2000年の大統領選挙
クリントンの時代の終わりまでに共和党は上下両院で多数派を占め、大きな10州の中でカリフォルニア州を除く9州の知事職を占めていた。2000年の民主党の大統領候補であるゴア副大統領を打ち破るために、政治的に穏健なテキサス州知事のジョージ・W・ブッシュを支持して大きな州の共和党の州知事は結集した。そうした州知事の団結は、ニュー・ディールの衰退以来、たとえ候補者中心の政治が政党中心の政治に優越したとしても、共和党が党の政治的利益を第1に置くことができる証であった。州知事がブッシュの下に終結したのは、ブッシュが最もテレビ受けが良く、共和党が優勢な大きな州の州知事であり、元大統領の
ジョージ・H・W・ブッシュの名前を持つからである。共和党の指名を獲得するにあたって、強力な保守派の指導者と緊密な関係を持っていたことからブッシュは恩恵を受けた。
同じく穏健派で戦争の英雄のジョン・マケインは共和党の大統領候補指名でブッシュに挑戦した。ニュー・ハンプシャー州の予備選挙で十分な票を獲得したマケインはブッシュの指名獲得を脅かした。ブッシュは、特に宗教的保守派にとって重要な社会問題で右寄りの姿勢を示すことでマケインの挑戦を払い除けた。サウス・カロライナ州の予備選挙でブッシュはマケインに決定的な勝利を収めた。
ブッシュの大統領に就任する前の経験も選挙運動で掲げた主題も、ブッシュがもし外交的危機が起きれば、うまく対処できるか否かをまったく示していなかった。最近の4人の前任者の中の3人、
ジミー・カーター大統領、
ロナルド・レーガン大統領、そして、
ビル・クリントン大統領のように、ブッシュは元州知事であり、ワシントン政界の経験はなかった。彼らと同じようにブッシュは純粋に国内政策の綱領で当選を果たした。しかし、彼らと違って、高く評価された外交政策の専門家集団を作り、選挙運動の間、そして大統領就任後も助言を求めた。彼らの中の大部分はレーガン政権で何らかの経歴を持っていた。
2001年9月11日、世界貿易センターと国防総省に対するテロリストの攻撃が行われた後、ブッシュは「これが私の大統領の任期で行うべきことだ」と宣言した。ブッシュ政権の運命は、アル・カイダとアフガニスタンのタリバン政権を標的にしたテロリズムに対する戦いを開始する決定ではなく、イラクに戦争を拡大するという引き続く決定によって定められた。同時多発テロの直後に示されたブッシュの断固としたリーダーシップによって、ブッシュと共和党は大きな政治的成功を収め、それは2004年の再選によって頂点を迎える。しかし、2006年までにイラク戦争やその他の失敗に対する不満が高まり、ブッシュ政権は政治的急降下に見舞われた。
2006年の中間選挙での民主党の盛り返しは、ブッシュ政権1期目の政治的業績を著しく損なった。さらにブッシュ政権の成功と失敗は、国内外の危機に対処できるようにどの程度、大統領を強くすればよく、議会と人民に対して説明責任を負わせるためにどの程度、大統領を強くしないでおけるかという古くからのジレンマを呼び覚ました。
2000年9月、アメリカ政治学会で7人の著名な研究者が、経済的成長と現職大統領の支持率を組み合わせたモデルを使って11月の選挙の結果を予測した。彼らは全員一致でゴアがブッシュを6パーセントから20パーセントの一般投票の格差で破るだろうと結論付けた。4年間にわたって経済は少なくとも年率4パーセントの成長を示し、クリントンの支持率は60パーセント以上を維持していた。調査が始まって以来、2期目の大統領の支持率としては最も高かった。さらに失業率はクリントン政権期に下がり続け、4パーセント以下にまで下がった。平均年間インフレ率は1960年代初頭以来、最低であった。そして、クリントン政権が前政権から引き継いだ巨額の財政赤字は黒字に転換していた。
明らかに研究者の予測は間違っていた。大統領選挙は接戦であり、最終的にゴアが敗北した。彼らの誤りの原因の1つは、クリントンの大統領としての業績に対する有権者の承認と個人としてのクリントンの否認の違いを見過ごしていたことである。2000年の出口調査によれば、投票者の中で57パーセントが大統領としてのクリントンの業績を認め、そのうち77パーセントがゴアを支持し、20パーセントがブッシュを支持した。しかし、投票者の中で60パーセントがクリントン個人に関して否定的であり、そのうち70パーセントがブッシュを支持し、26パーセントがゴアを支持した。
ゴアが敗れたさらに重要な理由は、ゴアはクリントンの個人的な失敗から距離を置こうとしたことでクリントンの業績に頼ることが難しくなったことである。民主党の全国党大会で行った大統領候補指名受諾演説で有権者に向かってゴアは、「私は今夜、ここに誰の支配も受けないで立っている」と語った。ゴアのそうした姿勢は、候補者を中心とした現代的大統領政治への適切で政治的に恩恵を受ける対応である。そうした対応によって候補者は政党や前任者から自らを切り離すことができる。クリントン時代のアメリカの繁栄を強調する代わりに、ゴアは大衆志向の選挙運動を展開した。そうした選挙運動は、良い時代に自党の支配を続けようと試みる副大統領よりも、悪い時代に現職大統領に挑戦する候補に適した手法であった。2000年のゴアの政治的利点は、民主党の8年間の支配が平和と繁栄を生み出したのであれば、どうして共和党の大統領を選ぶ必要があるのかと有権者に問えることであった。しかし、ゴアは全国的に放送された3回にわたるテレビ討論会でクリントンに言及することはなかった。
驚いたことに、テレビ討論会はゴアの敗北の一因になった。ゴアは経験豊富で有能な討論家という評判を持っていた。それに対して、ブッシュはそうした評判を持っていなかった。しかし、第1回目の討論会でゴアは、ブッシュを軽蔑しきったようなやり方で扱い、自分の順番では見下したような態度で話し、ブッシュの話す順番になると溜息をついたり、しかっめ面をしたりしたので支持を失った。一般から寄せられた反感に反省したゴアは第2回目の討論会で卑屈に見える程、恭しい態度を示した。第3回目の討論会でゴアは本調子を見せたが、一貫性のなさは有権者にゴアの人物像について疑念を抱かせた。ブッシュは議論を支配したわけではなかったが、一貫して同じ態度を示した。討論会が行われる前、ゴアはブッシュを支持率で5パーセント上回っていたが、討論会の後、ブッシュが逆転しゴアの支持率を5パーセント上回った。
第三政党に関する情勢もゴアの不利となった。共和党候補から票を奪うと考えられていた改革党は、政治コメンテーターのパトリック・ブキャナンが大統領候補指名を獲得した後、自壊した。ブキャナンは、改革党の中核となる立場、例えば自由貿易への反対を共有していたが、党を分裂させるような妊娠中絶、積極的差別是正措置、同性愛者の権利などの文化的、社会的問題に関してあまりにも多く言及し過ぎた。改革党の党大会がブキャナンを指名したことを知ると党の創設者であるペローはブッシュへの支持を表明した。
緑の党の大統領候補であるラルフ・ネーダーは、ブキャナンよりも強力な選挙運動を展開した。全国的に著名な消費者運動家であるネーダーは3パーセントの一般投票を得た。ネーダーは多くのゴアの票を奪う可能性があったので、ゴアは北部の州を抑えるためにミネソタ州やオレゴン州などを重視する選挙運動を展開する必要に迫られた。最も致命的であったのは、ネーダーがカリフォルニアで9万7,419票を獲得したことである。もしネーダーの票がゴアに流れていれば、ゴアはカリフォルニアで勝利を収めることができ、その結果、大統領選挙にも確実に勝つことができただろう。出口調査によれば、ネーダーの支持者は、47パーセントがゴアを支持し、21パーセントがブッシュを支持していた。
2000年の大統領選挙は現代的大統領制度の脆弱性を示した。民主党の大統領候補のゴアも共和党の大統領候補のブッシュも、大統領の権威の基盤を侵害してきたアメリカ政治の御し難い状況から離れた立場をとることができなかった。その代わりに両候補は社会保障や医療保障といった福祉国家の主要な政策を強化することを目指す中道的な立場をとった。ゴアはクリントン政権の福祉改革と自由貿易を擁護し、クリントンの新しい社会契約から脱却しようとはしていないことを示した。ブッシュはレーガン時代の反政府的な弁論からは距離を置いたが、「思いやりのある保守主義」を新しい共和党の主義として採用した。ブッシュは政府の役割は貧困を減らし、教育を改善することにあると主張した。ブッシュのそうした主張は、共和党議員に関連付けられるような保守主義の支配的イメージからブッシュを脱却させた。ゴアもブッシュも政党の指導者から選ばれていたが、それぞれ党組織とは独立した立場を保ち、民主党のリベラリズムと共和党の保守主義の間の戦略的な中道主義を追求した。
2000年の大統領選挙は実質的に引き分けであった。それは最終的に最高裁によって解決された。ブッシュ対ゴアの選挙運動は、ブッシュ対ゴア事件の最高裁の判決に比べれば決定的ではなかった。多くの点で、投票日の後、5週間にわたって続いた法的闘争は、20世紀末を支配し、クリントンの弾劾で頂点を迎えた定式化された政治闘争と似通っていた。こうした衝突は、歴史的に、多くの政治闘争を選挙という手段で解決してきたアメリカが定式化した争いにますますさらされるのではないかという疑念を提起した。
投票が締め切られた後、ゴアは明らかに一般投票でブッシュを上回っていた。しかし、2000年の「選挙後の選挙」は、フロリダ州での勝利を見込んでブッシュを勝者だと宣言していたテレビ局が、フロリダ州の結果はまだ不確定であると放送した11月8日の夜明け前に始まった。ブッシュもゴアも勝利を宣言するのに十分な選挙人を獲得できなかった。選挙の行く末は、25票の選挙人を擁するフロリダ州の結果に委ねられた。フロリダ州では一般投票の集計をめぐって論争が起きていた。ゴアは、票を詐取されたという地元の民主党員の訴えを調査するために弁護士団をタラハシーに派遣した。
選挙結果が伯仲している時に適用されるフロリダ州の法律に基づいて、11月10日に機械によって再集計が行われた。その結果、ブッシュが僅差でゴアを上回っていた。機械はすべての票を集計できず、したがって人民の意思に背くことになると主張してゴアは民主党の支持基盤が強く、民主党の選挙委員会によって統制されている4つの郡で手作業による再集計を行うように求めた。ゴアの法的な主張は、フロリダ州の集計機械には欠陥があり、それ故、特に民主党が優勢な4つの郡の公式の集計結果には誤りがあるというものであった。ゴアの主張の法的挑戦の中核は、手作業が有権者の真の意思を示し、ゴアの得票数がブッシュの得票数を上回っている可能性があるというものであった。民主党が支配するフロリダ州最高裁はゴアの主張を支持した。投票日の夜の報告では1,784票差であったのが、全州にわたる集計機械による再集計が数日後に行われた際の票差は327票にまで縮まった。
一方で、ブッシュの弁護士は問題となった4つの郡での手作業による再集計を停止させるように最高裁に求めた。ブッシュの弁護士は、フロリダ州最高裁の判決は「各州はその州議会の定める方法により、その州から連邦議会に送りうる上院および下院の議員の総数と同数の選挙人を任命する」と規定する憲法第2条第1節2項に反し、投票日の前に州議会によって制定された州法に従って選挙人を選ぶことを求める1887年選挙人集計法に反すると論じた。さらにブッシュの弁護士は、州の異なる郡で行われる再集計を統制する統一基準を欠いているので、再集計は「いかなる州といえども正当な法の手続きによらないで、何人からも生命、自由あるいは財産を奪ってはならない。またその管轄内にある何人に対しても法律の平等なる保護を拒むことはできない」と規定する憲法修正第14条に反していると主張した。
