった。ジェファソンに宛てた1813年7月15日の手紙の中でアダムズは「あなたと私は、互いを説明する前に死ぬべきではありません」と伝えている。またジェファソンもアダムズの石膏製の胸像を自分の机の傍に飾っていたという。
アダムズとジェファソンの間で交わされた書簡は、当時の政治や社会、宗教に至るまで幅広い話題に及んでいる。アメリカの歴史の中で自分が果たした役割を互いに確認しあった作業だと言うことができる。アダムズからジェファソンへ109通、ジェファソンからアダムには49通の手紙が送られている。
175年間破られなかった最長寿記録
アダムズの享年は90才と247日であり、この長寿記録は、2001年まで175年間破られなかった。記録を破ったのは ロナルド・レーガンである。レーガンは2004年に93才と4ヶ月で亡くなった。現在では、2006年12月に93才と6ヶ月で亡くなった ジェラルド・フォードが最長寿記録を保っている。
アダムズはマサチューセッツ州クインジーのファースト・パリッシュ教会に葬られた。なお後に息子のジョン・クインジー・アダムズも葬られたので、同教会は2組の大統領夫妻がともに眠る唯一の墓所となっている。
根強い否定的評価
各人物による評価
1783年に トマス・ジェファソンはアダムズを評して「アダムズは虚栄心が強く短気で人を支配する動機を悪く解釈するが、これがおそらく彼について言えるすべての悪弊だろう」と述べている。
否定的評価
アダムズは大陸会議での活躍とヨーロッパにおける外交活動の実績は認められていたが、合衆国憲法制定以降、「時代遅れの貴族主義者」であり、政治的には「無能」と評されることが多かった。「無能」と評価される点は主に対仏関係の処理である。フランスとの和平を望んでいるのにも拘らず、XYZ事件を隠蔽しなかった。その結果、連邦派の反仏感情を煽ることになり、和平の実現が困難になったからである。さらに外国人・治安法という自由を制約する悪法を制定したという否定的な評価も下される。こうしたアダムズ評は非常に強い影響力を未だに持っている。
またアダムズは政敵からしばしば貴族政治や君主政治を目していると非難されている。確かにアダムズは民主政治を標榜しているわけではなく、多数者による少数者の圧迫という民主政治が内包する危険性を示唆している。そうした危険性を排除するために各階層の利害を反映させる仕組みを提唱したのである。
肯定的評価
アダムズに対する肯定的な評価としては、フランスとの全面戦争に陥ることなく、アメリカの中立政策を阻害する米仏同盟の解消に成功したという見方がある。アダムズ自身、「私の墓石に一番刻んで欲しいのは『1800年、フランスとの和平の責務を一身に担ったジョン・アダムズここに眠る』という銘文だ」と述べている。またアーサー・M・シュレジンガーは、アダムズを「このような危機に臨んで、大統領として彼ほどの確固たる態度をとりうる者はまれであろう」と高く評価している。
1950年代、アダムズを保守主義の観点から見直す研究が盛んであったが、根本的な評価を改善するには至っていない。ピーター・ヴィレックは、『保守主義―ジョン・アダムズからチャーチルまで』の中でアダムズの『擁護論』をアメリカ保守主義における7大著作の一つに挙げている。その一方で、クリントン・ロシターも『アメリカの保守主義』の中でアダムズを「アメリカ保守主義の第一級の人物」と評価している。政治学に関する知識において、アダムズに比肩する者はほとんどいなかった。
アダムズ自身も、「『擁護論』3巻を読んだバークのサークルにいたある紳士が、ワシントン将軍というのが世界で最も偉大な人物の名前であると言ったところ、バークは『私もそう考えていたよ、ジョン・アダムズを知るまではね』と応えたという」と得意気に語っている。
総評
