革新主義の勃興
1790年には400万人にも満たなかった人口は、1890年には約6,300万人に達した。1790年には人口5万人に達する都市さえ1つもなかった。また人口100万人以上の都市が登場したのは南北戦争以後である。1890年には人口100万人の都市が3つも登場している。その中の一つであるシカゴは1870年から1890年までに人口は5倍以上になった。
特に19世紀の最後の30年間において、アメリカ人の生活における主要な変化が連邦政府、特に大統領に重荷を課した。単に人口が増加しただけではなく都市化と移民の流入が著しく進んだ。さらにそうした変化は、地方の小規模な製造業や商業から大規模な工場による製造業や全国的な規模の企業への経済的移行を伴った。技術的革新は新たな市場と資本を求めるようになり、急速な近代産業化は前例のない経済成長をもたらした。1863年から1899年の間の工業生産指数は700パーセント以上も上昇した。1890年のアメリカの実質国民総生産は南北戦争が終結した1865年と比べて3倍近く、100年前の1790年に比べると50倍に達している。しかし、そうした劇的な変化は多くの問題を生み出し、アメリカの政治制度を試練にさらした。
近代産業化は、経済的進歩を無軌道に追求することでその他の社会的、政治的価値を犠牲にした。世紀転換期における富の集中は巨大なトラストを生み出し、改革論者によれば、アメリカ社会の中の制御されない恐るべき力となった。こうした巨大なトラストは合衆国で経済的機会の平等が失われたのではないかという恐れを引き起こした。なぜなら独占的な企業は個人が経済的階梯を登るのを妨げていると考えられたからである。さらに多くの者は、そうした企業が自らの利益のために政治手法を歪めているのではないかと思った。
近代産業化によって引き起こされた金融資本の搾取と政治的腐敗への最初の抵抗は人民党の反抗である。人民党の反抗は1896年にウィリアム・ブライアンが大統領に立候補した時に頂点を迎えた。革新主義の時代は人民主義の崩壊の後に訪れた。それは、都市の中層階級が、19世紀後半に農民の抵抗を引き起こした近代産業化の拡大と無軌道な金融資本主義に抗議した時代であった。都市の中層階級は急速に増加しつつあったので、革新主義はアメリカに大きな影響を与えた。革新主義は農民の不満を拡大し、転向させたものであり、産業の改革と政府機関の変革をもたらし、アメリカ人の政治的生活全体を変えた。革新主義者は、無限に人間は完全なものとなり得るという確信と人間が鎖で過去に束縛されることも、決定論的な未来に束縛されることもなく生きることができる開かれた社会、つまり、人間が自分自身の力で生活条件を変革できる社会に対する確信を抱いていた。
革新主義による変革は連邦政府の責任に対する理解を変えた。これまでアメリカ社会は個人主義と制限された政府を信奉してきた。産業化に対する革新主義の反応はこうした伝統を完全に撤廃したわけではない。多くの産業家、銀行家、そして政治家が自由放任主義の伝統に固執し続け、政府による私企業、運送、金融の規制に抵抗した。しかしながら、彼らは勃興する革新主義の挑戦に直面した。
大統領職の変化
また革新主義運動は大統領職にも重要な変化をもたらした。大統領制度は、
ジョージ・ワシントン大統領、
トマス・ジェファソン大統領、
アンドリュー・ジャクソン大統領、そして、
エイブラハム・リンカーン大統領といった強力な指導者の下で発展を遂げてきたが、20世紀まで大統領の権限と役割は非常に制限されていた。19世紀後半の政治は議会に統制された政府を中心にして行われた。
グローバー・クリーブランド大統領と
ウィリアム・マッキンリー大統領はより強力なリーダーシップを発揮する大統領の出現を期待させたが、1865年のリンカンの暗殺以来、続いてきた議会の支配構造を根本的に変革しようとはしなかった。
そうした旧制度を一変させたのがセオドア・ルーズベルトである。積極的で行政府を中心にした政府の革新主義の概念に基づいて、ルーズベルトは大統領の影響力を著しく拡大するようなリーダーシップを発揮した。積極的な政策形成、特に世論の誘導において、ルーズベルトは大統領制度を作り変えた。外交政策と国内政策の両面で、ルーズベルトは将来の大統領の指針となるような前例を打ち立てた。ウィルソンやフランクリン・ルーズベルトはセオドア・ルーズベルトが打ち立てた前例に倣い、アメリカ大統領制度をより完全に変容させた。ルーズベルトは大統領職を19世紀の不活発な職から社会的改革を行うための政治的リーダーシップを発揮する職に変えた。
それまでアメリカの政治機構は、「政府は必要悪」という18世紀的な「弱い政府」の理念の下に制度化されてきた。憲法制定者達は行政府に対する不信に対抗しつつ、近代国家の行政府にふさわしい権限を持つ大統領制度を樹立した。大統領は、三権分立の原理、連邦制という制度的制約を受けながらも、国家元首、行政首長、外交の主導者、最高司令官として広範な権限を与えられた。しかし、20世紀に入るまで国家機能はそれ程大きくはなく、したがって大統領の役割も南北戦争のような緊急事態を除いてはそれ程大きくはなかった。
資本主義発展期における自由競争の下で自然的拡大再生産と諸利益の自動的調整が可能となり、それが政治的に同質的な市民を前提とする古典的な共和政を可能としてきた。しかし20世紀に入ると、自然的な拡大再生産は困難となり、階級分化が進行して諸利益の自動的調整も不可能となり、国家による人為的な調整が要請され、したがって調整者としての大統領の指導力が求められるようになった。そうした事態に対応するための国家機能の拡大は、行政機構の拡大を伴い、行政首長としての大統領職の権限は自ずと増大した。また議会がしばしば地域的、経済的特殊少数の利益の代表機関と化すにしたがって、大統領は国民多数の利益の代表として機能することが要望されるようになった。さらに、アメリカが国際政治の上で大きな役割を果たすようになり、外交の主導者、最高司令官としての大統領の地位は高められた。このような背景で、セオドア・ルーズベルトに代表される強力かつ責任ある大統領のリーダーシップという考えが台頭した。産業社会から生ずる社会的不正と経済的濫用といった悪弊に対して初めて積極的に取り組んだのはセオドア・ルーズベルトである。
大統領就任
マッキンリーの暗殺によってにルーズベルトは副大統領から大統領に昇格した。「マッキンリーのおぼろげな影」に見えるかもしれないという友人の助言を受け入れずルーズベルトは、マッキンリーの政策と閣僚を踏襲することを宣言した。ルーズベルトは自伝に、「もしある男が大統領の任に耐えるのであれば、彼はすぐに彼が追求する政策はいずれにせよ彼のものであり、そうした政策を変えるか否かで悩む必要はないと肝に銘じて職に就くべきだろう」と記している。
そうしたルーズベルトの大統領職に関する概念は、20世紀初頭に国政を牛耳っていた政治的指導者を大いに悩ませた。共和党の保守的な指導者は、若過ぎる大統領は信頼できないのではないかと考えた。大統領に就任した時、ルーズベルトは42歳と322日であり、史上最年少であった。この記録は今でも破られていない。後年、ケネディが大統領に就任したのは43歳と236日である。ルーズベルトはその政治的経歴を通して、革新的で激しい政治家だという評判を得ていた。そして、共和党を支配していた企業を庇護する政策や猟官制度と馬が合わないのではないかと思われていた。ニュー・ヨーク州の共和党指導者はニュー・ヨーク州知事となったルーズベルトを疎んじ、1900年に副大統領候補に指名することで事実上、厄介払いした。共和党全国委員会議長のマーク・ハナは、「おい、見ろよ。あのしょうがないカウボーイの奴が、合衆国の大統領になってしまったぞ」と言った。ニュー・ヨークとワシントンの保守派は、表向きはうまくいくように望みを捨てなかったが、心のうちではハナの言葉に同意していただろう。
独占禁止法取締官
歯に衣着せぬ発言や並外れたリーダーシップを除けば、ルーズベルトはハナが恐れたような「狂人」ではなかった。ルーズベルトは単なる大企業の利益の敵ではなかった。革新主義者の半分は、トラストを形成する大企業を完全に解体して昔の経済状態に戻ろうという一種の農村的な保守主義を代表していた。その一方で残る半分の革新主義者のように、ルーズベルトは、南北戦争以来、成長してきた新しい産業構造を受け入れ、政府の規制を通じてその最悪な影響を排除しようと努めただけであった。