法的手段を追求する一方で、ブッシュは他の手段がすべて失敗に終わっても、ブッシュのみが享受できる利点があるのを知っていた。州法によって、選挙の結果を確認し、再集計を監視する責任を持つフロリダの州務長官のキャサリン・ハリスはブッシュの選挙運動に協力していた。また選挙人集計法によってもし他の手段がすべて失敗すれば、選挙人名簿を登録する権限を持つ州議会は共和党寄りであった。さらに選挙人集計法によって国立公文書館にどちらの選挙人名簿が選ばれたのか報告する責任を持つフロリダ州知事は弟のジョン・ブッシュであった。12月9日、最高裁は論争を解決するように求めるブッシュの弁護士団の要請を受け入れた。最高裁の9人の判事の中で7人が共和党の大統領が指名した判事であった。またブッシュにとって時間の経過も味方であった。選挙人集計法の規定により、州は12月12日までにどの候補の選挙名簿を選ぶか決定しなければならず、したがって再集計もそれまでに行う必要があった。
不完全に記載した票を投じた有権者の意思を識別することが最高裁の判決の課題であった。12月12日、最高裁はブッシュ対ゴア事件で7票対2票で、フロリダ州最高裁がすべての無効票、すなわち集計機械が大統領に対する投票として記録できなかった票を手作業で数えて再集計することを命じた判決は違憲であるという判決を下した。州内のどの郡によって有権者の意思を判断できるか基準を確立することができないので、フロリダ州最高裁は憲法修正第14条の法の下の正当な手続きを保障する規定と何人に対しても法律の平等なる保護を拒むことはできないという規定に反している。
最高裁では判決の2番目の決定的な条文に関して意見が分かれた。5票対4票で最高裁は、フロリダ州最高裁は、選挙人団が12月12日までに認定される限り、異議申し立てから選挙人を隔離する選挙人集計法を適用する意思を示した州議会を無視することで憲法に違反しているという判決を下した。最高裁は、憲法修正第14条の基準に適合するような再集計は選挙人を選ぶ方式を決定する州議会の特権を阻害することは明らかなので、フロリダ最高裁の再集計を認める判決を否定すると結論付けた。最高裁が判決を下したのは12月12日なので、12月12日までに選挙人を認定するように求める選挙人集計法の規定によって、もしあらゆる郡に同一の基準が適用されても、フロリダ州には再集計を行う時間が残されていなかった。
翌日、ゴアは選挙の敗北を認めたが、まったく抗議がなかったわけではなかった。ゴアの支持者はジョン・スティーヴンズ判事の反対意見によって勇気付けられた。スティーヴンズ判事は、最高裁の多数意見がフロリダ州に有権者の意思を決定させる義務を課すことよりも12月12日までに選挙人を確定する必要性を強調したと公然と非難した。さらにスティーヴンズ判事は、決着をつけることを優先して、最高裁の多数意見が、多くの人々の選挙権を奪う結果をもたらしたと主張した。最高裁の立場は、有権者の意思よりも州議会の意思を優先するものであり、アメリカ国民の政治不信を招きかねない。大統領選挙でどちらが勝者なのか完全に確定することはできないが、その一方で敗者の確定は明らかである。敗者は、本来、法の支配の公平な擁護者であるべき判事である。
司法府が国民の信頼を失うだろうというスティーヴンズの予言はあたらなかった。最高裁の判決は国民ではなく政党の活動家を分断しただけであった。国民は投票所から遠ざかっていた。1996年の大統領選挙では投票率が50パーセントを下回り、1924年以来、最低を記録した。2000年の大統領選挙では、現職が出馬せず新しい大統領を決める選挙であり、接戦であったのにも拘わらず、投票率は僅かに51パーセントであった。
思いやりのある保守主義
ブッシュは2001年、辛うじて共和党が議会の多数派を占める状態で政権を開始した。共和党は下院で民主党の211議席に対して222議席を占めた。議席数は選挙前と同じである。上院では民主党が選挙前より4議席多く獲得し、両党は50議席ずつ占め、均衡した。決定票を投じる権利は副大統領のリチャード・チェイニーが握っていた。ブッシュは共和党の強固なイデオロギー的な議会指導者と協調しようと努めた。クリントンとジョージ・H・W・ブッシュのように、ブッシュは議会内の党派的な争いとそれに無関心な人民に直面した。減税、規制緩和、エネルギー生産、ミサイル防衛など伝統的な問題を強調する決定は、上下両院で両党がほぼ均衡している中で小さいが重要な役割を果たす共和党の穏健派を離反させる危険があった。
ブッシュは党派的な保守主義の戦略の恩恵と代価を受けることになった。ブッシュは、2000年の保守主義の重要な政治綱領である10年間にわたる1兆3,000億ドルの減税を議会に法制化するように求めた。しかし、2001年5月に共和党のジェームズ・ジェフォーズ上院議員が無所属になると宣言した時に上院の支配権は民主党に移った。数日内に上院の委員会や小委員会の議長職が民主党の手に移った。
上院で党派的な障害が続くことを見越して、ブッシュ政権はホワイト・ハウス内での権力を固める努力を強めた。ブッシュはカール・ローヴ次席補佐官に2002年の選挙で共和党の候補者を選び出し、選挙戦術を決定する際の主導権を与えた。その結果、共和党全国委員会の議長であるジェームズ・ギルモアの権威を損なうことになった。ローヴは大統領を中道的で非伝統的な共和党員として位置付け始めた。大統領に就任して初めての夏を迎える頃、ブッシュは税や防衛ではなく、教育や社会福祉事業を強調するようになっていた。
ブッシュの思いやりのある保守主義はクリントンの新しい社会契約と非常に似通っていた。実際、保守派は、「クリントンなきクリントン主義」だとしてブッシュを全面的に攻撃していた。「責任」、「共同体」、そして「教育」の価値を主張するブッシュの演説は、クリントンが1992年と1996年の選挙で行った演説と似通っていた。積極的な連邦政府の役割に反対することなく、保守主義の価値観を体現しようとしていた。こうした価値を体現する政策、特に教育と福祉改革に対するブッシュの提案はその多くが、クリントンが属していた民主党内の穏健派の発案によるものであった。事実、民主党内の穏健派はブッシュが彼らの政策を盗用したと非難した。
しかし、重要な点でブッシュはクリントンと異なっていた。クリントンは、第3の道がどのように民主党の主要な原理に貢献するか明らかにしなかった。クリントンと民主党内の穏健派は党派的傾向に対して非常に曖昧な姿勢をとっていた。しかし、ブッシュは共和党の保守主義を受け入れた。ブッシュの言辞と政策提案は、反政府的な主張に頼ることなく保守的な価値観を体現しようとする慎重な試みであった。ブッシュの実質的な減税の要求は、政府に対して敵意を持つ保守派にとって魅力的であった。しかし、ブッシュは、多くの人々が市場のみから意義を引き出すわけでもなければ、市場が最も重要な価値観の源でもないということを認識していた。1999年7月にブッシュは「見えざる手が多くの奇跡をもたらす」と語ったが、「見えざる手は人間の心に触れることはできない。我々はばらばらの個人の国である。しかし、我々は、友情、共同体、そして連帯の絆で結び付けられたさらなる機会を持った国でもある」と述べた。
ブッシュは、教会、シナゴーグ、そしてモスクなど信仰に基づく民間団体が貧困者、麻薬中毒者、読み書きのできない者などに向けた政府の社会福祉事業で大きな役割を果たせるように連邦と州の規定の変更を提案した。しかし、同様に一般の福祉を保障するにおいて連邦政府に重要な役割を担わせたいとブッシュは考えた。保守派は教育省をなくしたいと考えていたが、ブッシュは、落ちこぼれを作らないための初等・中等教育法で連邦の援助が学生の習熟程度と結び付いていることを説明できる形で教育省が公立学校を作ることを提案した。
長い間、社会的な保守派は、妊娠中絶に反対することで道徳を推進しようとしてきた。ブッシュは強固な妊娠中絶合法化反対派であることを公表した。より重要なことに、ブッシュは保守的な宗教的価値観を、貧困者を援助し、あらゆる子供に教育を保障する政府の責任と結び付けた。2001年1月29日、大統領令13199号でブッシュは、信仰に基づく団体や共同体が社会的な問題を解決する妨げとなるような不必要な法、規制、官僚制度を撤廃するための機関である信仰と共同体に基づく主導を創設した。さらに同日の大統領令13198号でブッシュは各省庁の内部に信仰と共同体に基づく主導センターを設けた。信仰と共同体に基づく主導センターは省内の監査を行い、信仰に基づく団体が社会福祉事業に参加するうえでの障害を特定し、そうした障害を撤廃する計画を作成する。
ブッシュの思いやりのある保守主義は共和党の反政府的な姿勢を和らげた。それはまた大統領に共和党から独立して行動する場を与えた。なぜなら信仰に基づく主導や教育改革のような計画は共和党内で主要な優先課題ではなかったので、現代的大統領制度が発展して以来の慣習として、ブッシュは大統領令と超党派の協調を以って政策目的を達成することができた。特に落ちこぼれを作らないための初等・中等教育法は大統領と上院のリベラルな民主党員との妥協を含んでいた。ブッシュとその助言者は、教育を、ブッシュを今までとは異なる共和党員として際立たせる中心的な課題と見なしていた。ブッシュは、リベラルな民主党員の代表であるエドワード・ケネディ上院議員と2001年に落ちこぼれを作らないための初等・中等教育法を通過させる際に同盟を組んだことを吹聴した。
クリントンの第3の道と同様に、ブッシュの思いやりのある保守主義は、給付計画に対する権利に基づく主張と個人の責任を重視する主張の間のアメリカの政治的戦いを超越することを約束した。幹細胞研究という特定の課題について国民に向けて行われた演説でブッシュはすべての人々を満足させようと努めているようであった。多くの宗教的保守派は、人の胎芽を使った幹細胞研究は妊娠中絶と同じく未だ生まれぬ者の権利を侵害していると見なした。しかし、多くのアメリカ人は幹細胞研究の扉を閉ざすことに反対し、幹細胞研究が健康を増進する科学的進歩を約束するものだと見なした。
ブッシュは演説で幹細胞に関するこうした2つの見解を橋渡ししようとしたが失敗した。大統領が慎重で信心深いと評する一方で、批評家が打算的だと批判した解決策で、ブッシュは、連邦助成金は不妊治療クリニックに残された胎芽から採取された幹細胞の研究に使われると宣言した。
幹細胞をめぐる争いを解決しようとするブッシュの試みは、現代的大統領制度と立憲民主政の間の緊張を示している。大統領の政策は大統領令で行われ、新しく設けられた生命倫理に関する大統領評議会に幹細胞研究を監督する権限が与えられた。しかし、この決断で争いは終わったわけではなかった。その問題は2004年の大統領選挙で再燃し、2006年に議会が、ブッシュが連邦の助成金による胎芽幹細胞研究に課した規制を撤廃する法の制定を決定した時も再燃した。ブッシュはこの法案に対して初めて拒否権を行使した。民主党はこの問題を2006年の中間選挙で取り上げた。民主党は、もし幹細胞に関する一般の議論が本当に必要であれば、なぜ議員よりも専門家によって解決されないのかと問うた。問題を行政委員会に委ね、積極的だが議会の審議を避けることでブッシュは現代的大統領制度の重要な先例を作った。
行政特権
ブッシュ政権期、行政特権をめぐる問題が起きた。デイヴィッド・ウォーカー会計検査院長は、国家エネルギー政策開発グループに関する情報を得るために議長のチェイニーを告発すると宣言した。行政府の中で行われる議論に関して情報を得ようとする試みは三権分立の原理に違反するとブッシュ政権は回答した。さらにコンドリーザ・ライス国家安全保障担当補佐官が同時多発テロ事件に関する独立調査委員会で証言を求められた時に、ブッシュは行政特権に基づきライスに証言させることを拒否した。しかし、最終的に世論の圧力に屈して、ブッシュはライスに証言させることを認めた。ブッシュは初めて行政特権を利用して、連邦の事件で検察官が下した判断に関する文書を議会に開示することを拒んだ。
選挙運動資金の規制
