John Quincy Adams
Old Man Eloquent
民主共和党
Democatic-Republican
在任期間
1825年3月4日~1829年3月4日
生没年日
1767年7月11日~1848年2月23日
身長・体重
170.2cm/79.5kg
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大統領の子
ジョン・クインジー・アダムズ大統領は1767年7月11日、マサチューセッツ植民地ブレインツリー(現在のクインジー)で第2代大統領になった父ジョン・アダムズと母アビゲイルの間に長男として生まれた。ジョン・クインジーという名前はクインジーの街の名前の由来になった母方の曽祖父ジョン・クインジー大佐に因んで命名された。ちなみにQuincyは濁ってクインジーと読むのが正しい。
父に随行してジョン・クインジー・アダムズはヨーロッパ各地を歴訪し、13才の時に駐露アメリカ大使の秘書兼通訳としてロシアに向けて出発した。正規教育を受けた期間は短かったが父ジョンの厳しい薫陶を受けて、父と同じくハーヴァード大学に進んだ。
外交面で活躍
ジョン・クインジー・アダムズはオランダ、ポルトガル、プロシア、ロシアなど各国の公使を務めた後、マサチューセッツ州上院議員、連邦上院議員などを歴任し、モンロー政権下で国務長官に就任した。ジェームズ・モンロー大統領の下で国務長官としてジョン・クインジー・アダムズはモンロー・ドクトリンの形成に大きく貢献し、アメリカの外交政策の基盤を作った。
偉大なる雄弁家
1824年の大統領選挙でジョン・クインジー・アダムズはアンドリュー・ジャクソンと大統領の座を争ったが、いずれの候補も過半数の選挙人票を獲得できず裁定は下院に委ねられた。その結果、一般投票でも選挙人票でも劣勢であったにも拘らず、ジョン・クインジー・アダムズの当選が決定した。ジョン・クインジー・アダムズ大統領は対立党派の激しい抵抗のために著しい業績をあげることができなかった。さらに1828年の大統領選挙でジャクソンに破れ、父と同じく1期のみの大統領在任となった。退任後も連邦下院議員として重きをなし、奴隷制に対して独自の反対論を展開した。そのため「偉大なる雄弁家」や「人権の擁護者」と呼ばれた。
1767年7月11日 |
マサチューセッツ植民地ブレンンツリーで誕生 |
1775年4月19日 |
レキシントン=コンコードの戦い、独立戦争始まる |
1776年7月4日 |
独立宣言公布 |
1778年2月17日 |
父ジョン・アダムズとともにフランスへ向けて出港 |
1781年7月7日 |
ロシアのサンクト・ペテルブルグに向け出発 |
1785年5月 |
アメリカへ向けて出港 |
1785年 |
ハーヴァード大学に入学 |
1787年7月18日 |
ハーヴァード大学を卒業 |
1788年6月21日 |
合衆国憲法発効 |
1789年7月14日 |
フランス革命勃発 |
1790年7月15日 |
マサチューセッツの法曹界に加入 |
1794年5月30日 |
駐蘭アメリカ公使に任命される |
1794年10月31日 |
オランダのハーグに到着 |
1796年 |
駐葡アメリカ公使に指名される |
1797年7月26日 |
ルイザ・キャサリン・ジョンソンと結婚 |
1797年 |
駐普アメリカ公使としてベルリンに着任 |
1801年 |
帰国後、マサチューセッツ州上院議員に選出される |
1803年10月17日 |
連邦上院議員として初登院 |
1808年6月8日 |
連邦上院議員を退任 |
1809年8月5日 |
駐露アメリカ公使としてサンクト・ペテルブルグへ向けて出港 |
1812年6月19日 |
1812年戦争勃発 |
1814年1月 |
米英和平交渉特使の一員に選ばれる |
1815年 |
駐英アメリカ公使に任命される |
1817年6月15日 |
アメリカへ向けて出発 |
1817年9月22日 |
国務長官に着任 |
1818年10月28日 |
母アビゲイルが亡くなる |
1819年2月22日 |
アダムズ=オニス条約締結、フロリダ地方を購入 |
1825年3月4日 |
大統領就任 |
1826年7月4日 |
父ジョン・アダムズ死去 |
1829年3月4日 |
大統領退任 |
1830年11月1日 |
連邦下院議員に選出される |
1844年12月3日 |
「緘口令」の撤廃に成功 |
1846年5月11日 |
メキシコに対する宣戦布告に反対票を投じる |
1846年5月13日 |
米議会がメキシコに宣戦布告 |
1848年2月23日 |
死去 |
ニュー・イングランドの中心マサチューセッツ
マサチューセッツ植民地の概要については、 ジョン・アダムズの出身州を参照せよ。
ピルグリム・ファーザーズの血統
ジョン・クインジー・アダムズは第2代アメリカ大統領 ジョン・アダムズの長男である。血統については、ジョン・アダムズの祖先を参照せよ。
厳格な薫陶
ジョン・クインジー・アダムズは父 ジョン・アダムズが留守にしている間、幼いながらも家を守った。家族の手紙を受け取るためにブレインツリーとボストンの間を馬で度々往復していたという。
1775年6月17日、当時7才のジョン・クインジー・アダムズは母とともにバンカー・ヒルの戦いを遠望している。この時のことを後に「私は自分の目で砲火を見て、バンカー・ヒルの戦でのイギリス軍の雷鳴のような音を聞きました。そして、私の母の涙を見ましたが、それは私自身の涙と交じり合いました」と回想している。翌年のアメリカ軍によるボストン攻撃も体験している。父ジョン・アダムズは長男ジョン・クインジー・アダムズを厳しく薫陶している。それは9歳の時に父のジョン・アダムズに送ったジョン・クインジー少年の次のような手紙からも分かる。
「拝啓。お手紙を書くよりも受け取るほうがよいのです。僕は文法が駄目です。僕の頭は飽きっぽいのです。僕の思いは自分で自分が腹立たしくなるくらい鳥の卵や、遊びやくだらないことばかり追っています。ママは僕を勉強させようと大変な課題ばかり出します。実は自分のことが恥ずかしいと僕は思っています。スモレット(イギリスの作家)の第3巻に入ったばかりですが、本当は半分ばかり終わっているはずだったのです。今週はもっと頑張ろうと決めました。サクスター先生は法廷に出ていてお留守です。今週きちんとやる分を決めました。第3巻きを半分以上読もうと思います。もし僕が決意を保つことができたら、また週末に僕のことについてお話したいと思います。どうか僕に時間の使い方について何か指示して下さい。さらに勉強と遊びの割合をどうするか助言して下さい。僕はできるだけそれを守りますし従おうと思います。決意はだんだん強くなっています。親愛なるお父様へ。あなたの息子より」
後に自らの日記で「私は控え目で余所余所しく、謹厳で近寄り難い人間である」と記しているが、こうした性格は父ジョンと共通している点が多い。またピューリタン的な義務感と公職への情熱も父ジョンとよく似ている。
父の赴任に同行
1778年2月17日、父ジョン・アダムズのヨーロッパ赴任に同行することになり、フランスに向けて出航した。その当時の航海は非常に危険であった。イギリスの戦艦がアメリカ船を拿捕しようと太平洋を哨戒していたからである。同行はジョン・クインジー自らの希望であり、父ジョンはそれについて日記に「ジョニー氏[ジョン・クインジー]のふるまいは、表現できないほどの満足を私に与えた。我々の[航海の]危難を完全に認識しながらも、彼は雄々しい忍耐を持ち、私に気配りしながら、常に真剣な調子の考えをめぐらせながら、それに絶えず耐えようとしていた」と誇らしく記している。
翌年8月、父とともに郷里に帰った。しかし、父の再度の渡欧に同行することになり、11月14日、フランスに向けて出発した。今度は父だけではなく次弟チャールズも一緒であった。1780年、父と次弟とともにオランダに旅する。
翌年7月7日から8月27日にかけて、ジョン・クインジー・アダムズは駐露アメリカ公使フランシス・デーナの秘書兼通訳としてサンクト・ペテルブルグまで随行した。当時のロシア皇帝エカテリーナ1世は宮廷でフランス語を使用していたが、デーナはフランス語に堪能ではなかったために通訳を必要としていた。
1783年4月、ジョン・クインジー・アダムズアダムズは、フィンランド、スウェーデン、デンマーク、そしてドイツを経て父ジョンが滞在していたオランダのハーグに到着した。8月、父ジョンはベンジャミン・フランクリンとジョン・ジェイが進めていたイギリスとの和平交渉に参加するためにパリに赴いた。その際、ジョン・クインジー・アダムズは父の秘書を務めた。
さらに9月から10月にかけて父のロンドン行きに同行する。1784年1月、父とともにハーグに向かう。7月、ロンドンで母と姉に再会した。その後、一家でパリ近郊のオートゥイユに住んだ。1785年5月、親元を離れてジョン・クインジーは先に母国に向けて旅立ち、7月に帰着した。
兄弟姉妹
ジョン・クインジー・アダムズ兄弟姉妹については、ジョン・アダムズの子供を参照せよ。
各地の学校で学ぶ
独立戦争時、クインジーの学校は閉鎖されていたために、ジョン・クインジー・アダムズは家庭で教育を受けた。また父 ジョン・アダムズの下で働いていた法務書記から学んだ。10才までにはシェークスピアを読んでいたという。
父の異動に同行してフランスに渡り、パリ郊外のパッシー・アカデミーでフランス語やラテン語の古典に加え、フェンシング、ダンス、音楽、そして芸術などを学んだ。父ジョンは息子がフランス語を修得していく様子を「私がすべての本を使って1週間で学ぶよりも1日でより多くのフランス語を学んでいる」と記している。さらに父の指導の下、代数、三角法、微分、地理学を身につけた。
アムステルダムでは、ラテン語学校に入学したが、1781年にライデン大学に移っている。
ハーヴァードに進学
ジョン・クインジー・アダムズは正規教育を受けた期間は短かったが、父ジョンの厳しい薫陶と外国生活のお蔭でギリシア語、ラテン語、フランス語、オランダ語、ドイツ語に堪能であった。1785年7月に帰国した後、叔父の指導を暫く受け、ハーヴァード大学に進学した。アダムズは「ヨーロッパに長期間滞在していたので、我が祖国で疎外感を感じるのではないかと危惧した」とこの頃を回想している。
大学ではピー・ベータ・カッパ結社に属し、楽団でフルートを演奏したという。1787年7月18日、ハーヴァード大学を51人中次席で卒業した。卒業式では「国民の福祉への公的信頼の重要性と必要性」と題する式辞を述べた。ハーヴァード大学での経験により、アダムズは「私自身や私の将来の見通しに関する私の見解は、まことに平凡に近いもの」だと思うようになった。
大学卒業後アダムズはマサチューセッツ州ニューベリーポートで、後にマサチューセッツ州最高裁長官になったテオフィロス・パーソンズの下で法律を学んだ。勉学の合間を縫って、古代の歴史から文学作品まで幅広く読書した。特に トマス・ジェファソンの『ヴァージニア覚書』やイギリス小説の父ヘンリー・フィールディングの『捨て子トム・ジョーンズの物語』を好んで読んだという。
弁護士
法律の勉強を終えたアダムズは1790年7月15日、マサチューセッツの法曹界に加入し、8月9日、ボストンで法律事務所を開業した。しかし、それほど多くの顧客を獲得することはできなかった。アダムズの関心は次第に政治に向くようになった。
一方、その頃、アダムズの脳裏を占めていたものがもう1つあった。メアリ・フレーザーという女性である。友人に向かってアダムズは「この世の未来の幸福のすべての私の希望はその女の子が獲得することが中心になっている」と記している。しかし、まだメアリを養えないと悟ったアダムズは求婚するのを諦めた。
1791年、ジョン・クインジー・アダムズの名を上げる事件が起きた。トマス・ペインが『人間の権利』を発行した際に、その前文で トマス・ジェファソンが父 ジョン・アダムズを「政治的異端」と呼んだのである。前文はジェファソンに無断で掲載されたものであったが、両者の間に不和をもたらした。
ジョン・クインジー・アダムズは「プブリコラ」という筆名で『人間の権利』を批判するだけではなく、その支持者としてジェファソンも名指しで非難した。またフランス革命を非難し、イギリスの議会制度を擁護した。11篇の論説が6月8日から7月27日にかけてコロンビアン・センティネル紙に掲載された。連邦派はそうした論調を支持した。プブリコラは父アダムズであると多くの者が見なしていたが実際はジョン・クインジー・アダムズの手による。ジェファソンも父ジョンの手によるものだと思っていたが、 ジェームズ・マディソンはそれが息子のジョン・クインジーの手によるものではないかと疑っていた。この年、アダムズはボストンの友人達とクラックブレイン・クラブという社交クラブを作っている。またボストンの警察の改革を志すグループにもアダムズは顔を出している。
1792年12月19日には「メナンダー」という筆名でボストンの劇場規制条例に反対する記事をコロンビアン・センティネル紙で発表している。1793年4月24日から5月11日にかけては、「マルケルス」という筆名で中立政策を支持し、さらに11月30日から12月14日にかけて「コロンブス」という筆名で革命フランス政府の駐米公使エドモン=カール・ジュネを攻撃する論説を発表した。他にも「バルネフェルト」という筆名を使っている。
駐蘭アメリカ公使
1794年5月29日、一連の論説に目を留めたワシントン大統領はジョン・クインジーを駐蘭アメリカ公使に指名した。父からの手紙でそのことを知ったアダムズは、7月10日、フィラデルフィアに赴いて ジョージ・ワシントン大統領と会食した。そして、9月15日、末弟トマスを秘書として伴い、ボストンから出港した。イギリスのディール、そしてロンドンを経た後、ハーグに到着した。イギリスでは盗賊がアダムズのトランクを切り裂いて機密文書が露見するという事件があったがアダムズは何とか危機を乗り切った。またアダムズは10月27日の日記に、「この国で私が会う女性には何か魅惑的なところがあるようで、それは私にとって良くない。私はすぐに立ち去らなければならない」と記している。
ジョン・クインジーの到着から僅か3日後、フランス軍がオランダに侵攻した。その結果、オランダ政府は倒壊した。アダムズはそのままオランダに留まり、ヨーロッパ情勢に関する報告を行なった。ジョン・クインジーは父ジョンと同様にフランス革命の暴力性について否定的に見ていた。1795年7月27日に父ジョンに宛てた手紙の中でフランス革命を「すべての世紀で想起できる以上に心なき破壊者の無知の復活に貢献した」と酷評している。
その他にもオランダにおけるアメリカ人の保護、バタヴィア共和国の承認問題、1782年の通商条約から発生する問題、そして、オランダやベルギーの銀行家に対してアメリカが負っている負債などの調整を行った。1795年10月、 ティモシー・ピカリング国務長官は、ジェイ条約の批准交渉を行うためにロンドンに向かうようにアダムズに命じた。ジェイ条約をめぐる本国での騒ぎを知っていたアダムズはこの任務は「名誉心にとって何も魅力的でもなければ嬉しがらせるような希望もない」と述べている。11月11日にロンドンに着いたアダムズをイギリス政府は正式な信任状を得た公使として扱おうとした。そして、アダムズを国王ジョージ3世に謁見させようとしたが、アダムズはそれを拒否した。猶も謁見するようにイギリス側が主張したので12月9日、アダムズはジョージ3世に面会した。イギリスの新聞はアダムズをフィラデルフィアから来た新しい使節だと言及したが、アダムズはそれを悉く否定した。アダムズは強制徴用問題の解決を図ったが実を結ばなかった。1796年5月20日付の手紙で父に向って「合衆国とイギリスの間には真心はありません」と述べている。ジェイ条約によってアメリカがフランスとの戦争に巻き込まれるのではないかとアダムズは危惧していた。結局、フィラデルフィアからハーグに戻るように訓令が来た。そのためアダムズは6月5日、ハーグに戻った。
1796年5月28日、ワシントン大統領は、さらにアダムズをポルトガル公使に任命した。そして、後任者が来るまでハーグに留まるように命じた。アダムズがリスボンへ出発する前に父アダムズが大統領に選出された。アダムズ親子は大統領の息子が公使の職を保持することは好ましくないと考えたが、ワシントンはジョン・クインジーを「今、海外にいる中で最も有能な公人」だと評価し、そのまま外交官を続けるように勧めた。父アダムズはワシントンの勧めにしたがって息子を駐普アメリカ公使に任命した。アダムズは既にリスボンに蔵書を送ってしまっていたので父に抗議したが、それは受け入れられなかった。
駐普アメリカ公使
1797年6月、結婚式を挙げるためにアダムズはハーグからロンドンに向かった。そして、イギリスとジェイ条約の中立条項を含む通商条約を締結している。10月18日、アダムズは妻を伴ってベルリンに向かって出発し、ハンブルグで1週間を過ごした後、11月7日にベルリンに到着した。ベルリンの門に着いた時、「アメリカ合衆国」という国名がその当時はあまり知られていなかったので入市を断られたという。アダムズがベルリンに到着してほどなく、フリードリヒ大王が亡くなった。そのためアダムズは新王に提出する新しい信任状を待たなければならなかった。
