1932年の大統領選挙
1932年は新しい時代の幕開けであった。フランクリン・ルーズベルトは1852年の
フランクリン・ピアース大統領以来、初めて一般投票で過半数を獲得した民主党の大統領となった。ルーズベルトは42州の472人の選挙人を獲得するという地滑り的勝利を収めた。上院では民主党が60議席に対して共和党が35議席、下院では民主党が310議席に対して共和党が117議席を占めていた。
ルーズベルトの勝利は革新的であった。
エイブラハム・リンカーンが大統領に就任した1861年から1933年に至る72年間に共和党は56年間も政権を担当し、民主党は僅かに残り16年の政権を担当してきたに過ぎなかった。同じ72年間に民主党が議会で優勢であったのは上院で12年間、下院で26年間で、残りの期間は常に共和党の支配下にあった。つまり、1933年以前においては、共和党は長い間、国民の恒常的な多数党を構成し、国民の多くは明らかに共和党を支持していたことを示している。つまり、民主党の大統領がホワイト・ハウスを占めるのは変則的な事態だと考えられていたのである。しかし、ルーズベルトが12年間、さらに
ハリー・トルーマン大統領が8年間、ホワイト・ハウスを占めることによって民主党は20年間にわたって政権を維持した。民主党は南北戦争後の停滞期を脱して、かつての共和党に代わって、国民の恒常的な多数党の地位を獲得したのである。
福祉国家
ルーズベルトの勝利は、連邦政府を国民の福祉のために使いたいというアメリカ国民の願望を示していた。ルーズベルトは国民を失望させなかった。ルーズベルトは世論の欲求を政策に結晶化させて実行していくリーダーシップを備えていた。ルーズベルトは、実業を規制するという革新主義的な改革者の信念を受け入れただけではなく、アメリカ国民に経済的な安心を保障することは連邦政府の責任だと信じていた。その他の西洋諸国では定番となっていた福祉国家をルーズベルトはアメリカにもたらした。
福祉国家の出現は、国民の権利に関する理解の再定義と緊密に関係していた。ルーズベルトによってもたらされた新しい社会契約では、連邦政府が、家族と個人の適切な生活水準を提供する責任を負った。1932年の選挙運動の中で、ルーズベルトは近代政府の責務は、経済的権利の宣言を支援することにあるとした。ルーズベルトは、アメリカの伝統的な個人主義は、政府が規制機関として市場の不確定性から個人を守ることを保障する新しい個人主義によって取って代わられると論じた。ルーズベルトは次のように演説している。
「今日の状況を一目見れば、これまで我々が知っていたような機会の平等はもはや存在しないことに気付く。産業設備は完了した。今や問題は、現在の状況で設備が多過ぎやしないかどうかということである。我々の最後のフロンティアはとっくに失われ、実際問題として自由な土地というものは存在しない。国民の半数以上は農業ないし土地で生活しておらず、土地財産を耕すことによって生計を立てることができなくなっている。東部の経済機構から放り出された人間が新しい出発を求めて向かうことができる安全弁も西部の原野という形ではもはや存在しない。我々は、我々の無限の豊かさにあずかるようにヨーロッパから移民を招くこともできない。我が民衆が今、送っている生活はどす黒く沈んでいる。耕作の自由が失われるとともに、実業の機会も狭まった。過去30年間の非情な統計は、独立の実業家が競争に負けつつあることを示している。最近、合衆国における実業の集中の度合いについて慎重な研究がなされたが、それによれば、我々の経済生活はアメリカ産業の3分の2を統制している約600ばかりの大会社によって支配されている。1,000万の小実業家が残りの3分の1を分かち合っている。より印象的なのは、もしこの割合で進むと100年後には1ダースの大会社によってアメリカの全産業が統制され、おそらく100人の人間によって支配されるようになるということである。あからさまに言うと、我々は、今はまだそうなっていないにしても、経済的寡頭制に向かって着々と進みつつある。これらのことは明らかに価値体系の再検討を要している。これ以上の産業設備の建設者、これ以上の鉄道網敷設者は、我が国にとって助けとなると同時に危険ともなりそうである。建築し、発展さえすれば、いかなることも許可し得た大会社発起人と金融の巨人の時代は終わった。今や我々の任務は天然資源の発見と開発でもなければ、より多くの物品を生産することでもない。むしろ、既に手中にある資源や設備を管理し、余剰生産物のための海外市場を再確保し、消費力低下の問題に直面し、生産を消費に適応させ、富と生産物をより平等に分配し、現存の経済組織を人民の奉仕のために適合させるという地味でより劇的ではない仕事である。啓蒙的政権の時代がやってきた。私の見るところ、実業との関連における政府の任務は経済的人権宣言、経済的憲法秩序の発展を援助することである。幸いにして時代はそうした秩序を創造することが政府の固有の政策であるばかりではなく、我が国の経済構造における唯一の安全線であることを示している。今や我々は繁栄が画一的でなければ、すなわち購買力がすべての集団にうまく分配されているのでなければ、各種の経済単位は存在し得ないことを知っている」
近代的大統領制度の特徴
福祉国家を築くためには強力な大統領制度が必要であった。また大恐慌に対応するために国家の役割を拡大し、さらに第2次世界大戦を主導したルーズベルトの非凡なリーダーシップは大統領制度に深甚な影響を与えた。20世紀前半の近代的大統領制度は、ルーズベルトの長い在職期間でほとんど形成された。多くの研究者はルーズベルトを最初の実質的な近代的大統領と見なしている。
近代的大統領制度とは何か。大統領制度の多くの最も重要な特徴は、憲法制定会議と建国初期に由来している。19世紀の間、重要な大統領制度の形式と慣行が形成された。20世紀の大統領制度の変容を特徴付けることは、議会でも党組織でもなく大統領が「公共の福祉の世話役」として主導的な役割を果たすようになったことである。こうした概念に基づいて行動した
セオドア・ルーズベルト大統領と
ウッドロウ・ウィルソン大統領は人民を主導し議会を主導する指導者としての大統領の役割を強化する慣習を始めた。そして、フランクリン・ルーズベルトは革新主義の時代に始まった大統領制度の変化を強固なものとし組織化した。ルーズベルトのリーダーシップは、全面的な政党の再編成の主要な要因であり、歴史上初めて大統領のリーダーシップを政治と政府の中心に置いた。ルーズベルト以後広まった大統領の責任に対する新しい理解によって、保守的な共和党の大統領でさえ革新主義的な大統領が行使したように行政権を行使するようになった。
ルーズベルトがアメリカの政治制度に与えた影響が大きかったために、最近の歴史家の研究では、ルーズベルトは歴史上、エイブラハム・リンカーン大統領に次いで偉大な大統領と評価されている。ルーズベルトに対する高い評価は、ルーズベルトが大恐慌を通じてアメリカ国民を導こうとした姿勢にある。
世界恐慌が始まって4年目、共和党政府への疑念、そして西洋社会の未来への疑念が大きくなっていた頃、ルーズベルトは大統領に就任した。世界中の多くの人々は西洋の社会制度が崩壊してしまうのではないかと恐れていた。アメリカ人もそうした疑念を共有していた。ルーズベルトが大統領宣誓を準備している時、1,500万人のアメリカ人が職を失っていた。それは全労働人口の3分の1に相当した。32州では州政府の命令によってすべての銀行は閉鎖されていた。ルーズベルトの就任式の朝、ニュー・ヨーク株式取引所は閉じられ、全国の雰囲気は恐怖に満ちていた。
活発なリーダーシップ
国民が絶望に陥っている中、ルーズベルトのワシントン入りは希望をもたらした。ルーズベルトを迎える多くの者は、長らく望んでいたものの、
ハーバート・フーバー大統領からは得られなかった大胆で活発なリーダーシップが発揮されることを期待していた。フーバーとは違ってルーズベルトは人格といい経歴といいリーダーシップを発揮するのに向いていた。フーバーは大統領職に求められるものに対して超然としていたが、ルーズベルトは大統領職に求められるものに応じることができると信じていた。ルーズベルトの本質は時代が要請するものに応えようとする活発な熱意にあった。
ルーズベルトの自信は恵まれた育ちだけではなく、見事な政治的経歴に由来していた。ルーズベルトは、ニュー・ヨーク州上院議員、海軍次官補、1920年の大統領選挙における副大統領候補、そしてニュー・ヨーク州知事を務めていた。ニュー・ヨーク州知事としてルーズベルトは後のニュー・ディールの発端と言うべき政策を展開している。セント・ローレンス川の水力の所有と管理を完全に民間に委ねることは公衆が不当に高額な電力料金を課せられる不公正を招く危険があるとして、公共事業委員会を創設して私企業の水力支配に制約を加えた。さらに土地保全策を通じて農業の振興を図った。
ルーズベルトの自身の能力に対する信念は、政権を通じて示された実験的試みを厭わない姿勢に表れている。ルーズベルトが小型飛行機で1932年にシカゴで開かれた民主党の全国党大会に大統領候補指名を受諾するために向かった時、国民はルーズベルトの革新的な精神に気付いた。従来、多くの候補者は、公式な通知を全国党大会から離れて待つのが慣例であった。しかし、ルーズベルトは、身体障害が立候補に差し支えないことを劇的に示したいと願った。小児麻痺に罹患したことによってルーズベルトは足が不自由であった。党大会の出席者はルーズベルトを熱狂的に迎えた。またルーズベルトは民主党と国民に、もし進歩を阻害するのであれば伝統を破壊することに躊躇わないことを示したいと考えていた。
就任演説
ルーズベルトは厳粛な就任演説とともに大統領職に就いた。就任演説では明快な言葉で放棄すべき慣行への非難と危機に対して積極的に行動する意思が明確に示されていた。大恐慌の原因を自由放任主義と共和党の大統領のリーダーシップの欠如にあるとルーズベルトは非難し、国民をより高い目標へと導こうとした。そして、ルーズベルトは、緊急事態に対する戦いを遂行する広範な行政権を行使して国民と政府を主導する決意を表明した。
「今日は国家の聖別式の日であり、アメリカ国民諸君は、私が大統領に就任するにおいて、我が国の差し迫った現状を率直さと決意を持って伝えることをきっと期待しているであろう。まさに真実を、完全なる真実を率直かつ大胆に話す時なのである。今日、我が国が置かれている状況に直面することをまったく避けてしまう必要もない。偉大なる我が国は、これまで持ちこたえてきたように持ちこたえ、再生し、繁栄であろう。すなわち、すべてに先立ち、我々が恐れるべき唯一のものは恐怖自体であるという信念を明らかにさせて欲しい。その恐怖とは、名状し難く、根拠が無く、不当な恐怖であり、後退を前進に転換するのに必要とされる努力を麻痺させる。我々の国民生活のあらゆる暗い時代においては、率直で活力に富んだリーダーシップこそが、国民の理解と勝利に不可欠な国民自身の支持を得てきた。今日の難局におけるリーダーシップに対してもきっとあなた方は再びそのような支持を与えてくれるだろう。私の方でもあなた方の方でもそのような精神の下、我々は共通の困難に直面している。幸いなことに困難は物質的な問題にだけ関わっている。物価は途方もない水準に後退している。税は上がっている。我々の支払い能力は下がっている。あらゆる種類の政府が深刻な歳入減少に見舞われている。為替相場は貿易の流れの中で滞っている。生産事業の枯れ葉はあらゆる場に散っている。農民は農作物を売るための市場を見つけられない。何千もの家庭の多年にわたる貯蓄が減少している。さらに重要なことは、多くの職を失った市民が生きるか死ぬかの激しい問題に直面し、同じく多くの人々が少ない報酬で労苦している。現在の暗い現実を否定できるのは愚かな楽観主義者のみである。けれども我々の悲嘆は物質的な障害によるものではない。我々は貪欲という名の疫病に襲われているわけではない。我々の父祖達は、信じて恐れなかったので危機を克服したが、そうした危機と比較すると、我々にはまだありがたい点がたくさんある。自然は猶、その恵みを惜し気もなく与え、人間の努力はそれを倍加してきた。豊かな天の恵みはすぐ我々の手近なところにあるのに、いざそれを用いようとすると、惜し気もなく使うことはできなくなるのである。その主な理由は財貨の交換を支配する人々が彼ら自身の頑迷と無能の故に失敗し、しかも自らの失敗を認めて支配的な地位を退いてしまったことにある。無法なる金融業者の行為は世論の審判の前にさらされており、人々によって強く排撃されている。確かに彼らは何事かをなそうとしたけれども、その努力は既に使い古された伝統的な鋳型にはめられたものであった。信用の不足に際して彼らが提案したところは単に貨幣の貸付を多くするということでしかなかった。利潤という餌につられて我が国民は彼らの誤った指導に従ってきた。しかし、その餌を失ってしまったので、彼らは信頼の回復を涙ながらに求めては、ひたすら勧告を行ったのであった。彼らは自己中心主義者の世代の法則しか知らない。彼らは夢を持っていないのであり、夢のないところでは人々は生きていられないのである。金融業者は、我が文明の殿堂において占めていた高い地位から逃げ去ってしまった。我々は今やその殿堂を古来の真の姿に返すことができるのである。この回復がどの程度、成功するかは、我々が単なる利潤よりも高尚な社会的価値をどの程度に追求し得るかに依存している。単に貨幣を持っていることが幸福なのではない。幸福は物事を達成する喜びのうちにあり、創造的な努力に胸を躍らせることにあるのである。失われ行く利潤の追求に熱中して労働の喜びとその精神的な刺激を忘れることはもはや許されないのである。もし真の運命とは我々がそれに向かって奉仕すべきものではなく、我々自身及び同胞たる人類に力を与えるものであるとの教訓を現在の暗黒期を通じて我々が得たならば、それによって被った損失を償って余りあるものである。公的職務や政治上の高い地位をその地位にあることの誇りや個人的利益を尺度としてのみ評価するべきだとする誤った考えを廃棄すれば、それとともに物質的な富を成功の尺度とすることの誤謬が認識される。そこで今まで神聖であるべき国民の預託した信用を、無情で利己的な非行に変貌させていた銀行や企業体の行為には終止符が打たれなければならない。信頼が失われていくのは少しも不思議ではない。何故なら誠実、名誉、義務の神聖さ、依頼者に対する誠実な保護、利己的ではない行為によってのみ信頼は保たれるのであって、それらをなくしては保たれ得ないからである。しかしながら復興のために必要なのは道徳上の変革のみではない。我が国民は行動を、緊急なる行動を求めている。我々の第1になすべき最大の任務は人々を仕事に就かせることである。この問題は我々が賢明に、かつ勇気を以って対処するのであれば、解決し得ないものではない。このことは、戦争下の非常事態を処理する場合のように政府自身が直接、人を雇い入れることによってある程度、達成されるが、これは同時にその雇用を通じて、我が国の自然資源の使用を促進し、再編成するという非常に緊要な計画をも達成させるのである。これと同時に我々は我が国の工業中心地における人口の不均衡を率直に認めなければならない。また全国的規模での再配分を行って、土地がそれに最も適する人々によって、より良く用いられるように努力しなければならない。これには農産物の価格を高め、それによって、我が国の諸都市における生産物に向かう購買力を高めるという確固たる努力が役立つであろう。抵当権の執行によって小さな家庭や農業の被る損失がますます増大しつつあるという悲劇を実際的に食い止めることも、これに役立つであろうし、連邦、州及び地方政府に対する徹底的な経費節減の要求に基づいて直ちに行動するべきだという主張も有用であろう。さらに、今日、分散的に行われている経済かつ不平等な救済活動の統合、あらゆる形の運輸、通信、及び完全に公共的性格を持った公益事業に対する国家の計画と監督もともにこれに役立つであろう。我々の仕事に役立つ方法は数多いが、それについて語っているだけでは何もならない。我々は行動しなければならない。しかも速やかに。最後に、再び仕事を始めるべく進むにあたって、古い秩序の諸害悪が戻ってこないように2つの安全装置が必要である。すなわち、他人の貨幣を以ってする投機が今後行われないように、すべての銀行業と信用及び投資に対して、厳格な監督を行わなければならない。また、適当で健全な通貨が準備されなければならない。以上が行動の諸方針である。私は直ちに新議会を特に招集して、これを達成する詳細な諸法案の採択を要請しようと思う。そして、各州の迅速な援助を求めるであろう。この行動の計画において、我々は、自らの国家の中を整えること及び財政収支を均衡させることを考えてきたのである。我が国の国際貿易関係も、もちろん非常に重要ではあるが、その時期と必要度において、健全な国内経済の樹立のほうが優先するのである。私は実際上のやり方として、最も緊急のことを第1にするということを好む。私は国際的な経済上の再調整によって全世界の貿易を回復するのに努力を惜しむものではないが、国内の緊急事態は、それの達成を待ってはいられないのである。これら国内的回復を図る種々の方法を導く基礎的な思想は、狭い連邦中心主義でもなく、アメリカ中心主義でもない。まず考えられるのは、それは、合衆国内の各部分の諸要素が相互依存関係にあるという主張である。すなわち、開拓者的アメリカ精神の古くてしかも常に重要な発現を認めることである。それこそが回復の方法、しかも速やかな方法である。そしてまたそれは、その回復が持続されるであろうとの固い固い確信である。世界政策の側面においては、私は我が国をして善隣政策をとらしめたい。確固として自らを尊重する隣人は、それなるが故に他人の権利をも尊重する。また、自らの義務を尊重する隣人は、世界において諸隣人との間に彼が結んだ協定の不可侵性も尊重するものである。私は我が国民の気質を正しく読み取る時、我々がお互いに相互依存関係にあるということが、現在においては過去にはいまだかつて認められたことがない程にはっきり意識されていることを知るのである。すなわち我々は単に取ることばかりはできないのであって、それと同時に与えなければならない。もし我々が前進しようとするならば、我々は一般の規律の善となるところのためには喜んで犠牲となるような、訓練の行き届いた忠誠を抱く軍隊のごとく進まなければならない。なぜなら、そのような規律なしではいかなる進歩もなく、いかなる指導も効果がないからである。我々は常に進んで生命財産をそのような規律の下に置くものである。何故なら、それならばこそ、より大いなる善を目指しての指導が可能となるからである。より大きな目的は、これまでは戦争時においてのみ喚起されたような連帯感を以って、神聖な義務として、我々全体にかかってくると確信しつつ、私は以上のような提案をするのである。私はこのような確信を持つが故に、我々の共通の問題に統制を以って対処しようとする我が国民の指導的役割を果たすことを少しもためらわずに引き受けるのである。このような構想と目的を持つ行動は、我々が祖先から受け継いでいる政府の形態の下でも実行し得る。我が憲法は極めて簡潔かつ実際的であるので、異常な必要に際して、本質的な形を損なわずに、重点の置きどころや組み合わせ方を変えることによって、常にその必要に応じることが可能なのである。それ故に我が憲法制度は、近代世界の生み出した政治機構の中で最も立派であり、変わることのないものであることが明らかになってきたわけである。それは、おびただしい領土の拡張、外国との戦争、激しい国内での軋轢、国際関係といった諸重大問題に対処してきたのである。行政府と立法府との間に正常な均衡を保つことは、我々の行っている未曾有の任務を果たすのに極めて適切なるものと思われる。しかし、未曾有の要求と遅疑せざる行動の必要からして、この両者の正常な均衡から一時的に離れる必要があるかもしれない。私は憲法の定める任務に従って、この苦悩せる世界の真っ只中における苦悩せる我が国民が必要としている諸法案をいつでも推奨する用意がある。これら諸法案、及び議会がその経験と叡智によって作り出すその他の諸法案については、私は憲法の定める権限の許す限り速やかにそれらを採択させるであろう。しかしながら、もし国会がこれら2つの道のどちらか1つを取らなかった場合には、そして、猶、国家が危急存亡の事態にある場合には、私は自分に課せられた明白な責任を回避しようとは思わない。私は国会に対し、この危機を乗り切るべく残された1つの方法、すなわち緊急事態と戦いを交えるために、実際に外国の敵が侵入してきた際に、私に与えられる権力と同様に強い広範な行政権を要求するだろう。私にかけられた信頼に対して、私は時宜にかなった勇気と献身を以って報いるであろう。私はそれをしないではいられない。我々は全国的一致に温かく勇気付けられて、目前の至難な時期に対処するのである。古い尊い道徳的価値を求めているのだという明確な意識を持ち、老いも若きも等しく、その義務を厳格に遂行することからくる私心のない満足を持って。我々の目的は、完璧な恒久的な国民生活を確保することになる。我々は民主主義の本質的価値の永続を疑わない。アメリカ国民は未だかつて挫折したことはない。国民諸君は必要に応じて、指導者に直接かつ力強い行動をとる権能を与えてきた。彼らは指導者の下に規律と方向を与えられることを求めてきた。彼らは私を彼らの望みを現在実現すべき職に就かせたのである。贈り物の精神を体して私はそれを受けるのである。今やこの記念すべき時にあたって、我々は謙虚に神の祝福を願う。神よ、我々の一人ひとりを守り給え、神よ、我が行く手を守り給え」
銀行危機
ルーズベルトは決意を行動に移すのに時間を無駄にしなかった。3月5日、ルーズベルトは銀行業務休止声明を出し、銀行から金や通貨を認可なしに引き出すことを差し止めた。この銀行業務休止声明は平和時において前例のない行政権の行使であり、1933年3月6日から3月9日まで合衆国の銀行はすべての取引を差し止めることが求められた。
フーバー政権の末期、オグデン・ミルズ商務長官は1917年対敵通商法によって大統領には銀行業務を休止させる権限があると論じて、
ハーバート・フーバー大統領に銀行業務休止声明を出すように促した。しかし、司法長官がいかに深刻な状況にあろうとも戦時の政策を平和時に適用することには疑問が残ると論じたために、フーバーは銀行業務休止声明を出すことを躊躇した。もし次期大統領が支持を申し出れば、フーバーは銀行業務休止声明を出したかもしれない。しかし、ルーズベルトは大統領に就任するまで一切の行動の責任をとるつもりはないと拒絶した。