2002年3月27日、ブッシュは超党派選挙運動改革法に署名した。同法はマケイン上院議員とラス・フェインゴールド上院議員によって1995年に初めて提案された。2人は規制の対象とならない選挙運動資金、特に共和党と民主党が莫大な費用を使っている意見広告に制限を課そうとした。広告の作成者は「支持する」という類語を使わないようにしていたが、それは支持表明広告と何ら変わることはなく、連邦選挙運動法の精神を侵害していた。マケインとフェインゴールドは、企業や労働組合が、規制の対象とならない選挙運動資金を使って、予備選挙の30日以内、もしくは本選の60日以内に特定の候補に言及した広告を出すことを禁止することを求めた。また2人は献金額の制限が物価上昇に見合っていないと主張した。超党派選挙運動改革法が成立した結果、献金額の上限は1人の候補あたり1回の選挙につき2,000ドルに倍増された。さらに重要なことに、同法はこれまで規制の対象とならなかった政党の名前で集められる寄付、いわゆるソフト・マネーを禁止した。それは2004年の選挙運動に大きな影響を与えた。超党派選挙運動法が発効して直後、アメリカ労働総同盟・産業別労働組合会議、アメリカ市民自由連合、全米ライフル教会などの団体は、超党派選挙運動改革法を違憲として連邦裁判所に提訴した。2003年3月、連邦裁判所はソフト・マネーの禁止は違憲であるという判決を下した。しかし、2003年12月、マコーネル対連邦選挙運動委員会事件で最高裁は、議会は選挙の信頼性を保護する権利を持つと主張し、ソフト・マネーの禁止を支持した。
大統領候補や政党は政治資金を集めるのに他の方法を探さなければならなくなった。いわゆる527団体である。527団体は、内国歳入法規の527節の下、税が免除される団体である。527団体は政治活動のための資金を集めるために組織されるが、党組織ではなく、本来、連邦選挙の結果に影響を与えることを目的としていないので連邦選挙運動委員会に登録する必要はない。多くの527団体はソフト・マネーを集めるために利益団体によって運営され、特定の候補を応援するためではなく投票促進運動や意見広報活動を行う。こうした団体は政党の陰の委員会と広く見なされている。実際、527団体はどの政党の側に立っているのか色分けされることが普通であり、特定の候補者を攻撃することも珍しくない。
最近ではさらに特別政治活動委員会が出現した。従来、企業や団体が政党や政治家に直接献金を行うことは禁止されているために、政治献金の受け皿として政治活動委員会が設立され、選挙運動を支援してきた。2010年の最高裁判決で、個人献金の1人の候補あたり1回の選挙につき5,000ドルという献金の上限が撤廃され、無制限に献金を集めることが可能になった。特別政治活動委員会は直接候補者に献金することはできないが、候補と平行して選挙運動を行うことができる。
海南島事件
2001年、ブッシュは最初の外交的試練に直面した。アメリカのEP-3E偵察機が南シナ海で通常任務に従事している最中に中国のF-8戦闘機の攻撃を受けた。アメリカの操縦士は海南島に緊急着陸を余儀なくされた。24人の乗組員はすべて無事であったが、中国当局に拘留された。11日後、乗組員と偵察機はアメリカに帰還することを認められた。中国の外交官は、南シナ海での衝突を遺憾に思う旨を伝えるアメリカ側の文書を受け入れた。ブッシュは公式に謝罪することもなく、または武力を仄めかすこともなく、外交官に問題の解決を一任した。ブッシュの判断は高く評価された。
単独行動主義
2001年3月、ブッシュは1997年の第3回気候変動枠組条約締約国会議で採択された京都議定書から離脱する意向を示した。京都議定書は、39ヶ国に2008年から2012年までに1990年の水準で平均5.2パーセントの温室効果ガスの削減を求めた。ブッシュは、京都議定書が中国やインドなど大量の温室効果ガスを排出する国々に削減義務が課されていない点を指摘し、議定書を誤った条約と批判した。またブッシュは国際刑事裁判所の設立を認める条約に調印しなかった。国際刑事裁判所は個人の人道に対する犯罪や戦争犯罪を裁くために設けられた。ブッシュは、国際刑事裁判所がアメリカ軍の指揮官にとって脅威となると考えて条約に調印しなかった。またブッシュは旧ソ連と結ばれた新兵器や防衛制度を制限する条約を撤廃した。2002年、ブッシュはアラスカとカリフォルニアに迎撃ミサイルによる防衛網を構築するように命令した。こうした措置は国際社会からアメリカの単独行動主義だという批判を受けた。
同時多発テロの勃発
ブッシュの政策は、アル・カイダのテロリストによる2001年9月11日の同時多発テロの後、劇的に変化した。2001年9月11日東部標準時刻午前8時46分、ボストン発サン・フランシスコ行きのアメリカン航空11便がハイジャックされ、世界貿易センタービル北棟に激突し炎上した。その僅か17分後、今度はボストン発ロス・アンジェルス行きのユナイテッド航空175便が世界貿易センタービル南棟に激突し炎上した。それだけにとどまらず、9時37分に国防総省にアメリカン航空77便が突っ込んだ。また連邦議会議事堂を標的にしていたユナイテッド航空93便も10時3分にペンシルヴェニア州シャンクスヴィル郊外に墜落した。一連のテロ攻撃で3,000人以上の犠牲者が出た。
同時多発テロ勃発直後、一般航空機の飛行が禁止され、アメリカに向かう国際線は3日間、着陸が禁止され、既にアメリカに向けて飛行中の航空機はカナダかメキシコに目的地を変更するように指示された。フロリダ州の小学校を訪問中であったブッシュはテロ攻撃を避けるために大統領専用機に搭乗し、チェイニー副大統領も安全な場所に避難した。連邦捜査局はテロ実行犯を特定した。国防総省国家安全保障局はウサマ・ビン・ラディン宛の交信を傍受し、アル・カイダを同時多発テロの首謀機関であると断定する証拠を入手した。北大西洋条約機構はアメリカへの攻撃は北大西洋条約機構全体への攻撃と見なすと発表した。同時多発テロが勃発して直後、ブッシュは国民に向かってテロに対する戦争を遂行することを誓った。
「ビルに飛び込む飛行機、燃えあがる炎、巨大建造物の崩壊といった光景は我々を信じられない思い、ひどい悲しみ、そして静かで揺ぎ無い怒りで満たした。このような大量殺人行為は、我が国を怖がらせて混乱に陥れ、尻込みさせようとした。しかし、彼らは失敗した。我が国は強い。偉大なる国民は偉大なる国を守ろうとしている。テロリストの攻撃は我々の最大のビルの礎を揺るがすことができたが、アメリカの礎に触れることもできなかったのである。こうした行為は鋼を断つことはできても、アメリカの決意の鋼をへこませることはできない。アメリカが攻撃の的になったが、それは我々が世界における自由と機会の最も明るい灯台だからである。そして、その光が輝くのを妨害することはできない。今日、我が国は悪を見た。人間性の中で最悪の悪を。そして、我々はアメリカの最善を以って、レスキュー隊の勇気で以って、できる限りの助けと血液を与えに来た見知らぬ者や隣人の勇気で以って対応した。私は、犯人を捜し出し、裁きを受けさせるように全情報、警察機関に命じた。我々は、こうした行為を行ったテロリストと彼らを匿う者とを区別しない。私とともにこうした攻撃を強く非難してくれた議員諸氏に私は非常に感謝する。そして、アメリカ国民を代表して、私は、哀悼と支援の意を伝えてくれた世界の指導者に感謝する。アメリカと我が友好国、そして、同盟国は世界の平和と安全を望むすべての者たちとともにある。そして、我々はテロリズムに対する戦争に勝利するためにともに立ち上がるだろう」
この同時多発テロは1812年戦争以来、初めてアメリカ本土に加えられた攻撃であり、アメリカ史上、最も激しい攻撃であった。一夜にしてアメリカ国民は大統領の下に団結したように見えた。市民は被害者の家族に対する支援を惜しまなかった。アメリカ国旗があらゆる場所で掲げられ、「ゴッド・ブレス・アメリカ」が頻繁に歌われるようになった。9月11日から数日の間にブッシュ大統領の支持率は51パーセントから90パーセントに跳ね上がった。テロリストの攻撃に対するブッシュの軍事的措置への強い意見の統一が素早くなされた。同時多発テロにより、21世紀において大統領が危機の際に国民を統合する役割を果たすことが再確認された。9月14日、議会は軍隊使用授権決議で「大統領に、国家や組織、または個人によって合衆国に対して行われる将来の国際的テロ行為を防止するために、2001年9月11日に起きたテロリストの攻撃を計画し、認可し、肩入れし、支援するか、そうした組織や個人を匿っていると大統領が認めた国家、組織、もしくは個人に対してすべての必要で適切な武力を行使する権限を与える」ことを認めた。
短期的にテロリズムに対する戦争は現代的大統領制度を強化し、現代的大統領制度の桎梏であった分極化した党派的傾向を著しく和らげた。ブッシュ政権が国土安全保障局を設立し、空港の安全確認に厳しい規制を課し、そしてアル・カイダの指導者を匿うアフガニスタンへの攻撃を決定しても、反対の声はほとんど聞かれなかった。テロに関与していると疑われる人物を逮捕することを認める愛国者法が制定された。政府は、拘留者に関する情報の開示要請に抵抗することができ、拘留者が法的代理人に面会することを拒否でき、秘密裡に審問を行うことができるようになった。連邦捜査局は、広範な捜査活動権限を与えられ、市民、非市民を問わずに公式な告発なしで拘留できるようになった。愛国者法は、戦時の大統領によって打ち立てられた前例に倣っている。ブッシュは同時多発テロの後、自らを「戦時の大統領」と称している。1798年の外国人・治安諸法や1918年治安法、そして南北戦争や世界大戦における大統領の行動のように、議会と大統領は愛国者法を危機の際の緊急的な一時的措置と見なしている。
国家の危機の際に超党派の支持が必要だと考えたブッシュは、
フランクリン・ルーズベルト大統領を思わせるような言葉でテロリズムに対する戦いを正当化した。ブッシュの正当化はかつての
ウッドロウ・ウィルソン大統領の戦争教書や
ハリー・トルーマン大統領のトルーマン・ドクトリンさえも控え目に思えるほど過激な内容であった。9月20日の両院合同会議でブッシュは以下のように演説した。
「我々のテロとの戦いはまずアル・カイダに対して行われるが、我々の戦いはそこで終わるわけではない。テロとの戦いは、世界中のテロリスト集団を発見し、その活動を停止させ、彼らを打倒するまで終わることはないだろう。この戦争は、10年前に遂行されたクウェート領土の決定的な解放と速やかな帰結を以って終了した湾岸戦争のようにはならないだろう。この戦争は2年前に実施された地上軍の投入もなく戦闘によるアメリカ兵の犠牲をまったく出さなかったコソヴォ空爆のような戦いにもならない。テロに対する我々の答えは、即時的な報復行為や単独の空爆作戦以上の作戦を実行することである。アメリカ国民は1つの戦いですべてが終わることを期待するのではなく、これまで経験したことのない長期的な戦いに備えなければならない。この戦いにおいて、我々はテレビで生放送されるような劇的な攻撃、そして戦争を成功に導くために行われる隠密作戦を展開する。我々はテロリストの資金源を断ち、テロリスト同士が反目し合うよう仕向け、逃げ場も休息所も与えなくなるまでテロリストを追い詰める。我々はテロリズムを支援し、避難所を提供する国々を追及する。すべての国家は決断しなければならない。我々の側につくか、それともテロリストの側につくか。今後、テロリストを匿い、支援する諸国をアメリカ合衆国は敵対的政府を見なすだろう。自由と恐怖が戦っている。我々の時代の偉大な業績であり、すべての時代の大きな希望である人間の自由の促進は今、我々にかかっている。我が国の現世代は我が人民と我々の未来から暴力の暗い脅威を取り除くだろう。我々は、我々の努力と我々の勇気によってこの大義に世界を結集させなければならない。我々は疲れることなく、よろめくことなく、そして失敗することもないだろう」
さらにブッシュはテロとの戦いの計画を提示した。アメリカは長期間にわたる多数の犠牲者を出す戦争を行う必要がある。ビン・ラディンとアル・カイダの一味を司法の裁きの場に引き出し、テロ支援国家に対して経済的、軍事的制裁を課し、全世界規模で監視活動を行い、国際的な情報共有を行う。
