James Madison
Father of the Constitution
民主共和党
Democratic-Republican
在任期間
1751年3月16日~1836年6月28日
生没年日
1809年3月4日~1817年3月4日
身長・体重
162.6cm/45.4kg
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棒石鹸の半分
ジェームズ・マディソン大統領は1751年3月16日(ユリウス暦では1750/51年3月5日) 、ヴァージニア植民地キング・ジョージ郡ポート・コンウェイで生まれた。12人中(早逝・死産を含む)最初の子供であった。父ジェームズは同植民地オレンジ郡に約2850エーカーのモンペリエという農園と奴隷を所有し、タバコ、小麦、トウモロコシなどを栽培していた。
ジェームズ・マディソンは歴代大統領の中で最も小柄で、「棒石鹸の半分より大きくない」と友人達から評された。また「小さなジミー」とも呼ばれていた。
憲法の父
独立戦争時、ジェームズ・マディソンは大陸会議と連合会議にヴァージニア代表として参加した。ジェームズ・マディソンの最大の功績は、1787年に行われた憲法制定会議で各邦の意見を調整して憲法案を妥結させたことである。それ故、「憲法の父」と呼ばれる。憲法批准を実現するために古典的名著『ザ・フェデラリスト』の執筆に加わった。
再びイギリスと戦火を交える
1808年の大統領選挙で民主共和党候補として当選してトマス・ジェファソンの後継者となった。ジェファソンとは長年の盟友であった。マディソン大統領は1812年戦争でイギリスと戦火を交え、戦況はしばしば不利であったが在任中に何とか講和にこぎつけた。
1751年3月16日 |
ヴァージニア植民地ポート・コンウェイで誕生 |
1755年4月19日 |
フレンチ・アンド・インディアン戦争勃発 |
1769年9月 |
カレッジ・オヴ・ニュー・ジャージーに入学 |
1771年9月29日 |
カレッジ・オヴ・ニュー・ジャージーを卒業 |
1775年4月19日 |
レキシントン=コンコードの戦い、独立戦争始まる |
1776年5月6日 |
ヴァージニア革命協議会に参加 |
1776年7月4日 |
独立宣言公布 |
1776年10月7日 |
ヴァージニア邦議会議員として初登院 |
1777年11月15日 |
行政評議会の1人に選出される |
1779年12月14日 |
大陸会議のヴァージニア代表に選出される |
1787年5月25日 |
憲法制定会議に出席、主導的な役割を果たす |
1788年6月2日 |
ヴァージニア邦合衆国憲法批准会議に参加 |
1788年6月21日 |
合衆国憲法発効 |
1789年2月2日 |
連邦下院議員に当選 |
1789年7月14日 |
フランス革命勃発 |
1794年9月15日 |
ドロシーア・ペイン・トッドと結婚 |
1798年 |
ヴァージニア決議を起草 |
1801年2月27日 |
父と死別 |
1801年3月5日 |
国務長官に指名される |
1806年 |
「イギリス外交政策の検証」を執筆 |
1809年3月4日 |
大統領就任 |
1812年6月1日 |
戦争教書を議会に送付 |
1812年6月19日 |
1812年戦争勃発 |
1812年12月2日 |
大統領再選 |
1814年8月24日 |
英軍のワシントン焼き討ちを避けてヴァージニアに逃れる |
1814年12月24日 |
ガン条約締結、1812年戦争終結 |
1817年3月4日 |
大統領退任 |
1821年 |
『憲法制定会議に関する覚書』の執筆を始める |
1824年 |
ラファイエットの表敬訪問を受ける |
1826年 |
ヴァージニア大学理事職をジェファソンから引き継ぐ |
1829年2月11日 |
母と死別 |
1829年 |
ヴァージニア州憲法修正会議に参加 |
1836年6月28日 |
死去 |
ヴァージニア王朝
ヴァージニア植民地の概要については、 ジョージ・ワシントンの出身州を参照せよ。
マディソンはワシントン、 トマス・ジェファソン、 ジェームズ・モンローと非常に密接な関係を持っていた。それを示す代表的な例は、マディソンがジェファソンに宛てた1776年8月12日付の手紙である。それはジェファソンに土地投機を提案する手紙であった。マディソンは、モンローとともにモホーク川沿いの土地を買い付け、ワシントンともその件について話し合ったという。さらにモンローとマディソンがジェファソンの信用でお金を借りて土地を購入することを提案している。
この他の機会にもマディソンはしばしばワシントンのもとを訪れている。特にワシントンが大統領に就任する少し前に10日間にわたってマウント・ヴァーノンに滞在し、諸問題を話し合っていることが知られている。
また滞欧中、ジェファソンはマディソンのためにトランク2つ分の書籍を買い集めて送っている。当時、書籍は高価であり、立て替えた金額は少なくとも1000リーヴル以上(数百万円)にのぼる。中でも47巻セットの百科事典は348リーヴルであった。その他にもマディソンは、1791年5月から6月にかけてジェファソンとともにニュー・ヨーク州北部を周る旅行に出かけたり、ジェファソンの下、ヴァージニア邦行政評議会に務めたりと公私にわたってジェファソンと親密な関係を持っていた。さらにマディソンが育った地域はジェファソンと同じく山麓地帯に属する。
農園主の家系
アメリカにマディソン家が移住する前の祖先についてはよく分かっていない。マディソンの傍系子孫からカール大帝やラニミードの男爵家に血縁をたどることができる程度である。マディソン自身は単に、「父系母系ともに[私の先祖は]農園主で社会的地位があったが、最富裕層というわけではなかった」と友人に語っている。
アメリカに最初に移住した先祖はジョン・マディソン である。ジョンはイギリスの船大工でマディソンの高祖父にあたる。1653年に人頭権制によって600エーカーの地権を得た。人頭権制度は、イギリスによる土地付与の1つの方法で、1人の移民に対して50エーカーを与える制度である。その当時、商人や船主が移民をアメリカに送り込んで人頭権を取得することがよく行われ、大土地所有の基礎となった。ジョンは亡くなるまでにさらに1300エーカーの地権を各地で取得した。
曽祖父ジョンは、キング・アンド・クイーン郡の保安官と治安判事を務めた。それはジョンがある程度の社会的地位を保っていたことを示している。1728年、祖父アンブローズは、5000エーカーに及ぶ地所を所有していた。アンブローズはジェームズ・テイラー2世の娘と結婚した。テイラーは1722年にヴァージニア植民地オレンジ郡で1万3500エーカーの地権を得た大農園主であった。このテイラーの曾孫は後の第12代大統領ザカリー・テイラーである。つまり、マディソンとテイラーは又従兄弟の関係である。こうした血縁関係によりマディソンはオレンジ郡内の農園主の大部分と何らかの関係を持っていた。それはマディソンにとって大きな政治上の資産となった。
1729年頃、祖父アンブローズはオレンジ郡に新居を築いたが、1732年に亡くなった。父ジェームズが9才の時である。農園の経営は、父ジェームズが18才に達するまで祖母フランシスに委ねられた。
マディソンが生まれたポート・コンウェイの家は、母方の祖父母の家である。父と同名であったため、父が亡くなる1801年まで「ジェームズ・マディソン・ジュニアJames Madison, Jr.」と署名していた。生後まもなくして、マディソンは母とともに父の農園があるオレンジ郡に移った。マディソンは幼少時、非常に病弱であった。
マディソンが過ごした農園ではたくさんの黒人奴隷が働いていた。1782年までには少なくとも118人に達している。そのためマディソンにとって、黒人奴隷がいる風景は当たり前のものであった。
毎週、マディソン一家は、農園から6,7マイルの場所にある教会に通っていた。その当時、教会は社交の要であった。さらに父ジェームズは教区委員を務めていた。教区委員は、教会の維持管理に携わり、その費用を徴収する役割を担う地域共同体にとって重要な役職であった。
マディソン自らの手による最初の文書は、「1759年12月24日」の日付が入った1冊の「抜粋ノートCommonplace Book」である。このノートは24ページからなり、1758年7月号の『アメリカン・マガジンThe
American Magazine』から詩が写し取られている。この他にマディソンが農園でどのような幼少時代を過ごしたかは特別なことは何も記録に残っていない。マディソンの回想によれば、古い家から新しい家に引っ越す際に軽い家具を運ぶ手伝いをしたことが記憶に残っているという。それは1760年頃のことである。
1761年から1762年にかけてオレンジ郡で天然痘が流行したが、マディソンと兄弟達は誰も命を落とさずに済んだ。この当時、天然痘は非常に恐れられた疫病であった。兄弟達の年齢差は上と下で20才以上もあったので、後にマディソンが兄弟姉妹達に読み書きの初歩を手解きすることもあった。
兄弟姉妹
フランシス・マディソン
長弟フランシスFrancis Madison (1753.1.18-1800.4)はオレンジ郡の農園主で1800年に亡くなった。
アンブローズ・マディソン
次弟Ambrose Madison (1755.1.27-1793.10.3)は、ヴァージニア第3連隊の大尉であり農園主であった。1793年に亡くなった。
カトレット・マディソン
3弟Catlett Madison (1758.2.10-1758.3.18)は夭折した。
ネリー・マディソン
長妹Nelly Conway Madison (1760.2.14-1802)は1783年に結婚し、1802年に亡くなった。
ウィリアム・マディソン
4弟William Madison (1762.5.5-1843.7.20)は独立戦争で砲兵中尉として活躍した。弁護士になり、ヴァージニア州議会議員も務めた。
サラ・マディソン
次妹Sarah Catlett Madison (1764.8.17-1843)は1790年に結婚し、1843年に亡くなった。
―・マディソン
5弟unnamed Madison(1766-1766)は夭折した。
エリザベス・マディソン
3妹Elizabeth Madison (1768.2.19-1775.5.17)は赤痢で早世した。
―・マディソン
1770年に死産が1人いた。
リューベン・マディソン
末弟Reuben Madison (1771.9.19-1775.6.5)も赤痢で早世した。
フランシス・ファニー・マディソン
カレッジ・オブ・ニュー・ジャージー
1762年、マディソンはドナルド・ロバートソンの寄宿学校に通い始めた。そこで国語、ラテン語、ギリシア語、算数、代数、地理、フランス語を学ぶ。近傍のブリック教会のトマス・マーティン牧師から家庭で個人指導を受けた。
1769年、カレッジ・オブ・ニュー・ジャージー(現プリンストン大学)に入学する。カレッジでギリシア文学、ラテン文学、科学、道徳哲学、修辞学、論理学、数学を学んだ。そして、1771年9月29日、カレッジ・オブ・ニュー・ジャージーから学位を得る。その後も学長のジョン・ウィザースプーンの指導の下、勉強を続けた。こうした勉学を通じてマディソンは、ジョン・ロック、ニュートン、スウィフト、デイヴィッド・ヒューム、ヴォルテールなどの思想に親しんだ。
帰郷
1772年4月、モンペリエに帰る。不安定な健康状態で政治学と法律学に親しむ。マディソンが最も楽しんだのはロマンス劇の批評や詩であり、法律学を時に「粗野で無味乾燥な学問」と呼んでいる。しかし、法律学は「酸っぱい果実ではあるがきっと実を結ぶ」と考えてマディソンは勉学を続けたのである。また「勤勉な男が庭に花以外には何も植えなかったり、ケーキや砂糖菓子以外に何も食べないと決めたりすることは非常に不適切である。同じく、学生や仕事をしている人が、道楽の本ばかりを蔵書にして、そうした甘美なものだけで精神を涵養しようとすることは馬鹿げている」と言って自分を戒めている。
1774年5月から6月にかけてマディソンはペンシルヴェニアとニュー・ヨークを訪問している。まさにその頃は、ボストン茶会事件以後、イギリスの抑圧に対抗しようという機運が各植民地でさらに高まった時期であった。
郡治安委員
1774年12月22日、マディソンはオレンジ郡の治安委員会の1人に選ばれた。治安委員会は、同年10月、第1回大陸会議でイギリス製品不買を行うために設けられた組織である。1775年10月2日、マディソンはオレンジ郡の民兵隊の大佐の辞令を得ている。民兵隊の教練に参加したが、健康状態が芳しくなかったので実戦に赴くことはなかった。
ヴァージニア革命協議会
1776年4月25日、オレンジ郡はマディソンをヴァージニア革命協議会の代表として選んだ。ヴァージニア革命評議会は5月6日、ウィリアムズバーグで開会した。次いで5月15日、大陸会議に独立宣言を提案する決議が票決にかけられ、マディソンは賛成票を投じている。
他にもマディソンはヴァージニア権利章典の起草にも携わっている。ヴァージニア権利章典は主にジョージ・メイスンによって起草された文書である。マディソンの修正草案がパトリック・ヘンリーによって提議されたが、革命協議会はそれを採用しなかった。それはヴァージニアにおける国教会の解体を意味したからである。さらにマディソンは第2の修正草案を起草した。最終的に修正草案は、6月12日、若干の修正を経て採用されたが、マディソンが望んでいた政教分離の原則は含まれていなかった。
7月5日、邦憲法を採択してヴァージニア革命評議会は閉会した。新たな邦憲法の下でマディソンはヴァージニア邦議会議員になった。10月から12月に開かれたヴァージニア邦議会第1会期で トマス・ジェファソンに出会った。ジェファソンとの親交はこれ以後、生涯続いた。
行政評議会
1777年4月24日、ヴァージニア邦議会選挙で落選する。11月15日、ヴァージニア邦議会はマディソンを行政評議会の1人に選んだ。行政評議会は8人からなり、邦知事の諮問機関であった。1778年1月、行政評議会に着任し、パトリック・ヘンリー知事の助言役を務める。4月に邦議会議員に当選したが、行政評議会に籍を置いていたために当選が無効になった。ヘンリーに代わってジェファソンが知事になってからも行政評議会にとどまった。
大陸会議
1779年12月14日、大陸会議のヴァージニア代表に選ばれる。1780年3月20日、マディソンは大陸会議に着任した。代表の中では最年少であった。3月22日、海事委員会委員に任命され、6月6日まで在任した。ミシシッピの航行権をめぐってスペインと交渉中のジョン・ジェイに送達する指令を起草している。マディソンはミシシッピの航行権を確保することはアメリカの独立存続にとって重要だと認識していた。さらに大陸会議の権限強化とフランスとの同盟を支持した。
連合会議
様々な問題に関与
1781年3月1日に連合規約が成立した。3月16日、マディソンは、分担金を支払わないか、または指示に従わない邦に対して連合会議が強制力を持つように連合規約を修正するように提案した。そうした権限がなければ連合会議は諸邦によって侮られ、どれだけ有益な施策も水泡に帰するからである。例えば、その他のすべての邦が禁輸に同意しても、僅か1つの邦が禁輸を破れば全体の目的が損なわれる可能性があった。こうした提案は受け入れられなかったが、マディソンが早くから連合規約の欠陥に気付いていたことを示している。
1782年、フランス公使館の書記官フランソワ・バルベ・マルボアとともに匿名で米仏同盟を擁護する公開書簡を書く。11月頃から連合会議の詳細な議事録をつけ始めている。
1783年4月18日、連合会議は、公的信用を回復させる計画を各邦に提示して承認を求めた。マディソンは計画の取りまとめに大きな役割を果たしている。その計画は、戦時公債の元本と利子を返済するために、特別輸入税と25年間にわたる5パーセントの一般関税を徴収する権利を連合会議に与えることを骨子とする。同時に連合会議は、各邦が拠出する分担金の割り当て方式の修正を提案している。つまり、従来の土地価格総額に基づく割り当て方式に代わって、人口に基づく割り当て方式を導入しようとした。こうした試みは、全邦からの承認を得ることができず失敗に終わった。
マディソンは他に講和や西部の土地問題、財政問題などに関わった。特に西部の土地問題は各邦それぞれの主張に加えてヴァーモントの連邦加入の是非も絡み合って紛糾していた。
1783年10月25日に任期がきれたので連合会議から離れる。連合規約は、6年のうち3年以上、代表を務めてはならないと規定されていたからである。1783年12月5日にモンペリエへマディソンは帰った。
産業育成の方針