しかし、いったん大統領職に就くと、ルーズベルトは大恐慌に取り組むために最大限の権限を行使するのに躊躇しなかった。ルーズベルトは、銀行業の危機に対して第1次世界大戦時に使われた施策を使うことに何の躊躇いも感じなかった。銀行業務休止声明を出した同日、ルーズベルトは、特別会期を招集する大統領令を出した。銀行業務休止声明を出した4日後の3月9日、ルーズベルトは緊急銀行救済法を提案した。同法は、連邦準備委員会に、全国的に閉鎖されていた銀行を認可と監督の下で再開することで疲弊している銀行業を救済し、銀行業に対する人々の信用を回復するために大幅な権限を与えた。また同法は、3月9日正午から6月15日午前1時の間に議会がルーズベルトの提案する一連の法を通過させたいわゆる「100日間」で成立した最初の法である。緊急銀行救済法は実に8時間以内に通過し、その45分後、写真家が法案に署名するルーズベルトを写真に収めた。その後に続く一連のルーズベルト政権の発案による法案は100日間でほとんど修正が加えられることなく議会を通過している。
炉辺談話
ルーズベルトは、ラジオ演説で3月12日に自身が行っていることとその理由を説明すると発表した。これがルーズベルトの最初の「炉辺談話」であり、大統領によるマス・メディア利用の革新的な進歩であった。「炉辺談話」という言葉はコロンビア・ブロードキャスティング・システムのワシントン局のロバート・トラウトがルーズベルトを最初のラジオ演説の前に紹介した言葉に由来している。1933年3月12日午後10時、トラウトは6,000万人の聴衆に向かって「大統領はあなたの家に入って炉辺に座ってちょっとした炉辺談話をしようと望んでいる」と語りかけた。クーリッジと比べてあまりうまくいかなかったがフーバーもラジオを通じて話しかけた。しかし、それは一般教書のような公式の声明を伝えるだけであった。ルーズベルトの炉辺談話はもっとくつろいだ雰囲気で行われた。まるでそれは大統領が何を行っているか、そして何故それを行うのか説明するために聴衆の家を訪問して父親が息子に語りかけているかのようであった。炉辺談話の目的は、政策を公表したり、国民に行動を呼びかけたりすることではなく、特定の法の制定に対して世論の支持を形成することと大統領の行動指針に一般の支持を集めることであった。
ルーズベルトの炉辺談話は全部で30回行われたが、その中でも最も成功を収めたのが銀行危機について語った炉辺談話である。ルーズベルトのラジオで語りかける口調は、合衆国の金融制度に対する人々の信頼を取り戻すという目的にうってつけであった。
報道関係
ルーズベルトはラジオだけではなく報道をうまく利用した。ルーズベルトは任期中、1933年3月8日に最初の記者会見を開いて以来、実に881回にのぼる記者会見を開いている。1ヶ月あたり6回の頻度である。ルーズベルト以後、ルーズベルトに匹敵する数と頻度で記者会見を行った大統領は1人もいない。ルーズベルトはしばしば記者を執務室に招いて非公式の会談を行った。また記者に対するルーズベルトの愛想の良い態度は有名であった。記者会見が行われる前に予め書面で質問内容を準備するように求めたフーバーと違って、ルーズベルトの率直な姿勢は記者達との間に親密な関係を築いた。記者会見を通じてルーズベルトは国中の多くの新聞の1面を飾ることに成功した。ルーズベルトは最初にテレビに登場した大統領である。1939年4月30日のニュー・ヨーク万国博覧会の開催式典で演説するルーズベルトの様子がテレビで放映された。またルーズベルトは外国語による演説がテレビ放映された最初の大統領である。1942年11月7日、ルーズベルトは、アメリカ軍のフランス植民地への進出と合わせてフランス語で演説した。
第1次ニュー・ディール
緊急銀行救済法と炉辺談話によって銀行危機は終息した。銀行が月曜日の朝に再開した時、銀行に駆け込む者はいなかった。退蔵された通貨が金庫に戻るにつれて預け入れ額は引き出し額を大幅に上回った。数日後、3月4日から閉まっていたニュー・ヨーク株式取引所が再開し、株値は大幅な上昇を示した。連邦債券発行は初日で申し込み超過になった。「資本主義は救われた」とルーズベルトの側近は宣言した。
銀行危機の際に銀行は金で支払うこと、金を輸出することを禁じられた。オーストラリア、ドイツ、イギリスで相次いで金本位制が崩壊していた。ルーズベルトは金本位制を守る措置を考案した。1933年4月、ルーズベルトは100ドル以上の退蔵された金貨や金証書を他のお金に交換するように命じた。5月半ばまでに政府は3億ドルの金貨と4億7,000万ドルの金証書を集めた。さらにルーズベルトは恒久的な金輸出の禁止を布告した。
ルーズベルトが大統領に就任して最初の2週間で国民の精神は上向いた。フーバー時代の絶望に満ちた政治的麻痺は、政府と人民の強い絆を生み出した装いも新たな活気溢れる大統領によって打破された。以前は多い時でもホワイト・ハウスに届く手紙は1日1,000通ほどであった。ルーズベルトの就任の際に届いた手紙は実に46万通に及んだ。フーバー時代は手紙を処理するのに1人の職員で事足りた。しかし、ルーズベルトのもとには毎日平均して5,000通の手紙が届き、50人もの職員を雇わなければならなかった。
さらに100日間でルーズベルトは矢継ぎ早に立法計画を実現した。1933年3月10日、ルーズベルトは退役軍人の恩給を4億ドル削減し、連邦職員の給与を1億ドル削減する権限を議会に求めた。3月13日、ルーズベルトは禁酒法の撤廃を議会に要請した。
3月16日、農業調整法案が提出された。同法は、慢性的過剰生産の対策として穀類、綿花、タバコ、落花生、サトウキビのような基本農産物の作付け割当計画による生産削減を行ない、契約農民には補償金を支給した。豚と畜牛の飼育頭数を減らす権限が農務省に与えられた。また農業調整法のトマス修正条項によって、ドルの価値を50パーセント自由裁量で切り下げる権限、法定不換紙幣を発行する権限、そして両貨本位制を確立する権限が大統領に与えられた。
3月21日、失業と天然資源の保護のために職業訓練を行う民間自然保護部隊の創設と各州に救済のための資金を直接与える連邦緊急救済法が提案された。民間自然保護部隊は失業した青年に有用な仕事を与えて自然保護に参加するように促した。6月半ばまでに1,300以上の民間自然保護部隊のキャンプが軍の指揮下に設営され、8月頃には約30万人以上が就労した。1933年から1942年にかけて17歳から25歳までの若者を中心に戦争でキャンプが閉鎖されるまでに250万人以上が就労し、1,700万エーカー以上の土地に植林が行われ、土壌浸食を防止するために数多くのダムが建設された。さらに約25万人の第1次世界大戦の退役兵や9万人のネイティヴ・アメリカンが参加した。アメリカで公私を問わず行われた植樹の約半分は民間自然保護部隊によって行われた。その他、森林火災の予防、土壌改良、害虫の駆除なども民間自然保護部隊の活動であった。民間自然保護部隊の設立に加えて農地の土壌浸食を防止するために土壌保全局が1935年に設立され、狩猟や漁撈に関する税金で州の野生動物保護事業に助成する基金を設立するピットマン=ロバートソン法が1937年に制定された。連邦緊急救済法は、州や地方自治体に5億ドルの直接救済を認めた。民間公共事業局が創設され、道路、校舎、飛行場、公園、下水など様々な公共事業を行った。民間公共事業局は最盛時には40万件の事業計画を監督した。
3月22日、禁酒法の撤廃に伴って新たに酒類に課税するビール・ワイン歳入法が可決された。3月27日、すべての連邦の農業貸付機関が統合され、農業信用局が創設された。3月29日、株式市場に投資する消費者を保護する措置が提案された。その結果、証券法が制定された。証券法により、株式取引所の取締りが厳格化され、新有価証券は一般公開前に登記することが義務付けられ、株式に関して証券の価値と会社の状態を購買者が判断できるように情報公開義務が課され、消費者のリスクが軽減された。証券取引委員会が設置され、株式取引に認可を与え、取引されるすべての有価証券を登記する権限が与えられた。市場操作が禁止され、信用取引と投機的な融資に対する信用限度の拡大に関する決定権が連邦準備制度に与えられた。証券取引委員会は、新規の融資を確保するために株式取引業務に必要な証拠金を10パーセントから45パーセントに引き上げた。こうした施策は功を奏し、多額の新規融資が確保された。
4月10日、ルーズベルトは議会に対してテネシー川流域開発公社の創設を求めた。テネシー川は北アメリカで最も長い川の1つであるのにも拘わらず、雨季には荒れ狂って土壌を侵食し、乾季には水量が激減するために有効利用が行われてこなかった。テネシー川流域開発公社は、水力電気事業を行い、侵食された農地を再び肥沃にしてテネシー川流域に住む多くの人々の福利を向上させることを目的にした。テネシー川流域開発公社は大統領が任命する理事会によって統括された。理事会は洪水統御と水運開発の責任を担い、ダムや貯水池の建設と運営、発電と配電、肥料生産とその配分を管理する権限を持った。テネシー川流域開発公社の事業によって、洪水が効果的に防止されるようになり、商業目的の航行は増加し、一般家庭用及び工業用に安価な電力が供給されるようになった。また燐酸肥料生産によって肥料に要する費用が下げられた。
4月19日、ルーズベルトは金とドルの交換停止を宣言した。金とドルの交換停止によって金の流出が防止され、物価と株価の上昇に貢献した。5月12日に成立した緊急農地抵当法によって、農業信用局は抵当流れで農場主が資産を失わないように緊急貸付を行う権限を与えられた。6月13日、住宅所有者金融公社が設立され、多くの市民が家を失わなくて済むように貸付を行った。
6月16日、農業信用法が可決され、生産信用公社が設立された。生産信用公社は農場主と家畜飼育業に短期間の融資を行った。同日、グラス=スティーガル銀行法が成立した。同法は銀行に投機事業に手を出さないように要求し、銀行預金を投機に用いることに厳重な制限を課し、個々の銀行預金に対して連邦政府の保証を与えた。さらに同日、全国産業復興法が成立した。特に全国復興産業法は重要な法であり、議会がこれまで制定してきた法の中で最も広範な法であった。同法は、政府と産業界の協調の下、雇用と消費の増大、そして生産制限を課すために制定された。さらに同法により、国家復興庁が設けられ、年少者労働が禁止され、労働時間と賃金の基準が定められ、労働者の団結権と団体交渉権が保障され、大統領の認可の下、各種の産業団体によって自主的な規制が定められた。産業復興法は却って経済回復を遅らせたと指摘する経済学者がいる。確かに、唯一の原因ではなかったにしろ、産業復興法の廃止後に経済回復が見られたのは確かである。
このような100日間で制定された法はルーズベルトに平和時にこれまでになかった程の広範な権限を与えた。100日間で多くの立法提案を実現するためにルーズベルトは官職任命権を効果的に利用した。100日間が終わるまでできるだけ多くの任命を遅らせ、官職任命に対する期待を議員に抱かせた]。ルーズベルトは100日間で議会を主導する顕著なリーダーシップを発揮した。ルーズベルトは国民を静めただけではなく、政府に対する国民の信頼を取り戻した。ルーズベルトの成功は、議会や国民を説得する能力、政党に対する支配力、そして国民からの支持にある。
ルーズベルト政権初期において大統領制度は人民と議会を主導するリーダーシップの主要な源泉となった。大統領と人民の緊密な絆は大恐慌に対する戦いの中で強まった。福祉国家の出現は救済を求める者を助ける責任を州や民間部門から連邦政府に移すことを意味した。それは大統領に新たな責任を課した。ルーズベルトはそうした責任を連邦政府が引き受けられるように慎重に準備した。
ネイティヴ・アメリカン政策
1934年、ルーズベルトの支持によってインディアン再編法が成立した。インディアン再編法は、これまでの白人社会への同化を目指したネイティヴ・アメリカン政策を根本的に転換した内容で、ネイティヴ・アメリカンが独自の憲法を制定するように促し、ネイティヴ・アメリカンに関連する連邦政府の政策を実行する機関として部族政府が認識されるようになった。ネイティヴ・アメリカンの部族国家を維持する権利が認められた。ルーズベルトは、ネイティヴ・アメリカンは絶滅に向かっているのではなく、アメリカ政府の下で明確に区分されながらも尊重される地位を持つべきだという見解に同意した。
税制改革
不公正な富の集中を防止し、企業が復興政策を採用しやすくするために一連の税制法が導入された。1933年、議会は企業超過利得税、資本税、そしてガソリン税の引き上げを決定した。1935年、企業所得税と超過利得税が引き上げられた。1936年、企業が利益を株主に分配するように累進企業所得税が設けられた。累進企業所得税は激しい議論の的となり、1938年に改正され、翌年、撤廃された。
互恵通商法
ルーズベルトは共和党政権で維持されてきた高関税政策を転換させた。1933年にロンドンで開催された世界経済会議でルーズベルトはコーデル・ハル国務長官に貿易障壁の削減を提唱することを認めた。さらにハルは議会と協議して互恵通商法案を起草した。議会は、大統領に最高50パーセントまでの関税引き下げの交渉権限を認め、協定締結国に最恵国待遇を与えることを認めた。互恵通商法は1934年6月12日に成立した。アメリカはキューバを皮切りに1947年までに32ヶ国と互恵通商協定を締結した。その多くはラテン・アメリカ諸国であった。互恵通商法の重要な意義は、議会が大統領に貿易政策の自由裁量権を大幅に移譲したことである。
憲法上の危機
ルーズベルト政権の1期目の終わりにかけて、ニュー・ディールは深刻な憲法上の危機を引き起こした。ルーズベルトは、近代的大統領制度は福祉国家と同じく健全な憲法上の原理からの逸脱ではないと主張した。しかし、ニュー・ディールに反対する者たちは別の見解を持っていた。彼らは、憲法上の均衡と抑制を保つ制度が、議会と州から権限を奪おうとする野心的な大統領によって破壊されたと見なしていた。
ニュー・ディールに批判的な人々は議会や実業界のみならず最高裁にも存在した。1935年から1936年にかけて最高裁は重要なニュー・ディール関連法案を違憲とした。ルーズベルトは、大統領に州の問題を指示する権限を認める政府機能の大幅な拡大に対する憲法上の障害を取り除こうとした。ルーズベルトは、「大統領は生産された石油、あるいは倉庫貯蔵から回収された石油の州際通商または対外通商において、いかなる州法によっても許されている量を超えて輸送することを禁止する権限を授与されている」という規定に基づいて、違法に製造された石油輸送を禁止した。
1935年1月7日、最高裁はパナマ・リファイニング社対ライアン事件の判決を下した。判決の中で最高裁は国家産業復興法によって、議会が大統領に与えた権限は違憲であり、大統領の石油輸送の禁止は認められないと主張した。こうした最高裁の違憲判決による損傷は新立法によって回復することができたが、ニュー・ディールに対する最高裁の姿勢を明確にした点で重要である。最高裁が行政府に対する立法府の権限の移譲を違憲理由としたことは、アメリカ憲法史上これまでに見られなかった判断であり、行政権の拡大をニュー・ディール政策の推進力としたルーズベルト政権にとって予期しない憲法的障害を意味した。
公的には最高裁の判決に対するルーズベルトの姿勢は冷静であった。記者会見でルーズベルトは法を改正するべきだという最高裁の助言を歓迎すると述べた。そして、ルーズベルト政権はすぐに議会に最高裁の判決にあわせるように法を改正するように求めた。しかし、ルーズベルトは内心では大統領に広範な権限を与えるその他のニュー・ディール立法にも影響が及ぶことを恐れていた。
その一方で最高裁は金約款事件でルーズベルト政権の行動を認める判決を下した。1933年6月5日、あらゆる契約で金貨による支払い特約を無効にして、新しく定めたドル貨幣による支払いを認める両院共同決議が採択された。恐慌による物価の下落はすなわち貨幣価値の高騰であった。そのため多くの債務者が元金はおろか利息も払えない状態に陥った。それは恐慌の悪化に一層拍車をかけた。ルーズベルトは1ドル貨幣の法定金含有量を減らすことで貨幣価値の引き下げを行った。当然のことながら、予め金貨で返済を受けるという特約を結んでいた債権者から非難の声があがった。司法長官は、政権の決定に反する判決は国を経済的混沌に陥らせると最高裁に警告した。ルーズベルトは最高裁の判決を無視する正当性を訴えるために非常宣言とラジオ演説を準備した。ルーズベルトは国民に向かって大統領は国民を経済的破滅から救う義務があると訴える予定であった。結局、1935年2月18日、最高裁は、この金約款事件で、議会は国家の通貨を規定する権限を持つという政権を支持する判決を下した。
次の重要な事件は鉄道退職者委員会対アルトン事件である。それは、鉄道労働者の年金制度を定めた1934年鉄道退職者法に関する事件である。同法は年金基金に労働者が掛け金の3分の1、雇用者が3分の2を納めることを規定している。最高裁は、憲法修正第5条で保障された正当な法の手続きなしで鉄道の資産を剥奪し、州間通商を規定する議会の権限を超えているので同法は違憲であると判定した。この判決はルーズベルト政権の社会保障法のような政策の実現を危険にさらす恐れがあった。
さらにハンフリーの遺言執行者対合衆国裁判、ルイヴィル共同資本土地銀行対ラドフォード事件、そしてシェクター鶏肉加工社対合衆国裁判における最高裁の判決はルーズベルトを憤らせた。3つの判決は1935年5月27日に下され、その日はニュー・ディールの推進者によって「暗黒の月曜日」として知られるようになった。3つの判決は違った内容だが、いずれも大恐慌を乗り越えるためにルーズベルトが必要だと考えた組織的変革を頓挫させる恐れがあるものであった。
ハンフリーの遺言執行人事件における判決は、独立行政委員会における大統領の罷免権を否定するものである。第1級郵便局長を上院の同意なしで大統領が罷免できることを認めた1926年のマイヤーズ事件の判決で、大統領の罷免権は確定したとルーズベルトは考えていた。1933年10月、ルーズベルトは連邦取引委員会の委員であるウィリアム・ハンフリーを罷免した。罷免の理由は連邦取引委員会法で定められている職務怠慢または不正行為ではなく意見の相違であった。罷免を不服としたハンフリーは告訴し、ハンフリーの死後も遺言執行人によって裁判は続行された。最高裁は全会一致で、議会は連邦取引委員会法によって連邦取引委員会を独立行政委員会として設置し、したがって同法の規定に基づいて大統領の罷免権は制限されるという判決を下した。議会は連邦取引委員会を行政府の統制から独立して行動するように規定したため、規定された理由以外での罷免は禁じられる。
ルイヴィル共同資本土地銀行対ラドフォード事件はフレイザー=レムケ法に関する訴訟である。同法は破産した農場を差し押さえる銀行の権利を制限した。最高裁は、同法が憲法修正第5条で保障されている財産権を債権者から剥奪しているため違憲であると判定した。
シェクター鶏肉加工社における判決は、近代行政国家に対する直接的な挑戦であった。全国産業復興法には鶏肉の処理に関する規定が含まれていた。その規定に基づいて、処理業者で働く労働者の最大労働時間、最低賃金が決定され、不当な競争が禁じられていた。シェクター鶏肉加工社は食品として不適切な鶏肉を販売したとして告発された。シェクター鶏肉会社の経営者達は罰金と服役を命じられた。それを不服としてシェクター鶏肉会社は巡回控訴裁判に控訴したが棄却された。そこでシェクター鶏肉会社は、全国産業復興法の規定が議会の権限を踏み越えるものだと最高裁に訴えた。その結果、最高裁は、シェクター鶏肉会社が州際通商条項によって鶏肉を販売していないという判断を示した。さらに最高裁は、ルーズベルトの要請により議会が国家復興庁に与えた自由裁量権は、立法権の行政府への移譲であって違憲であるという判決を下した。
全国産業復興法を違憲と判断したことに加えて、1936年1月6日、最高裁は、農業調整法に対しても無効と判決した。最高裁は、政府には一般の福祉のために課税し支出を行う権限があると認めながらも、農業調整法は2つの理由で違憲であるとした。同法は農産品の加工税を加工業者から徴収し、農民に助成金として分配している。しかし、農産品の加工税は憲法上の意味で税ではない。税という言葉は、1つの集団から集めたお金を他の集団の福祉に使うという意味に解釈してはならない。あくまで税は歳入を集めるための手段である。つまり、農産品の加工税は連邦政府による課税権の不当な行使である。また農業は純粋に地方的な経済活動であり、憲法修正第10条の下、州の管轄に委ねられている。したがって地方的な状況を改善しようとする連邦政府の介入は憲法によって州に保留されている権利の侵害であり正当化されない。
さらに1936年5月、最高裁はガフィー石炭法を無効と判定した。同法は石炭産業の労働者の最低賃金、最大労働時間、公平な労使慣行を規定している。最高裁は、石炭産業は地方の経済活動なので議会は憲法上の権限を超えているという判決を下した。ガフィー石炭法に挑戦したウェスト・ヴァージニア石炭会社は97パーセントの石炭を州外に出荷していたが、最高裁は、出荷は州をまたいで行われているが生産は主に州内で行われていると主張した。したがって連邦政府は、雇用、賃金、もしくは労使慣行について規定することはできない。同様の理由により、国家労働関係法も無効にされる恐れがあった。最高裁はニュー・ディール立法を一掃しようとしているとルーズベルトは確信するようになった。
最高裁が契約の自由の下、女性の最低賃金を規定したニュー・ヨークの州法を破棄した時、大統領に最高裁を抑制するように求めるリベラル派の圧力は頂点に達した。国民の選挙による行政府に対する信任と国民の権利を保障する憲法の番人としての司法府の判決との相克に直面して、裁判所の違憲立法審査権のあり方についての真剣な再検討がなされた。最高裁の権限を制限するために多くの法や修正が議会に提案された。法を違憲として破棄する際に7票から9票を必要とするといった修正案や議会に最高裁の決定を覆す権限を与える修正案などが提案された。また最高裁が憲法上、議会に与えられていないと主張する権限を明確に議会に与えるように憲法を修正するという提案もなされた。多くのリベラル派は最高裁と憲法修正を1936年の大統領選挙の主題にするように求めた。しかし、過去に最高裁を大統領選挙の主題にして失敗した例を知ったルーズベルトはそうした要望を斥けた。
第2次ニュー・ディール
最高裁の判決によりニュー・ディール立法が違憲とされ、経営者側に傾いた国家復興庁に反抗して労働者のニュー・ディールに対する支持は退潮し、1936年の大統領選挙で急進派のヒューイ・ロングが大きな影響力を及ぼすことが予見された。ロングは、各家庭に年額2,000ドルを支給し、家屋建築費用として5,000ドル、さらに大学授業料、高齢者年金を配ることを提唱した。その財源として年間所得100万ドル以上で500万ドル以上の財産を持つ者の超過所得を没収するとロングは主張した。こうしたロングの案を700万人が支持した。またフランシス・タウンゼントが60歳以上の市民に毎月200ドルを支給し、30日以内に全部使い切らせるという案を提唱し、数百万人の賛同者を得た。