ルーズベルトは、「私は最も保守的でありたいと思っている。しかし、会社自体の利益、そして国家の利益のためには私がこれまで公に表明してきた進路、正しい進路と確信している進路を慎重に、しかし、着実に進むつもりである」と語っている。穏健な改革なしでは、共和政体の本質である市民とその指導者の紐帯が弱められてしまうとルーズベルトは信じていた。ルーズベルトは自身を、穏健な改革を追求することで立憲政治を守る保守主義的な改革者と考えた。ルーズベルトは国民に改革者であると信じ込ませる一方で、実業家に健全な政策の持ち主であると信じ込ませた。
金ぴか時代では、政府はできるだけ何も介入しないことが良いことだと思われていた。1890年代の不況を契機に鉄道会社と製造会社は無駄な競争を排除して価格を操作する企業集中を行おうとした。しかし、最高裁はシャーマン反トラスト法に基づいてトランス=ミズーリ・トラフィック社に対して無効を宣告した。これまでの直接的な企業集中は告発の対象になる恐れがあった。そこで銀行を通じた株式の買収で単一の産業の支配権を掌握するトラストが形成された。トラストは競合企業を圧倒し、配当を確保するために価格を吊り上げた。あらゆる産業でトラストが形成され、大量生産が行われたが消費者や労働者がその恩恵にあずかることはなかった。行政府はほとんど何の対策もとってこなかった。アメリカの民主主義の将来は貪欲な大企業によって重大な危機を迎えていた。
それに対して、ルーズベルトは、アメリカ社会の激変に対して政府が何か手を打つべきだと考えた。トラストの形成により公共の福祉が損なわれる危険性があるとルーズベルトは考え、政府はトラストを監視する必要があると訴えた。個人の機会の平等と経済的自由を保つために反トラスト法を適用することによって巨大企業の専横を防止しようとした。ただし、すべてのトラストを破壊することにより金ぴか時代以前の状態に経済を戻そうとしたのではなく、有害なトラストを禁止することにより機会の平等と経済的自由を保つことができるようにしようとした。
ルーズベルト政権下で司法省はトラストに対して43件の告発を行った。その中の最大の勝利がノーザン証券会社に対する勝利である。ノーザン証券会社は、複数の鉄道会社によってまるで1つの会社のように運営され、運賃を統制し、競合する鉄道会社を圧倒していた。ルーズベルトはフィランダー・ノックス(Philander Knox)司法長官にノーザン証券会社を告発するように命じた。1904年3月、最高裁は、ノーザン証券会社を不公正なトラストと判定した。ルーズベルトは最高裁の判決を聞いた時、「我が政権の最大の業績の1つである。我が国の最高の権力者達も法の前に責任をとらされた」と述べた。このようにトラストの是正に取り組んだルーズベルトは「独占禁止法取締官」と呼ばれた。ルーズベルトは就任演説で以下のように述べている。
「我々と他の世界の列強との関係は重要であるが、我々の中での関係のほうがより重要である。この1世紀の間に我が国の富、人口、勢力においてかのような発展が見られるし、国民生活の分野では必然的にこのような成長による問題を伴っている。その問題は、これまで大きくなったすべての国の問題である。勢力とは責任と危険の両方を意味する。我々の父祖は、我々が免れた危機に直面していた。我々は今や別の危機に直面している。その危機の存在を父祖が予見することは不可能であった。近代的生活は複雑で激しいものであり、19世紀後半の異常な産業の発展によってもたらされた著しい変化は、我々の政治的、社会的生活のあらゆる面で感じられる。かつて人間が、1つの民主主義共和国の下に1つの大陸を管理するという広範で大変な実験に挑んだことはない。我々の活力、自信、そして個人の自発性を大きく伸ばす素晴らしい物資的豊かさをもたらす好条件は、産業の中枢に大きな富が蓄積することには付きものの心配と懸念ももたらす。我々の実験が成功するかどうかはまさに、我々自身の幸福に関わるだけではなく、人類の幸福に関わっている。もし我々が失敗すれば、世界中の自由自治の大義が根底から揺らぐであろう。それ故、我々の責任は我々自身にとっても今日ある世界にとっても重大であり、未だ生まれぬ世代にとっても重大なのである。我々が未来を恐れるべきもっともな理由などないが、こうした問題を適切に解決するという決意を持って、我々の前にある問題の重責から隠れることもなく、問題に取り組むことを恐れることもなく、我々が未来に真面目に向き合うべきもっともな理由がある」
ルーズベルトは7年間で反トラスト訴訟を54件も行ったが、単に大企業に反対したわけではなく、大企業を破壊しようとしたわけでもない。ルーズベルトは大企業に規制を課そうとした。ルーズベルトは「我々共和党は正しい均衡を図り、扇動家と暴徒の支配、そしてそれと同様に不適切な企業勢力に対して断固として立ち向かう」と述べていた。ルーズベルトによれば、合衆国が特殊権益によってがんじがらめにされるのを避け、トラストが国家よりも強大になるのを阻止し、国家の優越的な道義的原理に服従させなければならなかった。しかし、ルーズベルトはトラストの横暴に反対しながらも、トラストへの無制限な攻撃にも反対した。ルーズベルトの自伝から、ルーズベルトが自らを急進的な革新主義者に対して保守的な革新主義者に位置付けていたことが分かる。
「困ったことの1つは、悪徳を治癒しようとする者に2通りあって、それぞれまったく違ったやり方で試み、しかもその大部分は真の改善をほとんど約束しないようなやり方でやっているという事実である。彼らは既に不毛かつ有害なことが分かっている個人主義を再び打ち立てようと試みた。既に存在する個人主義の必然的結果である集中をよりいっそうの個人主義によって治癒しようとするのである。彼らは大トラストによる悪を、大トラストそのものを破壊し、19世紀中葉の経済状態を復活させることによって治癒しようとしてきた。これは希望なき努力であったし、自らは急進的革新派を自任したとはいえ、実は生真面目な農村的保守主義を代弁しているに過ぎなかった。しかし、他方、大会社と企業合同は実業界で不可欠のものとなっており、それらを禁止しようとするのは愚かだが、まったく制限しないで放置することも愚かなことだということを認識している人々も僅かながらいた。彼らは今や政府は労働者の保護のために、大会社を公共の福祉に従属させるために乗り出し、また数世紀前、暴力によって悪を行う物理的な力を政府が取り締まったように、狡猾で人を欺く行為を取り締まらなければならないことをよく知っている」
ルーズベルトは議会に商務労働省を創設するように求めた。商務労働省の下に企業局が設けられ、州際企業の活動に対する監視を担った。また商務労働省は反トラスト法を実施するための調査を担った。ルーズベルトは、賃金引上げや労働時間の短縮を求める労働組合の要求を支持し、連邦職員の8時間労働を初めて実施した。
人民の世話役
ルーズベルトは外交、内政両面で平和時に憲法で許される限界ぎりぎりまで大統領の権限を拡大した。大統領職を去った後にルーズベルトは大統領の権限の拡大が大統領として成功した主要な要素であると述懐している。ルーズベルトは自伝の中で「私の政権で正しい精神を得た最も重要な要素は、大統領の権限は、憲法に示されているか、それともその憲法上の権限において議会によって課される特別な規制や禁止によってのみしか制限されないという理論を主張したことである」と記している。
19世紀において大統領の権限の限界を定めたことがアメリカの政治制度を無力にし、特別な利害に捕われるようにしたと考えたルーズベルトは、大統領や行政府の公職者は、「人民の世話役であり、人民のためにできることを積極的かつ肯定的に行い、消極的にその才能をしまっておくことで満足してはならない」と述べている。ルーズベルトの考えでは大統領に与えられた行政権は、憲法または議会が制定する法が課す特別な制限によってのみ制限される。つまり、大統領は憲法または法によって制限されない限り、国民が要求することであればいかなることでもなし得るという考え方である。これは大統領の黙示的権限を大幅に認める立場である。
またルーズベルトはUSスティール社に対する反トラスト訴訟に関する書類の開示を上院に求められた時、行政特権に基づいて要請を拒否している。上院は司法省の職員に的を絞り、もし書類を引き渡さなければ議会侮辱罪に問うと脅かした。ルーズベルトは書類をホワイト・ハウスに移し、その管理責任は大統領にあると主張した。
大統領は人民から特別な信任を得ているというルーズベルトの自信は、ルーズベルトをジャクソンの信奉者にした。しかしながらジャクソンと違って、ルーズベルトは国家の大きな目標のために人民を主導するリーダーシップを発揮しようとした。それはニュー・ナショナリズムと呼ばれ、国家の社会的、経済的福祉を促進するために政府の責任を前例にない程、拡大する試みであった。後年、以下のようにルーズベルトは述べている。