この頃から既にマディソンは農本主義と言える考え方を持っていた。1783年5月の手紙の中で「アメリカの一般的政策は現在のところ、農業の促進と消費物資の輸入に向けられている」と述べている。自由貿易を推進すれば貿易業者の競争が生じ、農産物を「利益があがる値段」で売ることができるだけではなく、輸入品を安価に購入できるとマディソンは論じている。しかし、総人口の増加にともない製造業や海運業に従事する人口が増えれば、「特権」を与えることにより産業を振興する政策が必要になるだろうとも指摘している。このように考えるに至ったのは、植民地時代におけるイギリスによる貿易独占が「癒え難い傷を[アメリカに]残した」とマディソンが感じていたからである。
また1785年3月20日付のラファイエット宛の手紙の中では、ヨーロッパにとってアメリカとの貿易は大きな利益を生むと力説している。つまり、アメリカは非工業製品を輸出する一方で、ヨーロッパの工業製品を輸入する有望な市場となり得る。それに加えて、ミシシッピ川の航行権を得られない場合の不利益についてマディソンは論じている。もしヨーロッパ市場におけるタバコやインディゴの需要が高まってもそれに対応できず価格が上昇し、ヨーロッパの消費者が不利益をこうむる。さらに農業の促進のために必要な土地が確保できないので余剰労働力が製造業に転向し、工業製品の輸入を必要としなくなる。それは当然、ヨーロッパが工業製品を輸出する市場を失うことを意味する。このようにマディソンは多くの南部人と同じくミシシッピの自由航行権の獲得を強く望んでいた。
ヴァージニア邦議員
信教自由法の成立に貢献
1784年4月22日、マディソンは再びヴァージニア邦議会議員に選出された。9月から10月にかけて、ラファイエットとともに、アメリカとイロクォイ族の交渉を見守るためにモホーク渓谷のスカイラー砦F(現ローム)に赴いた。
同年、ヴァージニア邦議会はすべての宗派のキリスト教会の聖職者に対して財政支援する法律を制定することを検討し始めていた。マディソンは、そうした財政支援に反対し、1785年6月、「宗教のための課税に対する抗議と請願」を邦議会に送付した。この「抗議と請願」は、公定教会制度の下で特権的地位を享受してきた監督派教会に対する人々の不満を代弁するものであり、公定教会制度の廃止と政教分離の確立を促すものとなった(巻末史料5-2)。邦内に複写が出回り、1554名の署名を集めた。こうしたマディソンの努力の結果、法案成立は阻止された。
監督派教会に対してマディソンの反感は根強く、独立戦争勃発以前に遡ることができる。1774年1月24日付の手紙では、「もし監督派教会が、ヴァージニア植民において存続しているように存続し、北米植民地すべての国教となり、妨害されることなく定着してしまえば、我々の間に隷属と支配が徐々に入り込むであろうことは明らかなことのように思えます」と述べている。さらに「悪魔の地獄という考え方が、ある人々に強迫的な熱狂と不品行に対する永遠の迫害を生み、聖職者は彼らの仕事をするために小鬼を割り当てることができる」と聖職者に対する不信感も示している。そして、「我々の間に良心の自由が復活するように祈っている」と述べている。また1774年4月1日付の手紙でも「聖職者達は数が多く強力な組織で、司教権と王権との繋がりのために植民地内で大きな影響力を持っていて、当然の如く、あらゆる手段と影響力を行使して、勃興して来る反対者を弱めようとします」と記している。
さらにマディソンは、1785年10月31日、ジェファソンが委員長を務めていた法改訂委員会による報告に基づいて118法案を議会に提出した。滞欧中で不在のジェファソンに代わって改訂諸法案成立に尽力した。その中でも最も大きな業績は1786年1月のヴァージニア信教自由法成立である。「人間の精神に対する法律を作るという野心的な望みは永久に絶たれた」とマディソンは信教自由法成立の意義を評している。
アナポリス会議に参加
1786年、マディソンは古今の連邦制に関する歴史を読み、その長所や短所をまとめた覚書を書いている。これは後に『フェデラリスト』執筆の参考資料として役立った。この頃、マディソンは、連合会議における地域的な分断に危機感を抱くようになっていた。外務相のジョン・ジェイと北部の諸邦が、スペインとの通商交渉で、ミシシッピ川の航行権要求取り下げを交換条件として利用していると考えていた。また連合会議の制度的欠陥についても危惧していた。それは1785年8月7日付の ジェームズ・モンロー宛の手紙から分かる。その手紙の中でマディソンは以下のように述べている。
「私は、連邦制度の欠陥を修正することが非常に重要であると思っています。なぜなら、そうした修正は、連邦が樹立された目的に対するより良い回答になるでしょうし、そのまさに欠陥が存続することによってもたらされる危険を私は理解しているからです」
さらに通商問題に関しては、各邦の利害衝突が深刻であったので連邦政府に通商を規定する権限を与えるべきだと述べている。1786年1月24日、ヴァージニア邦議会は、アナポリス会議開催を求める決議を採択した。そして、代表団の1人にマディソンは選ばれた。アナポリス会議に対してマディソンはあまり希望を抱いていなかった。8月12日付のジェファソン宛の手紙の中で、アナポリス会議の開催は歓迎すべきことだが、現在の状況を鑑みると、「通商改革」さえもほぼ達成が絶望的ではないだろうかと述べている。
1786年9月11日から14日にかけてマディソンはアナポリス会議に参加した。残念なことにアナポリスに集まった代表は僅かに5邦から12名のみであった。最終的にアナポリス会議は、13邦の代表からなる会議、いわゆる憲法制定会議の開催を翌年5月14日に決定する報告書を採択した。
憲法制定会議
憲法制定会議前夜
1786年11月7日、ヴァージニア邦議会はマディソンを連合会議の代表に選出し、さらに12月4日、憲法制定会議の代表に任命した。12月7日、マディソンは同じく憲法制定会議の代表に選ばれたワシントンに「5月にフィラデルフィアで開催される会議への代表団にあなたのお名前を欠くことはできません」と手紙で会議への参加を懇請している。マディソンは来るべき会議が合衆国の将来について重大な影響を及ぼし得ることを十分に理解していたのである。それは、会議が始まって間もない頃の「[憲法制定会議の]結果は、何らかの形で我々の運命に力強い影響を与えるでしょう」というジェファソン宛の手紙の中の言葉からもうかがえる。
翌1787年2月10日、マディソンはニュー・ヨークで開会された連合会議に初登院した。憲法制定会議が始まる前にマディソンは、 ジョージ・ワシントンや エドモンド・ランドルフ、 トマス・ジェファソンなどに手紙で憲法制定会議の議事案を示している
マディソンは、ランドルフに宛てた2月24日付の手紙で「現行制度には全く賛同すべき点も、賛同に値する点もありません。もし何本かの強力な支柱をあてがわなければ、すぐに倒壊してしまうでしょう」と述べている。さらに「このような状況下で政府が存続できる見込みはないでしょう」と断言している。シェイズの反乱が「筆舌に尽くし難い傷」を共和主義に与えたので、君主制を志向する者が勢いを強めるのではないかとマディソンは危惧していた。その一方で、人民の多くは、三権分立に基づくより強力な連邦に加盟するという「小さな悪弊」を喜んで受け入れるだろうと楽観的な見方を示している。マディソンの憲法理論の根本には、中央政府の権限強化が専制政治に繋がるのではなく、むしろ自由を擁護する保障となるという強い信念があった。
秘密規定
憲法制定会議では秘密規定がもうけられた。会議の内容をすべて内密にすることによって外部からの影響を排すためである。例えばマディソンは、会議中に送ったジェファソン宛の手紙の中で、パトリック・ヘンリーが「憲法制定会議に対して敵意を持ち、連邦の分裂、または解体を願っている」と暗号で述べているように、こうした会議に対して警戒感を持つ人々に配慮する必要があった。秘密規定は、代表達が自らの存念を思うままに述べる自由を保障したのである。こうした秘密規定が存在したのにも拘らず、討議の内容が今に伝わっているのは主にマディソンの議事録による。1日も休まず1つの弁論も聞き逃さないようにマディソンは努め、会議が終わった後も他の代表達との交流にはあまり加わらず、議事録の整理に専念した。
また憲法制定会議が終わってから間もない10月24日にマディソンは、会議の内容に関する手紙をジェファソンに送っている。その手紙の中で話し合われた諸論点が整理されているので、会議の大まかな討論の流れを知ることができる。
マディソンは、討論で主導的な役割を果たしただけではなく、討論の詳細な記録を残している。討論の記録をつけることで論点を整理し、話し合いがうまく進むように運んだのである。書記の手による「会議日誌」は1819年に公刊されているが、単なる賛否を記録したものであり、討論の詳細にまで記述が及んでいない。マディソンの他にも議事録をつけていた代表は何人か存在するが、マディソンの詳細な議事録には及ばない。マディソンの死後まもなく、関連文書が公刊されるまで、憲法制定会議で何が話し合われたのかは一般にほとんど知られていなかった。
ヴァージニア案の概要
5月3日、マディソンはフィラデルフィアに到着した。その後、他のヴァージニア代表とともにヴァージニア案を練った。それ以前にマディソンが随所で示した見解からして、ヴァージニア案の主要な起草者はマディソンであったと考えられている。定足数を満たしてようやく会議が始まったのは5月25日のことである。それから9月17日まで代表達は、若干の休会を挟みながらも、ほぼ毎週6日間、毎日5時間の討議を重ねた。
5月29日、ランドルフによってヴァージニア案が提議された。15条からなる同案は、合衆国憲法の基盤となった。ヴァージニア案の特徴は、人民の直接選挙による第一院と邦議会の選出による第二院に基づく二院制の導入に加えて、各邦による侵害を阻止できる強力な権限を連邦政府に与える点にある。
特に「統一国家的National」という当時では新奇な概念が盛り込まれている点は特筆すべきである。それは、連盟規約の下での現行制度を意味する「連邦的Federal」という概念とは対照的な概念であった。統一国家的な概念は、連邦政府が、これまでのように各邦を通じて間接的に人民にはたらきかけるのではなく、直接的に人民にはたらきかけることを意味している。この概念は多くの反対をまねいた。反対派(「連邦的」な概念を支持したので主に「フェデラリスト」と呼ばれるが、後の憲法批准賛成派とは異なる)が邦の権限を完全に奪取するような中央政府の成立を恐れたためである。しかし、ヴァージニア案は、邦の権限を完全に奪取することを目指していたわけではなく、連邦と各邦の均衡がとれるように権限を配分することが大きな目標であった。また、各邦がその邦民に対する権限を保留する一方で、連邦は直接、国民に対する権限を行使するという二元制度への移行を目指していたのである。
ヴァージニア案に関する討論
ヴァージニア案をめぐる討議の過程で、マディソンはペンシルヴェニア代表のジェームズ・ウィルソンとともに統一国家的な概念の主唱者になった。一方、連邦的な概念は、コネティカット代表のロジャー・シャーマンとオリヴァー・エルズワース、ニュー・ジャージー代表のウィリアム・パターソンの3人が中心となって主唱した。
まず国民議会に二院制を採用する点は全会一致で認められた。しかし、両院をどのように構成するのかという点については意見が分かれた。邦議会が第一院の議員を選出するべきだという、サウス・カロライナ代表のチャールズ・ピンクニーによる提議について討論が行われていた際、マディソンはピンクニーに対して反対弁論を行った。マディソンの主張は以下の通りである。二院のうち少なくとも一院は「明白な自由政府の原則として」直接、人民によって選ぶべきである。そうすれば、議員が単なる邦政府の仲介者に陥るのを避けることができる。
さらにウィルソンが、立法府に対する審査権限を司法府が行政府と共有しないとする票決を再考するように提議した際、マディソンはウィルソンの提議を支持する弁論を行った。6月6日の弁論の中でマディソンは次のように主張している。審査権限は、立法府が行政府や司法府の権限を侵害することを防止するのに有用であり、ひいては人民全体の権利を守ることにも役立つ。もし立法府が「原理において賢明ではないか、形式において正しくない法律」を制定しようとした場合、司法府と行政府が協力すればそれを有効に阻止できる。
今度は、デラウェア代表のディキンソンが、第二院(上院)の議員を邦議会が選ぶべきだと提議した。それに対してマディソンは6月7日の弁論で次のように反論した。
「もしディキンソン氏の提議が認められるのであれば、我々は、議席の比例配分の原理を放棄するか、上院に非常に多くの議員を迎えなければなりません。前者は、明らかに不公平であるから認められません。後者は不都合です。上院を設立する利点は、立法過程において下院よりも冷静である点、整然としている点、見識がある点にあります。[中略]。上院議員の影響力は、その数に反比例すると私は思います。ローマの護民官の例がちょうどあてはまるでしょう。護民官は増員されるにしたがって、その影響力と権限を失っています。その理由は明らかなように思えます。ローマにおいて、庶民の利益と権利に配慮するために護民官は任命されましたが、その数の多さのために、一致した行動をとれず、彼ら自身の間に派閥を作りがちになり、貴族の対抗者の餌食となりました。したがって、人民の代表が増えれば増えるほど、有権者の欠点をますます帯びるようになり、彼ら自身の無思慮によってか、反対党派の策略によって分裂するようになり、信任に耐えられなくなるでしょう。ある集団の影響力が単に個々人の性質による場合、数が多くなるほど影響力は増します。それが、その集団に与えられている政治的権威の程度による場合、数が少なくなるほど影響力は増します」
マディソンにとって、見識ある議員からなる上院は、人民の移り気に由来する過ちを是正するための議院であった。またマディソンは、選挙権を平等に与えれば、徐々に貧しい者の影響力が高まり、将来、土地均分を唱える動きが強くなるのではないかと危惧していた。アメリカにはヨーロッパほど明確な階層分化はないが、それでも単一の大衆といった存在を認めることはできないとマディソンは考えていた。
さらに翌日、マディソンは、邦が制定した不適切な法律に対して拒否権を行使する権限を国民議会に与えるべきだとするピンクニーの提議を支持する弁論を行った。拒否権の必要性と有用性を、マディソンは以下のように強く主張している。
「完全な制度には、各邦の立法を拒否する無制限の権限が絶対必要であると見なさざるを得ません。各邦が、条約に違反し、お互いに権利と利益を犯し合い、それぞれの管轄内で弱いものを抑圧するなど、連邦の権限を侵害する一定の傾向があることは経験により証明されています。拒否権は、こうした危害を防止するために考案された穏健な手段なのです。こうした抑制手段があれば、悪弊を行おうとする試みを阻止することができるでしょう。こうした予防措置が付け足されなければ、唯一の救済手段は強制に訴える他ありません。そうした救済措置は可能でしょうか。それは実行可能でしょうか」
こうしたマディソンの主張にも拘らず、最終的に邦の法律に対する拒否権は明記されなかった。僅かに第6条第2項において連邦法の最高法規性が示されたのみである。
ニュー・ジャージー案に関する討論
こうした議論が進むうちに「ナショナル」の概念を推進する国民派と「フェデラル」の概念を推進する邦権派、2つの党派が浮かび上がってきた。当然ながらマディソンは前者に属し、積極的な唱道者となった。
特に小邦を中心とする後者は6月4日からヴァージニア案の対案を練り始めた。そして、6月15日、ニュー・ジャージー代表のパターソンは、コネティカット、ニュー・ヨーク、デラウェア、メリーランドの支持を受けて9条からなるニュー・ジャージー案を提出した。
ニュー・ジャージー案の骨子は次の通りである。まず現行の連合会議に、関税と印紙税を課す権限、外国および州際通商を規定する権限、邦から分担金を徴収する権限を与え、さらに邦に連邦法に従うように強制できる行政府の長を指名できる権限を与える。そして、司法府には外国人、条約、連邦の通商規定や税の徴収に関連する事例を扱う権限を与える。
6月19日、マディソンはニュー・ジャージー案に対する弁論を初めて行った。マディソンはまず現行制度を廃止するには諸邦の全会一致が必要であるというパターソンの意見を否定した。もしニュー・ジャージー案が通れば、マディソンが主導する現行制度から新制度に移行する根幹的な改革が不可能になる恐れがあった。さらにマディソンは、諸邦による連邦権限の侵害という悪弊は「最大の国家的な災厄」であり、「全体に混乱と破滅をもたらす」と主張している。