アフガニスタン戦争
ブッシュの同時多発テロへの対応は、
セオドア・ルーズベルト大統領とウィルソン大統領以来、近代的大統領制度を支配してきた革新的な国際主義的な伝統からの逸脱であり、継続でもあった。真の革新主義のように、ブッシュは、テロに対する戦争はアメリカ人の命と財産を守る試みであり、自由と民主主義を促進する試みであると強調した。またブッシュは、アメリカは独自に進路を定め、他国の支援を歓迎するが、同盟国であっても誤った行為で妨げられるのは拒否すると主張した。ウィルソンは平和を構築するために国際連盟を唱導した。フランクリン・ルーズベルト大統領は政治的、外交的資本を連合国と協力して国際連合を設立するために使った。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、1991年に湾岸戦争を行うために国際的な連合を形成した。しかし、ブッシュはそうした連合を形成するために待つことなく2001年10月にアフガニスタン侵攻を開始した。
アフガニスタンにはテロリストを訓練するキャンプがありタリバン政権の支援を受けていた。実質上、アフガニスタンはアル・カイダの基地であった。同時多発テロの6日後にブッシュはタリバン政権にビン・ラディンを引き渡すように要求した。しかし、タリバン政権は同時多発テロへのビン・ラディンの関与が不明確であるとしてアメリカの要求を拒否した。また国連安全保障理事会は9月12日、同時多発テロに関連する脅威に対して武力行使を行うことは国連憲章の自衛権に基づく行為であると認める決議を採択した。さらにブッシュは、タリバン政権に、アフガニスタン国内のアル・カイダ指導者の引渡し、アメリカ人を含む外国人捕虜の解放、アフガニスタン国内で活動する外国報道関係者、外交官、援助関係者の保護、アメリカの完全な立会いの下でのテロリストを訓練するキャンプの閉鎖を要求した。10月7日、タリバン政権はアメリカの要求に応じる代わりに、ビン・ラディンをイスラム法廷で裁くことを提案した。ブッシュ政権はタリバン政権の申し出を拒否し、アル・カイダを根絶させるように求めた。タリバン政権がアメリカの要求を受け入れなかったので「不朽の自由作戦」と呼ばれる戦争が始まった。
アフガニスタンへの攻撃は10月7日、インド洋の潜水艦と空母からの巡航ミサイルとディエゴ・ガルシア島の基地から発進した爆撃機によって行われたカブール、カンダハール、ジャララバードへの空爆で開始された。アフガニスタン侵攻は、北部同盟を中心とする反タリバン勢力と協力して特殊部隊によって行われた。北部同盟と民間人を支援するために大量の人道救援物資の投下も行われた。空爆が開始された7日後、タリバン政権は、空爆の停止を求め、同時多発テロへのアル・カイダの関与が証明されればビン・ラディンの身柄を第三国に移して裁判を実施すると提案した。ブッシュはタリバン政権の申し出を再度、拒否した。北部同盟は米英の制空権を背景にアフガニスタン全土で戦局を有利に進め、11月12日にカブールを攻略した。アフガニスタン戦争の地上戦は中央情報局の特殊部隊と協力した北部同盟によって行われ、アメリカの陸軍と海兵隊が戦闘に参加しなかったという点で画期的な戦争でった。ブッシュは軍事的にも財政的にも西洋諸国に頼らなかったために独自に行動指針を決めることができた。ドイツとその他の緊密な同盟国は、アフガニスタン侵攻を支持したが、イギリスとイスラエルのみが、アメリカの目標はイラク、イラン、北朝鮮といった「悪の枢軸」に対する警戒態勢を築くことだというブッシュの意図を支持した。
テロに対する戦争に関する議論
世界をアメリカの利益のために作り変えようとするブッシュの単独的な行動は政権内でも議論を引き起こした。パウエル国務長官は、積極的な軍事行動を唱導するチェイニー副大統領とドナルド・ラムズフェルド国防長官に反対した。同様に、ローレンス・イーグルバーガー元国務長官はアフガニスタンで新政府が樹立された後に行われたブッシュのイラク侵攻を公然と非難したが、大統領の攻撃的な姿勢は共和党内ではあまり議論とならなかった。共和党議員の大部分はブッシュの強気の言葉を支持し、フセインを政権の座から追うという目標を共有していた。ラムズフェルド国防長官はフセイン政権が中東におけるアメリカの石油権益及び安全保障上の利害にとって大きな脅威であると見なしていた。宗教的保守派は、大統領のイスラエルに対する揺ぎ無い支持に喝采した。
2002年2月、一般教書でブッシュは国民に「我々のテロリズムに対する戦争は始まったばかりである」と警告した。アフガニスタンにとどまらず、アメリカの目標は「テロを支援する体制がアメリカや友邦、そして同盟国を大量破壊兵器で脅かさないようにすることである」とブッシュは主張した。ブッシュは、北朝鮮、イラン、そしてイラクなど「悪の枢軸」国家に警戒を抱くように国民に訴えた。ブッシュは、北朝鮮は自国民を飢餓にさらしながらもミサイルや大量破壊兵器の獲得を目指し、イランは少数者が自由を求める多数者を抑圧し、イラクは大量破壊兵器を獲得して自国民に対して使用したとそれぞれ批判した。さらにブッシュは国家が支援するテロに対する戦いは数世代にわたって続き、「そうした活動は我々の時代で終わらないかもしれないが、我々の時代に行わなければならないし、行われるだろう」と強調した。
大統領のテロに対する戦いは民主党に政治的ジレンマをもたらした。ブッシュの支持率は頂点を過ぎたが、下降は緩やかであり、大統領の業績に対する支持率は2002年11月時点で68パーセントであった。ブッシュの人気が続く限り、民主党は悲愛国的だと見なされないためにブッシュの政策に反対することができなかった。しかし、民主党はウィルソンの国際協調に共鳴していた。民主党は西洋諸国と緊密な関係を築き、国際機関、特に国際連合を通じて働きかけることが重要だと考えていた。イラク問題を国連安全保障理事会に提議するという2002年9月のブッシュの決定によって民主党は幾分か宥められた。しかし、民主党はこの決定が中途半端であり、国際連合が大統領に何を言っても戦争を防止することはできないと考えていた。
大統領がアメリカを国内外における責任に対して準備させる中で、大統領学者や官僚は帝王的大統領制度の復活を警戒するようになった。政策を主導する方法は既に行政府が中心となっていたが、ホワイト・ハウスは、テロリズムに対する戦争の立案と遂行に関して議会と共和党からますます孤立した。トム・リッジ国土安全保障局局長が議会で大統領の国内防衛予算案について証言することを拒んだ時、民主党議員だけではなく共和党議員も不満を述べた。ブッシュ政権は、国家安全保障局は、職員が議会に出頭する必要がない大統領直属の国家安全保障会議と同類の機関であると主張した。
同じく、ブッシュ政権が、テロリスト容疑者を軍法裁判で裁くことを含んだ国内のテロリズムを取り締まる厳しい措置を単独で課したために、ジョン・アッシュクロフト司法長官に対する批判が民主党議員と共和党議員の両方から寄せられた。2001年11月13日に出された大統領令によれば、「不法な敵の戦闘員」は控訴する権利が与えられず、通常の法廷ではなく軍事法廷で裁かれることになっていた。アメリカ市民が「不法な敵の戦闘員」に指定される恐れがあったが、大統領令は、大統領によって現在、または過去のアル・カイダの構成員と認められ、「合衆国、アメリカ市民、国家安全保障、外交政策、もしくは経済」に不利な影響を与えるために「国際的テロリズム活動を行うか、またはそれを準備する活動を行うことに従事し、支援し、または賛助し、共謀する」外国人を対象にしていた。最高司令官としての権限に依拠して、議会の認可なく軍事法廷を設ける大統領権限を擁護するブッシュの大統領令は、1942年のフランクリン・ルーズベルトの破壊活動工作員の処罰に関する声明を想起させるものであった。ブッシュの大統領令を批判する者は、1942年のルーズベルトの命令は特殊な事例に適用するために遡及的に起草されたのであって、個人を大統領が合衆国の敵だと判断することを見越して起草されたわけではないと指摘する。
イラク戦争
暫くの間、こうした批判は、9月11日以来、高い支持率を誇るブッシュには効果がなかった。しかし、行政府の議会軽視に対する怒りはわだかまっていた。2002年、ブッシュ政権はイラク侵攻を公然と追求した。イラク侵攻は1991年の湾岸戦争とは違ってフセイン体制の打倒を目指していた。イラクが核兵器や化学兵器などの大量破壊兵器を所有し、アル・カイダの隠れ家になっていることをブッシュは確信していた。2002年9月12日、ブッシュは国際連合で演説し、イラク攻撃を認める決議を採択するように求めた。そして、決議が採択されない場合は、アメリカは単独でイラクに対して行動を起さなければならないと明言した。2002年10月16日、議会はブッシュの要請に従って、大統領にイラクに対する軍事力の行使を認める決議を採択した。そうすることで議会は、ブッシュ政権が最優先の課題であるテロリズムに対する戦争において大統領権限を世界で行使することを正当化する手助けをした。それは冷戦時代において共産主義を封じ込めるために世界で大統領権限を行使することが正当化されたのと同様であった。国際連合はイラク侵攻が時期尚早であり不必要であると判断していた。33ヶ国がアメリカのイラク侵攻を支持したが、全面的な支持を与えたのはイギリスのみである。
フランス、ドイツ、中国、ロシアなどはイラク侵攻に参加しなかった。そういった国々は、外交努力を通じて、大量破壊兵器に関する国際連合の制裁をイラクに受け入れさせるべきだと考えていた。諸国は、イラクに国際連合の査察に協力する時間を与え、大量破壊兵器に関する設備を公開して破壊することを求める安保理決議1441号を遵守する機会を与えるべきだと考えていた。2002年11月に行われた査察では、国連監視検証査察委員会と国際原子力機関によって、イラクが国連決議に違反している証拠はないという見解が示された。イラクも禁止された兵器をまったく所有していないと主張した。しかし、アメリカとイギリスはその結果を不十分だと主張し、フランスとロシアはさらなる査察を実施してアメリカとイギリスの懸念を払拭すべきだと主張していた。アメリカは国連安全保障理事会でイラクへの武力行使に反対する国を説得しようと試みた。その一方で2002年12月21日、ブッシュは、武力行使の決意を示すために湾岸地域へのアメリカ軍の派兵を承認した。2003年2月5日、パウエル国務長官はイラクが大量破壊兵器を秘匿していることを示すアメリカ諜報機関の分析を国連安全保障理事会に提示した。国連兵器査察官はイラク政府に対して3月1日までに禁止兵器にあたると判断したアルムサード・ミサイルを破棄するように要求した。2月24日、アメリカ、イギリス、スペインは、イラク政府が安保理決議1441号を遵守する最後の機会を逸したと主張してイラクに対する武力行使を求める決議を安全保障理事会に提出した。フランス、イギリス、ロシアは平和的解決のために査察を延長して徹底的に行うべきだとする対抗決議を提出した。3月7日、国連査察団による中間報告が発表されたが、アメリカは再度、その結果が不十分だとして認めず、国連安全保障理事会にイラクへの武力行使を求める決議案を提出した。しかし、フランスとロシアの拒否権によって決議案が採択される可能性が低いと考えたアメリカは決議案を取り下げて単独で行動することを決意した。
こうした諸国の懸念にも拘わらず、2003年3月19日、アメリカはイラク侵攻を開始した。イラク侵攻は短期間で成功を収めた。4月9日、バグダッドが陥落し、フセインは権力の座から追われた。5月1日、ブッシュは主要な戦闘行動が終結したことを宣告した。5月22日、国連安全保障理事会は決議1483号でイラクに対する経済制裁解除とアメリカとイギリスによる統治を承認した。この決議に基づいて連合国暫定当局が設立された。