こうした急進派の伸張に後押しされてルーズベルトは急激な左旋回を行い、第2次ニュー・ディールが始まった。第2次ニュー・ディールは、少数者、労働者、高齢者、その他の経済危機によって大きな影響を受けている者に対する計画を通じて積極的に消費者の購買力を回復させようとした。連邦政府は、社会的、経済的平等を保ち、1人当たりの所得を維持するために所得を再分配する役割を果たした。つまり、ニュー・ディールは当初、大恐慌による国民の窮状を救うという緊急対策的な意味を持っていたが、第2次ニュー・ディールによって恒常的な社会改革の意味を持つようになった。1935年の一般教書でルーズベルトは次のように第2次ニュー・ディールの開始を宣言した。
「我々の探求に直接関連する要素を定義するために、私は議会と国民に3つの大きな分野について話そう。1、我々が住んでいる土地の国家的資源のより良い利用を通じた生活の安全保障。2、人生の主要な変遷と変化に対する安全保障。3、きちんとした家の安全保障。今、私は議会に、安全保障の3つの分野をすべて最終的に確立するための広範な計画、多くの失われた年月のために、実現するために多くの将来の年月を必要とする計画を提出する準備をしている。以前になされたものよりも包括的な我々の国家的資源に対する研究は、将来の我が国民の福利のための国富の発展と保存のためになされるべき大規模な必要かつ実践的な作業を示した。土地と水の健全な利用は、単なる植樹、ダムの建設、電気の配分、辺縁部の耕作地の撤回よりもずっと包括的である。地方か都市の縒り合わさった人口が、それを取り巻く条件の下で安全ではないことが認識されている。この目的のために、我々は、そうした人々に対する生活手段の賢明な配分に従った我が国の人口に対する賢明な配慮でこの問題に対処し始めている。私がすぐに話すつもりである人々を仕事に就けるための明確な計画は、我々の国家的資源のより多い活用を通じた生活の安全保障のより大きな計画の一部をなす。生活の広範な問題に緊密に関係するのは人生の主要な災害に対するその安全保障である。ここでまた、多くの国々や多くの州で試みられ達成されてきた包括的な調査によれば、連邦政府が行動を取る時は来た。2、3日内に私はあなた方にこうした研究に基づく明確な提言を送るだろう。そうした提言は、今、始めるべき失業者保険、高齢者保険、児童、身体障害者、妊婦などの福祉、その他、病人の側面など広範な課題を対象とする。我が国民に対するより良い住居という第3の要素も、実験と研究の対象である。ここでまた、失業者に仕事を与えるということに関連して私が提案したことで第1の実践的な措置がなされた。我々が計画することは何であれ、我々がすることは何であれ、こうした3つの明らかな安全保障の目的の下に置かれるべきである。我々は、こうした主要な目的の幅広い概要を実現できないような行き当たりばったりの公共政策で貴重な時間を無駄にする余裕はない。そうした精神で、人々を仕事に就けるという仕事という困難で不可避な状況によって作られた直近の問題に私は取り組んだ。1933年の春に、貧困の問題とそうした政策ははっきり違っているように思えた。今日、我々の経験と我々の新しい国家的な政策の下、そうした政策の幅広い原理に従い、主導し、促進するような方法で人々を仕事に就けることができると我々は分かった」
1935年、ルーズベルト政権は、連邦政府の最大の救済機関の1つである公共事業促進局を発足させた。国家復興庁の第2段階と言える公共事業促進局は、30パーセントに達する失業率に対して全国の公共事業を調整し、再植林、洪水抑制、地方の電化、発電所、下水処理場、校舎建設、貧民街の一掃、奨学金のために数十億ドルを支出し、アメリカの地方に大きな影響を与えた。また画家、音楽家、作家が雇用され多くの芸術事業が行われた。
ルーズベルトの計画の中核は社会保障法であった。同法は、高齢者と失業者に対して社会保障を与えるための包括的な制度を連邦に作り出すことを目的としていた。従業員給与総額の1パーセントの課税によって失業補償を行うこと、高齢者支援資金の国の支払額の半分を州が負担すれば、定額の高齢者年金に加えて、連邦政府が特別奨励金を支給すること、子供や障害者の福祉、公衆衛生事業拡大のために連邦政府が州に助成金を支出することなどが定められた。1935年社会保障法は議会を通過し、大統領の署名によって成立した。その合間にルーズベルトは慎重に世論を醸成した。ルーズベルトは自らの仕事を人民の教育、つまり、社会保障はアメリカ国民の価値観にとって馴染みがないものではないと教えることにあると考えていた。
ルーズベルトは、社会保障を伝統的なアメリカの価値観に慎重に接木した。それだけではなくルーズベルトは、権利は政府の抑圧に対して体現されるという伝統的な考えを超えて、政府は経済的安心を確保する義務があるという考えに国民を導いた。ルーズベルトは、国家的な規模の産業社会の発展により、多くの人々が小さな共同体や家族の中で経済的安心を得ることが不可能になっていると論じた。複雑化した大都市や組織化した産業の下、連邦政府は時代にあった福祉を確保できるように人民を助けなければならない。ルーズベルトは、リンカーン大統領が憲法制定者の思想に新しい意味を吹き込み、政府はすべての人民の生命、自由、そして幸福を推進するという広範な目的を持つという概念を提唱したと賞賛した。リンカーン大統領は、すべての者に公平な機会を与える自由の積極的な理解を生じるものとして独立宣言を賞賛していた。困窮している人々はもはや自由な人々ではないという新しい権利の概念を採用する時が来たとルーズベルトは論じた。そうした権利の新しい理解は1932年の民主党の党大会でアメリカ国民のためのニュー・ディールを約束した時からルーズベルトの心中にあった。
新しい個人主義の体現を伴うニュー・ディールに対する有権者の承認は1936年の大統領選挙でルーズベルトの主要な課題であった。ルーズベルトによって起草された民主党の綱領は独立宣言に倣って書かれた。例えば綱領は社会保障法に関して、「我々は、代議政治の基準は人民の安全と幸福を促進する能力にあるという真実を自明のものとする。社会保障法の基礎において、我々はすべての我が国民に経済的安全保障する仕組みを樹立する決心をした」と述べている。
ニュー・ディールによって、個人の経済的福祉を確保するだけではなく大恐慌の広範な経済的問題に対処するための一連の法、大統領令、そして大統領声明が発表された。ルーズベルト政権期に、高齢者、失業者、身体障害者、そして扶養すべき子供がいる家族を支援するための計画が実施された。雇用対策事業は平時の予算で歴史上、最大額を記録した。初めて連邦政府は労働組合の結成を促進した。ルーズベルト政権以前、工場労働者以外はほとんど労働組合に加盟していなかった。ルーズベルト政権の終わりまでにワグナー法の制定により労働組合が普及した。
同法により、労働者の団結権と団体交渉権が保障された。労働関係委員会が設立され、紛争を調停し、労働関係における不正行為に対して停止命令を出す権限が与えられた。同委員会は5年間に700万人を超える労働者が関係する3万3,000件の労働争議を扱い、そのうち9割を円満に解決した。同委員会に付託された3,166件のストライキのうち2,383件が平和的に解決された。1938年6月、議会は公正労働基準法を可決した。同法は、週40時間労働と最低賃金を規定した。労働時間の規定の対象者は1,300万人に及び、最低賃金の規定によって恩恵をこうむった労働者は70万人を数えた。公正労働基準法の合憲性が問題となったが、最高裁は全会一致で同法を支持した。こうした法制化によって労働組合は強大化し第2ニュー・ディールの政治的原動力となった。
ルーズベルトは実業に連邦政府の権限の優越性を認めるように要求した。セオドア・ルーズベルトと同じくフランクリン・ルーズベルトは自身を保守的な改革者としていた。私企業に反対するのではなく、実業の最も不正な慣習を削減し、最も極端な経済的不平等を緩和することによって私企業を強化したいと考えていた。商業活動を規制する連邦政府のいかなる権限も否定するアメリカ実業界はこうしたルーズベルトの試みに反対した。
そうした抵抗に対するルーズベルトの怒りは激しかった。1936年の党大会でルーズベルトは聴衆に向かって、実業界が不満を抱いているのは権力が奪われるからだと述べた。そうした権力が覆される時が到来したとルーズベルトは宣言した。ニュー・ディールによる規制は連邦政府、特に大統領が普通の市民に市場での平等な機会を保障する責任を拡大した。ニュー・ディールは概ね資本主義者の枠内で運用されたが、ルーズベルトは、状況に応じて大統領は国家の利益に配慮する義務があると主張した。
ニュー・ディールの諸政策を実現するためにルーズベルトは議会を主導するリーダーシップを発揮した。ルーズベルトは議会に直接出席し、教書を読み上げ、官職任命権を積極的に利用した。議会の指導者をホワイト・ハウスに招き、入念な討議を行った。農業、労働といった分野の民間利益団体の支持を通じて議員に政権の政策を指示するように圧力をかけた。こうして議会は大統領の行動を追認する機関となった。
1936年の大統領選挙
1936年の大統領選挙は、1932年以来起きている重要な政治的変化の続行を確実にした。第1次ニュー・ディールは、差し迫った救済や景気回復に重点が置かれた政策であったが、第2次ニュー・ディールは社会改革の様相をはっきりと帯びていた。ニュー・ディールに対する批判は革新派も保守派からも行われた。革新派は、ルーズベルトは余りにも保守的であり、ニュー・ディールは首尾一貫した政治哲学を欠き、救済においても、経済改革においても不十分であると批判した。保守派はさらに痛烈な批判を行った。保守派はニュー・ディールに基づく放漫な事業は国家財政を破綻させると批判した。ニュー・ディールはアメリカの伝統的な自由経済を破壊に導く社会主義政策であり、階級間の対立を助長し、権利章典に保障された個人の権利を侵害し、憲法に保障された州権を侵害して連邦制度を破壊に導くものであるという批判がなされた。民主党内でもニュー・ディールを支持する一派と、ニュー・ディールに反対する一派の対立が目立つようになってきた。
こうした問題にも拘わらずルーズベルトは圧勝した。1932年のルーズベルトの勝利は、ルーズベルト、もしくは民主党がアメリカ国民に受け入れられたというよりも、アメリカ国民がフーバーを拒絶した意味合いのほうが強かった。しかし、1936年にはルーズベルトのリーダーシップとニュー・ディールが圧倒的に受け入れられた。ルーズベルトは実に一般投票で60.8パーセントの票数を獲得した。それはこれまでの大統領候補で最大の得票率である。選挙人にいたってはメイン州とヴァーモント州を除くすべての州の選挙人を獲得した。民主党もさらに多くの議席を上下両院で獲得した。つまり、国民の大多数が今やニュー・ディールを支持していることが明白となった。1936年の大統領選挙で共和党の伝統的優位が決定的に崩壊した。そうしたルーズベルトの勝利に貢献したのは、増加の著しい低所得層を中心とする都市の大衆であった。ルーズベルトは就任演説でさらなるニュー・ディールの推進を誓った。
「再び借問しよう。我々は果して1933年3月4日に描いた設計の目標に到達しただろうか。我々は幸福の谷を発見しただろうか。広大な大陸を占め、巨大な天然資源に恵まれる一大国家に思いを馳せる。その1億3,000万の国民は国内では平和を保ち、国際的には自国を善隣の友邦となりつつある。私は知っている。合衆国が民主主義的な政治方式の下で、国家を未曾有に豊かな人間生活の増進に転換でき、かつ最低生活水準を単なる生存の水準よりもはるかに高く引き上げることができるのを立証できることを。しかし、ここに我が民主政治に挑戦する課題がある。私は知っている。この国内にその全人口の多くの部分をなす数千万の市民が現在この時、今日の最低生活水準で生活の必需品と見られる物資の大部分に事欠いているのを。私は知っている。数百万の家族が極めて乏しい収入で生計を立てているため、家族に不幸が起こらないだろうかと日々、不安に怯えて生活しているのを。私は知っている。数百万の人々の都市や農場における日常生活が、半世紀前ならば、いわゆる上流社会の人々によって猥雑と見られる状態の下に続けられているのを。私は知っている。数百万の人々が教育、娯楽、さらに彼らの境遇や彼らの子孫の境遇を改善する機会を奪われているのを。私は知っている。数百万の人々が農場や工場の生産品を購う資力がなく、この彼らの窮乏のためにさらに他の数百万の人々の仕事や生産する力を奪っているのを。私は知っている。国民の3分の1が貧しい家に住み、貧しい身なりをし、貧しい食物をとっているのを。私がこのようなことを諸君に伝えることは絶望してではない。私は希望を以ってそれを諸君に伝える。というのは、国家はこのようなことが不正であると認め、かつ理解して、これを解消することを提議しているからである。我々はどの個人のアメリカ市民も国家の関心と配慮の対象として決して見殺しにしないことを決意している。かつ、我々は法に忠実な国内のいかなる集団も決して無用なものとは考えない。富める人々をさらに富ますことではなく、貧しい人々を豊かにすることこそ、我々の進歩の基準である。合衆国大統領として就任の宣誓を再び行うにあたり、アメリカ国民が進むべく選んだ道に沿って国民の前進を指導する厳粛な義務を私はここに引き受ける」
ニュー・ディールによって貧困の救済と雇用の増加が図られた。1937年には再び景気後退があり、その翌年には失業者が1,000万人を突破したが、第2次世界大戦による軍需産業の発展によって失業者は激減した。賃金と物価は安定した。ダムの建設、再植林、国立公園の新設などによって自然保護と天然資源の浪費が防止された。株式市場の規制、地方の電化計画、労働組合の強化などに対する政府の機能と規制の拡張は、国民経済に大きな影響を与えた。そうした影響は私企業に多くの機会を与えた。大恐慌で終末を迎えるように思われたアメリカ資本主義社会はニュー・ディールによって公共の福祉の原理に基づいて悪弊が除去され鋳直された。国民の福祉に連邦政府が責任を負うという考え方が一般に受け入れられるようになった。連邦政府の長期的な経済的、社会的事業が既定の事実となった。そして、ルーズベルトはウィルソン政権以来、失われた大統領のリーダーシップを再び取り戻し、第1次世界大戦以来、滞っていた連邦政府の権限の成長を促進した。ジャクソンが最高裁の判決を軽視したのとは違ってルーズベルトはそうした権限の拡大を憲法の枠内で行った。ルーズベルトは裁判所詰め替え案で最高裁に挑戦したが、弾劾によって司法府に挑戦しようとしたジェファソンに比べれば穏健であった。
裁判所詰め替え案
1936年の大統領選挙で勝利を収めたルーズベルトは、当初、議会の権限を拡大して、ニュー・ディール立法に違憲判決を下す最高裁の権限を制限する憲法修正を考えた。しかし、議会の権限を拡大するように憲法を修正することは、これまで憲法に反するとしてニュー・ディール立法を無効にしてきた最高裁が正しかったと認めるに等しかった。また憲法修正には、4分の3以上の州の批准を要するので実現が困難であるだけではなく、たとえ実現するとしても時間を要するので急務には役に立たない恐れがあった。ルーズベルトは求めたのは憲法自体、または裁判所制度自体の改正ではなくニュー・ディールに反対する判事の交代であった。
その結果、ルーズベルトは、1937年2月5日、70歳に達して6ヶ月以内に退職しない判事に対して新しい判事を任命するいわゆる新聞によって名付けられた「裁判所詰め替え」案を議会に提案した。そうした案を最初に考えたのはウィルソン政権のジェームズ・マクレノルズ司法長官である。9人の判事の中で6人が70歳以上であったので、新しい判事が6人任命されることになり、最高裁の構成員は15人に拡大されることになった。新しく任命した判事がニュー・ディールに対する最高裁の抵抗を抑えてくれるだろうとルーズベルトは期待した。
これまで最高裁はジェファソン政権、ジャクソン政権、リンカーン政権、そしてグラント政権で拡大されたが、それらはすべて議会の発案によるものであった。大統領から事前に何の相談もなくそうした措置が提案されたのは前例のないことであった。ルーズベルトは裁判所詰め替え案を民主党の領袖に相談しなかった。そのために党内の一致を欠く原因となった。保守派が裁判所詰め替え案に反対したのは当然であったとしても、従来、裁判所改革を主張していたリベラル派も司法府の独立を侵害するものとして反対した。ルーズベルトの裁判所詰め替え案への世論の反応は激しかった。来る日も来る日も裁判所詰め替え案に関する議論は新聞の紙面を飾った。議論は国中の至る所で行われた。
ルーズベルトは2期目に入ってから最初の炉辺談話で率直に問題の本質を国民に示そうと試みた。ルーズベルトは、1期目を振り返るとともに、司法府が単に法を解釈する機関としてではなく、政策を決定する機関として事実上、作用していることに国民の注意を促し、裁判所の判決が判事の個人的な経済的偏見に左右されていると指摘した。さらにルーズベルトは、どのような目的で憲法制定者が連邦政府を樹立したのかについて述べ、行政府、立法府、そして司法府がどのような関係を築くべきなのかを示唆している。
「今夜、私はホワイト・ハウスの机に向かいつつ大統領第2期を務めて以来、初めて国民諸君にラジオを通じて話す次第である。私が諸君にラジオを通じて最初に話し掛けた4年前の3月のあの夜のことが思い起こされます。あの頃、我々は全国的な銀行恐慌の最中にいたのであった。1933年に諸君も私も、我々の経済組織を2度と破綻にさらすようなことをしてはならない。我々は2度とあのような大恐慌の危険を冒すことはできないということを知った。このような暗い日々を2度と繰り返さないようにするには、この経済組織を破綻にさらした弊害と不平等を防ぎ癒すに足る力を備えた政府を持つ他にはないと我々は確信した。そこで、我々はこれらの弊害と不平等を正し、我が国の経済組織に均衡と安定を与え、この経済組織を1929年に起こったような原因に対してびくともしないようにする計画に取り掛かった。今日、我々は、この計画の遂行半ばにいるに過ぎない。しかも経済の復興は急速に進み、今週あるいは今月というわけではないだろうが、1年あるいは2年のうちに、1929年の危機が再び起こり得る程になっている。連邦による法がこの計画を完成するために必要とされている。個人的または地方的あるいは州による努力だけでは1937年の我々を守ることができないということは10年前と些かも変わりない。4年前には瀬戸際に至るまで我々は行動を起こさなかった。遅きに逸した程であった。もし我々が何ものかをあの大不況から学んだとすれば、我々は無駄な空理空論に耽って決断の日を延ばし続けるようなことは2度としないだろう。アメリカはあの不況から学び取った。すなわち、過去3回の全国的選挙において、国民の圧倒的多数は、議会と大統領に対して、この保護策を講ずる仕事に、それも長い議論の年月の末にではなく、直ちに着手するように投票を通じて指令した。ところが裁判所は、このように選ばれた議会の力を疑い、現在直面している社会的、経済的状態に取り組むことによって、我々を破綻から守るべき権能を議会に対して認めようとしていない。この保護策を続けていくにあたって、我々の力は1つの危機に直面している。この危機は目立たないものである。閉ざされた銀行の門の外に預金者が列を作って並ぶということもない。しかし、先見の明がある者にはこの危機のアメリカに対して与えるであろう危険性が実に深いものであることは明瞭である。この危機に直面して現在取らなければならない行動について、我が国民の3分の1が衣食住に事欠いているという議論の余地のない恐るべき事態に取り組む必要性について分かりやすく話そうと思う。先週の木曜日、私はその畑を耕すようにとアメリカ国民が憲法によって与えられた3頭立ての馬にアメリカの政治組織をなぞらえた。この3頭の馬というのは言うまでもなく、政府の三府、すなわち連邦議会、行政府そして裁判所のことである。この馬の中で、2頭は今日、力を合わせて鋤を引いている。ところが3頭目の馬はそうではない。合衆国大統領がこの3頭立てを御そうと試みているのだと仄めかす人は、大統領も行政首長として彼自身3頭の馬の1頭に過ぎないという簡単な事実を見落としている。御者の席に座っている者はアメリカ国民自身に他ならない。畑を耕そうと望んでいるのはアメリカ国民に他ならない。3頭目の馬も他の2頭と力を合わせて引くことを望んでいるのはアメリカ国民に他ならない。諸君は、合衆国憲法を繰り返し読んでいると思う。聖書のようにそれは何度でも読み返されるべきものである。もし諸君が独立革命の後に独立13州が連合規約の下で運営していこうした時、全国的な問題を取り扱うに足る権限を持った連邦政府が必要なことが分かったために、憲法が制定されたことを覚えているのであれば、憲法は極めて理解しやすい文章である。その前文において憲法は、一層完全な連邦を形成し、一般の福祉を増進することを目的としていると述べている。そして、これらの目的を遂行するために連邦議会に権限が与えられた。その権限を一言で言うのであれば、当時全国的な性格を持ち、単なる地方的な行動によっては解決しないようなあらゆる問題と取り組むために必要な一切の権限であったと言える。ところが憲法制定者は、ここにとどまってはいなかった。その当時夢想だにし得ない多くの他の問題が、後には全国的な問題となるであろうことに留意して、制定者達は、『合衆国の共同の防備と一般の福祉の目的のために税を賦課し徴集する』広範な権限を連邦議会に与えた。諸君、これこそ建国の愛国者達が彼らの言うように『我々及び我々の子孫のために一層完全な連邦形成する』目的を以って、全国的な権限を持った全国的政府を樹立するために連邦憲法を起草するにあたってその礎とした明確な目的であったと私の衷心より信じているところである。[憲法制定後]約20年近くの間、連邦議会と最高裁との間には紛争はなかった。しかし1803年に議会がある法を可決したのに対して、裁判所は、これは憲法の明白な規定を侵害するものであると言った。裁判所はこの法を違憲であると宣言する権限があると主張し、事実、そう宣言した。しかし暫くの間、裁判所自体がそのような権限は軽率な行使を許さない特別な権限であることを認め、ウォシントン判事の言葉を通じてその権限に次のような制限を加えた。すなわち『法の憲法侵害が凡そ疑問の余地のない程に証明されるまでは、その法は有効であると見なすことは、その法を可決した立法府の叡智と誠意と愛国心に払うべき当然の敬意に他ならない』。ところが、憲法によって社会的、経済的進歩を図ろうとする近代的運動が起こって以来、裁判所はますます頻繁にますます大胆に連邦議会や州議会によって可決された法律を否認する権限を主張し、上述の本来持っていた制限をまったく顧みないようになった。過去4年間、凡そ法令に対し疑わしいというだけでは違憲としないという健全な原則は放棄されている。裁判所は司法機関としてではなく、政策決定機関として活動している。連邦議会が全国の農業を安定させ、労働条件を改善し、不正競争に対し企業を保護し、その他多くの方法によって、明らかに全国的な要請に応えようと試みた時、裁判所の多数意見はこれらの連邦議会の法の叡智を審理する権限、すなわちこれらの法に書かれた政策を認め、または否認する権限を持っているのだと主張している。