さらにマディソンは、「最大の困難は、投票権の問題にあり、もしそれがうまく調停されれば、他のすべての問題は克服できる」と指摘し、「デラウェアより16倍も大きいヴァージニアに同じ投票権しか与えないことは公正ではないとニュー・ジャージー代表の2人も認めている。また彼らは、ヴァージニアに16倍の投票権を与えることはデラウェアにとって安全ではないと言う。したがって彼らが提案する手段は、すべての邦が一旦一つになってそれから新たに13邦を平等に区分するというものである。そのような案ははたして実行可能だろうか」と主張している。
同日、全体委員会はヴァージニア案とニュー・ジャージー案の採決を行った。ニュー・ジャージー案を支持していたコネティカットがヴァージニア案支持に転向し、メリーランドは代表の間で意見が分かれたので7票対3票でヴァージニア案が採択された。
妥協案の成立
6月20日から7月2日にかけてヴァージニア案の各条項が検討された。その最中、マディソンは連邦政府と各邦政府の関係について論じている。マディソンが強調した点は、連邦政府が必ずしも邦政府の権限を完全に奪取しようとしているわけではないという点である。そもそも連邦政府による邦権限に対する侵害よりも、邦政府による連邦権限に対する侵害の可能性のほうが大きい。古今の事例に基づけば、連邦制度は専制よりも無政府状態に陥る危険性のほうが高い。我々のこれまでの経験からもそうした傾向は確かである。それを改めるために「連邦政府に実権とより大きな権限を与え、連邦政府の中で少なくとも1府は、邦政府ではなく人民からそれらの権限を得る」ことが必要である。一方で、すべての事項を連邦政府が取り扱うことはできないので、邦政府の協力が不可欠である。さらにマディソンは、連邦政府によって個人の自由が侵害される可能性について次のように否定している。
「人民が、13の小さな共和国の構成員として自由ではないと言えないように、同じく1つの大きな共和国の構成員として自由ではないとは言えないでしょう。デラウェア邦民がヴァージニア邦民より自由ではないとすれば、アメリカ市民より自由ではないということになるでしょう。したがって、邦政府を連邦政府に取り込む体質は、致命的な結果をもたらすことはないでしょう」
討論はさらに進み、今度はニュー・ヨーク代表のランシングとニュー・ジャージー代表のジョナサン・デイトンが、各邦は第一院(下院)において、平等に議席を与えられるべきだと提議した。小邦は同数配分を主張し、大邦は人口による比例配分を主張した。
こうした主張に対して、6月26日、マディソンは、両者の提議は小邦の安全を保障するために必要な措置では全くないと反論を行った。つまり、社会の中では、影響力が強い個人どうしが同盟を組むよりも競い合うことが多いのと同じく、影響力が強い邦どうしも連携するよりは競い合うことが多いだろうとマディソンは論じている。
6月29日、マディソンは、小邦の代表者達に「明らかに不公正で、決して認めることができず、もし認められれば、我々が永続させたいと願っている憲法に致命的な欠陥を持たせることになる方針」を捨てるように説得しようと努めた。大邦と小邦の間の意見の相違が目立っていたが、「我々の連邦政府の最大の危険は、大陸の南と北の相反する利害の相違である」と述べているように、マディソンは他の代表達とは違って南北の利害相違についても早くから認識していただけではなく、両者の政治的均衡を保つことを重視していた。
結局、7月2日、議席配分について妥協案を考案するために、チャールズ・コッツワース・ピンクニーの提案で11人委員会が設立された。マディソン自身は委員に選ばれていないので同委員会で行われた議論の過程については記録していない。小邦の代表の中には分離独立を口にする者もいて、この問題に関して妥協が成立しなければ憲法案自体の成立も危ぶまれた。「国民政府に反対する代表達が示す熱意が今、憲法制定会議の行く末に対する深刻な不安を生じている」とマディソンは述べている。
3日後、11人委員会は妥協案を報告した。同案は次のような内容である。第一院(下院)では、各邦は人口4万人につき1席の議席を持ち、奴隷は自由民に対して5分の3の割合で人口に含める。一方で、第二院では、各邦は同数の議席を持つ。これは前者が国民派の考え方、後者が邦権派の考え方を取り入れた案と言える。ただし奴隷の人口を5分の3の割合で人口に含める条項は本来、妥協の産物ではない。それは既に1783年に提案された連盟規約の修正案に盛り込まれている。妥協の焦点は、各州が第二院で同数の議席を持つ点である。この妥協はコネティカット妥協とも呼ばれている。
マディソンはこの妥協案に対して、各邦間に確執を残すような妥協は避けるべきだと勧告している。特に第二院で同数の議席を各邦に割り当てる点について、「これが妥協のまさに根拠であるなら、いかなる根拠があるのか。何の根拠もない」と強く否定している。マディソンの論によれば、第一院が人口に比例して議員を選んでいるのにも拘らず、第二院が人口に比例することなく各邦が平等に票を持てば、少数者が多数者の意思を否定する弊害が生じる。さらに北部と南部の均衡も問題である。もし各邦が平等に票を持った場合、北部が8に対して南部は5である。しかし、人口に比例して議席を配分すれば両者の均衡が取れる。
7月16日、妥協案は僅差で可決された。結局、マディソンの反対は受け入れられず、11人委員会が報告した妥協の基本方針はほとんど変更されなかった。
憲法案草稿
妥協案が可決された後、7月26日から8月6日の間に詳細検討委員会で草案が編まれ、その間、本会議は休会となった。8月6日、本会議が再開され、草稿の検討が行われた。
様々な検討が行われた中でマディソンは、下院議員の人口割合を「4万人以上」に改めるべきだと提案した。将来の人口増加により下院の議員定数が増え過ぎると予測したからである。マディソンの提案の結果、「人口4万人に対し1人」という条文の前に「超えることはできない」という言葉が挿入されることになった。最終的にこの部分は「人口三万人に対し一人を越えることができない」という文言に改められている。
大統領制
行政府が肥大化している現代とは異なり、この当時は立法府が三権の中で他の二権と比較にならないほど重要な地位を占めていた。そのため、憲法案では紙幅の多くが立法府に割かれ、行政府、司法府に関する言及は少ない。とはいえ行政府に関する規定は立法府に関する規定の次に重要な問題であった。
ヴァージニア案では、大統領に相当する職は「国民執政官National Executive」と呼ばれている。「大統領President」という呼称は、詳細検討委員会において採用が決定された。この時、他に「最高裁判所Supreme Court」、「連邦議会Congress」、「下院House of Representatives」などの呼称も採用されている。
マディソンが大統領制度の創始にあたって最も危惧したことは、立法府が行政府の権限を侵害することであった。それを防止するためには、行政府の長を立法府から独立した立場に置くことが重要であった。そこで問題となる点は行政府の長を選出する方式である。
マディソンは立法府による大統領選出に強く反対している。もし立法府が大統領を選出することになった場合、候補者は議会の多数派と結託する恐れがある。それは行政府が立法府に従属する結果をまねく。それ故、大統領の選出方式として、「人民によって選ばれた選挙人による指名」が最善であるとマディソンは結論付けている。詳細検討委員会が提案した人民による直接選挙を採用しなかった理由は、まず国土が広大なアメリカでは、「[すべての]人民が候補者の各主張の是非を判断するために必要とされる能力を持つことが不可能」である点、各邦の人民は自分の邦の利益を優先するので小邦にとって不利になる点、有権者数の不均衡が北部と南部の間で生じる点である。奴隷の人口を5分の3の割合で人口に含める条項があるために、特に多数の奴隷を擁する南部に不利となることが明らかであった。最終的に、大統領の選挙方式は「州議会の定める方法」により選出された選挙人による指名で行われることに定められた。
また一方で大統領による「横領や抑圧」を防止するために、大統領を弾劾できる制度を整えるべきだとマディソンは提言している。さらに大統領が法案に対して拒否権を行使した場合、議会が3分の2の票数で法案を再可決できる規定も提言している。このようにマディソンは、共和政体の下で行政府と立法府の機能を適切に咬合させることを重視していたのである。
人民による批准
さらにマディソンが強調した点は、人民による合衆国憲法案の批准である。各邦議会による批准は単に「同盟や条約」に他ならない。もしある邦がそれに違反すれば、他の邦は「同盟や条約」を遵守する義務から解放される。それは連邦解体の危機をまねく。しかし、人民による批准を経れば、それは「同盟や条約」ではなく全く別の性質を持つ「1つの憲法の下の人民の連帯」と見なされる。こうしたマディソンの主張は受け入れられ、各邦の人民の選挙による会議で批准の是非が決定されることになった。
編集委員会
9月8日、マディソンは憲法案の推敲を行う編集委員会の5人の中の1人に選ばれた。作業の中心的な役割を担ったのはモリスである。マディソンは後に「憲法案の文体[の調整]と[条文の]整理の仕上げは、ほとんどモリスのペンによる」と証言している。
終盤にマディソンは、議会に大学を設立する権限や国内開発事業を行う権限を与えるように提案しているが、いずれも否決されている。また権利章典を盛り込むことも否決されているが、それについては、政府の権限が憲法によって限定されているので、権利章典をわざわざ明記する必要はないという根拠に賛同している。9月17日、マディソンはヴァージニア邦代表の1人として憲法案に署名した。
連合議会への憲法案提出
フィラデルフィアを後にしてマディソンはニュー・ヨークに向けて出発し、他の2人の代表とともに憲法案を連合議会に提出した。多くの人々が新しい憲法案に概ね好意的であると感じ取りながらもマディソンは、それに強硬に反対する党派の動静に懸念を抱いていた。実際、ヴァージニア代表リチャード・リーは、各邦民に批准を求める前に憲法案の修正を行なうよう提議した。リーの考えでは、憲法案は単なる「報告」であり、連合会議は自由にその内容を修正できるはずであった。リーの支持者は、憲法制定会議の代表達が連盟規約の修正という指示を逸脱して憲法案を編んだと批判した。マディソンはそうした批判に対して、そもそも連合議会は、「政府の緊急事態と連邦の保持に対して連邦憲法を適切なものにする」ように要請したはずであり、憲法制定会議は単なる修正ではその目的に沿うことができないと判断しただけであると応じた。3日間に及んだ討議で、他の代表とともにマディソンがリーの提議を阻止した結果、連合議会は憲法案を認めるか否かを採決せず、単に諸邦に憲法案を送付するだけにとどめると決定した。
ザ・フェデラリスト
執筆の契機
アレグザンダー・ハミルトンと ジョン・ジェイとともにマディソンは、「プブリウスPublius」という共同名義で『フェデラリスト』を執筆することになった。この『ザ・フェデラリスト』をマックス・ファーランドMax
Farrandは、「憲法に関する最も重要な注釈であり、アメリカの最も偉大な本の1冊とみなすことができる」と評している。それは『ザ・フェデラリスト』が当時の時代状況にのみ限定されるものではなく、権力と自由の均衡をどのように保つのかという時代を越えた政治的課題に取り組んでいる古典だからである。
マディソンの手による最初の1篇が掲載されたのは11月22日のことである。ワシントンに宛てた手紙によれば、『ザ・フェデラリスト』執筆の意義は、「人民に憲法案の利点に関する詳細な議論を示すこと」にあった。そもそも憲法制定会議は、憲法案が公表されるまで一般には、全く新しい憲法案を考案するのではなく、単に現行の連盟規約に修正を加えるだけの集まりだと考えられていた。そのため、多くのアメリカ人は新しい憲法案についてほとんど何も知らないに等しかった。中でもニュー・ヨーク邦は根強い反対を唱える党派があり、その成功が全国的に大きな重要性を持っていた。
最終的には『ザ・フェデラリスト』の85篇のうち少なくとも14篇、最大で26篇をマディソンが単独で執筆したと考えられている。18篇から20篇の3篇は、1786年に古代や現代の連邦制について自身でまとめた覚書やハミルトンの手による資料などを参考にしている。各篇の執筆者が誰かについて確実に判明しているのは、18篇から20篇の3篇を除き、ハミルトンによる49篇、マディソンによる14篇、ジェイによる4篇である。したがって、マディソンの手によるものと確実視されているのは、10篇、14篇、37篇から48篇である。その主な根拠は、ハミルトンが死の直前に書いた覚書と晩年にマディソンがワシントンの出版業者に送った一覧であるが、両者には食い違いが見られる。そのため残りの篇の著者については諸説ある。
執筆当時、マディソンは引き続き連合会議のヴァージニア代表を務めており、ハミルトンも同じく連合会議のニュー・ヨーク代表であった。多忙の故に時間を割ける者が執筆するという形態をとった。さらにヴァージニアに戻るまでの約3ヶ月の間、この『ザ・フェデラリスト』を執筆していただけではなく、諸邦の人士と書簡をやり取りして、憲法批准をめぐる動静に影響力を及ぼしている。また『ザ・フェデラリスト』自体も発表の回を重ねるにつれて有名になり、1788年3月12日には早くも36篇までを収めた第1巻が書籍として発刊された。それは各邦の憲法案支持者の有力な理論的基盤となった。
内容
『ザ・フェデラリスト』の中でマディソンが論じている内容は、憲法制定会議の席上で示した見解と共通する点が多くある。それは、強力な連邦政府の導入を含む憲法案に対して不信感を持つ人々に対して説得を試みるという点では同じであったからである。説得の方法は、反対派の論理に依拠して、それに対抗する論理を提示するという方法がとられている。
まず10篇では、共和政とは何かという論議に共通する前提をマディソンは説明している。マディソンによれば共和政は、すべての権力が人民に由来する政治形態に他ならなかった。
さらに共和政の原理として、人民に由来する権限を人民に代わって行使する代表制の原理が示されている。マディソンにとって、代表制は、人民すべてが直接政治に参加できないための止むを得ない措置ではなく、むしろ派閥の弊害を抑止し、優れた人物によって全体の利益が増進される制度であった。さらに14篇では、そうした共和政の理念が、小国だけではなく大国にも適用可能なものであると論じた。当時は、共和政は小国でのみ有効に機能し得るという認識が一般的であったから、アメリカのような広範囲に及ぶ国家にいかに適用できるかを説明する必要があった。
18篇、19篇、20篇では、古今の連邦制についてその得失を論じている。そうした例を通じて、連邦の要となる中央政府に適切な権力がなければ、連邦は有効に機能し得ないことが指摘されている。
37篇では、憲法会議が直面した様々な問題の中で大邦と小邦の対立の要因が説明され、憲法案が妥協によって生まれたことが示唆されている。これはマディソンならではの記述である。続いて、新たな憲法下での連邦政府が連合会議と比べて、それほど強大な権限を与えられているわけではないことが38篇で説明されている。次に39篇では、憲法案が共和主義的性格を持つことが強調され、連邦上院と連邦下院の選挙方法の違いから、連邦政府が連邦的性格と統一国家的性格を併せ持つことが示唆される。そして、40篇では、憲法会議の目的が明示され、アメリカ人民の幸福という信念の下、代表達の行為が弁護される。
マディソンは、41篇から44篇にかけて、軍事権、課税権、通商規制権、外交権、州際問題統制権など連邦政府の権限を詳細に論じている。そして、45篇と46篇でマディソンは、連邦権限が州権に対して危険ではないことを強調する。連邦が州の権限を侵害するよりも、むしろ州が連邦の権限を侵害する可能性が高いとマディソンは示唆する。さらに人民の愛着という点でも州は連邦よりも有利であり、たとえ連邦が何かを州に強制せいようとしても、それには多くの困難が伴うと論じている。
47篇、48篇では、立法、行政、司法の三権分立の原理が説明される。そして、これまで各邦の邦憲法は必ずしも三権分立の原理を実現してこなかった事実を論説する。さらに三権の中でも立法府による権力簒奪の危険性が最も高く、それを防止する適切な方策が必要であることが示される。引き続きマディソンは49篇で、ジェファソンの『ヴァージニア覚書』を参照して、権力簒奪のような重大な危機が起きた場合、人民による憲法会議を開催すべきだという論を紹介する。しかし、その論は、最も権力簒奪を起こす危険性がある立法府が、同時に最も人民に影響力を保持しているという性質から否定される。人民による憲法会議を定期的に開催する案が50篇で検討されるが、それも権力簒奪に対する適切な方策にはならないと否定される。51篇では、各部門に権力簒奪から身を守る憲法上の手段を与えることが、権力簒奪に対する適切な方策であることが示される。さらに連邦政府と州政府で権限が分かたれているから、人民はその権利において二重の保障を得ているとマディソンは均衡理論を展開する。