「私の信念では、もし憲法や法によって禁じられていなければ国民が望むことを何でも行うことは大統領の権利であり、義務である。行政権のこうした解釈の下、以前は大統領や各省庁の長官が行ってこなかったことを多く行った。私は権力を簒奪したわけではないが、行政権を大いに拡大した。つまり、直接的に憲法、もしくは法の規定によって妨げられなければ、私は公共の福祉のために、必要ならばいかなる方法でも行動したのであり、我が人民すべての共通の福祉のために行動したのである」
重要な点では、ルーズベルトの大統領の権限に関する説明は、
アレグザンダー・ハミルトンが1793年にパシフィカスという筆名で論じた大統領の広範な自由裁量権に置かれている。ルーズベルトはハミルトンを有能な政治家として評価していた。ワシントンの中立宣言を正当化するために、ハミルトンはルーズベルトが大統領になるまでほとんど受け入れられることがなかった大統領に関する理論を展開している。ハミルトンは、憲法によって大統領に、明文化されている規定を除いて、広範な行政権が与えられていると主張した。ワシントン、ジャクソン、そしてリンカーンは特に国家の危機の際に大統領の権限に対して広範な見方をとった。その一方でルーズベルトは平和時にハミルトンの原理を取り入れた最初の大統領である。
しかしながらルーズベルトはハミルトンの原理を完全に受け入れたわけではなかった。ハミルトンは活力ある大統領制度を支持した。なぜならそうした大統領制度が人民の影響を助長するのではなく抑制できると考えたからである。ルーズベルトは大統領を社会的、経済的改革の執行者とするという革新運動の要望を具現化した。連邦を擁護する断固とした姿勢が機会の平等を達成するという大きな目標に貢献したとしてルーズベルトはリンカンを政治家として高く評価している。ルーズベルトは、「アメリカの政治思想でリンカンの流れをくむ深い根本的な哲学を理解し実践する者は、必ず強力で効率的な連邦政府というハミルトン主義的な要素を信念に持ち、人民に最終的な権限があるというジェファソン主義的な要素を信念に持ち、そして人民の福祉が政府の目的であるという信念を持つ」と記している。ルーズベルトのニュー・ナショナリズムとそれに付随する行政権の拡大の目的は、ハミルトン主義的な伝統と手段に民主主義的な意味と目的を与えることであった。
レトリック的大統領制度の萌芽
公共の利益のために大統領職を使うというルーズベルトの決意は大統領制度に多くの重要な変化をもたらした。その中でも最も重要な変化は、大統領に世論を主導する役割を与えたことである。そうした役割においてルーズベルトはレトリック的大統領制度の扉を開いた。つまり、大統領のリーダーシップを発揮する主要な手段として人民に訴えかけるレトリックが使用された。ルーズベルトは個人の考えを説き広めるための道具として公職の権威を利用した最初の大統領になった。
レトリック的大統領制度とは、近代における大統領のリーダーシップ、マス・メディア、大統領選挙の変化によって、大統領の政治が説得を中心とするものになったという考え方に基づいている。レトリック的大統領制度の勃興によって憲法の基本的理論と大統領制度の歴史に大きな変革がもたらされた。20世紀以前、大統領は立法に関与すべきではなく、民衆に対するレトリックを駆使せずに統治を行うべきで、政策形成に中心的な役割を果たさなくてもよいと考えられていた。憲法の制定者は、人民を主導するリーダーシップを否定していた。つまり、大統領は人民の指導者ではなく政府の単なる管理者たるべき存在だった。19世紀においても議会で政策の決定権を握るために大統領が世論を喚起することは不法行為だと考えられていた。人民を扇動することは大統領の権威を落とす行為だと見なされたのである。ジェファソン、ジャクソン、そしてリンカーンといった19世紀の強力な大統領は、人民と緊密な関係を結ぼうとしたが、それは党機関や報道を通じて行われた。
20世紀に入り、社会が複雑化するにつれ、大統領が職務を円滑に行うために膨大な数の立法が必要不可欠になるという状況が生まれ、そうした背景の下で、ルーズベルトや
ウッドロウ・ウィルソンが、立法要請を、議会を飛び越えて、直接民衆に訴えるという形で初めて行った。こうした大統領の役割の変化が、レトリック的大統領制度の萌芽である。大統領は人民の世話役であるという理論によって、大統領が人民と個人的な繋がりを結ぶ必要性が高まった。ルーズベルトは自らの政策を支持しようとしない議会に圧力をかけるためにしばしば直接人民に訴えかけている。
ルーズベルトの立法要請はその多くが「大企業を公共の福祉に従属させる」ための立法であった。しかし、議会の共和党議員は、ネルソン・アルドリッチ上院議員、ユージン・ヘール上院議員、ジョゼフ・キャノン下院議長といった革新主義運動に対して不信感を抱く保守派に支配されていた。ルーズベルトは、金本位制を維持する点と国際社会でアメリカの地位を強める点については保守派の側についていた。しかし、多くの国内政策に関してルーズベルトの立場は保守派の立場と異なっていた。ルーズベルトは共和党の保守派との関係について後に「徐々に私は議会を私のやり方に従うように説得する努力を放棄せざるを得なくなった。それから私は、上院と下院の指導者を越えて我々両方の主である人民に訴えかけることによってのみ結果を出すことができた」と書いている。
ヘップバーン法
ルーズベルトが直接人民に訴えかけた中でも最も重要なのは1906年ヘップバーン法案である。同法案は、鉄道貨物運賃を規定し、その規定を遵守させるために州際通商委員会の権限を強化するものである。これまでの法では、大規模な企業が小規模な荷主よりも安い運賃で鉄道会社と契約するのを阻止することができなかった。1903年エルキンズ法で格差運賃は禁止されていたが、帳簿の記載をいじるだけで法を回避することができた。大規模な荷主は、所有する石油運搬車や冷蔵車、専用のターミナルなどの使用に関して莫大な手数料と特典を鉄道会社から得ていた。
こうした状況を改善するためにルーズベルトは州際通商委員会に鉄道会社の会計、設備、鉄道運賃を規制する権限を与えるように議会に求めた。さらに1904年12月の一般教書でルーズベルトは、すべての者に平等な条件で運送手段を使えるようにするために、鉄道会社が大企業に不公正な報酬を与えることを禁じる法を制定するように議会に要請した。大統領の提案は下院ですぐに受け入れられ、1905年に鉄道運賃を規定する法案が通過した。しかし、上院ではうまくことは進まなかった。保守派が支配する上院州際通商委員会は長い公聴会を開き、鉄道会社の重役達から鉄道運賃の規定に反対するような証言を集めた。同委員会は夏期の休会に入る前に上院が法案を審議する時間を持てないように論議を長引かせた。
上院で公聴会が開かれている間、ルーズベルトはワシントンを離れて西部に休暇に赴いた。大統領が鉄道運賃の規制を諦めたのではないかという憶測が飛び交った。実際は、ルーズベルトの旅はヘップバーン法案に支持を呼びかけるための遊説旅行であることが判明した。大統領は5月10日、最初の演説をシカゴのイロクォイ共和党クラブの前で行った。連邦政府は企業を統制しなければならないとルーズベルトは訴えた。鉄道の州際通商を行っている大企業を監督し規制する権限を行政機関に与える法を制定しなければならない。州際通商委員会は運賃を規定する権限を持つべきであり、その権限は裁判所の判決によってのみ差し止められる。続いてダラス、サン・アントニオ、デンヴァーでも演説は行われ、好意的に報道された。
ヘップバーン法案のための遊説は1905年秋も続き、12月の一般教書で頂点を迎えた。一般教書は議会に向けたものであるが、ルーズベルトは心の中でアメリカ国民を聴衆に据えていた。世論の圧力はヘップバーン法案への上院の抵抗を打ち砕いた。一般教書が発表された直後に、当時、陸軍長官だったタフトはロック・アイランド鉄道の社長と交わした内密の会談について語っている。同社の社長は、大統領が世論を喚起したために、ヘップバーン法案に反対していた上院議員は人民の要望に応じざるを得なくなったと認めたという]。1906年に議会が招集された際に、下院は再びヘップバーン法案を通過させた。5月18日、上院も同法案を通過させた。反対票を投じたのは僅か3人のみであった。
ヘップバーン法は私企業に対する連邦の規制の発展における画期的な出来事であった。同法は、州際通商委員会に州際鉄道、汽船会社、運送会社、寝台会社などの料金を規定する権限を与え、同委員会の管轄を拡大し、鉄道会社が汽船会社や石炭会社との持ち合い株を放棄することを強制した。さらに年間の会計報告の届け出が運送会社に義務付けられ、鉄道会社と荷主間の紛争を調停する権限が州際通商委員会に与えられた。この連邦政府の管理権限の実質的な拡大は、連邦政府の私企業に対する方針が自由放任から管理と規制に向かう重要な最初の一歩であった。