これは独り私だけが行う非難ではない。現在の最高裁の最も優れた判事達の非難でもある。これらの事件の多くにおいて、反対意見を書いた判事達の言葉のすべてをここに諸君に伝える余裕はない。鉄道退職者法を違憲とした事件によって、例えばヒューズ判事は、その反対意見の中で、多数意見は、『健全な原則から離反するものであり』、かつ『通商条項に不当な制限』を課すものであると言っている。そして他3人の判事が彼に同調した。農業調整法を違憲とした事件においては、ストーン判事は多数意見を指して『憲法の曲解である』と言っている。そして他2人の判事が彼に同意した。ニュー・ヨーク州最低賃金法を違憲とした事件では、ストーン判事は、多数意見は実際には彼ら自身の『個人的、経済的偏見』を憲法の中に読み込んでおり、もし立法権が社会の多くの人々の貧困と生存と衛生の問題を解決すべき方法を自由に選ぶことが許されないのであれば、『政府は政府としての能力を失う』と言っている。そして他2人の判事が彼に同意した。これらの反対意見に従えば、裁判所の一部の判事達が主張しているように、憲法のある部分によって、甚だ遺憾ながら判事は国民の意思を挫くことを余儀なくされているという根拠はない。そのような反対意見に照らす時、ヒューズ判事が、『我々は憲法の下にある。しかし、憲法とは判事がそうだといったものに他ならない』と言った通りであることがはっきり分かる。裁判所はその司法機関としての機能を然るべく果たすことの他に、不当にも自らを議会の第三院に、判事の1人が言うように超立法府として作り上げ、憲法の中に、本来存在せず、またかつてその存在を意図されたこともないような言葉と意味を読み込んでいる。したがって、我々は国民として憲法を裁判所から救い、さらに裁判所自体を裁判所から救い出す行動をとるべき時が到来した。我々は、最高裁ではなく、憲法自体に訴える方法を見つけ出さなければならない。我々は憲法の下にあって、憲法を超えてではなく、裁きを行うような最高裁を望んでいる。我々が、裁判所に望むのは法の支配であって人の支配ではない。私はすべてのアメリカ人と同様、憲法制定者達によって提案されたような独立した司法府を望む者である。それは憲法をそこに書かれているように執行する最高裁を意味し、憲法を司法権の勝手な行使によって修正すること、すなわち司法府の独断による憲法修正を拒むような最高裁を意味する。遍く認められている事実の存在を否定することができる程、独立している司法府を意味しない。ところで、どうすれば国民から与えられている委託を遂行し続けることができたのであろうか。昨年の民主党の綱領には、『もしこれらの問題が憲法の枠内で有効に解決できない場合には、我々は有効に通商を規制し公衆の衛生と安全を保護し経済の安定を守るこれらの法を制定する権限を保障する明白な憲法修正を求めるであろう』とある。換言すれば、立法によるあらゆる他の可能な手段が失敗に終わった後、初めて憲法の修正を求めるであろうと言っている。私の提案は何か。簡単に言えば次のようである。連邦裁判所の裁判官ないし判事が70歳に達し、しかも恩給付きで退職する機会を利用しない時は、時の大統領は憲法に要求されているように、合衆国上院の承認を得て新しい判事を任命することができる。この案は2つの大きな目的を持っている。すなわち司法制度に新しく若い血を注ぎ込むことによって、第1にすべての連邦司法府の審議をより迅速にし、したがってより低廉にすることであり、第2には社会的、経済的問題の判決に普通の人がその下で生活し働かなければならないような現在の事実と環境に対して、個人的体験と関係を持っているより若い人を参加させることである。この計画は我が連邦憲法を司法府による動脈硬化症から救うものとなる。この計画に反対する者は、私が最高裁判所を『詰め替え』ようとしているとか、有害な先例を作ることになろうと叫んで偏見と恐れを煽り立てようとしている。この問題に対して私は私の目的に対する善意の誤解を一切解くように率直に答えよう。もしこの『裁判所を詰め変える』という言葉によって法を無視し、一定の事件に対して私が欲するように判決を下すような操り人形を法廷に持ち込もうと私が望んでいると言われるのであれば、私はこう答えたい。凡そその職にふさわしいような大統領は、最高裁に対してこの種の判事を任命するようなことはしないだろうし、その職にふさわしいような尊敬すべき議員を持った上院はそのような任命を承認しないだろう。ただし、もし詰め替えという言葉によって、現代の問題を理解している何人かの現在の判事達に並んで席を占めるにふさわしい判事達を私が任命し、それを上院が承認するであろうと言われるのであれば、そしてまた、議会の立法政策に対する議会の判断を乗り越えることのないような判事を私が任命し、さらに判事としてすなわち立法者としてではなく、行動するような判事の任命が『裁判所を詰め替える』と呼ばれ得るものであれば、私は、そして私とともにアメリカ国民の大多数は正しくこのようなことを、それも今すぐ行うことを欲していると私は言いたい。すべての法律家と同様、すべてのアメリカ人と同様、私はこのような論争が起こらざるを得なかったことを遺憾とする。しかし合衆国の安泰こそ、そして実に憲法自体の安泰こそ我々すべてが第1に考えなければならないことである。我々は今日、裁判所とうまくいかないのは、制度としての裁判所のためではなく、裁判所の中の人間のために起こっているのである。しかし、我々は、将来を恐れるあまり、今日の問題を取り扱うに必要な手段を我々に拒むような少数の人々の個人的見解に我が憲法の運命を委ねることはできない。この私の計画は、裁判所に対する攻撃ではない。それは裁判所を我が立憲政体におけるその正当で伝統的な場所に戻し、裁判所を憲法を土台として『生きた法の制度』を築くというその高い使命を取り戻させようと試みるものである」
ルーズベルトの努力にも拘わらず、世論はルーズベルトに不利に傾いた。最終的に1937年7月、裁判所詰め替え案は議会で否決されたが、ルーズベルトは戦闘で負けて戦争に勝ったと考えた。最高裁はニュー・ディール立法を無効にしなくなったのである。事実、1937年以来、最高裁は経済に関連する重要な連邦法を無効にしなかったし、1996年の予算細目に対する拒否権を除けば、立法権の行政府への移譲の故を以って連邦法を違憲と判断しなくなった。それどころか最高裁は、最低賃金法、ワグナー法、社会保障法などに合憲判決を下した。第2次世界大戦中、ルーズベルト政権が行った価格統制は合憲であると判断された。連邦の権限と大統領の権限に対する司法的な障壁の大半は取り除かれた。しかし、選挙による行政府の原理と憲法の番人である司法府の原理との相克は未解決のまま残された。
保守連合の形成
しかし、裁判所詰め替え案をめぐる戦いはかなりの政治的犠牲を伴った。1936年の選挙で民主党は上下両院で約4分の3の議席を制したが、最高裁問題は、ルーズベルトの議会と民主党に対する統御力を衰えさせた。戦争危険保険法案、退役軍人年金法案、農場抵当権歩合法案などが否決された。さらに最高裁問題は議会の独立を回復させ、超党派の保守連合の形成を促した。民主党議員と共和党議員の新たな保守連合は、1937年から1960年代中盤まで歴代大統領のあらゆる改革案を阻んだ。
1938年の中間選挙に先立つ予備選挙で、ルーズベルトはニュー・ディールに忠実ではない議員の再指名を妨げようとした。ルーズベルトは1つの知事予備選挙と幾つかの議会予備選挙でニュー・ディールに抵抗する民主党員をニュー・ディールを信奉する民主党員に代えようとした。タフトとウィルソンも非協調的な党員を予備選挙で追放しようとしたが、ルーズベルトの運動は前例のない規模で行われ、ウィリアム・タフト大統領やウィルソン大統領と違って党組織を介さずに行われた。大統領の妨害によって再指名の獲得に失敗した者もいたが、再指名の獲得に成功した者もいた。ルーズベルトが指名に反対した中で2人の現職議員を除いてすべての者が指名を獲得した。ルーズベルトの試みはあまり成功しなかった。それは政党内部で州や地方組織が依然として大きな力を持っていることを示していた。また諸州の党機関の支配者達が、自らの既得権益を維持するためにいかに中央からの干渉に反発するか、さらに諸州の党組織を支配する上院議員を排除することがいかに困難であるかが示された。大統領の活動は、憲法上の抑制と均衡制度を破壊するものだとして非難され、政治的反対を引き起こした。そうした政治的反対によって、1938年の中間選挙で民主党は多数派を維持したものの多くの議席を失った。裁判所詰め替え案と同じく追放運動は、ニュー・ディールに抵抗する政治的連合を強化する結果をもたらした。1938年のルーズベルトの失敗以来、大統領は議会予備選挙に公然と介入することを躊躇するようになった。
とはいえニュー・ディールに反抗的な民主党議員を規制しようとする大統領の行動は必ずしも無駄ではなかった。ルーズベルトの反対に抵抗して再選された上院議員は、少なくともルーズベルト権期に政党内の重要な支配的地位に復帰することも、共和党にくら替えすることもできず、ルーズベルトの3選と4選を阻止することもできなかったからである。さらに1940年の選挙で、民主党員はルーズベルトの特別な働きかけがなかったのにも拘わらず、自発的にルーズベルトの政策に最も批判的であった3人の上院議員の再指名を拒否した。もし大統領が自らの政策を支持しない議員の再選を阻止できるのであれば、アメリカの政党制度は地方分権から中央集権に転換を遂げることになるであろう。このような意味でルーズベルトの追放運動はアメリカ政党史上極めて重要な出来事であった。
行政制度改革
アメリカ人は大統領をますます道義的リーダーシップを担う存在として、議会を主導する存在として、そして政策作成を主導する存在として見なすようになり、そうした時代の要請は大統領専属の職員の規模を拡大させ、専門職業意識を高めた。創始の時以来、ささやかな規模だった行政府は1930年代以後、大規模な機関に成長した。
ブラウンロー委員会報告、1939年行政組織再編法、再編計画第1番、そして大統領令8248号は大統領制度の人事組織に関して画期的な出来事であった。それらは大統領が政治的活動で交渉を行う手段を統御するうえで最初の重要な組織的変革であった。「大統領は助けを必要としている」というしばしば引用される言葉が示すように、それは大統領を支援する組織の改革を行う動機となった。
ルイス・メリアムの覚書がブラウンロー委員会の知的基盤となった。1935年10月にチャールズ・メリアムに提出されたルイス・メリアムの覚書は、産業化と近代技術の影響によって、近代民主主義において、権限が選挙によって選ばれた代表から任命された政府の役人に移っていると指摘している。立法府は行政府に政策に関連する一連の問題を行政府に委任せざるを得なくなった。アメリカにおける行政府の責務の拡大は、大統領の管理能力に大きな負担を与えた。大統領はますます増大しつつある行政組織を効率的に運営する責任を負わなければならなくなった。省庁の利害の対立によって閣僚はお互いに対立するようになり、大統領は閣僚に支援を期待できない。また大統領は行政組織の組み換えだけでは行政的な管理上の問題を解決できるとは期待できない。
ルーズベルトは、会計検査院の機能、公職委員会の組織、大統領令の処理、行政組織への権限の委任、緊急的な行政組織と恒常的な行政組織の関係を検証する広範な研究を望んでいた。研究の方向性を定めた後、ルーズベルトは研究を後援することに合意した。ルーズベルトは、1936年3月20日、ルイス・ブラウンロー、チャールズ・メリアム、ルーサー・ギューリックの著名な3人の学者を大統領行政管理委員会に任命した。行政管理委員会は議長の名前からブラウンロー委員会と呼ばれた。ブラウンロー委員会は大統領に効率的な管理手法と行政府の各省庁を統制す。ブラウンロー委員会は国家緊急事態会議の付属機関とされた。
公的にはブラウンロー委員会の使命は、緊急事態に創設された新しい行政組織と既存の行政組織との関係を研究することであった。しかしながら、事実上、研究の主要な目的は、ブラウンローの覚書が示しているように、必要な情報と提言が得られるようにルーズベルトの人事組織を強化することであり、管理上の能力を高めることであった。後年、ブラウンローはブラウンロー委員会を、ルーズベルトの利益に迎合してその知的独立性を犠牲にしたという議会の攻撃から擁護している。ブラウンローは、ブラウンロー委員会が公式に大統領によって任命されたのであり、また大統領自身が大統領制度について誰よりも熟知していることから大統領に大統領職について相談することは当然であると論じた。ブラウンロー委員会の報告は大統領権限の強化を実質的に求めているが、その提言は単にルーズベルトの見解を伝えたものではない。ブラウンロー委員会は、行政上の理論の特質、政治的洗練、ルーズベルトに対する敬意、民主主義への危機感という複合的な理由からルーズベルトの関心を反映する提言を行った。
ブラウンロー委員会がその研究指針を定めた後、1936年の大統領再選までルーズベルトは委員会への接触を控えた。その数ヶ月間、ブラウンロー委員会は、連邦政府のすべての行政機関に対する責任に見合う統制力と管理能力を大統領に与える手段を発見するためにあらゆる調査を行った。ブラウンロー委員会は1937年1月1日に報告書を大統領に提出した。政府運営の効率性は人民の政府に一般の意思を反映させるために必要である。大統領制度は時代遅れの制度であり、行政科学の近年の進歩にも応じておらず、複雑な現代社会の要望に対応できていない。政府が小さかった時代は、その非効率性に目をつぶることもできた。しかし、政府の規模が劇的に拡大し、政府機関が増大している今、極めて多面的な活動を指示し調整するために行政府の再編が必要である。強力な大統領のリーダーシップが民主的な政府に必要である。
ブラウンロー委員会の最初の提言は、6人の大統領補佐官を置くことである。そうした大統領補佐官は、直接関係ある情報を行政府の各省庁から迅速に得ることで大統領が決定を下す手助けをする。そして、関係する各省庁に大統領の決定を迅速に伝えることで大統領の決定が実行されるのを手助けする。彼らは大統領と各省庁の長官の仲介役を務め、彼ら自身で決定を下す権限を持たない。補佐官は専門分野に従って国内情勢、国際情勢について大統領に助言する。他にもスピーチライター、日程担当秘書官、議会担当補佐官、広報担当補佐官などがいる]。
またブラウンロー委員会は大統領府の創設を提言した。大統領府は予算局とホワイト・ハウス事務局を含み、大統領に忠誠を誓う側近で構成された。議会から影響を受けやすい既存の省庁と比べて、大統領府は大統領の決定に緊密に関係する責任を負った大統領の組織であり、その構成員は政治的、政策的目標を大統領と共有していた。ブラウンロー委員会は、予算局の財政、予算政策に関する役割を強化することを提案した。また予算局長を閣議に出席させ、大統領に直接報告させるようにする。さらに予算局の行政上の研究能力を高め、連邦資金の支出に関する監督権限を強める。大統領府で重要な職に就く者は大統領によって選ばれ、上院の承認を得る必要はなかった。ホワイト・ハウス事務局は内政、国家安全保障、婦人、黒人、経済など様々な領域の補佐官を抱えている。
さらにブラウンロー委員会は、拡大する行政府の活動を統制する大統領の能力を高めようとした。1937年までにルーズベルト政権は自律的な政府機関の乱立というこれまでになかった新しい状況に直面していた。そうした機関の数の多さと独立性は統一された活発な行政府を導入するという大統領の試みを阻害した。実際、ルーズベルトは1936年の選挙の後、行政管理は1期目で最も成功を収められなかった側面であり、共和党が選挙運動でそうした側面に攻撃を集中させなかったことで救われたと述べている。ブラウンロー委員会は、すべてで100以上ある既存の機関を大統領の権限の下にある12の省庁に統合するべきだと提言した。
ブラウンロー報告は、多くの点で、大統領のリーダーシップの高まる要求への対応を明確に示している。しかしながら、議会はブラウンロー報告に、特に公職制度改革、行政府再編、会計検査院の責務に関する点に疑念を抱いた。ブラウンロー報告を、ルーズベルトが独裁制を打ち立てるために権力を握る隠れ蓑だと見なす者も少なくなかった。それに対してブラウンロー委員会は、真の改革なしでは大統領職は大恐慌に対応するためにルーズベルトに託された信任に応えるのに十分なリーダーシップを発揮することができないと確信していた。ブラウンロー委員会は、最も必要とされることは、大統領が行政首長として政府を円滑に管理する手段、もし可能であれば、大統領がその責任を果たすのに見合った権限を持てる実践的な方法を模索することであるという統一した意見を持っていた。萎縮した大統領制度は、国内の経済的危機と国外の独裁者の挑戦によって傷付けられているアメリカの立憲制度そのものの枠組みを脅かしているとブラウンロー委員会は見なした。政治的な側面をできるだけ小さくしようとしたブラウンロー委員会の試みにも拘わらず、委員会の報告は議会によって大統領の文書だと見なされた。ブラウンロー委員会は、大統領制度を強化する試みを、大統領の管理上の能力を高めることで、大統領が政府を実際に統御する能力を改善し、大統領により説明責任を負わせることになると擁護した。説明責任こそ効率的な民主主義政府の重要な礎である。
ルーズベルトはブラウンロー委員会の提言を全面的に支持した。1937年1月10日、ブラウンロー報告がホワイト・ハウスで公表された時、ルーズベルトは報告を熟知し、4時間にわたってその提案の率直な概観を述べた。議会は新しい大統領府について特に何も議論しなかった。しかし、省庁を改編して統合することを目指した1937年行政組織再編法案は激しい議論を引き起こした。ルーズベルトの包括的な行政府の再編計画は、行政府の管理をめぐる立法府と行政府の長い戦いの新しい幕開けとなった。戦いが特に激しくなった原因は、行政府が公共政策を担う重要な存在となってきたからである。ニュー・ディールによってもたらされた福祉政策の拡大は、ますます複雑な責任を負うことになった政府が、政策の形成を官僚制度に委ねるようになったことを意味した。したがって、省庁の管理をめぐる議会とホワイト・ハウスの戦いは、官職任命権や威信をかけた争いではなかった。アメリカの公職の方向性と性質を形成する権利が問われていた。
議会が最終的に1939年行政組織再編法を制定した時、議会は大統領に制限付きで新たな行政権を与えた。例えば、同法によって、省庁の再編する権限は2年間に限定され、21の重要な省庁は再編の対象外とされた。1939年行政組織再編法は大統領令8248号で実施され、ブラウンロー委員会の提言が多く実現された。再編計画第1番と大統領令8248号によって、大統領府が創設され、その傘下に多くの省庁が置かれた。
「民主主義政府を破壊する無情な試みが行われている近年、民主主義が完全に民主的であるために常に弱くなければならないとあからさまに断言され、したがって、すべての自由な国家を徹底的に破滅させるのは簡単だとあからさまに断言されている。我々の共和国の150年間で、すべての破壊分子の試みに対してうまく抵抗しているという自信があり、国内からか国外からかに拘わらず、我々は絶えずアメリカの民主主義の手段が時代に対応する重要性に注意深い。浪費も無駄な活動もなく、人民の政府が確実に即座に有効に人民の意思を行うための条件を整えるのは、我々の責任である。アーサー大統領の下、1883年に、我々は公職法で民主主義機構を強化した。 1905年から、セオドア・ルーズベルト大統領は連邦政府の管理について重要な研究を開始した。1911年に、タフト大統領は、重要な提言を行った経済性と効率性に関する委員会を命名した。 ウィルソン大統領とハーディング大統領の下で1921年に、我々は、予算過程を強化した。セオドア・ルーズベルト大統領、タフト大統領、ウィルソン大統領、ハーディング大統領、クーリッジ大統領、及びフーバー大統領は強く連邦政府の管理活動の再編成を提言した。1937年、私は、議会によって認められ、予算が与えられた研究に基づいて、行政府の行政管理の強化について提案した。4分の1世紀以上にわたるこの一連の長きにわたる提案はどのような意味でもその意図において個人的もしくは党派的な意味はない。こうした措置のすべては、民主主義を機能させ、平時であれ戦時であれ、民主主義の武器を強化し、多くの手段で自由な政府が人民に対する強固な恩恵を確実にするという唯一で最高の目的を持っていた。我々の行政管理が弱体であれば、我々は自由ではない。 しかし、もし我々や他の者が、我々が強いこと、我々は強靱であると同時に心優しいこと、そして、アメリカ国民がすると決めたことは、民間の問題において管理と組織がより良く理解されている国で近代化された組織化能力を持つ最善の国家機構で以って効果的に行われることを知っていれば我々は自由である。この案を提出することにおける私の全体の目的は共和国の行政管理を改良することであり、詳細の違いに拘わらず、我が国がこの主要な目的で結合すると確信していると私は感じる。この案は直接大統領に報告する政府機関の数を減少させて、また、行政管理の近代的手段で行政府全体に対処する際に支援を大統領に与えるという実際的必要性に関連している。40年前の1899年に、マッキンリー大統領は、彼の8人の閣僚と2人の委員会の議長を通して行政府全体の機構に対処することができ、いわゆる準司法的な委員会は1つしかなかった。 彼は8人か10人を通じてすべての仕事に関して接触を保つことができた。現在、40年が経って、(主要ではない機関を除いて)30の主要な行政機関が大統領に直接報告するだけではなく、重要な行政的な問題に関して大統領と会談するのを必要とするような管理上の十分な業務を持つ幾つかの準司法的な組織がある。1人の人物が非常に多くの人々に会って、直接報告を受け取って、彼らが提出する彼ら自身の問題に関して助言を与えようと試みるのが物理的に不可能になった。 さらに、大統領には、今日、彼らの事業を相互に足並みを揃えるか、議会によって定められた国策に沿うようにするという責務が課されている。そして、大統領は業務の不要な重複を防止しようとしなければならない。再編法案で大統領に提供された行政補佐官は、こうした包括的な管理と指示の機能を実行できない。 彼らの責務は、私が情報を得て、凝縮して、まとめることを助けることであり、どのような意味でも大統領補になることもなく、彼らはいかなる省庁のいかなる者に対してもまったく権限も持たない。30か40の主要な機関に直接対処する物理的に不可能な責務から大統領を救うことができる唯一の方法は再編であり、ちょうど1939年の再編法案によって熟考されるように、大統領に報告する責任がある長官の下で主要な目的に従って行われる機関の再編である。この法案は、大統領が政府のすべての政府機関の組織を調査して、どのような変化が5つの明確な目的のいずれか1つ、もしくはそれ以上を達成するのに必要であるかを決定することを示している。