アダムズは ジョージ・ワシントンが持っていたような圧倒的なカリスマは持っていなかった。さらに民主共和派からも連邦派の主流からも非難されつつ政権を運営しなければならなかった。しかし、アダムズは憲法に定められた規定に忠実に従い、大統領が外交や国防といった分野でどのように職権を行使できるのかを示した。またワシントンが離任演説で示唆しているように、党派抗争は外国からの干渉をまねき、内戦を誘発する可能性があった。それを避けるために党派抗争を抑制する独立した行政権力が必要であるとアダムズは考え、その信念にしたがって行動したと評価することもできる。
大統領制創始当初は、ワシントンあってこその大統領職であり、大統領職の機能はワシントンの資質と不可分であった。しかし、アダムズは、ワシントンのようなカリスマや党派によらなくても大統領職が独立して有効に機能する可能性を示した。アダムズは、大統領は超党派的な存在であるべきだと考え、実際にそのように振舞った。アダムズは自ら信じるところに忠実であった。しかし、そうしたアダムズの特質は1800年の大統領選挙でアダムズに敗北をもたらす一因となった。ダニエル・ブーアスティンは、「この頑固さ―祖先のピューリタンたちなら、強情な自尊心と呼ぶだろう―は、実際にかれらをステーツマン(政治家)とする助けとなったが、同時に、かれらを無能なポリティシャン(政治屋)とした」と評している。
教養豊かな少女
少女時代
妻アビゲイル(1744.11.11-1818.10.28)は、マサチューセッツ植民地ウェイマスで牧師ウィリアム・スミスの次女として生まれた。母エリザベスはブレインツリーの初期入植者の血を引いている。父方の曾祖母サラ・ボイルストンはマサチューセッツ湾植民地の中心的な家系に属していた。またサラの父トマス・ボイルストンはジョン・アダムズの母方の高祖父にあたる。つまり、アビゲイルとアダムズはともにトマス・ボイルストンの玄孫である。アビゲイルの父ウィリアムはハーヴァード大学を卒業し会衆派の牧師となり、ウェイマスの名士の1人として認められていた。
病弱のために学校に通うことができなかったアビゲイルは読書に熱中した。スミス家は多くの書籍を蔵していた。多くの人々がスミス家に立ち寄る様子はさながら文学サロンのようであった。そうした環境の中、アビゲイルはホメロスやキケロといった古典をはじめ、政治や神学の本まで読み漁っていたという。
その当時、アビゲイルのような女性は稀な存在であった。なぜなら、「獲得できる限りのすべての支援と利点が息子達に与えられる一方で、娘達は教養という点では完全に放置されていた」とアビゲイル自身が書いているように、その当時の女性はほとんど教育を受ける機会がなかったからである。またアビゲイルは自分の考えをためらわずにはっきり示す性格であった。当時の出来事や人々、日常生活に至るまで様々な事柄について描写したアビゲイルの書簡は、『アダムズ夫人の書簡集』として
1840年に公刊され高い評価を受けている。
ディアナとリュサンドロス
アダムズがアビゲイルに初めて会ったのは1759年夏頃である。その時、アダムズは9才年下の少女に全く興味は抱かなかったようだ。しかし、3年後、友人に誘われてアダムズはスミス家によく足を運ぶようになった。17才になっていた少女は、詩や哲学、政治に関する造詣の深さでアダムズを驚かせた。アビゲイルは2人の心がまるで「同じ性質」のようだと語っている。一方で、アビゲイルは、アダムズが他人に下す評価が厳し過ぎ、それは傍から見ると傲慢に映ると忠告している。
アビゲイルとアダムズは、「ディアナDiana[ローマ神話に登場する月の女神]」と「リュサンドロス[スパルタの政治家]」という筆名でさかんに手紙を交わした。古典や神話から名前を借りることは当時の風習であり、教養を示すためだけではなく、ピューリタン的な価値観から束縛されずに手紙を書くためでもあった。アビゲイルは後には「ポーシャ[古代ローマの徳高き女性]」という筆名も用いている。