その一方で最高裁は経済の自由に関して保守的であった。1905年のロックナー対ニュー・ヨーク州事件で最高裁は、パン製造業者に1日に10時間、週に60時間に労働時間を制限する州法を無効と判断した。そのような規制は個人の契約の自由と権利に対する不当な干渉である。こうした最高裁の判決に基づいて多くの州裁判所は政府の規制を無効とする判決を下すようになった。1911年、ニュー・ヨーク州最高裁が労働者補償法を無効とした時、その判決を知って怒ったルーズベルトは、判事の憲法解釈が成立するか否かを人民に投票で決めさせるように州憲法を改正するように主張した。
報道関係
ヘップバーン法をめぐるルーズベルトの顕著な勝利は報道によって支えられた。ルーズベルトは、人民に意思を伝えるための媒介として報道を利用する価値を十分に理解した初めての大統領であった。ルーズベルトが大統領を務めた頃は、幸いにも新聞と雑誌が大部数で普及した始めた頃であった。親しい記者に記事を書くように影響力を行使することによって、ルーズベルトは雑誌を自身の政策への支持で染め上げた。ルーズベルトはヘップバーン法案に対する世論を喚起する際に雑誌の記者の助力を有効に利用した。
ルーズベルトが「醜聞暴露者」と呼んだジャーナリストの一派は、20世紀初期の政治で重要な地位を占めた。彼らは主に新しい低価格の全国的な雑誌に記事を掲載した。彼らの主な目的は、政治と実業の間の腐敗した関係を暴露することであった。彼らは都市、州政府、労働組合、企業、薬剤業者などあらゆる場所から社会悪を掻き出そうと努めた。ルーズベルトは、新しい報道が持つ政治的可能性を信じ、大部数で発行される雑誌を有効に活用した。ルーズベルトは醜聞暴露者を支持した。しかし、ルーズベルトは彼らが醜聞に注目することに集中し過ぎることで、社会の建設的な部分を無視してしまうのではないかと心配していた。それにも拘わらず、ルーズベルトは彼らの暴露から恩恵を受けた。ルーズベルトが攻撃したいと思っていた多くの醜聞が彼らによって暴露されたからである。
マッキンリーは側近を通じて記者達と接したが、ルーズベルトは記者との個人的繋がりを通して世論を形成しようと努めた。ホワイト・ハウス内に報道事務所が設けられた。マッキンリーと同じくニュースを提供することは大統領にとって重要なことであるとルーズベルトは考えていた。記者達は髭剃りをしている大統領のもとに案内され、大統領の絶え間のないお喋りを聞かされた。そのようにして記者達は、日常的に大統領の助言、ゴシップ、どのように記事を書いたらよいかという指示を受けた。しかしながら、マッキンリーの時代と同じく、大統領とのすべての会話は非公式のもので情報源を明かさないという約束があった。ルーズベルトが書いて欲しいと望むままに記者達に記事を書かせることは、世論を革新主義に動員する試みの要であった。大統領は品位を保つために人民と直接触れ合うべきではないという伝統的な概念を克服してルーズベルトは議会の頭越しに主権者たる人民に直接訴えかけることを躊躇しなかった。ルーズベルトは非常に大衆の間で人気があり、ホワイト・ハウスが新聞の一面にならない日はないと言ってよい程であった。大衆の人気を得る秘訣は何かと聞かれたルーズベルトは「大衆が心や頭の中で思っていながら、口に出せないことを言葉で表すことだ」と言った。
議会との協調
ルーズベルトは大統領職の権威と報道を、食品医療品法と食肉検査法をめぐる争いで効果的に利用した。食品医療品法と食肉検査法は1906年に制定された。ヘップバーン法、食品医療品法、食肉検査法をめぐる勝利は大統領制度における変化を示した。大統領の最も重要な政治的紐帯は、政党、もしくは議会との紐帯ではなく人民との紐帯になった。しかし、ルーズベルトは、大統領のリーダーシップと議会の審議は両方ともアメリカの政治制度を維持するために必要であると考えていた。近代的大統領は、19世紀の大統領と比べて公共政策においてより顕著な役割を果たすべきだと考えていたものの、ルーズベルトは両院の指導者達と協調することで議会の支持を得ようと根気強く努めていた。
例えば、ヘップバーン法案をめぐる戦いにおいて、ルーズベルトは、関税を引き下げる法案に関する議論を放棄し、その代わりにヘップバーン法案に対する議会の支持を獲得しようとした。1904年11月、ルーズベルトは下院議長に議会に関税見直しを求める特別教書の草稿を送付した。その直後、譲歩として、ルーズベルトは一般教書で関税に関して何も言及しなかった。「州際通商に関する実業に関しては、私はそれを原則と見なし、戦うつもりである。関税に関しては、便宜的な問題だと見なし、できる限り最善の結果を得るように努めるが、自党と対立するつもりはない」とルーズベルトは述べている。
保守派がヘップバーン法案を攻撃しようとした時、ルーズベルトは彼らが撤退するまで関税問題を復活させようとした。保守派は高い関税が産業を振興する共和党の計画の要であると考えていた。最終的に、彼らは外国の競争からアメリカの産業を守るために関税問題を重視してヘップバーン法案を成立させようとするルーズベルトの試みを黙認した。1906年までにルーズベルトは関税を引き下げるすべての試みを放棄した。
ルーズベルトの動きに対する上院の反応は下院よりも鈍かった。ルーズベルトは自党との絆を完全に断ち切らないように慎重に行動した。共和党の指導者のアルドリッチ上院議員が民主党のベン・ティルマン(Ben Tillman)上院議員にヘップバーン法案を管理する責任を委託した時、ルーズベルトは両党の革新派にヘップバーン法案を委員会の管轄から外し、上院全体で審議させるように促した。新しい革新派の連合がヘップバーン法案を制定するのに必要な票数を得られないことが明らかになった後、ルーズベルトは州際通商委員会の調査結果を裁判所が監査することを認めることによって議会指導者達と妥協した。この妥協によって上院がヘップバーン法案を可決するのを妨げる最後の障害が取り除かれた。
ルーズベルトが成功した理由は、著しい政治的手腕と目的を達成するためには妥協を厭わない精神である。ルーズベルトは議会がヘップバーン法案を取り上げる前に遊説旅行を止めた。ルーズベルトは重要な表決が行われる直前に国民に直接語りかけるようなことはせず、議論の間、特定の議員を攻撃するようなこともしなかった。しかし、ルーズベルトは、将来の大統領が立法過程で主導的な役割を果たすことを示した。同時にルーズベルトと議会の関係は、近代的大統領が単に議員の意思を自らの意思に従わせることはできないということを強調している。
行政制度改革
ルーズベルトは近代の行政制度改革に先鞭を付けた。近代的大統領制度における行政制度改革の目標は4つである。第1に、大統領は目的に沿った組織を形成することで行政府の管理能力を高める。第2に、大統領は、行政府に関して包括的な予算を作成する権限を追及する。第3に、大統領はホワイト・ハウスの職員の拡大を求める。第4に、大統領は官僚制度に対して大きな影響力を行使する。ルーズベルトは、行政制度改革を目指す委員会を発足させることで行政制度改革における議会の独占を打破した。
ルーズベルトは大統領職の権能を特定の公共問題を研究する6つの委員会を創設することで拡大した。キープ委員会はその6つの委員会の中で2番目、1905年6月に創設された。キープ委員会はチャールズ・キープ財務次官補にちなむ。ルーズベルトはキープ委員会に、政府の運営、特に政策決定過程におけるより専門的な知識の必要性、人事政策、会計報告、過度の事務処理の削減など行政管理に関する調査を行うように命じた。ルーズベルトはキープ委員会の運営予算として議会に2万5,000ドルを求めたが、議会は5,000ドルの予算しか認めなかった。キープ委員会は大統領の主導による初めての組織的な行政制度改革の試みである。調査は連邦機関に対する質問調査から始まり、それは委員会の構成員がそれぞれ長を務める小委員会の調査によって補強された。1909年までにキープ委員会は広範な調査を行い、連邦の会計報告の改善、記録の保持、事務処理、政府刊行物の配布など様々な分野で勧告を行った。