1、経費を減らすこと。2、効率を増加させること。3、主要な目的に従って機関を合併させること。4、同様の機能を持っている機関を統合して、必要ではないと考えられる機関を撤廃することによって機関の数を減少させること。5、業務の重複を排除すること。この責務をすぐに達成するのは不可能だが、しかし、即座に迅速に達成するようにという議会の宣告に当然の尊敬を抱いて、私は、幾つかの段階で即座に責務を行うと決定した。第1の措置は、全体的な管理を改善して、大統領が政府の管理責任者として、より良い行政管理のための必要な組織と機構を大統領に提供することによって責任を分配するのを助けることであり、それは法案で設定された目的を達成することを行うことであり、それは同時に行政府の多方面の機関に対処しながら、大統領の困難を減少させるだろう。第2の措置は、省庁の活動の配分を改善することであり、すなわち、法案で設定された目的を達成することを行うことであり、同時に行政省庁を通じて行われる行政府の仕事を助けることである。これらすべてに際して、人民に対する責任は大統領にある。第3の措置が省庁間の管理を改善することであり、つまり、省庁の長官が、より良く自らの責任を果たし、彼ら自身の仕事を数人の補佐官や下僚に分配できるようにすることである。これらの3つのそれぞれの措置は時に応じて1つ以上の再編に関わる計画の提案を必要とするかもしれないが、迅速かつ実用的で、そして条例で設定された例外と除外から最大限まで議会によって私に課された義務を果たすことが私の目的である。私は現在伝える案を以下の通り4つの部に分割して簡潔に説明するつもりである。第1部、大統領府。1937年1月12日の議会への私の教書で、行政府の行政管理の改善に関する問題について議論する際に、私は大統領の管理手段を強化して発展させるための提言を私の承認とともに伝えた。それらの3つの管理手段が1、予算と効率化の研究、2、計画、及び3、人事の扱いである。大統領が憲法上の責務を行うのを可能にする機構を持つことができるように、それ以来の2年間で私が蓄積した経験は、大統領がこれらの管理機関に直接近付く手段を持つのが必要であるという私の信念を深めた。そして、大統領が支出を制御して、効率を増加させて、業務の重複を排除して、大統領が情報を得ることを可能にし、連邦の一般の状況と政府の事業に関して議会により良く助言することを可能にする。したがって、私は、法案が予算局を財務省から大統領府に移すのが、目的を行うのにおいて必要であって、望ましいのが分かった。予算会計法に関する立法の経緯から、議会と人民にとって、大統領に主として行政府の予算を編成する責任を持たせること、そして予算局長を大統領の直接指示と監督下で行動させることが1921年の目的であった。予算の見積の作成に関する限り、財務省に予算局が置かれていたという事実から深刻な困難は生じなかった一方で、もし予算局が10の行政省庁の1つの一部分でなければ、議会によって最近与えられた予算局の調整活動とその研究、調査活動は促進されることは明らかである。また予算局が、より良くその仕事である調整と調査を実行するために、法案の目的を達成するために、中央統計局の機能を予算局に移す必要があることが私は分かった。大統領府へのこうした移管によって、予算の準備と管理、政府機関の仕事の調整、そして、1939年の再編法案の5つの目的を達成するのに必要な研究と調査に関する管理機関への直接的な接触が大統領に与えられるだろう。また、私は、現在独立した機関である国家資源計画委員会を大統領府に移管し、連邦雇用安定局の機能を商務省から大統領府に移管し統合していわゆる国家資源企画局という統合体にするのが必要であって、望ましいのが分かった。この局は現在の国家資源委員会の諮問委員会のように、大統領、議会、人々に人的、物的国家資源の保全に対する計画と事業に関して助言することができる技術職員に支援されて、政府内で臨時に働く市民から構成されるだろう。大統領府へのこうした移管によって、行政首長の不可欠な手段の部分として国家資源の利用の計画を立てるのに関係する機関へのより直接的な接触と指示を大統領は行うことができる。以前に、私は提言したが、これにより、私はこの局の仕事が永久的な法の基礎に置かれるべきだという提言を改めて強調する。法案に基づく除外のため、政府の3番目の管理機能、つまり人事管理を大統領府に移管することは不可能である。しかしながら、私は、人事管理に関するホワイト・ハウスの連絡代理人として務めるために、1939年再編法案に基づき認められた大統領の行政補佐官の1人を命名するのが、私の目的であることを議会に知らせることを望んでいる。このように、大統領は政府の3つの主要な管理機関への直接的な接触が初めて与えられた。3つの機関はどの既存の省にも属さない。省庁の支援、及びこの再編を以って、大統領は支出を制御して、効率を増加させて、重複を排除するために政府の組織の調査をする責務を続けることができる」
最初、大統領府には、ホワイト・ハウス事務局に加えて、予算局、国家資源企画局、人事連絡局、情報局、緊急事態管理局が含まれた。重要な法案の大部分は、ホワイト・ハウス事務局で草案が作られるようになった。特に予算局は大幅な権限を持つようになり、大統領の国内政策を形成する責任を負うようになった。大統領府は、1930年代を通じて大規模な組織に拡大した。さらに大統領府は第2次世界大戦中、戦争機関と呼ばれる多くの行政機関を傘下に収めた。
大統領府の創設は大統領が拡大する行政府の活動を管理する能力を高めたために、アメリカの政治制度の歴史で画期的な出来事であり、大統領制度の組織化において最も重要な措置である。また1939年行政組織再編法は、「管理大統領制度」の発展を促した。管理大統領制度は、大統領が行政権を官僚制度を厳しく管理するために使う制度であり、5つの要素によって規定される。第1に、大統領と同じ見解を抱く閣僚を選ぶこと、第2に、大統領の政策目的にあった顧問団を形成すること、第3に、閣僚と顧問団を使って省庁の運営を監督させること、第4に、予算過程を政策決定の主要な枠組みとして用いること、第5にホワイト・ハウスの統治制度に依存することである。詳細な説明を欠く憲法第2条の規定により、大統領には単独で行動する余地が残されているが、大統領制度は大統領府の制度化によって、大統領と専属の職員が権力の分立を避けて立法府から行政府への権限の移譲を促進する制度が組織化された。
ルーズベルトはホワイト・ハウスの職員を競争的な制度の中に置いた。同じ課題を競合する職員に与え、成果を競わせる手法である。競争的な制度の中で大統領は様々な情報源から情報を得ることができ、孤立を防ぐことができる。競争的な制度は、競合する様々な考えの間で均衡を保つ才能が必要であり、ホワイト・ハウスの職員が自由に大統領に会談できなくてはならない。ホワイト・ハウス内で職員相互の敵意が生まれるのを防ぐために、同じ職員同士がいつも対立しないように職員に与えられる課題は巧みに調整された。大統領の過度の関与が必要なために競争的な制度を管理することは非常に難しかった。そのため、ルーズベルト以外の大統領は競争的な制度を採用していない。
ラテン・アメリカ政策
ルーズベルトはラテン・アメリカ政策に関してドル外交の代わりに善隣外交を導入した。ルーズベルトは第1次就任演説の中で善隣外交を提唱した。コーデル・ハル国務長官は第7回汎米会議に出席し、ルーズベルト系論で示されるようなラテン・アメリカ諸国に対する干渉を否定した。ルーズベルトはハイチからアメリカ軍を撤退させ、合衆国がキューバに内政干渉を行うことを認めるプラット修正条項を破棄した。さらにパナマ政府に対するパナマ運河の使用料の支払いを増額した。1936年8月14日、ルーズベルトは善隣外交について以下のように演説した。
「我が国の南方の米州諸国は常に平等と相互の尊重の基礎の上に合衆国と協力する用意があったが、我々が善隣政策を開始する前には、ワシントンの我が国政府の側に彼らの国民的誇りや主権を軽視することがあったので、これらの諸国の間に憤慨や不安が存在していた。善隣政策を実施するにあたり、私は合衆国が武力介入に断固として反対する旨を表明してきた。我が国は汎米会議で不介入の原則を具体化する協議を行った。我が国はキューバ共和国の国内問題に干渉する権利を我々に与えたプラット修正条項を廃棄した。我が国はハイチからアメリカの海兵隊を撤退させた。我が国は我々とパナマとの関係を相互に満足のいく基盤に置く新しい条約に調印した。我が国は他の米州諸国と相互の商業上の利益となる一連の通商条約の締結に乗り出した。また2つの近隣共和国の要請があれば、米州諸国間の最後の深刻な国境紛争の最終的な解決に支援の手を差し伸べたいと希望している。南北アメリカ全体を通じて、善隣の精神は実際の活き活きとした事実になっている。21ヶ国の米州諸国は友好と平和で共存しているだけではなく、そのように存続しようとする決意を結束して抱いている。我が国は他のいかなる国も支配することを求めない。我が国は領土的膨張を求めない。我が国は帝国主義に反対する。我が国は世界の軍備の縮小を願っている」
1936年12月にブエノス・アイレスで開催された臨時汎米会議にルーズベルトは出席し、南北アメリカ諸国がヨーロッパからの侵略に協力して対抗できるように連帯するべきだと訴えた。それは従来、アメリカのみが信奉してきたモンロー・ドクトリンを南北アメリカ諸国の共通の大義としようとする試みであった。
「3年前にアメリカ諸国はウルグアイ共和国の偉大な首都モンテヴィデオの近くで会議を開いた。常時は暗い時代であった。我々は世界の他の諸国とともに、その激しさにおいて他に比類のない破滅的な不況の手中に握られていた。そして、他ならぬ我がアメリカ大陸で2つの友邦の間で悲劇的な戦争[チャコ戦争]が酣であった。けれども3年前の会議において、我々の共通の未来に対する希望が生じたばかりではなく、アメリカ民主主義諸国間の相互信頼が未だかつてない程に高まったのであった。この西半球においては恐怖の夜は既に明けた。経済不況の耐え難い重圧は多くは和らげられ、また我々の共同の努力が少なからずものを言って、今日この半球の国家はいずれもその隣国と平和状態にある。今回の会議は同盟を結んだり、戦利品の分配を行ったり、国家を分割したり、人間を運任せの勝負におけるチェスの駒のように取り扱うためのものではない。幸先よく開かれたこの会議で、我々の目的は幸ある平和の持続を保障することにある。3年前、新世界に危機が襲い掛かっていることを認めて、我が21の共和国は見事な一致団結の下に新しい精神を闡明して全世界に模範を示したが、これこそこの半球の情勢における新しい日であった。相互に平和に暮らそうと決意することにおいて、我々両アメリカ大陸諸国は、同時に次のことを明らかにする。すなわち、我々は結束して最後の決断をするのであって、もし他の国々が戦争をしたいという狂った感情や土地に対する渇望に駆られて、我々に対して侵略行為に訴えようとするのであれば、そこには相互の安全と利益のために相談し合う用意が完全にできている半球が見出されるだろうということである。私はブラジルの議会及び最高裁判所を前にして私が語った言葉を繰り返そう。『我々の中のいずれの国も独立の光栄は既に学んだ。いざ相互依存の光栄を学ぼうではないか』。第2に、そして平和機構の完成に加えて、我々は、戦争を生じるような状態が作り出されることを防ぐために、これまでより一層強力に努力することができる。いかなる国家もその境界内において社会的もしくは政治的正義が欠ける時は常に係争の原因となる。民主的な方法を以って、我々は両アメリカ大陸のために、我々すべての者に対して可能な最高水準の生活条件を達成するように努力することができる。政治的自由に恵まれ、働く意欲があって、また仕事を見出すことができ、家族を扶養し子弟を教育するのに十分に豊かで、人生における自分の運命に満足して隣人との仲も良いような男女は、自分を守ることはあくまでやり抜くだろうが、征服戦争のために武器をとることには決して同意しないだろう。これらの問題と絡み合って、一層自明な事実は、我々の中の各国の福祉及び繁栄は、我々同士及び我々と他の諸国との交易からの恩恵に頼ることが大きい。なぜなら現在の文明は商品の国際的交換の基礎の上に立っているからだということである。世界のすべての国が貿易に対してあらゆる種類の障壁を立てようとした最近の努力が、有害な結果を生んだことを感じてきている。市民の一人ひとりもそのために苦しんできた。このような方策を最も強く推し進めてきた国がその政策の最後の手段として戦争を必要とすると、声を大にして宣言するのは、決して偶然ではない。自給自足を目指す企図がその国民の生活水準を下げる結果となり、武器の上に武器を積み上げる狂ったような競走を行って、民主主義の理想が日増しに失われていく結果になるのもまた決して偶然ではない。このような事態を受け入れることを我々はあらゆる防御本能を以って熱烈な希望を説くことによって、心と技を用いることによって拒否しなければならない。私はここで、他の多くの成し遂げられてきたものと同じように、この点においてもアメリカ共和諸国が世界に有益な例を示したことに対して、私の満足を繰りかえさずにはいられない。1933年のモンテヴィデオにおける米州会議において採択された自由貿易政策支持の決議は最近数年間、全世界に荒れ狂った経済的狂気の嵐の中で、灯台のように光を放ち続けてきたのである。我々アメリカ諸国が成長して今日の国家となるまでには、種子が蒔かれてから3世紀の歴史を経ている。第4世紀には、これらの国々は平等かつ自由となり、立憲政治という共通の制度をもらたしたのであった。第5世紀に入った今日、相互の援助と理解の共通の土台が生まれつつある。我々の半球は遂に成年に達した。その一致団結した姿を世界に示すため、我々はここに集ったのである。我々は父祖達から偉大な夢を受け取った。我々はここにその夢を1つの偉大な統一された現実としたうえで返そうとするものである」
善隣外交は、第2次世界大戦中に、西半球諸国が枢軸国に対して強い姿勢をとる基盤となった。枢軸国が台頭する中でアメリカは中南米諸国と互恵通商協定を締結して経済的関係を強化した。さらに1938年の第8回汎米会議で採択されたリマ宣言では、南北アメリカの結束と外国からの干渉に対する集団自衛権が提唱された。さらに1939年、パナマの招聘によって米州外相会議が行われ、ヨーロッパの戦争に対する中立が確認され、南北アメリカ諸国に対する経済的影響を調査するための戦争経済局をワシントンに設置することが定められ、北は合衆国、南はケープ・ホーンに至る海域を中立水域とするパナマ宣言が採択された。1940年7月に行われたハヴァナ会議では、侵略が行われた場合に南北アメリカ諸国は相互に防衛及び援助を行うための協定を結ぶことが宣言された。日米開戦後、ラテン・アメリカ諸国はハヴァナ宣言に基づいて枢軸国に対して宣戦布告するか、もしくは外交を断絶した。1942年のリオ・デ・ジャネイロで開かれた米州外相会議で、汎米戦線が結成され、アメリカはラテン・アメリカ諸国に軍事産業の樹立援助、原料の購入や教育の拡充などにあてるために多くの借款を供与した。さらに1945年にチャプルテペック協定が採択された。同協定は、アメリカ諸国のある国の領土の保全、もしくは不可侵性、または主権に対する攻撃を協定に署名する他の諸国に対する侵略行為と見なし、そうした侵略が準備されつつあると信じるに足る根拠がある場合、協定に署名する諸国は適当な措置について協議するために会合すると規定した。つまり、すべての南北アメリカ諸国が集団安全保障体制に参加し、モンロー・ドクトリンの共同の支持者であることが示された。
ソ連との国交樹立
ルーズベルトはソ連のマキシム・リトヴィノフ外相と覚書を交わし、ロシア革命以来、初めてソ連と公式な外交関係を樹立した。ソ連はアメリカに反抗するプロパガンダや合衆国内での破壊活動を止めることを約束した、さらにソ連はソ連国内に居住するアメリカ人の信教の自由と公正な裁判を受ける権利を保障した。
中立政策
ルーズベルト政権の1期目と2期目は経済危機への対応で占められていたが、第2次世界大戦の勃発により、世界情勢への対応も重要になってきた。1941年に第2次世界大戦に参戦する以前から、アメリカはヨーロッパ情勢やアジア情勢に関与し、そうした姿勢は連邦政府、行政機関、そして大統領への権限集中をもたらした。ルーズベルトは党争の延期を宣言し、多くの共和党員を国防機関の枢要な地位に就けた。
1938年の終わりに、ニュー・ディールの原理を推進できる民主党員はルーズベルトの他にはいないと確信した革新主義者は、ルーズベルトの再指名を獲得する運動を始めた。しかし、最終的に1940年にルーズベルトが再選を目指したのは国際的危機があったためである。1940年の大統領選挙で勝利することにより、ルーズベルトは史上唯一の3選を果たした大統領になり、2期在任の伝統を破った。さらにルーズベルトは1944年の大統領選挙でも勝利し、4選を果たした。そして1945年に病死するまでルーズベルト政権は継続した。
全体主義が世界各地で勢力を伸ばす中、アメリカは手をこまねいているだけであった。1935年にドイツはヴェルサイユ条約の軍備解体条項の終了通告を行い再軍備の道に舵を切った。ドイツはラインラントに進駐した。国際連盟はそうしたドイツの行動を抑止することができなかった。エチオピアと交戦状態にあったイタリアに国際連盟は部分的経済制裁を行った。イタリアはそうした制裁を意に介さずエチオピアを併合した。さらにドイツはズデーテン地方に進駐し、ミュンヘン会談でイギリスとフランスはドイツに宥和的な姿勢を示した。ドイツに倣ってイタリアはアルバニアを支配下に置いた。日本は宣戦布告なしで中国と交戦状態にあった。真珠湾前夜まで外交に関する主導権を握っていたのは大統領ではなく、孤立主義を堅く信奉する議会指導者達に率いられた議会であった。中でもジェラルド・ナイ上院議員を中心とする兵器産業に関する調査委員会は、1934年2月8日、第1次世界大戦で銀行家や兵器製造業者が不当な利益をあげていたことを暴露し、第1次世界大戦にアメリカが参戦したのは、こうした不当利得者のために過ぎなかったと結論付けた。
1933年初めにルーズベルト政権は、侵略国家に対して禁輸措置をとる権限を大統領に与える法案を通過させるように議会に働きかけた。この法案は下院を無事に通過した。しかし、上院外交委員会は、侵略国家だけでなくすべての交戦国に対する禁輸措置をとるという内容に改定するようにルーズベルト政権に勧告したため、ルーズベルト政権はこの法案の提出を断念した。
さらに1935年、エチオピア危機の際に、多くのアメリカ人が中立法制定の必要性を感じていたにも拘わらず、その内容をどのようなものにするのかについて意見の統一はなされていなかった。ルーズベルト政権は、交戦国に対する選択的禁輸措置の自由裁量権を求めた。キー・ピットマン上院議員を筆頭に、上院外交委員会は、そうした自由裁量権を大統領に与えることに猛然と反対した。ピットマン達は、大統領が選択的禁輸措置をとることで特定の国を「侵略国家」と名指しすることになり、その結果、戦争に巻き込まれることを恐れていたのである。結局、大統領は、1935年8月31日、義務的武器禁輸をすべての交戦国に対して適用する法案に承認を与えた。これがすなわち1935年中立法である。中立法が禁輸に的を絞っているのは、ナイ委員会の影響があったことは明らかである。つまり、アメリカを戦争から遠ざけておく1つの方途は、銀行家や兵器製造業者の不当な利益をあげようとする目論見を禁輸措置をとることにより事前に挫くことにあった。ルーズベルトは、1935年中立法に承認を与えたものの、内心、このような硬直的な禁輸措置では、アメリカを戦争から遠ざけておくどころか、結局、戦争に引きずり込むことになると考えていた。そして、前法に引き続く形で定められた1937年中立法の骨子は、交戦国に対して現金決済以外で物資を販売することとアメリカ船籍の船舶が武器を輸送することを禁止するものであった。ルーズベルトは中立法が大統領の外交権限を侵害するものだと考えていたが、ニュー・ディールを推進するうえで議会と対立することは好ましくないと判断して中立法に反対を唱えず、拒否権を行使しなかった。その代わりにルーズベルトは中立法を運用する際にできるだけ自由裁量を行えるように調整しようとしたが、その試みは必ずしもうまくいかなかった。
何故、ルーズベルトは中立法に対して全面的な指導権を握ろうとしなかったのか。ルーズベルトがニュー・ディールを続けていくためには議会との協力が不可欠であった。議会には、アメリカは国際情勢に関与すべきではないという孤立主義者の勢力が根強く残っていた。孤立主義者の反感をかい、ニュー・ディール推進に悪影響を及ぼすことをルーズベルトは危惧していた。そのためルーズベルトは日独伊の勢力拡大に対して何も有効な手を打つことができなかった。ルーズベルトは悪化しつつあった国際情勢を好転すべく1933年に行われたロンドン国際経済会議やロンドン軍縮会議でほとんど成果をあげることができず、1933年末を境として孤立主義に従わざるを得なくなっていた。ルーズベルトは、選択可能な方途の中で、孤立主義者への譲歩として直接的な海外への関与を控え、中立法の枠内で自由裁量権を行使することにより国際秩序の安定を図るという道を目指したのである。
次第にルーズベルトは国際情勢に積極的に関与し、再度の世界大戦を防止するためには国民を目覚めさせなければならないと考えるようになった。1937年9月6日、ルーズベルトは全体主義の勢力拡大を阻止するように国民に訴えかける案を閣僚に打ち明けた。そして、1937年10月5日、ルーズベルトはシカゴで行った「隔離演説」でルーズベルトはドイツと日本の侵略行為を批判した。