結婚生活と長い別離
結婚
1764年10月25日、マサチューセッツ植民地ウェイマスのスミス家で2人は結婚した。式は新婦の父スミス牧師が執り行った。新郎は28才、新婦は19才であった。2人の結婚生活は以後54年間も続いた。孫チャールズの回想によると、「アビゲイルは農園の管理や家族の財産管理に手腕を発揮し、アダムズが公的な生活の[経済的]負担によって破産することから免れさせた」という。
アダムズにとってアビゲイルは「私の心を和らげ温める。そして私に慈愛の心を取り戻してくれる」存在であった。アビゲイルとの結婚によって、アダムズの心の中では辛辣な自己批評から円熟が芽生え始めた。
早くから独立を唱える
独立戦争が勃発するとアビゲイルは戦火を身近に感じることになった。1775年6月17日、バンカー・ヒルの戦いを遠くから目撃している。さらに1776年3月5日に「窓のがたがた鳴る音、家のみしみし震える音、そして24ポンド砲の絶え間ない咆哮」とアメリカ軍のボストン砲撃について記している。ボストンからの避難民をアビゲイルは自宅に招き入れた。物資の窮乏に耐えながら、徴発により人手が少なくなった農園の管理を続けた。この頃の様子をアビゲイルは「ボストンの住民の苦難は筆舌に尽くし難いものです」と綴っている。
アビゲイルはアダムズに宛てた1775年11月12日付けの手紙の中で「別離しましょう。彼ら[イギリス人]は私達と同胞でいるのに値しません。彼らとの関係を絶ちましょう。これまでのように繁栄と幸福を彼らに懇願せずに、神が彼らの目論見を挫かれ、彼らのあらゆる企みを無に帰されるように願いましょう」と語っているように早い段階から独立に賛成していた。さらに1775年11月27日付けのアダムズに宛てた手紙の中では、「[イギリス]政府の支配は遂に消えていくでしょう。社会の平和や安全にそれが必要であるとしても、人々が抑圧に黙って従っているとは思えない。もし私達がイギリスから分離すればどのような法体系が編まれるのでしょうか。自由を保持できるように、私達はどのように支配されるべきなのでしょう。憲法によって管理されない政府は自由でありうるのでしょうか。誰が憲法を制定するのでしょうか。誰が憲法に力と勢いを与えるのでしょうか」と独立後の国家構想についても語っている。アビゲイルは手紙の中で、家族の音信だけではなく、政治向きの事柄についても非常に関心を示している。
別離
アダムズは公務のために家を留守にしがちであった。アビゲイルとジョンは離れている時は毎日のように手紙を交わした。しかし、アダムズは「さらに2、3ヶ月もすれば、私は最も癪に障る皮肉屋になってしまうだろう」と語っているように、絶え間の無い別離はアダムズにとって苦痛であった。そうした苦痛にも拘らず、大陸会議はアダムズをヨーロッパに派遣することを決定した。アビゲイルは議員の1人に「アダムズに対するあなたの策略はほとんど考えられないものです。感性と優しい心をお持ちのあなたが、私のすべての幸せを奪おうと企むことがどうしてできるでしょうか」という手紙を送っている。
当初、アビゲイルは子供達とともに夫に同行するつもりであった。しかし、イギリス軍によって船が拿捕される危険性があっただけではなく、当時、冬の荒れた大西洋を渡ろうとする者はほとんどいなかったからである。しかし、同行を強く希望した息子 ジョン・クインジー・アダムズがともに旅立つことになった。アダムズ親子は1778年2月にフランスに向けて出発し、1779年8月に帰国した。しかし、同年11月、アダムズは大陸会議の命によって再びフランスに向けて旅立った。今回もアビゲイルは同行せず、代わりに長男ジョン・クインジーと次男のチャールズが同行した。
