大恐慌の発生
フーバーが
カルヴィン・クーリッジ大統領の高い支持率を背景に1928年の大統領選挙で対立候補を破った時、有能な指導者が生まれると期待された。フーバーは「偉大なる技術者」と呼ばれていた。
ウォレン・ハーディング大統領とクーリッジ大統領の下で実業を優遇する政策を推進し、効率的な国内問題の管理が繁栄のより強い礎を作ると信じていたフーバーは、戦後の経済回復を強固にする最適な人物のように思われた。
しかし、このような大きな期待を背負ったまさに同じ人物が4年後に軽蔑と嘲笑の対象となって大統領職を去らなければならなくなった。そうした驚くべき政治的逆転はアメリカ史上最悪の経済危機である大恐慌のせいである。大恐慌は、フーバーが就任してから僅か7ヶ月後に起きた株式市場の崩壊から始まった。第1次世界大戦後に景気の後退はあったが、すぐに株価は回復し、その後、景気は急上昇した。1925年以降、株式投機は過熱した。そうした株式投機の過熱に連邦政府も州政府も何の対策もとらなかった。フーバーは商務長官時代にそうした株式投機の過熱に警鐘を鳴らし、連邦準備制度の低金利貸付政策を批判した。しかし、政権内の同意が得られなかったためにフーバーは沈黙を守ることを余儀なくされた。
企業はほとんど野放しの状態であり無軌道に新たな株式を発行した。株式投機に関する不正が横行した。銀行は株式投機のために多額の貸付を行った。1929年10月23日、株価は取引の最後の1時間で急落した。急落は翌日も続き、暗黒の木曜日として知られるようになった。多くの者は最悪の事態は通り越したと主張したが、さらに株価は10月28日から29日にかけてさらに暴落した。その後、株価は下がり続けた。株式市場の崩壊が契機となって物価、生産、雇用、対外貿易の下落の悪循環が始まった。世界各国はお互いに保護貿易を強化し、事態はますます悪化した。購買力は減退し、失業が増加した。大恐慌によってフーバー政権は困難な状況に置かれたが、実はその前から困難な状況に置かれていた。
政治理念
大統領としてのフーバーの困難は、経済と社会に重要な変化をもたらしたいという願いに対して、そうした変化を可能にするリーダーシップにまつわる責務を引き受ける能力がないことに由来していた。ハーディング大統領やクーリッジ大統領と同じくフーバーは、連邦政府の役割を憲法上に規定されている少数の役割に制限するべきだという政治哲学を持っていた。アメリカ的個人主義が進歩の源泉である個人の創意工夫と企業精神を促進し、アメリカに繁栄と国力の増進をもたらす。国民の経済活動への干渉は、政府権力の集中によって自治と自由の基礎が破壊される。フーバーは自由主義的な個人主義に基づいて大きな政府に対する恐れを持っていた一方で、革新主義の時代に生まれた者として、経済や社会を改善する政府の能力も信じていた。1928年の大統領選挙で最後に行った演説で次のようにフーバーは「強靭な個人主義」について語っている。
「大戦後、共和党が政権を獲得した時、我々は国民生活の本質的な性質について決断を迫られるという問題に直面した。我々は過去150年間に、自治政府の形態と我が国特有の社会制度を築いてきた。それは世界中の他のすべての形態と本質的に異なっている。それこそアメリカ的な制度である。それは分権化された地方の自治体の責任を根底とする自治政治に関する特定の観念に基づいている。さらにそれは、秩序ある自由と個人の平等な機会があってこそ、個人の主導的な能力と進取の性質が進歩を促進するという考えに基づいている。そして、機会の平等に固執することで、我々の制度は世界で先駆的であった。戦時中、我々は必要に迫られて、困難な経済的問題の一つひとつを政府が処理するように求めた。政府は、戦争に向けて国民の活力を吸収したが、それ以外に解決の方法はなかった。国家の安全保障のために、連邦政府は前例を見ない程の責任を遂行し、独裁的な権限を行使し、民間企業を接収するという中央集権的な専制を行った。我々は一時的に、非常に大掛かりに全国民を社会主義国家に組み入れた。しかし、たとえ戦時中に許されたことでも、平和時に猶、続行されるならば、こうした手段はアメリカ的な制度を崩壊させるだけではなく、我々の進歩と自由も破滅させるだろう。戦争が終結した時、我が国で、また世界中で最も重要な問題は、政府が生産と販売の多くの期間に対する戦時の接収、管理を続行するべきか否かという問題であった。