「世界の人口の90パーセントの平和と自由、そして安全保障は、すべての国際的な秩序と法を崩壊させようとしている残りの10パーセントの人々によって危機にさらされている。数世紀を通して広く受け入れられてきた道徳基準に従い、法の下で平和に暮らしたいと望む90パーセントの人々はその意思を行き渡らせる何らかの方法を見つけなければならない。状況は決定的に広く懸念されている。問題は単に特定の条約の規定の侵害に関連しているのではなく、戦争と平和の問題であり、国際法、特に人間性の原則に関する問題である。それらが、協定、特に国際連盟規約、ブリアン=ケロッグ条約、そして9ヶ国条約の明らかな侵害に関係していることは真実である。またそれらは、世界経済、世界の安全保障、そして世界の人間性に関係している。世界の道徳意識は、不公正と根拠の確かな不満を取り除く重要性を認めている。しかし、同時に条約の神聖性に敬意を払い、他国の権利と自由を尊重し、国際的な武力侵略行為を終わらせる基本的な必要性を喚起させなければならない。不幸なことに、世界の無法状態という伝染病が広まっていることは真実である。身体を蝕む伝染病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている。私は平和政策を追求することを決意している。戦争に巻き込まれることを避けるためにあらゆる実行可能な方策を適用することを私は決意している。現代において経験と向かい合うと、どこかの国が、厳粛なる条約に違反して、実害を与えず弱過ぎるために適切に自国を守ることができない他国の領土を侵略し侵害することによって、全世界を戦争に突入させる危険を冒す程、愚かで無慈悲だとは想像もできないことである。世界平和と、我が国も含む、あらゆる国の幸福と安全は、今日、まさにその事実によって脅かされている。自制を働かせることを拒否し、他国の自由と権利を尊重することを拒否する国が、ずっと強くあり続け、他国の信頼と敬意を維持することができるのか。違いを調停し、他国の権利に対して配慮し粘り強い忍耐を発揮することにより、尊厳と堅実な状態を失った国がこれまでにあるのか。告知されようが告知されまいが、戦争は伝染病である。戦争は、もともとの戦場から遠く離れた諸国家と諸国民をも飲み込む。我々は戦争から離れていると決意しているが、戦争の破滅的な影響と戦争に巻き込まれる危険から我々自身を守ることはできない。我々は戦争に巻き込まれる危険を最小にするような方策を採っているが、信頼と安全が崩壊している無秩序な世界の中で完全なる防御をすることはできない」
隔離演説に対する直後の反応は好意的なものであったが、議会もアメリカ国民もヨーロッパやアジアに介入する準備は未だにできていなかった。ルーズベルトもそうした国民感情を理解していた。それはパネー号事件をめぐるルーズベルト政権の対応で示されている。パネー号事件は、1898年2月15日のメイン号事件、1915年のルシタニア号事件に類比される事件であるが、メイン号が米西戦争の直接的な引き金となり、ルシタニア号がアメリカの第1次世界大戦参戦の遠因となったのとは対照的に、パネー号はアメリカの第2次世界大戦参戦にほとんど影響を及ぼさず、すぐに落着している。これは、日本政府が速やかに賠償に応じたことも一因であるが、アメリカ国民の一般感情が強硬策を求めるまでに沸騰しておらず、第1次世界大戦後の孤立主義的傾向を完全に払拭するまでに至らなかったことに大きな原因があると考えられる。ギャラップ調査でアメリカ人の70パーセントは、アメリカが中国から手を引くべきだと回答した。ルーズベルトは、パネー号事件における日本軍の振舞いに激怒していたが国民感情に配慮して日本を強く非難することはなかった。
世論調査をホワイト・ハウスに導入した最初の大統領はルーズベルトである。ルーズベルトは世論調査を第2次世界大戦に関する決定に利用した。ルーズベルトは、もし国民感情を変えようと望むのであれば、戦争に関する選択に関して国民がどのように感じているかを知らなければならないと考えていた。世論調査は、孤立主義的な感情を打ち負かす武器であった。
外交権限の確立
孤立主義者と国際主義者の間の衝突は、ウィルソン政権の末期に起きたような外交政策を策定する権限をめぐる議会と大統領の間の衝突でもあった。孤立主義に対抗しようというルーズベルトの試みは皮肉にも国内政策を阻害した最高裁によって支持された。1936年、カーティス=ライト・エクスポート社対合衆国事件で最高裁は、交戦国へのアメリカ製の武器の輸出を差し止める権限を大統領に認めた1934年の議会決議を支持した。同決議は、1932年から1935年にパラグアイとボリビアの間で行われたチャコ戦争の際に制定され、ルーズベルトは両国への武器輸出を禁じた。カーティス=ライト・エクスポート社は、議会の共同決議と大統領令に違反して15丁の機関銃をボリヴィアに販売したとして告発された。カーティス=ライト・エクスポート社は、ルーズベルトの措置が大統領への不法な権限の委譲であると主張した。連邦地方裁はそうした主張を認めた。しかし、その一方で最高裁は大統領の外交面における包括的な権限を認めた。
最高裁は、国内問題と外交問題における大統領の憲法上の権限は根本的に異なると主張した。連邦政府は憲法で特に明示されている権限以外の権限を行使できず、列挙された権限を実行に移すのに必要かつ適切な黙示的権限しか行使できないというのは国内問題においてのみ適用される。外交問題においては、国際関係における唯一の政府組織としての大統領の行動は、憲法によって特別に授与された権限によるものでもなければ、議会から与えられた権限によるものでもない。外交問題における大統領の権限は絶対的であり、排他的なものであるから、大統領は、国内問題に関しては認められない法的規定からの自由を享受する。
カーティス=ライト・エクスポート社事件は、ハミルトンが1793年にワシントンの中立宣言を擁護する際に主張した大統領の外交問題における特権を認める憲法上の解釈を打ち立てた。カーティス=ライト・エクスポート社事件は、ルーズベルトの国際主義的な政策に憲法上の見解で挑戦することを不可能にした。さらに大統領が他国と行政協定を結ぶ権利はベルモント事件によって認められた。
1933年、アメリカは公式な外交関係をソ連と結んだ。ベルモント事件は、1917年のロシア革命前にアメリカの銀行に預金していたソ連の金属加工会社に関する事件である。ソ連はその会社を国有化し、合衆国の助けを得て預金を再請求しようと試みた。ニュー・ヨーク州法の保護に基づいてベルモント銀行は協力を拒否した。両国の間に結ばれた行政協定によってベルモント銀行に預金の払い戻しを強制できるか否かが争点となった。上院の批准を必要とする正式な条約として行政協定を実行することはできないが、行政協定によって合衆国はソ連のために払い戻しを請求する権限を持つと最高裁は判断した。
第2次世界大戦の勃発
ルーズベルトは世界大戦の勃発を回避しようとした。1938年1月、ルーズベルトはヨーロッパの騒擾の原因となっている問題を解決するための主要国会議をワシントンで開催することをイギリスに呼びかけた。しかし、イギリスは日本の侵略に関心を抱かず、ドイツに宥和的な姿勢を堅持したためにアメリカの要請に応じなかった。9月、ルーズベルトはケロッグ=ブリアン協定の締結国にズデーテン問題の解決に協力するように訴えかけた。ルーズベルトの呼びかけに応じる国はなかった。1939年4月、ルーズベルトはドイツとイタリアに10年間、ヨーロッパの諸国を攻撃しないように求める書簡を送った。ドイツとイタリアはルーズベルトの懇願をまったく受け入れようとはしなかった。
こうした努力にも拘わらず、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まると、ルーズベルトは中立を宣言した。その一方でルーズベルトは議会に中立法の改正を求め、現金支払い自国船主義に基づいて交戦国がアメリカから軍需品を購入することを認めさせた。ヨーロッパ戦線はドイツの圧倒的な優勢に傾き、ドイツに対抗し得る主要国はソ連を除けばイギリスのみとなった。ルーズベルトは中立の立場を取りながらも、イギリスがヨーロッパで戦争を継続できるように援助すること、アメリカの軍備を拡大するために時間的余裕を稼ぐこと、そして、外交と海軍力によって日本を牽制することが最優先課題だと考えた。
ルーズベルトは議会に軍事予算の大幅増加を求め、国防関係の重要閣僚に共和党の指導者を据えることで超党派政権を構成した。ルーズベルトは1940年9月にイギリスと駆逐艦基地協定を結んだ。同協定により、西インド諸島、ニューファンドランドのアージェンシア、そしてバミューダにあるイギリス軍基地を99年間使用する代わりに、ナチス・ドイツと戦うイギリスを支援するために50隻の駆逐艦を供与する道が開かれた。さらに議会は平時では史上初めての選抜徴兵法案を可決した。同法は、21歳から35歳までのすべての男性の登録と80万人の被選抜者の軍隊入隊を既定した。それはアメリカが公式に中立政策から逸脱することを意味した。
駆逐艦基地協定とは違って、武器貸与計画は議会の承認が必要であった。なぜなら約70億ドルにのぼる予算が必要であったからである。さらに第1次世界大戦時の戦債を返済しなかった国に対して新たな借款の供与を禁じたジョンソン法に違反することなく、イギリスに軍事援助を与える必要があった。武器貸与の法制化は、政府内で、ルーズベルトは行政府の単独的な行動を通じて目的を達成することはできないという大まかな見解の一致をもたらした。武器貸与法によって、アメリカの防衛に極めて重要であると見なす政府に対していかなる軍需物資でも売却し、譲渡し、交換し、租借し、貸与する権限が大統領に与えられた。また援助対象国の返済はドル建てに限定されず、大統領が適切と判断する資産で行われると規定された。武器貸与以前、アメリカは民主主義を支援するために戦争で不足した物資を援助する姿勢を示すだけであった。しかし、武器貸与によってアメリカは戦争の危険性を冒しても民主主義を支援するという強い決意を示した。1940年12月29日の炉辺談話でルーズベルトは、アメリカ人が一致団結して生産に勤しみ、「民主主義の一大兵器工場」として民主主義国家を支えなければならないと訴えた。
「できるだけ速やかに、我々が防衛用のものを製造するのに必要となる、あらゆる機械、あらゆる兵器工場、そして工場を建てることがこの国の目的であると私は明らかにしたい。我々は人材、技術、富、そして最も大事な意志を持っている。もし特定の産業で消費財もしくは贅沢品を作るのに、防衛目的に必要となる機械を使用して原料を使用する必要があるならば、そうした生産は、我々の大事で差し迫った目的のために控えなければならないし、徐々に控えられると私は確信している。それ故、私は、工場主、経営者、労働者、政府の公職者に全力を尽くして軍需品を速やかに出し惜しみすることなく作ろうと訴えかけている。こう訴えかけるとともに、私はあなた方に、我々すべての公職者が同じく誠心誠意、前途にある偉業に献身することを誓う。航空機、船舶、銃器、砲弾が作られれば、あなた方の政府は、防衛の専門家を伴って、この半球を防衛するのにそれらをいかに最善に使うか決めることができる。どれだけを海外に送り、どれだけを国内においておくのか、我々の全体的な軍事的必要性に基づいて決定しなければならない。我々は民主主義の一大兵器工場にならなければならない。我々にとってこれは戦争そのものと同じくらい深刻な緊急事態なのである。もし我々が戦争状態にあれば示すような、同じ決意を以って、同じ危機感を以って、同じ愛国と犠牲の精神を以って責務に専念しなければならない」
武器貸与法の審議は1941年1月10日に下院で始まった。議会での審議は孤立主義者の強い反発によって2ヶ月に及んだ。孤立主義者は、アメリカが戦争に巻き込まれる危険性が増大し、大統領の外交権限が著しく拡大されることに反対した。最終的に武器貸与法は3月11日に成立した。武器貸与法は大統領権限の異例な拡張であった。武器貸与法はまずイギリス、そして中国に適用された。武器貸与法の成立によってアメリカは連合国の後援者であるという姿勢を明示した。武器貸与法によって行われた支援は、1945年8月に支援が終了するまでに、500億ドル以上に達し、援助対象国は38ヶ国に及んだ。武器貸与法は連合国の勝利に貢献するだけではなく、アメリカ主導の戦後国際秩序の構築に活用された。
武器貸与法が成立した後、アメリカはアメリカ国内の港に停泊しているすべての枢軸国の船舶を拿捕した。ルーズベルトはグリーンランドに軍を進駐させ、防衛地帯の常用航路を確保することを宣言した。50隻のタンカーがイギリスに譲渡された。そして、ドイツの潜水艦によってアメリカの貨物船が撃沈された後、無制限非常事態宣言が公布された。枢軸国の全資産が凍結され、領事館は閉鎖された。
4つの自由
1941年1月6日、ルーズベルトは議会で「4つの自由」演説を行った。4つの自由とは言論・表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由を意味する。ルーズベルトは欠乏からの自由だけではなく、恐怖からの自由、つまり、外国の侵略からアメリカ国民と世界を守ることを提唱した。人権を擁護する義務は、新たなる安全保障であり、連邦政府の行政権の拡大を前提とした。さらに4つの自由は世界中のどこでも保障されなければならないとルーズベルトは訴え、それらを踏みにじる枢軸国を批判した。ルーズベルトは連邦の現状について議会に報告する大統領の憲法上の義務に基づいて、アメリカの将来と安全は今や国際情勢の帰趨にかかっていると述べ、党派的利害を離れてあらゆる面から国防に全国民が専心すべきであると説いた。その具体的方策として、平時産業の軍需産業への転換と武器貸与法の制定、そして国防体制を確立するのに必要な権限と予算を議会が大統領に認めるように要請した。
「第77議会の議員諸君、私はこの連邦の歴史にかつて例を見ない瞬間において諸君に呼びかけるものである。私は敢えて前例を見ないと言うが、それは今日程、深刻にアメリカの安全が外部から脅かされたことは、かつてなかったからである。現実的な人間なら誰でも、民主的生活様式がこの瞬間において、世界中のあらゆる箇所で攻撃を受けていることを、武力によるか、または現在平和を保っている国々を内部からその統一を破壊し不和を醸し出すことを狙う者の秘かに流布する悪意に満ちた宣伝によって、攻撃を受けているということを知っているはずである。過去16ヶ月間以上にわたり、この攻撃は戦慄すべき数にのぼる大小独立国において、民主的生活様式の根底的消滅をもたらしてきた。攻撃者達は未だに進撃を続け、他の大国小国を脅かしつつある。この故に私は、大統領として、『連邦の現状について議会に報告を行う』憲法上の義務を遂行するにあたり、残念ながら我が国と我が民主主義の将来と安全は、我が国境のはるかかなたの出来事によって、極めて重大なる影響を受けつつあると報告する必要を認める。この時にあたって必要なのは、我々の行動と政策を第1に、専心してこの国外の危機に対処させることである。なぜなら、我々の国内問題のすべては、今やこの一大危機の一部分でしかないからである。ちょうど我々の国内問題に関する政策が、我々の門戸のうちにいるすべての同胞の権利と人格的尊厳とに対する適切なる敬意の上に立てられてきたように、国際問題に関する我々の政策もまた、大国と小国を問わず、すべての国々の権利と尊厳に対する適切なる敬意の上に立てられてきた。そして、道義の上での正しさこそ、最後の勝利を得るべきであり、また事実得るであろう。過日の全国選挙においては、我が国のこのような政策については二大政党間の間に何ら実質的な差異を見られなかった。この線に関しては、アメリカの有権者諸君の前で相反する意見が対立したことはなかった。今日あらゆるアメリカ国民が、明瞭な危険を認識し、迅速かつ完全な行動を起こすことを要求し支持しているということは、数々の証明に照らして明らかである。それ故、緊急に必要とするのは、軍需物資生産の迅速にして強力なる拡充である。平和時における日常物資生産の基盤を戦時における軍需産業の基盤へと国家全体を切り換えるのは容易ではない。そして、その最大の困難は、この計画の初めに存するのである。すなわちまず新しい工作機械、工場施設、一貫作業の系統組織、造船台などを建設しなければならない。1度これを完全に行えば、軍需製品そのものは着実かつ迅速に流出を始めるであろう。もちろん、議会は常に計画の進行状況につき、正確な情報を与えられなければならない。しかしある種の情報は、我々自身の安全と我々の支持する諸国の安全のために、秘密を守る必要があることは、議員諸君も十分に認めているはずである。新たなる状況は、我々の安全を守るための新たなる必要を生み続けている。私は本議会に対し、我々の既に始めたことを続けるために、新たに大幅に増強された支出と権限を私に与えるように願う。同時に私は本議会に対し、現に侵略国と交戦中の諸国に引き渡すべき多くの種類にわたる軍需物資の余分な生産を果たすに十分なる資金とその権限を認められるように願う。これらの国々に対し、そのような武器を購入するためのドル借款を与えることを、ドルの形で返済されるような貸し付けを与えることは、私は望ましくないと考える。私はこれらの国々に対し、合衆国内で、我々自身の計画に適合した発注の仕方で、軍事物資の引き続く入手を可能にすることが望ましいと考える。後の世代におけるアメリカ人の幸福は、我々がこの援助をどれ程効果的に、またはどれ程迅速に与えるかにかかっていると言えよう。我々が対決を迫られるかもしれない非常事態の性格については、誰も正確に知る者はいない。我が国の生命に危険の迫る時、我が国の手が縛られていてはならないのである。我々はすべて、このほとんど戦争そのものと同等の深刻さを持つ非常事態の要請する犠牲を払う覚悟をしなければならない。国防準備の速度と能率を妨げるものは何であろうと、この国家的必要の前に道を譲らなければならない。人間はパンのみで生きるのではないが、人間は武器だけで戦うのではない。我々の防衛を担う者とその背後で我々の防衛を築く者は、彼らが守っている生活様式に対する揺ぎ無い信念から生じる活力と勇気を持たなければならない。我々が求める力強い行動は、戦う価値があるすべてのものの軽視に基づいているわけではない。国家は、アメリカの民主的生活の保全に彼らが関与していると国民に気付かせるものから大きな満足を得て、大きな強さを得る。そうしたものは我が国民の性質を強靭にし、彼らの信念を刷新し、我々が守ろうとしている制度への彼らの献身を強化する。確かに我々のいずれにも、今日、世界で最大の要素となっている社会革命の根本的な原因となる社会的、経済的問題に関して考えることを止める時間はない。というのは、健全で強力な民主主義の基礎に関して奇妙なことは何もない。その政治的、経済的制度に我が人民が期待する基本的なことは簡潔である。若者とその他の者に対する機会の平等。働くことができる者に対する職。必要とする者に与えられる安全保障。少数者の特権の廃止。すべての者に対する市民的自由の保全。科学的進歩の果実を広く享受することと絶えず上昇する生活水準。これらは単純であり、我々の近代世界の混乱と驚くべき複雑さの中で見失われることがない基本的なものである。現在の永続的な我々の経済的、政治的制度の強みはそれらがこうした期待をどれだけ実現できるかにかかっている。私は個人的犠牲を求める。私はほぼすべてのアメリカ人がその求めに喜んで応じると確信する。一部の犠牲は、税金をさらに支払うことを意味している。私の予算教書の中で、私はこの大規模な防衛計画の大部分を、我々が今日、支払っているよりも多い課税から支払うことを推奨しなければならない。何人もこの計画から富を得てはならず、そうしようと試みてはならない。支払い能力に応じた税額の原理は、立法を導くために絶えず我々の目前にさらされるべきである。もし議会がこうした原理を維持するのであれば、有権者は財布よりも愛国心を優先し、あなた方に拍手喝采を与えるだろう。我々が確保しようとしている未来で、我々は世界が人類の本質的な4つの自由に基づくことを期待できる。1つ目の自由は、世界中あらゆる場所での言論と表現の自由である。2つ目の自由は、世界中のあらゆる場所で自身の方法で神を崇拝するすべての者の自由である。3つ目の自由は、世界のあらゆる場所での欠乏からの自由である。それは世界の状況に翻訳すれば、すべての国がその住民に対して平時の健全な生活を保障する経済的理解を意味する。4つ目の自由は、世界のあらゆる場所での恐怖からの自由である。それは世界の状況に翻訳すれば、隣国に対して実質的な侵略行為を行う状況にある国がなくなる程度まで徹底した方式の世界規模の軍備削減を意味する。はるかに離れた千年紀の見通しはない。それは我々の時代と世代である種の世界が達成できる明確な礎である。そうした種の世界は、爆弾の音で創ろうとする専制のいわゆる新しい秩序のまさに対極である。その新しい秩序に我々は対抗するにあたって大きな構想、道義的秩序を持っている。良き社会は世界支配や同様の外国の革命の企みに対して恐れることなく直面することができる。我々のアメリカの歴史が始まって以来、我々は、永続する平和的な革命で変化に従事してきた。その革命は着実に進行し、静かにその変化する状況に自身を調整し、強制収容所もなければ溝の中の生石灰もない。我々が追求する世界秩序は自由諸国の協調であり、友好的で文明化された社会で協働することである。この国はその運命を数百万の自由な男女の手の中、頭の中、そして心の中に置いている。そして、その自由の信念は神の加護の下にある。自由はあらゆる場所での人権の至高性を意味する。権利を確保し維持しようと努める人々に我々の支援は行われる。我々の強さは我々の目的の統一性にある。勝利の他にその高い観念に終わりはない」
大西洋憲章
枢軸国の戦線拡大はとどまることを知らなかった。1941年6月22日、ドイツはソ連に侵攻した。アメリカは従来、ソ連に不信感を抱いていた。1939年以降、ソ連はドイツと不可侵条約を締結し、ポーランドをドイツと分割し、バルト三国を併合し、フィンランドに侵攻し、ルーマニアから領土を割譲させていた。しかし、ソ連が崩壊し、ドイツが勝利を収めることを恐れたルーズベルトは武器貸与法をソ連にも適用すると発表した。さらにドイツはイタリアとともに北アフリカでも軍事行動を開始した。アメリカの駆逐艦は大西洋を渡る連合国の船団を護送するようになった。
1941年8月14日、ニューファンドランドに停泊中のアメリカ巡洋艦オーガスタ上でルーズベルトはウィンストン・チャーチルとアメリカが今後イギリスに一層の援助を与えるに際して最も有効な方法について、特に武器貸与強化の具体策について会談した。さらにこの会談において米英両国の戦争目的と戦後処理の問題について幾つかの基本的合意がなされた。基本的合意は大西洋憲章として共同で発表された。大西洋憲章はアメリカの参戦の意思を示したものではなかったが、イギリスと戦後構想に関する共同声明を発表することで参戦への道を一歩前進したことを示していた。大西洋憲章はアメリカの外交姿勢をアメリカ国民だけではなく、世界各国に向かって説明し、ひいては全世界で全体主義の脅威にさらされている人々の意識を高揚させ一致協力に導く目的で公表された。大西洋憲章はウィルソンが平和14ヶ条で提唱した概念を再提起するものであった。後に大西洋憲章で示された戦後構想は国際連合の基盤となった。しかし、第6点に原案では「有効なる国際機構により」という文句が入っていたが、ルーズベルトの反対によって除去された。アメリカ国内の未だに強力な孤立主義者に対して、ウィルソンと同様の失敗をしないようにルーズベルトは慎重を期したのである。