連合国暫定当局の統治下に置かれた後、イラクは民主的な政体に移行することが望まれたが様々な政治勢力の衝突により混乱を極めた。新たに設立された国軍は軍事的脅威にもテロリストの脅威にも対応しきれないことが分かった。イラク国内ではテロが頻発し、治安は悪化の一途を辿った。その結果、アメリカ軍とイギリス軍は安全保障の責任を担わなければならなくなった。2003年12月13日、フセインは捕らえられたが、イラクの反米勢力による占領軍への攻撃は激化する一方であった。2004年4月11日、アメリカ軍はファルージャに対する包囲掃討作戦を実行し、テロリストを排除した。ますます増大する負担にアメリカ国内で批判が高まった。
その一方で2004年6月1日にイラク暫定政府が発足した。6月28日には連合国暫定当局からイラク暫定政府への主権移譲が完了した。新たに樹立されたイラク政府を支えるためにアメリカ軍が増員された。批判と反戦感情が国中で見られたが、増員によってイラク政府が十分に安定し、その結果、アメリカ軍を削減し、最終的には撤退できるまでになることは明らかであった。しかし、イラク戦争の公式の終結はオバマ政権まで待たなくてはならなかった。ブッシュ政権は、イラク戦争によって国際的テロリズムの脅威が減少させられ、湾岸地域での石油の増産と安定がもたらされ、中東全域でアメリカの影響力が拡大されると考えていた。しかし、中東は不安定化し、世界中でテロの脅威が増大し、石油供給が予測困難となり、世界中でアメリカの行動に対する不信感が強まった。
グアンタナモ問題
世界のテロリズムに対する戦争を遂行するというブッシュ政権の決意は、ホワイト・ハウスと議会の絶え間のない緊張の種となった。実際、2005年の終わりに向けて議会の抵抗は超党派の様相を帯びた。そうした抵抗は、ブッシュ政権が司法の判断もなく、議会への相談もなく秘密の諜報機関に国内の通信を監視させていることが明らかになることによってますます強くなった。立法府と行政府の衝突は、「不法な敵国の戦闘員」を軍事法廷で裁くというブッシュの政策や海外への電話通信に対する調査を正当化するホワイト・ハウスの姿勢、そして、ブッシュ政権のテロリスト容疑者に対して厳しい尋問を行うための規則の拡大解釈によって助長された。
中央情報局や司法省の一連の覚書によって、戦時や占領期の捕虜や市民の扱いを定めた国際法であるジュネーヴ条約に違反するような収監や尋問が中央情報局によって行われていることが明らかになった。テロリストは既存の国家のために戦っているのでもなければ、正規兵でもないので、戦争に関連する国際法の対象とはならないとブッシュ政権は主張した。中央情報局は秘密の探索機関を海外で組織した。テロリスト容疑者は、縛り上げられて顔面を水につけられるなど拷問を受けた。
ホワイト・ハウスの強い反対を押し切って議会は、マケイン上院議員を中心に2005年抑留者処遇法を成立させた。マケイン自身もヴェトナム戦争で捕虜として拷問を受けた経験を持っていた。2005年抑留者処遇法は、合衆国の管理、もしくは拘留下にある人物に残虐で非人道的な尋問を行うことを禁じている。ブッシュは同法に署名したものの、同法の幾つかの条項に反対し、大統領、そして最高司令官としての憲法上の権限に適合する形で条項を解釈する権限を留保する声明を付した。ドナルド・レーガン、ジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントンと同様に署名に関する声明を使ってブッシュは、100以上の法に含まれる500以上の条項を執行しない旨を公表した。署名に関する声明をブッシュは、特に国内の安全保障に関連する問題で立法府や司法府の監視から大統領権限を隔離するために使った。
軍隊使用授権決議によって敵国の戦闘員を無制限に抑留する権利が大統領に与えられていないのにも拘わらず、最高裁はハムディ対ラムズフェルド事件で、合衆国の市民を敵国の戦闘員として抑留する権限を大統領が持つことを認めた。しかし、ブッシュの中央集権的な行政府を擁護する姿勢は挑戦を受けないわけではなかった。2006年6月、ハムダン対ラムズフェルド事件で最高裁は、グアンタナモ基地で捕らわれているテロリスト容疑者に対して攻撃的な尋問を行い、軍事法廷を開く大統領の権限を強く制限する判決を下した。戦時に最高司令官を批判するべきではないというブッシュ政権の要望を無視して最高裁5人の判事は、軍事法廷は連邦法によって認められるものでもなければ、軍事的必要性に基づくものでもなく、ジュネーヴ条約に違反しているという見解を示した。最終的に最高裁は、アフガニスタンで捕らえられたビン・ラディンの元側近のサリム・ハムダンを軍事法廷で裁くことはできず、大統領が正規の軍法で軍事法廷を開くか、議会に特別の許可を求めることができなければ、通常の法廷で裁くべきだという判決を下した。
ハムダンは2001年11月にアフガニスタンの地方の軍事指導者によって拘束され、5,000ドルの報奨金と引き換えにアメリカ軍に身柄を移された。ハムダンがビン・ラディンの運転手であったことが分かると、アメリカ軍はハムダンをグアンタナモに送った。ハムダンは軍法裁判で裁かれた最初のグアンタナモの拘留者になった。ハムダンの軍法裁判は2004年8月に5人の政府によって選ばれた軍人によって行われた。ハムダンの弁護士は、大統領が設置した軍事法廷はハムダンを裁く権限を持たないとして人身保護令状を連邦地方裁判所に請求した。弁護士はブッシュ政権の軍事法廷の手続きは、審判での被告人の臨席と提出された証拠を見る権利を含む国際法の基本的な原理を侵害していると主張した。
連邦判事は弁護士の訴えを認めて、軍法裁判を停止させた。ブッシュ政権は控訴した。その結果、2005年7月、控訴裁判所は政府側の主張を認め、下級裁判所の裁定を棄却した。2005年11月、最高裁はハムダンの訴えを聞き届け、2006年6月に判決を下した。最高裁は、大統領に敵国の戦闘員と認められた者を軍法裁判にかける権限を与えた統一軍法裁判法を認めた。しかし、最高司令官として大統領が軍法裁判を統括する規則と手続きを決定する権限を否定した。もし軍事的必要性があるのであれば、大統領は議会が正規の軍法会議のために定めた法的手続きに従って軍法裁判を行うことが求められる。また、同時多発テロの直後に制定された軍隊使用授権決議は、既存の法的手続きを逸脱する軍事法廷を行う権限を大統領に与えているというブッシュ政権の主張も受け入れられなかった。軍隊使用授権決議は、同時多発テロに関与した者に対してすべての必要かつ適切な軍事力を使うように認めているが、軍法裁判については明言していない。議会が軍隊使用授権決議で統一軍法裁判法の特定の条項を破棄しようとしたとは考えられない。さらに大統領が議会の承認を得ることを妨げるような緊急事態は存在しない。大統領は正規の軍法会議を統括する法に従って軍法裁判を行わなければならないし、既存の法的手続きから逸脱する場合は議会から明確な承認を得なければならない。
したがってブッシュは、テロリズムに対するリーダーシップを支持するように議会に働きかけるしか選択肢はなかった。議会にジュネーヴ条約の下での合衆国の義務を明確にさせようとするホワイト・ハウスの試みは上院で強い抵抗にあった。共和党を代表するマケイン上院議員、リンジー・グラハム上院議員、そして軍事委員会の長であるジョン・ワーナー上院議員は、ブッシュ政権の試みを、自由な国家には不相応であり、北朝鮮、イラン、シリアのような他国にもしアメリカの兵士が捕虜となった場合、捕虜に扱いに関する国際法を彼らが思うがままに再解釈させることになるとして反対した。
党内での問題を2006年の選挙の前に解決しておきたいと願って、ブッシュと意見を違える共和党議員は2006年9月に、合衆国のジュネーヴ条約の遵守を変えることなく、最高司令官としての大統領の憲法上の特別な責任を認める法を定めることで妥協に至った。ホワイト・ハウス側は、ジュネーヴ条約共通第3条の下での合衆国の義務を限定することについて議会の承認を取り付けることを断念した。ジュネーヴ条約共通第3条は、抑留者を人道的に扱い、生命及び身体に対する暴力、特に、あらゆる種類の殺人、傷害、虐待及び拷問、さらに個人の尊厳に対する侵害、特に、侮辱的で体面を汚す待遇を禁止することを求めている。代わりに議会は、証拠の元を伏せるある程度の自由裁量権とともにジュネーヴ条約共通第3条でどのような尋問が認められるか決定する役割を大統領に委ねた。2006年10月18日に、2006年軍事法廷法がブッシュの署名によって成立した。同法は、軍事法廷の使用を認め、被告人の人身保護令状請求権を否定した。
ブッシュ政権はハムダンの審理を続行し、テロ攻撃に共謀し、必要な情報を提供したとして訴追した。2008年8月、ハムダンは共謀について、テロ攻撃の実行計画で何の役割も果たしていなかったことから無罪になった。しかし、6人の軍人からなる審査団は、ハムダンがテロ攻撃に必要な情報を提供したことについて有罪と判定した。ブッシュ政権は、審査団に見せしめのためにハムダンに少なくとも30年の禁固、もしくは終身刑を課すように圧力をかけた。しかし、ハムダンがアメリカ政府に協力的であり、テロ攻撃について重要な役割を果たしていなかったことから審査団は66ヶ月の禁固をハムダンに課すことでとどめた。
ハムダン事件は最高裁とブッシュ政権の関係の劇的な展開を示した。しかし、ハムダンはグアンタナモの拘留者の典型的な例ではなかった。というのは、ハムダンはブッシュ政権期に軍法裁判で裁かれた数人の中の1人に過ぎなかったからである。ハムダン事件よりも典型的な事件はブーメディアン対ブッシュ政権事件である。ラクダー・ブーメディアンは犯罪に関する訴追もなく7年以上もグアンタナモに拘留されていた。ブーメディアンは2001年10月、アメリカの要請によりボスニア警察によって逮捕された。逮捕の理由は、ブーメディアンがサラエヴォのアメリカ大使館を爆破する計画を企てたのではないかという嫌疑である。警察の調査では十分な証拠が発見されず、ボスニア最高裁はボーメディアンの身柄を解放するように命じた。2002年1月にブーメディアンは解放されたが、アメリカ軍によって拘留されグアンタナモに移送された。
ブーメディアンの弁護士は人身保護令状を請求した。連邦地方裁判所は、ブーメディアンは合衆国の市民ではなく、また合衆国内で拘留されているわけでもないので人身保護令状を請求する根拠を持たないと裁定した。控訴裁判所も地方裁判所の裁定に同意した。しかし、最高裁は2004年6月にラスル対ブッシュ政権事件で、グアンタナモは完全にアメリカ政府の管轄下にあるので、拘留者は人身保護令状を請求することができるという判決を下していた。
最高裁の判決を受けて、防衛省は戦闘員資格審査委員会を設けた。戦闘員資格審査委員会で初めて拘留者は、敵国の戦闘員であるという指定に抗弁できる機会を与えられた。ブーメディアンの審査は2004年9月21日に行われた。ブッシュ政権はブーメディアンがサラエヴォの大使館を爆破する計画を練っていたと強く主張することはなかった。しかし、アル・カイダの支持者である故を以って、ブーメディアンを戦闘員と指定することは適切であると主張した。証拠としてブーメディアンは地域紛争の場に度々出掛けている。またアル・カイダの諜報員として知られている人物に従っていることは明らかである。こうした政府側の主張から戦闘員資格審査委員会はブーメディアンを戦闘員と認めた。
ブーメディアンが人身保護令状を請求し続ける一方で、ブッシュ政権は拘留政策に対する議会の承認を求めた。2005年、共和党が支配する議会は、拘留処置法を通過させた。同法は、グアンタナモに拘留されている外国人からの人身保護令状の請求に裁判所が応じることを否定した。控訴裁判所は戦闘員資格審査委員会の見解を尊重し、拘留者は新たな証拠を提出することを許されない。さらに議会は、軍事法廷法で、敵国の戦闘員と指定されたグアンタナモの拘留者はすべて人身保護令状を差し止められると規定した。その一方で最高裁は、ハムダン対ラムズフェルド事件で拘留者処遇法が制定された時に人身保護令状の請求が係争中の拘留者については拘留者処遇法が適用されないという判決を下した。