52篇から58篇にかけては連邦下院に関する諸問題が論じられている。それに加えて、62篇と63篇では連邦上院の機能と有用性が論じられている。
ヴァージニア憲法批准会議
オレンジ郡代表
当初、マディソンは代表選挙に出馬する気はなく、したがって地元に帰るつもりもなかった。しかし、ヴァージニア憲法批准会議の代表選挙に備えて早く地元に帰るように翻意を促す手紙がマディソンのもとに多く届いた。
結局、ヴァージニアに戻ったマディソンは、地元のオレンジ郡が「合衆国憲法案に対して最も馬鹿げた根拠のない偏見に満ちている」のを知って遊説を行った。その甲斐あって「連邦政府に関する誤解」は正され、3月24日、マディソンはヴァージニア憲法批准会議の代表に首位で選ばれた。
6月3日、マディソンはリッチモンドで開催された批准会議に出席し、憲法案擁護派の中で指導的な役割を果たした。健康がすぐれないながらもマディソンは、3週間にわたった討論で憲法案反対派の批判によく応えた。ヴァージニア憲法批准会議で行われた討論については、デイヴィッド・ロバートソンの速記録に基づく『ヴァージニア憲法批准会議の討論と過程』から詳細を知ることができる。
連邦政府による直接課税について
憲法案反対派の中心人物はパトリック・ヘンリー、ジョージ・メイスン、そしてリチャード・リーであった。反対派は主に、新連邦政府がヴァージニア邦の西部における利益を損なうような条約をスペインと結ぶのではないかという疑念や邦政府の権限を侵害するのではないかという疑念を抱いていた。こうした反対派の様々な疑念にマディソンは逐一応答している。
例えばマディソンは、人民の自由を脅かす可能性があるので連合会議は憲法案を棄却すべきだというヘンリーの論に反駁している。強力な連邦政府は、派閥の分裂や抗争により連邦を瓦解させる危険性を回避するために必要な存在であり、結果的に人民の自由や外国の侵略に対する保障となるという意見がマディソンの主な論拠である。
また諸邦の憲法批准会議で論じた修正案を集めて再度検討するために憲法制定会議を開くべきだというメイスンとランドルフの提案に反対を唱えている。もし1つの邦が憲法案の修正を提案すれば、他の邦もそれにならって対案を出す可能性がある。諸邦の政治体制はそれぞれ異なるので、連邦政府の構想について様々な見解が示されるだろう。そうした見解の調整を図ることは実質的に不可能であるとマディソンは注意を促している。
諸問題の中でも連邦政府による直接課税が大きな問題であった。マディソンは次のように直接課税の必要性を論じている。連邦を有効に機能させるためには確かな財源が必要である。確かな財源の保障なくして連邦が信頼を得ることはできない。さらに財源なくして正規軍を養うことはできない。アメリカはヨーロッパから離れているが、例えばアメリカの船がフランスの貨物を運送している場合、イギリスに拿捕される危険性はある。中立国の権利は尊重されるべきであるが、正規軍を持たない国の権利など尊重され得るだろうか。
直接課税ではなく、これまでの通り、分担金を各邦から集める形式を取れば、分担金を払わない邦に懲罰で以て対応しなければならないだろう。それは大きな騒乱を引き起こす恐れがある。直接課税の代わりに輸入品に関税を課して歳費を賄うようにすればよいという意見もあるが、それは不公平である。南部は北部に比べて製造業が未発達である故、多くの消費財を輸入に頼っている。そのため多くの関税を支払うことになるので不公平である。また関税収入は将来、国内の製造業の発達によって減少する可能性がある。また戦時には減少すると思われるので、安定した財源としては不適当である。さらにマディソンは以下のように言葉を続けている。
「今は各邦に課税しているが、憲法案では各個人に課税するという点が唯一の相違点である。理論的には両者に違いはない。しかし、実質的には両者には明らかな違いがある。前者は非効率な権限であるが、後者は与えられた目的に沿っている。つまり、この変更は人民の安全にとって必要である」
ヘンリーは、ジェファソンが権利章典を含む修正を確実にする手段として、9邦が批准を承認する一方で4邦が批准を拒否する方策に肯定的であると述べた。大きな影響力を持つジェファソンの名前を持ち出すことで批准反対の勢いを強めようとしたのである。ヘンリーがジェファソンの名前を持ち出したことに驚いたマディソンは、外部の者の意見を持ち出すべきではないと反駁している。ジェファソンが自分に伝えたことをここで明かすことは正しくないと述べながらも、ジェファソンが連邦政府による直接課税については賛成していると述べた。
権利章典について
直接課税に加えて問題になった点は権利章典である。マディソンは権利章典に宗教の保護を盛り込むことに反対していた。もしそれが特定の宗教を保護することになれば、結果的に信教の自由が侵害されると考えたからである。政府がたとえ少しでも個人の信仰に干渉することは「最も言語道断な侵害行為」であった。
権利章典についてマディソンはジェファソンと手紙で詳細な意見を交わしている。ジェファソンは、憲法案が権利章典を欠いている点が問題であると指摘している。それに対して、マディソンは次のように反論している。第1に、連邦政府の権限が、憲法で明確に規定されているのであれば、権利章典で国民の諸権利をわざわざ明示する必要はない。ただし憲法によって規定されている権限を行使するために連邦政府は必要となるあらゆる手段を用いることができるという「黙示的権限」が認められるのであれば、権利章典は必要である。第2に権利章典に諸権利を明記したとしても、それだけでは人間のすべての基本的権利を自由に認めたことにはならない。第3に、連邦政府の権限の制限と州政府の連邦政府に対する不断の警戒が権力濫用に対する防止策となる。そして第4に、これまでの経験によれば、権利章典はあまり効果を発揮していない。ジェファソンとのこのようなやり取りから分かるように、マディソンは権利章典を加えることに積極的ではなかった。
奴隷貿易について
ヴァージニア邦の多くの奴隷主は、新しい連邦政府が奴隷解放を行おうとするのではないかという疑念を持っていた。マディソンは次のように論じて奴隷主の疑念を解こうとした。
南部諸邦は、奴隷貿易が一時的に認められないのであれば連邦に加盟することはできないだろう。現状では、奴隷制を認めない邦に逃げた奴隷は解放されることになっている。「何人も一州においてその法律の下に服役あるいは労働に従う義務ある者は、他州に逃亡した場合でも、その州の法律あるいは規制によって、右の服役あるいは労働から解放されるものではなく、右の服役あるいは労働に対し権利を有する当事者の請求に従って引き渡されなくてはならない」と規定する第4条第2節第3項は、奴隷主が奴隷に対する権利を他邦でも保持するために規定されたことは明らかである。それは奴隷主にとって現状よりもより良い保障となる。一方で、連邦政府が奴隷を所有する権利に干渉する権限は全く与えられていない。また「現在の諸州中どの州にせよ、入国を適当と認める人びとの来往および輸入に対しては、連邦議会は1808年以前においてこれを禁止することはできない」と規定する第1条第9節第1項により、少なくとも今後20年間は奴隷貿易が禁止される恐れがない。
憲法案批准
6月24日、ジョージ・ウィスは、後に修正の承認を求めることを条件に批准を承認する決議を提議した。ウィスの決議は翌日、89対79で可決され、ヴァージニアの憲法批准が決定した。こうしてヴァージニア邦は10番目に憲法を批准した州となった。
マディソンは憲法批准会議が提案した修正の大部分、特に連邦に直接課税を認めない条項に不満を抱いていた。しかし、妥協として、前もって修正を加えずに、憲法成立後に修正の承認を求めるウィスの考えを支持した。
連邦下院議員
連邦上院議員選挙で敗北
1788年11月8日、ヴァージニア州議会は連邦上院議員の選出を行った。マディソンは僅差で落選している。さらに連邦下院選挙を控えて、憲法案反対派であった ジェームズ・モンローが支持を広げつつあった。憲法にはいかなる修正も必要としていないとマディソンが考えているという風聞が広まった。そうした風聞を打ち消そうとマディソンは、憲法修正を支持する旨を発表した。その結果、翌1789年2月2日に行われた連邦下院選挙でマディソンは、モンローを1308票対972票で破って当選した。
この頃、マディソンはワシントンから第1次就任演説の草稿を受け取っている。その草稿があまりに冗長であったために、マディソンは新しい草稿を書き起こした。結局、それがワシントンの第1次就任演説となった。マディソンは他の人々と同じくワシントンが大統領になると早くから予測していた。また南北の政治的均衡からジョン・アダムズが副大統領に選出されると予測していたが、その資質については否定的であった。議会開催にあわせてニュー・ヨークに向けて出発したマディソンはその途中、マウント・ヴァーノンに1週間滞在し、様々な問題をワシントンと話し合っている。
権利章典の提案
1789年5月9日、上院はジョン・アダムズの勧めに従って、「合衆国大統領にしてその権利の擁護者閣下」を大統領に対する呼称として提議した。下院でこの提議が審議された際にマディソンは、称号は無害なものだが、我々の政府の本質やアメリカ国民の特質に合わないので採用するべきではないと論じた。結局、アダムズが提案した称号は葬り去られた。
また5月19日、マディソンは外務省(国務省)、財務省、陸軍省の設立を提案した。これは行政府の枠組みを決定する重要な提案であった。その提案の中には、大統領が各省の長官を議会の同意を得ずして罷免できるとする規定も含まれていた。これは大統領の罷免権を確立する先例となった。憲法第2条第2節第2項によると長官の任命には「上院の助言と同意」が必要である。しかし、罷免に関しては明白な規定はなく、憲法第2条第1節第1項の「行政権は、アメリカ合衆国大統領に属する」という規定に基づき、大統領に罷免権を与えるべきだという考えに基づいている。
さらに6月8日、マディソンは憲法修正を提議し、議会に第1会期中に検討するように求めてマディソンは熱弁を振るっている。前もってマディソンは憲法修正を5月25日に提議することを下院に申し出ていたが、行政府の枠組みや歳入をめぐる議論などでその検討が遅れていた。
マディソンの考えでは、修正の早期の実現は、人民に広まっている連邦政府に対する不安を解消するのに有用であった。その当時、ニュー・ヨーク州とヴァージニア州はさらなる修正を盛り込むために再度、憲法制定会議を開催するようにまだ呼びかけていた。続いてマディソンは、連邦政府に利点があることを人民に悟らせれば不満の声を少なくすることができると論じる。もし、この憲法の下で人間の基本的権利が認められなければ、大多数の人民は連邦政府を支持することに躊躇するだろう。それ故、憲法案の修正が必要である。不満が高まって憲法案全体に対する盤石の支持が得られない恐れがあるからであるとマディソンは主張した。その他にも権利章典を不要とする意見に対して逐一反論している。
7月21日、下院は11人からなる修正検討委員会の発足を決定した。マディソンはその一員に選ばれている。委員会は7月28日、下院に最終報告を行った。次いで8月13日、下院は報告をもとに修正案の審議を開始した。まず現行憲法の文章を改訂するか否かが話し合われたが、最終的には原文には手を加えずに後部に修正条項を付け足す方式で落ち着いた。1789年9月25日、両院協議会は修正案を可決し、10月2日、ワシントン大統領がそれを各州に送達した。そして、権利章典は諸州の批准を経て1791年12月15日に成立した。
権利章典は、いくつかの点を除けば、マディソンが提案した原案にほぼ沿った内容である。原案から除かれている主な点は、信教の自由、言論の自由、出版の自由、そして陪審による裁判を受ける権利などを州が侵害することを禁じる項目と立法府の越権行為を防止するために定めた、三権が互いに権限を侵害し合うことを禁じる項目である。特に前者についてマディソンは「最も重要な修正」として強く採択を求めた。人民の基本的権利を侵害しないように連邦政府を抑制する必要があるなら、同じく州政府も抑制する必要があると考えたからである。結局、下院はそれを採択したものの、上院が草案から削除したために最終案に盛り込まれなかった。
公債償還問題
1790年1月14日、財務長官ハミルトンは公債償還計画を議会に提出した。それは、政府公債のみならず独立戦争時の州債約2500万ドルを引き受け、課税と新たな借り入れで返済する計画であった。
マディソンは連邦政府による州債引き受けは、負債額が多い州にとっては歓迎すべきことだが、それが少ない州にとっては特に利益がないと計画に反対を唱えた。さらに原保有者に対する償還額と公債を安く買い集めた投機家に対する償還額に区別をもうけるべきだとマディソンは主張している。2月22日、下院は償還額に区別を設ける案を36対13で否決した。しかし、公債償還計画自体を認めるべきか否かについて議会は膠着状態に陥った。
そこで6月20日、ジェファソンはハミルトンとマディソンの他数名の議員を晩餐会に招いた。この晩餐会で結ばれた妥協の結果、公債償還計画が実現した。
第1合衆国銀行特許法案
1790年12月14日、ハミルトンは合衆国銀行の設立を求める報告書を議会に提出した。翌1791年1月20日、上院は20年の期限付き特許の付与を認める法案を可決した。下院でも同法案の審議が行われた。その際、マディソンは合衆国銀行設立に強く反対した。同銀行設立によってもたらされる利点を認めながらもマディソンは、主に憲法上の解釈から反対意見を述べた。マディソンの反対論は以下のように厳密な憲法解釈に基づいている。
まず合衆国銀行のような組織に特許を与えることは、憲法制定会議で提案されたが、否決されている。さらに連邦議会は銀行に特許を与える権限を有しているかを検証しなくてはならない。憲法によって連邦政府に与えられる権限は限られている。連邦政府の特質を破壊するような解釈は公正ではない。
賛成派は、「合衆国の債務の支払い、共同の防衛および一般の福祉の目的のために、租税、関税、間接税、消費税を賦課徴収すること、ただし、すべての関税、間接税、消費税は、合衆国を通じて画一なることを要する」と規定する第3条第8節第1項に基づいて特許の付与を認めている。しかし、本来、「一般の福祉の目的」とは、州の権限に干渉することなく行使される包括的権限を示している。それにも拘らず、同法案によって銀行に特許を与えることは明らかに州の権限に抵触している。つまり、州立銀行を設立し、または廃止する州の権限を直接的に侵害している。そうした侵害を正当化する憲法上の根拠は全くない。権限が明示的に与えられていなければ、連邦政府にはそうした権限を行使することはできない。
次いで賛成派は、「合衆国の信用において金銭を借り入れること」を認める第3条第8節第2項に基づき特許の付与を認めている。この法案はそもそも金銭を借り入れるための法案なのだろうか。この条文は単に金銭を借り入れることを認めているだけで、それ以上に解釈すべきではない。
さらに賛成派は、「上記の権限、およびこの憲法により、合衆国政府またはその官庁もしくは官吏に対して与えられた他のいっさいの権限を執行するために、必要にして適当なすべての法律を制定すること」と規定する第3条第8節第18項を同法案の根拠としている。
しかし、もしそれが認められれば、連邦政府に無制限の権限を認める悪しき前例となる。「必要にして適切な」という条文は連邦議会に無制限の権限を与えるものと解釈すべきではない。合衆国銀行は、条文にあるような「必要にして適切な」存在ではなく、単に「便宜的な」存在に過ぎない。
1790年2月11日、マディソンはハミルトンの政府公債案に反対する演説を行った。演説の中で、公債の元の所有者と後から安い値段で公債を購入した投機家を区別できない点が問題だと主張した。しかし、下院は36票対13票でそうした区別をもうけることに反対した。さらに州債の引き受けが議論された。マディソンは州債の引き受けに関しても反論を開始した。マディソンの考えでは、州債を一律に連邦政府が肩代わりして支払うことは、既に負債をほぼ完済している州にとって不公平な処遇であった。
4月12日、州債引き受け案は31票対29票で否決された。一方、議会は恒久的な首都をどこに定めるかという議論を続けていた。マディソンはかねてよりポトマック川沿いに首都を建設すべきだと強く主張していた。1790年6月20日、ジェファソンの招きで、ハミルトンとマディソンの他数人の議員が晩餐をともにした。この晩餐会の結果、南部の議員が、フィラデルフィアを10年間暫定首都にした後、ポトマック川沿いに恒久的な首都を設けるという約束と引き換えに、ハミルトンの公債償還計画を支持するという妥協が成立した。