夫の不在中、アビゲイルは単に留守を預かっているだけではなかった。不動産に投資したり証券に投資したりした。さらにアダムズから送られてくる品々を売り、遂にはヨーロッパの商人に直接注文するまでになった。
再会
1782年11月30日、アダムズはパリ条約調印の大任を果たし後、帰国を考えていた。しかし、アダムズに連合会議は新たな任務を与えたので帰国を断念せざるを得なかった。アダムズはアビゲイルを呼び寄せる決心をした。
1784年6月18日、アダムズの求めに従ってアビゲイルは娘ナビィとともにアメリカを旅立った。初めは船酔いに苦しめられていたアビゲイルであったが、船中でただ大人しくしていたわけではなかった。料理人をしつけたり、悪臭に閉口して船首から船尾まで磨き上げたりした。船長が自分の職を取られるのではないかと思ったほどであったという。こうしてアビゲイルとナビィは7月にイギリスに到着した。
イギリスに滞在中、12人のブレインツリーの水夫が収監されているのを知ったアビゲイルは、水夫達を助けるようにとアダムズに手紙を送っている。アダムズは自分のお金で彼らの身柄を引き受けることを申し出た。その後、彼らは捕虜交換で解放された。1784年8月7日、アダムズ夫妻はロンドンでおよそ5年ぶりの再会を果たした。
アダムズ一家はパリ近郊のオートゥイユにある邸宅に住んだ。アビゲイルは邸宅を切り盛りするのに雇わなければならない召使の数に辟易した。アビゲイルにとってそれは厄介なことであった。アビゲイルはパリの街を不潔だとは思ったが、演劇や音楽、そしてファッションには魅了された。パリに約9ヵ月間滞在した後、アダムズ夫妻はロンドンに移り、約3年近くそこで過ごした。アダムズ夫妻は1788年6月に帰国した。
子供達の巣立ち
帰国したアダムズ夫妻は、工事はまだ完全に終わっていなかったものの、予め購入しておいた新居に入った。結婚した当初に住んでいた家よりも広いとはいえ、ヨーロッパで邸宅に住むことに慣れていたアビゲイルにとって、新居は満足できる広さではなく、「ミソサザイの家」と呼んだ。その後、アビゲイルは家を拡張し、高級家具を輸入して設えた。アダムズ夫妻は自宅をピースフィールドと名付けた。ピースフィールドはアダムズ国立史跡として現在でも見ることができる。 アダムズが副大統領に選ばれたことを知ってアビゲイルは喜び半ばといった気持ちであった。愛着ある我が家から動きたくなかったからである。しかし、ニュー・ヨークでアビゲイルは素晴らしい家を見つけることができた。それはハドソン川沿いに建つリッチモンド・ヒルと呼ばれる邸宅であった。
副大統領の第2期目になるとアビゲイルは病気がちであったこともあり、新たに首都になったフィラデルフィアにはほとんど住まず、ピースフィールドに篭った。この頃、アビゲイルは非常に孤独であった。長男ジョン・クインジーは三男トマスTをともなって公務でオランダに旅立ち、長女ナビィとその子供達はニュー・ヨークに居た。さらに次男チャールズもニュー・ヨークで弁護士として働いていた。
大統領夫人
女大統領閣下
1796年の大統領選挙でアダムズは第2代大統領に選出された。「私は感情を表に出すことに慣れているので、必要に応じて、自分の周りに防御壁を築く方法や口に出す前にすべての言葉を吟味する方法、話したいのに沈黙を守る方法など分からない」と述べているように、アビゲイルは大統領夫人の役割を自分がうまく果たせるかどうか不安に思っていた。その当時の女性は、夫の背後で沈黙を守ることが美徳とされ、アビゲイルのように積極的に発言をする女性は稀であったからである。
農園の管理やアダムズの母親の看護で忙しかったためにアビゲイルは5月までフィラデルフィアに行くことができなかった。そのためアビゲイルは夫の大統領就任式に出席していない。