ブーメディアンの弁護士は、軍事法廷法の人身保護令状の差し止めに関する条項は違憲であると主張した。控訴裁判所は、軍事法廷法は明らかに連邦裁判所がグアンタナモに拘留されている外国人からの人身保護令状を考慮することを禁じているという根拠で軍事法廷法の違憲性について考慮するのを拒んだ。ブーメディアンの弁護士は最高裁に控訴した。2008年6月、最高裁は、グアンタナモの拘留者は人身保護令状に関する憲法上の権利を持つという判決を下した。最高裁の判決は、戦時、特に行政府の行動が明確な議会の支持を得ている時に、行政府の権限を司法府が尊重するという歴史的な姿勢からの顕著な逸脱であった。2008年11月、ブーメディアンは人身保護令状を認められ、2009年5月に解放された。
国土安全保障省
テロリズムに対する戦争はその他の点でも現代的大統領制度の突出を促した。テロリズムに対する戦争が行政府に課した新しい責任を遂行するために、多くの議員に促されてブッシュは主要な制度上の改編を行った。2002年6月、国家安全保障省の設立が提案された。国家安全保障省の構想は、1998年の21世紀の国家安全保障に関する委員会の設立に遡る。同委員会は1980年代以降、増大している国家安全保障に対する新しい脅威を調査し、それに対処する方法を考案する任務を与えられ、2001年2月に報告を行った。委員会は、合衆国は大規模なテロ攻撃に対して脆弱であり、政府はそれに有効に対処する手段を持たないと結論付けた。委員会は議会に国家安全保障省の設立とテロリストに対処するために州軍の再訓練を提案した。国家安全保障省の設立は半世紀で最も画期的な政府の安全保障に関わる機関の再編であった。自らの計画を、国家安全保障会議と防衛省の設立を認めた1947年国家安全保障法になぞらえて、ブッシュは、アメリカ国民を守り、アメリカ本土の安全を保障する役割を担う単一の恒久的な機関を設立するように議会に求めた。
当初、ブッシュは新しい省を創設する構想に反対していた。小さな国土安全保障局は同時多発テロの直後に大統領令によって創設され、元ペンシルヴェニア州知事のトム・リッジが局長に据えられた。同局は大統領府の一部と見なされ、海外を担当する国家安全保障会議に対して国内を担当した。同局の事務所はホワイト・ハウス西棟に設けられた。ブッシュと個人的に親しい関係にあるリッジはテロリズムに対する戦いを主導し、監督し、そして調整するのに適材と思えた。しかし、政府が同時多発テロを回避するためになすべきことをすべてせず、将来、同じような攻撃にさらされる危険性を防止するような適切な措置をとっていないという批判に直面したブッシュ政権は方針を変更した。ブッシュ政権を批判する者は、国家安全保障局は、省庁の行動や予算を調整するのに十分な権限がないと指摘した。
国家安全保障局を国家安全保障省に格上げするように説得を受けたブッシュは、関税局、シークレット・サーヴィス、入国許可局、連邦緊急事態管理庁などの機関を国家安全保障省の下に再配置する法案を通過させるように議会に求めた。大統領府に国家安全保障局が属するよりも独立した省庁になったほうが議会の権限を及ぼしやすくなるので民主党議員も共和党議員もブッシュの提案を歓迎した。大統領の提案は、リッジが議会で証言する義務があるかどうかという議論を終わらせた。同時に、独立した省の創設は、国内の安全保障が連邦政府の継続する責任であることを示していた。新しい省の設立を受け入れ、議会にそれを法制化するように求めることによって、ブッシュは、並外れているが未だに脆弱な現代的大統領制度の権限が著しく拡大される道を開いた。国土安全保障省の設置によってブッシュは、これまでにない程、憲法上で保障された個人の権利を脅かし得る水準まで行政権を強化した。ブッシュは立法府と司法府よりも格段に行政府の権限を拡大させ、三権分立を逸脱するような単一的執行府という過激な理論を主張した。
企業統制
ブッシュと議会は行政府に経済を規制する新しい責任を課した。2001年、電力や天然ガスの卸売り取引などを行っていたエンロン社は規制緩和の流れに乗って急成長したが、資産運用に失敗したうえに、巨額の簿外債務が発覚し倒産した。さらに2002年、長距離通信会社のワールドコム社は買収を続けて急速に成長したが、景気の失速に伴って業績が悪化し、粉飾決算が明るみに出て倒産した。こうした倒産は株式市場と消費者の信頼を著しく低下させた。ブッシュは国内の安全保障やテロリズムに対する戦争で持っていた威信を経済問題に関しては持っていなかった。
共和党は相次ぐ経済界のスキャンダルが2002年の中間選挙で共和党に不利に働くことを恐れた。ブッシュは企業活動の改革に迅速に取り組んだ。2002年7月、ブッシュは演説で「経済が最も必要とするものは高い倫理基準であり、厳格な法によって強制され、実業の指導者によって支持される規準である」と訴えた。さらに2002年7月9日、ブッシュは大統領令13271号で、経済犯罪を訴追し調査する連邦、州、地元当局を調整するために企業不祥事対策委員会を設立することを宣言した。
2002年7月30日、ブッシュは上場企業会計改革および投資家保護法、通称、サーベンス=オクスリー法に署名した。同法によって、ニュー・ディール政策の一環として設立された証券取引委員会が強化され、会計士業に一定の水準、倫理、資格を求める公共会計監査委員会が設立された。同法はフランクリン・ルーズベルト以来、アメリカの企業活動に関する最も徹底的な改革と賞賛されている。政府は証券取引や企業活動にできるだけ干渉すべきではないという株式市場の好況によって支えられてきた1980年代から1990年代にかけて広まっていた風潮はワシントン政界で影響力を失った。経済に関する信頼性を取り戻そうとしてブッシュは、大統領は公共の福祉の世話役になるべきだというセオドア・ルーズベルトの訓戒を守った。
大きな政府の保守主義
近代的大統領制度と現代的大統領制度の歴史の大半で大統領の権限と党派的傾向は一致しないように見えた。大統領が積極的な政権運営とともに世論と直接結び付くことで、自らの政策を実現する個人的な抱負が党派的忠誠心よりも優っていた。ブッシュ政権は集団的な政党の責任を意に介さなかった。テロリスト容疑者に対する諜報活動や「不法な敵の戦闘員」の抑留をめぐる争いが明らかになるにつれて、ブッシュ政権は現代的大統領制度の権限を拡大しようと努めた。
しかしながら、同時にブッシュとローヴは共和党を強化しようと弛まない努力を傾注した。事実、近代的大統領制度が始まって以来、ブッシュ政権程、党組織を強化しようと努力した政権は他にはなかった。ブッシュ政権の運営方法は、強い党派的傾向を持つ大統領が自党の目的のためにどのようにその権限を行使できるか示している。実際、共和党の議会指導者の確実な支持に加えて、ブッシュは、保守的で行政府を中心とした国政管理を推進するために共和党の信念と組織を使った。それはレーガン政権で始まったが、ブッシュは「大きな政府の保守主義」を標榜することでレーガンを否定した。最も劇的な例はブッシュ政権の外交政策、特にイラク侵攻を正当化した「先制攻撃ドクトリン」である。先制攻撃ドクトリンによれば、テロリストは予告なしでどこでもいつでも攻撃してくる可能性があるので、軍事行動をとる前に明確な危機があると証明されるまで待つことは不可能である。したがって、攻撃のみがテロリストの攻撃に対処する最善の防御策である。ブッシュは「大量破壊兵器を持った気が動転した独裁者」に言及することで、先制攻撃ドクトリンによってイラク戦争を正当化した。
「前世紀の大半、アメリカの防衛は抑止と封じ込めの冷戦主義に依存していた。幾つかの場合、それらの戦略はまだ適用されている。しかし、また、新しい脅威は新しい思考を必要とする。抑止、国家に対する大規模な報復の約束は、守るべき国も持たず市民も持たない暗躍するテロリストのネットワークに対しては何の意味もない。大量破壊兵器を持った気が動転した独裁者がミサイルでそうした兵器を発射するか、または秘かにテロリストの同盟者にそれらを提供できる場合に、封じ込めは可能ではない。我々は最善を尽くしてアメリカと我々の友人を防護できない。 我々は、厳粛に拡散防止条約に調印しながら、組織的に拡散防止条約を破っている暴君の言葉について信頼できない。もし完全に脅威が具現化するのを待てば、我々は遅きに逸するだろう。本土防衛とミサイル防衛は、より強い安全保障の一部であり、それらはアメリカにとって、不可欠の優先課題である。しかし、テロに対する戦争は守勢に立った状態で勝つことはできないだろう。出現する前に、我々は、敵に戦い挑み、その計画を混乱させて、最も悪い脅威に立ち向かわなければならない。我々が直面する世界では、安全への唯一の道筋は行動の道筋である。 そして、我が国は行動するだろう。我々の安全保障は、洞窟の中に隠されて、実験室で成長する脅威を明らかにするために最も良い諜報を必要とするだろう。我々の安全保障によって、連邦捜査局などの国内の政府機関の近代化が必要とされるので、それらは、危険に対してすぐに行動するように準備される。我々の安全保障は、あなた方が率いる軍を変えるのを必要とするだろう。その軍は世界のどのような暗い隅でもおいそれと打つ準備ができているに違いない。そして、我々の安全保障は、すべてのアメリカ人が前向きであって、意志が堅く、我々の自由と生命を守るのに必要である時、先制行動のための準備がなされる」
ブッシュの大きな政府の保守主義は安全保障から国内政策に拡大された。ブッシュは、レーガン政権やギングリッチ率いる第104議会が行ったようにニュー・ディールや偉大なる社会による給付政策を単に縮小するのではなく、そうした政策を保守主義に適合する形に鋳直そうとした。ブッシュの願いは、共和党と保守的な信念を持ちながらも政府の支援を必要としている人々から構成される団体を繋げることにあった。ブッシュの信仰と共同体に基づく主導は、支援を必要とする人々を助けるために連邦による助成金を受け取る際に不公平に扱われていると感じている宗教団体への配慮であった。また落ちこぼれを作らないための初等・中等教育法をブッシュは支持し、連邦政府が各州に教育水準を上げるように求めることで学校改善に向けて保守派を結集させようとした。さらに高齢者からの圧力に対応してブッシュは2003年に処方箋薬の適用範囲を広げ、医療保障に関する費用を拡大する法の成立に努めた。
ブッシュの最も顕著な政治的失敗は、大きな政府の保守主義を反映した社会保障改革の試みが挫折したことである。レーガンと違ってブッシュは単に社会保障給付金を削減しようとしたのではなく、55歳以下の労働者が賃金税を個人年金にあてることを認めることで社会保障給付金の「民間化」をねらった。ホワイト・ハウスによれば、この改革は、社会保障に関わる基金で高い率の還付を受給者にもたらし、ニュー・ディールの中核となる給付政策を個人が自分の責任で退職後の生活を設計することができるように鋳直すことを目指していた。ブッシュはこの計画を国中に宣伝したが、議会ではうまくいかなかった。クリントンが1993年と1994年に提案した医療保険制度改革のように、社会保障制度改革は党派的反対にあって挫折した。
ブッシュ政権の政党を強化する活動は大きな政府の保守主義を補完した。大統領の積極的な共和党の候補者選びや資金集めは全国党組織を著しく強化した。そして、ブッシュの信仰を重視する姿勢や強い道義的な言葉の使用は、道義的で信仰的な保守主義という共和党のアイデンティティを確立するのに貢献した。こうした努力は多くの政治的見返りをブッシュにもたらした。
2002年の中間選挙
同時多発テロの直後に生じた超党派の支持を危険にさらして、ブッシュはこれまでの大統領にはなかった程、熱心に2002年の中間選挙に取り組んだ。ブッシュとローヴは、現職の民主党上院議員に挑戦する強力な共和党候補者を積極的に選び出した。ブッシュは資金集めのイベントに67回も参加した。その結果、1億4,100万ドルもの寄付が集まった。ブッシュは候補者のために熱心に選挙活動を行った。例えば、選挙に先立つ5日間に、ブッシュは共和党の集会で演説するために15州にまたがる17の都市を飛び回った。踏破した距離は1万マイルに及ぶ。ブッシュが飛び回った多くの州は共和党の候補者が民主党の候補者の後塵を拝している州であり、もし民主党の候補者が勝利を収めれば、ブッシュは敗北の責任を問われる恐れがあった。