「アメリカ合衆国大統領及び連合王国を代表するチャーチル首相は、会議の結果、両国の各々の政策の中にある彼らがそれらこそ世界のより良き将来への希望の基礎であると考えるいくつかの共通の原則を広く知らしめるべきであると考え、次のように声明する。第1、彼らの国は領土、あるいはその他の面での拡大の意図を持たない。第2、両国は当該地域の人民の自主的に表明された希望に基づかないいかなる領土上の変更にも反対する。第3、両国はすべての国民が自らの政治体制を選択し、その下で生活する権利を尊重する。また強制的に主権と自らの政府を奪われた諸国民にそれらが返還されることを望む。第4、両国は、現に負っている義務を十分に尊重しつつ、大国小国を問わず、勝戦国敗戦国を問わず、あらゆる国が同等の条件において、経済的繁栄のために必要な貿易を行い、世界の原材料を入手することができるように努力する。第5、両国はすべての国々に労働条件の改善、経済発展、及び社会保障をもたらす目的の下に経済上の完全な協調が確立されることを希望する。第6、ナチス暴政の最終的崩壊の後、両国はすべての国々が各々自国の領土内で安全な生活を営むことができ、あらゆる国土のあらゆる人々が恐怖と欠乏から解放されて自らの生命をまっとうすることが保障されるような平和の確立を希望する。第7、そのような平和はすべての人々に妨害を受けることなく公海及び大洋を航行することを保障するものでなければならない。第8、両国は世界すべての国々が精神的のみならず現実的理由によって、武力行使の放棄に到達すべきであると信じる。自国国境外で侵略の脅威を与え、あるいはそうする可能性のある国が、陸海空の軍事力を引き続き保持する限り、将来の平和は維持され得ないので、広範かつ永続的な全般的安全保障が確立されるまで、まずそのような諸国を武装解除することが何よりも重要であると確信する。両国は同じく平和を愛好する諸国民のために過酷な軍備の負担を軽減するような他のあらゆる実際的な手段に協力し、これを奨励する」
9月、ドイツの潜水艦が駆逐艦グリーア号に魚雷攻撃を行った時、ルーズベルトは敵対的なドイツの潜水艦を攻撃するように命じた。アメリカは高まる緊張の中で着々と戦力を配備していた。既に1940年にアメリカは選抜訓練徴兵法を制定していた。同法により、選抜徴兵制度が実施された。1941年11月、議会は、交戦国と貿易する米商船の武装化を禁止した中立法の条項の廃止を僅差で認めた。12月までにアメリカとドイツは大西洋で宣戦布告なき戦争に突入した。枢軸国との対決はもはや時間の問題であり、国民は連合国への支援を支持していたが、直接的な軍事介入に踏み込むには何らかの劇的な契機が必要であった。
第2次世界大戦参戦
極東では、中国戦線で膠着状態に陥っていた日本が新たなる活路を求めて北部仏印に進駐した。既にアメリカは航空機用ガソリン、高精度の屑鉄の対日輸出の規制を行っていたが、さらに全等級の屑鉄の禁輸、中国に対する新たな借款供与で応じた。ルーズベルトはそうした措置が日本によるアメリカの権益に対する攻撃を引き起こす可能性があることを十分に承知していた。さらに日本がドイツとイタリアと同盟を組むと、ルーズベルトは三国同盟を激しく非難した。日米関係の破綻を防ぐためにハル国務長官と野村吉三郎駐米日本大使との間で交渉が行われたがほとんど進展はなかった。さらに日本が南部仏印に進駐すると、アメリカは在米日本資産の凍結と全面的な対日石油禁輸を課した。ルーズベルトはフィリピンの軍隊をアメリカ軍に編入し、ダグラス・マッカーサーを極東軍の指揮官に任命した。近衛文麿首相は問題の解決のためにルーズベルトに首脳会談を申し入れた。しかし、10月16日、近衛内閣は崩壊し、代わって東条英機内閣の東郷茂徳外相は、アメリカが資産凍結と全面的な対日石油禁輸を解除する引き換えに、日本が軍隊を南部仏印から撤退させる案を提示した。ルーズベルトはその提案に関心を示したが、中国とイギリスの反対で受け入れを断念した。11月26日、アメリカはハル・ノートを日本側に示し、満州事変以前の状態に日本が戻ることを求めた。11月27日、日本はハル・ノートをアメリカの最後通牒と認めた。そして12月1日、日本は対米交渉の不成立とアメリカ、イギリス、オランダに対する開戦を確認し、翌日、真珠湾奇襲攻撃を行うことを決断した。
12月7日13時47分、大統領執務室に真珠湾攻撃を伝える電話がかかってきた。その時、ルーズベルトは、日本の外交官と会談中であったハル国務長官から報告が来るのを待っていた。真珠湾攻撃により2,000人以上が命を落とした。さらに177機の航空機、戦艦5隻を含む10隻の艦船が撃沈され、その他10隻が損害を受けた。真珠湾攻撃の開始前に日本は宣戦布告をアメリカに手交する予定であったが、事務処理上の遅れから間に合わず結果的に奇襲攻撃になった。「真珠湾を忘れるな」という言葉の下、アメリカ国民は激怒した。真珠湾攻撃は、できれば世界大戦に巻き込まれたくないというアメリカ国民の目を覚まさせる効果を果たした。1941年12月8日、ルーズベルトは議会に戦争教書を送付した。
「昨1941年12月7日、不名誉の日として長らく記憶されるべき日に合衆国は日本帝国の突如とした計画的な攻撃を被った。合衆国は、同国と平和の関係にあり、そして、同国の要請によって、太平洋における平和の維持のために同国政府及び天皇と猶、交渉中であった。事実、オアフにおける日本空軍部隊の爆撃開始の1時間後に、日本の駐米大使は彼の同僚とともに、過般のアメリカの通牒に対する公式の回答を国務長官に手交していたし、その回答は現在の外交交渉を継続することは無益だと思われると言明していたが、その中には、威嚇も戦争もまたは武力による攻撃の何の示唆も含んでいなかった。ハワイと日本との距離を考えれば、攻撃は幾日ないし幾週間以前に思慮深く計算されたことは明らかであると記すべきである。その所要の時日の間、日本政府は故意に平和継続に関する偽りの言辞と希望の表明を以って合衆国を欺こうと計った。ハワイ諸島に昨日加えられた攻撃はアメリカ陸海軍に甚大な被害を与えた。残念にも私は、非常に多くのアメリカ人の命が失われてしまったと伝えなければならない。それに加えて、サン・フランシスコとホノルルの間の公海上でアメリカの船舶が魚雷攻撃されているという報告を受けた。昨日、日本政府はマレーに対する攻撃も開始した。昨夜、日本軍は香港を攻撃した。昨夜、日本軍はグアムを攻撃した。昨夜、日本軍はフィリピン群島を攻撃した。昨夜、日本軍はウェイク島を攻撃した。そして、今朝、日本はミッドウェー島を攻撃した。すなわち、日本は太平洋地域全体に広がる急襲を行っている。昨日と今日の事実からすれば自明の理である。合衆国民は既に意見をまとめ、我が国の生命と安全に引き起こされる影響をよく理解している。陸海軍の最高司令官として、我々の防衛に必要な手段をすべてとるようにと私は命じた。いつものことながら我が国全体は、我々に対して加えられた襲撃の性質を忘れることはない。この予め計画された侵略を克服するのにいかなる時間がかかろうとも、正義の力を持ったアメリカ人は絶対的な勝利を得るだろう。我々が我々自身を最大限に守るだけではなく、このような形の背信行為により、確実に、2度と我々が危機に陥らないようにすると断言したが、議会と人々の意思を読み取っていると信じている。戦闘行為がある。我が国民が、我が領土が、そして我々の利害が深刻な危機に瀕している事実を看過することはできない。我が軍に自信を持ち、我が国民の無制限の決意を持って、神に誓って、我々は必然的な大勝利を得るだろう。1941年12月7日の日本による、いわれのない、そして卑劣な攻撃以降、合衆国と日本帝国が戦争状態にあると宣言することを私は議会に要請する」
同日、議会は日本に対する宣戦布告を可決した。さらに3日後、ドイツとイタリアに対する宣戦布告も行われた。さらにルーズベルトはワシントンを訪れたチャーチルと会談し、1942年1月1日、連合国共同宣言を発表した。連合国共同宣言は、連合国が大西洋憲章に署名することを義務付けるとともに戦争の遂行に協力し、また単独講和をしないことを制約させるものであった。これはアメリカが連合国の軍事同盟に参加することを実質的に約束し、戦後の新国際組織に参加する意思を表明したものであり、アメリカ外交にとって画期的な出来事であった。
1942年の時点で枢軸国は圧倒的に優勢であるように見えた。日本軍は東南アジアと太平洋の諸島を席巻していた。マッカーサーは司令部をマニラからコレヒドールに移し、部隊をバターン半島に撤退させた。制空権と制海権を掌握した日本軍はアメリカ軍を降伏させた。マッカーサーはフィリピンから追われオーストラリアに退避した。日本軍はパリクパパン、バリ、バドゥング海峡、ジャワ海などで勝利を収め、東南アジアを支配下に置いた。ドイツ軍はヨーロッパを蹂躙し、さらにソ連領内に深く侵攻していた。一方でアーウィン・ロンメル率いるドイツ軍は北アフリカを支配していた。
非常時大権
第2次世界大戦によって、議会と最高裁から大統領への権限の移行は加速し、ルーズベルトは、真珠湾攻撃以後、より強力な権限を求めるようになった。全面戦争の下、ルーズベルトは、大統領は軍事行動を指示する権限だけではなく、国内の経済的、社会的問題を管理する権限を持つべきだと信じた。大統領は価格と賃金を統制する効果的な計画を提案した。ルーズベルトは議会に行動するように呼びかけたが、議会は行動しなかった。そこでルーズベルトは自ら行動をとると議会に警告した。
議会はルーズベルトの要求通りに経済統制を法制化したが、ルーズベルトは威嚇を止めたわけではなかった。しかし、議会の黙従は、大恐慌の問題が戦争に取って代わられる中で大統領の権限がさらに拡大され、国防国家の創造に結び付けられていることを示していた。議会は第2次世界大戦中、1940年選抜徴兵法、1941年戦争権限法、1942年戦争権限法、非常時価格統制法などを制定することで前例のない大きな権限を大統領に与えた。価格と賃金を統制する権限の他にも議会が制定した法に基づいて、大統領には、食料の輸送及び配給を統制する権限、生活必需品の輸出入、生産、貯蔵及び配給に認可を与える権限、鉄道を管理運営する権限、旅券を発行する権限、電信線を統制する権限、禁輸を宣言する権限、貨物積み出しの優先権を決定する権限、外国政府に借款を与える権限、行政部局を再配置及び再編成する権限などが与えられた。
戦争生産局には国家の資源を動員する権限が与えられた。経済戦争庁は、ゴム局、石油局、固体燃料局、中小戦時工場公社などの組織を統括した。価格統制局は物価統制と配給制を実施した。国家防衛調停局は労働争議の迅速で友好的な解決を図ることを目的に戦争に必要な物資を製造する労働力の管理を行った。鉱山労働者組合と鉄鋼会社との間で起きた労働争議を解決できなかった国家防衛調停局は国家戦争労働局に置き換えられた。国家戦争労働局は主要な労働争議を解決した。ルーズベルトが進めた戦時政策は、消費を抑制し、生産を統制し、生産能力を軍需生産に傾斜させるものであった。
こうしたルーズベルトの戦時政策は、1944年に1月にルーズベルトが議会に送付した教書で示されている。教書の中でルーズベルトは戦争遂行努力の結集を訴えるとともに国民の経済生活の安定を説き、経済生活の安定のないところには経済的自由もないと訴えた。国民の経済生活の確保に必要な多くの権利を列挙したのでこの教書は経済的権利の宣言と呼ばれている。
「個人や集団の利益よりも国家的福祉を優先しなければならない時がもしあれば今こそまさにその時である。国内における不統一、論争、自己本位な党派心、ストライキ、インフレーション、平時と変わらない実業界と政界のあり方や奢侈、これらは前線にあって、我々のために命を捨てようとしている勇敢な軍人達の士気を阻喪させるような影響を持つ。不平不満を唱えている人々の多くは国を挙げての戦争遂行の努力に対して意識的にサボタージュをしているわけではない。彼らは我々が最大限の犠牲を捧げなければならない時は既に過ぎたという誤った考え、換言すれば戦争には既に勝ち、我々は緊張を緩め始めてもよいのだという誤謬にとりつかれているのである。しかし、このような見方が危険な誤りであることは、我が国の軍隊がベルリンと東京の究極の目的から遠く隔たっているその距離によって示されるであろうし、その前途に多くの危難があることからも明らかであろう。1918年の教訓を想起しよう。その年の夏、戦況は連合軍側に有利に変わった。しかし我が政府は緊張を緩めなかった。事実、国を挙げての努力は一層高められたのであった。1918年8月に徴兵年齢の限界は21歳と31歳の間から18歳と45歳の間に広げられた。大統領は『最大限の力を振り絞る』ことを求め、人々はその呼びかけに耳を傾けた。そして、その僅か3ヶ月後、11月にドイツは降伏したのである。これこそが戦争を戦い、勝利を収める術である。全力をあげなければならない。海外の戦場に幾らか心を配りながらも、国内の個人的、利己的、あるいは政治的な利害に心を奪われていては戦争を遂行できないのである。このようなわけであるから、我々の全精力と資源を戦勝の獲得に集中し、同時に国内には公正で安定した経済を確保するために、私は議会に対し次の諸点を取り上げるように推奨する。1、個人及び法人の不当な利得に課税し、戦争の究極的な費用を我々の子孫にできるだけ残さないような現実的な税法。現在議会において検討されている税法案はこの点からみてまったく不十分である。2、法外な利得を防止し、政府が公正な価格で買い入れられるようにするために、軍需契約の再折衝をなし得るものとする法の継続。2年間の長きにわたって私は議会に対して紛争によって不当な利益を取り上げるようにと説いてきた。3、政府に対して、農業者がその生産物について期待する価格の最低限を定め、消費者が食料品を購入する際に支払わなければならない価格の最高限度を定める力を与える食料品価格法。これは生活必需品に対してのみ適用されるべきであり、その実施のためには公的な資金が必要であろう。その費用として政府支出は、現在の年間戦費の1パーセントであろう。4、1942年10月の安定法の速やかな再立法。同法は1944年6月30日に失効するが、もし相当前に延長されなければ、夏まで我が国は物価の混乱状態に陥るであろう。我々はただ希望的観測をすることによって経済安定を得ることはできない。我々はアメリカのドルの堅実性を維持するために積極的な手段を講じなければならない。5、戦争の継続中、ストライキを禁止し、ある種の適当な例外を除いてすべての身体健全な成年国民を軍需生産その他の必要な用役に動員し得るものとする国民動員法。これらの5つの政策は、それが一体となって公正で公平なものとなる。私は他の4つの法案が通過して、生活費を低く押さえ、課税の負担を公平にし、経済を安定させ、不当な利得を防止しないのであれば、決して国民動員法を勧告しないだろう。連邦政府は各種の資本や財産を戦争目的のために公正な補償の条件で徴発する基本的な権限を持っている。諸君も知る通り、私は国民動員法を勧告することを3年間も躊躇してきた。しかし、今日私はそれが必要であると確信している。私はこの法がなくても、我々及び連合国は勝利を得ることができると信じているけれども、我々の持つ人力及び資本のすべての資力を総動員することがより速い戦勝を保証し、苦しみ、悲しみ、生命の費えを減じるものであると確信する。私は、この法について、陸軍省、海軍省、及び海事委員会による合同の勧告を受け取った。彼らは、必要な武器と装備を調達し、戦場において成功裡に戦争を遂行する責任を負っている人々である。彼らは言う。国家の存亡の危機に際しては、用役提供の責任はすべての男女に共通のものである。そのような場合には、政府によって戦場における防備に任に就けられている人々と戦闘行動を成功させるのに必要な物資の生産の人を負わされている人々との間には何らの差別もない。国民動員法の速やかな立法は、単にこの責任の一般性を表すものに過ぎない。さて、永続的な平和を獲得する方法と従来より高いアメリカ的生活水準の樹立について、計算し決定することは今日の我々の義務である。一般の生活水準がいかに高かろうとも、我が国民の一部の人々が、3分の1であろうと、4分の1であろうと、10分の1であろうと衣食住に事欠き、経済的に不安定な状態にあれば満足できない。この合衆国は、奪うことのできない政治的権利によって守られながら発足し、成長して現在の強大に至っている。それらの権利とは、言論の自由、出版の自由、信仰の自由、陪審による裁判を受ける権利、正当な理由なくして捜査逮捕されない権利を含む。これらは生命と自由の権利である。しかしながら、我が国が強大に成長したが故に、我が国の工業的経済が拡大したが故に、これらの政治上の諸権利は我々が幸福を追求する際の平等を保障するのに不十分なものとなった。真の個人の自由は経済的な安定と独立なしでは決して存在しないということを我々ははっきりと知るようになった。『困窮している人は自由な人ではない』。飢えて職を持たない人々は独裁制を生み出すものである。現在ではこれらの経済的な真理は自明の理として受け入れられるようになった。我々はいわば第2の権利の宣言を受け入れたのである。この宣言の下に、身分、人種、信条の如何に拘わらず、すべての人々のために生活の保障と繁栄の新しい基礎が打ち立てられる。その権利の中には次のものがある。我が国の工業、商業、農業、鉱業において有用であり、かつ十分の報酬のある仕事に就く権利。適当な衣食と娯楽を得るのに十分な報酬を獲得する権利。すべての農業者が、彼とその家族が相応な生活を送り得る収入を得て、その生産物を作り販売する権利。規模の大小を問わず、すべての実業家が国内においても国外においても不公正な競争や独占の支配から自由であるという環境において、その仕事に従事する権利。すべての家族が相応な住居に住む権利。適当な医療を受け、健康を確保し享受する機会を持つ権利。老年、疾病、災害、失業による経済不安に対して適当な保護を受ける権利。十分な教育を受ける権利。これらの権利はすべて生活の安定をもたらすものである。そして我々は現在の大戦の終結後にこれらの権利を履行することによって、人類の幸福と福祉の新しい目標へ進んで行く準備を整えていかなければならない。アメリカが世界において当然に占めるべき地位も、これらの諸権利が我が国民のためにいかに完全に実現されていくかということによって相当に左右されるであろう。なぜなら国内において経済的安定がない限り、世界における永続的平和はあり得ないからである」
このようにルーズベルトは国民の経済的権利を追求したが、その一方でストライキに対して果敢に挑戦した。1943年5月1日、45万人の無煙炭産業の労働者と80万人の瀝青炭産業の労働者がストライキを始めた時、ルーズベルトは大統領令で内務長官に炭鉱を接収するように命じた。また5月26日、オハイオ州アクロンのゴム産業の労働者がストライキを起した時、ルーズベルトは、電報で労働組合の指導者にもしストライキを停止しなければ、工場を接収すると通告した。翌日、ゴム産業の労働者は仕事に戻った。さらにスミス=コナリー反ストライキ法によって、戦争物資に関する産業がストライキで脅かされた場合、工場を接収して運営する権限が大統領に与えられた。1944年、フィラデルフィア・ラピッド運送従業員労働組合がストライキを行った。ルーズベルトは、連邦軍を派遣し、運輸施設を接収し、48時間以内に仕事に戻らなければ労働組合員を徴兵すると通告した。それによってストライキは停止された。1943年12月19日、ルーズベルトは鉄道ストライキを避けるために労使の代表をホワイト・ハウスに招いて仲裁を図った。5つの労働組合のうち2つが12月24日に仲裁を受け入れることを約束した。しかし、3つの組合が仲裁を受け入れることを拒否したのでルーズベルトは12月27日、連邦軍に鉄道を差し押さえさせる命令を出した。1944年1月14日、残る3つの組合も仲裁の条件に応じた。その結果、1月18日に連邦政府は鉄道の統制を解いた。
連邦政府は第2次世界大戦に要する莫大な戦費を賄うために1942年に従業員源泉徴収税を導入した。歴史上初めて、アメリカ人の大半が所得税を支払うようになった。新しい所得税の創設により、納税者の数が大幅に増加したので、アメリカ政府は、そうした人々は税金を払う準備ができていないのではないかと心配し、財務相は脱税が頻発するのではないかと恐れた。ルーズベルトの財政に関する助言者は、1942年、アメリカ人すべてに脱税による罪を問わない代わりに、定められた期間内に過去の税額の納付を自主的に申告することを認めるように提言した。また税の支払いは一括ではなく、年間を通して分割して行われた。その結果、雇用者は従業員の給与から定期的に税を集め、直接、連邦政府に支払うようになった。
第2次世界大戦中、最高裁は大統領の権限の拡大を大幅に黙認していた。1944年のヤークス対合衆国事件で最高裁は、ルーズベルト政権の価格と賃金に対する統制を支持した。最高裁は、そうした統制を曖昧な法的基準で正当化し、シェクター鶏肉加工社における判決で示した立法権の行政府への移譲を違憲と認める原理をほとんど放棄した。
クイリンの申し立てによる事件では、最高裁は、アメリカ国内で生産妨害をした者を軍法裁判で裁くことを認めた。第2次世界大戦中に8人のナチスの破壊活動工作員がアメリカの戦争遂行を妨害するためにアメリカに上陸した。1人の工作員が連邦捜査局に自首した後、連邦捜査局は残りの工作員も逮捕した。ルーズベルトは1942年7月2日に秘密軍法裁判を開き、8人に死刑を宣告した。自白によって他の工作員の逮捕に協力した2人は減刑された。残る6人は1942年8月8日に死刑が執行された。
最高裁は1942年7月31日に意見書を発表したが、10月29日まで完全な意見書を発表しなかった。最高裁の意見書の中でハーラン・ストーン最高裁長官は、クイリンの申し立てによる事件をミリガンの申し立てによる事件と区別するべきだとした。なぜなら当事件における被告は武装した敵軍と関連を持っているからである。さらに近代戦争において、アメリカ国内での破壊活動は軍法裁判の適用を正当化する言語道断の犯罪である。
ナチスの工作員に対するルーズベルト政権の処置は一般に受け入れられたが、学界や法曹界の大部分は、クイリンの申し立てによる事件は危険な先例を作ったと非難した。そうした非難により、1944年に別の工作員が逮捕された時に、ルーズベルトの命令は修正を余儀なくされた。ルーズベルトの軍法裁判の適用とクイリンの申し立てによる事件に対する判決は、2001年9月11日に同時多発テロが起きるまでほとんど重要性を持たなかった。
ジョージ・W・ブッシュ大統領が合衆国に対するテロを支援した者を軍法裁判にかける権限を主張したのは、1942年のルーズベルトの軍法裁判の適用に従っている。
日系人の強制収容
第2次世界大戦中に最も議論を呼んだ最高裁の判決は、1944年のコレマツ対合衆国事件の判決である。コレマツ対合衆国事件の判決で、最高裁はルーズベルト政権が人種的隔離に基づいて多くの日系アメリカ人を強制収容したのを容認した。1942年2月19日、ルーズベルトは、約12万人の日系アメリカ人をアメリカ西海岸から内陸の収容キャンプに移すことを実質的に認める大統領令9066号に署名した。大統領令によって、陸軍長官と陸軍司令官が軍事地域を設置し、その地域からいかなる人も退去させることができる権限が付与された。
