大統領選挙
ハリソンはインディアナ州選出の上院議員であり、1888年の大統領選挙を制した。ハリソンが北部で多くの票を獲得した一方で、クリーブランドは南部の州で多くの票を獲得し、全国の一般投票でハリソンより多くの票を獲得した。しかし、クリーブランドは北部の大きな州を落とし、そのため多くの選挙人を失った。
ハリソンの勝利により、政府の行動を統制しようとする議会の試みを理解する大統領が誕生した。ハリソンは、クリーブランドと大統領の罷免権をめぐって衝突した上院の議会指導者の一団に属していた。したがってハリソンは、大統領がなすべきことに関するシャーマン上院議員の助言を早急に受け入れる必要はなかった。シャーマンはハリソンに向かって、大統領は党とはまったく異なる政策を持つべきではないし、行政府よりも立法府を代表すべきであると助言した。さらにシャーマンは、クリーブランドは関税政策を議会に押し付けようとして失敗したが、ハリソンは議会と友好関係を保つべきであり、両院の共和党議員を指導するのではなくてその意向に沿うべきであると主張した。
行政府の業務を勤勉かつ厳格に監督したのにも拘わらず、ハリソンは大統領の地位を復活させる戦いから撤退した。クリーブランドは猟官制度に対して戦いを挑んだが、ハリソンは猟官制度を初めから受け入れた。クリーブランドは議会と論争し、関税政策をめぐって大統領のリーダーシップを模索しようとしたが、ハリソンは喜んでお飾りであることに甘んじた。
議会の再編
ハリソン政権における大統領のリーダーシップの欠如と議会の優越性の勝利は、義務を効率的に果たすために議会が自らを再編することを促した。1880年代以前、議会は主に審議するための機関であった。19世紀の終わりまでには議会は、統治するための複雑だが秩序だった組織に発展した。
下院では立法は、諸委員会の議長や下院議長といった議会指導者の管理の下にますます置かれるようになった。ハリソン政権期の共和党の下院議長トマス・リードは、複雑な議事を簡素化する諸規則を下院に導入した。少数派の民主党員は出欠確認の際に無言を通すことで定足数が満たされるのを妨害しようとした。リードはそれに対してそうした民主党員が出席を自ら知らせなくても出席者として数えることで応じた。1891年、最高裁は、議事妨害の禁止などを盛り込んだリードの諸規則の合憲性を支持することで、下院がより秩序だった機関になるように認めた。
下院と同様の変化が上院にもたらされた。財政委員会議長のネルソン・アルドリッチや予算委員会議長のウィリアム・アリソンなどはリードが行ったような統制を上院に課した。結果としてハリソン政権期において共和党議員は上院に秩序だった議事進行をもたらした。
マッキンリー関税法
ハリソン政権では議会と党組織が大きな力を持った。ハリソン政権期の前半で最も重要な法は、これまでで最も高い関税率を設定するマッキンリー関税法である。マッキンリー関税法案が制定された目的は国内産業の保護であった。国内で生産されない産品や農作物にも関税が課された。砂糖は関税を免除されたが、1ポンドあたり2セントの奨励金が生産者に補償を与えるために国内産の砂糖に課された。マッキンリー関税法は消費物資の高騰をもたらした。その結果、1890年の中間選挙で有権者は共和党に背を向けた。
しかし、マッキンリー関税法の制定は党組織の有効性を示していた。ハリソン政権は、共和党によって初めて実行に移されたホイッグ党的な議会を中心とする政党政治であった。その他にも通商を妨げるトラストと独占を違法とするシャーマン反トラスト法、通貨の供給量を増やすシャーマン銀購入法が制定された。南北戦争の退役兵のために扶養年金法が制定された。扶養年金法は政府の年金支給額をほぼ2倍にした。
シャーマン反トラスト法
シャーマン反トラスト法は最初の反トラスト法であり、独占の悪弊を不正行為として制限しようとした。州際通商や外国通商を規制する試みを行い、トラストを形成する者に最高1年の禁固と5,000ドルの罰金が科された。
ただシャーマン反トラスト法が対象とするトラストの定義は曖昧であった。そこで最高裁によってトラストの定義が明確にされた。最高裁は、合衆国対E・C・ナイト社事件で、シャーマン反トラスト法が製造業には適用されず純粋な商業のみに適用されると判断した。また最高裁は、砂糖トラストが精糖業界の98パーセントを独占して業界を支配しようとした事件で、州際通商ではないという理由で、シャーマン反トラスト法に違反しないという判決を下した。そのためシャーマン反トラスト法は有効性を大幅に失った。
後に反トラスト政策を推進することになる