アダムズの任務はプロシアと締結していた旧条約の改正であった。アダムズは本国に合衆国とプロシアはイギリスとフランスに対する武装中立協定を結ぶべきだと助言した。父アダムズはその助言に驚かされた。なぜならそれはワシントンが避けようとしていたことだからである。父の驚きを知ったアダムズはそうした案を取り下げた。1799年3月14日、アダムズはスウェーデンとの通商条約の再交渉を行う訓令を受け取った、プロシアとの新しい条約は1799年7月11日に締結された。その一方でスウェーデンとの交渉はうまくいかなかった。
在任中の1799年、アダムズはボヘミアを通ってブランデンブルグからドレスデンに旅行している。さらに翌年7月、シュレジエンを旅している。シュレジエンの様子を記した手紙は「シュレジエンに関する手紙」としてまとめられた。
父アダムズは再選の見込みがないことを知ると、1801年1月31日、息子ジョン・クインジーの駐普アメリカ公使の職を解いた。アダムズはその報せを4月26日に受け取った。アダムズは駐普アメリカ公使として4年間在職した。
マサチューセッツ州上院議員
1801年9月4日、フィラデルフィアに戻った後、アダムズはボストンで弁護士業を再開した。しかし、顧客の獲得に苦労したために廃業して西部に移住することも考えた。また著述家か科学者になることも考えた。アダムズは父アダムズが任命した判事の助けを得て、破産監督官になったが、マサチューセッツの民主共和派がジェファソンに促して新たな人物を任命させた。このことはパリにいた間に育まれたアダムズ一家とジェファソンの友情にひびを入れた。それでもアダムズは政界に入ることを望んだ。1802年1月28日の日記に「私は政争に飛び込みたいと強く刺激され、強い誘惑を感じている。この国の政治家は党派の人となるだろう。私は国全体の人となろう」と記している。
幸いにもアダムズは連邦党の支持で1802年4月20日、マサチューセッツ州上院議員に当選することができた。アダムズは多数派であるエセックス派とは距離を置いた。州議会でアダムズは独立独歩の立場をとり、州議会の連邦党の指導者に「まったく手が付けられない」と言わしめた。アダムズは改革派の指導者となり、民主共和派を知事評議会に参加させることを提案した。またエセックス派が2人の判事を弾劾した時にアダムズは反対を唱えた。
連邦上院議員
ジェファソン政権を支持
1802年、アダムズは連邦下院議員への立候補を打診されたが、一旦は友人のために立候補を断った。しかし、友人が立候補を断ったためにアダムズ自身が連邦党の支持で連邦下院議員選挙に出馬した。11月3日、アダムズはボストンでは有利に戦いを進めたが他の地域ではほとんど敗北し、1840票対1899票の僅差で民主共和党の候補に敗れた。しかし、幸運にも連邦上院議員が2席とも空席になった。アダムズは4度目の票決で連邦派の候補者の椅子を勝ち取った。そして1803年2月3日、アダムズは連邦上院議員に選出された。
1803年10月20日、アダムズはワシントンに到着した。連邦党に属していたアダムズであったが、家族の病気のために表決には間に合わなかったものの、ジェファソン政権のルイジアナ購入への支持を表明した。そして、ルイジアナ購入に関して憲法修正をアダムズは提議したが実現しなかった。さらにルイジアナ購入に当てる公債発行を認める法案に賛成票を投じている。連邦党の中で賛成票を投じたのはアダムズの他に1人しかいなかった。多くの連邦党員は、ルイジアナ購入による国土拡大がニュー・イングランドの政治的影響力の相対的低下をもたらすと信じていた。一方でアダムズはルイジアナ購入が最終的には国家全体の強化に繋がると信じ、ルイジアナ購入に賛成したのである。
1804年1月10日、アダムズはルイジアナの住民の同意なく課税することに反対する2つの決議を提出したが、いずれも21票対3票で否決された。さらにルイジアナに臨時政府を設立する法案と奴隷制を禁じる条項にも反対している。アダムズは、ルイジアナ購入が「憲法の言語道断の侵害によって達成」されるべきではないと考えていたのである。また奴隷制については「奴隷制は道義的には悪だが、その効用は通商と繋がっている。奴隷制を防止しようとする規定は不適当である」と述べている。さらにアダムズはルイジアナの北部境界を定めるキング=ホークスベリー境界協定への反対で主導的な立場を取り、ウッズ湖からプジェット・サウンドを境界にするように主張した。
民主共和派が判事を弾劾する動議を提出した時、アダムズは連邦派の側に立った。そして3月2日、下院議員として同じ案件に既に投票した上院議員は弾劾裁判に出席できないという決議を提出した。この決議は20票対8票で否決された。「プブリウス・ヴァレリウス」という筆名の下、アダムズはジェファソンの司法府に対する攻撃は、「1000のルイジアナの恩恵でも決して相殺することができない我々の成功への呪い」だと書いた。
12月31日、アダムズは日記に「私の政治的見通しは日々、衰えつつある」と記している。
1805年、アダムズは輸入された奴隷に関税を課すべきだと提案したが、ほとんど賛同を得ることはできなかった。翌年2月、アダムズはアメリカの海運業に対するイギリスの妨害を「謂れなき攻撃」だと非難する決議を提出している。また1807年、民主共和党がチェサピーク号事件でイギリスを非難する決議を採択すると、断固たる措置を講ずるべきだと考えたアダムズもそれに賛同した。ボストンの連邦派は集会を開いて、アダムズを委員会の長とし、同様にイギリスを非難する決議を採択した。しかし、多くの連邦党員は内心、イギリスとの衝突を避けるべきだと考えていた。
さらにジェファソン政権が出港禁止法案を上院に上程した時、アダムズは同法案を特別委員会で審議するように提案した。特別委員会の長にアダムズが任命され、最終的に法案は成立した。出港禁止法に関してアダムズは以下のように述べている。
「出港禁止法を引き続き実施することは、当[ニュー・イングランド]地方において必ずや力による直接的な反対行動を生むでしょう。[中略]。もし出港禁止法が州当局の是認を受けてあからさまに破られるならば、連邦政府は軍隊の力を用いてそれを強制するでしょう。しかし、そのようなことは内乱を招くだけです」
短期的には出港禁止法がアメリカ全体の利益になると考えたアダムズは党派に縛られることなく支持を惜しまなかった。出港禁止はニュー・イングランド諸州だけではなくアメリカ各地に深刻な経済的打撃を与えた。そのため連邦派は激しく出港禁止を攻撃した。出港禁止の継続を危ぶんだアダムズは、出港禁止の代わりに戦争に訴える決議を上院に提出したが、17対10で棄却された。1807年12月31日の日記に「最も大きな国家的問題が今、議論されているが、私の義務感が政権を支持するように導き、連邦派全般に反する道を取ることになった」と記している。
連邦党を脱退
マサチューセッツ州の連邦党の指導者達はこうしたアダムズの動きを異端と見なし、アダムズに出港禁止法に対する見解を変更するように迫った。しかし、「我が市民を財産と身柄の略奪と差し押さえから守り、すべての諸学国の不正な主張や攻撃に対して我が国の独立に不可欠な権利を証明するのに」出港禁止法が必要な措置であると考えていたアダムズは、出港禁止法に対する非難に反証を加え、自己の信念にしたがって投票したことを説明するパンフレットを発表した。
1808年5月末、マサチューセッツ州議会は特別会期を開き、アダムズの任期終了まで約9ヶ月も残っているのにも拘らず、後任を選出した。そして、上院議員に対して出港禁止法破棄に賛同することを求める勧告が採択された。こうしたマサチューセッツ州議会の行動をアダムズは著しい侮辱と受け取った。自らの信念を曲げることなく、アダムズは6月8日、上院議員を退任した。アダムズは民主共和党からの連邦下院議員選挙への出馬要請も断ったために、連邦党からも民主共和党からも孤立した。
修辞学と弁論術を教授
1805年、アダムズは母校ハーヴァード大学のボイルストン講座教授に指名され、1806年7月から国政の合間を縫って修辞学と弁論術を教えていた。アダムズの講義は『修辞学と弁論術に関する講義』として1810年に2巻本で出版された。
駐露アメリカ公使
ロシア皇帝との親交
アダムズは今後、学問の世界に身を置いて公職に就くつもりはなかったが、1809年3月6日、マディソン大統領はアダムズを駐露アメリカ公使に就くように説得した。しかし、上院は3月7日、17票対15票でアダムズの指名を拒否した。マディソン大統領はアダムズを再指名し、6月27日、上院は19票対7票でようやくアダムズの指名を認めた。8月5日、アダムズはボストンを出発し、10月23日にサンクト・ペテルブルグに到着した。少年の頃に訪れて以来、実に23年ぶりであった。そして、10月31日に皇帝アレクサンドル1世に初めて謁見した。フランス語が共通の言語であったが、アダムズは早くもロシア語のアルファベットを学び始めた。
その当時、ナポレオンが発したベルリン勅令を破棄したロシアは、アメリカにとって重要な貿易相手国となっていた。党派の鞍替えにも見えるこの任命は父母からの批判をはじめ多くの非難をかった。また1811年2月にアダムズは連邦最高裁判事に指名され、上院も全会一致でその指名を承認したが、自分が法曹に向いていないこと、そして妻の健康が悪化しているため旅に向かないことを理由に断っている。アダムズは大統領に感謝し、状況が異なっていれば引き受けただろうと述べた。
アダムズはロシア皇帝アレクサンドル1世との親睦を深め、いくつかの通商特権を獲得した。アレクサンドル1世をアダムズは古代ローマ帝国で善政を布いた皇帝ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスになぞらえている。2人はよく散策をともにし、フランス語で世界情勢を語り合ったという。このようにアダムズは外交官として手腕を発揮したが、「我が国や人類に対して際立って有用なことを何もしてこなかった」と自分の人生を嘆いている。
1812年戦争の講和交渉
1812年8月、駐露イギリス公使はアダムズにアメリカがイギリスに宣戦布告したことを告げた。アダムズは戦争に関して好意的ではなかったが、ニュー・イングランドが示した厭戦的な姿勢には困惑させられた。1812年9月21日、アダムズはロシアから和平交渉仲介の申し出を受けた。しかし、アダムズの心を占めていたのはフランスのロシア遠征であった。9月24日の日記には、「フランスがモスクワを占領した」という報せがあったと記している。こうしたナポレオンの遠征に対抗するためにロシアはイギリスと連携する必要があった。そのため、イギリスが後顧の憂いを絶って対仏戦線に専念できるようにアメリカとの和平を仲介しようと考えたのである。まさに同じ頃、ロンドンではアメリカとイギリスによる直接交渉が物別れに終わったばかりであった。
ロシアの和平交渉仲介を機に1813年4月17日、アダムズは、ジェームズ・ベイヤード、 アルバート・ギャラティンとともに和平交渉を行なう使節団に指名された。2人は7月21日にサンクト・ペテルブルグに到着した。しかし、イギリスが再び直接交渉を望んだために、1814年1月18日、先の3人の再指名に加え、 ヘンリー・クレイ、ジョナサン・ラッセルの2人が新たに使節団に指名された。
アダムズは1814年4月28日にロシアを離れスウェーデン経由で現ベルギーのガンGand (ヘントGhent)に到着した。8月8日、和平会談はガンで始まった。上院はアダムズを使節団の長に任命した。和平会談でアダムズは、ニューファウンドランドからラブラドルまでの間の海域における漁業権の確保を強く主張した。アメリカが漁獲物をヨーロッパに販売することで、ヨーロッパに対して負っている債務を弁済することができるとアダムズは考えていた。一方、イギリスは五大湖周辺をカナダに組み入れるように要求した。
漁業権の代わりにイギリスにミシシッピ川の自由航行権を認める案をアダムズは提案したが、それにアメリカ使節団の一員であったヘンリー・クレイが強く反発した。結局、漁業権とミシシッピ川の航行権の問題は交渉から外され、さらに1812年戦争の根本的な要因である強制徴用も解決される見込みはなかった。そのためクレイは条約の締結に反対したが、平和を優先すべきだと考えたアダムズは条約締結を推進した。
イギリスは非妥協的な姿勢をとっていたが、最終的には領土割譲要求を取り下げたために、12月24日、両国はようやく講和条約締結に合意した。同条約により、両国は戦時中に占領した領土を返還することが定められたが、強制徴用の問題は未解決に終わった。
ガン条約に調印した際にアダムズはイギリス側の使節団に向かって「イギリスと合衆国の間の最後の講和条約」になることを望むと述べた。講和条約調印を祝ってガンの市長によって晩餐会が開かれ、その席上でアダムズは「ガン、平和の街、ヤヌス神殿の門[平時に開かれ戦時に閉じられるという古代ローマにあった門]がここで閉じられ、願わくは1世紀の間、再び開かれないように」と祝杯をあげた。
イギリス公使
1815年1月、和平交渉を終えたアダムズはパリに向かった。そして、1815年3月20日、ナポレオンのパリ帰還を目の当たりにし、百日天下のほとんどの期間、フランスに滞在した。4月23日、アダムズは遠くからナポレオンの姿を見た。5月7日、アダムズは駐英アメリカ公使に任命されたことを知った。
1815年5月25日、アダムズはイギリス公使としてロンドンに赴任した。アダムズが着任する前にクレイとギャラティンによってイギリスとの通商交渉は始まっていた。アダムズは、西インド諸島との貿易が含まれない点について不満を抱いていた。しかし、結局、7月13日、協定の締結に合意した。
さらに1月25日、アダムズは英領カナダとアメリカの国境線を画定する交渉、五大湖周辺の非武装化に関する交渉、西インド諸島に関する貿易規制の撤廃に関する交渉、大西洋岸の漁業権に関する交渉、イギリスが拉致した奴隷に関する交渉などを開始している。これらの一部は後の成果に繋がった。
国務長官
就任
1817年4月16日、 ジェームズ・モンロー大統領は当選を伝え、アダムズに帰国するように訓令した。アダムズは6月15日、カウズから出港し、8月6日にサンディ・フックに到着した。そして、9月20日にモンロー大統領に会見した。モンロー大統領とアダムズは旧知の仲ではなくそれほど親しい仲ではなかった。しかし、モンローはアダムズが優れた外交官であるだけではなく、自分と見解が似ていることに気が付いていた。さらにアダムズの任命は政治的意味も持っていた。ニュー・イングランドを代表する政治家の1人であるアダムズを国務長官という重要な役職に就けることは北部と南部の政治的均衡をとるうえで有用であった。
アダムズはモンローと定期的に懇談した。モンローは外交に関する公文書の内容を仔細に確認していた。モンローが大まかな方針を決定し、実務をアダムズが担当するというスタイルは円滑に機能した。
対英交渉
太平洋側北西部の境界問題
1811年にアメリカは太平洋側北西部のアストリアに交易所を開いた。その直後に勃発した1812年戦争の最中、その領域はイギリス海軍に占領された。戦後、アメリカは交易所を取り戻そうとした。1817年11月26日の覚書で、駐米イギリス公使はアメリカの行動に抗議し、領有権を否定した。アダムズはイギリス公使と見解を交換したが何の解決にも至らなかった。しかし、イギリス政府は交易所を放棄することを約束したので深刻な衝突は起きなかった。結局、領有権の問題は未解決ままであった。
アダムズはイギリスガが北アメリカにおけるアメリカの権利を尊重するべきだと強く信じていた。1818年5月20日付の駐英アメリカ公使に宛てた訓令でアダムズは次のように断言している。
「ヨーロッパ、アジア、そして、アフリカでイギリスが領土の所有を享受するのを合衆国が邪魔しないのであれば、北アメリカという我々の天然の領域へのあらゆる拡大の可能性に警戒の目を注ぐことが賢明で友好的な政策と合致しないとイギリスが理解することを我々は非常に公平に期待できます」
1818年の米英協定
アダムズ自身はほとんど関与していないが、ロンドンでは駐英アメリカ公使とイギリス政府の間で両国の諸問題を解決するために交渉が行われていた。その結果、1818年の米英協定が締結された。同条約により、ニューファウンドランド沖とマグダレン諸島沖の漁業権が獲得された。その一方、西部の国境問題では同意が成立した。北緯49度線に沿ってミシシッピ川の源流のウッズ湖からロッキー山脈まで西に広げることが認められた。
これにより、イギリス商人がミシシッピ川流域に直接進出することを阻止できるようになり、後のミネソタ、ノース・ダコタ、モンタナ、ワシントンにまたがる広大な地域がアメリカの手中に確保された。特に同地域に含まれるメサビ鉱山は後の製鉄業の発展の基盤となった。アダムズは、北アメリカ大陸全域がいずれアメリカの領域になるという強い信念を抱いていた。その他にもオレゴンの20年間の米英共同管理が約束された。1818年の米英協定は概ね成功であったが、長い間の懸案であった強制徴用問題に関する進展はなかった。