さらに1790年12月14日、ハミルトンは第1合衆国設立を議会に提案した。マディソンは合衆国銀行設立にも反対を唱えた。つまり、議会が合衆国銀行のような組織に特許を与える権限は憲法に明記されておらず、また憲法に定められた目的を果たすためにそうした組織が必要であるとは考えられない。マディソンは法案に対して拒否権を行使するようにワシントンに助言した。ワシントンは合衆国特許法案を認めるか否か迷っていた。法案に署名せずに議会に差し戻す場合も考えて、マディソンに法案への反対意見を形にするように依頼していた。ワシントンは法案への署名を遅らせたが、結局、2月25日、ワシントンは法案に署名した。
大統領の相談役
1792年5月5日、ワシントンは厚く信頼するマディソンに大統領退任の意向をいつどのように明らかにすべきかを相談している。ワシントン自身はもはや政権運営に自分は必要ないし、そもそも憲法上の問題や法律に基づく判断などは最初から適任ではないと考えていた。そして、そうした職務により精通した人物が自分に代わって大統領を務めたほうがよいと述べている。さらにハミルトンとジェファソンの対立に頭を悩ませていたワシントンは、現在の地位に留まるよりは、農園に帰って自らの手で鋤を取り、自らのパンのために働きたいとマディソンに訴えた。
ワシントンの訴えに対してマディソンは、いかなる困難があろうとも、世論の支えと的確な情報に基づいて、すべての事例においてワシントンが適切な判断を行っていることは疑いないと励ました。そして、派閥どうしの衝突があればこそ、かえって退任するよりは事態が改善されるまで続投すべきだと提言した。
その際にマディソンは後任が誰になるかについて可能性を述べている。ワシントンの後任として名前を挙げられたのは、ジェファソン、ジェイ、 ジョン・アダムズの3人である。しかし、いずれの候補についてもマディソンは否定的な見解を示している。まずジェファソンは公的生活から退隠しようと考えているので出馬を要請することは難しい。またアダムズは君主主義的な傾向を隠そうともしていない。最近、アダムズは議席配分法案に賛成票を投じたが、それは南部の民主共和派の反感をかった。それ故、アダムズは問題外である。さらにジェイはアダムズと同じく君主主義的な傾向を持っていると思われているのに加えて、西部の支持は全く見込めない。
特にアダムズに対してマディソンは不信感をあらわにしている。それは、1791年にジェファソンが起こした筆禍事件の際に、マディソンがジェファソンに向かって、アダムズは公使を務めている時に「全力で我が国の共和政体を攻撃した」前歴があるので文句を言えないと述べていることからも分かる。
6月20日、マディソンはワシントンに翻意を望みながらも告別の辞の草稿を送った。各州で選挙人を選ぶ時間が必要なことから考えて、少なくとも9月中頃までには発表しなければならないとマディソンは提言している。また新聞に公表する発表形式を採用するように勧めている。しかし、結局、ワシントンは続投を決意したので、この時は告別の辞の草稿は使われなかった。この草稿は、後にハミルトンの改訂を経て発表されたことはよく知られている。
ハミルトンやジェファソンとともにワシントンの信頼を受けたマディソンであったが、常にワシントンの意向に沿っていたわけではない。1794年11月19日の第6次一般教書でワシントンは、「ある自生の協会」がウィスキー暴動の温床となったと指摘している。それは各地の民主共和協会を指している。議会の連邦派は同様の非難を、一般教書に対する返答に含めようと提議した。それに反対してマディソンは民主共和協会を擁護する論を展開している。
パンフレット戦争
1791年10月、マディソンはジェファソンと協力し、大学時代からの友人フィリップ・フレノーが民主共和派を擁護するナショナル・ガゼット紙を創刊する後援を行っている。無記名であったが、マディソン自身の手による記事がナショナル・ガゼット紙に数多く掲載された。記事の内容は、政治だけではなく、世界平和やファッションについてなど一般的な問題にも及んでいる。
1792年夏、ハミルトンは、フレノーがナショナル・ガゼット紙の編集に携わっているのにも拘わらず、ジェファソンによって国務省の翻訳官として採用されていると連邦派の新聞で攻撃した。マディソンはモンローと協力して、9月22日から12月31日にかけてアメリカン・デイリー・アドヴァタイザー紙に6篇のジェファソン擁護論を掲載した。
さらに1793年6月29日から7月27日にかけて、ハミルトンは「パシフィカスPacificus」の筆名で、大統領が議会に諮ることなく中立を宣言することができると主張した。それは外交分野において大統領の大幅な特権を容認する論であった。
マディソンは、ジェファソンの要請により、「ヘルヴィディウスHelvidius」の筆名で8月24日から9月18日にわたって反論を行った。その中でマディソンは、宣戦布告と条約を審議する権限は議会にあるので、大統領に中立宣言を行う権限は認められないと論じている。
ジュネ問題
1793年4月8日、アメリカに到着した革命フランス政府の駐米公使エドモン=カール・ジュネが、アメリカ政府の許可なくイギリスに対する敵性行為を行った。ジュネの到着は多くの親仏派から歓迎されたが、アメリカ政府を軽視するやり方は親英派の強い反感をかった。
8月17日、連邦派は一連のジュネの行為を非難する決議を採択した。それを知ったマディソンは、同志とともに、ワシントンとフランス革命を称揚する一方で、イギリスの君主制を支持する一派を非難する決議を起草した。親英派がジュネ問題を利用して世論を反仏に導こうとしているとマディソンは考えていたからである。
ジェイ条約に対する抗議
閣内の党派対立が原因でジェファソンが公職を退いた後、民主共和派の行く末はマディソンの双肩に委ねられた。マディソンは「あなたは公的生活から引退すべきではありません」と再起を促したが、結局、ジェファソンを翻意させることはできなかった。ワシントンはジェファソンの後任としてマディソンを国務長官に就けようとしたが、マディソンはそれを断っている。
ジェファソンが退任間際に提出した「合衆国の外国交易における特権と規制に関する報告」に基づいて、マディソンは、1794年1月3日、アメリカに対して貿易上の差別待遇をとるイギリスの政策に対する報復としてイギリスからの輸入品に高関税を課す決議を提案した。
しかし、決議の審議はアメリカ船舶が250隻以上も拿捕されていることが判明して中断された。そうした問題解決を図るためにワシントンは最高裁長官ジョン・ジェイをイギリスに派遣した。1794年11月19日、ジェイはいわゆるジェイ条約を締結した。
この間、ワシントンの政策に不満を抱いたマディソンは、1795年4月、匿名で現政権を批判する「政治的見解」と題するパンフレットを発行している。6月24日、上院は非公開審議の後、20票対10票でジェイ条約を承認した。そして、早くも7月1日には条約の内容が暴露された。多くの批判が寄せられたのにも拘らず、8月18日、ワシントンは条約に署名した。ジェイ条約に反対するマディソンは、ヴァージニア州議会がジェイ条約に対する抗議を行うように求める請願を起草した。11月、マディソンの請願が新聞各紙で報じられた。
1796年2月29日、ワシントンはジェイ条約の発効を宣言した。それに対して、3月2日、下院は大統領にジェイ条約に関する文書を公開するように求める審議を開始した。その結果、3月24日、下院は62票対37票で大統領にジェイ条約締結交渉の関連文書の提出を求める決議を採択した。マディソンは民主共和派の議員達とともに、たとえ条約に関する権限が憲法により明らかに大統領と上院に付与されていても、下院は条約を執行する予算を審議しなければならないので、上院と同じく条約を審議する権利があると論じている。
下院の決議に対してワシントンは、3月30日、憲法の規定によれば、下院には条約の内容を審議する権限はないとして関連文書の提出を拒否した。最終的に、4月30日になってようやく下院は、51票対48票の僅差で条約に関連する予算を認めた。12月9日、マディソンは退職する決意を固め、新聞にその旨を発表した。
退隠生活
モンペリエの経営に専念
1797年3月3日に議会が閉会した後、マディソンは妻と継子を連れてモンペリエに戻った。5000エーカーの地所と100人以上の奴隷を擁する農園で小麦を主に栽培した。科学的農耕法を研究し、自宅の改築に取り掛かった。
ヴァージニア決議
1798年、アダムズ政権は外国人・治安諸法を制定した。ジェファソンと連携してマディソンは、この外国人・治安諸法に対する抵抗を密かに開始した。民主共和派からすれば、これらの法律は、フランス革命思想の広がりを阻止し、親仏的な民主共和派の勢力を削ぐことを目的としたものに他ならなかったからである。
ジェファソンがケンタッキー決議を起草する一方で、マディソンはヴァージニア決議を匿名で起草した。1798年12月24日、ヴァージニア州議会は同決議を若干の修正を加えたうえで採択した。ちなみにマディソンが同決議を起草したことが明らかにされたのは1809年以降である。最晩年にはマディソン自らヴァージニア決議を起草したことを認めている。
ケンタッキー決議とヴァージニア決議に対する諸州の反応は必ずしも芳しくなかったので、翌年9月、マディソンはモンローとジェファソンとともにモンティチェロにて、外国人・治安諸法に対抗する計画を話し合っている。ジェファソンはさらに「連邦から脱退すること」も辞さないとする急進的な考えを提案した。それに対してマディソンは連邦を瓦解させる危険性を指摘し、ジェファソンを思い止まらせた。
イギリスに対する不信感
ジェイ条約に対する抗議の根底にはイギリスに対する不信感があった。それは退隠後も全く変わっていない。1799年1月23日と2月23日に、マディソンは匿名でオーロラ・ジェネラル・アドヴァタイザー紙にイギリスの影響の危険性とフランス革命を擁護する小論を投稿している。
小論の中でマディソンは次のように論じてイギリスに対する警戒感をあらわにしている。自国の製造業のためにイギリスはアメリカ市場を独占しようとしている。イギリスはアメリカの共和政体に対して不安と憎悪を抱いている。ジェイ条約に賛成する請願書を提出した商人達はイギリスから影響を受けている。アメリカの貿易資本の4分の3はイギリス資本である。こうして影響力を浸透させることによってイギリスがもくろんでいることは、アメリカを再植民地化することである。イギリスはアメリカの独立だけではなく中立の権利をも脅かしている。さらに友好国であるフランスとの戦争に引きずり込もうと企んでいる。
ヴァージニア州下院議員
1799年4月24日、マディソンはヴァージニア州下院議員に選出された。1800年1月7日、ヴァージニア州議会に外国人・治安諸法に関する報告書を提出している。同報告書は前年に採択されたヴァージニア決議に対する様々な反対に対して、逐一、反論を述べたものである。
マディソンによれば、ヴァージニア決議に異を唱える者は、言論および出版の自由を制限する法律を制定することを禁じる修正第1条について、それをイギリスの一般法に基づいて、扇動的な誹謗中傷を制限することまで禁じてはいないと解釈している。そうした解釈に対してマディソンは、そもそもイギリスの一般法の概念は共和政体であるアメリカに適さず、それ故、イギリスの一般法に基づく解釈を認めることはできないと反論している。またマディソンは連邦党の憲法の拡大解釈についても警鐘を鳴らしている。
同報告書でマディソンは、外国人・治安諸法が共和政体の原理と矛盾していることを示し、合衆国憲法における言論および出版の自由の意義を明らかにした。同報告書をヴァージニア州議会は採択した。
1月11日、マディソンはヴァージニア州の民主共和派の会合に出席した。会合では1800年の大統領選挙について話し合われた。全国的に民主共和派が力を増していたが、一部の地方では情勢はまだ不透明であった。マディソンは全国の民主共和派に書簡を送り、大統領選挙を主導する役割を果たした。
国務長官
着任
1801年3月5日、ジェファソンはマディソンを国務長官に指名した。しかし、リューマチの悪化と2月27日に亡くなった実父の地所の管理ですぐにワシントンに向かうことができなかった。結局、ワシントンに到着したのはようやく5月1日のことである。ワシントンに着いてから3週間、ジェファソンとともにまだ完成していない大統領官邸に滞在した。
ルイジアナ購入
フランスの遠征軍がサント・ドミンゴに上陸したという報告を受けて、ジェファソン政権はフランスがルイジアナを占領するための軍を派遣するのではないかという懸念を抱いた。まずマディソンは、駐仏アメリカ公使ロバート・リヴィングストンにニュー・オーリンズと両フロリダを獲得できる可能性を探らせた。スペインは両フロリダもフランスに割譲したとマディソンは信じていたからである。
1802年10月16日、スペインの監督官がニュー・オーリンズ港からアメリカ船舶の締め出しを行った。そこでモンローが特使に任命され、フランスとの交渉にあたることになった。その結果、モンローとリヴィングストンはルイジアナ全域をフランスから購入することに成功した。その報せはマディソンのもとに1803年7月14日に届いた。両者の行為は本来の指示から逸脱することであったが、マディソンは7月29日付の書簡で追認している。
こうしてフランスから割譲の約束を取り付けたものの、それに関して憲法上の問題があった。なぜなら外国の領土を割譲によって獲得する権限が憲法で明記されていないからである。それに対してマディソンは、憲法を修正しなくても、もともと認められている条約締結権を行使して、領土を得ることは全く問題がないとジェファソンに助言した。マディソン以外にも同様に勧める者が多かったので、結局、ジェファソンは憲法修正を提案しなかった。
対英関係
マディソンはイギリスによるアメリカ船舶の臨検と船員の強制徴用の差し止めに抗議したが、全く効果はなかった。さらにイギリス海事裁判所は、エセックス事件に関して、1756年の原則を適用した。エセックス事件は、イギリスが、フランスの本国植民地間交易に従事していたアメリカ商船エセックス号を押収した事件である。
イギリスは、平和時に他国の植民地との交易に従事することを禁じられていれば、戦時も同様に中立国に他国の植民地との交易に従事することを禁じる1756年の原則の下、フランスに打撃を与えるために、アメリカ商船を使った本国植民地間交易を差し止めようと考えたのである。1756年の原則が認められた結果、西インド諸島で交易に従事していた多くのアメリカ商船がイギリス海軍に押収された。マディソンは、1756年の原則に抗議するために国際法の研究を開始した。翌1806年、研究の成果は、「イギリス海事政策の検証」という204ページからなるパンフレットにまとめられた。
4月、議会はイギリス製品の輸入を規制する法案を可決した。一方、ジェファソン政権は、イギリスに強制徴用を停止させ、アメリカの中立を認めさせるためにウィリアム・ピンクニーを派遣した。ピンクニーはモンローとともに12月にイギリスと条約を締結したが、ジェファソンとマディソンはそれを上院に提出しないことを決定した。条約の内容に強制徴用の停止が含まれていなかったからである。
またチェサピーク号事件が起きた際に、マディソンはモンローに、イギリスに違法行為の公式な否認と4人の水夫の返還、さらに強制徴用の停止を再度求めるように指示した。その一方で、イギリスから派遣された特使と事件解決の交渉にあたったがほとんど実を結ぶことはなかった。
1月23日の議員幹部会で民主共和党は、マディソンを大統領候補に選出した。ニュー・ヨークの民主共和党員が推す現副大統領ジョージ・クリントンとヴァージニアの保守派が後援するモンローを抑えての候補指名獲得であった。出港禁止法に対する不満は高まる一方であったが、12月7日、マディソンは122票の選挙人票を獲得して当選した。
就任式
マディソンは就任式にアメリカ産の綿で織られた茶色のスーツを着用した。祝賀会はホワイト・ハウスではなく、マディソン邸で行われた。その夜の舞踏会はロングズ・ホテルで開催された。それはマディソン夫人の案で、前例のないことであった。新聞に舞踏会の広告が出稿され、4ドルをホテルの管理人に支払えば誰でも入場券を購入することができた。
1812年の大統領選挙
マディソンは、議員幹部会で大統領候補として再指名を受けた。12月2日、マディソンは連邦党の支持を受けた反戦派の民主共和党のデ・ウィット・クリントンを129票対89票で破った。
禁輸措置の改廃
