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アメリカ歴代大統領研究ポータル

ベンジャミン・ハリソン大統領
第22・24代アメリカ大統領
飾り

グローバー・クリーブランド

グローバー・クリーブランド
説得力 56.9 17位
危機対応力 52.7 20位
経済管理力 49.4 21位
カリスマ 54.9 21位
外交力 53.9 22位
行政手腕 58.4 19位
議会連携力 46.7 27位
決断力 54.3 19位
公正性 39.8 25位
ヴィジョン 56.3 20位
C-SPANのランキングに拠って作成
グローバー・クリーブランド大統領の能力値

グローバー・クリーブランド大統領の概要

Stephen Grover Cleveland

His Obstinacy

 民主党
 Democratic

 在任期間
 1885年3月4日〜1889年3月4日
 1893年3月4日〜1897年3月4日
 生没年日
 1837年3月18日〜1908年6月24日
 身長・体重
 180.3cm/118.4kg
 

大学進学を断念

 グローバー・クリーブランドはニュー・ジャージー州カルドウェルで生まれた。父リチャード(1804.6.19−1853.10.1)と母アン(1806.2.4−1882.7.19)の9人の子供の5番目であった。父リチャードは長老派教会の牧師であった。クリーブランドは大学進学を希望していたが、父リチャードが亡くなったために職を探さなければならなくなった。職を転々とした後、法律事務所の見習いとなって法律を学んだ。そして、法曹界に入った。

改革知事

 クリーブランドはニューヨーク州エリー郡の検事補に選ばれた。また同郡の保安官も務めた。さらに、バッファローの市長に選ばれたクリーブランドは市政改革に乗り出し名声を得た。それがもとで民主党の州知事候補に指名され、圧倒的票差で当選した。当時、州議会議員であったセオドア・ルーズベルトと協力して汚職や猟官制度の撤廃に努めた。1884年の大統領選挙で当選し、共和党政権が連続する中で唯一の民主党政権を担った。

史上唯一の返り咲き

 クリーブランドは大統領としても改革を推進し、既に成立していたペンドルトン公務員法を厳格に施行した。また南北戦争の退役軍人に対して個人年金を支給する法案に対して拒否権を行使した。1888年の大統領選挙で一般投票では対立候補を上回ったものの選挙人数で逆転され落選した。しかし、1892年の大統領選挙に再出馬し返り咲きを果たした。1893年恐慌に対してクリーブランドは対策を打ち出したが打開策とはならなかった。

クリーブランド大統領の参考情報