キープ委員会の顕著な勧告は人事政策と行政機関の間における調整である。キープ委員会は、広範な職員の種別と給与体系、統一された就業規則、そして年金制度を整理統合した。またキープ委員会は、行政機関の間の関連する活動を調整する手段を示した。キープ委員会の大統領制度に対する志向性は、行政府における統一性と一貫性を目指していた。さらにキープ委員会はもっと直接的な方法でルーズベルトの役に立った。ルーズベルトは、キープ委員会を政府印刷局や農務省といった行政機関で起きた政治的に敏感なスキャンダルを追及する調査機関として利用した。議会はキープ委員会を議会の権限を侵害しようとする大統領の手段と見なし敵意を抱いた。そのためキープ委員会の先見性にも拘わらず、その提言はほとんど議会に拒絶された。そこでルーズベルトは議会の承認を必要としない改革を模索するようにキープ委員会に命じた。その結果、キープ委員会は、公的記録の整理、供給品の購入、統計情報の管理などに関する11通の報告書を作成した。
スクウェア・ディール
ルーズベルト政権で始まったレトリック的大統領制度の勃興は公共政策の形成を主導する大統領の責任の拡大と時を同じくして起こった。公共政策の分野で議会を主導しようとする大統領の試みは19世紀の後半では制限されていた。マッキンリーの政党政治におけるリーダーシップの成功と外交政策における主導権の獲得は、大統領がより積極的な役割を持つことを示唆した。革新主義の時代に入って、大統領は人民の世話役であるというルーズベルトの思想は、これまで議会と党組織が国政を左右してきた方法に対する根本的な挑戦であった。以後、政府の行動は、これまでよりも大統領の特徴を色濃く反映するようになった。
国家の危機がなく、十分な支持もなく、時には自党の強い抵抗があった場合でもルーズベルトの自らの計画を実行する能力は、大統領のリーダーシップに新しい時代が到来したことを示している。ルーズベルト以後、政府の行動はますます大統領の個人的業績の痕跡を記すようになった。ルーズベルトは自らの国内政策をスクウェア・ディールと呼び、政府の適切な機能は、経営者と労働者、生産者と消費者、そして両派の政治的急進派の均衡を保つことにあると主張した。ルーズベルトはハミルトンの原理を信奉し、連邦政府を真に全国的な権限を持つようにすべきだと考えていた。従来、合衆国憲法で言及されている国民の福祉は課税権に対する制限と解釈されていたが、ルーズベルトは諸州がばらばらには達成できない国民の福祉を連邦政府が実現するために手段を講じなければならないと解釈した。
ルーズベルトのスクウェア・ディールが近代的大統領制度にとって重要なのは、ルーズベルトが政党や議会の代わりに公平性の原理に訴えた点である。他の大統領もルーズベルトと同じような言葉で自らの政権を定義した。ウッドロウ・ウィルソン大統領の「ニュー・フリーダム」、
フランクリン・ルーズベルト大統領の「ニュー・ディール」、
ハリー・トルーマン大統領の「フェア・ディール」、
リンドン・ジョンソン大統領の「偉大なる社会」、そして、
ロナルド・レーガン大統領の「機会ある社会」などである。大統領の政治信条を象徴するキャッチ・フレーズをつけることは新たな大統領のリーダーシップの特徴となった。それは、議会ではなく大統領が公共政策を形成する際に主要な役割を担うことを示唆している。
無煙炭鉱ストライキの仲裁
ルーズベルトは1904年の大統領選挙で、2年前に全国的な無煙炭鉱ストライキに積極的に介入したことを述べるために、スクウェア・ディールという言葉を初めて使った。1894年にプルマン・ストライキを鎮圧するために連邦軍を送ったクリーブランドの例に倣う代わりに、ルーズベルトは無煙炭鉱産業と炭鉱夫の代表をホワイト・ハウスに呼んで仲裁を受け入れるように説得した。炭鉱夫連合の長であるジョン・ミッチェル(John Mitchell)は大統領に協力することを誓った。
1895年に「我々は雇用者の権利と同様、罷業者の権利も擁護する。しかし、暴動の脅威がある時は別である。暴徒の出方次第である。秩序はどのような犠牲を払ってでも維持されなければならない。発砲騒ぎになれば、我々も発砲する。空の薬莢ではなく、また頭の上を狙うこともない」と語っているように、もしストライキによって秩序が失われればルーズベルトは連邦軍を派遣するのに吝かではなかっただろう。事実、プルマン・ストライキに関してもルーズベルトは連邦軍か州兵によって取り締まるべきだと主張していた。
労働者側が仲裁を受け入れることを認めたのにも拘わらず、炭鉱産業はルーズベルトの提案を拒み、大統領が無政府主義を助長する輩と交渉しようとしていると非難した。炭鉱産業の拒絶に対してルーズベルトはより劇的な行動をとる準備をした。もし経営陣に仲裁を受け入れるように説得できなかった場合、ルーズベルトは彼らの同意なく仲裁委員会を設立し、平和を維持するためにペンシルヴェニア州知事に連邦の支援を要請させると公表した。ルーズベルトは連邦軍を送って鉱山を差し押さえるつもりであった。ルーズベルトは頑迷な経営者に手を焼いた。「私は大炭鉱経営者と大資産家層のすべてを救いたかったのであり、もし私が動かなかったら彼ら自身の愚行が招いた手痛い懲罰に苦しまなければならなかっただろう」とルーズベルトは回想している。
1895年のデブズに関する事件において示された憲法の解釈によれば、大統領は、郵便の配達のような連邦政府が認められた権限を執行することができるように連邦軍を送ることができる。しかし、私有財産を差し押さえる権限は大統領にはない。幸いにも私有財産を差し押さえる必要はなくなった。1902年10月に協定が結ばれストライキは終息し、大統領よって任命された5人委員会が炭鉱産業と炭鉱夫の係争点を仲裁した。社会において競合する主張を調整する役割を果たすことで、ルーズベルトは労働争議で労働者の権利を認めた初めての大統領になった。連邦政府は経済的な紛争に関与しないという伝統的な立場から脱却し、先例によって労働争議を解決する責任を負うようになった。
天然資源の保護
ルーズベルトは国の天然資源を管理する行政府の責任を拡大した。国有林を保存する措置はベンジャミン・ハリソン政権期に始まり、それ以後、踏襲されてきたが、包括的な保護計画を採用した最初の大統領はルーズベルトである。1907年、ルーズベルトは内国水路委員会の委員達とともにミシシッピ川を下る旅をした。この旅に多くの記者を随行させ、自然保護の重要性を訴えた。ルーズベルトは大統領の旅行を積極的な広報手段として利用した最初の大統領である[ 久保憲一、『現代アメリカ大統領―その地位、任務および指導力の制度的考察』(嵯峨野書院、1993)、126。]。そのように世論に訴えかけることで、過度の開発から1万5,000万エーカーの政府所有の森林を国有保護林として守った。さらに連邦政府の地質調査隊が天然資源を調査している間にアラスカと北西部にあった8,500万エーカーの森林への一般の立ち入りが禁止された。ルーズベルトは自然保護を国民的な運動にした。
ルーズベルトは天然資源を計画的に使うことを提唱する保護主義者を政府の規制を通じて支援した。ルーズベルト政権下で、灌漑、採鉱、伐採、放牧などに関して政府の規準が定められた。1902年ニューランズ法によって乾燥した西部にダムや導水管が建設された。ルーズベルトはフロリダ州ペリカン島を1903年に最初の連邦鳥類保護区に指定した。ルーズベルトは他にも50の鳥類保護区と2つの国有猟獣保護地区を指定した。1905年、ルーズベルトは国有森林局を大幅に拡大した。森林局は天然資源に関する最大の行政機関であり、1876年に創設された。しかし、ルーズベルトが大統領になるまで連邦の森林を保全するという考えは希薄であった。公有地を保護しようとするルーズベルトの試みを抑えようと議会は北西部で新しい国有林を設けることを禁じる法を1907年に制定した。ルーズベルトは、法が施行される前に1,600万エーカーのいわゆる「真夜中の森林」を保護する大統領令を発表した。
ルーズベルトの大統領令は、行政府と立法府の間に楔を打ち込んだだけではなく、天然資源を管理する連邦の適切な役割をめぐる争いを解決不可能にした。議会は、ルーズベルトが1908年に設立した2つの重要な保護に関する委員会を葬った。それにも拘わらず、ルーズベルトは、天然資源の保護はルーズベルト政権の最も重要な業績の1つであると主張した。
天然資源の保護に関する行政権の行使は、大統領は人民の世話役であるという理論に基づいてルーズベルトが、議会の明確な授権なしで、もしくは議会の反対にも拘わらず、公共の利益になると判断して行動したことを示している。南北戦争期におけるリンカンの大統領令は歴史上、最も強力な行政特権の例である。ワシントンがウィスキー反乱の際に暴動に関する調査委員会を発足させたのが最初の大統領令である。ルーズベルトの大統領令の利用は、行政特権を日常業務にも使う機会を拡大する重要な前例を打ち立てた。任期中、ルーズベルトは実に1,081にも及ぶ大統領令を発した。ちなみにルーズベルト以前に発せられた大統領令は1,262である。大統領令は大統領の権威の下、様々な行政府の省庁に対して発令された。