我々は強靭な個人主義に基づくアメリカ的制度とそれに真正面から対峙する温情的干渉主義や社会主義などのヨーロッパ哲学との間で平和時の選択を迫られた。これらの考え方の受容は、政府の中央集権化によって、自治政治を崩壊させることになるだろう。我が国を比類なき偉大な国家に育てた個人の主導的な意欲と進取の性質を挫くことになるだろう。共和党は当初から、それらの考え方や戦時体制には、断固として背を向けてきた。共和党は政権を獲得するとすぐに、敢然と国家の基本的概念を個人の責任と権利に回帰させることを目指し、企業を解放し刺激し、政府を経済競争の現役選手としてではなく、審判の立場に復帰させた。それによってアメリカは、世界中が低迷する中で、唯一、進歩の道を邁進することができた」
政権初期にフーバーは特別議会を招集して、重要な改革を推奨した。これまで
ウッドロウ・ウィルソン大統領を除いて政権の最初の100日間で迅速に効果的に国内の改革に乗り出した大統領は他にいなかった。フーバーは、関税、税金、自然保護、そして政府組織に関して重要な変化を加えるように求めた。またフーバーは、経済の調和と機会の増大を推進するために産業組織や公的機関を動員するのに政権が主導的な役割を果たすべきだと信じていた。さらにフーバーは、アメリカの繁栄が、生産と消費の不均衡、弱体な農業部門、産業組織の秩序の欠如、不健全な通貨政策によって過熱した投資、悪化した労働条件などによって脅かされかねないと思っていた。こうした問題を解決するために、フーバーは連邦政府の役割を拡大せず、大統領と行政府の権限を、民間機関がより秩序ある公正な経済的条件の発展を促進できるように利用しようとした。商務長官としてフーバーは販売組合や農業機関とうまく協働していた。今度は大統領としてフーバーはそうした機関の活動の拡大を望んだ。大統領は、政府以外の道徳的、社会的、経済的機関の発展を促すことで国家を改善していかなければならないとフーバーは信じていた。
フーバー・モラトリアム
フーバーはドイツの賠償問題の緩和をクーリッジ政権から引き継いだ。オーウェン・ヤングを長とする国際委員会は、ドイツの賠償額を270億ドルに削減すること、賠償問題の円滑な処理と先進国の金融協力のために国際決済銀行の設立をヤング案で提唱した。ドルの投資によって、ヨーロッパ経済は回復に向かい、ドイツの賠償金支払い、連合国の対米負債の返済が促進された。しかし、大恐慌が起き、ヨーロッパも金融恐慌に見舞われた。フーバーはすべての国家間の債務、賠償の支払いを1年間猶予するフーバー・モラトリアムを発表したが、ほとんど何も効果がなかった。
ヨーロッパ諸国はローザンヌ会議で、ドイツの賠償の9割を棒引きにする代わりにヨーロッパ諸国に対する債権を事実上、放棄することをアメリカに求めた。アメリカがその要求を拒否したためにヨーロッパ諸国は対米負債の支払いを停止した。結局、フィンランドを除いて連合国の多くはアメリカに負債を完済しなかった。
農業市場法
自身の哲学と性格によって、特に大恐慌が起こってからフーバーはリーダーシップを発揮することができなかった。クーリッジと同じく議会の自律性を尊重したフーバーは、1929年に招集した特別会期の間、議会に対してリーダーシップを発揮しようとしなかった。後年、フーバーは「立法府を弱めることは行政府の立法府と司法府の権能の侵害に繋がり、個人の自由の侵害が不可避となる」と語っている。
そうした大統領の消極的な姿勢にも拘わらず、少なくとも農業市場法は制定された。同法によって、農業協同組合が農産物を生産し販売する農場主を助けられるように融資を行う連邦農場局が設けられた。連邦農場局には広範な権限が与えられ、連邦政府から5億ドルにのぼる資金の貸付を受けた。連邦がそのような資金を拠出したことは画期的であった。フーバーは同法を歓迎していたが、上院の議会指導者は党内の抵抗を抑えなければならなかった。大統領の意思に反して、西部の革新派は国内よりも安値で海外に商品作物を輸出している農場主に助成金を与えようと動いた。数週間の停滞の後、議会は、フーバーからの介入はほとんどなかったが、最終的にフーバーが提案した農業政策を受け入れた。