1809年4月19日、イギリスの特使デイヴィッド・アースキンとの交渉の結果、マディソン大統領は、6月にイギリスとの通商を再開することを布告した。しかし、8月9日になってマディソンは再び禁輸措置を復活させた。イギリスが協定を認めず、アースキンを越権行為で解職したからである。
禁輸法の失効にあたって、5月1日、議会はメーコン第2法を可決した。同法は、イギリスとフランスとの通商を再開させる一方で、もしどちらか一方がアメリカの海運業に対する規制を撤廃するのであれば、もう一方との通商を禁止する権限を大統領に認めている。つまり、それは、フランスとイギリスのいずれかがアメリカの船舶を拿捕する命令を撤回しなければ、アメリカは通商断絶で以って報いることを可能にする法律であった。
1810年、ナポレオンがアメリカに対してベルリン勅令を破棄したという報せを受けたマディソン大統領は、11月2日、メーコン第2法に基づいて1811年2月にイギリスとの通商を停止することを宣言した。しかし、ベルリン勅令破棄の報せは誤報だと後に判明した。
こうした一連の禁輸措置の改廃が決着したのは1814年のことである。その年の3月31日、ナポレオンの敗北を知ったマディソン大統領は特別教書を議会に送付し、禁輸措置の撤廃を求めた。マディソンの要請に応じて、4月7日には下院が、同月12日には上院も撤廃を可決した。
フロリダ問題
ウェスト・フロリダ
ウェスト・フロリダにおけるアメリカ人住民の反乱に引き続いて、マディソン大統領は、ウェスト・フロリダ併合を決定した。1813年までにウェスト・フロリダの占領は完了した。
イースト・フロリダ
1811年、議会は、もしイースト・フロリダの総督が併合に合意するか、もしくはイースト・フロリダが他の外国勢力の手に落ちる可能性があれば、併合を試みる許可を与えた。そうした議会の承認の下、マディソン政権は元ジョージア州知事ジョージ・マシューズを西フロリダに派遣した。
1812年3月18日、マシューズは ジェームズ・モンロー国務長官の黙認の下、スペイン領イースト・フロリダに対する侵攻を開始した。フェルナンディノとアメリア島を占領した。さらにイースト・フロリダの首都セント・オーガスティンを包囲した。後にマディソン大統領はマシューズの軍事行動を否認している。しかし、それをモンローだけではなくマディソンも黙認していたと考えられる。
1812年戦争
イギリスとの衝突
フランス革命に引き続くナポレオン戦争でヨーロッパが戦火に覆われている最中、アメリカは中立貿易に従事し、莫大な利益を得ていた。敵対していたイギリスとフランスは互いに貿易封鎖に乗り出し、それによってアメリカは深刻な打撃を受けていた。さらにイギリスは自国の海軍力の補強のために、アメリカの中立権を無視してさかんに強制徴用を行った。
1811年5月16日、アメリカのフリゲート艦プレジデント号が、ヴァージニアのヘンリー岬沖でイギリスのコルベット艦リトル・ベルト号と砲火を交えた。どちらの船が先に発砲したかは定かではない。かねてよりプレジデント号はイギリスの強制徴用からアメリカ船舶を守るために哨戒を行っていた。そのためリトル・ベルト号を発見して追尾した。そして交戦の結果、リトル・ベルト号はひどく損傷し、10名程度の死者を出した。イギリスは、3月に成立した新しい禁輸法の下、報復を仄めかした。さらに、もしフランスがベルリン勅令を解除しないのであれば、アメリカ船舶に対して、中立国の船舶を規制する1806年枢密院令を解除することを拒否した。
北西部フロンティアではネイティヴ・アメリカンの戦争が再開されていた。その背後でカナダに駐留するイギリス軍が糸を引いていると多くのアメリカ人は脅威を抱くようになった。マディソン大統領は、イギリスとの戦争が不可避であると信じて、第12連邦議会を1ヶ月早く招集した。11月5日、マディソン大統領は議会に陸海軍の増強を求めた。議会は陸軍の増強を認める一方で、海軍の予算を増額することは拒んだ。
1812年5月22日、イギリスの政策に変化が見られないという報告を受け取ったマディソン大統領は、議会に宣戦布告を要請する決心をした。そして、6月1日、議会に戦争教書を送付した。マディソン大統領が提示した宣戦布告理由は主に、イギリスによる強制徴用、中立貿易を行う権利の侵害、ネイティヴ・アメリカンの反乱を扇動していることの3つであった。
6月4日、下院は79票対49票で宣戦布告を認めた。続いて6月17日、上院も19票対13票で宣戦布告を可決した。ニュー・イングランド地方が戦争に強く反対したので、民主共和党の指導者達はマディソンに新たな治安法を制定することを勧めた。しかし、マディソンはそうした助言に従わなかった。
宣戦布告という強硬姿勢を示すことでイギリスから譲歩を引き出せるとマディソンは考えていた。そのため、宣戦布告直後にマディソン政権は駐米イギリス行使オーガスタス・フォスターと交渉を開始している。アメリカがイギリスに求めた条件は、1806年枢密院令の撤回と強制徴用の停止であった。6月23日、イギリスが枢密院令を一時差し止めたという報せが届いたが、強制徴用が廃止されるまでは休戦調停に応じないとマディソン大統領は決意した。6月25日、フォスターはワシントンを離れ、完全に交渉は決裂した。
開戦当時、彼我の陸軍力はアメリカにとって有利であった。アメリカが6700人の正規兵を擁したのに対して、カナダに駐留するイギリス軍は4500人であった。正規兵に対してアメリカは各州の民兵を動員できた。それに対してイギリスは少数のカナダ民兵しかあてすることができなかった。一方で海軍力は、アメリカにとって圧倒的に不利であった。アメリカが所有する艦船は、小型砲艦を除くと僅かに17隻に過ぎなかったのに対して、イギリスは約120隻の戦列艦、116隻フリゲート艦を擁していた。
英領カナダ攻略の失敗
アメリカ軍は英領カナダに侵攻したが敗退を余儀なくされた。アメリカは英領カナダの防備が脆弱で容易く制圧できると想定していた。さらにイギリス領カナダの返還を交渉のテーブルで有利なカードとして使えるとアメリカは考えていたのである。
1812年7月17日、イギリスはヒューロン湖の北端に浮かぶ島上のマキナク砦を占領した。続いて8月15日、ディアボーン砦(現シカゴ周辺)が陥落した。さらに翌16日、デトロイトに駐留していたウィリアムハル将軍は、2500人の兵士とともに降伏した。
一方、海上ではイギリスの締め付けが徐々に強まっていた。1812年12月26日、イギリスはデラウェア湾とチェサピーク湾の封鎖を宣言している。そのためアメリカ政府の歳入は激減した。封鎖宣言を南部海域のみに限ったのは、ニュー・イングランド地方に宥和的な姿勢を示して世論を分断させようと図ったからである。実際にアメリカ国内では、戦争を支持する者と反対する者とで意見が分かれていた。
イギリスの攻勢に対抗してアメリカは、1813年4月から5月にかけて、アッパー・カナダの首都ヨーク(現トロント)への攻撃を敢行した。その際に、ヨークの官庁舎が焼き払われた。それは後にイギリス軍が報復としてワシントンの官庁舎を焼き払うきっかけとなった。ヨークへの攻撃は、戦略上の必要性よりも、これまでの敗色を払拭するという政治的意図が多分に認められる。アメリカ軍の大半は訓練も経験も不足していたうえに、戦費を賄う財政制度も遅れていた。
戦線の膠着
各地で両海軍の交戦が続いていたが、1812年戦争で最も重要な海戦がエリー湖の戦いである。1813年9月10日、オリヴァー・ペリー率いる9隻のアメリカ艦隊が6隻のイギリス艦隊に勝利した。この勝利によって、デトロイト再復の道が開かれた。
さらに10月5日、テムズ川の戦いで、 ウィリアム・ハリソン将軍率いる3500人のアメリカ軍が、イギリスとネイティヴ・アメリカンの連合軍1800人を撃破した。この戦いの結果、アメリカは北西地域の支配権を確保することができた。しかし、シャンプレーン湖方面からカナダ侵入を試みた部隊は、10月25日、シャトゲーの戦いでで撃退された。12月、イギリス軍はナイアガラ川の河口に位置するナイアガラ砦を陥落させ、ニュー・ヨークに向けて進軍を開始した。
その頃、イギリスは、北アメリカでアメリカと戦う一方、ヨーロッパで対ナポレオン戦争を続行していた。しかし、1814年4月6日、ナポレオンの退位が決定し、イギリスは北アメリカに兵力を転進させ始めた。4月23日、イギリスは封鎖をアメリカ沿岸全域に拡大した。7月から9月にかけて米英両軍はナイアガラ川周辺で一進一退の攻防を続けた。しかし、大西洋沿岸部ではイギリス軍の攻勢が強まった。ニュー・イングランド諸州では連邦からの分離独立を求める声が高まり、マディソン政権は危機に瀕した。
ワシントン炎上
1814年8月19日、メイン州のベネディクトに上陸したロバート・ロス将軍の部隊がワシントンに向けて進軍を開始した。22日朝、ワシントンが攻撃にさらされる危険性が高いと判断したマディソン大統領は公文書を退避させるように指示し、ヴァージニアとメリーランドの民兵を、ワシントンの中心部から北東に約8マイル離れたブレーデンズバーグに向けて移動させるように命令した。
同日午後、マディソンは状況を視察するためにポトマック川を渡って10マイルほど進み、アメリカ軍の陣営に向かった。その日は、そこから西に1マイルほど離れた家屋で夜を過ごした。マディソン大統領とワシントン周辺管区の指揮官のウィリアム・ウィンダー将軍は当初、敵軍が船に戻ることを期待していたが、脱走兵を尋問したところ、思ったより敵軍は強力であることが分かった。そのためマディソン大統領は、翌23日朝、妻に宛てた鉛筆の走り書きで、「彼らは街を破壊するつもりで進入するかもしれない」ので、危急の際には馬車に乗ってワシントンを去るようにと急報した。
慌ただしく夕食を済ませた後、マディソンと閣僚はワシントンに帰還した。その頃、敵軍はアメリカ軍の陣営から僅か3マイルまで迫っていた。同夜、大統領官邸に次々と指示を求める人々が訪れた。深更、偵察を行っていたモンローからの報告が届いた。その報告には「敵軍がワシントンに向けて全力で進軍中」とあった。モンローは、軍に警告を発するために、そのままブレーデンズバーズに駆け去った。
24日早朝、ウィンダー将軍から「迅速な協議を要する」急報を受け取ったマディソン大統領は、すぐにネイヴィ・ヤード橋付近(ホワイト・ハウス南東約2マイル)のウィンダー将軍の宿営に向かった。午前10時、イギリス軍が夜明けとともに陣営を引き払い、ブレーデンズバーグに向け進軍中という報せが入った。 ジョン・アームストロング陸軍長官は、「民兵は正規軍に負けるだろう」と言う他、特に助言をすることはなかった。マディソンはアームストロングにウィンダーをできる限り助けるように指示し、ウィンダー配下の兵士とともにブレーデンズバーグに向けて送り出した。後刻、マディソン自身も拳銃を携えて、他の閣僚とともに同地に向けて出発した。
マディソン達一行はブレーデンズバーグの街の中心に向かったが、イギリス軍が先に街に到着していたため進路を変えて近くの丘に向かった。そこにウィンダー将軍率いるアメリカ軍が布陣していたからである。軍と合流したマディソン大統領は依然として不機嫌なアームストロングにウィンダーと協議したかどうかを尋ねた。アームストロングはまだ協議していないが、もし大統領が命じるのであればそうするつもりだと返答した。
ブレーデンズバーグの戦いにおいて、アメリカ軍はイギリス軍のほぼ2倍の兵数であったが、装備が悪く未熟であり、しかも配置が良くなかったために4500人のイギリス軍に敗北を喫した。マディソン大統領は現役の大統領の中で唯一、間近で戦闘にさらされた大統領である。午後遅く、戦闘の帰趨が明らかになった後、マディソン大統領は司法長官リチャード・ラッシュとともにワシントンへ向かった。
大統領官邸は、マディソン夫人が既に立ち去った後で無人になっていたが、食事が準備されたまま残されていた。マディソンは海軍造船所にある資材と完成間近の戦艦に火を放つように命じた後、ワシントンを立ち去った。それからまもなく、ワシントンに入市したイギリス軍は、9時頃、国会議事堂に放火した。その後、大統領官邸を略奪のうえ、同様に火を放った。こうした行いはアメリカ軍のヨーク焼き討ちに対する報復であった。ワシントンを焼く炎は40マイル先からも見えたという。
兵火から逃れたマディソンは家族を探し回ったがなかなか再会できなかった。翌25日の夕刻になって、ようやくグレート・フォールズ(ワシントン北西部約20マイル)付近のワイリー亭でマディソンは夫人と再会することができた。マディソン大統領がワシントンに帰還したのは27日のことである。特許局以外の公共建築物がすべて焼け落ちていたので、マディソン大統領と閣僚達は政府機能を再会するために個人宅を徴用しなければならなかった。特許局が仮の連邦議会議事堂に定められ、マディソン夫妻はオクタゴン・ハウスと呼ばれる邸宅に移った。
戦線の膠着とワシントン炎上は戦争の見通しに暗い影を落とした。商人や銀行家が戦費の増大に悩まされている国家に対して、信用を供与することを拒むようになったため、軍需物資の補給が大幅に遅滞していた。連邦政府は経済破綻寸前であった。さらにニュー・イングランドでは公然と連邦の解体を唱える者の主張が強まった。しかし、一方で国民一般の危機感も高まり、議会は軍の再編と歳入を確保するための法律を制定した。
シャンプレーン湖の戦いからニュー・オーリンズの勝利まで
同じ頃、カナダからジョージ・プレボー将軍率いる1万1000人のイギリス軍が南下しつつあった。それを迎え撃つべくシャンプレーン湖の西岸にアメリカ軍は布陣したが、その数は正規軍と民兵をあわせても5000人未満でありイギリス軍の半分にも満たなかった。しかし、9月11日、シャンプレーン湖の戦いで、アメリカ艦隊がイギリス艦隊を破った結果、プレボーは南下を断念してカナダに撤退した。
一方、ロス将軍率いる部隊は9月12日から14日にかけてボルティモアを攻撃したが民兵の抵抗にあって攻略を断念した。この時、弁護士フランシス・キーはボルティモアの攻防を目撃して後に国歌となる「星条旗」を書いたという。
12月13日、エドワード・パケナム将軍率いる7500人のイギリス軍がメキシコ湾北岸に上陸し、ニュー・オーリンズに向けて進軍を開始した。翌1815年1月1日、パケナムはニュー・オーリンズの攻撃を開始したが、激しい反撃を受けて後退した。さらに1月8日、パケナムはミシシッピ両岸のアメリカ軍に対して強襲を開始した。西岸の沿岸砲台は制圧されたものの、 アンドリュー・ジャクソンは東岸の陣地を死守してイギリス軍に甚大な損害を与えた。イギリス軍の死傷者が2036名にものぼったのに対して、アメリカ軍の損害は僅かに71名であった。このニュー・オーリンズの戦いは1812年戦争の最後の主要な戦闘であり、アメリカ人に誇りをもたらす戦闘であった。
和平交渉の推移
戦闘が続く一方で和平交渉の試みもなされていた。ロンドンで両国は交渉を行なったが、強制徴用の停止をめぐる見解の相違を埋めることはできなかった。9月、交渉は決裂し、早期休戦の可能性は失われた。
1813年3月11日、マディソン大統領はロシアの和平仲介を受諾した。そして、4月17日、 ジョン・クインジー・アダムズ、ジェームズ・ベイヤード、 アルバート・ギャラティンの3人を使節として指名した。ギャラティンとベイヤードは既に駐露アメリカ公使としてペテルブルグに赴任していたアダムズのもとに向かった。7月21日、両者はペテルブルグに着いた。しかし、7月5日、イギリスはロシアの仲介を拒み、11月4日、直接交渉を要求した。
それを受けてマディソン大統領は、翌1814年1月初旬、ジョン・クインジー・アダムズ、ベイヤード、 ヘンリー・クレイ、ジョナサン・ラッセル、そしてギャラティンからなる講和使節団の派遣を再度決定した。
6月27日、マディソン大統領は使節団に、強制徴用の停止が認められなくても講和条約を締結するように指示している。ナポレオン戦争が終結したために、強制徴用はもはやイギリスにとって必要な措置ではなくなり、実質的に重要な問題ではなくなっていた。そして、8月8日、現ベルギーのガンGand
(ヘントGhent)で和平会談が始まった。会議開始後の10月4日にもマディソン大統領は、戦前の原状回復という条件で講和を取りまとめるように使節団に指示している。イギリスは領土割譲要求を取り下げ、12月24日、ようやく講和条約締結に合意した。同条約により、両国は戦時中に占領した領土を返還することが定められたが、強制徴用の問題は未解決に終わった。
ニュー・オーリンズの戦いはアメリカの勝利に終わったが、実はガン条約締結後であった。なぜなら両軍はまだ講和条約が締結された報せを受け取っていなかったからである。1815年2月4日にニュー・オーリンズの勝報はワシントンに届いていたが、条約の内容がマディソン大統領の手元に届いたのは2月14日のことであった。2月16日、上院は全会一致で条約を承認した。
1815年の米英会議