公職制度改革
ルーズベルトは大統領の権限を拡大しただけではなく、行政府を高度に専門化し、行政府がさらなる責任を負うことができるようにした。ルーズベルトは、党派と地域的利害で動かされる議会ではなく安定した党派に左右されない行政府がアメリカの産業社会の発展を導くことができると信じていた。
ルーズベルトの観点では、行政府の秩序ある制度には経歴豊富な公職者が必要であった。効率的な監査が行えるように公職委員会の予算を増やすようにルーズベルトは議会に働きかけた。またルーズベルトは公職規定に従って公職の採用が行われるように監査する新しい権限を与えることで、公職委員会の行政機関としての地位を強化した。
公職委員会の強化は成果競争主義の拡大を伴った。ルーズベルトは、採用、昇進、在任に関して、ペンドルトン法の制限を超えて競争試験の適用範囲を拡大した。ルーズベルトの任期の終わりまでに公職の60パーセントが成果競争制度に組み込まれた。最も重要なことは、ルーズベルト政権が、猟官制度を認める伝統的なジャクソン主義と非政治的な公職制度が必要であるという近代的な概念を峻別したことである。ルーズベルト政権の終わりまでに、成果競争主義は猟官制度に取って代わり始めた。従来は猟官制度に基づく州と地方の党機関に依存してきた大統領のリーダーシップは、適切な行政機関の管理運営を必要とするようになった。大規模で専門化したホワイト・ハウスの職員がいない状態で、ルーズベルトは、大統領が有能な官僚の活力を効果的に利用することで政策を推進できることを示した。
1907年恐慌
1907年10月、ニッカボッカー信託会社の破綻による恐慌で銀行や鉄道会社が破産した。株価は急落した。政権に批判的な者は、ルーズベルトの反トラスト政策と労働者寄りの政策が企業収益を圧迫したと指摘した。それに対してルーズベルトは恐慌の責任は大企業にあると反駁した。実際、恐慌の原因は、信用取引の過剰、無謀な株式投機、硬直化した通貨政策などであった。経済不況の対策として、ルーズベルト政権は、破産の危機にさらされたニュー・ヨーク市の銀行に関税収入を回したり、各銀行に債券及び手形で1億5,000万ドルを融資したり、それを通貨発行の副抵当に使うことを許可したりした。ルーズベルトはUSスティール社とテネシー石炭鉄鋼社の合併を認めた。その合併は後にタフト政権の告発の対象になった。ルーズベルトはトラストを単に規模と力のみで違法とするべきではないという結論に至るようになった。最高裁も1911年にスタンダード石油社事件で州際通商に不当に影響を及ぼすような行為でなければ、反トラスト法に基づく通商を制約する行為と見なすことはできないという見解を示した。ルーズベルトの対策によって金の流出が止まり、景気は1908年頃から回復し始めた。
国内政策におけるルーズベルトの革新性も重要であるが、外交政策におけるルーズベルトの活動はさらに重要である。国内政策においてルーズベルトは穏健な改革を主導した。外交問題に関して、ルーズベルトは新たな状況が過去との断絶を示していると考えていた。ルーズベルトが目指した道は、議会の介入なしで国際関係を主導する大統領の権限の大幅な拡大を必要としていた。19世紀において外交政策を主導し、条約を締結する大統領の権限は既に慣例となっていたが、ルーズベルトは議会の明らかな支持がなくても積極的に外交政策を主導した。
パナマ運河の獲得
ルーズベルトの大統領に関する理論は政策目標を持っていた。1898年以後、アメリカはスペインから領土を獲得することで国際政治の中で新しい地位を得た。ルーズベルトは1897年に行った演説の中で次のように言っている。
「勢力の拡張が行われてきたどの場合をとってみても、それはその民族が偉大な民族であったからこそであった。勢力の拡張は膨張する国家の国民の偉大さの証左であり、いずれの場合にもそれが人類にとって計り知れぬ利益をもたらしたことを心に留め置くべきである。偉大な国民が拡張することを恐れ、それを尻込みするのは、その時、その偉大さが終わりに近付こうとしているからである。強壮な青年期の盛りにあり、輝かしい壮年期にかかろうとしている我々として、疲れ切った国民の間に座り込み、臆病者の弱者と同じ位置を占めてよいだろうか。断じて否である」
ルーズベルトは世界的な強国の地位を得ようと決心した。さらに第1次一般教書の中でルーズベルトは、アメリカが国際的義務を持つことを強調した。革新主義者達は、自由放任主義は国内政策における国家の目標に取って代わられなければならないと信じ、19世紀における孤立主義は、自由と共和政体を広めるために合衆国は領土を拡大する権利があるという自明の運命の前に放棄されると信じていた。革新主義者達は、アメリカの領土と影響力の拡大は帝国主義ではないと主張した。実践的な考えはより積極的な外交政策を採るように促した。カリブ海と太平洋におけるアメリカの領土拡大は中南米における軍事的優越と、太平洋と大西洋の間を海軍が容易に行き来できるようにするための運河を必要とした。
ルーズベルトはパナマ運河を特に重要だと考えた。ルーズベルト政権から遡ること約50年前の1850年、イギリスはクレイトン=バルワー条約をアメリカと締結していた。それは、地峡地帯に運河を開削した場合、両国で共同管理にあたることをアメリカに約束させる条約であった。イギリスはアメリカの勢力拡大を牽制しようとしていた。
1901年12月3日、第1次一般教書の中でルーズベルトは、パナマ運河建設の重要性を訴えた。運河の開削地はコロンビアに属するパナマに決まった。しかし、コロンビアはアメリカに運河を開削する権利を容易に与えようとはしなかった。1903年1月22日、ジョン・ヘイ国務長官はコロンビア公使のトマス・ハーランと条約を交わした。このヘイ=ハーラン条約の下、新パナマ運河会社が運河開削事業に携わることになり、アメリカから4,000万ドル、コロンビアから1,000万ドルの出資を受け、年間25万ドルの助成金を受けることになった。運河の幅3マイルの地帯の主権は合衆国に永久に属することになった。しかし、コロンビア大統領のホセ・マロクインとコロンビアの上院はこうした条件を拒絶した。コロンビア政府は幾つかの代替案を示した。代替案はいずれも金額の面でコロンビア政府に有利な内容であり、コロンビア政府が運河地帯の主権を保持するという内容であった。
ルーズベルトは、ニカラグアを代替地として示すことでコロンビア政府に外交的圧力をかけた。しかし、その試みが失敗に終わると、さらに交渉を続ける代わりに、ルーズベルトは外交ではなく武力で目標を達成しようと考えた。ルーズベルトは、パナマの分離主義者を扇動する新パナマ運河会社の投資家に密かに支援を与えた。またルーズベルトは、もしパナマ人の革命が起こってそれが失敗に終わった場合、何があろうともパナマ地峡を占領するつもりだと明言した。両国がパナマ地峡を通過する権利を保障した1846年の条約の乏しい法的根拠に基づいて、ルーズベルトは、さらなる交渉なしで合衆国がパナマ地峡を占領するように議会に勧告する準備を行った。ルーズベルトはそうした文言を1903年の一般教書に盛り込もうと考えていた。しかし、上院の指導者の1人であるハナがその計画を知って、ルーズベルトに慎重に振舞うように求めた。
パナマ革命は成功し、アメリカがコロンビアを攻撃する必要はなくなった。1903年11月3日に革命が起きた時、ルーズベルトは革命を支援した。ルーズベルトはパナマ運河のカリブ海側にあるコロンに米艦ナッシュヴィルを停泊させ、コロンビア軍がパナマに増援部隊を送るのを阻止した。11月6日、パナマは独立を果たし、1時間半もしないうちに合衆国に承認された。独立が宣言された直後にパナマ政府は合衆国と、1,000万ドルと年金25万ドルと引き換えに合衆国にパナマ運河の建設権と運営権を与える条約を結んだ。こうした行動をルーズベルト政権はポーク政権がコロンビアと結んだ条約を引き合いに出して弁護した。その条約によればアメリカはパナマ地峡の秩序を維持するために軍隊を上陸させる権利が認められていた。しかし、そうした規定をコロンビア政府によるパナマの反乱の鎮圧を妨げるために適用することは国際法上、問題があったことは疑いがない。
パナマ運河をめぐる争いでルーズベルトが取った行動は、大統領は人民の世話役であるという理論を外交政策に適用したものであった。たとえ議会の支持と法的な根拠が不明確な場合であっても、ルーズベルトは迅速かつ独断で行動することを厭わなかった。自身の政策について憲法上の問題を指摘する者に対してルーズベルトは「何もしない政策の信奉者は権限を不法行使したと私を非難するが、それは十分な権限を誰も行使できないか、行使しない時に私が行使しただけである」と記している。