連邦農場局から資金を得た物価安定会社が余剰農産物を買い取っても、農産物の価格下落は止まらなかった。連邦農場局は農場主に過剰生産を止めるように訴えたが効果はなかった。あくまで農場主の自発的意思に任せて強制しなかったからである。その結果、連邦農場局の資金は枯渇した。そもそもこうした農業政策は前提から間違っていた。フーバーは、生産過剰の農作物を買い上げ市場が正常に戻るまで価格を維持すればよいと考えていた。しかし、アメリカの農業生産は既に内外の市場の総需要量を超過しており、生産過剰は偶発的なものではなく慢性的なものであった。それ故、いくら農産物を買い上げても市場が正常に戻ることを期待することはできなかった。
スムート=ホーリー関税法
議会は関税については妥協的ではなかった。フーバーは疲弊した農場主を支援するために関税対象品目の限定的改定が望ましいと考えていた。しかし、関税改定を農産物に限る決議が上院で1票差で否決された。結局、フーバーは立法過程に積極的に関与しなかったために、上院は非農産物にも農産物と同様に関税対象品目を増やし、歴史上、最高の水準まで達した。国中から拒否権を行使することを求める請願が届いたが、フーバーは個人的にはスムート=ホーリー関税法を悪法だと見なしながらも署名した。フーバーは、スムート=ホーリー関税法が外国との競争から農民を保護することで疲弊した農民の助けになると期待した。しかし、世界中で関税をめぐる争いは続き、すべての貿易が深刻な影響を被った。
政治的影響力の低下
フーバーが特別会期で議会を主導するリーダーシップを発揮しなかったために、大統領選挙の時に広がった熱狂は完全に冷めた。フーバーの消極性は、国家に対する功名心に不釣合いのように思える。20世紀の積極的な大統領の中でフーバー程、議会と距離を置いた大統領はいなかった。1929年の秋までに共和党の議会指導者でさえフーバーの政治的な無策を非難するようになった。報道はフーバーを弱体な大統領として否定はしなかったものの、フーバーについてどのように報じるべきか悩まされた。特別会期を召集しながら立法過程に積極的に関与しないフーバーは記者からすれば何か「奇妙な麻痺」にかかっているかのようであった。
こうした混乱を招いたフーバーの「奇妙な麻痺」は、大恐慌が起こった後は軽侮の種になった。自身の計画に無関心な議会に対してフーバーは沈黙を保った。失業率が25パーセントに達した時もフーバーは超然としていた。大統領が議会を主導する役割を果たし、経済の調和に責任を持つようにする法律を制定するように求める声にフーバーは抵抗した。
その代わりにホワイト・ハウスでの会談がしばしば行われた。フーバーは、主要な産業の指導者や労働組合の指導者を招いて経済を安定させるための会談を閣議室で開いた。こうした会談の主な目的は経済危機に対して自発的な対処を行うように産業界や労働者を促すことであった。フーバーによれば、危機は単なる株式市場の崩壊にとどまらない。誰も我々が直面している危機の本当の深刻さを計り知ることはできない。不景気は暫く継続するに違いない。社会秩序と産業の安定を維持するために何らの手を打たなければならない。不景気の重荷を労働者に負わせてはならない。競争の激化と需要の低迷によってやむを得ず物価水準が下がるまで賃金を一時的に維持するべきである。その後、賃金を引き下げる場合も生活費の低下以上に賃金を引き下げてはならない。そうすれば不当な苦しみなしにドルの価値を切り下げることができる。経営者側は生産と賃金を維持するように、労働者側は賃金値上げ要求を控えるように協力を求められる。そうすれば物価が下がってより低い生産費で再び利潤を獲得できるようになる。そして、景気回復が始まる。このようにフーバーは考え、産業界と労働者の同意を取り付けるように試みたが、何の法制化も求めなかった。
フーバーの超然とした姿勢は、共和党が1930年の中間選挙で敗北した後、不可能になった。民主党議員が協調を拒絶してきた後、フーバーは嘆き悲しんだが沈黙を保ち、議会の頭越しに人民に訴えかけようとはしなかった。後にフーバーは「大統領は、立法府と司法府の評判を落とそうとすることで立法府と司法府の独立を損なってはならないと私は深く感じている。憲法上の権力の分立は我々の自由の砦であり、大統領の力量を示す戦場にしてはならない」と書き記している。