講和条約が締結されたものの、戦争の原因となった諸問題の多くは未だに解決していなかった。そのためマディソン大統領は、ジョン・クインジー・アダムズ、ギャラティン、クレイにイギリスと交渉を行なうように指示した。その結果、両国がお互いに最恵国待遇を得ることで同意が成立した。
ハートフォード会議
1814年12月15日、連邦党が多数派を占めるマサチューセッツ、ロード・アイランド、コネティカットの3州の代表は、南部と西部諸州の支配からニュー・イングランド諸州を守るために憲法修正を考案する会議を開催した。世に言うハードフォード会議である。1月5日、マディソン政権の政策に反対するハートフォード会議は7条からなる憲法修正を提案した。しかし、ガン条約締結の報せとニュー・オーリンズの勝報が国民の間に広まり始めると、ハートフォード会議は全く支持を得ることができなかった。
バーバリ国家対策
アルジェリアの太守がアメリカの外交官を追放のうえ、アメリカ船舶への攻撃を再開した。貢納金の支払いに不満があったからである。アルジェリアは、アメリカのブリッグ船エドウィン号を拿捕して乗組員を奴隷にした。
その報せを受けたマディソン大統領はアルジェリアに対して議会にアルジェリアに対して宣戦布告するように要請した。1815年3月、議会はアルジェリアに対する戦闘行為を許可した。
5月、マディソン大統領の命令により、スティーブン・ディケーター率いる艦隊がニュー・ヨークを出港して地中海に向かった。ディケーターは、途中で拿捕した2隻のアルジェリア艦船とともにアルジェリアの港に入った。6月30日、アルジェリアの太守は講和条約締結に合意した。同条約により、アルジェリアは、アメリカ人乗組員を解放して1万ドルの賠償金を支払い、貢納金要求の取り下げを約した。
第2合衆国銀行設立と国内開発事業
ワシントン政権期に設立された第1合衆国銀行の特許は1811年3月4日が期限であった。マディソン大統領と財務長官アルバート・ギャラティンは特許更新を望んでいた。しかし、1月24日、下院は更新を否決し、さらに2月20日、上院でも否決された。その結果、第1合衆国銀行は廃止された。
1812年戦争が終結した後、1815年12月5日の第7次一般教書でマディソン大統領は、第2合衆国銀行の設立を要請した。また同教書では、連邦が国内開発事業を行う権限を明記するように憲法修正を提案している。翌年、議会は第2合衆国銀行に特許を与えている。第2合衆国銀行はジャクソン政権期に特許更新を阻まれるまで存続した。
国内開発事業について議会は1817年2月、政府助成法案を可決した。しかし、3月3日、マディソン大統領は憲法に基づいて同法案に拒否権を行使した。連邦が国内開発事業を行うためには憲法修正が必要だと考えていたからである。
ヴァージニア大学の運営を引き継ぐ
1817年3月4日、マディソンは後任者の ジェームズ・モンローの就任式に出席した。退任時の年齢は64才と310日であった。4月6日、マディソン夫妻はモンペリエに向かった。その旅路で蒸気船に乗ったマディソンは、「子供と同じようにはしゃいで、乗船したすべての人々と喋ったりふざけたりして」、その様子はまるで「長期休暇の時の学童」のようだったと同乗者が書きとめている。
1817年、新たに特許状が付与されたセントラル・カレッジの理事の1人として トマス・ジェファソンとともに経営に携わる。さらにヴァージニア大学設立にもジェファソンとともに尽力した。マディソンは法律学の教科書に、独立宣言、『フェデラリスト』、ヴァージニア決議、ワシントンの就任演説と告別の辞を盛り込むようにジェファソンに勧めている。自由がアメリカの政治制度の中でどのように守られているか子弟に教える必要があると考えたからである。1826年にジェファソンが亡くなると、マディソンは同学の学長を引き継ぎ1834年まで務めた。
1818年5月、アルブマール郡農業協会で科学農法に関する演説を行なっている。この演説は後に印刷された。
政治の趨勢を見守る
ミズーリ問題
ミズーリ問題についてマディソンは、第1条第9節第1項の成立の経緯と解釈に基づいて次のように説明している。憲法制定会議において、奴隷貿易に否定的な邦は奴隷貿易の禁止する条項を憲法案に盛り込もうとした。奴隷貿易を続けていた邦は、そうした条項を含む憲法案を邦民に認めさせることは不可能だとして反対した。その結果、1808年まで連邦議会はこの問題に干渉しないという妥協が成立した。そのような経緯で憲法第1条第9節第1項が成立した。つまり、それは、1808年以降、奴隷輸入を禁止することを意味している。しかし、「入国を適当と認める人びとの来往および輸入」という条文は当然ながら、専ら他国から合衆国への来往復および輸入に言及しているのであって、奴隷の国内移動に言及しているわけではない。つまり、たとえ外国からの奴隷輸入を禁止することが認められていても、国内の移動に関して禁止を拡大することはできない。それ故、連邦議会は、ミズーリ州への奴隷制導入に反対することはできない。
寓話「ジョナサン・ブルとメアリ・ブル」
さらにマディソンは1821年、「ジョナサン・ブルとメアリ・ブル」という寓話を書いている。この原稿はその当時は公表されていないが、ミズーリ問題に関するマディソンの見解を知るうえで重要な資料である。
ジョナサン・ブル(北部)とメアリ・ブル(南部)は、祖先を同じくする親戚同士で隣接する地所をそれぞれ所有していた。仲良しだった2人に結婚話が持ち上がる。婚姻によって2つの地所を共同で管理できる利点があるので話はとんとん拍子で進んだ。しかし、彼らの後見人として、これまで地所の中で特権を享受してきた老ブル(イギリス)Old Bullは、彼らの結婚を破談にしようとした。もし彼らが結婚すれば、地所をすべて手中に収める計画が失敗に終わるからである。
老ブルは2人に対して訴訟を起こした。夫婦は賢明であったので騙されなかった。老ブルが法律の機微に通じ、頑固な性格であり富裕であることを彼らはよく知っていた。激しい戦いの後、彼らは老ブルに勝訴し、古い特権から解放された。
結婚後、子供(準州)が次々に生まれた。そのため地所を、成人時(州昇格)に子供が受け取れるように分配した。小作人がその土地を耕した。メアリの地所から小作人を出す場合もあればジョナサンの地所から小作人を出す場合、両方から出す場合もあった。10番目か11番目の子供が成人する時に、財産を管理する条件や資格に関する問題が起きた。ジョナサンは、小作人の耕作権を独占しようと考えたのである。また執事頭(大統領)Head Stewardがメアリの地所に属する小作人から専ら選ばれている点も気に入らなかった。
メアリは子供の頃、アフリカの染料(黒人奴隷)で左手が黒く染まってしまい、少し不自由になっていた。その不幸は、アフリカから染料を積んだ船がメアリの地所まで川伝いに入ることを許され、有害な染料を投棄したことによる。結婚の際にジョナサンはそれを十分に承知していた。しかし、メアリ本人の善性や経済的利点から、それは特に結婚の障害とはならなかった。しかし、ジョナサンが感情の激発にかられてメアリの黒い腕を見ると、その他の利点をすべて忘れてしまった。ジョナサンは妻の不運を嘲笑するようになった。執事頭を自分の地所から選ぶ権利があることをジョナサンはメアリに納得させようとした。さらに黒い腕に関して、もし色を除去できなければ、肉から皮を剥ぎ取るか、腕を切るべきで、もしそうしなければ離婚するつもりだとメアリに伝えた。
メアリは愛する夫から言われたことに驚いたが、驚きがおさまるにつれて、胸中で怒りがふくらんだ。しかし、彼女は寛大な気持ちを持っていたのでそうした怒りを抑えてジョナサンを説得しようと努めた。腕の色については結婚の前に分かっていたはずだとメアリは夫に反論する。アフリカの染料は、私の地所だけではなくあなたの地所にも被害を及ぼした。結婚した時、私の腕と同じく、あなたの体中に小さな黒い染みがあった。私を非難するよりも、もっと困難な私の状況に同情すべきではないか。それにも拘らず、あなたは、まるで不運が私のせいであるかのように私を非難する。私はあなたと同じく、できれば染みを除去したいと思っている。しかし、染みを安全に除去できる実行可能な案が見つからない。優秀な外科医の意見では、もし除去するために腕を切ったり、肌を剥ぎ取ったりすれば、壊疽するか、出血多量で死に至るそうだ。あなたと私は一緒にいることで互いに利益がある。もし離婚してしまえば、その双方の利益はともに失われてしまうだろう。執事頭選出の問題に関しても、私はあなたの言い分に途方に暮れている。確かに私の地所の小作人から執事頭が選ばれることが多い。しかし、状況が違えばそれは逆転する可能性もあるし、もし選出方法を改悪すればどうなるだろうか。そのような方法で選出された執事頭は忠実に職務を果たすとは思えない。そうなってしまえば結局、あなたの不利益になる。
モンロー・ドクトリンに関する助言
1823年、イギリスは、ヨーロッパ諸国による南北アメリカの侵略に対して警告する共同声明を出すようにアメリカに持ち掛けた。モンローはイギリスの誘いに乗るべきか否かを閣議に諮った。それに加えてジェファソンとマディソンに意見を求めた。マディソンはジェファソンと見解を共有しており、「イギリスと協調すれば、他のヨーロッパ諸国を恐れる必要はなく、成功を最も保障するものだろう」とモンローに回答している。
さらにマディソンは、スペインの革命に対するフランスの動きに対してモンローが抗議し、ギリシア独立戦争に介入しないようにヨーロッパ諸国に警告すべきだと考えていた。
唾棄すべき関税について
1828年、サウス・カロライナ州が1828年関税法、いわゆる「唾棄すべき関税」に、1798年のヴァージニア決議とケンタッキー決議に基づいてそれが無効であると訴えた。マディソンは1828年9月18日付の公開書簡で、「連邦議会は左の権限を有する。合衆国の債務の支払い、共同の防衛および一般の福祉のために、租税、関税、間接税、消費税を賦課徴収すること」を規定する憲法第1条第8節第1項と「諸外国との通商、および各州間ならびにインディアン諸部族とのあいだの通商を規制すること」を規定する同条同節第3項に基づいて関税の合憲性を支持し、州が連邦を無効にする権限を否定した。
ヴァージニア州憲法修正会議
1829年、オレンジ郡はヴァージニア州憲法修正会議の代表にマディソンを選出した。マディソンは10月にリッチモンドに到着し、12月2日、会期中ただ1度だけの演説を行った。演説の中でマディソンは、人口に基づく議席配分に関して、合衆国憲法で採用されている方式、つまり、奴隷を白人に対して5分の3と数える方式を採用するように訴えた。それは多くの奴隷を擁する郡の影響力を弱めようとする方策であったが、結局、採用されなかった。ちなみに会議の議長はモンローが務めている。マディソンはモンローとともにヴァージニア州の東部と西部の利害調整を図ろうとしたが成功しなかった。
連邦法無効に反対
1830年、再度、連邦法無効の是非が問題となった。それに対してマディソンは、8月28日付の公開書簡で、合衆国憲法は各州の総意ではなく、国民の総意に基づいているので、連邦法は州の権威に優越するという見解を明らかにしている。さらにこうした見解の根拠としてマディソンは、「この憲法、これに準拠して制定される合衆国の法律、および合衆国の権能をもってすでに締結されまた将来締結されるすべての条約は、国の最高の法である。これによって各州の裁判官は、各州憲法または州法律中に反対の規定ある場合にといえども、拘束される」と規定する憲法第6条第2項と「司法権は次の諸事件に及ぶ―すなわち、この憲法、合衆国の法律および合衆国の権能により締結されまた将来締結されるべき条約にもとづいて発生するすべての普通法ならびに衡平法上の事件」と規定する第3条第2節第1項を挙げている。
1832年夏、 アンドリュー・ジャクソン大統領がモンペリエのマディソンを訪れた。 ジョン・クインジー・アダムズをはじめ名だたる大物政治家を政敵としていたジャクソン大統領にとって、マディソンは影響力を持ちながらも党派色がない貴重な存在であった。
この頃、ジャクソン大統領は1832年関税法をめぐってサウス・カロライナ州と対立していた。11月24日、サウス・カロライナ州は連邦法無効宣言を公表した。それを認めない立場をマディソンは堅持した。マディソンの見解は1832年12月23日、ジャクソン大統領の秘書ニコラス・トリストに書き送った手紙からよく分かる。その手紙の中で、マディソンはサウス・カロライナの分離主義にはっきり反対し、ジェファソンの名が連邦法無効を唱える人々に都合が良いように利用されていると厳しく糾弾している。
またヴァージニア州選出連邦上院議員のウィリアム・リーヴスに宛てた1833年3月12日付の手紙の中では、「少なくとも、ある州が連邦の中に留まる限り、憲法と連邦法の適用から州民を脱退させることはできないという1つの事実は疑問の余地もなく明白である」とサウス・カロライナ州が主張する連邦法無効を否定している。さらにヴァージニア決議についてマディソンは、「遠い時期の表現を現代的な意味で読み取るのはよくあることだが、予期しない誤った解釈に対して無防備なのもよくあることである。先見の明がある片言が、そうした過程における表面上の多くの過ちを予防できるだろう」と述べ、ヴァージニア決議が連邦法無効の理論的根拠とされることをも否定している。こうしたマディソンの見解はトリストとリーヴスの手によってジャクソン政権を擁護する論拠としてしばしば使われた。
困窮した最晩年
最晩年、マディソンは経済的に困窮し、1834年には16人の所有奴隷を売却している。翌1835年4月、遺書を作成しているが、奴隷解放については言及がなかった。その頃、マディソンは「我が国への助言」と題する以下の一文を書いている。
「もしこの助言が日の目を見ることがあれば、真実のみが尊重され、人の幸福のみが案じられる場である墓場から発せられるものとなるかもしない。したがって、この助言は、善意と40年間にわたって様々な立場で祖国に仕えてきた者、祖国の自由の大義と若き日に結び付いて、それを生涯にわたって信奉してきた者、そして、祖国の運命を定めた時代の中で最も様々なことが起きた時期に生まれあわせた者の経験に由来する重みが何であれ、それに耐え得るにふさわしいものだろう。我が心に最も近しく、私の信念に最も深く根ざした助言は、諸州の連帯は尊重すべきであり、永続させるべきだという助言である。その公然たる敵は、禁断の箱を開けてしまったパンドラと見なそう。変装した敵は、悪略とともに楽園に忍び込んだ蛇と見なそう」
1836年6月28日朝、モンペリエで亡くなり、翌日、墓所に葬られる。マディソンは建国の父の最後の生き残りであった。最後の言葉は「ちょっと気分が変わっただけだよ、お前[姪のこと]。前からずっと、横になって話すほうが気分が良い」という言葉あった。
約1万5000ドルをアメリカ植民協会、ヴァージニア大学、プリンストン大学に遺贈したが、家族にはほとんど現金を遺さなかったために、マディソンの死後、夫人は困窮した。
同時代人による評価
マディソンは「憲法の父」という称号で呼ばれることが多い。しかし、憲法制定会議の詳細は長い間ほとんど明らかにされなかったので、そうした評価が定まったのは比較的晩年である。マディソンを初めて「憲法の父」と呼んだのはチャールズ・インガソルである。それは1827年10月26日に行われたペンシルヴェニアの製造業者の晩餐会においてであった。マディソン自身はそうした称号を受け入れるつもりはなかった。それは別の人物に宛てた次のような返信から分かる。
「あなたは『合衆国憲法の著者』と呼んで私を称賛しましたが、それは私が主張できるものではありません。寓話の知恵の女神のように、これはたった1つの頭脳の産物ではありません。それは多くの頭脳と手による作品だと見なすべきです」
確かにマディソンを「合衆国憲法の著者」と称するには無理があるが、憲法制定会議、もしくはその準備段階において最大の貢献者の1人であることは間違いない。それ故、「憲法の父」という評価が後世にも受け継がれたのである。
長年の友であるジェファソンは「正直言って私は、純粋な高潔さ、冷静さ、公平無私、そして、純粋な共和主義への献身を行う人物を[マディソンの]他に知らないし、アメリカとヨーロッパをあわせても彼よりも有能な頭脳を知らない」と評している。
一方で アルバート・ギャラティンはマディソン政権を次のように評価している。
「あなたの政権の終わりにおける状態以上に合衆国が繁栄した状態で残されることはないでしょう。そして、合衆国は国内ではまとまり、海外では独立戦争時よりも尊敬を受けるでしょう」
肯定的評価