連邦派と民主共和派の対立が激化する最中、アダムズは絶え間ない批判を受けた。アビゲイルは夫を擁護するために友好的な新聞の編集者に対して何十もの手紙を送った。アビゲイルが夫に及ぼす影響はよく知られていた。そのため多くの人々がアビゲイルを「女大統領閣下Mrs. President」と皮肉を込めて呼んだ。
アビゲイルは大統領夫人として週に2度迎接会を主催し、多い時に1日で5,60人にも及ぶ訪問客を応接した。「私の時代では、私がファッションを決める特権を持っているように思います」とアビゲイルは述べ、新しい装いを社交界にもたらした。当時の女性は冬用に薄いモスリンのドレスを着用していたが、アビゲイルは代わりにシルクのドレスを着用した。さらにドレスのウエストを高くとり、襟ぐりを深くした。
ホワイト・ハウスの女主人
1800年11月、アビゲイルはいまだ工事中のホワイト・ハウスに移った。その時の様子を、娘に宛てた1800年11月21日付けの手紙の中で次のように記している。
「私はここに先週の日曜日に着きました。道に迷った以外はお知らせするような出来事には遭いませんでした。ボルティモアを出発し、フレデリック郡の道を8,9マイル進みました。そうしてさらに森の合間を8マイル進んだところで、案内してくれる人も道も見つからず2時間迷いました。[中略]。家は住めるようにはなっていましたが、工事が終わっている部屋は1部屋もありません[中略]。垣根も庭もありませんし、その他諸々も全くありません。大きな未完成の客間を、洗濯物を吊るして乾かす部屋にしています」
1800年の大統領選挙でアダムズは トマス・ジェファソンに敗れ、アビゲイルの大統領夫人の役割も4年で終わりを告げることになった。引退するべき年齢に達するか、または国民の信頼を失った場合を除いて、大統領は続けて職に留まるべきだとアビゲイルは思っていた。それ故、アビゲイルは、夫が選挙に敗北し、大統領職を失うことは国家にとって大きな損失であると考えた。そして、大統領選挙にともなう激しい中傷合戦に対してアビゲイルは強い嫌悪感を抱いていた。結局、アビゲイルがホワイト・ハウスに住んだ期間は僅かに約3ヵ月であった。
政権終了後
クインジーに戻ったアダムズ夫妻は孫達に囲まれながら暮らした。夫妻には10人の孫がいて、そのうち5人が断続的に一緒に住んでいた。家族との暮らしに落ち着いたものの、アビゲイルの政治への関心は衰えることはなかった。連邦上院議員になっていた長男ジョン・クインジーから手紙で様々な情報を得ていたうえに、毎日欠かさずいろいろな新聞を読んでいた。1818年10月28日、アビゲイルは熱病に罹って亡くなった。享年73。2人の結婚生活は54年と3日にも及んだ。
エピソード
女性の権利を主張
アビゲイルは、早くから女性の権利を主張したことでよく知られている。1776年3月31日にアダムズに宛てた手紙の中で、「新しい法体系を作る必要があると思いますが、女性達のことを忘れないように強く望みます。そして、昔の女性達に対してよりも、もっと優しく好意的になるようにして下さい。夫達の手に無制限の権利を委ねてはなりません。もしなろうと思えば、すべての男性は暴君になれるのだということを忘れないで下さい。もし特別な配慮と関心が女性達に払われないのであれば、私達は反乱を企てることを決意するでしょう。そして、代表権を持たず、私達の声を反映させることができない法律に縛られるつもりはありません」と述べている。
現代でもアビゲイルは女性解放運動の先駆けと見なされている。またアビゲイルは奴隷制について「奴隷制は他者に対する思いやりとキリスト教の教義に基づいていない」という見解を示している。アダムズも奴隷制について「人間の性質の中で醜い毒」であり、「黒人奴隷制はまさに巨悪」であると述べている。アダムズ夫妻は奴隷を所有したこともなければ、他人の奴隷を賃借したこともなかった。
愛犬