「合衆国大統領及び陸海軍最高司令官として私に付与された権限に基づき、私はここに、陸軍長官と彼によって任命される陸軍司令官に対して、彼らが必要ないし望ましいと見なした時にはいつでも、陸軍長官ないし関係陸軍司令官の定める場所と程度において軍事地域を指定する権限を与え、かつ軍事地域を指定するように命令し、同地域からいかなる人も排除することができる。同地域に関する立ち入り、居留、退出の権利は何人といえども陸軍長官ないし関係陸軍司令官が自由に課することのできるすべての拘束を受けなければならない。これによって、この命令の目的を実現するために陸軍長官は、そこから退去させられるどの地域の住民に対しても他の取り決めがなされるまで、陸軍長官ないし上述陸軍司令官の判断によって必要とされる交通、食料、避難所とすべての便益を提供する権限が授与される。軍事地域の指定は、いかなる地方、地域であれ、1941年12月7日並びに8日の公布によって司法長官が指定した禁止、制限地域に優先し、同禁止、制限地域に関する上述の公布の下での司法長官の責任と権限に優先する。これによって私は、陸軍長官ないし関係陸軍司令官が自ら指定する権限を与えられた各分離地域への制限の順守の強制にとって必要と考えられる。連邦政府軍隊をはじめ連邦諸機関の利用を含む一切の手段をとる権限を、州政府及び地方諸官庁の援助を受ける権限とともに陸軍長官並び上述陸軍司令官に付与し、それを命令する。これによって私は、行政省庁、諸官庁はじめとするすべての連邦機関が、この大統領令を遂行するために、医療援助、病棟、食料、衣服、交通、用地使用、避難所を初め必要とされる一切の物資、施設、用益、労働含む援助を陸軍長官ないし上述陸軍司令官に対し行う権限を付与し、それを命令する」
退去させるべき対象は特定されていなかったが、事実上、日系アメリカ人を対象としていたことはその後の展開から明らかであった。日系アメリカ人は1942年3月から8月までの5ヶ月間に住居から強制的に退去させられ、第2次世界大戦が終了するまでの3年間、アメリカ内陸部に建設された11の強制収容所で軍の監視の下で自由を拘束された生活を送ることを余儀なくされた。ドイツ系アメリカ人やイタリア系アメリカ人に対してまったく同様の強制収容が行われなかった事実は、有色人種に対する根深い人種的偏見を示している。日系アメリカ人はまったく何の罪もなかったが、「軍事的必要性」という名目でルーズベルトの命令は正当化された。しかし、日系アメリカ人が安全保障を阻害するという実質的な証拠は何もなかった。実際、アメリカへの愛国心を示すために、キャンプに送られた若者の多くがアメリカ軍に志願した。
こうしたアメリカの理想に反する政策はルーズベルトが発案したものではなかった。こうした政策はカリフォルニアの政治家であるアール・ウォレン司法長官の発案によるものであった。ウォレンは、日本の真珠湾奇襲によって西海岸で広まりつつあった恐怖と日系アメリカ人を日本人と同一視するような人種主義に対応しようとしたのである。閣僚の中には強制収容に反対する者もいたが、ルーズベルトは軍事的危機に心を奪われていて、政治的な立場が弱い人々を政争の具とするつもりはなかった。強制移住の対象になった日系アメリカ人の1人がフレッド・コレマツである。立ち退き命令に違反したために逮捕されたコレマツはアメリカ自由人権協会の協力で日本人強制収容政策に対して異議を唱える裁判を起こした。
最高裁は、特定の人種集団の人権を制限するような法的規制に対して疑念があるが、軍事的必要性は、日系人の強制収容を正当化する十分な根拠となるという判決を下した。直接的な緊急事態や危機の場合を除いて、特定の市民集団を強制排除することは、阿アメリカ政府の基本的理念と矛盾している。しかし、近代戦争において我々の国土が敵軍による攻撃の危険にさらされている場合、危険に応じて防御的措置をとらなければならない。その一方で少数意見においてロバート・ジャクソン判事は、戦時における司法府による行政権の極端な尊重は、憲法上の権利に対する脅威となると反対を唱えた。
コレマツ事件で示されたような軍事的必要性の基準を満たすような人種的な制限を持つ法は制定されなかった。事実、最高裁はコレマツ事件で示した見解が誤りであることを認めた。1948年、議会は強制収容に対する補償として3,700万ドルを計上した。さらに40年後、議会は強制収容された者一人ひとりに2万ドルの補償を与えることを決定した。さらに1998年、クリントンはコレマツに大統領自由勲章を与えることで報いた。このように様々な贖罪がなされたが、立法府と司法府は、大統領に国家を安全に保つために十分な権限を与える一方で大統領の権限の誤用を防ぐという均衡のとれた解決策を見出すことはできなかったと言える。
日系アメリカ人に対する厳しい措置とは対照的にルーズベルトは人種差別撤廃に一定の理解を示した。1930年代、ルーズベルトは、南部の保守派の議員を離反させ、ニュー・ディールの実現が阻害されるのを恐れて公民権をほとんど推進しなかった。しかしながら1941年、ルーズベルトは大統領令8802号によって防衛産業で人種差別を防ぐために公正雇用慣行委員会を設立した。アフリカ系アメリカ人の高い失業率を抗議するためにワシントンに向けて行進が計画されていた。行進が暴動に変わることを恐れたのが、ルーズベルトが大統領令を発した一因である。大統領令8802号は積極的差別是正措置の初期の事例だと考えられる。またルーズベルトはワシントンの連邦政府機関内の人種差別の撤廃に努めた。ルーズベルト政権下で、1920年代から1930年代の共和党政権期と比べて格段に黒人の政治的、経済的平等は推進されたとはいえ未だに不十分であった。
太平洋戦線の展開前半
太平洋戦線でアメリカは反撃を行うための十分な戦力を備えるために防衛に徹しなければならなかった。ハワイ諸島やサモア諸島を固守し、ニュー・ジーランドとオーストラリアに至る海路を防護しなければならなかった。輸送船や補給船を護衛するために多くの艦船を割く必要があった。ミッドウェー海戦までアメリカ軍は艦載機で爆撃を行うくらいしかできなかった。単発の奇襲的な作戦であったが東京空襲が行われ、日本の心胆を寒からしめ、アメリカ国民の士気が高められた。日本は、フィジー諸島、ニュー・カレドニア島、ソロモン群島、西アリューシャン列島、ミッドウェー島に支配を拡大することで、強固な防衛線を構築しようと試みた。日本の目的では、真珠湾で与えた打撃から回復する前にアメリカ海軍を壊滅させ、アメリカに戦争を断念させることであった。アメリカは珊瑚海海戦で、パプア・ニュー・ギニアの戦略拠点であるポート・モレスビーを攻略しようとする日本軍の試みを挫いた。これによってオーストラリアが日本の侵攻を受ける可能性はほとんどなくなった。日本軍はミッドウェー島を確保してアメリカ太平洋艦隊による真珠湾の防衛を阻害するための中継基地にしようと考えた。1942年6月のミッドウェー海戦においてアメリカは勝利し、日本は4隻の航空母艦と多数の艦載機を失った。日本はニュー・カレドニア島、フィジー諸島、サモア諸島を占領する方策を放棄させざるを得なくなった。ミッドウェー海戦の勝利はアメリカが防衛から攻勢に転じる転換点となった。
アメリカ軍は日本軍がガダルカナルに飛行場を建設中との知らせを受けた。もし飛行場が完成すればアメリカの前進基地が爆撃にさらされる恐れがあった。アメリカ軍は飛行場が完成する前にガダルカナルを攻略することを決定した。ガダルカナルをめぐって6ヶ月も戦闘が繰り広げられ、7回にわたる激しい海戦が行われた。ようやく連合軍が日本軍をガダルカナルから撤退させたのは1943年2月のことである。さらに1942年11月の北アフリカに対する本格的な反攻作戦の開始によって連合国が徐々に優勢になり始めた。
カサブランカ会談
1943年1月に行われたカサブランカ会談でルーズベルトとチャーチルはすべての敵国に無条件降伏を求めることで合意し、ドイツに対する空爆計画を練った。またソ連の負担をできる限り軽減し、チュニジアを確保した後、シチリア島に侵攻することが決定された。カサブランカ会談でルーズベルトは、アメリカ国内の人心を指導するだけではなく、苦しい戦いを強いられている連合国の国民を鼓舞して、戦争遂行の強い決意を示した。カサブランカ会談についてルーズベルトは以下のようにラジオで報告している。
「カサブランカにおいて決定された決議や実施計画は、個々の戦場や個々の大陸あるいは海洋に関するものにとどまらなかったのである。我々は、今年のうちに、単に言葉だけではなく、行動を以ってカサブランカ会談が多くのニュースを生み出したことを全世界に示すであろう。しかもそのニュースは、ドイツ人、イタリア人、そして日本人にとって悪いニュースとなるであろう。枢軸国の宣伝屋達は、彼らの不可避の破滅から逃れようとして連合国を分裂させるためにあらゆる古臭い欺瞞手段を弄しつつある。彼らは、もし連合国がこの戦争に勝利を得たならば、ロシアとイギリスと中国とそして合衆国とはお互いに絶え間のない紛争に陥るだろうと言いふらしている。これはうまくいけば1、2国とかたをつけることができるかもしれないとか、あるいは連合国の犠牲においての『取引』に引き込み得る程、我々のうちの国は欺かれやすく忘れっぽいかもしれないという儚い望みを以って、連合国の1国を他国と対立させようとする彼らの最後の努力である。このような自らの犯した罪悪の結果から逃れようと慌てふためいた彼らの企図に対して、我々、すなわち連合国のすべての国は次のように答えよう。我々が枢軸国政府やその徒党は扱う唯一の条件は、カサブランカにおいて宣言された条件、すなわち『無条件降伏』のみである。とはいえ、この我々の妥協なき政策において、我々は枢軸国の一般国民には何らの害意を抱くものではない。我々の意味するところは、有罪にして野蛮なるその指導者達に対して徹底的に罰を与え、罪の報いを課すことである」
このようにルーズベルトは「無条件降伏」をあくまで求めるという姿勢を明らかにしている。どのような考えに基づいて無条件降伏を提示したのか。カサブランカ会談のために準備された草稿には以下のように書かれている
「大統領と首相は、世界の戦争の情勢を綿密に精査した後、ドイツと日本の戦争遂行能力を完全に絶滅させることによる以外、世界に平和は到来しないという決意を固めた。これは、この戦争の目的をドイツ、イタリア、日本の無条件降伏に置くという単一の定式に関連している。三国の無条件降伏は、世界平和を数世代にわたって妥当に保障する。無条件降伏は、ドイツ一般国民、もしくはイタリア、日本の一般国民の破壊を意味するわけではなく、諸国民を征服し、従属させようとするドイツ、イタリア、日本の考え方を破壊しようというものなのだ」
スピーチライターを務めたロバート・シャーウッドは次のようにこの草稿について説明している。
「ルーズベルトが言いたかったことは、交渉した上での平和はなく、ナチズムとファシズムとの妥協はなく、ヒトラーを生み出す原因となった14か条のような免責条項などないということだ」
つまり、シャーウッドの説明によれば、ウィルソンが唱えたような「勝利なき平和」という考え方をルーズベルトは好まず、根本的に三国の制度を覆さなければならないと思っていたということになる。
また1943年1月7日の統合参謀本部の議事録によれば、スターリンに、アメリカが徹底的に戦うつもりだという意思をアピールするジェスチャーであったいう見解もある。スターリンに、無条件降伏という条件を伝えるのが妥当かどうかをチャーチルとカサブランカで相談するつもりだとルーズベルトは語ったそうだ。
ヨーロッパ戦線の展開前半
当初、北アフリカ戦線で連合軍はドイツ軍の後塵を拝したが形勢を逆転させ、1943年5月にドイツ軍を降伏させた。これまで米英両軍が獲得した中で最大の勝利であった。1943年7月、連合軍はシシリア島に上陸し、イタリア半島を北上した。その結果、ムッソリーニ政権は倒壊した。イタリアは連合軍に降伏した後、1943年10月、ドイツに宣戦布告した。
イタリアが無条件降伏した後、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石はカイロ会談を行った。カイロ会談では、3国は領土拡大の意思を持たないこと、第1次世界大戦以後、日本が奪取した島嶼を剥奪すること、満州、台湾、澎湖諸島を中国に返還させること、朝鮮を将来独立させること、日本に無条件降伏を求めることが決定された。
カイロ会談に続いて、ルーズベルト、チャーチル、ヨシフ・スターリンの3者でテヘラン会談が行われた。アメリカ大統領が直接ソ連首脳と協議したのはこの会議が最初である。テヘラン会談では、スターリンが長らく切望してきた第2戦線の形成が約束された。さらに、ルーズベルトとチャーチルがソ連の対日参戦を求めた時、スターリンはドイツ降伏後に参戦することを仄めかした。
ソ連はドイツ軍によるスターリングラードの包囲を撃破し、ドイツ軍を西に押し戻し始めた。さらにソ連軍は進撃し、1944年8月にラトヴィアを解放し、9月にハンガリーに侵攻し、10月には東プロシアに入った。
太平洋戦線の展開後半
太平洋ではアメリカ軍は「飛び石」作戦、すなわち日本の主要な拠点を海軍と空軍で封じ込めて、日本本土により近い防衛があまりなされていない島を占領して飛行場と海軍基地を建設する作戦を展開した。1944年8月までアメリカ軍はサイパン、テニアン、グアムの3つの主要な島を占領した。サイパンには大規模な飛行場が建設され日本本土空爆の主要な基地となった。
1944年7月、ルーズベルトはマッカーサーとハワイで会談した。マッカーサーはフィリピン攻略を提言した。ルーズベルトは日本本土上陸作戦が必要となった場合に備え、作戦の最善の経路としてフィリピンを確保するようにマッカーサーに命じた。1944年10月のレイテ湾海戦で日本海軍は壊滅的な打撃を受けた。アメリカ海軍はレイテ湾海戦でフィリピン全域を掌握するきっかけを掴んだ。フィリピン全域での戦いは1945年8月まで続いた。
ヨーロッパ戦線の展開後半
ヨーロッパではアイゼンハワー指揮下の連合軍が1944年6月6日にノルマンディー上陸作戦を成功させた。東部戦線ではソ連がウクライナとポーランドを破竹の勢いで進撃していた。連合軍が橋頭堡を確保することに成功したことで、ジョージ・パットン率いるアメリカ第3軍は内陸深くに侵攻することができた。1944年8月25日、パリは解放された。6週間足らずでフランスからドイツ軍は一掃された。1944年12月から翌1945年の1月にかけて行われたバルジの戦いで、ドイツ軍は連合軍の侵攻を阻止しようと大規模な反攻を行ったが、ドイツの崩壊を遅らせることしかできなかった。連合軍は1945年1月から3月にかけてライン川に進撃した。さらに3月から4月にかけてライン川渡河とルールでの戦闘が行われた。そして、ドイツの最終局面が訪れた。
ブレトン・ウッズ体制
1944年7月、ニュー・ハンプシャー州ブレトン・ウッズに44ヶ国の連合国の代表が集まり、戦後経済体制構想を協議した。アメリカは圧倒的な経済力と金融力をもとに会議を主導し、為替の安定、国際的な通貨協力、国際貿易の促進を図る国際通貨基金と戦後復興と開発のための融資を行う国際復興開発銀行の設立で合意に至った。アメリカは国際通貨基金と国際復興開発銀行に最大の出資金を拠出した。こうして戦後のブレトン・ウッズ体制が構築された。ブレトン・ウッズ体制によってアメリカの経済的優位が打ち立てられるとルーズベルトは信じていた。ルーズベルトは、ブレトン・ウッズ協定と協定参加国に対してジョンソン法を適用しないことを認めるように議会に要請した。ソ連は会議に参加したが、協定に批准しない意向を示した。それは冷戦の前兆と言えた。ルーズベルトはブレトン・ウッズ協定に対するイギリスの不満を和らげるために借款を与えたが、ソ連に参加を促すために何ら対策をとろうとしなかった。
ヤルタ会談
第2次世界大戦の終わりが目前に見えてきた1945年2月にヤルタで行われた歴史的首脳会談はもう1つの冷戦の前兆となった。スターリン、チャーチル、そしてルーズベルトの連合国の三巨頭は、第2次世界大戦を終結させる戦略だけではなく、戦後の国際秩序の形成について話し合った。ヤルタ会談におけるルーズベルトの主要な目的は、第1次世界大戦後、勝戦国が達成することができなかった国際協調をもたらすことであった。ヤルタ会談で決定された他の事項は以下の通りである。
東ヨーロッパに関してソ連とイギリスは1944年10月8日のモスクワ会談で決定したように、つまりソ連がルーマニアで90パーセント、ブルガリアで75パーセントの影響力を持ち、ユーゴスラヴィアとハンガリーに関してはソ連とイギリスは同等の影響力を持ち、ギリシアに関してはアメリカとイギリスが90パーセントの影響力を持つ。ポーランドに関してソ連が支援する暫定的なルブリン政権が承認され、ルブリン政権にロンドンの亡命政府から民主的な指導者を受け入れる。ヨーロッパの将来の安全保障のためにドイツ帝国を武装解除し解体する。ソ連はドイツが降伏した2、3ヶ月後に日本に対して宣戦布告する。ベラルーシとウクライナに国際連合で議席を与える。
ルーズベルトは国際連合の加盟基準と投票過程を重視した。国際連合の概要は1944年秋にワシントンで開催されたダンバートン・オークス会議で認められていた。スターリンは、アメリカとイギリスが協力してソ連を恒久的に少数派の地位に追いやることを恐れて、国連安全保障理事会で単一の国による拒否権を認めるように求めた。ルーズベルトとチャーチルはスターリンの要望に応じ、もし同意がなければ列強に何の行動も課せられないことを約束した。ソ連は安全保障理事会での討議についても拒否権を求めたが、アメリカとイギリスの同意を得ることはできなかった。国際連合は国際連盟よりは強力な組織であった。加盟国はそれぞれ総会で1票を与えられ、自由に議論を行うことができる。国際連合が国際連盟と決定的に異なる点は侵略に対する武力行使を明確に認めている点である。安全保障理事会は、外交断絶、経済制裁、侵略国と戦うなどの対応策を総会に勧告することができる。
国際連合に関する合意は、東ヨーロッパの将来に関する激しい議論の中で形成された。ソ連軍は既にルーマニア、ブルガリア、そして、ハンガリーを席巻し、ベルリンまで数マイルの地点に達していた。スターリンはソ連の軍事的勝利を恒久的な政治的獲得に変えようと決意していた。ソ連の対日参戦を望んだルーズベルトはソ連の東ヨーロッパの支配に挑戦する意思も方法もなかった。ヤルタ会談の結果が、解放されたヨーロッパに関する宣言である。宣言は、調印国が人民を広く代表する政府を樹立するために解放された東ヨーロッパ諸国で自由選挙を行うことを誓約させた。しかし、この誓約は空文となった。
ヤルタ会談後、ソ連は、協定で決められた手続きを実行してポーランドに新しく民主的な政府を樹立する代わりに親ソ政権を樹立した。チャーチルは断固とした措置をとるように求めたが、ルーズベルトはチャーチルにソ連問題を最小限にするように促した。ルーズベルトは、アメリカとイギリスは断固とした姿勢を保つべきだという点でチャーチルと合意していたが、外交的解決の方途を探っていた。ルーズベルトの見解では、平和の展望は、国際連合の成功に基づいて勝戦国が協調できるか否かにかかっていた。国連安全保障理事会で単一の国家の拒否権を認めることは国際連合を機能麻痺に陥れる可能性があったが、ルーズベルトはヤルタ会談によって交渉の枠組みが作られたことに希望を抱いていた。ルーズベルトはソ連との確執にも拘わらず、良好な米ソ関係を維持しようとした。枢軸国の打倒のためにソ連が必要であっただけではなく、戦後の国際秩序を形成するうえでソ連の協力が必要だと考えていたからである。またルーズベルトは戦後にアメリカの世論が孤立主義の回帰することを予測し、アメリカ軍をヨーロッパに長期間駐留させる意思がないことを通告していた。
ヤルタ協定は行政協定であり、ルーズベルトは同意と批准を求めるために上院に送付しなかった。それにも拘わらずヤルタ協定は議論を巻き起こした。批評家は、ルーズベルトは病気で弱っていてスターリンに譲歩し過ぎてポーランドを裏切り、東ヨーロッパをソ連の手に委ねたと断言する。しかし、そうした批判は誇張され過ぎだろう。ルーズベルトの健康はヤルタで明らかに万全ではなかった。東ヨーロッパに関するスターリンの要求にルーズベルトは容易に屈したという議論は、ルーズベルトに選択の余地をほとんど残さなかった軍事的状況を無視している。ソ連が東ヨーロッパに勝利を押し付けようとした時、アメリカとイギリスは、ベルギーとフランスにおけるドイツの大規模な反撃に対する橋頭堡を確保するための戦いであったバルジの戦いから未だに回復していなかった。ルーズベルトの軍事助言者は、できる限り早期にソ連から対日参戦の確約を得るように勧めていた。またその当時、ルーズベルトは原子爆弾の完成を期待することはできなかった。対日参戦の確約を得るためにルーズベルトは敢えて民族自決の原則に反して、ソ連の中国東北部での特殊権益の確保、千島列島と南樺太の獲得を容認した。
結語
フランクリン・ルーズベルトは12年以上もアメリカの政界を支配した。ルーズベルトの遺産は強力な大統領制度であった。ルーズベルトは危機から脱出するために、憲法では明確に示されていない領域まで大統領の権限を拡大させた。そのために行政府に権力が集中し過ぎているという懸念が提起された。1945年にルーズベルトが亡くなった後、保守的な政治家は1933年以来、ルーズベルトが大統領の権限を拡大してきた政治的変化を修正しようとした。しかし、ルーズベルトは恒久的にアメリカの政治を変えてしまった。大恐慌のような危機がなくても、近代的大統領はルーズベルトがとった戦略をとろうとする。政策構想を実現しようとする近代的大統領は積極的な大統領にならなければならない。近代的大統領は自らの政策構想を推進するために議会を主導しようと試みる。近代的大統領は、リーダーシップの発揮によって利益をもたらすために拡大された行政府を使う。そして、近代的大統領はそのリーダーシップを人民の支持に依拠する。ルーズベルト政権を通じて、議会は無益な論争に時間を費やした。ほとんどすべての重要法案はルーズベルト政権の提案によるものである。議会の指導力が減退した結果、行政府の権限が肥大化した。議会は包括的法案を制定することで実質的に立法権を大統領に委譲した。大統領の主導の下、制定された法は4,300以上、行政協定は3,500以上に達する。ルーズベルトの指導の下、アメリカ人は、連邦政府が国内問題と国際問題で積極的な役割を果たし続け、大統領がそれを主導することを期待するようになった。
ルーズベルトの死はリンカーン大統領や
ジョン・ケネディ大統領の死と並んでアメリカ史上、重大な転換点の1つであった。リンカーン大統領の死は、もしリンカーン大統領が生きていれば南部再建が迅速になされただろうかという問いを投げかけた。またケネディ大統領の死は、もしケネディ大統領が生きていればアメリカはヴェトナム戦争が泥沼化するのを避けられたのではないかという問いを投げかけた。そして、ルーズベルトの死は、もしルーズベルトが生きていれば冷戦は回避できたのではないかという問いを投げかける。ルーズベルトは死の直前に次のように書いている。
「我々が明日という日を明確に捉えるのを制限する唯一のものは、今日という日について疑いを抱くことであろう。我々は強く活き活きとした信念を持って前進しようではないか」