1820年12月、下院は太平洋側北西部の状況を調査し、コロンビア川の占有の妥当性を探る委員会を設置した。翌年初めに委員会は、スペインから受けた割譲によってアメリカの領有権は北緯60度まで及ぶと報告した。同時に議会では、北西部への居住と占有を促進する案が話し合われた。
1821年1月26日、それを知った駐米イギリス公使はアダムズのもとに抗議に訪れた。し合いは翌日も続き、アダムズはイギリスの領有権主張に対して一貫的に反対する姿勢を示した。それはアメリカ大陸はヨーロッパの植民地化の対象にならないという原則の萌芽であった。
アダムズとイギリス公使は激しい議論を交わしたが、議会が太平洋側北西部への移住と占有を促進する案を実行にほとんど移さなかったために、イギリス政府は何の反応も示さなかった。アダムズのイギリスに対する警戒感は1821年7月4日の独立記念日演説でも顕著に示されている。太平洋側北西部の境界問題は結局、アダムズの国務長官在任中は解決しなかった。
西インド諸島貿易問題
さらにアダムズは互恵と公海自由の原則に基づく通商の拡大を目指していた。特にアダムズが目標としていたのは西インド諸島との貿易自由化である。1822年、イギリス政府は西インド諸島との貿易について特定の産品に限りイギリス船舶よりも10パーセント高い関税を課す条件で直接貿易を認めた。イギリスの措置に応じてモンロー大統領は、西インド諸島から来航するイギリス船舶に対してアメリカの港を開く布告を発令する一方で、差別関税と高いトン税を課した。こうした両国の措置は限定的ではあるがアメリカの農産物に対して西インド諸島の市場を開き、南部諸州を潤したが、魚類や塩蔵品の間接貿易が認められていなかったためにニュー・イングランド諸州では不評であった。
大統領の布告が期限切れを迎えると、アダムズはアメリカが規制を緩和する代わりに、イギリスもアメリカ船舶にイギリス船舶と同様の条件で貿易を認めることを要求する法案の制定に尽力した。それに対してイギリス側は報復的な措置を採用して応じた。
1823年6月から7月にわたってアダムズは駐英アメリカ公使 リチャード・ラッシュに9通の訓令を送ってイギリスと通商交渉を行わせた。アダムズは差別関税の完全撤廃を求めたが、交渉は進展しなかった。問題が最終的に解決したのはジャクソン政権期の1830年である。
奴隷貿易禁止
1818年10月、イギリスはアフリカの奴隷貿易を禁止するために、両国の船舶をお互いに臨検しあう提案をアメリカに行った。大統領の勧めにしたがってアダムズは、イギリスが主催する奴隷貿易に対する国際的取締りへの参加を表明した。アメリカはイギリス軍とともに奴隷貿易の取り締まりにあたったが、イギリスのアメリカ船に対する臨検と捕らえた奴隷商人をアメリカの港以外に送ることを認めなかった。もしイギリスのアメリカ船に対する臨検を認めれば、かねてから懸案であった強制徴用を正当化できる根拠を与える恐れがあったからである。アダムズは、強制徴用を2度と行わないという保障なくして奴隷貿易を取り締まる条約を締結するべきではないと考えていた。この点に関してアメリカ政府は一貫して妥協に応じなかった。
しかし、1823年2月28日、下院は奴隷貿易を取り締まる条約を締結するように大統領に勧告する決議を採択した。アダムズは奴隷貿易を残虐な行為であり完全な害悪と見なしていたが、上述したように強制徴用問題についても強い反感を抱いていた。そこでアダムズは、イギリスに臨検の権利を与えることなく奴隷貿易を取り締まることができる方策を模索した。
もし奴隷貿易が国際法の下で海賊行為と認められ、さらに海賊行為を国家に対する戦争状態だと考えれば、たとえ海賊がどこの国の旗を掲げていようとも、海賊行為に従事していると疑われる船舶を臨検することは交戦国の権利として認められるとアダムズは考えた。こうした考えの下、イギリス側と会談することをアダムズは提案した。アダムズの提案は受け入れられ、1824年3月13日、駐英アメリカ公使リチャード・ラッシュがそれをイギリス側に通達した。
奴隷貿易に関する協定は円滑に進んだ。その結果、主に3つの取り決めがなされた。アフリカの奴隷貿易に従事する両国の国民は海賊として処罰を受けること、両国の海軍は協力して奴隷貿易の取り締まりにあたり、お互いに商船の臨検を許可すること、そして、拿捕した船舶はその本国で裁判を受けるために送還され、いかなる船員もその船舶から離すことを禁じることである。
この協定の締結は、そもそも下院の決議によって促されたものなので、上院でも容易に承認が得られると予想された。しかし、反奴隷制の風潮が高まることを恐れた南部の議員達は条約内容の大幅な修正を求めた。こうした動きについてアダムズは「奴隷貿易取り締まりに対する合衆国とイギリスの一致協力が奴隷廃止への一致協力に変わらないように、[南部の]クロフォードの後援者達が警鐘をならした」と述べている。結局、協定は実質的に破棄された。
フロリダ問題とアダムズ=オニース条約締結
事前交渉
1812年戦争終結後、スペインでは、駐西アメリカ公使とスペイン政府の間でフロリダ割譲に関する交渉が再開されていた。スペイン政府はフロリダ割譲の代価として西部国境をミシシッピ川にすること、革命下にあるスペイン植民地の船舶をアメリカの港から締め出すことを要求した。アメリカ側が要求を受け入れなかったため交渉はまったく進まなかった
1817年12月、アダムズは駐米スペイン公使ルイス・デ・オニースとフロリダに関する交渉を開始した。フロリダ問題自体が長い間にわたる懸案であっただけではなく、スペイン植民地の独立革命も問題の解決をさらに困難にした。またアメリカはかねてより私掠船や海賊船の根拠地となっていたアメリア島に軍を派遣して占領していた。アダムズはそうした措置を支持していたが、アメリア島は法的にはスペインの管轄化にあったのでスペイン政府にとって受け入れ難いことであった。
1818年1月、イギリス政府はフロリダ問題の仲介を申し出た。1月31日の閣議でイギリスの申し出が検討された際にアダムズは他の閣僚とともに受け入れに反対を唱えた。1810年にアメリカがウェスト・フロリダを占領した際にイギリス政府が抗議を行ったことを考えると、そうした申し出が善意に基づくものであるか疑わしかったからである。そのためアダムズは2月3日、イギリスの申し出を断った。
コロラド川を国境線にする案をオニースに打診して拒絶された後、さらにアダムズは3月12日付の覚書で、ウェスト・フロリダとアメリカ市民のスペイン政府に対する賠償請求に関するアメリカ側の見解を示した。その覚書に対してオニースは23日に回答したが、これまでのスペイン側の見解を繰り返すのみであった。4月14日、両者は会談を行ったが何も進展はなく、オニースはさらなる訓令を本国に求めることを約束した。新たな訓令が届くのを待つ間、交渉は中断した。
第1次セミノール戦争
交渉が再開されるまでにフロリダ問題に大きな影響を与える事件が起きた。第1次セミノール戦争である。1817年12月、かねてより激化していたアメリカの居住民とセミノール族の衝突を沈静化するために、 ジョン・カルフーン陸軍長官は アンドリュー・ジャクソンに軍を召集し紛争を解決するように命じた。ジャクソンはセント・マークスの砦を占拠し、セミノール族に対する攻撃を行った。さらに1818年5月24日、ジャクソンはスペイン領フロリダの首都ペンサコーラを占領した。またジャクソンがネイティヴ・アメリカンを扇動したという咎で2人のイギリス人を絞首刑に処した。
1818年6月、ジャクソンの軍事行動を知った駐米スペイン公使オニースはセント・マークスの占領について手紙でアダムズに抗議した。7月8日、オニースはアダムズと面談した際に、占拠した砦の返還と被害者に対する補償、関係者の処罰を求めた。同日、駐米フランス公使ジャン=ギョーム・ヌーヴィルも遺憾の意をアダムズに示した。その時、アダムズはヌーヴィルに対して、「ジャクソンの措置が大統領によって否認されると期待させるようなことは一言もオニースに言っていませんし、私の個人的な見解では、大統領はジャクソンの措置を承認するでしょう」と言っている。
1818年7月15日から21日にわたる閣議の中でオニースに与えるべき回答の内容が協議された。15日、アダムズを除くすべての閣僚はジャクソンが、指示がないどころか、指示に反して行動したという見解を示した。アダムズは、閣僚の中で唯一、ジャクソンの軍事行動を正当化し、ネイティヴ・アメリカンに対してスペイン政府が十分な取り組みを行うと保証するまでペンサコーラの占領を続けるべきだと主張した。しかし、翌日と翌々日の閣議でアダムズは態度を軟化させ、ペンサコーラを返還してもよいが、占領は正当であったという見解を示した。こうしたアダムズの見解に対しても同意する閣僚はいなかった。17日の閣議の終わりに、モンロー大統領はアダムズにオニースへの返答の草案を手渡した。さらに18日と19日の閣議でも続いてジャクソンの軍事行動の正当性について話し合われた。
23日、アダムズはオニースに回答する覚書を送った。その中でアダムズは、もしスペイン政府がネイティヴ・アメリカンに対する防衛に十分な軍隊を派遣するのであればセント・マークスとペンサコーラの返還を認める一方で、ジャクソンの軍事行動に関する否認については言及しなかった。こうしたアダムズの回答はオニースを満足させた。
その一方でスペイン本国ではオニースに与える新たな訓令についてスペイン外相と駐西アメリカ公使の間で協議が進んでいた。その最中、ジャクソンの軍事行動の報せが入り、スペイン外相は8月29日付の覚書で、スペインの主権に加えられた侵害に対して満足な回答が得られるまで交渉を停止するという意向を示した。
10月24日、オニースは新しい訓令に基づいて、フロリダを割譲する交換条件として、アメリカの中立国としての権利をスペインが侵害したという主張を取り下げること、ジャクソンの軍事行動に対して遺憾の意を公表すること、そして、スペイン王室によって下賜された土地を認めることを要求した。オニースの申し出に対してアダムズは31日、閣内の意見にしたがってテキサスに対するアメリカの領有権主張を取り下げ、代わりにロッキー山脈以西と北緯41度以北の領域を放棄するようにスペインに求めた。そして、割譲について500万ドルを越えない額であれば合意できると示唆した一方で、ジャクソンの軍事行動に対して遺憾の意を公表することは完全に拒否した。またスペイン王室によって下賜された土地に関して、1802年以後に行われた下賜は無効とするという条件をアダムズは提示した。
その一方でスペイン外相が8月29日付の覚書で示した意向を知ったアダムズは、1818年11月28日の覚書でアメリカ政府の立場を正当化する論を展開した。この覚書はアダムズ=アーヴィング覚書としてよく知られている。
ジャクソンの越境とセント・マークスの占領についてアダムズは、ネイティヴ・アメリカンを単なる人為的な線でしかない国境で押し止めることは不可能であり、ジャクソンはペンサコーラ当局から間接的にネイティヴ・アメリカンに対して砦を保持できない旨を受け取ったと論じる。したがってジャクソンの占領は正当な根拠に基づく。そうした行為が正当であることを証明する条約や国際法を引用することは難しいが、「それは人類の常識として固く刻み込まれている」とアダムズは述べた。ペンサコーラ当局は合衆国に対して敵対的な姿勢を示し、同じく敵対的なネイティヴ・アメリカンはウェスト・フロリダを拠点として利用していた。こうした状況からするとペンサコーラの砦の占拠は、戦闘が再び勃発するのを防止するために必要不可欠な行為である。
続いて2人のイギリス人の処刑についてアダムズは、スペイン当局がフロリダで外国人の扇動者が活動する自由を与えたと非難し、イギリスが戦争中に中立国の権利を尊重していなかったと指摘した。戦争の自然法の原理に基づけば、過酷な報復は当然であり、両者の処刑は容易に擁護できる。
さらにアダムズはスペイン政府の脆弱性を指摘し、効果的なフロリダ支配に必要な軍隊を配置するか、フロリダをアメリカに割譲するか選択を迫った。そして、アメリカは自衛権に基づき、フロリダの占領を行わざるを得なかったと弁明している。
締結
オニースがアダムズの回答を受け入れなかったために交渉は再び行き詰っていた。閣議では、フロリダを掌握する権限を大統領に与えるように議会に要請する案が真剣に検討された。アダムズもそうした案に賛成していた。しかし、フランス政府の仲介によって妥結への道が開かれた。フランス政府は、アメリカがラテン・アメリカ諸国の独立を承認する危険性をスペインに伝え、フロリダ割譲に同意するように促した。
12月28日、駐米フランス公使ヌーヴィルはアダムズに、割譲の交換条件としてアメリカがラテン・アメリカ諸国を承認しないという条件でオニースが交渉を再開するだろうと通告した。アダムズはヌーヴィルの通告に対して、そのような保証を与えることはできないと拒否した。1819年1月3日、ヌーヴィルを通じて新たな提案がなされた。その提案は、アメリカ側が提示した条件にほぼ沿っている内容であったが、10月31日にアダムズが提示した境界線に関する条件を修正するように求めていた。アダムズはいかなる変更も認めないと頑強に抵抗した。
最終的に境界線は、アメリカ側の主張とスペイン側の主張の間を取って北緯42度に設定された。スペイン王室によって下賜された土地に関しては、1818年1月24日以後に行われた下賜を無効とするという条件で決着した。割譲に際してアメリカが500万ドルを支払うことで合意が成立した。さらにスペインにはフロリダの貿易に関してアメリカ市民と同じ待遇を与えることが約束された。1819年2月22日、こうした協定に基づきアダムズとオニースはアダムズ=オニース条約が締結された。
同条約に基づいて、アメリカ市民がスペイン政府に請求している総額500万ドルの補償をアメリカ政府が肩代わりし、アメリカとスペインの国境を画定することを条件に、スペインはフロリダをアメリカに割譲した。国境線は、メキシコ湾岸から北緯32度まではサビーネ川、北のレッド川に達したところで同川に沿って西経100度まで西進、今度はアーカンソー川に沿って北緯42度まで、最後にそこから太平洋までと画定された。その結果、スペインはオレゴンに対する領土要求を放棄する一方で、アメリカはテキサスの領有権を放棄した。
サミュエル・ビーミスは、アダムズ=オニース条約を「絶対的に完全な勝利ではないが、アメリカの国務長官がこれまで達成してきた中でも最も大きな外交的勝利」と評価している。
締結の2日後、上院は全会一致で条約を批准したが、スペイン国王は期限内に条約を批准しなかった。モンロー政権は実力でフロリダを占領することも検討したが、結局、オニースに交代するために新たに任命された駐米スペイン公使フランシスコ・ヴィヴェスの到着を待つことにした。
1820年春、アダムズとヴィヴェスは条約の批准について協議した。ヴィヴェスは、批准の条件として、ラテン・アメリカの革命諸国に対して承認を与えないように求めた。そして、新しく制定された憲法によって条約の批准には国会の承認が必要になったと説明した。ヴィヴェスの要求に対して、ラテン・アメリカ諸国を承認するか否かはフロリダ割譲とは無関係であると反論した。
ヴィヴェスが意見を変えないので、アダムズは議会にフロリダを占領する権限を求めるべきだと考えるようになった。その一方でモンロー大統領は、議会が会期末にそのような重要な決定を行わないだろうと判断し、5月9日にアダムズとヴィヴェスの間で交わされた書簡を提出するだけにとどめた。そして、モンロー政権はスペイン本国の判断を待った。10月5日、スペイン国会はフェルディナンド7世に条約を批准するように勧告した。フェルディナンド7世は勧告にしたがって1820年10月19日、条約を批准した。翌1821年2月、アメリカ側も批准を再承認し、これを以ってアダムズ=オニース条約は正式に承認された。
ラテン・アメリカ外交
早期承認に反対
1817年10月25日と30日の両日にわたって、モンロー大統領はスペイン領植民地に関する問題を閣議に諮った。最も重要な問題はブエノス・アイレス承認の是非であった。アダムズは承認が不適切であると慎重な姿勢をとるように提言した。こうしたアダムズの姿勢はラテン・アメリカ諸国が最終的に承認されるまで一貫して変わらなかった。ラテン・アメリカ諸国での独立革命運動に対してアダムズは必ずしも好意的でなく、慎重な姿勢を保った。
1818年1月13日、アダムズはラ・プラタ政府の代理人と面談した。代理人はもしアメリカが独立を承認しなければ、アメリカとの通商を閉ざすと通告した。それに対してアダムズは、正当な理由もなく、特定の国に対して通商を閉ざす権利はないと反論した。アダムズの考えでは、宗主国が植民地を放棄するまで待つことが植民地の革命の原則であり、事実と正義のみが新しい国家を承認する正当な根拠であった。国家の承認は来るべき時機を待って行われるべきであるという原理は国際法の原理であり、同時にアメリカ外交の1つの重要な原理となった。
1818年秋、モンロー大統領は第2次一般教書でラテン・アメリカ諸国の承認を盛り込む案を閣議に示した。アダムズはラテン・アメリカ諸国の問題を取り上げるべきではないと強く反対した。その結果、アダムズの反対にしたがって、第2次一般教書では、ラテン・アメリカ諸国に関する言及は少量に抑えられ、神聖同盟の共同介入が起こらないように希望すると触れられるだけにとどめられた。