選挙の結果は、選挙運動に積極的に関わるというブッシュの決意の正しさを証明した。共和党は下院で議席数を伸ばし多数派を維持しただけではなく、上院でも多数派を獲得した。1世紀以上の選挙の歴史の中で、与党が中間選挙で上院の多数派を奪還したのは初めてである。1934年以来、1期目の中間選挙で与党が両院で議席数を伸ばしたのは初めてである。
共和党の勝利はブッシュの功績であったと分析する者もいる。世論調査によれば、有権者の50パーセントが大統領に対する評価が投票に影響したと答えている。1998年の選挙ではその数字は37パーセントであった。大統領に対する評価が投票に影響したと答えた有権者のうち、ブッシュを支持する者は31パーセントでブッシュを支持しない者は19パーセントにとどまった。
しかし、共和党の勝利はすべてがブッシュの功績ではなかった。1970年代後半以来、共和党は確固とした全国組織に発展し、共和党全国委員会は党運営の主要な担い手になった。上意下達方式の党運営は、有権者を動員するという政党の伝統的な役割を担うためにテレビ広告に依存し過ぎであり、中央集権化し過ぎていると多くの批評家は指摘する。しかし、共和党は2002年に大規模な草の根の動員運動を作り上げた。ニュー・ディール以来、民主党は労働組合のような外部の組織を頼って選挙運動を行ってきた。しかし、共和党は自ら有権者を動員する全国的な組織を形成した。共和党はアメリカ史上初めて全国的な党組織を作ったと言える。16の最も競争の激しい州を中心に選挙運動を行うボランティアの精緻なネットワークが構築され、2004年の大統領選挙でのブッシュの勝利と2002年と2004年の議員選挙での共和党の勝利に貢献した。したがってブッシュはレーガンよりも政党を率いるリーダーシップを効率的に発揮したと言える。実際、ブッシュは、フランクリン・ルーズベルト以来、初めて与党が両院で議席数を伸ばして再選を果たした大統領となった。
ブッシュは、共和党の党組織の発展から恩恵を受けただけではなく、その強化に重要な役割を果たした。ホワイト・ハウスは候補者を選び出し、選挙資金を集め、共和党員に投票を呼びかけるボランティアを引き付ける手助けをした。レーガンが、1984年までに共和党が保守的で選挙で競争力を持つ政党になる政治的基盤を形成するにおいて重要な役割を果たしたように、ブッシュは、共和党の中核となる支持者の基盤を拡大するのに大きく貢献した。
2004年の大統領選挙
2004年の選挙運動は、新しい全国的な党組織の発展の頂点を示した。2004年以前は、党組織はワシントン政界、特に議会内の党派の規律を強化するだけであった。しかし、そうした仕組みはアメリカ国民の情熱を掻き起こすことはできなかった。それは1960年代から2000年まで続く投票率の低さに現れていた。それに比べて2004年の選挙運動は情熱的であった。共和党の草の根運動とそれに対抗しようとする民主党の運動は、新しい党組織の出現を示していた。共和党の草の根運動組織と民主党のジョン・ケリーの支持者を動員することを主要な目的として作られたアメリカ人を1つには、既存の州や地元の党組織の外部で形成された。そうした組織は州や地元の草の根の活動家を採用した。投票率は55パーセントにまで上昇し、ブッシュは2004年の大統領選挙よりも1,150万票多い一般投票を獲得することができた。2004年の大統領選挙でブッシュとチェイニーは、どの候補に投票しようか迷っている有権者に焦点を絞る代わりに、「怠惰な共和党員」に焦点を絞るように草の根運動を組織した。怠惰な共和党員は共和党に投票することが見込まれるが、投票に出掛けるように促す必要があった。ブッシュの再選を成功させた直接的な効果を超えて、共和党のホワイト・ハウスによる動員は、より多くの人々を政治過程に引き込む政党政治の利用可能な青写真を提示し、市民と選ばれる者の間の絆を更新した。
ブッシュの共和党を主導するリーダーシップは、現代的大統領による強力な政党を作り出そうとする最も体系的な努力を示しているが、新しい党組織が現代的大統領制度に説明責任を負わせるようにすることができるかは疑問が残る。事実、新しい党組織は大統領のリーダーシップの道具に過ぎないことが判明した。1980年代以来、出現した全国的な党組織は、大統領を選出するのに戦略的な側面で重要な役割を果たしてきた。しかし、ホワイト・ハウスのための政策を形成する点でその重要度は薄れている。結局、党組織は大統領の目的を達成する手段になっている。
2004年の大統領選挙に出馬する意向を数人の民主党員が示していた。元ヴァーモント州知事のハワード・ディーンが初期の有力候補者であった。ディーンはイラク侵攻に対する民主党員の怒りをうまく利用した。ディーンは革新的な選挙運動を展開し、インターネットで多額の選挙資金を集めた最初の全国的な候補となった。報道は、ディーンを民主党の最有力候補と呼んだ。テレビ討論が何度か開かれ、他の候補者はイラク戦争を批判し始めた。ケリー上院議員も候補指名獲得競争に参加した。ケリーはカトリックであり、ヴェトナム戦争の英雄であった。予備選挙によってケリーは民主党の候補指名を獲得した。ハリウッドは、ケリーのヴェトナムでの軍歴を貶めようとする大統領とその支援者を嘲る映画を公開した。ブッシュ陣営はケリーを決定力に欠け弱い人物であるというイメージを流布させようとした。一連のテレビ討論の中で、ケリーは大統領より明らかに優れていた。ケリーは大統領にイラク侵攻を認める決議に賛成票を投じ、戦争に反対していなかった。そのためにケリーは大統領を占領政策の失敗で批判した。イラクでの暴力が増える一方でブッシュは「我々がイラク領内でテロリストと戦っているために我々はテロリストと国内で戦う必要はない」と主張した。
ブッシュの選挙運動は、有権者の選択を、共和党の綱領と民主党の綱領ではなく候補者個人の選択に限ろうとした。有権者は候補者個人の人格に注目するように促された。共和党は、アメリカ人に、どちらの候補がテロに対する戦いを行うのに適しているのか問おうとした。ブッシュは予定されている選挙によってイラク情勢は改善し、イラクは自由で民主的な国家になるだろうと指摘した。ブッシュの活力に富んだ選挙運動はアメリカの将来について新しい考えを提示した。それに比べてケリーの人格は控え目で思索的なように見えた。投票結果は非常に伯仲していたが、ブッシュはケリーに一般投票で3パーセントの差をつけた。ブッシュは、大統領が義務をうまく遂行し、有権者を結び付けるために近年の不安と痛みに訴えかけたことを有権者に納得させた。国民はブッシュが思いやりを持ち、心から語っていると信頼した。国民は戦争の原因となったイラクでの大量破壊兵器の捜索が失敗したことやアブ・グレイブ刑務所におけるイラク人捕虜虐待などについて国民はブッシュをそれほど強く非難しなかった。
2004年4月、アメリカ軍のイラク占領が続く中、アブ・グレイブ刑務所におけるイラク人捕虜虐待が発覚した。アメリカ軍の関係者による身体的、精神的、性的虐待は2003年10月から12月にかけて行われた。ラムズフェルド国防長官が、情報を引き出すために囚人を虐待するような秘密の計画の拡大を認めたという批判が行われた。ラムズフェルドの辞任を求める声が高まり、虐待を防止できず、ラムズフェルドを譴責することもなかったブッシュへの批判も高まった。このスキャンダルによってイラク人を解放するというアメリカ軍の道義的正当性が著しく損なわれた。さらにアメリカ人は、アブ・グレイブの報復としてアル・カイダがウェブサイトで公表したアメリカ人捕虜の殺害に衝撃を受けた。
しかし、こうしたスキャンダルにも拘わらず有権者は、イラク戦争が徐々に悪化していると考えていたとはいえ、戦時に最高司令官を変えようとはしなかった。ブッシュは1億2,000万票以上の一般投票を得て再選された。この議論の余地がない勝利によって、2000年に辛うじて大統領職を獲得したというイメージをブッシュは払拭することができた。大統領選挙の後に行われた記者会見でブッシュは「私は選挙活動で政治資本という資本を得た。今度は、私はそれを使おうと思う」と述べた。ブッシュは直面すべき問題として社会保障と移民制度の改革をあげた。しかし、多くの共和党議員が社会保障の部分的な民間化と規則を無視してきた移民に対して市民権を与える道を開くことを拒んだためにブッシュの試みは失敗に終わった。
最高裁判事指名
ブッシュは保守派の最高裁判事を新たに任命した。2005年、オコナー判事は辞任を表明した。ブッシュは後任として連邦控訴裁判所のジョン・ロバーツ判事を指名する意向を表明した。しかし、レンクイスト最高裁長官の死去に伴い、ブッシュはロバーツを最高裁長官に再指名した。ロバーツの指名は9月29日に承認された。10月3日、オコナーの後任としてブッシュはホワイト・ハウス顧問弁護士のハリエット・ミアーズを指名した。しかし、保守派からの指名への反対が強く、憲法の領域に関する知識不足を指摘されミアーズは身を引いた。代わりにブッシュはサミュエル・アリートを指名した。アリートの指名は2006年1月31日に承認された。
最高裁はミシガン大学ロー・スクールで大学の多様性を確保する要素として人種を使うことを支持することで積極的差別是正措置の合憲性を認めた。ミシガン大学ロー・スクールは多数の少数派の学生を入学させるために入学希望者の人種を考慮していた。最高裁は、憲法修正第14条に定められた法律の平等の保護は、大学が多様な学生から生じる教育上の利益を得るために人種を入学の判定に使用することを禁じていないと主張した。しかし、特定の少数派の入学志望者に自動的に特別な優遇を与えるミシガン大学の学部の入学方針に関して、最高裁は憲法修正第14条に定められた法の下での平等の保護と1964年公民権法に違反するとした。2003年1月15日、ブッシュは最高裁の判決に関して声明を発表した。声明でブッシュは、積極的差別是正措置に反対し、ミシガン大学が学生の多様性を確保しようとしている方法は間違いであると主張した。人種に基づいて入学者の割り当てを決める制度は、有望な学生に不利に働く。人種に基づいて特定の学生を優遇し、少数派の入学者の数値目標を設けるミシガン大学の方針は違憲である。
カトリーナ対策
2005年、カトリーナと呼ばれるハリケーンがニュー・オーリンズとメキシコ湾沿岸部を襲った。設計と建設上の欠陥によりニュー・オーリンズの洪水を抑制する装置がうまく作動せず、アメリカ人は歴史的、文化的に重要な街が破壊されるのを目撃することになった。さらに世界はあらゆる水準での政府機能の崩壊を目撃することになった。救援活動だけではなく、通信、警察、保健がまったく機能しなくなった。数千の市民が数日間、水も食料もなくさまよい、死体が水浸しの街に浮かんでいた。最初、大統領専用機から被災地を視察するにとどめたブッシュは多くの批判を受けた。遅れて現地視察を行ったブッシュは、連邦緊急事態管理庁がとった措置を賞賛した。しかし、連邦緊急事態管理庁はほとんど適切な対応をとっていなかった。批判が集中したのは、大災害の際の責任分担と指揮系統が明確ではなかったこと、連邦政府が州政府に代わって采配を揮う時期をめぐって混乱があったこと、防災計画や予行演習が不十分であったこと、災害対応の手際が悪かったこと、リーダーシップの欠如などである。
