ピーター・ポーター陸軍長官 |
ピーター・ポーター(1773.8.4-1844.3.20)は、コネティカット植民地サリスベリーで生まれた。1791年、イェール大学を卒業し、コネティカット州リッチフィールドで法律を学んだ。ニュー・ヨーク州カナンデーグアに移り、1795年に開業した。1797年、オンタリオ郡の書記官に任命された。
1801年、ニュー・ヨーク州議会議員に当選した。1804年のニュー・ヨーク州知事選挙ではアーロン・バーを応援したが、バーが対立候補に敗れたためにオンタリオ郡の書記官の職を失った。その後、ナイアガラ付近の土地投機に従事した。
1808年、ポーターは連邦下院議員に当選した。下院議員としてポーターはニュー・ヨーク州を横断して大西洋と五大湖を結ぶ運河の建設を提案した。また下院外交委員会の長を務め、タカ派の1人として知られるようになった。
1812年戦争の際はニュー・ヨーク州民兵の主計総監としてナイアガラ方面の軍事作戦に携わった。1813年7月11日、イギリス軍の部隊がポーターの自宅があるブラック・ロックを襲撃した。ポーターは危ういところで難を避け、民兵やセネカ族を糾合してイギリス軍を撃退した。その結果、志願兵とネイティヴ・アメリカンからなる旅団の指揮がポーターに委ねられた。ポーター率いる旅団はナイアガラ川を渡河する軍に加わった。7月5日、ナイアガラの滝付近のチッパワでカナダ民兵を急襲して追い払った。7月25日、ランディーズ・レーンでの交戦では敵軍の猛攻を撃退した。ポーターの旅団はエリー砦の包囲にも参加した。8月15日のイギリス軍の夜襲を撃退し、翌月17日には大砲の鹵獲にも貢献した。こうした活躍が認められてポーターは民兵隊の少将に昇進した。州議会からは剣が贈られ連邦議会からは金のメダルが授与された。1812年戦争に従軍した民兵隊の士官の中でこのような栄誉を受けたのはポーターただ1人である。
1814年、ポーターは郡中にありながら連邦下院議員に当選した。また翌年、ニュー・ヨーク州知事はポーターをニュー・ヨーク州務長官に任命した。ポーターは連邦議会の閉会中の間、州務長官を務めた。1816年、モンロー大統領はポーターを北西部境界委員会の一員に任命した。北西部境界委員会は、セント・ローレンスから五大湖西部までの英米の国境を画定するために設立された委員会である。1818年、ポーターはヴァン・ビューレンの勧めに従ってニュー・ヨーク州知事選挙に出馬したが惨敗した。
ポーターはブラック・ロックで自らの事業を再開したが、1827年、ニュー・ヨーク州議会議員に再び当選した。しかし、長年、親交があったヘンリー・クレイ国務長官から陸軍長官就任を打診され受諾した。
陸軍長官としてポーターは、ネイティヴ・アメリカンのミシシッピ川以西への移住を推進した。退任後はブラック・ロックに戻り自らの事業に専念した。1836年にナイアガラ・フォールズに移り、1844年、同地で亡くなった。 |
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