孫娘に宛てた手紙の中で、アビゲイルは愛犬について語っている。大統領夫人の役目を終え、静かな生活に戻った頃の話である。
「私を愛するのと同じく私の犬もあなたは愛していたに違いないと思うので、ジュノーがまだ生きていると分かったらきっと嬉しいでしょう。ジュノーは寡婦になり年をとって灰色になってしまったけれども。ジュノーは楽しく暮らしているようですし、思いやりをかけてもらえることに感謝しているようです。ジュノーは誰かが来るといつでも尻尾を振って訪問者が来たことを告げてくれます」
ジュノーは雌のスパニエルである。サタンという名の雄のスパニエルも飼っていたが、ホワイト・ハウスに住んでいた時に死んでしまっている。
3男2女
アビゲイル・アメリア・アダムズ
長女ナビィ(1765.7.14-1813.8.15)はブレインツリーで生まれ、家庭で教育を受けた。17才になったナヴィはブレインツリーの弁護士ロイオール・タイラーと恋仲になるが、アダムズ家はその仲を認めなかった。それにも拘らず、ナビィとタイラーは婚約した。しかし、ナビィが父の求めに従って渡欧すると2人の仲は次第に疎遠になった。タイラーの返信が途絶えたためである。
アダムズのロンドン赴任に同行したナビィはアメリカ公使館の書記官を務めていたウィリアム・スミス と出会った。結局、ナビィはタイラーとの婚約を破棄し、1786年6月12日、ロンドンでスミスと結婚した。スミスはヴェネズエラの反乱や土地投機などに関わり、家を留守にしがちであった。アダムズ政権期にはニュー・ヨーク港の輸入品検査官として働き、その後、1813年から1815年にかけて連邦下院議員を務めた。ナビィは1813年、乳癌に侵され両親に先立って亡くなった。
ジョン・クインジー・アダムズ
長男ジョン・クインジー(1767.7.11-1848.2.23)は後に第6代大統領になったことでよく知られている。ジョン・クインジーに関する詳細は ジョン・クインジー・アダムズの項を参照せよ。アダムズはジョン・クインジーを幼い頃から絶えず薫陶していた。
スザンナ・アダムズ
ボストンで生まれた次女スザンナ(1768.12.28-1770.2.4)は夭折している。
チャールズ・アダムズ
次男チャールズ(1770.5.29-1800.11.30)はボストンで生まれた。1779年9月、兄ジョン・クインジーとともにロンドンの父のもとに向かった。しかし、ホームシックになって健康を害したので1781年8月、アメリカに向けて旅立った。乗った船が途中、スペインで修理しなければならなくなったので帰国まで通常よりはるかに時間がかかった。さらに音信不通になっていたので、アダムズ一家はチャールズが海で遭難したのではないかと思っていた。
アメリカに帰国したチャールズは、弟トマスとともにハーヴァード大学に入学した。法律学を修めたものの、ほとんど弁護士として働くことはなかった。1795年8月29日、一家の反対を押し切って従姉妹のサラ・スミスと結婚した。しかし、アルコール中毒になり、仕事と家族を顧みなくなった。1800年、30才で亡くなった。死因は水腫症であるが、肝硬変であったと言われている。アダムズは「かつて愛した息子の憂鬱な死」と述べている。
トマス・ボイルストン・アダムズ
クインジー生まれの3男トマス(1772.9.15-1832.3.13)も長兄と次兄と同じくハーヴァード大学で学んだ。1790年に同校を卒業後、1795年に法曹界に入った。さらに長兄と同じくヨーロッパの外交畑で働いた。オランダでは公使代理として、ベルリンでは長兄の下で書記官として働いた。「私にはまだ、美徳と勤勉さを堅持することで慰めを与えてくれる2人の息子がいることを神に感謝している」とアダムズは述べている。アダムズ政権期に帰国しフィラデルフィアに住んだ。