1818年のアーヘン会議終了後、モンロー政権はラテン・アメリカ諸国の承認について再検討を行った。1819年1月2日の閣議ですべての国を承認するのではなく、ラ・プラタのみを承認する方針が採択された。決定にしたがってアダムズは駐英アメリカ公使に、ラ・プラタ承認の意向を伝え、もし可能であればイギリスから共同歩調を取る確約を取り付けるように命じた。しかし、イギリス政府から好意的な返答を得ることはできなかった。
その一方でモンロー大統領は、1818年の第2次一般教書でラテン・アメリカ諸国の承認を盛り込もうと考え、閣議にその是非を諮った。アダムズはラテン・アメリカ諸国の問題を取り上げるべきではないと強く反対した。その結果、第2次一般教書では、ラテン・アメリカ諸国に関する言及は少量に抑えられ、神聖同盟の共同介入が起こらないように希望すると言明するだけにとどめられた。
またモンロー大統領は1819年の第3次一般教書に、アメリカがラテン・アメリカ諸国を承認する際にヨーロッパ諸国と共同歩調を取るように求める提案を盛り込もうとした。アダムズは大統領の案に再び反対した。モンローは提案を削除しなかったものの、文言を修正した。
さらに1820年の第4次教書についても閣議で同様の案が話し合われたが、アダムズは再三反対を唱えた。アダムズの考えによれば、そうした提案は唐突であり、アメリカの中立を疑わせるものとなるだけではなく、スペイン政府の感情を害するものであった。もしスペイン政府が感情を害せば、進展中であったアダムズ=オニース条約を反故にする可能性があった。またアメリカがラテン・アメリカ諸国を承認しても、それほど利益がないともアダムズは考えていた・ラテン・アメリカ諸国の独立に関して世論は同情的であったが、アダムズは世論に追従することなく、アメリカの国益と中立の原理に基づき外交を導いたのである。
1820年3月にコロンビア政府の代理人が、メキシコとペルーで革命を起こすために武器を購入する許可を求めた際もアダムズの姿勢が明確に示された。モンローは許可を与えるか否かを閣議に諮った。陸軍長官カルフーンと海軍長官トンプソンは許可を与えることに賛成した。その一方でアダムズは「中立を宣言している最中にそのような措置を取ることは、戦争行為であるばかりではなく、誤った不名誉な戦争行為である」と強く反対している。アダムズの考えによれば、「他国との政治的接触を図るために特定の措置を必要とする一方で外国の戦争に対しては中立でいることが国家の恒久的方針」であった。さらにアダムズは「そうした方途を揺るぎなく固守することが最も重要である。その方途とあらゆるヨーロッパの戦争に介入する方途の間に中道はないことを私は知っているし、もし我々がその方途から逸脱すれば、我が国の展望は、血で地を洗う道程しかないだろう」と述べている。
独立の承認
1821年2月、アダム=オニース条約が成立した。したがって、ラテン・アメリカ諸国を承認するうえでの主な障害がなくなった。続いて5月、下院は承認を支持する決議を採択した。ラテン・アメリカ諸国の革命運動も大きな成果を収めつつあり、ラテン・アメリカ諸国を取り巻く情勢が一変した。1822年3月8日、モンローは議会に特別教書を送付し、コロンビア、メキシコ、チリ、ラ・プラタ、ブラジル、中央アメリカ連合を承認するように提案した。
アダムズは、モンロー大統領とクレイ陸軍長官の度重なる要請により、ラテン・アメリカ諸国に、政治的な問題を話す時は慎重に振舞うように訓令したうえで公使を派遣した。当然、スペインはそれに抗議したが、アダムズは「単なる既成事実の承認」に過ぎないと回答した。当初からアダムズは独立運動に対して慎重な姿勢を崩さなかったが、その歴史的意義については高く評価するようになった。
ミズーリ問題
アダムズはミズーリ問題に直接関与していたわけではなかったが、その行く末を気にかけていた。なぜならミズーリ問題は「大きな悲劇の幕開け」になり得る問題だったからである。奴隷制についてアダムズは一貫して反対していた。そもそも憲法制定時に奴隷制に関して妥協したことが間違いであるというのがアダムズの考えであった。
奴隷制を悪弊だとはっきり認めていたアダムズであったが、最も恐れていたのは奴隷制の是非をめぐる争い連邦が解体することであった。そのためアダムズはミズーリ妥協成立を次善の策として支持し、定められた地域で奴隷制が排除されるであろうと信じていた。
対仏交渉
アダムズは、ナポレオン戦争時代に拿捕されたアメリカ船舶とその積荷の補償問題、ルイジアナにおけるフランスの通商問題などについてフランスと交渉を行った。1822年、差別関税の暫時撤廃を取り決めた通商条約を締結することに成功した。
度量衡の統一
1817年3月3日、上院はアダムズに度量衡に関する報告を求めた。それに応じてアダムズは6ヶ月かけて「恐ろしく過酷な課題」をやり遂げ、「度量衡に関する報告」を議会に提出した。その中でアダムズは、フランスの方式の長所を指摘し、恒久的かつ普遍的な基準の採用を勧めている。1821年に出版されたこの「度量衡に関する報告」は、高等数学と高度な科学的知見に基づくものであり、そうした知識においてアダムズに肩を並べる者は数えるほどしかいなかった。
「合衆国における政党」の執筆
アダムズは「合衆国における政党」と題する小論を執筆している。冒頭でアダムズはその目的を「1825年3月4日の政党の状況」を分析するためだと述べているが、それに該当する原稿はない。この小論はアメリカ合衆国の形成から始まり1822年1月までの政党の発達を追ったもので1941年に初めて出版された。
キューバ問題
1822年、サンチェスと名乗る密使が、もしキューバの連邦加入をアメリカが認めるのであれば、スペインからの独立を宣言する準備があるとモンロー政権に伝えた。その申し出に応じるかどうかが閣議で話し合われた。アダムズは、イギリスがスペインからキューバを譲り受けるようなことがあればアメリカの安全保障にとって深刻な脅威となると考えていた。さらにキューバ問題がアメリカ国内で奴隷制問題を再燃させる可能性も恐れていた。最終的にアダムズは、キューバがアメリカの協力なしで自ら独立を宣言した後、連邦加入を要請すべきだという見解を示した。しかしながら、たとえ要請を受けても、キューバの連邦加入を認めるには憲法上の疑念があると考えていた。
閣議の結果、モンロー政権はサンチェスに、スペインに対してアメリカは何ら敵対する意思がないこととさらなる情報の提示するように通告した。しかし、サンチェスが姿を消したために、キューバ問題は未解決に終わった。
こうしてキューバ併合は未遂に終わったが、1823年4月28日付の駐西アメリカ公使に宛てた訓令の中で「我が連邦共和国にキューバを併合することが連邦自体の継続と統合に必要不可欠だという確信に抗うことはほとんどできないでしょう。しかしながら、今回はまだ我々は準備できていなかったことは明らかです」と述べているように、アダムズは、アメリカが将来、キューバを併合することを確信し、イギリスにキューバが渡ることは絶対に阻止するべきだと強く信じていた。
米露協定
アダムズはそうした憶測の一方でロシアの動きも警戒していた。ロシアはロシア・アメリカ会社の下、アラスカに拠点を築き、商圏を拡大していた。1821年、ロシア・アメリカ会社はロシア政府に働きかけて、北緯51度以南との交易を禁じただけではなく、ベーリング海峡とロシア領北西部海岸の100イタリア・マイル以内から外国船舶を締め出す勅令をとりつけた。
1822年2月11日、駐米ロシア公使を介してロシア政府はアダムズに勅令の内容を通知した。それは、太平洋岸地域と毛皮交易を行っていたニュー・イングランドに打撃を与えるものであった。同月25日、アダムズはロシア公使に抗議の覚書を送った。さらなる交渉の中で、ロシア公使に決定権がないことを知ったアダムズは、駐露アメリカ公使ヘンリー・ミドルトンに抗議を送達し、ロシア政府と交渉するように命じた。アダムズがミドルトンに示した条件は、もし現地民との交易が容認されるのであれば両国の境界線を北緯55度に設定するというものであった。
その一方でアダムズは、1823年7月17日、駐米ロシア公使テュイルに、アメリカ大陸におけるロシアの領土権を認めるつもりがないと言明し、「南北アメリカ大陸は、もはやヨーロッパの新たな植民地建設の対象とはならない」と通告した。こうした主張はモンロー・ドクトリンの先駆けと言える。アダムズにとってアメリカによる北西海岸の領有は「自然の指針」に基づく当然の権利であり、同地で「交易を行う権利は合衆国が放棄できない」ものであった。
サンクト・ペテルブルグでは、アダムズの訓令に基づいてミドルトンがロシア政府と交渉を行った。その結果、1824年4月17日に両者の間で協定が結ばれた。同協定により、10年間、太平洋側北西部におけるアメリカの交易権が認められた。しかし、境界線については北緯55度ではなく、北緯54度40分で妥結された。また武器弾薬や蒸留酒の交易を禁じる規定が挿入された。協定案は直ちにアダムズのもとに送付され、1825年1月13日、批准が交わされた。
モンロー・ドクトリン
イギリスとの協調に反対
1818年1月、イギリス公使チャールズ・バゴットが、神聖同盟が新世界に共同介入を行う可能性があると示唆した。さらに虚報であると後に判明したが、ラテン・アメリカ諸国からそうした計画が進行中であるという情報が届いた。
共同介入の可能性についてアダムズは懐疑的であった。神聖同盟諸国の相互の利害関係からすれば、共同介入の実施は困難が予想され、海を越えて干渉を行う余裕はないだろうとアダムズは考えていたからである。しかし、アメリカ政府の外交方針を明らかにしておく必要があると考えたアダムズは5月19日に駐仏アメリカ公使に、6月28日に駐露アメリカ公使にアメリカ政府の方針を伝える訓令を送った。駐仏アメリカ公使アルバート・ギャラティンに対して送られた訓令の中には、「我々は南アメリカ地域においてスペインの主権を再復するためのいかなる干渉についても承認しませんし、同意しません」という後のモンロー・ドクトリンに繋がる方針が開陳されている。
1820年にスペイン、ピードモント、そしてナポリで革命が勃発して以後、神聖同盟はヨーロッパにおける革命の拡大と共和制国家の樹立を妨げようと試みていた。アダムズはそうした動きに反感を抱いていた。さらにフランスをはじめとするヨーロッパ列強が、スペインによる南北アメリカの植民地再復を支援するのではないかという憶測が流れた。神聖同盟から距離を置くようになっていたイギリスはアメリカに接近を図り、植民地の再復を図るスペインに対して植民地の現状維持を呼び掛ける共同声明を出すように駐英アメリカ公使リチャード・ラッシュを通じて要請した。
1823年10月9日、それを報せるラッシュからの急信が届いた。共同声明の問題は11日の閣議で初めて議題にのぼった。モンロー大統領は トマス・ジェファソンと ジェームズ・マディソンに意見を求めた。両者はその利点を認め、不介入政策を放棄し、イギリスと共同歩調をとるように勧めた。
さらに10月16日、駐米ロシア公使テュイル男爵がアダムズのもとを訪れ覚書を持参し、ロシア皇帝はラテン・アメリカ諸国から公使を受け入れるつもりがないと言明し、アメリカ政府が中立を保っていることに満足していると付け加えた。それに対してアダムズは、アメリカが植民地の問題に関して中立を保つかどうかはヨーロッパ諸国がアメリカと同様の姿勢をとるかどうかによると回答した。
11月7日、2時間半にわたってイギリスの要請を受け入れるか論議が交わされた。ジョン・カルフーン陸軍長官は、イギリスと連携すればアメリカの利益は保たれるとして共同声明の発表を支持した。その一方で、アダムズは、テュイルから受け取った覚書を神聖同盟に対するアメリカの立場を明らかにする機会として利用し、同時に「イギリスの戦艦の跡を追って小舟に乗る」べきではないと共同声明の発表に反対した。アダムズの考えでは、もし共同宣言を行なえば、アメリカ自身の領土拡張の足枷となるし、またいつの日か、テキサスやキューバが自発的にアメリカに加入することも夢ではなかった。そのため、アメリカ単独で西半球はこれ以上列強の植民地を許さないと宣言するべきだとアダムズは主張した。既に1824年の大統領選挙への出馬を考えていたアダムズにとってイギリスとの協調は避けるべき外交方針であった。なぜならアメリカ人の間では依然として1812年戦争の余燼が燻っていて、イギリスに対する反感があったからである。
閣議の後、アダムズはモンローと2人で話し合った。その場でアダムズは合衆国が直面している重要な問題について立場を明確にすべきだと主張した。モンロー大統領はアダムズの主張に同意した。
テュイルへの返答の中でアダムズは、ラテン・アメリカ諸国の独立を尊重する旨を明言し、スペインが支配権を取り戻すことはないだろうと断言している。またイギリスに対してアダムズは、共同声明の呼び掛けを拒絶する一方で、スペインの植民地を第3国に移譲することを認めないというイギリスの方針に同意した。イギリスの方針に同意を示すだけにとどまらず、アダムズはスペイン植民地の再征服をいかなる形であっても認めないと独自に主張している。
大統領に対する助言
11月21日の閣議で、モンローは、イギリスがスペイン領アメリカ諸国の独立を承認しない限り共同声明を行なわず、アメリカが独自の姿勢を示すべきだと閣僚に告げた。またフランスによるスペイン介入への反対、ギリシア独立への支持、そして、ヨーロッパ諸国による北アメリカへの新たな植民を拒否することを表明すべきだとモンローは述べた。アダムズは、アメリカはヨーロッパの紛争に関与すべきではないと反対した。このような経緯からモンロー・ドクトリンの核となる文言を考えたのは明らかにモンローであると考えられている。教書に盛り込むべき問題についてまとめた「アダムズ氏の草案」として知られる文書には、植民地の問題に触れた部分はない。
さらに翌日、アダムズはモンローと面談し、そうした立場が強硬過ぎて神聖同盟との戦争を引き起こす恐れがあると示唆した。そして、アダムズは、「私が取りたいと望んでいる立場は、南アメリカに対して武力に訴えてヨーロッパ諸国が介入することに対して率直な非難を行う一方で、我々の側のヨーロッパに対するすべての干渉を放棄し、それをアメリカの原則とし、その原則を揺るぎなく固守することです」と主張した。ただアダムズは、ヨーロッパ内の情勢に無関心であったわけではない。
24日、モンローはアダムズに教書の草案を示した。その草案では、アダムズの助言にしたがって、ギリシア独立への支持は穏当な表現に留められ、フランスによるスペイン介入への明確な反対も削除されていた。しかし、モンローの草稿が現存していないため、どの程度の修正が加えられたかについて詳細を知ることはできない。その日の閣議では司法長官ウィリアム・ワートが、イギリスの要請はアメリカとヨーロッパ諸国の仲を割く罠であり、神聖同盟の干渉の確証が得られるまでアメリカは明確な態度を示すべきではないと主張した。ワートの意見に対してアダムズは、もし干渉が本当に行われればアメリカの国益が危険にさらされると反駁した。神聖同盟はキューバを与えることでイギリスを宥め、植民地を再分割するだろう。さらにアダムズは次のように続けて述べた。
「もし神聖同盟が南アメリカを攻撃するのであれば、我々の協力がない場合、イギリスは単独で彼らに対抗しなければなりません。これはまったくあり得ない事態ではないと私は思いますし、そうした戦いにおいてイギリスは海を制覇することによって勝利を収めるでしょう。そうなると南アメリカ諸国の独立はイギリスの庇護の下にのみ置かれるようになり、そうなれば南アメリカ諸国をイギリスの手中に追いやることになり、その結果スペインの植民地はイギリスの植民地となるでしょう。したがって私の意見では、我々は即座に決定的に行動しなければなりません」
最終的な決定は11月26日の閣議で行われた。かねてよりアダムズは強硬過ぎる内容を控えるように大統領に助言していたが、もし神聖同盟の介入が実現すれば南アメリカが列強により再分割されるという強い懸念を表明している。しかし、アダムズは「我々自身の扉の前まで棄権は迫っているので我々は危険を撃退するために即座に行動しなければならない」と述べている一方で、「チンブラソ山が海の下に沈む以上に、アメリカ大陸にあるスペイン領を再復しようと神聖同盟がするとは思えない」とも述べているように内心では神聖同盟の介入があるか否か判断に迷っていた。
デクスター・パーキンスは、モンロー・ドクトリンにおいてアダムズが果たした役割を「もちろんモンロー・ドクトリンで示された原則が専ら国務長官に属するわけでなく、モンロー・ドクトリンにおいて大統領が果たした役割は軽視すべきではないが、アダムズが果たした役割は重大である」と評している。
公表後
1823年12月2日、モンロー・ドクトリンが公表された後、その適用が現実に迫られる機会が訪れた。1824年春、コロンビアに現れたフランス政府の代理人が、君主制を採用する条件でフランス政府はコロンビア政府を承認すると持ちかけた。フランスの真意を測りかねた1824年7月2日の覚書でコロンビア政府は、神聖同盟が実際に介入してきた場合にアメリカ政府はどのような対応をとるか問い合わせた。またコロンビア政府はアメリカに同盟締結の可能性を打診した。