ニュー・オーリンズに送られた緊急対応チームのは十分な訓練を受けていなかったばかりか装備も不足していた。同様に医療職員も十分な医療機器を持っておらず、訓練も十分ではなかった。ハリケーン直後に実際に医療活動を行った緊急対応チームは実際には1つだけであった。他のチームはなかなか呼び出しがかからず、配置が決まるまで何日も待たされ、いざ現地に到着してもあまりの事態になすすべもないという状態に陥った。都市捜索救助チームには最低限の予算しか配分されおらず、水難救助を行うことはできなかった。そのため水の中に取り残された多くの住民を救援することができなかった。連邦緊急事態管理庁長官は、ニュー・オーリンズ会議センターで避難民が何日も生活物資がない状態で過ごしているのを知らなかった。また長官が災害対応チームを招集したのはカトリーナ上陸5時間後のことであり、十分な人員と物資を配置する余裕がなかった。緊急支援物資が届くのに場所によっては10日間もかかった。こうした不手際によって連邦緊急事態管理庁長官は解任された。明らかに行政組織の管理上の欠陥であった。ブッシュの支持率は急低下した。
さらにカトリーナに続いてリタが襲来した。リタによって精油所の供給装置とパイプラインが被害を受けた。それによりガソリンと天然ガスの価格が高騰した。エネルギー供給に関する懸念はイラク戦争、発展途上国の需要増加、投機資本の流入によってますます大きくなり、歴史的な高騰を記録した。高騰したエネルギー価格は国民を意気消沈させ、経済に悪影響を及ぼす主要な原因となった。
イラク情勢の悪化
イラクとアフガニスタンにおける戦争は芳しい状態とは言えなかった。イラクは増加する暴動によって内戦の一歩手前であった。2006年、テロリストの爆撃によって大きな黄金のドームを持つシーア派のモスクが破壊された。暴力がイラク全土に広まり、数百万の市民が国を離れようとした。暗殺部隊が街をうろつき、バクダッドの生命は風前の灯火のように見えた。
ブッシュは楽観的な見通しと不明確な勝利への献身を撤回しようとはしなかった。アメリカ国内でブッシュの姿勢に不安を抱く人々は別の戦略をとるように求めた。ある者はイラクを3つの国に分割するべきだと主張し、また別の者はアメリカの撤退を主張した。議会は進むべき道を探るためにイラク研究グループを組織した。イラク研究グループはイラク情勢が悪化していると報告し、アメリカ軍の計画的撤退と中東のすべての国々を関与させる外交努力を行うように提言した。ブッシュは政府内でイラクに対するさらなる調査を行うように命じ、多くの者を驚かせたことに、約3万人の増援部隊をイラクに送った。ブッシュは、イラクの民間人に対して安全保障を提供するという新しい戦略を実行するためにデイヴィッド・ペトレイアスを新しい軍の指揮官に選んだ。その結果、新しい戦略は暴力を減らすことに成功し、都市生活は元に戻り始めた。スンニ派の部族は安全保障を担うことで協力することを約束し、アメリカに敵対していたシーア派の民兵は休戦を宣告した。安全保障は高まったが、弱体のイラン政府は地方選挙を行うことができず、どのように石油によってもたらされる富を分配するべきか合意を形成することもできなかった。アメリカ国民は厄介な戦争に次第に反対するようになり、50パーセント以上がイラク侵攻は過ちであったと答えるようになった。
エイズ救済のための緊急計画
ブッシュ政権の1つの輝かしい遺産は大統領のエイズ救済のための緊急計画である。大統領のエイズ救済のための緊急計画は2003年に5年間にわたる150億ドルの予算で始まった。2008年に計画は5年間にわたる480億ドルに拡大され、国際的な活動を通じて特定の疾病と戦う史上最大の計画になった。計画を通じて約200万人のエイズ患者が治療薬を受け取り、対象となった多くの国々でエイズの感染率が下がった。2008年12月1日、世界エイズ・デーでブッシュは計画の成功をホワイト・ハウスで祝った。
スキャンダル
2期目に入って、2つの未だ行く末が定まらない戦争に加えて、スキャンダルと議論が次々に起きた。2005年11月、共和党のランディ・カニンガム下院議員が収賄の容疑で有罪となった。強力なロビー活動家のジャック・アブラモフも有罪判決を受けた。アブラモフはホワイト・ハウスと強い繋がりを持ち、大統領にとって重要な寄付者であった。共和党のボブ・ネイ(Bob Ney)下院議員はアブラモフに関するスキャンダルにおいて汚職で有罪となった。またホワイト・ハウスの職員のデイヴィッド・サファヴィアンも偽証と司法妨害で有罪判決を受けた。
さらにデニス・ハスタート下院議長もスキャンダルに関与していた。ハスタートはアブラモフから巨額の献金を得ていて、アブラモフの顧客に有利に働くように政府の役人に手紙を書いていた。さらなるスキャンダルが発覚した。共和党のマーク・フォレイ下院議員が少年に猥褻な内容のメールを送った。下院議長事務局はそのメールについて1年以上も前から知っていたが、詳細な調査を行わなかった。2006年の中間選挙の直前、フォレイは辞職した。2006年の選挙で共和党は下院の多数派を失い、ハスタートは少数派の指導者に立候補することを断念した。さらに2007年、ハスタートは任期を完了せずに辞任する意向を表明した。
その他にも大物の辞任があった。下院の院内総務を務めたトム・ディレイはアブラモフと深い関係を持ち、テキサス州で州の選挙法に違反していることを指摘された後、2006年の選挙戦には出馬しないことを表明した。スキャンダルの他の関係者として副大統領の首席補佐官のスクーター・リビィの名前があがった。リビィは2005年10月に辞職し、その後、司法妨害と偽証で有罪判決を受けた。
こうしたスキャンダルと人気のないイラク戦争に助けられて、民主党は2006年の中間選挙で共和党から上下両院で多数派を奪還することができた。選挙の直後、ブッシュは方針を転換し、突如、ドナルド・ラムズフェルド国防長官を解任した。さらにカール・ローヴもホワイト・ハウスの役職から身を引いた。ホワイト・ハウスの職員は調査委員会で証言を求める召喚状を拒否した。このように上院の法的権限を無視するやり方は、ブッシュ政権の特徴であり、立法府や司法府を出し抜いて行政府の権限を確立しようとする広範な試みの1つである。ブッシュは上院の承認を受けずに済ますために、議会が閉会中に非常に多くの役職を指名した。
2006年12月7日、ブッシュ政権は7人の連邦地方検事に辞任するように求めた。その他にも2人の連邦地方検事が辞任するように求められた。いわゆるファイアーゲート・スキャンダルである。従来、検事職が空席になった場合、臨時に任命を行う権限は裁判所にあった。1984年に法が改正され、臨時の任命は司法長官によって行われるようになった。さらに2006年に再認可された愛国者法に基づいて、上院の承認なしで司法長官は連邦検事を大統領の任期が終わるまで臨時に任命することができるようになった。
2006年から2007年にかけて連邦地方検事の罷免が公になった。議会は、彼らが特定の告発で影響力を及ぼしたという理由で罷免されたのではないかという疑念を抱いた。民主党はブッシュ政権を法の執行を政治化するものだとして強く非難した。ポール・マクナルティ司法次官は、上院司法委員会ですべての罷免は業務に関連する問題に基づくものであり、ホワイト・ハウスの関与はほとんどないと主張した。さらにアルバート・ゴンザレス司法長官は上院司法委員会に対して政治的な理由で連邦地方検事を更迭したわけではないと釈明した。マクナルティとゴンザレスの証言は罷免された検事を怒らせた。なぜなら検事は罷免を求められた際に業務に関連する問題について触れられていなかったからである。罷免された検事は公聴会で、係争中の事件に関して議員や行政官の接触を受けたと証言した。そのような接触は議会の規則で禁じられている。2008年9月に司法省の監察総監による報告書が提出された。その報告書は、少なくとも9人の罷免された検事の中で7人は業務に関連する問題で罷免されたのではなく政治的な理由で罷免されたと結論付けた。さらにホワイト・ハウスの関与を示す証拠も提出された。その結果、関係者の辞任が相次ぎ、最終的にはゴンザレス司法長官も辞任を余儀なくされた。
リーマン・ショック
スキャンダルは2008年の大統領選挙の背景をなした。2008年の大統領選挙は新しい予備選挙の日程のために2007年の初めから始まった。1952年以来、現職の大統領と副大統領がいずれも指名獲得に挑戦しないのは初めてであった。長期にわたる予備選挙の焦点はイラク戦争に向けられた。共和党はイラク戦争を支持し、民主党はイラク戦争を終わらせることを誓った。
選挙戦の最中の2008年9月15日、投資銀行のリーマン・ブラザーズが破綻した。リーマン・ブラザーズの破綻に端を発した金融危機は世界中に広がり、1930年代以降、最悪の金融危機となった。ブッシュ政権は市場への政府介入を制限するという政策をすぐに転換し、莫大な公的資金を金融制度に注入し、大規模な金融機関を国有化した。ブッシュ政権は、効果的で大規模な政府介入のみが世界恐慌を防止することができると警告した。リーマン・ショックは既に信頼を失っていたブッシュ政権にとってさらなる痛手であった。2008年の選挙で共和党は上下両院で議席数を減らした。
選挙後、金融危機は実体経済にも大きな打撃を与えるようになった。2008年11月、アメリカは1ヶ月で50万の職を失った。政府は7兆8,000億ドルもの金融債務を負った。その数字はアメリカ経済全体のほぼ半分に相当する。アメリカの有価証券は世界全体の経済を不安定化させ、2つの国を債務不履行に陥れた。ここ30年間で最悪の経済後退に世界は見舞われ、多くの国の中央銀行が国際金融制度を安定化させようと努めた。それにも拘わらず政権の最後の日々において、ブッシュは数多くの演説で、アフガニスタンとイラクから専制を排除し、アメリカをさらなるテロから守り、そしてエイズ患者を減らした業績を誇った。
2008年、自動車業界は財政破綻を免れるために議会に支援を求めた。議会の委員会で自動車業界の代表は、もし議会が行動しなければ300万人の職が失われると警告した。議会は自動車産業に再建案を提示するように求めた。自動車産業は再建案を提示したが、議会を納得させることはできなかった。議会から必要な支援を受けることができなかった自動車産業はヘンリー・ポールソン(Henry Paulson)財務長官に頼った。2008年末、ブッシュ政権は約250億ドルをGM社とクライスラー社に貸し付け、フォード社に一時的信用供与を行った。1979年のカーター政権によるクライスラー社の救済と異なる点は、カーター政権が債務保証を行っただけであるのに対して、ブッシュ政権は政府の資金を直接貸し付けた点である。議会での争いと長い立法過程を避けるために、ブッシュ政権は金融業界を救済するために既に設立されていた不良資産救済計画の資金を使った。
9月、軋む経済は新たな危険な局面に入った。規制されていない証券の危険性を見積もるのは困難であり、価格の低下はさらなる深刻な危機を引き起こした。いくつかの銀行が倒産した後、ウォール街の金融機関も倒産し始めた。政府は企業合併や大規模な融資の斡旋を余儀なくされた。金融制度全体の危機に直面してポールソン財務長官は議会に自ら赴いて、国際金融制度全体が倒壊の危機にあることを主張し、金融制度を支えるために緊急財政支援を行うことを要求した。ほとんど検討も議論もなく、議会は7,000億ドルの拠出を提案した。ウォール街によって引き起こされた予期せぬ危機にアメリカ国民は驚いただけではなく怒りを示した。ブッシュは、ホワイト・ハウスで議会の指導者と2人の大統領候補を招いて会談を行うように呼びかけた。会談で意見の一致はなされず、緊急財政支援を求めた法案は通過しなかった。10月3日までに、法案は修正され、議会による監督が付け加えられ、最終的に成立した。
結語
同時多発テロの勃発とそれに伴う大統領権限の著しい拡大によって現代的大統領制度は新たな局面を迎えた。それに加えてブッシュは党組織を強化しただけではなく、大統領が政治資本を獲得する道具とした。ブッシュ政権によるテロに対する戦いの遂行によって世論の支持を受けた大統領がいかに強大な権限を行使できるかが示された。しかし、同時にイラク情勢の悪化によって世論の支持は低迷し、その結果、大統領の影響力は低下した。それはいかに強大な大統領といえども世論の支持に無関係ではいられないことを示している。