セオドア・ルーズベルトは自伝の中で「個人主義的物質主義が荒れ狂った時代で個人の完全な自由は実際問題として、強者が弱者を食い物にする完全な自由を意味していた。強力な産業界の実力者の権力が大幅に増したのにも拘わらず、そうした実力者を政府を通じて規制する方法は依然として時代遅れであり、したがって、事実上、無力だった」と述べている。シャーマン反トラスト法は、後にセオドア・ルーズベルト大統領とその後継者である
ウィリアム・タフト大統領によって積極的に活用された。またシャーマン反トラスト法自体もクレイトン反トラスト法で後に強化されることになる。
シャーマン銀購入法
シャーマン銀購入法は、マッキンリー関税法に対する西部の支持の見返りに制定された。シャーマン銀購入法によって、財務省は市場価格で450万オンスの銀を毎月購入することを求めらた。その量は全国の鉱山の銀の総生産高に匹敵する。銀は兌換可能な手形によって購入される。所有者が手形をすぐに金に交換したために連邦準備金は著しく減少した。シャーマン銀購入法は1893年に撤廃された。
大統領の行政特権
1890年、ニーグルに関する事件で大統領の行政特権が確立した。法廷で騒動を起し法廷侮辱罪に問われたデイヴィッド・テリーはスティーヴン・フィールド判事を殺害すると脅迫した。そのため連邦法執行官デイヴィッド・ニーグル(David Neagle)が司法長官によってフィールド判事の身辺警護を行うように任命された。テリーがフィールド判事に暴行を加えたためにニーグルはテリーを射殺した。ニーグルは逮捕され、カリフォルニア州裁判所に殺人罪で告訴された。連邦裁判所はニーグルをカリフォルニア州の管轄から解放する人身保護令状を発行した。カリフォルニア州は連邦裁判所の人身保護令状を支持する巡回裁判所の判決に対して最高裁に控訴した。
法の手続き上の問題は、連邦裁判所が、カリフォルニア州の法に基づいてテリー殺害容疑で告訴されているニーグルに人身保護令状を発行することができるか否かである。この問題に判決を下すために最高裁は、殺害の脅威にさらされている連邦判事が職責を果たせるように大統領が保護する権限を持つか否かを判断しなければならなかった。さらに最高裁は、大統領の法律顧問として司法長官が判事を保護するように連邦法執行官を指名できるか否か、そして、連邦法執行官が、連邦判事の身を守るうえで州の執行官が正当な殺人を行うのと同じ権利を持つのか否かを決定しなければならなかった。最高裁は、ニーグルが職責に従って合法的に行動している限り、カリフォルニア州はニーグルに管轄権を及ぼすことができないという理由で人身保護令状の請求を支持した。
最高裁は、忠実に義務を遂行する連邦判事を生命の危険から守ることができない政府は職務怠慢であるだけではなく、もはや政府とは言えないと認めた。そうした保護は法で特に規定されているわけではなく、政府のどの府が行うべきかも定められていない。連邦判事に保護を与える法的根拠の問題を最高裁は取り上げた。憲法によって大統領には法が忠実に執行されるのを監督する義務がある。それ故、職責を果たそうとする連邦判事を大統領が保護する権限を持つことは明らかである。また司法省が必要な保護措置をとることは適切な行為である。法の執行に関与する公職者の生命を保護する権限を大統領が持つという原理には疑問の余地がない。しかし、ニーグルに関する事件の判決は、さらなる意義を持っている。国内の平穏を維持する権限が大統領に認められただけではなく、そうした平穏が崩壊した場合、議会による特別な授権なしですべての権利を守る広範な権限が大統領に認められた。
外交的危機
1891年、ハリソンはイタリアとの外交的危機に直面した。組織犯罪とニュー・オーリンズの警察署長に対する暗殺を企てたとして告発されたイタリア人達が無罪の判決を受けた。判決の結果に怒った暴徒は牢獄に押し入りイタリア人達を殺害した。イタリア政府は合衆国との外交関係を絶った。最初は事件が州の管轄にあるという理由でイタリア政府の抗議を受け入れなかったが、ハリソンはイタリア政府に賠償金を支払うことで外交関係を修復した。
さらにチリとの関係悪化がイタタ号の拿捕から始まった。チリのホセ・バルマセダ大統領は、議会と対立していた。1891年1月1日、議会支持者は大統領に反乱を起した。反乱者はイタタ号を奪取し、カリフォルニア州サン・ディエゴに到着して武器と補給品を買い揃えた。バルマセダ政権の要請を受けて、アメリカ政府はイタタ号を臨検する執行官を派遣した。イタタ号は執行官を乗せたまま走り出し、後で執行官を降ろした。公海上に達した後、イタタ号は他の船と合流して弾薬を積み替えた。