1805年5月16日、アナ・ハロッドと結婚し、クインジーに戻って弁護士業に勤しんだ。浪費癖があり、収入以上のお金を使ってしまうこともよくあった。それでも弁護士業は順調であり、後年、マサチューセッツ州最高裁長官も務めた。しかし、兄チャールズと同じく酒に溺れがちで、最後は借金を残して亡くなった。後に甥チャールズ・フランシスは叔父トマスを「世界で最も不愉快な人物の1人」と評している。
脈々と続く血筋
ジョン・アダムズが自らの子孫について、「私は政治と戦争を学ばねばならないが、息子たちは、数学と哲学を学びたければ学ぶがいい。息子たちは、数学と哲学、地理学、博物学、造船学、航海学、商業、農業を学ぶ必要がある。それはかれらの息子たちに、絵画、詩歌、音楽、建築、彫刻、タペストリー、陶芸を学ぶ権利を与えるためなのだ(高橋健次訳)」と言い残したように、アダムズの子孫は多様な分野で活躍した。
8歳から喫煙
ジョン・アダムズは8歳から喫煙を始め、若干の禁煙期間を除いてはずっとタバコを吸い続けた。また発酵させた林檎酒やフィラデルフィアのビール、ラム酒などを好んだという。
日課として5マイルほどの散歩をしていた。時には釣りやホイストを楽しんだ。アダムズが特に意を注いだのは書物である。単に読むだけではなく、内容を批評し、詳細な書き込みを行っている。晩年、アダムズが後悔していたことは、中国語やセム系の言語を学ばなかったことである。なぜならそうした言語で書かれた古典を読みたいとアダムズは思っていたからである。
他にはさまざまな旅で土産物を集めた。その中には、シェイクスピアの生家にある椅子から削り取った木片という奇妙な物まで含まれている。
自己紹介
伝記の資料を求められたアダムズは次のように1809年3月11日の手紙で答えている。
「私は他の人間と同じく1つの頭、4つの手足と五感を持ち、特異な部分は何もない。結婚生活は44年間。1764年10月25日、アビゲイル・スミスと隣町のウェイマスにある彼女の父親の家で結婚した。結婚を執り行ったのは牧師であった彼女の父親だった。私の肖像画はないが、かつて画家に随分に馬鹿にされたので誰かにまた[肖像画を]描かせようとは思わない」
また同じ手紙の中でアダムズは、1800年の大統領選挙で自分が敗北し、引退を余儀なくされた理由を適切に説明している者が誰もいないと嘆いている。
アダムとイヴの謎
アダムズがヨーロッパに滞在していた頃の話である。ある晩餐会でアダムズは1人の貴婦人に、「アダムズ様、あなたのお名前からすると、あなたはきっと最初の男[アダム]と女[イヴ]の子孫だろうと私は思いました。そうだとするとあなたのご家系は、私が説明できない難問を解くような伝承を受け継いではいないでしょうか。どのようにして最初の夫婦が閨房の術を発見したのか、私は分からないのです」と質問された。
通訳を介して質問の内容を知ったアダムズは、公の場でそのようなことを女性から聞かれたことがなかったので非常に驚いた。赤面しながらもアダムズは、「我々の中には電力もしくは磁力と似たような身体的特質がある。そういった特質により、直近の距離に対のものが近付くと、針が穴を通るように、もしくは電気実験における2つの物質のようにくっつくのです」と答えたという。
町の名前
1800年、ニュー・ハンプシャー州のある町がアダムズに因んでアダムズと命名された。しかし、1828年の大統領選挙で息子の ジョン・クインジー・アダムズが アンドリュー・ジャクソンに敗れた後、アダムズはジャクソンに改名された。改名反対に投じられた票は僅かに1票だったという。
独立運動に関する見解
独立革命当時、王党派と独立支持派がそれぞれどの程度の割合を占めたのかという点は歴史学者によってしばしば取り上げられる問題である。その問題について、「