8月6日、アダムズはコロンビア政府に以下のように返答し、モンロー・ドクトリンの適用に慎重な姿勢を示した。植民地の問題にフランス政府が介入する可能性は低い。神聖同盟に対抗するかどうかは議会が決定すべき問題であるので、もし再び何らかの危機が生じるのであれば行政府は議会に適切な行動を取るように勧告する。そして、ヨーロッパ諸国、特にイギリスから共通理解を得ることを前提に、フランスのみならず全面的な介入が行われればモンロー・ドクトリンが適用され得るとアダムズは示唆している。しかし、たとえフランスがスペインを占領しても、アメリカは植民地の紛争に対する中立姿勢を崩すことはないと明言している。
また1825年1月27日、駐米ブラジル公使は、ヨーロッパ諸国、もしくは旧宗主国ポルトガルとの戦闘が再開された場合に備えて攻守同盟の締結をアダムズに申し入れた。しかし、その頃、アダムズ自身は紛糾した大統領選挙の渦中にあり、返答を与える余裕はなかった。代わってアダムズ政権で国務長官に就任した ヘンリー・クレイがブラジルの提案を拒否した。
太平洋側北西部の画定
1811年にアメリカは太平洋側北西部のアストリアに交易所を開いた。その直後に勃発した1812年戦争の最中、その領域はイギリス海軍に占領された。戦後、アメリカは交易所を取り戻そうとした。1817年11月26日の覚書で、駐米イギリス公使はアメリカの行動に抗議し、領有権を否定した。アダムズはイギリス公使と見解を交換したが何の解決にも至らなかった。しかし、イギリス政府は交易所を放棄することを約束したので深刻な衝突は起きなかった。結局、領有権の問題は未解決のままに終わった。
アダムズはイギリスガが北アメリカにおけるアメリカの権利を尊重するべきだと強く信じていた。1818年5月20日付の駐英アメリカ公使に宛てた訓令でアダムズは次のように断言している。
「ヨーロッパ、アジア、そして、アフリカでイギリスが領土の所有を享受するのを合衆国が邪魔しないのであれば、北アメリカという我々の天然の領域へのあらゆる拡大の可能性に警戒の目を注ぐことが賢明で友好的な政策と合致しないとイギリスが理解することを我々は非常に公平に期待できます」
ネイティヴ・アメリカン政策に関する助言
ジョージア州はかねてよりネイティヴ・アメリカンを連邦政府が強制退去させるべきだと強く主張していた。問題の解決を議会に委ねようとしたモンローにアダムズはカルフーンとともに反対した。「インディアンは、退去を拒否する完全な権利を持っている」とアダムズは述べている。アダムズとカルフーンの助言に応じてモンローは議会への通告を修正した。ジョージア州が独自にネイティヴ・アメリカンを立ち退かせようとした時、アダムズは、「合衆国政府に対するジョージア州の過激な行いは他の出来事の不吉な前兆になるだろう」と記している。
1824年の大統領選挙
選挙動向
多くの者はジョン・クインジー・アダムズが ジェームズ・モンロー大統領の後を継いで大統領になるだろうと考えていた。モンロー自身もマディソン政権下で国務長官を務めた後に大統領に就任していたし、 ジェームズ・マディソンも同様にジェファソン政権下で国務長官を務めた後に大統領に就任したという先例があったからである。1824年6月10日、マサチューセッツの民主共和派はアダムズを大統領候補として公認した。
アダムズ自身もたとえ順当に大統領に選出されてもそれほど多くの票数を集めることはできないだろうと考えていたが、1824年の大統領選挙はアダムズの予想を超える混戦となった。
選挙結果
大統領選挙は1824年12月1日に行われ、261人の選挙人(24州)が票を投じた。選挙の結果、どの候補も過半数を獲得することはできなかった。
アダムズはニュー・イングランド諸州を中心に11州から84票を得た。すなわちコネティカット8票、デラウェア1票、イリノイ1票、ルイジアナ2票、メイン9票、メリーランド3票、マサチューセッツ15票、ニュー・ハンプシャー9票、ニュー・ヨーク26票、ロード・アイランド4票、ヴァーモント7票である。
アンドリュー・ジャクソンは南部と西部を中心に12州から99票を得てアダムズの得票数を上回った。すなわちアラバマ5票、イリノイ2票、インディアナ5票、ルイジアナ3票、メリーランド7票、ミシシッピ3票、ニュー・ジャージー8票、ニュー・ヨーク1票、ノース・カロライナ15票、ペンシルヴェニア28票、サウス・カロライナ11票、テネシー11票である。
その他、 ウィリアム・クロフォードがヴァージニアを中心に5州から41票、 ヘンリー・クレイがケンタッキーとオハイオを中心に4州から37票を得た。
一般投票の結果でも、アダムズの108,740票(30.5%)、ジャクソンの153,544(43.1%)とジャクソンがアダムズの得票数を上回った。その他、クロフォードは47,136票(13.2%)、クレイ46,618票(13.1%)である。
決選投票
選挙結果で示した通り、どの候補も過半数を得ることができなかったので決選投票に掛けられることになった。そして、憲法修正第12条の「もし過半数を得た者のないときは、大統領として投票された人びとの表につき最高点を得た者三名以下のうちから、下院をして直ちに投票により大統領を選任させる。大統領の選任に際して、表決は州別による。すなわち各州の代表は一票を有する。この目的のためには、全州の三分の二から一人または二人以上の議員の出席をもって定足数とする。選任のためには、全州の過半数を得た者をもって当選とする」という規定にしたがって下院で表決が行なわれた。
決選投票の結果、アダムズは24票のうち辛うじて過半数となる13票を獲得し、当選が確定した。ジャクソンは7票、クロフォードは4票であった。アダムズが過半数を獲得できた背景にはクレイの影響力が大きい。もしクレイを強く支持するケンタッキー、ミズーリ、オハイオの票がなければアダムズが過半数を獲得することは難しかったと考えられる。
就任式
1825年3月4日、11時30分、アダムズと海軍長官、司法長官を乗せた馬車は市民と民兵隊に囲まれ国会議事堂に向かった。モンロー大統領は別の馬車で後に従った。アダムズの就任式は国会議事堂内で行われた。アダムズは国会議会議事堂の下院会議室で就任演説を行った。就任演説の中でアダムズは党内融和と国内開発計画を呼び掛けた。宣誓式は正午、 ジョン・マーシャル最高裁判所長官が執り行った。就任式が終わった後、一行はアダムズ宅に戻り、祝賀会が行われた。それから後にアダムズはホワイト・ハウスに向かった。その夜、舞踏会が町議会室と呼ばれる会場で行われた。
民主共和党の分裂
下院がアダムズの大統領就任を裁定する以前から、 アンドリュー・ジャクソンの支持者と ウィリアム・クロフォードの支持者は、閣僚のポストと引き換えに下院議長の ヘンリー・クレイに協力を依頼したという非難を行っていた。そして、アダムズがクレイを国務長官に指名した時、ジャクソンの支持者は「闇取引」が行なわれた議会で批判した。アダムズ自身は「もし大統領職が、新聞の買収、官職任命という賄賂、もしくは外国との取引などの陰謀や悪巧みで獲得される目標であるとしたならば、私はそうした宝くじに参加する資格など持っていない」と述べている。
こうして深まった亀裂は修復されることなく、民主共和党は、ヘンリー・クレイが主導する国民共和党とジャクソン率いる後の民主党に分裂した。
ホワイト・ハウス
ジョン・クインジー・アダムズ大統領はホワイト・ハウスでの生活について次のように記している。
「私は[今よりも]煩わしく、飽き飽きするような、悩ましい生活状態を思い描くことはできない。それは文字通り重荷の生活だ。引退生活がどうなるかは分からないが、あまり良い期待は持てそうにもない。しかし、この絶え間のない忙しなさと気が狂うような心痛に比べれば決して悪くはないだろう」
国内開発事業
1825年12月6日の第1次一般教書でジョン・クインジー・アダムズ大統領は、もし議会が国民一般の利益のために権限を行使しないのであれば「最も神聖なる信頼を裏切っていることになる」と論じている。同書でアダムズは、連邦政府による建設、探査、教育、科学振興、経済を改善する法律の制定などを提案した。この計画には、天体観測所と国立大学の建設が含まれていた。特に天体観測所については当時はまだアメリカには存在せず、最初の天体観測所ができたのは1838年である。
関税収入や公有地の売却益が道路・運河建設、港湾改良、河川浚渫などにあてられた。また公有地の割り当てや運河会社の株式購入などを通じて連邦政府は運河建設を支援した。中でもジョン・クインジー・アダムズ大統領が喜んだのはチェサピーク=オハイオ運河の建設が始まったことである。アダムズは1828年7月4日に行なわれた起工式に自ら参加している。
ジョン・クインジー・アダムズ大統領は公有地の売却益を国内開発事業の準備金であると考えていたために、公有地を廉価で払い下げようとしなかった。しかし、西部の住民の多くは安い定価で公有地を購入する先買権と売却されないままの公有地の漸減的価格引下げを求めていた。こうした利害衝突はアダムズの不人気の一因となった。
1826年の中間選挙
1826年の中間選挙で、アダムズ政権は史上初めて野党に両院ともに過半数の議席を明け渡した。かねてよりアンドリュー・ジャクソンの支持者とウィリアム・クロフォードの支持者は連合してアダムズ政権に対峙していたが、中間選挙の敗北によりさらに政権運営が難しくなった。こうした党派間の争いの原因は政治的な側面よりも個人的な側面の要素が強かった。
議会に阻まれた諸政策
ジョン・クインジー・アダムズ大統領は、連邦の助成による教育拡充、科学研究機関の設立、内務省の創設などを提案したが、議会に受け入れられなかったために実現することができなかった。政府が科学技術研究と手を携えるという発想はアダムズの生前には実現しなかったが、現在の科学技術研究に対する政策を先取ったものだと言える。
1828年関税法
1828年までにニュー・イングランド諸州では製造業が農業に代わって主要産業に成長していた。そして、輸入品に対して高い関税を求める声が高まった。ジョン・クインジー・アダムズ大統領は保護関税によって国内製造業を保護し、都市部の成長を促すことで農産物の市場も生まれるとアダムズは考えていた。
しかし、一方で輸入品に対する高関税は南部の農園主にとって支出の増大を意味したので南部の指導者達は保護関税に反対し、低関税、もしくは自由貿易政策を維持しようとした。そうした一派から1828年関税法は「唾棄すべき関税」と呼ばれた。サウス・カロライナ州は「サウス・カロライナの論議と抗議」を公表し、州権論に基づいて連邦法の無効を訴えた。
パナマ会議
パナマ会議は、旧スペイン領アメリカ諸国が、連携の強化と独立交渉の進展を目的として開催した国際会議である。アメリカは、南北アメリカ全体の利益を考える中立国として招かれた。1825年春、国務長官クレイはメキシコ公使とコロンビア公使から会議への招聘を代診された。閣議で参加の是非が討議され、条件が整えば、会議に参加する旨が回答された。11月、アメリカは正式に会議に招聘された。クレイの勧めにしたがってジョン・クインジー・アダムズ大統領は1825年12月6日と26日、議会にパナマ会議への使節団派遣の是非について諮問した。
1826年1月11日、議会は討議を開始した。南部の指導者達は、パナマ会議参加に付随して黒人共和国であるハイチ共和国が議会で承認されるのではないかと危惧した。またアダムズ政権のラテン・アメリカ政策に反対する一派もジョン・クインジー・アダムズ大統領による使節団派遣を阻止しようとした。そのため上院ではパナマ会議参加をめぐって激しい議論が交わされた。
使節団派遣の決定は遅れ、上院で最終的に派遣が決定したのは3月25日であった。さらに使節派遣のための予算計上がようやく下院で認められたのは4月下旬であった。パナマ会議は実質上、ほとんど成果をあげずに散会した。アメリカの使節も紆余曲折があって結局、参加できなかった。
ネイティヴ・アメリカン政策
ジョン・クインジー・アダムズ大統領は、ジョージア州内のチェロキー族の権利を擁護した。これは南部と西部の支持を失う結果をまねいた。その一方で1826年と1827年、クリーク族はジョージア州西部の土地を合衆国政府に明け渡す条約を結んでいる。
ジェファソン書簡の暴露
1827年9月、ヴァージニア州知事ウィリアム・ジャイルズはアダムズ政権を攻撃する意図で トマス・ジェファソンから受け取った手紙を公開した。1825年12月25日付の手紙は次のような文言が含まれていた。
「出港禁止法の結果が出るまでの間、その撤廃の試みが行なわれている一方でアダムズ氏が私を訪ねてきました。これまで特に親しい交信がなかったという理由で突然の訪問を詫びました。しかし、今回こうして訪問したのは、我が国の利益に深刻に関わる問題なので、その他の配慮に拘ることなく、特に私自身にそれを打ち明ける義務があるということでした。[中略]。それから彼は我が連邦の西部の出港禁止の規制に対する不満と不穏な動きがあると話しました。彼らが連邦からの脱退を試みないという保障はない。全く疑いがない確証により西部諸州のある市民達(彼は特にマサチューセッツ人の名前をあげたように思います)が、その時続いていた戦争にニュー・イングランド諸州はさらなる関与しないという協定を結ぶ目的でイギリス政府の工作員と取引をしている。合衆国からの分離を公式に宣言することなく、合衆国へのすべての支持と服従を撤回する。彼らの航行と通商は規制とイギリスによる干渉から解放される。彼らは中立として考慮され扱われるべきであり、両陣営に対して中立であるように行動する。戦争の終結にともなって、連邦に自由に再加盟する。彼は、[脱退]会議が行なわれる危険性が著しく高く、連邦に対する忠誠から堕落する者が多くいて、連邦の支持者にそうした動きに対抗させるためには、出港禁止法の撤廃が是対に必要だと私に請合いました」
こうした暴露はニュー・イングランド諸州のアダムズに対する信頼を損なうものであった。1829年にマサチューセッツの13人の連邦党の指導者達がアダムズに説明を求めて交わした書簡が、『連邦解体計画の告発に関するジョン・クインジー・アダムズとマサチューセッツ市民の書簡』という題で出版された。それに対してアダムズが準備した回答は1877年にヘンリー・ブルックス・アダムズによって公刊された『1800年から1815年までのニュー・イングランドの連邦主義関連文書』の中で公表されている。
1828年の大統領選挙
アダムズは ジョン・マクリーン郵政長官のようにジャクソンを支持している閣僚でもたでも罷免することはなかった。それどころか、クロフォードの財務長官留任を望んだし、ジャクソンを陸軍長官に指名しようと考えたこともあった。アダムズは公職任命を縁故や猟官といった政治活動に基づく動機ではなく、公的な動機に基づいて行なうべきだと固く信じていたからである。
こうしたアダムズの姿勢は支持者にとっては不満の種であり、敵対者にとっては好都合であった。1828年の大統領選でアダムズは、選挙運動が自らの原理に反するとしてほとんど活動しなかった。大統領自ら選挙運動に加わることは大統領の尊厳を損なうと信じていたからである。一方、ジャクソンの支持者は、アダムズに一般庶民の利益を阻害する上流階級の代表者というレッテルを貼って効果的に選挙運動を展開した。
その結果、アダムズが一般投票で50万8064票、ニュー・イングランド諸州を中心にした9州から84票の選挙人票しか獲得できなかったのに対して、ジャクソンは一般投票で64万7286票、15州から178票を獲得した。ジャクソンの圧勝であった。
中立貿易の原則を支持
アダムズは中立貿易の原則を支持し、アメリカ人が戦時中にフランス、イギリス、ラテン・アメリカ諸国によって押収された財産に対する補償を請求する際に積極的な支援を行なった。
通商関係の拡大
アダムズ政権はこれまでの政権よりも数多くの通商条約締結交渉を展開した。ジョン・クインジー・アダムズ大統領は特に間接貿易に関する条項を重視した。そうした条約は、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、ハンザ同盟諸都市、中央アメリカ連邦などに拡大された。その他にもオーストリア、ブラジル、メキシコ、トルコなどと通商条約交渉が進んでいた。
キューバ政策
スペインとラテン・アメリカ諸国の戦争が続けば、スペイン領キューバが攻撃される可能性が高いと考えて、アダムズ政権はメキシコやコロンビアのキューバに対する軍事的遠征を抑制するとともに、スペインに両国の独立を承認するように働きかけた。
ハイチ共和国承認問題
1826年、ハイチ共和国の独立を承認する機会はあったが、ジョン・クインジー・アダムズ大統領は慎重に行動し、結局、ハイチの独立承認を見送った。
短期間の引退生活
ジェファソン書簡の暴露によってアダムズは連邦党から疎外され、さらに大統領選での敗北を長い間にわたった公職での奉仕に対する不公正な報いだとアダムズは感じていた。引退生活の中でアダムズは父 ジョン・アダムズの伝記を自ら執筆したいと考えていた。しかし、静穏は長くは続かなかった。