大統領制度に関してこのような理論を持っていたためにフーバーは人民を主導するリーダーシップをとらなかった。またフーバーの個人的資質も議会や党、そして人民を主導するリーダーシップには不向きであった。グラントのようにフーバーは選挙で選ばれる公職に就いた経験がないままで大統領になった。フーバーの経験は組織の創設者と運営者としての経験に限られ、政治的妥協や人民の支持を必要とするような政治家としての経験がなかった。フーバーは資料を整理することによって行動指針を決定することに長けていた。そのためしばしば非合理性が存在する民主主義的過程に不慣れであった。
フーバーは記者との緊密な関係を結ぶこともできず、クーリッジ大統領がラジオ放送で収めたような成功を収めることもできなかった。大統領の伝達手段の歴史において、フーバー政権は否定的な意味で重要な位置を占めている。フーバーは、ウィルソン大統領が復活させた議会に大統領が自ら赴いて演説を行うという慣行を放棄した。フーバーは、陰から公共政策に影響を与えようとする試みと私生活を公衆の目から隠そうとする勝ち目のない戦いを続けた。
復興金融公社
こうした様々な問題にも拘わらず、フーバーは1932年の大統領選挙で
フランクリン・ルーズベルトと民主党が非難したようなまったく何もしなかった大統領ではなかった。実際は経済不況に対して完全な自由放任主義から転向し、限定的であったが何らかの対策をとるためにリーダーシップを発揮した初めての大統領であった。フーバーは例えば、銀行や保険会社に融資を行う復興金融公社の創設を呼びかけた。復興金融公社は1931年12月に議会に提案され、1932年1月に設立された。復興金融公社の設立によってフーバーは連邦政府による私企業への介入を認めたことになる。
復興金融公社は設立後3ヶ月以内に、1,319の銀行に資金援助を与えた。さらに1932年末までには資金援助の対象は7,880の銀行に拡大された。1932年7月には復興金融公社の資金は大幅に増額され、融資対象は、金融機関に加えて農業市場組織や公共事業、商品物価安定会社の株式まで広げられた。抵当流れによって住家を失う危険がある人々を救済するために連邦住宅貸付銀行が設立された。さらに22億5,000万ドルにのぼる公共事業が行われた。しかし、連邦政府の強制が必要な場面でフーバーは尻込みしただけではなく、そうした計画に人民の支持を集め、計画を活発に運用するような積極的な政治的なリーダーシップを発揮しなかった。
そうした要求にフーバーは抵抗し、議会と国民に個人主義と連邦予算の健全性を保つことの重要性を訴えた。フーバーが抵抗した理由は政治的逡巡に加えて、大恐慌をもたらした原因はアメリカ国内経済に重大な欠陥があるからではなく海外にあると信じていたからである。またフーバーは貧困者を救済するために募金運動を起こしたが、政府による直接的な支援には消極的であった。貧困者の救済は伝統的に州政府や地方公共団体、教会や慈善団体の特権であった。そのためフーバーは連邦政府が貧困者に食料を与える代わりに赤十字にそうするように求めた。赤十字が動かず、議会が救済計画を要求してもフーバーは依然として救済に躊躇して、連邦による直接支援は違憲であると述べるだけであった。
また議会がアーカンソー州の旱魃に苦しめられた農民に救済を施そうとした時にフーバーの哲学は示された。フーバーは、アーカンソー州の農民の家畜を救うために4,500万ドルを支出する法案を認めたが、農民とその家族に食糧を与えるために2,000万ドルを追加支出することに反対した。そうした救済は赤十字に任せておけばよいとフーバーは考えたためである。最終的にフーバーは救済を認めたが、2,000万ドルは贈与ではなく貸付であることが明記された。フーバーにとって連邦政府が救済のために資金を与えることはアメリカ人の精神を損なうので自発的行為のほうが望ましかった。
マスル・ショールズ法案
さらにフーバーはマスル・ショールズ法案に拒否権を行使した。マスル・ショールズ法案は第1次世界大戦中にマスル・ショールズに建設された硝酸塩製造工場を再編して拡張し、発電と配電、そして肥料製造を行うための政府施設にすることを目的にした。もともとマスル・ショールズに硝酸塩製造工場と発電所が建設されたのは戦時措置であり、終戦後、その措置をめぐって革新派と保守派の論争の的になった。
