ウィリアム・クロフォード財務長官 |
ウィリアム・クロフォードの経歴については、マディソン政権のウィリアム・クロフォード陸軍長官を参照せよ。
1816年、民主共和派の間ではクロフォードの大統領候補指名獲得が有力視されたが、クロフォード自身は出馬を拒否しモンロー支持を表明した。それにも拘わらずクロフォードはモンローに次ぐ票数を獲得した。
クロフォードは、その当時、最大の省庁であった財務省の組織改革を行った。新しい行政監査制度を導入し、財政管理の厳格化を図った。また財務省の経費が組織の効率化によって著しく節減された。
クロフォードはモンローの最有力後継者と目されたが、1823年秋に病に倒れた。病状は順調に回復し、1824年2月に行われた党大会で68票中64票を獲得した。しかし、261人の代表が党大会に欠席したため、候補指名は実質的な意味を持たなかった。多くの代表が欠席した理由は、党大会における候補指名過程が非民主的だという批判が高まったためである。クロフォードは健康に関する不安材料を払拭できず、本選では3位に終わった。当選したジョン・クインジー・アダムズ大統領はクロフォードを慰留しようとしたが、クロフォードはそれを断ってジョージアに帰り、州上級裁判所の判事を務めた。1834年、ジョージア州エルバート郡の友人宅で亡くなった。 |
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