ハリソンはイタタ号がアメリカの中立を侵害していると判断し、海軍にイタタ号を追跡してアメリカ領海内に引き戻すように命じた。米艦チャールストン号はチリでようやくイタタ号を発見し、降伏させた。反乱者は既に積荷が積みかえられた後だと主張したが、チャールストン号は命令に従って、イタタ号をサン・ディエゴに引き戻した。しかし、反乱者がバルマセダ政権を打ち倒したためにチリとアメリカの関係は悪化した。アメリカ政府はイタタ号を解放した。アメリカの裁判所は、アメリカ海軍がイタタ号を拿捕したことで過ちを犯したと判定した。
議会支持者は8月28日にヴァルパレイソを占拠し、数日後、サンティアゴで新政府を樹立した。数人のバルマセダ政権支持者がアメリカ公使館に保護を求めた。アメリカ公使は彼らに保護を与えた。新政府はバルマセダ政権支持者を告発しようと考えていたので、アメリカ公使に彼らの引渡しを要求した。アメリカ公使が要求を拒んだためにチリとアメリカの関係悪化の新たな原因となった。
ボルティモア号事件で両国の関係はますます悪化した。米艦ボルティモア号はヴァルパレイソに停泊していた。1891年10月16日、ヴァルパレイソに上陸した水兵が地元住民と乱闘騒ぎを起した。乱闘騒ぎはすぐに拡大し、地元住民が暴徒化し、アメリカ人を襲撃した。2人の水兵が死亡し、18人が負傷した。アメリカ軍の指揮官は、事件をワシントンに電信で伝え、水兵は非武装だったので攻撃を招くようなことはなかったと主張した。事件を知ったアメリカ国民は激怒しチリとの戦争を求める声が高まった。
国務省はチリ政府に抗議し、謝罪と賠償を求めた。チリ政府は事件を調査するのに時間が必要だと回答した。しかし、アメリカの国旗が侮辱されていたためにハリソンは急速な対応を求めた。ジェームズ・ブレイン国務長官は大統領に事態の解決を忍耐強く待つように求めた。
12月9日、ハリソンは一般教書で、チリの警察がアメリカ人の襲撃に関与し、アメリカの国旗が侮辱されたために賠償を求めると述べた。それに対して、チリのマニュエル・マッタ(Manuel A. Matta)外相は、地元の新聞にハリソンを批判する声明を発表した。セオドア・ルーズベルトはチリとの開戦を唱え、海軍の造船所は艦船の建造を速めた。殺害された水兵の遺体はインディペンデンス・ホールに正装安置された。その栄誉はこれまでリンカンとクレイのみにしか与えられていなかった。ハリソンの閣僚はブレイン国務長官を除いて全員がチリとの開戦に積極的であった。1月21日、ハリソンは最後通牒をチリに送った。
一方、チリ政府ではマッタ外相に代わってルイス・ペレイラが新たに外相に就任した。ペレイラはアメリカ公使と会談し、ボルティモア号事件の賠償金支払いとアメリカに保護されていたバルマセダ政権支持者の亡命を認めた。しかし、ペレイラはボルティモア号事件の詳細に関して双方に責任があったと主張した。チリの裁判所は、警察の関与を否定し、1人のアメリカ人水兵と2人のチリ人を有罪とした。
ハリソンもブレイン国務長官もチリの対応に満足せず、アメリカ人は被害者だと主張した。さらにブレインは、マッタが行ったハリソンに対する侮辱を撤回するべきだと主張した。1月25日、ハリソンは議会にチリ政府に対して適切な処置をとるように求めた。その一方でペレイラはアメリカ公使と再び会談し、賠償金を支払うだけではなく、マッタの発言を完全に撤回すると伝えた。ペレイラの対応を知ったハリソンは1月25日の議会への要請を撤回し、チリ政府との関係が修復されたと述べた。チリとの戦争の危機は回避された。
結語
クリーブランドのような民主党の保守派とは違って、共和党は長らく連邦政府を使って経済的目的を達成したいと考えてきた。共和党の計画は、もともと南部の奴隷制度に依存した経済を克服するために考案された。南部再建の終わりを迎えて、産業的な資本主義の推進が共和党の原理となった。共和党は、保護関税と資本を産業の発展に利用する金融政策でそれを実現しようとした。共和党が実業志向を示すことは概して政治的な利点があった。保護関税と政府による国内開発は多くの有権者によって支持された。
そうした議会を中心とする政党政治は国中で進行中の変化によって時代遅れになりつつあった。大きな社会的、経済的変化によってアメリカ人の生活はその規模と複雑さを増していた。それは経済秩序を混乱させ、激しい政治的衝突を生み出した。変化に直面して、連邦政府がより広範な役割を果たし、公共政策を体系立てて管理する新しい統治形態が求められた。地方分権的な党組織、猟官制度、そして支配的な議会といった19世紀の政治制度は不断の強力な大統領のリーダーシップに依存する新しい秩序に道を譲るようになる。