大統領選挙
ジェームズ・ポークは1期で大統領を退任することを約束していたので1848年の民主党の大統領候補には南部の拡張論者に宥和的なルイス・キャスが選ばれた。ホイッグ党は
ウィリアム・ハリソンの先例に倣って戦争の英雄であるテイラーを大統領候補に指名し、副大統領候補としてフィルモアを指名した。
その一方で奴隷制度廃止論者を中心にして北部で結成された自由土地党はヴァン・ビューレンを大統領候補に指名した。1844年に奴隷制度問題は民主党を分裂の危機に立たせたが、妥協策としてポークが大統領候補に選ばれることで危機はひとまず回避された。しかし、米墨戦争の勝利は同様の妥協を不可能にした。1848年、民主党を1つにまとめあげてきた
ヴァン・ビューレンは民主党を離れて第三政党の自由土地党から大統領選挙に出馬した。ヴァン・ビューレンは結局、一般投票で僅かに10パーセント程の得票を占めたにすぎなかったが、民主党候補のキャスから票を奪う結果となった。その結果、テイラーがニュー・ヨーク州を制し、大統領選挙に勝利した。
テイラーはおそらくヴァン・ビューレンの立候補がなくても勝利を収めただろう。しかし、自由土地党は多くの州の選挙に影響を与える十分な票を得た。ヴァン・ビューレンの選挙運動によって民主党とホイッグ党は奴隷制度問題を無視することができなくなった。10年も経たないうちに、ジャクソニアン・デモクラシーの時代を支配してきた党組織が崩壊し、新しい政治的連立が出現することになる。
民主党は南部に強固な地盤を持っていたために奴隷制度問題や南北戦争にも拘わらず生き残った。しかし、1848年の大統領選挙における勝利はホイッグ党が収めた最後の政治的勝利となった。テイラーは就任演説で行政府の権限について否定的な見解を示した。それはホイッグ党の原理に従うものであった。しかし、テイラーは政権半ばで死去したために就任演説で示した見解を実現することはできなかった。
1850年の妥協
奴隷制度をめぐる争いとジャクソン主義者の遺産は、大統領が無干渉でいることを不可能にした。テイラーが1850年の妥協に反対したことは注目に値する。カリフォルニアを連邦に加入させる際に自由州として加入させるか、奴隷州として加入させるかをめぐって北部と南部が激しく対立した。カリフォルニアは人民投票で奴隷制度を禁止する憲法案を採択していた。最も過激な奴隷制度擁護派でさえも奴隷制度は州の問題であると考えていたが、カリフォルニアが自由州として連邦に加入する動きに警戒感を高めた。
1849年12月に開会した下院は奴隷制度をめぐって激しい派閥対立が吹き荒れた。そのために下院議長を選出するだけでも63回の投票が行われた。テイラーはカリフォルニアを自由として連邦に加入させ、奴隷制度に関係なくニュー・メキシコ準州とユタ準州を設置するように議会に勧告した。そうした勧告に抗議する南部の議員に対してテイラーは、もし南部が連邦から脱退しようとする動きがあれば、自ら軍を率いて阻止すると述べた。南部の連邦からの脱退を防止するためにクレイは妥協案を議会に提出した。クレイの妥協案は、カリフォルニアの連邦加入を認めること、奴隷制度に関係なくニュー・メキシコ準州とユタ準州を設置すること、厳格な逃亡奴隷取締法を制定すること、そして、コロンビア特別行政区で国内奴隷貿易を廃止することである。
テイラーは自身も奴隷を所有していたが、奴隷制度の拡大に反対していた。テイラーは、奴隷制度は南部では経済的に必要性があるが、それは西部のフロンティアでは適用されないと考えていた。そのためテイラーは、メキシコからの割譲地において奴隷制度に何の規制も設けず、さらに厳格な逃亡奴隷取締法を制定するという妥協に反対した。カリフォルニアを自由州として連邦に加入させるのは当然のことであり、妥協は必要ではないとテイラーは考えたのである。1850年の妥協を成立させようと議会は準備していたが、テイラーは奴隷制度の拡大を認めるいかなる措置にも拒否権を行使する姿勢を示した。テイラーの反対は南部の奴隷主を激怒させた。それでもテイラーは脱退を仄めかす南部に対して強硬な姿勢を保った。
クレイトン=バルワー条約
テイラー政権はイギリスとクレイトン=バルワー条約を締結した。同条約によって次のように定められた。中央アメリカに建設される運河を中立とし、両国は絶対的な管理権を行使しない。両国は運河に要塞を設けない。両国は中央アメリカのいかなる領域も占領せず、植民地化しない。最後の条項は非常に曖昧であったので、解釈の余地を残し、民主党は、イギリスのホンジュラスやその他の既存の植民地に対する領土主張を認めるものだとして批判した。事実、イギリスは条約が遡及的効果を持たず、さらなる植民地化を禁止しているだけであると解釈した。それに対してタイラー政権は、過去も未来もすべての植民地化を禁止していると考えた。
ガルフィン問題
テイラー政権はガルフィン問題と呼ばれるスキャンダルに巻き込まれた。ガルフィン家は、先祖の遺産をめぐって合衆国に数十年にわたって補償を求めてきた。テイラーが大統領に就任する前、ガルフィン家は補償を受けたが、さらに19万1,000ドルの利子の支払いを求めた。財務長官はその要求に従って全額を支払った。ガルフィン家に対する支払いについて大統領と閣僚が考えている一方で、ジョージ・クローフォード陸軍長官は、ガルフィン家の利害を長年にわたって代表し、補償で得た利得の半分を受け取る約束をしていた。クローフォードの関与が明らかになるとテイラー政権に非難が寄せられた。テイラーと閣僚はクローフォードの関与についてまったく知らなかったが、民主党は利益相反を批判し、大統領の弾劾を仄めかした。テイラーは閣僚の再編を決意したが、その前に死去した。
結語
ワシントンで1850年7月4日に開かれた祝典に参加したテイラーは多くの氷水や冷やしたミルク、さくらんぼを食べた。その頃、コレラが流行していたので人々はそうした食べ物を口にするは危険だと警告していた。それから5日後に訪れたテイラーの死は異常だと思われ、毒を盛られたという噂は長期間、消えることがなかった。1850年の妥協に反対していたテイラーの死によって、1850年の妥協が成立する道が開かれたのは確かである。タイラーが訴えていた胃の不調は砒素中毒であると考える者もいた。祝典の際にタイラーが演説を聞いている間に飲食物に砒素を盛られたというのである。1991年にテイラーの子孫の許可によってテイラーの遺骸が掘り起こされた。遺骸から組織のサンプルが採取され検査を受けた結果、砒素による毒殺説は打ち消された。