連邦下院議員
選出
マサチューセッツ州の国民共和党の指導者は、連邦下院選挙に出馬するようにアダムズを説得した。アダムズは、選挙活動を自ら行なわず、議会では党や有権者の意向に左右されることなく投票を行なうという条件の下に出馬を承諾した。そして、1830年11月1日、アダムズは他の2人の候補を大差で破って連邦下院議員に当選した。
家族が下院議員就任に強く反対したのにも拘らず、この時の心境についてアダムズは、日記で「私は第22議会の議員に当選している。合衆国大統領に選ばれたことは私の心の奥底にある魂を半分も満たさないだろう。私が受けた指名や選出の中でも[連邦下院議員選出は]最大の喜びを私に与えた」と記している。アダムズは1831年に登院してから亡くなるまで8期計17年間にわたって下院議員を務めた。
独立独歩の精神
アダムズは下院工業委員会や下院外交員会などの長を務めた。1832年、工業委員会の長として、原材料に課する関税を引き下げる一方で、綿や羊毛、圧延鉄に対する保護関税は継続させた。1833年2月に、奴隷制保護を求める南部の主張、公有地の処分、そして連邦法無効の主張に関する報告書がアダムズの手によって提出されたが、この報告書に同意する者はほとんどいなかった。アダムズは1833年妥協関税法について、サウス・カロライナ州の要求に応じた全面的な関税引き下げに反対を唱えている。アダムズからすればサウス・カロライナ州にそのような譲歩を示すことは「最終的な取り返しのつかない連邦の解体」をまねくことに他ならなかった。
合衆国銀行の調査にために設立された特別委員会の一員として、合衆国銀行に加えられた攻撃を非難する報告を提出した。アダムズの主張によれば、合衆国銀行に対する攻撃は、憲法上の問題に基づくのではなく、銀行業の競合や投機的な思惑に基づいて行なわれていたからである。またアダムズは、安価での公有地払い下げを求める西部と低関税を求める南部の政治的連帯がアメリカン・システムを損なうと考え、南部の政治的影響力に強く抵抗した。そのためテキサス併合や米墨戦争を南部の影響力を強める手段と見なして反対を唱えた。
このようにアダムズは独立独歩の姿勢を示し、一貫して国内開発事業の推進と合衆国銀行の再興を訴え続けた。クレイに宛てた1842年9月30日付の手紙の中でアダムズは「国内開発事業は私の良心であるとともに貴重な宝でもある」と述べている。そうした姿勢はニュー・イングランドで強固な支持を得た。8回の選挙の中で最も高い得票率は87パーセントにも達した。
アダムズは、ジャクソン政権のテキサス独立の承認、第2合衆国銀行特許更新の拒否などの政策に強く反対した。アダムズは大統領時代にメキシコからテキサスを購入しようとしていたが、一転してテキサス併合に反対し、1836年5月25日に「メキシコ、黒人、そして、イギリスの戦争」について論じた「これまで私がしてきた中で最も顕著な演説」を行なった。この演説はスペイン語に翻訳されメキシコで出版された。
このようにジャクソン政権の政策に反対する一方で、サウス・カロライナ州の連邦法無効宣言に関してはジャクソン政権を支持している。またジャクソン政権は、ナポレオン戦争中に押収されたアメリカ人の財産に関する補償をフランスに強く求めたが、アダムズはそうした外交方針も支持した。
1830年代、アダムズはフリーメイスンリーに反対する姿勢を示している。アダムズにとって、フリーメイスンリーはエリート主義であり、政治に強い影響力を及ぼしている点が問題であった。
1838年6月、テキサス併合が論じられた時に、アダムズは「外国政府の人民を連邦に加盟させる権限は、連邦議会にも合衆国政府のいかなる部門にも委託されておらず、合衆国人民に留保されている。連邦議会の法律、もしくは条約によってテキサス共和国を我が連邦に併合しようといういかなる試みも[合衆国人民に留保された]権限の剥奪であり、連邦の自由民はそれに抗議し、それを破棄する義務と権利がある」と述べた。また1843年には他の12人の議員達とともに、テキサス併合が連邦の解体を意味するという抗議声明を発表している。アダムズにとってテキサス問題は、奴隷制と南部のために北部の自由を犠牲にし、公有地の不法占有を許すことで西部の支持を購うという不正に他ならなかった。
1842年1月24日、アダムズはマサチューセッツ市民からの請願を下院に提出した。それは、連邦の平和的解体を求める内容であった。アダムズは、却下事由を示すように指示したうえで、請願を特別委員会に送致した。こうしたアダムズの行為は南部の議員達の怒りをかった。まずヴァージニア州選出の議員が、連邦解体を求める請願を下院に提出したことを事由とした問責決議を提出した。さらにケンタッキー州選出の議員が、反逆罪に関連する不法行為を行い、下院とアメリカ国民を侮辱した咎で厳しい問責と除籍を求める決議を提議した。こうした提議に対してアダムズは「この恐れを知らない残虐な反逆罪の非難に答えるにあたって、私は独立宣言の第1段落を読み上げることを求めます。読み上げよ。読み上げよ。そして、政府を改革し、変更し、そして解体する人民の権利がどのように述べられているかを見よ」と反論し、独立宣言を読み上げた。11日間の議論の後で、幸いにも問責決議は棚上げされた。その一方で、アダムズが提出した請願の受理も見送られることになった。
1842年9月17日、アダムズは有権者に対して自らの行ないを説明する演説を行なった。この演説は「12選挙区の有権者へのジョン・クインジー・アダムズの演説」として印刷されている。アダムズは、南部の奴隷州の行いやそれが北部の方針を犠牲にしていると主張している。これはアダムズの政治的指針を示した最後の政治的文書である。
1844年、マサチューセッツ州議会が5分の3規定の廃止を求めて合衆国憲法修正を求めた時、アダムズはそれを支持する少数派の報告書を提出している。
奴隷制問題
緘口令
ジョン・クインジー・アダムズは奴隷制廃止論者ではなかったが、いつか奴隷制問題が連邦を解体に導く可能性があると信じ、それを阻止しなければならないと考えていた。「奴隷制と民主主義―特に民主主義は、我々の民主主義のように、人間の権利に基づいているが―お互いに両立しないように思える。そして、現時点では、国家の民主主義は全面的ではないにしろ主に奴隷制によって支えられているのである」とアダムズは奴隷制の現状を認識していた。北部の奴隷制廃止論がたかまるにつれて、コロンビア特別行政区内と新たな領土内での奴隷制を廃止するように求める請願が議会に多く寄せられるようになった。そうした請願により議員達は忙殺された。
そのため1836年2月、下院はヘンリー・ピンクニーを長とする特別委員会を設けて請願の扱いを審議することにした。5月18日、ピンクニーは3つの決議からなる報告を行なった。引き続いて1週間、討議が交わされ5月25日、まず連邦議会はどの州の奴隷制に関しても干渉する権限はないことを規定する決議が票決にかけられた。182票対9票でその決議は可決された。翌日、コロンビア特別行政区の奴隷制にも議会は干渉するべきではないという決議も142票対45票で可決された。そして、奴隷制問題に関わる請願の「審議を棚上げする」決議、いわゆる「緘口令Gag
Rules」が票決にかけられた。投票を求められた時、アダムズは立ち上がって「私はその決議を合衆国憲法と下院の諸規則、そして有権者の諸権利に対する直接的な侵害であると考える」と大声で抗議した。結局、アダムズの抗議にも拘らず緘口令は117票対68票で認められた。アダムズが残念に思ったことは、自由州の半数以上の議員が南部とともに賛成票を投じたことである。その夜、アダムズは日記に「私が人生の最後の段階で手に入れた目標は奴隷制拡大の阻止であり、きっと私はその目的をこれ以上進めることはできない。その目的をまだ入り口に立ったままの状態に残して私の経歴は終わる。私ができることは他人のために道を開くことくらいだ。その目的は善良で偉大である」と記している。
アダムズは、マサチューセッツ州議会の決議と奴隷廃止論者の請願を手にして、緘口令を憲法で保障された言論の自由と請願の権利を侵害するものだとして強く非難し続けた。アダムズの長年の努力が実り、1844
年12月3日、遂に緘口令が撤廃された。
アダムズの存命中に奴隷制問題が根本的に解決されることはなかったが、早くも1836年5月に行なった演説の中でアダムズは「あなた方、奴隷を保有する諸州が、内戦であれ、奴隷との戦争であれ、外国との戦争であれ、その戦場になったその瞬間から、即座に憲法で認められた戦時権限ができる限りのあらゆる方法で奴隷制に対する干渉に拡大されるでしょう」ともし南部が戦場になった場合に奴隷制廃止が行なわれることを予言している。アダムズは戦時に政府が奴隷を解放する権利を初めて主張した下院議員である。後にチャールズ・サムナー上院議員はアダムズの見解をもとにして、戦争状態において奴隷を解放することができることを エイブラハム・リンカーンに示唆している。つまり、リンカーンの奴隷解放宣言の理論的基礎はアダムズの主張にあると言える。
アミスタッド号事件
1841年、アミスタッド号事件でアダムズは1809年以来、32年振りに弁護士として最高裁に立った。アミスタッド号事件の概要は以下の通りである。1839年2月、ポルトガルの奴隷商人がシエラ・レオネから一団の黒人を誘拐した。商人は黒人達を2人のスペイン人農園主に奴隷として売却した。農園主達は黒人達をアミスタッド号に乗せてキューバに運ぼうとした。7月1日、アフリカ人達が船を占拠し、船長と料理人を殺害したうえ、農園主達にアフリカに進路を戻すように要求した。8月24日、アミスタッド号はニュー・ヨーク州ロング・アイランド沖でアメリカ船に拿捕された。農園主達は解放され、アフリカ人達は殺人罪の嫌疑で収監された。殺人罪の嫌疑は棄却されたものの、農園主達が黒人達に対する財産権を主張したために、彼らの収監は解かれなかった。 マーティン・ヴァン・ビューレン大統領はアフリカ人達をキューバに送ることに賛同したが、奴隷廃止論者達はそれに反対した。1841年1月、アミスタッド号事件は最高裁に持ち込まれ、アダムズはアフリカ人達の弁護を務め、彼らの自由を取り戻すために尽力した。最終的に最高裁は、アフリカ人全員をアフリカに送還する裁定を下した。このアミスタッド号事件を後にスティーヴン・スピルバーグは映画『 アミスタッド』で描いている。
クレオール号事件
さらに1841年11月7日に起きたクレオール号事件でもアダムズは独自の立場を示した。クレオール号事件はアメリカ史の中で最も成功した奴隷反乱の1つである。ヴァージニア州ハンプトン・ローズから135人の奴隷を乗せてクレオール号がニュー・オーリンズに向けて出港した。船内で奴隷が反乱を起こし、船の針路を英領バハマのナッソーに向けるように要求した。11月9日、船はナッソーに到着し、奴隷達はバハマに上陸した。当時、既にイギリスでは奴隷制が撤廃されていたので、反乱を主導して逮捕された者達を除いて、111人の奴隷が解放された。南部人達は、合法的な沿岸貿易を阻害されたとしてイギリスを厳しく非難した。
1842年3月21日、下院はクレオール号事件への対応を協議し始めた。その際に、奴隷州は奴隷制問題について協議する排他的権利を持つという決議が提案されたが、アダムズはそれに強く反対した。こうした姿勢に警戒感を強めたジョージア州は下院外交委員長の座からアダムズを追うように請願した。また外交委員会に属する南部の議員達が委員会から身を引いた。アダムズの代わって別の議員を委員長に立てる動きがあったが失敗に終わった。しかし、次の会期でアダムズが外交委員長に指名されることはなかった。
スミソニアン協会
アダムズはスミソニアン協会設立に貢献している。その経緯は以下の通りである。1829年6月27日、ジェームズ・スミソンというイギリス人が亡くなった。スミソンの遺産は甥に相続されたが、6年後、その甥も亡くなった。そのためスミソンの財産は遺言に基づいて合衆国に与えられることになった。議会の審議を経た後、1836年7月1日、ジャクソン大統領はスミソンの財産の受け入れを認める法案に署名した。
元司法長官の リチャード・ラッシュが交渉のためにロンドンに赴いた。2年後、ラッシュはスミソンの遺産を手に入れて帰国した。議会はそのお金を諸州に貸し出した。しかし、アダムズはそれを科学の振興とために使うべきだと考えて、お金を連邦に取り戻すように求めた。その結果、1846年8月10日、ポーク大統領の手によってスミソニアン協会設立を認める法案が成立した。
スミソニアン協会設立のみならず、アダムズは大統領時代に第1次一般教書で国立天体観測所の建設を提案している。アダムズは「世界で最も完全な天体測候所」をアメリカに建設することを望んでいた。そうした努力の1つの成果としてアダムズは、1843年11月10日に行なわれたシンシナティの観測所の定礎式に参加している。歴史家サミュエル・ビーミスはアダムズを「フランクリンを除いて、アメリカの科学主義の前進に大いに貢献した人物はいない」と評している。
連邦議事堂で逝去
1846年11月、アダムズはボストンで友人と散策中に麻痺を引き起こす発作に襲われたが回復し、翌年2月16日の議会に復帰した。しかし、1848年2月21日、下院で米墨戦争に従軍した士官達に感謝の意を捧げる提案がなされた時に大きな声ではっきりと「否」と応じた数分後に再度の発作を起こし崩れ落ちた。開戦前からアダムズは米墨戦争に反対を唱えていた。病状が予断を許さなかったために、アダムズの身体は下院議長室に移された。2日後の午後7時20分、アダムズはそのまま同室で亡くなった。最後の言葉は、「これがこの世の終わりか。私は満足だ」であった。
アダムズの遺骸は故郷クインジーのファースト・ユニタリアン教会に葬られた。
勇気ある人々
ジョン・ケネディ大統領はその著『 勇気ある人々』の中でジョン・クインジー・アダムズを次のように評している。『勇気ある人々』は、1955年にピュリッツァー賞を受賞し、全米でベスト・セラーになった。
「ジョン・クインジー・アダムズは、われわれの政府やわれわれの生き方に忘れがたい足跡を遺したすばらしい血筋を代表する、最も偉大な人物の一人だからだ。清教徒は、世の中に対するアダムズの姿勢の形成に影響を与えた岩即ばかりのニューイングランドの田舎のように、厳格に、そしてかたくなに、アメリカ共和国の黎明期に対して意義と一貫性、そして特徴的な性格を与えたのだ。アダムズは創造主に対して感じている厳格な責任感を生活のあらゆる場面に持ち込んでいる。人間は神の姿に似せてつくられている、したがって自分も自己統治のために必要な優れた能力を持っている、と信じていた。清教徒は自由を愛し、アダムズは法律を愛した。州の権利と個人の権利との折合いがつくポイントを正確に見きわめられる天才だった。[中略]。たしかに祖国のために献身的な仕事ができる最高の才能を持つ人物の一人ではあったものの、アダムズには、普通ならその人柄に彩りを添え魅力を与えてくれるような個性が、ほとんど見当たらなかった。ただし、その人柄には、魅力と高潔さがあった。頑固一徹、不屈の信念の持ち主で、まわりの最な手強い敵がくだす評価よりもさらに厳しく自らを評価し、われわれの歴史に登場する偉大な政治家の中にあって比類のない誠実さを発揮し、どんなときにも、自らの良心と、両親やその戒めそして教訓に恥じない人間になるという心の奥底からの義務感を糧に前進する、そんな人柄だった。[中略]。『大衆に対する異常なほどの気づかいをしている振りをする、大衆の偏見に迎合する、大衆の情熱に奉仕する、そして目まぐるしく変わる大衆の意見に調子を合わせる』といった類の愛国者になることを拒否していた。その導きの星は、何年も前に父親が確立してくれた清教徒の政治家としての主義主張だった。それは『公職にある者は自分自身の欲望の召使でもなければ、世の人々の召使でもない。自らが崇める神の召使なのだ』ということだった(宮本喜一訳)」
総評
アダムズは自らが固く信奉する厳格な正義から、政治的配慮に基づく政策を採用することを好まなかった。それはアダムズが猟官制度を採用しなかったことからもよく分かる。こうしたアダムズの自他ともに厳格な姿勢は、ともすれば一般庶民を遠ざけているようにも見えた。それは父ジョンにも共通している。
アダムズは大衆の関心に迎合せず、しばしば妥協を好まず、自らが不正だと思ったことは全く遠慮することなく主張したので決して「政治屋」の資質に優れているわけではなかった。しかし、「国家の行為は、国益の排他的、かつ最優先の考慮により規定される」という自らの信念を貫き通した姿勢は、外交面での業績とともに高く評価されている。アダムズが推進しようとしたアメリカン・システムも形を変えて後の共和党に受け継がれ、19世紀後半の発展の礎となった。
イギリス生まれフランス育ち
ロンドンで生まれる
妻ルイーザ(1775.2.12-1852.5.15)は、イギリスのロンドンでジョシュア・ジョンソンとキャサリンの次女として生まれた。ファースト・レディの中で唯一の外国生まれである。父ジョシュアは商人で、ルイーザが生まれた時はアメリカからロンドンに渡っていた。