[エドモンド・]バーク氏がイギリス人の中で計算したように、もし私がアメリカ人の中で派閥の数を計算すれば、3分の1は革命に反対していると言えます」というアダムズの有名な言葉が引用されることが多い。しかし、これは誤った引用である。これは1815年1月の手紙の中にある言葉で、「革命」とはアメリカ独立革命ではなく、フランス革命を指している。
実際にアダムズはどの程度に王党派と独立支持派の数を見積もっていたのか。その答えは、1813年11月12日付のジェファソン宛の手紙の中にある。アダムズは第1回大陸会議について「3分の1がトーリー党[親国王派]、また3分の1がホイッグ党[反国王派]で、残りは雑多である」と言及している。
ユニタリアン派
アダムズは会衆派のユニテリアン派に属していた。会衆派は、17世紀前半にマサチューセッツ湾植民地に渡ってきたピューリタンの一派である。またユニテリアン派は、1783年に会衆派から生じた一派である。神の単一性を主張し、三位一体説やキリストの神性を否定する特徴を持っている。後に会衆派から独立した。
アダムズは、キリスト教をニュートン的な科学やロック的な経験論で補強することを論じた著作に親しんでいる。アダムズにとって、聖書の啓示は道徳的真理の源泉そのものではなかった。アダムズは、人間は理性的な存在であり、自ら道徳的義務の基準を導き出すことができると考えていた。そして、信仰は、市民として必要とされる徳性を養う習慣であると考えていた。
さらにアダムズはキリストについて次のように考えている。キリストの信仰と博愛、そして献身は人類が見習うべきものだとはいえ、キリストは神の子ではなく人間である。もしキリストが神の子であるなら、何故、神は自らの子が十字架に掛けられるのを許したのか。
大陸会議で活躍していた頃、議会が休会になる日曜日、アダムズは1日の大半を教会で過ごし、ミサに2回、時によっては3回も参加することがあった。アダムズは、英国国教会(後に監督派)、メソジスト派、バプティスト派、長老派、クェーカー、ドイツ兄弟派など様々な礼拝所を訪れている。
こうしたアダムズの考えと行動は、18世紀半ばにアメリカ植民地で広まった大覚醒運動の影響があると思われる。大覚醒運動は、既存の教会組織にとらわれることなく、自らの内面の宗教意識を重んじることを呼びかけた運動である。
就任演説(1797.3.4)より抜粋 原文
独立戦争の間、人々の情熱のお蔭で政府は支えられ、一時的に社会を維持するのに十分な秩序が保たれました。早くから必要性が認識されていた連合規約は、歴史に詳細な記録が残っていて、広く国民が考案したバタヴィア共和国やスイス連邦の規約をモデルにして作られました。しかし、政府の所在地から辺縁まで急使が一日で到達できるような国々と我が国の特徴の顕著な違いを考慮して、大陸議会で連合規約の創案に協力した人の中には、それが長くはもたないということを予見した者もいました。
連合会議の権威に仮に従っていたとしても、各個人や各邦が連合議会の規定と勧告をすぐに軽視するようになり、各州の間に倦怠、嫉視、そして競合が蔓延し、海運と通商は衰退し、産業も振るわず、土地と産物の価格は下落し、公私ともに信義が軽んじられ、諸外国からの尊敬と信用を失い、さらには不満、敵意、徒党の結成、不公正な取り決め、暴動などいくつかは大きな国家的災厄となる恐れがある暗鬱な結果が生じました。
この危機においてアメリカ国民は、良識、気高い精神、決意、そして品位を放棄しませんでした。より完全な国家を形成し、公正を実現し、国内に静謐をもたらし、国家全体の防衛を考え、公共の福祉を推進し、自由の恩恵を確かなものとする計画を一致協力して行う方策が練られました。国民の入念な探求、議論、そして深慮が結実して現在の巧緻な合衆国憲法が成立しました。
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