保守派は政府が工場と発電所を運営することは自由な企業競争を阻害するものだとして事業の企業への払い下げを主張した。その一方で革新派は、事業は連邦政府が運営すべきだと主張した。1928年、革新派はマスル・ショールズの政府運営を決定する法案を可決させたが、クーリッジの握りつぶし拒否権によって廃案となった。再び提出された同様の法案に対してフーバーは拒否権を行使した。フーバーは、自らが信奉する個人主義に基づいて、電力事業や一般製造業の分野に連邦政府が関与することは避けるべきであり、州に保留された権限に対する連邦政府の不当な干渉となると主張した。
「私は、政府が我々市民と競争に立つことを主たる目的とする事業を開始することに断固として反対する。一旦緩急のある場合は、政府が一時的に事業に従事することも必要であろう。しかし、それはあくまで非常措置であるべきであり、また事業そのものも費用などは副次的な問題であるというものに限る。場所によっては水運、治水、土地改良などが重要であるのにも拘わらず、個人企業ないし地方自治体では資本の点で力の及ばない場合、連邦政府がそこでの大ダムや貯水池の建設に乗り出す理由が十分にあるところもないわけではない。しかし、かかる場合、電力が副産物として登場するが、その処分は契約または賃貸によって[私企業に]委ねられるべきである。しかし、連邦政府が特定の機会を捉えて、積極的かつ計画的に電力事業ないし製造工業に進出しようとすることは、アメリカ国民の創意と企業を打ち砕くことになる。それは、我々の持つ機会均等を打破するものであり、また我々の文明の根底をなす理想を否定するものである。この法案は我が国民の前に重大な1つの問題を提起するものである。それは正しく、発電、製造工業を副業としてではなく、主たる目的として連邦政府が所有し経営することの是非の問題に他ならない。電気事業会社のやり方に対する非難の声もこの問題には密接な関係を持つ。電力の問題は、この法案に盛られた計画によって解決され得ないと思われる。電力事業会社のやり方が悪ければ、その矯正はそれを規制する立法によって行うべきであり、議会に対して州と州にまたがる電力の規制を連邦政府が州政府と協力しつつ、なし得るように立法を行わなければならないと勧告してきた。本法案は、連邦政府が[私企業と]競争するという前提で、電力事業の所有と経営に[連邦政府を]踏み出させるものである。もし我々官吏が正義と機会均等を増進することを心がけず、市場で商売をすることに夢中になるようになれば、我々の政治制度、ひいては我が国の将来が思いやられる。それは自由主義のやり方ではない。それは堕落なのである。この提案に対してはもっとはっきりしたもっと具体的な反論もあり得る。テネシー川流域に連邦政府が経営する電力事業を建設するなどということは、連邦政府の支配がワシントンから行使されることを意味し、それは政界の転変によって影響されることなどもあれば、また現地の人民が彼ら自身の資源について何ら発言を持たず、官僚による行政が遠隔の地から指揮される時に陥りやすい暴虐政治もそれにはつきものとなる。それは州政府とその下層の地方自治の無視を意味し、したがって州政府やその隷下の地方自治体の責任感の低下をもたらすものである。この計画の過去10ヶ年の歴史そのものがかかる事業を運営することに連邦政府がいかに無能力であるかの完全なる証明であり、また現地がそのためにいかに苦しんだかの証明である。本法案は、州に保留されている権限の領域内に[連邦政府が]侵入することを明確に提案するものである。本法案は、隣接諸州がこの電力に対する料金率を規制する権限をそれら諸州から奪うであろうし、それら諸州内にある不動産に対する租税もそれら諸州から奪うものである。テネシー川流域の資源と産業の真の発達は、同流域に住む人々自身の手によって成し遂げられるものである。マスル・ショールズの運営は現地の人民によってはじめて可能なのである。彼ら現地人は自分自身の社会に責任を感じる人々であり、その資源と産業を彼らの社会の利益のために奉仕させるように運営すべきである、一定の社会理論を実践するためであるとか、政治の情実のために運営されるものではあってはならない」
救済復興法