12年間のフランス生活
1778年、独立戦争の激化にともなってジョンソン一家はフランスのナントに移った。ジョシュアはそこで大陸会議やメリーランド邦から委託を受けて貿易に従事した。「我々は考え方、趣向、作法、言葉、そして服装すべてがフランスの子供そのものでした」とこの頃の様子をルイーザは述べている。ルイーザはフランスに滞在している間、ローマ・カトリックの学校に通った。
12年間、フランスで過ごした後、ジョシュアの領事就任を機にジョンソン一家はロンドンに戻った。ルイーザは歌がうまく、しばしば来客の前で歌声を披露したという。チョコレートが大好物であったために虫歯になって何本かの歯を抜かなければならなかった。代わりに義歯を入れていたのでいつも唇を固く閉じあわさなければならなかった。
娘達をアメリカ人と結婚させるほうがよいと考えるようになったジョシュアは娘達をロンドンの社交界から遠ざけるようになった。ルイーザは「我々はロンドンの街の真っ只中に住んでいましたが、我々はイギリスの社交界からほとんど遠ざけられていました」と記している。
出会いと結婚
出会いと交際
ジョン・クインジー・アダムズがジョンソン一家を訪れたのは1795年の秋頃であった。その頃、アダムズはオランダ公使を務めていた。夕食の後、余興としてルイーザは姉妹とともに歌を披露したが、アダムズは音楽が好きではなかった。娘達が歌を始めるとアダムズはすぐにその場を立ち去ったという。しかし、アダムズはそれから毎晩のようにジョンソン家に姿を現した。
ルイーザは将来の夫について、性格が冷徹で厳格過ぎるのではないかと思っていた。あるパーティーに招待された時に、ルイーザは流行のスーツを着用するようにアダムズに勧めた。求めに応じてアダムズは流行のスーツを着用してきた。スーツがよく似合っているとルイーザが誉めると、アダムズは服装について干渉するべきではないと怒りをあらわにした。「愛のバラの花輪の陰に隠された何か秘密の知られない不安」があるようにルイーザは感じたという。読書好きという点を除けば、2人の性格にほとんど共通点はなかった。アダムズは、ルイーザに読むべき本のリストを渡すと公務が待っているハーグへ戻った。
ルイーザは父が気を散らさずに勉強できるように借りた小さな家で読書に励んだ。「私自身と将来の夫との間に精神と才能の点で大きな隔たり」があるとルイーザは思うようになった。将来の夫はルイーザに勉学がどれくらい進んだかを書面で報告するように求めた。こうした試練はルイーザにとって「どうしようもなく味気なく、つまらなく、そして苦痛」となるものであった。2人の交際は書簡で続けられたが、ルイーザは自分から手紙を出さずに返書だけにとどめるようにしていた。そうした書簡のやり取りは14ヶ月も続いた。
突然の結婚
ロンドンにやって来たアダムズは、2週間以内に結婚式を挙げると突然、ルイーザに言い渡した。ポルトガル公使としてすぐに任地に向かう必要があったからである。しかし、大統領になった父ジョンからリスボンではなくプロシア大使としてベルリンに向かうように命じられた。
1797年7月26日、2人はロンドンのオール・ハローズ・バーキング教会で式を挙げた。2人の結婚は門出から暗雲が立ち込めた。ルイーザの父が破産したために、債権者がアダムズのもとにも訪れたからである。ルイーザは夫の尊敬をすべて失ったのではないかと心配した。結婚してから約4ヵ月後、ルイーザは夫ともにベルリンに旅立った。
ベルリン生活
公務に多忙なアダムズはルイーザをほとんど顧みなかったので、ルイーザはホームシックになり、部屋に閉じこもった。そのためプロシアの宮廷では、ルイーザがあまりに醜いので人目を避けているか、もしくは初めから存在しないでのではないかという噂が広まった。
幸いにもルイーザを劇場やコンサートで見かけた1人の伯爵夫人が友人となった。彼女はルイーザを国王夫妻に引き合わせた。それからルイーザが「流行生活の軽薄な期間」と呼んだ生活が始まった。ルイーザは舞踏会や晩餐会などに積極的に参加するようになったが、同伴者は夫ではなく義弟のトマス・アダムズであった。
夫婦はたびたびお金の問題で口論した。アダムズは義父の破産と持参金がなかったことを責めた。そして、ルイーザに質素に暮らすように求めた。そのためルイーザは舞踏会に着て行くドレスをほとんど自分で手縫いし、召使の数は最低限にとどめ、家具は中古品で済ませた。
アメリカに渡る
長男ジョージ・ワシントン・アダムズを産んで2ヶ月も経たないうちに、駐普アメリカ公使の任を終えた夫に同行してルイーザはアメリカに渡ることになった。ルイーザにとってアメリカはこれまで1度も目にしたことがない土地であった。またアダムズ家から「イギリス人の花嫁English
bride」と呼ばれていることも気がかりであった。
アメリカに着いたルイーザはマサチューセッツに向かった夫と別れてワシントンにあるジョンソン家に向かった。1801年の10月末、ようやくアダムズはルイーザと息子をワシントンまで迎えに来た。ルイーザと息子はアダムズ家で歓待されたが、それはルイーザにとってかえって逆効果であった。「私はありがたく感じたけれども、それは居心地の悪さを強く私に感じさせたので、しばしばご馳走を食べることができずに[アダムズ家の]気分を害したかもしれない」とルイーザは心境を語っている。
ワシントン生活
夫が連邦上院議員に選出されたためにルイーザは再びワシントンで生活することになった。夫に同行してしばしば大統領官邸で行われた晩餐会に出席している。 トマス・ジェファソン大統領の下でファースト・レディの役割を担っていた国務長官夫人のドリー・マディソンのもてなしを受けた。
連邦議会が休会期間を迎えると、アダムズは1人でマサチューセッツに帰り、ルイーザは子供達に加えて姉妹と母とともに暮らした。そのように1人で残されることがしばしばあった。
サンクト・ペテルブルグ生活
1808年、連邦党がアダムズから上院議員の議席を奪ったために、一家はマサチューセッツに住むことになった。しかし、1809年、マディソン大統領がアダムズを駐露アメリカ公使に任命したために、一家はロシアに向かうことになった。「この苦痛の中の苦痛で、野心は犠牲に報いることができるでしょうか。決してできないでしょう」と言っているように、ルイーザはロシア行きを快く思っていなかったが、夫は躊躇せずに公使職を引き受けた。
幼いチャールズ以外の2人の子供達を残してルイーザは夫に同行してサンクト・ペテルブルグに向けて旅立った。サンクト・ペテルブルグでルイーザは絶えず体調を崩していたが、アダムズはそれを心気症だと言って取り合わず、社交行事に同行するように求めた。
宮廷外交を円滑に進めるためには、ありとあらゆる行事に出席して情報を集めることが重要であった。ルイーザは夫の右腕として働いたが、それは非常に大変なことであった。ロシアの冬は長く、日課は次のように進められた。朝は11時に起床し、午後に夕食をとる。10時にお茶があり、それから翌朝4時までパーティーが続いた。毎晩、2つか3つのパーティーが必ずあった。
サンクト・ペテルブルグでルイーザは姉妹のキャサリンとともに散歩をすることが日課であった。その途中でロシア皇帝アレクサンドル1世とよくすれ違った。皇帝はキャサリンに目を留めたようで、1度などはキャサリンとダンスをしていたために晩餐会に遅刻したこともあったほどであった。キャサリンは宮廷に公式に参内したことはなかったが、アレクサンドルはすべての公式行事にキャサリンを招待するように命じた。スキャンダルを避けるためにルイーザとキャサリンは毎日の散歩を止めることにした。しかし、ゴシップ記事を見て皇帝が怒っているかもしれないと恐れた2人は散歩を再開することにした。皇帝は2人に行き逢うと、散歩の効用を語り、毎日、自分に行き逢うように命じた。こうした縁もあってアダムズ一家は特別待遇を受けることができた。1811年に娘ルイーザ・キャサリンが生まれた時などは、赤ん坊が静かに眠れるように家の近くの通行を禁じたほどである。またロシア皇后からペットとして蚕を送られたこともよく知られている。
娘の誕生は夫妻の間のわだかまりを解く契機となった。アダムズは妻について「忠実で愛情溢れる妻、そして我々の子供達にとって几帳面で優しく寛大で、そして注意深い母親」と述べている。
翌1812年はナポレオンがロシア遠征を行った年であった。フランス公使から退去するように勧められたがアダムズ一家は退去できなかった。娘の体調が非常に悪かったためである。懸命の看病の甲斐もなく、ルイーザ・キャサリンは夭折した。
この頃、本国では1812年戦争が勃発していた。アレクサンドル1世はアメリカに和平の仲介を申し出た。最終的に現ベルギーのガンで米英の和平交渉が行われることになった。それを取りまとめるためにアダムズはルイーザをサンクト・ペテルブルグに残して旅立った。ルイーザは和平交渉がまとまれば夫が帰ってくると思っていたが、その代わりに来たのはパリに来るようにという夫からの手紙であった。
パリに向かう
当時は女性が1人で旅をすることはあまりないことであったので、ルイーザにとってそれは驚きであった。しかし、ルイーザは家財を売り払い、紹介状や信任状、旅券などを準備し、馬車を購入した。1815年2月12日、一行はパリに向けて出発した。一行は、ルイーザと息子チャールズ、フランス人の召使と2人の武装した護衛であった。
道中は苦難の連続であった。アメリカ合衆国の旅券を示しても通じないことがしばしばあり、また携帯した食料品は凍ってしまい、馬車はしばしば大雪で立ち往生した。道中、敗北して帰還する途中のフランス軍の兵士の一群を多く目にした。危険を感じたルイーザは息子の玩具の剣を取り上げて馬車の窓に吊るし、護衛に銃を常に構えておくように命じた。ルイーザの姿を見た人々は、ナポレオンの姉妹がパリに向かって急いで逃げているのだと噂しあったという。幸い何事もなく一行は3月23日、パリに到着した。実に1800マイルにも及ぶ旅であった。
ロンドンに戻る
パリで夫と合流したルイーザであったが、数ヶ月もしないうちに今度はロンドンに移住することになった。アダムズがイギリス公使に任命されたためである。ロンドン西郊のイーリングに一家はそれから約2年間住んだ。
アダムズとルイーザは一緒に音楽を楽しむようになり、イギリスの田園地帯の散歩を楽しんだ。ルイーザは釣りを楽しむこともあったという。夫はまだ50才になる前であったが、太り過ぎで後退する髪に悩まされていた。そうした夫の姿をルイーザは「今と同じく、感じが好いようにもハンサムにも見えたことも1度もありませんでした」と述べている。
ワシントンの社交界
ジェームズ・モンロー大統領によって新たに国務長官に任命されたアダムズは、1817年6月15日、アメリカへ向けて出発した。国務長官という職は次期大統領への道を開くものであった。アダムズ自身は政治が好きであったが選挙運動に類するものは好まなかった。そのため次期大統領の椅子をめぐる運動にはルイーザの手腕が貢献した。
ルイーザは連邦議員の妻達のもとをしばしば訪れるだけではなく、自宅で彼女達をもてなした。アダムズは社交にはあまり向いていなかったが、ルイーザはできるだけ夫が笑顔でいるように取り計らった。ルイーザが週に1度開いた接待は好評を博した。連邦議会の会期中、毎週火曜日になるとアダムズ家に100名近くもの来客が押し寄せた。その場でルイーザはハープやピアノフォルテに合わせて自ら歌声を披露したり、夫が作った詩を朗読したりして来客をもてなした。
ある時は夫の政敵である アンドリュー・ジャクソンを招いて舞踏会を開いたこともあった。それはアダムズの新しい家をお披露目する機会でもあった。ルイーザ自身が誇るところによると、6組が同時にコティヨンを踊ることができたという。床には鷲の意匠が「ニュー・オーリンズの英雄を歓迎します」という言葉ともに描かれた。柱は月桂樹と冬緑樹で覆われた。さらに常緑樹やバラの花輪が様々なランプとともに飾り付けられた。これほどの盛会はマディソン夫人が去って以来、ワシントンでは絶えてなかった。
ホワイト・ハウス
ルイーザはホワイト・ハウスが自分にとって牢獄になるだろうと予言していた。先代のファースト・レディであるモンロー夫人と同じく、ルイーザは外部からの招待に応じなかった。また客の招待を週1回の晩餐会と2週間に1回の接見会、そして新年祝賀会に限った。アダムズ一家はほとんどの夜を彼らだけで過ごした。招かれざる客を帰すことはなかったが、客のほうが寒々しいホワイト・ハウスに辟易して引き返すことも珍しくなかったという。「この大きな非社交的な家にある何かが私の精神を表現し難く圧迫し、くつろぐことができませんし、家族がどこかにいると思えるようになれません」と語っているように、ルイーザ自身もホワイト・ハウスの寒々しい様子を嫌っていた。
ファーストレディとして務めた4年の間、ルイーザは胸痛やしつこく続く咳などに悩まされ神経症と診断された。そのため自室に閉じこもって詩や戯曲を書いたりして時間を過ごした。チョコレートの愛好は相変わらずで、そのために自分の歯をすべて失っていた。
アダムズの再選が難しいと分かった時、ルイーザはただ「我々皆が上機嫌です」と言うのみであった。さらに最後の接見会が終わった時に「もう嘆き悲しむことも歯軋りをすることもない」と述べている。
政権終了後
奴隷制廃止に目覚める
ニュー・イングランドの冬を嫌ったルイーザはワシントンにある農家に留まった。夏になると夫はマサチューセッツに帰ったが、ルイーザはまだワシントンに留まっていた。息子ジョージの死を悼んでいたからである。ようやくルイーザがクインジーに戻ったのは1829年9月3日に行われた3男チャールズの結婚式の後である。
奴隷制の是非をめぐる議論が高まる中、ルイーザは最初の女性奴隷制廃止論者として知られるアンジェリーナ・グリムケとサラ・グリムケから大きな影響を受けた。ルイーザは奴隷制廃止と女性の権利擁護を強く心に抱くようになった。
夫の死後
1848年に夫が亡くなった後、ルイーザも4月に脳卒中を患った。それでも引き続き ザカリー・テイラー大統領や ミラード・フィルモア副大統領などの招待客と奴隷制問題を論じたという。1852年5月25日、ワシントンで亡くなり、クインジーの墓所で眠る夫の傍らに葬られた。3男チャールズは母について「彼女はたくさん書き、仏文学と英文学をたくさん読み、そして友達の楽しみのために前者から翻訳を行った。彼女は同じように韻文をしばしば書いた。彼女は老齢まで生きたが、健康状態は常に細心の注意が必要で変わりやすかった。そのため彼女の人生の行き先は邪魔され、社交界、特にヨーロッパの異なった宮廷で過ごした12年間で必要とされる努力を挫かれることがあった」と評している。
3男1女
ジョージ・ワシントン・アダムズ
ジョージ・ワシントン・アダムズ(1801.4.13-1829.4.30)はベルリンで生まれた。祖父 ジョン・アダムズは「ジョージはダイヤモンドの宝庫だ。彼は何にでも等しく才能を持っているが、その他の才能が最も慎重な管理が必要なように、才能が偏らないように気をつけなければならない」と評している。祖父からも父からも将来、同じく国政に携わるものとして将来を嘱望された。それだけに父の薫陶は厳しかった。ジョン・クインジーは「息子達は彼らの栄誉だけではなく先の2世代の栄誉も維持しなければならない」と語っている。
ジョージは家庭教師の教えを受けて、祖父と父と同じくハーヴァード大学に進学した。ジョージ自身は詩や文学に関心を抱いていたが、父はそれを全く認めようとしなかった。大学では若き日のラルフ・エマソンを破ってボイルストン賞を得たり、学生暴動に関与したり活発な学生生活を送った。1821年にハーヴァード大学を卒業したジョージは、ボストンのダニエル・ウェブスターの下で法律を学んだ。そして1824年、マサチューセッツの法曹界に入った。ジョージの絶頂期は1826年にマサチューセッツ州議会議員に選ばれた時であった。
ジョージは父がいるホワイト・ハウスを度々訪問している。その際にホワイト・ハウスで被後見人として暮らしていた親類のメアリ・ヘレンに好意を持ち、父の許しを得て婚約に至った。その際に弁護士業に4,5年は専念する約束を交わしたので、ジョージはボストンで仕事に励んだ。しかし、ジョージが不在の間に、メアリはジョージの弟ジョン・アダムズ2世と結婚するために婚約を破棄した。それ以後、ジョージは全く意欲を失ってしまい、仕事を怠り始めた。その結果、莫大な負債を抱えたばかりではなく、酒に溺れるようになった。ジョン・クインジーは息子の負債を生産する一方でアルコールやタバコ、その他の不道徳を止めるように促したが返事を得ることはできなかった。ジョン・クインジーにとって「我が息子ジョージに関することが最も耐え難い悩み」であった。
1829年、ワシントンを訪問した帰途、ジョージは汽船に乗った。精神を病んでいたジョージは船上で自分のことを監視する人々の声が聞こえると語ったという。4月30日午前3時頃、ジョージは船長に船を停泊させて自分を下船させるように要求した。その後、ジョージの姿が見えなくなった。行方不明になったジョージは暫くしてからニュー・ヨーク州のシティ島で死体になって見つかった。発作的に船から飛び降りたと推定されている。