ルーズベルトはパナマ運河建設について数年後に「私が大統領に在職している間に外交面で取った行動の中で最も重要な行動であった」と述べている。欺かれたと感じたコロンビアは公正を求めて訴え続けた。後に、元大統領となったルーズベルトの抗議にも拘わらず、ウィルソン政権とハーディング政権は2,500万ドルの賠償金とともにコロンビアに謝罪した。しかし、パナマ運河をめぐる争いによって、アメリカがラテン・アメリカに支配を及ぼそうとする先例が打ち立てられ、近年では介入主義的な政策は部分的には放棄されているものの、そうした記憶は将来の大統領について回った。
ルーズベルト系論
パナマ運河の獲得は新しいラテン・アメリカ政策の現れであった。それは国際政治におけるアメリカの役割を増大させ、その役割を担う大統領の権限を拡大させた。新しいカリブ海とラテン・アメリカに対する政策の基本的な指針はマッキンリーとヘイ国務長官によって発案された。ルーズベルトの下で新しい政策は著しく拡大された。カリブ海の安定を望むアメリカの願いは、中南米の諸国が容易にヨーロッパの介入を許すような弱体国家ばかりなので実現が困難であるように思われた。また中南米の多くの独立国家が財政上の困難を抱えていた。
例えばヴェネズエラはヨーロッパから多くの借入を行っていたが、負債を支払うことを拒絶した。1902年12月、負債の支払いを強要するために、ドイツ、イタリア、そしてイギリスはヴェネズエラを封鎖した。ドイツは町や税関を占領すると言ってヴェネズエラを脅かした。ルーズベルトは、問題をハーグ裁判所の判断に委ねるようにすべての陣営を説得した。ルーズベルトがカリブ海の海軍力を増強し、ドイツに西半球における彼らの海軍力がアメリカの海軍力に比べて脆弱であると納得させるまで説得は功を奏しなかった。最終的にハーグ裁判所によってヴェネズエラの負債は4,000万ドルから800万ドルに減額され、負債の徴収に武力を行使することを禁止した原則が採択されることで問題は平和的に解決された。
1903年、サント・ドミンゴで起きた同様の事件によってルーズベルトはモンロー・ドクトリンを修正せざるを得なくなった。腐敗した独裁制によってサント・ドミンゴ政府は破産し、革命が島を混乱に陥れていた。1903年の初冬、フランス、イタリア、ドイツが介入を仄めかした。さらにその年の終わりに、ドイツ海軍がカリブ海の権益を守るために大西洋を渡ってサント・ドミンゴに向かっているという噂が流れた。1904年の大統領選挙を控えて、当初、ルーズベルトは慎重に対処した。しかし、ルーズベルトは、誤った行動をとり、経済的、政治的問題を適切に処理できずに混乱に陥っているラテン・アメリカ諸国に介入するのは合衆国の義務であるという政策を打ち出した。ルーズベルトは1904年12月の一般教書でモンロー・ドクトリンに系論を付け加えた。このルーズベルト系論は、モンロー・ドクトリンを南北アメリカに対するヨーロッパの介入を否定したものから、アメリカの介入を容認するものへ変えた。
「合衆国が些かでも領土を渇望しているとか、西半球の他の諸国に関して、その幸福に貢献する以外の何らかの計画を抱いているとかいうのは事実ではない。我が国が望むのは、近隣の諸国が安定し、秩序を保ち、繁栄するのを見ることだけである。人民が立派に行動している国はすべて、我が国の誠意溢れる友情を期待できる。どの国であれ、社会的、政治的問題に関して合理的な能率と良識を持つ行動の方法を知っていると立証される限り、また秩序を保ち、債務を支払う限り、合衆国の干渉を恐れる必要はない。文明社会の絆に全般的に弛緩を生じさせる慢性的な非行、もしくは無能力は、アメリカ大陸であれ、他のどこであれ、最終的には、いずれかの文明国の干渉を必要とするだろう。そして、西半球において、モンロー主義を信奉する合衆国は、そのような非行、あるいは無能力の著しい事例に対して、躊躇しつつ、国際警察力の行使を余儀なくされる。カリブ海に面するあらゆる諸国が、キューバがプラット修正条項の助けを借りて我が軍の撤退後に立証したように、また南北アメリカの多くの共和国が常に明らかに立証しているように、安定した正しい文明による進歩が立証されるならば、それらの諸国の事情に対する我が国の干渉の問題はすべて終息するだろう。我々の利害と南の我が隣人の利害は実は同じである。それらの隣国は豊かな自然の恩恵を有し、各領土内で法と正義の支配が確立されるならば、繁栄の到来は確実である。したがって、それら諸国は、文明社会の基本法を遵守する限り、我が国によって誠心誠意の有益な好意を以って待遇されることを安んじて確信できる。我々がそれらの諸国に干渉するのは、最後の手段であり、またそれらの諸国が国内、国外で正義を行う能力や意欲を欠き、そのために合衆国の権利が侵害され、もしくは外国の侵略を招いてアメリカ諸国全体を損なうことが明白な場合のみである。まったく自明のことであるが、アメリカ大陸であれ、他のどこであれ、自らの自由、自らの独立を維持しようと望むすべての国家は、そのような独立の権利は、その権利を正しく活用する責任と分離することはできないと認識しなければならない。モンロー主義を主張するにあたって、キューバ、ヴェネズエラ、パナマに関して我々が事実上、とってきたような措置をとるにあたって、また極東で戦争の範囲を限定し、中国で門戸開放を確保しようと努めるにあたって、我々は、我々自身の利益だけではなく、人類全体の利益のために行動してきた。しかしながら、我々自身の利益があまり関与していないのにも拘わらず、我々の同情を求める強い訴えがなされる場合がある。通常、我々にとって、他国の事態の改善に努めるより、自国内で我々自身の道義的、物質的改善に努力するほうが、はるかに賢明であり、はるかに有益である。それにも拘わらず、しばしば極めて大規模で極めて特別な恐怖を伴う犯罪が行われ、少なくともそのような行為に対する我々の不承認を示し、その被害者に対して我々の同情を示すように努力することが、我々の明白な義務ではないかという疑念が生じる場合がある。我々が自らの大きな欠陥を除去することを拒否しているのも拘わらず、友朋の小さな欠陥を除去するために努力することはあってはならない。しかし、極端な場合では、行動が正当化され、適切となり得る。いかなる形の行動をとるべきか否かは、ひとえにその場合の情況、つまり、悪弊の程度とそれを是正する我々の力によって決定される。我々がキューバにおける耐え難い状況を阻止するために干渉した時のように、我々は武力による干渉をなし得る場合は、必然的に極めて稀である」
ルーズベルトが新しい政策を発表して1ヶ月もしないうちに、サント・ドミンゴの悪化した情勢は、言葉を現実の行動に移す機会を提供した。1905年に一方では財政破綻、もう一方では債務返済を要求するヨーロッパ諸国に対応するために、サント・ドミンゴは関税徴収権をアメリカに与える代わりに債務返済の保証を受けるという協定を結んだ。サント・ドミンゴの歳入を管理する歳入徴収長官にアメリカ人が任命され、関税収入の55パーセントが債務の返済に充てられ、残りの45パーセントが内政の費用に充てられた。こうした措置はサント・ドミンゴを実質的にアメリカの保護国とするに等しかった。上院は大統領の独断専行に激怒し、条約を批准しなかった。そこでルーズベルトは行政協定という形式を採用したが、それはさらに議会の反感をかった。行政協定は正式な条約ではないために上院の同意を必要としないという利点があった。しかし、最終的にルーズベルトが結んだ行政協定は若干の変更を加えたのみで上院に認められた。
行政協定は近年、増加の一途にある。行政協定は、上院の同意を必要とせず大統領が単独で締結できる条約の一種である。1937年に連邦裁判所は、行政協定が条約と同一の効力を有するという判決を下した。そうした行政協定が結ばれた例は枚挙に暇がない。ルーズベルト政権以前では代表的な例として1817年のラッシュ=バゴット協定、1885年のワシントン条約締結後、25年以上にわたるカナダ及びニューファンドランド沿岸のアメリカの漁業権を保障した暫定協定、1898年、スペインがプエルト・リコ及び西インド諸島の領土をアメリカに譲渡した協定がある。ルーズベルト政権では、1907年、移民に関する紳士協定、1908年、中国の領土保全に関する日本との協定がある。