こうしてフーバーは個人主義の信念を貫こうとしたが、1931年の終わりまでに堅固な個人主義の擁護を緩めた。1932年7月11日、財政赤字の増加と慈善的分配の危険性を心配したフーバーはガーナー=ワグナー救済法に拒否権を行使した。しかし、10日後、フーバーは不本意ながら妥協として救済復興法を受け入れた。7月21日、フーバーの署名によって救済復興法は成立した。同法は、復興金融公社が自済できる公共事業に15億ドルを投資し、3億ドルを救済のために州に貸し出すことを認めた。しかし、こうした譲歩は遅きに逸した。
退役兵のワシントン行進
1932年3月、1万5,000人にのぼる第1次世界大戦の退役兵がワシントンに向けて行進し、1925年に与えられた報奨金証書の早期の全額支払いを要求した。1931年に議会は、証書を退役兵1人当たり250ドルから400ドルで引き換える法案を可決したが、フーバーは拒否権を行使した。連邦議会議事堂の近くで数百ドルの救済が与えられるのを待って野外で料理する打ちひしがれた退役兵やその家族の姿は大恐慌を象徴する情景であった。行進を行った後、大部分の退役兵は去ったが数千人がそのまま残った。警察は彼らを退去させようとしたが失敗した。7月、フーバーは軍を使って彼らを退去させることを決定した。サーベルを装備した騎兵隊と銃剣を付け催涙弾を使用する歩兵隊に加えて6台の戦車が動員された。最近、生まれたばかりの赤ん坊が催涙弾の影響で死亡した。ペットの兎を救おうとした少年が足に銃剣で傷を負わされた。連邦軍は退役兵とその家族を追い散らし、彼らのバラックに火をつけた。フーバーのこうした命令は激しい非難を招き、大恐慌の被害者に対して大統領は無慈悲であるというイメージが強まった。
スティムソン・ドクトリン
国内だけではなく外交でもフーバーは困難に直面した。フーバーは軍備拡張競争を避けようとした。しかし、ロンドン海軍軍縮会議で締結された各国の艦船の建造数を制限するロンドン条約やケロッグ=ブリアン協定にも拘わらず、世界各地で侵略行為が広がり始めた。1931年9月、日本が満州を侵略した時、フーバーは主要な外交的危機に直面した。フーバー政権は満州事変当初、日本政府が事態を早期に収拾することを期待していた。フーバーは日本の行動が不道徳であると思ったが、同時に基本的に中国と日本の問題であり、日本は中国を屈服させることはできず、日本にとって中国は生命線であると考えていた。それ故、国際連盟と協力して交渉を行えばよいと考えた。またヘンリー・スティムソン国務長官は、ロンドン海軍軍縮条約で手腕を発揮した若槻礼次郎首相と幣原喜重郎外相の国際協調路線を信頼していた。しかし、日本政府の声明にも拘わらず、満州事変が拡大の様相を呈し、若槻内閣が倒壊したのを知ったスティムソンは、1932年1月、スティムソン・ドクトリンを公表した。
スティムソン・ドクトリンによって、アメリカは、既存の条約に一致しないいかなる領土獲得も認めないことを宣言した。日本の行動はケロッグ不戦条約や国連連盟規約に違反するものに他ならない。スティムソンは、アメリカの権利を侵害し、門戸開放政策に抵触するような行動をアメリカは容認しないと警告した。スティムソンはイギリスと共同歩調をとろうとしたが、戦債の返還、海軍軍縮問題に関してアメリカに不信感を抱いていたイギリスは日本の行動に宥和的な姿勢をとった。結局、スティムソン・ドクトリンは日本の中国侵略に何の影響も与えず、国際社会も何の支持も与えなかった。日本は1932年3月に満州国を建設した。国際連盟の調査団が日本の侵略を批判すると日本は国際連盟から脱退した。アメリカ、イギリス、日本を中心とする太平洋、アジア地域における国際協調体制は崩壊した。
結語
ある意味でフーバーは、19世紀の伝統的なアメリカの政治的原理を大きな試練にさらしたと言える。国家的な災厄に面してもそうした原理に固執するフーバーの姿勢は、それが正しくないことを示すだけであった。こうした意味でフーバーは図らずも過去の政治的原理との断絶を促したと言える。そうした過去の政治的原理との断絶は、実業に関して政府はどの程度、干渉すべきか、連邦政府と州政府の責任の分担はどうあるべきかといった問題を再び問い直す契機となった。またフーバーはニュー・ディールを社会主義的な手法で経済に干渉する方法と見なし、必然的にすべての経済的自由を破壊し、中産階級を全体主義に追いやってしまうと後に批判している。しかし、実際はフーバーが主張した通りにはならなかったことは歴史が証明している。