死後、ジョージが婚外子をもうけ二重生活を送っていたことが分かった。近隣では知られていたことであったが、アダムズ家にとっては驚きであった。これに目を付けた者が、事実を公表しない代わりにお金を渡すように恐喝した。ジョージの弟チャールズ・フランシスが一家を代表して要求を拒絶したので、暴露を目的にしたパンフレットが公表されてしまった。母ルイーザは息子がアダムズ家の政治的野心の犠牲になったと常々思っていたという。
ジョン・アダムズ2世
次男ジョン・アダムズ(1803.7.4-1834.10.23)はクインジーで生まれた。家族とともにイギリスに渡った後、1817年に帰国してハーヴァード大学に進学する準備を始めた。1819年、ハーヴァード大学に入学したが成績は平均よりも下であった。そのためジョン・クインジーは「お前の成績に悲しみと恥以外に私は感じられない」と叱責し、クリスマス休暇に実家に帰る許可を息子に与えなかった。叱責を受けてジョン・アダムズ2世は平均以上に順位を上げたがそれでも父を満足させることはできなかった。ジョン・クインジーは息子に、5位かそれ以上の成績をおさめなければ、卒業式に出席するつもりはないと伝えた。しかし、卒業直前の1823年、学生暴動に関与した咎で他の学生とともに放校処分になった。
大学を去ったジョン・アダムズ2世はホワイト・ハウスで父の秘書として働き始めた。その際に、議会の予算で購入するホワイト・ハウスの家具リストに誤ってビリヤード台を入れるという失態を犯している。当時、ビリヤードは賭博を連想させるものであり、不道徳なものだと思われていた。それ故、敵対する新聞から厳しい非難を受けている。
1828年2月25日、親類のメアリ・ヘレンとホワイト・ハウスで結婚した。新婚生活もホワイト・ハウスで送り、子供にも恵まれた。しかし、その平穏も長くは続かなかった。
1828年の大晦日に行われた式典で、大統領がラッセル・ジャーヴィスを侮辱したことがきっかけで決闘騒ぎが起きた。大統領に対して決闘を挑むことはできないとしてジャーヴィスはジョン・アダムズ2世に代わりに決闘を申し込んだ。決闘の申し込みを無視されたジャーヴィスは、連邦議会議事堂でジョン・アダムズ2世の行く手を遮り、鼻を引っ張ったうえに顔を叩いた。いわゆる「鼻引っ張り事件nose-pulling incident」である。下院は事件の調査を行い、ジャーヴィスに対する非難を発表したが処罰はしなかった。
その後、ジョン・アダムズ2世は一家が所有する製粉所の経営に従事した。しかし、この事業が破綻したいせいでジョン・アダムズ2世は酒に溺れるようになった。健康を害したジョン・アダムズ2世は1834年にワシントンで亡くなった。ルイーザは長男ジョージの時と同じく、次男もアダムズ家の政治的野心の犠牲になったと夫を非難した。
ちなみにジョン・アダムズ2世の長女メアリは、又従兄弟のウィリアム・クラークソン・ジョンソンと1853年6月30日に結婚した。これは判明している限りでは、2人の大統領の子孫同士が結婚した最初の例である。つまり、新婦メアリはジョン・アダムズの曾孫であると同時にジョン・クインジー・アダムズの孫娘にあたり、新郎ウィリアムはジョン・アダムズの曾孫にあたるからである。
チャールズ・フランシス・アダムズ
チャールズ・フランシス・アダムズ(1807.8.18-1886.10.21)はボストンで生まれた。そして、幼少時に家族とともにロシアとイギリスを訪れ、流暢なフランス語を覚えた。1815年には母とともに、ナポレオンの凋落で混乱する中をロシアからおパリまで移動している。イギリスやボストンで学校に通った後、ハーヴァード大学に入学した。1825年に同校を卒業した後、長兄と同じくダニエル・ウェブスターの下で法律を学んだが弁護士の道に進まなかった。
1829年9月3日、チャールズは富裕なボストン市民の娘アビゲイル・ブルックスと結婚した。結婚を機に執筆業や編集業に専念した。『ジョン・アダムズ著作集』と『ジョン・クインジー・アダムズ回想録』などの編著にも携わっている。奴隷制の急進的な廃止論者であり、ボストンの公共交通機関における人種差別撤廃を支援した。1837年には『通貨の現況に関する考察』を発表した。
1840年から1845年にかけて、チャールズはマサチューセッツ州議会議員として活躍し、奴隷制廃止運動の急先鋒として頭角を現した。さらに1848年、民主党から分裂した自由土地党の副大統領候補に指名された。しかし、自由土地党の大統領候補となった元大統領 ヴァン・ビューレンが ザカリー・テイラーに敗北したために、チャールズの副大統領就任はかなわなかった。
1858年、今度は連邦下院議員に当選したが、チャールズは奴隷制廃止論について沈黙を守り、「寡黙なチャールズ」という渾名を付けられた。下院議員を務めた後、1861年から1868年にかけて祖父と父と同じくイギリス公使として活躍し、トレント号事件やアラバマ要求など諸問題を解決し、南北戦争中にイギリスが南部を支持しようとする動きを阻止した。
帰国後、1872年と1876年の2度にわたって共和党の大統領候補として有力視されたが、指名を獲得することはできなかった。政界から引退したチャールズは1886年、ボストンで亡くなった。
ルイーザ・キャサリン・アダムズ
サンクト・ペテルスブルクで生まれた長女ルイーザ(1811-1812)は夭折した。
脈々と続く血筋
ジョン・クインジー・アダムズ2世
孫ジョン・クインジー(1833.9.22-1894.8.14)は、南北戦争に従軍して大佐となった。マサチューセッツ州議会議員を務め、小政党の副大統領候補指名を受けた。知事選挙に何度も出馬したが当選することはできなかった。
チャールズ・フランシス・アダムズ・ジュニア
孫チャールズ・フランシス・ジュニア.(1835.5.27-1915.3.20)は、南北戦争に従軍して中佐に昇進した。また志願兵部隊の名誉進級准将になった。ユニオン・パシフィック鉄道の社長となっただけではなく、歴史家としても名を残した。マサチューセッツ州の鉄道委員会を組織した。チャールズ・フランシス・ジュニアが組織した鉄道委員会は、各種規制委員会の模範となった。1884年にユニオン・パシフィック鉄道の社長に就任した。その後、郷里に帰って教育改革に尽力した。
主著に『政治における個人主義』、『チャールズ・フランシス・アダムズの生涯』などがある。
ヘンリー・ブルックス・アダムズ
孫ヘンリー(1838.2.16-1918.3.27)も『ヘンリー・アダムズの教育』、『ジェファソン・マディソン政権期の合衆国史』などを著し、文筆家・歴史家として名を残している。また明治期の日本を訪れたことでも知られている。
ピーター・シャードン・ブルックス・アダムズ
同じく孫ブルックス(1848.6.24-1927.2.13)は、優れた歴史家として、抑制なき資本主義の害悪を批判し、アメリカの凋落を予見した。また1950年までにはアメリカとソ連が世界の二大強国になると早くから指摘している。主著に『文明と腐敗の法則』、『アメリカの経済的優位』、『社会革命理論』などがある。こうした著作は セオドア・ルーズベルト大統領の目にとまり、アダムズは顧問として重用された。アダムズはルーズベルトに、帝国主義的拡張主義と国内の実業界に対する規制を提言した。
チャールズ・フランシス・アダムズ3世
さらに曾孫(ジョン・クインジー・アダムズ2世の3男)チャールズ・フランシス3世(1866.8.2-1954.6.10)は、フーバー政権で1929年から1933年にかけて海軍長官を務め、1930年のロンドン海軍軍縮会議の成功に貢献した。
様々な趣味
アダムズはワインのテイスティングで名を知られていた。ある日の夕食の後、アダムズは14種類のマデイラの中で11種類を識別したという。
アダムズは演劇鑑賞が趣味の1つであり、辛辣な批評を手紙に書くことも度々あった。演劇鑑賞が好きになったのはパリでオペラを鑑賞して以来である。学生時代にはダンスや歌、フルート演奏なども楽しんだ。「私は音楽が特に好きです。大変苦労して下手ですがフルートを吹くことを学びました」と述べている。また古典を読むことが好きで、自らラテン語から英語に翻訳した。天文学を学ぶことも好んだ。
散歩と水泳
アダムズは健康法として毎日散歩を欠かさなかった。夜明け前にホワイト・ハウスから議事堂まで歩くのが日課であった。歩く速さは大統領になるような年齢の人物のものとは思えないほどだったという。
暖かい季節にはポトマック川で水泳を楽しんだ。たいていはゴーグルとキャップを着用しただけで泳いでいた。1時間で約1マイルの距離を泳いだ。突風で溺れかけたこともあった。記録によると最後に川で泳いだのが80歳だという。
ビリヤード
アダムズはビリヤードを楽しんだ。ホワイト・ハウスに最初のビリヤード台を備え付けたのもアダムズである。
女性記者の妙計
アメリカ史上初の女性ジャーナリストであるアン・ロイアルは、アダムズに何度も何度もインタビューを申し込んだがその度に断られていた。そこでロイアルはアダムズより記事をとるために一計を案じた。
朝5時にアダムズを尾行してポトマック川にやってきたロイアルは、川岸に脱ぎ捨てられたアダムズの衣類を手早く集め、その上に座り込んだ。そして、「こっちに来て下さい」と遊泳中のアダムズに叫んだ。
驚いたアダムズは岸に戻って「君は何がしたいのだ」とロイアルに聞いた。ロイアルは「私はアン・ロイアルです。あなたから国営銀行問題についてインタビューをとりつけようと数ヶ月もの間、あなたに会おうとしてきました。ホワイト・ハウスに直撃しても入れてもらえませんでした。だから私はあなたの行動を監視して今朝、官邸からここまであなたを尾行しました。私はあなたの服の上に座っています。私のインタビューを受けるまであなたは服を取り戻すことはできません。インタビューを受けて下さるか、残りの人生をずっとそこで過ごしたいか、さあどうしますか」と答えた。
アダムズはなす術もなく「川から出て服を着させて下さい。そうすればあなたのインタビューを受ける約束をします。私が身支度をする間、そこの藪に隠れていて下さい」と答えた。
ロイアルはアダムズの答えに満足せずに「いいえ、それはできません。あなたは合衆国大統領であり、この銀行問題に関してあなたの意見を知りたいと思い、知るべきである数百万の人々がいます。私はその答えを得るつもりです。もしあなたが川から出て服を取り戻そうとしたら、私は悲鳴を上げます。そうすればすぐにも3人の漁師がその角に現れるでしょう。インタビューを受ける前に川から出ることはできません」と重ねて言った。
結局、ロイアルは、アダムズからインタビューを取り付けることに成功し、史上初めて大統領にインタビューした女性となった。またアダムズは泳いでいる最中に服を盗まれてしまい、通りがかりの少年にホワイト・ハウスまで代わりの服を取りに行くように依頼したこともあったという。
政敵への追悼の言葉
かつての政敵 アンドリュー・ジャクソンが亡くなったことを知ったアダムズは日記に「ジャクソンは英雄で、殺人者で、密通者で、そして、非常に敬虔な長老派で、彼の人生の最後の日々で世間の前で私を裏切り中傷した」と記している。
エマソン評
1838年7月15日、ラルフ・エマソンはハーヴァードの神学校でいわゆる「神学校演説」を行なった。その演説は超越主義の片鱗が現れていたことで有名である。アダムズは公にはエマソンの演説に何もコメントをしなかったが、日記に「常軌を逸した演説と弁説」であり、エマソンが「教派の創設者たらんと野心を抱き、新たなお告げが緊急に必要だと考えた」と記している。アダムズにとってエマソンの思想は、「議論を巻き起こすことでキリスト教会の破滅」をもたらすものに他ならなかった。
一方、エマソンは「元大統領ジョン・クインジー・アダムズは、その時代で最も優れた朗読者の1人だと言える。そのような力強い調子で聖書を読む者は他に聞いたことがない。彼の素晴らしい声が加齢によって大いに損なわれるまで、彼が公衆の面前で演説するのを聞いたことがなかった。しかし、ひび割れた言うことをきかない器官で、若い時のような力強さを示すという驚異を彼は成し遂げていた」と評している。
伝統的な宗教観
外交官としてロンドンに滞在している時に出席したパーティーで若い陸軍将校が急死した。それを見たアダムズは、「この世の楽しみが儚く空虚である」と感じ、カンタベリー大司教であったジョン・ティロットソンの説教集をよく読むようになったという。ティロットソンの説教は非常に実践的な神学で、人類がお互いに親切にし合うことが重要だと説いていた。
病気になって視力を失い、その後、回復した時にアダムズは宗教的著作に向き直った。そして、両親に手紙で「彼らの信心深い導きのお蔭で、人生において不義の誘惑に直面しても信仰から離れずにすみました」と述べている。
国務長官時代にアダムズはアメリカ聖書協会の会長を引き受けている。ユニタリアニズムの主張と福音主義の主張の不一致に危惧を抱いていたからである。アダムズはリベラルなユニタリアニズムと偏狭な原理主義を快く思っていなかった。
科学振興を唱えたことからアダムズは宗教に対して革新的であるように思われるが、宗教や慣習に関しては非常に伝統的な見解を持っていた。アダムズは「私自身の原罪は神の御前でどのくらい責任を負うべきものなのか」と問いかけている。そして、「祈りを聞いて下さる神がいましますこと、そして神に対する誠実な祈りは無駄ではないと私は信じている」と述べている。晩年、アダムズは、「神よ、私が年老いて、白髪となるとも、あなたの力を来たらんとするすべての世代に宣べ伝えるまで、私を見捨てないで下さい」という詩篇71章18節を繰り返し読んでいたという。
就任演説(1825.3.4)より抜粋 原文
人間の諸権利の理論に関する実験の大いなる結果が、実験を行っていた前世代の終わりに、実験を始めた人々の最も楽観的な期待と等しいほど、成功を収めているのを見ることは私にとって喜びと励みの源です。連帯、公正、静謐、共同防衛、一般の福祉、そして自由の恩恵―それらすべては、その下で我々が生きている政府によって増進されています。現時点で今まさに去り行き現世第に道を譲ろうとしている前世代を振り返ってみると、我々はすぐに歓喜と明るい希望にひたることができるかもしれません。過去の経験から、我々は未来に対する教訓を引き出すことができます。二大政党が我が国の世論と感情を二分していますが、率直で公正な者は、我が政府の形成と統治に素晴らしい才能、非の打ち所がない尊厳、熱烈な愛国心、そして公平無私な犠牲を双方が捧げていることを認める一方で、双方が人間の欠陥や過ちの一部を自由に発散する必要があることもということも認めるでしょう。ヨーロッパの革命戦争は、正確には合衆国政府が初めて現行憲法の下で機能した瞬間から始まっています。それは、国家が戦争に巻き込まれ連帯の根幹が揺るがされるまで、すべての情熱に火をつけ党派抗争を激化させる心情と共感の衝突を生じさせます。試練の時は25年もの期間を費やしていますが、その期間は合衆国の対ヨーロッパ政策が、我が連邦政府の行動において最も困難なこととなり、政治的党派の基礎を成した時期でした。フランス革命戦争は破局を迎える一方で我々はイギリスと持続的な平和を保ち、有害な党派抗争の種は除かれました。その時から、政治理論や外国との関係に関連する原理の違いは存在せず、政党の継続的な連帯を維持するのに十分な原理の違いは生じず、もしくは健全な活気を世論や議会の議論に著しく与えるのに十分な原理の違いが生じていません。異議を唱える声もなく、我々の政治的信条は、人民の意思が基であり、人民の幸福が地球上のすべての合法な政府の目的であるということです。恩恵の最善の保障と権力濫用に対する最善の防護は、一般選挙における自由性、純粋性、頻度に存します。連邦政府と各州政府はすべて限定された権限を持つ主権であり、同じ主人に仕える召使であり、各々の領域で掣肘されず、相互の侵害によって掣肘され得ません。平和の最も確かな保障は、平和な時に戦争の砦を準備しておくことです。活気ある経済と明朗な公的支出は、税の負担の増大に対する防壁であり、可能であれば税の負担を軽減します。軍隊は文民の権威に厳格に従うべきです。出版の自由と宗教的意見の自由は侵害されるべきではありません。我が国の指針は平和であり、我々の連帯を救済する箱舟は我々が今、すべての点で一致している信念を条件とします。もし連邦議会制民主主義が、強国の一般的な問題に賢明に秩序正しく対応することができる能力を持った政府であるかどうかについて疑問を持つ者がいるのであれば、そうした疑問は解消されるでしょう。もし連邦の瓦解のうえに部分的な連合を樹立する計画があれば、それは風に散らされてしまうでしょう。もし外国に危険な愛着や敵対心があるのであれば、それは消えてしまうでしょう。国内外における10年間の平和は政治論争の敵意を和らげ、世論の最も不調和な要素に調和をもたらしています。これまで政党の規範に従ってきた国中の人々は、依然として寛大であるように努め、偏見と情念を放棄しようとしています。原理をめぐる論争の際に党員の記章を身に付ける者にのみ与えられる確信は、互いにあらゆる遺恨の名残を捨て、お互いを同胞かつ友人と見なし、才能と美徳のみに従うことによって得られるのです。
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