サント・ドミンゴに加えて1906年、ルーズベルトは大統領選挙に引き続く政情不安に揺れるキューバに海兵隊を派遣した。そして、暫定政府を組織し、キューバを1909年まで3年間、アメリカの直接統治下に置いた。ルーズベルトのカリブ海政策の成功は、ルーズベルトの政治的地位だけではなく大統領の外交政策において果たす役割を増大させた。過去において議会、特に上院が外交政策に介入することは珍しいことではなかった。ルーズベルトがカリブ海政策で担った役割は、憲法上の特別な規定で定められたものでも、議会が制定した法によって定められたものでもなかった。ルーズベルトは1913年に「憲法は私にサント・ドミンゴと協定を結ぶ権限を明らかに与えていない。しかし、憲法は私がしたことを禁じてはいない。私は協定を実行に移したし、上院が行動する2年前から執行し続けた。そして、議会の行動がなくてももし必要であれば私は協定を執行し続けただろう」と記している。
ポーツマス講和条約
ルーズベルトがラテン・アメリカ政策で示した孤立主義からの脱却は、1905年の中国をめぐるロシアと日本の争いに介入することによってさらに明らかになった。1902年にロシアが軍を中国に動かしたことはアメリカの門戸開放政策を脅かした。ルーズベルトは何らかの行動をとりたいと考えていたが、アメリカ国民はアジアに対する軍事介入を支持しないと思っていた。日本は旅順に停泊していたロシア艦隊を攻撃した。ルーズベルトはロシアをアジアにおける帝国主義的な脅威だと考えていたので日本の攻撃を歓迎した。ルーズベルトはヨーロッパと極東における勢力均衡の維持を望み、ヨーロッパではイギリスと、極東では日本と協調しようと努めていた。ルーズベルトは日本に、もしヨーロッパ諸国がロシアを支援した場合、合衆国は日本を支援すると秘密裡に伝えていた。この秘密協定は、日本がフィリピンにおけるアメリカの監督権を認める代わりに、アメリカが日本の韓国に対する主張を認めるという条項も含まれていた。ルーズベルトはタフトと桂太郎首相が協定を結んだことを知らされた時、それを「あらゆる点で絶対的に正しい」と全面的に認めた。したがって初めて大統領は、アメリカの将来の軍事行動の可能性を確約し、ある国の他国の領土に対する主張を上院の承認なしに認めたことになる。
ルーズベルトの大胆な外交は成功に終わった。ルーズベルトはロシアの中国進出を阻止する国として日本に期待していたが、同時に日本の大勝は太平洋地域の平和を脅かすのではないかと恐れた。1905年末、日本政府は、日本海海戦で勝利を収めた後、ルーズベルトに講和斡旋を依頼した。ルーズベルトは日本政府の依頼を快諾し、閣僚にも議会にも、さらには国務省の大半にも諮ることなく、ポーツマスで日露の講和交渉を準備した。
ポーツマス講和会議は難航した。ロシアは日本に対して韓国保護国化、遼東半島租借権、南満州鉄道譲渡を認めたが、賠償と領土割譲に関して譲歩しようとしなかった。ルーズベルトは日本に賠償問題に関しては固執しないように助言し、領土問題に関してはロシアに日本によって占領された樺太の南半分を割譲するように働きかけた。両国はルーズベルトの仲裁を受け入れ、9月5日に講和条約に調印した。ポーツマス講和条約はまさに大統領自身の外交によるものであった。講和条約はアジアにおける勢力均衡を保つものであり、交戦国だけではなく、門戸開放政策が維持されることでアメリカも満足させるものであった。しかし、ポーツマス条約によって結果的に日本は満州の支配者の地位を獲得し、日本海軍は太平洋の一大勢力になったと言える。そうした意味でポーツマス条約を通じてアメリカが日本とロシアの間を取り持ったことが良かったのか否かは意見が分かれるところである。しかし、ルーズベルトがポーツマス講和条約で日本とロシアを仲裁した功績によってノーベル平和賞を受賞したことも事実なのである。
ポーツマス講和条約によって日米関係は友好的発展を遂げたが、サン・フランシスコの学校で日系移民の児童に対して差別が行われたことから危機を迎えた。ルーズベルトはサン・フランシスコの市長と教育委員会をホワイト・ハウスに招き会談を行った。そして、これ以上、アメリカへの移民を奨励しないという紳士協定を日本と結ぶ代わりに、差別待遇を撤廃するように求めた。またルート=高平協定が結ばれ、中国に対する門戸開放政策が再確認されるとともに、太平洋における現状維持が約束された。
1907年、ルーズベルトは再度、閣僚にも議会にも諮ることなく16隻からなる合衆国艦隊を世界周航に送り出した。こうした大胆な行動は、海軍の増強に対する一般の支持を取り付け、アメリカがもし必要であれば武力に訴えてでもアジアの権益を守る意思があることを日本に示した。この世界周航によって全世界の人々はアメリカが強大な国家であることを認識させられた。
アルヘシラス会談
ルーズベルトの外交は成功したが、ルーズベルトは合衆国を世界の強国にするという始まったばかりの仕事を完遂することはできなかった。世界におけるアメリカの役割と外交における大統領の役割を増大させようとするルーズベルトの努力は、アメリカ国民や議会がそれを真剣に論じることなく行われた。ルーズベルトはアメリカの大統領が国際的な役割を果たす場を作った。
ルーズベルトが国際的な役割を果たす機会はすぐに訪れた。フランスはイギリスとスペインの同意を得て混迷を深めるモロッコを実質的に保護国とした。1905年3月、交渉の埒外に置かれたドイツ皇帝ウィルヘルム2世はモロッコに独立と経済的門戸解放を唱えるように求める声明を発表した。フランスはドイツの干渉に激怒して戦争の可能性を仄めかした。モロッコの権利をめぐるフランスとドイツの対立を解決するための多国間の交渉は失敗に終わった。ドイツはモロッコの独立を主張し、イギリスはフランスに強硬的姿勢をとるように唆していると信じていた。アメリカはモロッコに直接的な利害は何も持ってなかったが、駐米ドイツ大使の要請を受けて事態を解決するために介入した。ドイツはルーズベルトがイギリスにフランスを支持することを止めさせ、フランスに交渉のテーブルに着くように促すように期待した。
ルーズベルトはフランス公使と接触したが、モロッコが各国を国際会談に招聘するまで何の結果も得ることができなかった。フランスはモロッコの動きをドイツの策略だと考えて警戒した。ルーズベルトはドイツとフランスの大使に戦争を回避するように呼びかけた。ルーズベルトはフランス公使に戦争によって得られることは何もなくフランスはドイツに敗北するだろうと説得した。そして、ドイツの面目を施す行動をとるように求めた。その一方でルーズベルトはドイツ大使を通じてウィルヘルム2世に接触し、フランスとの会談に応じるように求めた。ウィルヘルム2世は、会談に行うことに同意し、どのような問題であれアメリカの公正な仲裁を支持すると約束した。ウィルヘルムの約束によってフランスも会談を行うことに同意した。
1906年1月から4月にかけてアルヘシラス会談が行われた。ドイツはモロッコの門戸開放を求めていたが、問題の本質はドイツとフランスの威信をかけた対立であった。しかし、アメリカの仲裁によってドイツとフランスは和解に至った。その結果、モロッコの独立が確認され、フランスがモロッコとアルジェリアの国境地帯を管轄下に置き、フランスとスペインの共同軍がモロッコの残りの部分を管轄下に置き、そして、フランスの管理下で国立銀行が設立されるが他国も代表権を得ることが定められた。1906年12月、上院は、アメリカがヨーロッパの問題に介入しないという条件を課してアルヘシラス条約を批准した。
結語
ルーズベルトは非常に人気があり影響力が強い大統領であった。もし1908年の大統領選挙に出馬することを決意していたら、ルーズベルトは再指名を受けて大統領に再選されていただろう。しかし、ルーズベルトは1904年11月に再出馬しない意向を示していた。副大統領から大統領に昇格して務めた任期を自らの1期目と見なすとルーズベルトは表明した。ルーズベルトは大統領在任を2期に限る慣習を賢明なものだと考えていたので、大統領候補になるつもりもないし、再指名も受けるつもりもないという声明を発表した。
1908年にこの約束を取り消したいとルーズベルトは明らかに望んでいたが、ルーズベルトがそうしなかった事実は、立憲政治の伝統に対する献身を示していた。ルーズベルトは大統領の権限は国民の福祉のために拡大されるべきだと強く信じていた。実際、大統領の権限と威信はルーズベルトによってかつてない程に高められた。行政府には統一性が与えられ、大統領職にはハミルトンがかつて重視したような活力がもたらされた。しかし、ルーズベルトは、民主主義は過度に1人の人物に権限が集中する事態と折り合わないとも考えていた。またルーズベルトは指導者として1つの欠点を持っていた。ルーズベルトに仕えた人々は革新主義の理念に忠実であったというよりは、ルーズベルト個人に忠実であった。そのため革新主義を遂行する中核的な政治勢力が共和党内で形成されなかった。それは後にルーズベルトが後継者である
ウィリアム・タフトに不満を抱く一因となった。