ヘンリー・クレイはマディソンと トマス・ジェファソンを比較して次のように述べている。ジェファソンには天才的な面があるが、それに対してマディソンは冷静な判断力と常識がある。そして、「 ワシントンに次いでわが国の最も偉大な政治家であり、最高の政治的著作家」である。とはいえマディソンとジェファソンは、「両方とも偉大にして善良であり、異なっているけれども匹敵する」人物である。さらに「ワシントンを除いて祖国にどのような人物よりも重要な貢献をした」と述べている。
またダニエル・ウェブスターは、「彼は他のどのような人物よりも憲法を制定するうえで大きな貢献をし、他のどのような人物よりも憲法を十分に執行した」と評価している。
さらにあるイギリスの外交官は「高い誇りの感情と誠実さに持つことにおいて彼よりも評判が高い者はいないだろう。一方で彼はすべての点で礼儀を弁えた紳士であり、公的な徳も持っている」と述べている。
歴史家ゴードン・ウッドは「革命期と憲法制定期だけではなく全アメリカ史を通じて最も深く独創的な政治理論家である」と評している。
否定的評価
ゼファナイア・スウィフト議員は以下のようにマディソンを評している。
「彼には情熱、熱意、活気はないが、用心深さと勤勉さにかけては計り知れない。表向きは最大限、公平無私を装いながら、あらゆることを極めて精密、正確に計算している。下院で誰よりも個人的影響力を持っていることは疑いない。名声は控え目に利用しつつ、才能は最大限に活用する術を、彼ほどよくわかっている人間をほかに知らない。そして、あれほど外面を作り、わざとらしい人間もこの世にいない(井上廣美訳)」
ティモシー・ピカリングは「私の意見では『徳があり親しみやすいマディソン』は、政治的道徳という点では欠けている」と述べている。またジョン・カルフーンは「わが大統領は親しみやすく偉大な才能を持っているが、彼の周りのことを処理するうえで才能をうまく使えていないのではないかと思う。彼は閣内で分裂を許している」と記している。さらに ベンジャミン・ストッダートは次のように言っている。
「マディソンはジェファソンの傀儡に過ぎず、祖国を破滅させることしかできないと確かに思う。彼の政権でさらに4年、連邦が生き長らえるとは思えない。もし生き長らえても、北西部諸州の最善の血を犠牲にしたうえでのことで、ニュー・イングランド人自身が血を流さなければならないだろう」
後世の大統領による言及
マディソンが亡くなった当時、連邦下院議員を務めていた ジョン・クインジー・アダムズは、1836年9月27日、群集の前で2時間半にわたる弔辞を読み上げた。その中でアダムズは以下のようにマディソンを称賛している。
「地上における彼の時間は短かったが、生まれた日から100年に満たない歳月が過ぎ、多くの年月と栄光の裡に亡くなりました。いまだに彼は立派に人間として、そしてキリスト教徒としての運命を満たし続けています。祖国と人類の状態を改善することによって、彼は自分自身の状況を改善したのです」
アダムズは生い立ちからマディソンの人生のすべてを辿った。憲法制定会議についてアダムズは、「マディソン氏によって、新しい連邦の政治制度のためにヴァージニア邦議会で最初に行われた提案が完全にうまく行った」とマディソンの功績を評価している。さらにアダムズはヴァージニア憲法批准会議におけるマディソンの活躍を「抗い難い力を持つ彼の雄弁と彼の偉大な精神の枯れることのない源」が会議を成功に導いたと述べている。そして、最後は「『時の終わりまで』そうした[平和と調和と連帯の言葉を語る]声をあなた方の子どもの子どもにまで伝え、ジェームズ・マディソンの生涯に耳を傾け、その記憶に目を注ごうではありませんか」という言葉で結ばれている。
総評
マディソンの政治哲学の骨子は、人民の権利と自由を守るための二重の制度を提案した点にある。つまり、中央政府に三権分立を採用する一方で、国家全体は州と連邦で均衡を保つという制度である。また、その当時、小規模な共和国こそ理想であるという考え方が一般的であり、アメリカのように広大な領域に跨る共和国を建設するという試みは、帝政以前のローマを別にすれば人類で最初の試みであった。その過程におけるマディソンの理論的貢献は、権力を適切に分散させて均衡させることで権力の濫用と腐敗を防止するという枠組みを示し、大規模な共和国においても自由が保障される根拠を示したことにある。
従来、マディソンは、ヴァージニア決議の起草という業績により、州権論の文脈から語られることが多い。しかし、州の権限と連邦の権限の均衡を重視した平衡の守護者という評価が妥当であろう。
その証拠として、実現しなかったとはいえ、マディソンが権利章典で州が人民の基本的人権を侵害しようとした場合に連邦が州を抑止する条項を盛り込もうとした点を忘れてはならない。合衆国憲法とヴァージニア決議に加えて、マディソンの政治哲学の一角を成すものとしてこの条項を評価するべきである。
また「憲法の父」という名前に隠されて、国務長官として、または大統領としてマディソンが果たした役割について十分に評価されないことが多い。そうした面も含めてマディソンを評価しなければならない。
さらに1812年戦争の評価についても1つ注意すべき点がある。後の南北戦争の際に エイブラハム・リンカーン大統領は非常大権の名の下に大統領権限を大幅に拡大して戦争を遂行したが、19世紀初頭の大統領制の枠内で同様に大統領権限を拡大して戦争を遂行することは不可能であった。なぜならアメリカにとって1812年戦争は独立戦争以降初めて経験する本格的な戦争であり、大統領が戦時大統領として軍を統制する先例がなかった。また当時はジェファソンが述べたような「労働者の口から稼いだパンを奪い取らない政府」という共和主義の理念が未だに色濃く残っており、たとえ戦時を理由にしても行政権限の著しい拡大は難しかった。現代と比べて弱体で未発達な大統領制の下で危機に直面せざるを得なかった点を考慮すると、ワシントン焼失の責任をマディソンのみに帰することはできない。
クェーカー教徒の伝統
生い立ち
妻ドロシア (1768.5.20-1849.7.12)は、ノース・カロライナ植民地のクェーカー教徒の入植地ニュー・ガーデン(現ギルフォード郡)で農園主のジョン・ペインとメアリの娘として生まれた。11人の子供の中で3番目であった。一般的に愛称のドリーで呼ばれる。ヴァージニア植民地ゴッホランド郡にある父の農園で幼少期の大半を過ごした。
母メアリはイギリスから渡ってきたクェーカーの移民の子孫である。そのため父ジョンはメアリと結婚する際にクェーカーに改宗した。その後、ジョンは敬虔なクェーカー教徒になり、奴隷をすべて解放し農園を売却した。クェーカーの教えは奴隷制に反対していたからである。1783年、ペイン一家はフィラデルフィアに移った。フィラデルフィアのクェーカー教徒の伝統に従って、父ジョンは糊の製造業を始めた。しかし、事業はうまくいかず借金の支払いも滞った。借金の支払いはクェーカー教徒として罪になることであったので、ジョンは信団を追い出される形になった。
ドリーはクェーカー教徒として厳格な教えの下で育てられた。しかし、クェーカー教徒ではない祖母のもとを度々訪れたドリーは、祖母から様々なことを学んだ。祖母から譲り受けた金のブローチをドリーはクェーカー教徒の淡褐色のドレスの下に隠して身に付けていたという。さらに祖母は、ダンスの相手を求めに親類のパトリック・ヘンリーがやって来た時に、ドリーにダンスの手解きをしている。
ドリーの教育は、クェーカー教徒の会合で行われた。クェーカー教徒の子弟は会合で読み書きや道徳を学ぶことができた。当時の普通の学校は一般的に男女別々であったが、クェーカー教徒の下では男女ともに教育が行われた。ダンスや娯楽はほとんどなかったが、性別を問わず様々な年齢層が集まる会合でドリーは多くの人々の中で振舞う術を身につけた。
母メアリは家計の足しにするために下宿屋を始めている。その当時、フィラデルフィアに置かれていた連邦議会に出席するために全国から議員が集まったので下宿人募集には事欠かなかった。下宿人の1人として当時、連邦上院議員であった アーロン・バーがいる。そのためバーとドリーが恋仲にあるという噂もあった。しかし、この時の縁でドリーはバーと友人になっていることは確かである。後年、マディソンと面会する媒介人になったのがバーであった。しかも、バーが反逆罪に問われた時にドリーは仲裁をしようと試みただけではなく、バーがフランスから帰国できるように気を配っている。さらにバーの娘がワシントンの社交界で父の汚名を着ることなく成功するように庇護している。
初婚
1790年1月7日、ドリーはクェーカー教徒の弁護士ジョン・トッドとフィラデルフィアで結婚した。ドリー自身は結婚にあまり乗り気ではなかったが、夫ジョン・トッドによる支援でペイン一家は何とか貧窮から免れた。トッド家はフィラデルフィアのクェーカー教徒の中でも一目置かれた家系であった。そのためドリーは父の凋落にも拘らず、信団の有力な一員として認められた。2人の間には長男ジョンと次男ウィリアムが生まれた。
1793年、黄熱病がフィラデルフィアを襲った。ジョン・トッドは妻と2人の息子を退避させたが自身は両親の看病と仕事のためにその場に留まった。そのため黄熱病に罹患して命を落とした。ドリーと次男ウィリアムも病に倒れた。ドリーは回復したが、次男も父と同じく亡くなった。1793年の夏に黄熱病で亡くなった人は4000人以上にのぼった。
出会いと再婚
出会い
黄熱病が下火になった後、ドリーと母メアリはフィラデルフィアに戻った。フィラデルフィアで議会が再開される気配がなかったのでメアリの下宿屋は開店休業状態であった。そのため母メアリは娘夫婦を頼ってヴァージニアに行った。ドリーは妹ルーシーとともに他の妹達の面倒を見た。亡夫の遺産のお蔭で面倒を見る経済的余裕は十分にあった。
夫ジョンの死後、フィラデルフィアに留まっていたドリーをマディソンは見初めた。1794年5月、ドリーは友人のアーロン・バーからメモを受け取った。そのメモを見たドリーは友人に「アーロン・バーが言うには、偉大な小さなマディソンが今夜、私に遭いたいとお求めだそうです」と書き送っている。その頃、マディソンはドリーよりも17才年長で既に合衆国憲法の父として名を成していた。また女性に対して積極的ではないと周りからは思われていた。そのためドリーはマディソンが女性として自分に興味を抱いたとは最初は思わなかったようである。
またクェーカーの教えの下で育ったドリーは政治に全く関心はなかった。しかも前夫とは違ってマディソンはクェーカー教徒ではなかった。こうした事情はあったが、8月までに2人は婚約を交わした。
そうした話を聞いたワシントン夫人はドリーを大統領官邸に招いた。そして、「ドリー、ジェームズ・マディソンと婚約したというのは本当ですか」と聞いた。ドリーは「私はそうは思いません」と答えた。この否定的な答えにも拘らず、ワシントン夫人は、「あなた、ジェームズ・マディソンが良き夫になるとはっきりと躊躇わずに言えます。大統領と私はあなたの選択を大変喜ばしく思います」と言った。こうした後押しもあって2人の結婚話は順調に進んだ。
再婚
1794年9月15日、ドリーとマディソンはヴァージニア州ジェファソン郡にある妹の農園で挙式した。新婦は26才、新郎は43才であった。式はクェーカー式ではなく監督派教会の聖職者によって執り行われた。その結果、挙式から3ヵ月後、ドリーは信団から追放された。これまでクェーカー教徒にふさわしいドレスを着用していたドリーであったが、流行の装いも取り入れるようになった。結婚後、1797年にモンペリエに移るまでフィラデルフィアに住んだ。
大統領の女性版
ジェファソン政権時代
1801年にジェファソンが大統領に就任するとマディソンは国務長官に任命された。マディソン一家はワシントンに移ることになった。しかし、住居がまだ決まっていなかったので、大統領官邸に間借りした。その当時、ジェファソンは独身で子供も独立し、召使の他はともに住む家族はいなかった。そのためマディソン一家が間借りする余裕は十分にあった。暫く後に一家は別の家に移った。
ホワイト・ハウスでは女主人を務めるのにふさわしい女性がいなかった。ジェファソンの娘達も一時期、ホワイト・ハウスに滞在しているが常在していたわけではない。足疾で4ヶ月間療養した時期もあったが、その代わりにドリーがホワイト・ハウスの女主人を務めた。またジェファソンや政府の要人の代わりに、その妻や娘達に贈る品々を選んだ。ドリー自身もパリから最新のファッション用品を次々に購入した。後にパリに赴いた友人に買い物を頼んだ際に、関税だけでも2000ドル以上に達したという。
当時は現代のようにファッション雑誌もなかったので、ドリーの装いがフィラデルフィア社交界の流行を作った。多くの女性は朝食で「昨夜、ドリーは何を着ていたのか」を話題にしていたと言っても過言ではない。ドリーが一番好んだ色は黄色で、公式の接待の時は白色のドレスを着用していた。特に羽飾りや花飾りを付けたターバンと短い丈のガウンはドリーを特徴付けるものとしてよく知られていた。それによって多くの人の中でもドリーの姿を見分けることが容易だったからである。
また読書をあまり好まなかったのに拘らず、時に本を携帯していた。話の種にするためである。ドリーの会話術は卓越したものであったが、政治的な問題については疎かったために、できるだけそうした話題を避けるようにしていた。そして、どうしても話題に詰まった時の助けとしてドリーは嗅ぎタバコ入れをいつも携帯していた。嗅ぎタバコを招待客に勧めたのである。またワシントンの社交界で重要だったのはダンスであった。クェーカー教徒として育ったドリーはダンスをほとんど身に付けていなかったので、人前でダンスすることはなかった。しかし、舞踏会の企画に手腕を発揮した。
公式招待会の再開
就任式でのドリーの装いは注目の的であった。当時の新聞はその様子を「長いトレーンを付けた無地のキャンブリック生地のドレスを着て、首回りはスカーフがなく丸首で、大きな羽飾りが付いた紫のヴェルヴェットと白いサテンの美しいボンネットの彼女はとても美しく見えた」と伝えている。その夜に開催された舞踏会はドリーの発案でロングズ・ホテルで開催された。それは名実ともにドリーがファースト・レディになった瞬間であった。
ワシントン夫人が金曜日の夜に開いていた「公式招待会drawing rooms」が再開されることになった。ドリーの場合は、毎週水曜日に開かれた。ワシントン政権時代の公式招待会は宮廷儀礼をモデルにした堅苦しいものであったが、ドリーはすべての招待客と言葉を交わそうと務めた。それだけではなく一度、紹介を受ければ招待客の顔と名前を忘れなかったという。ヘンリー・クレイが「皆がマディソン夫人を愛している」と言った時に、ドリーは「それはマディソン夫人が皆を愛しているからです」と答えたという。夫マディソンはドリーの傍らに座っていたが、古くからの友人に対面する時以外は口を挟むことが少なく、そうした社交の場で主役を務めたのはドリーであった。こうした活躍からドリーはしばしば「女性版大統領Presidentess」と呼ばれる。
またドリーはホワイト・ハウスの装いを新たにした。議会は、不承不承ではあったが、その費用として6000ドルの支出を認めた。建築家ベンジャミン・ラトローブはドリーの意向を尊重しながら、ホワイト・ハウスに改築を施した。応接間は黄色の掛け布で装飾され、その他の公用の部屋も広く豪華に見えるように鏡が取り付けられた。
他にもドリーは楽器や銀食器、陶器などを発注した。
ホワイト・ハウス焼失
「すべての街が敵からの訪問を受けることが予期されます」と友人に書き送っているように、ドリーはイギリス軍によってワシントンが攻撃されるかもしれないと早くから思っていた。ドリーの恐れは不幸にも的中した。1814年8月、メイン州のベネディクトに上陸したイギリス軍がワシントンに向けて進軍を開始したのである。22日、マディソンはアメリカ軍の配備状況を視察するためにドリーを残してホワイト・ハウスから離れた。
翌日24日、ドリーは夫の帰還を待ってホワイト・ハウスに留まっていた。ブレーデンズバーグから砲声が響いてくる中、ドリーは夫が夕食に帰るという約束に従って食事の準備していた。そこへ急使が到着し、すぐに街を離れるようにと告げた。ホワイト・ハウスにある什器類と持ち運べる品をとりあえず詰め込んだ。さらにドリーはギルバート・スチュアートの手によるワシントンの肖像画を守るために持ち出すことにした。額が壁に打ち付けられていたために、ドリーは咄嗟の機転で画布だけを切り取った。この肖像画は現在、ホワイト・ハウスのイースト・ルームに飾られている。ジョン・アダムズが初めてホワイト・ハウスに入居した頃から今に伝わる数少ない品の中でも代表的な一品である。
マディソンはドリーが去った直後にホワイト・ハウスに到着し、ドリーの姿がないことを確認すると自身も兵火から逃れた。そして、25日の夕刻、ようやく夫婦は再会した。翌朝、夫妻は安全のために別々に分かれて行動した。さらにドリーは念のために普通の農婦に見えるように変装した。ドリーが用心に用心を重ねたのは、イギリス軍の指揮官が大統領夫人を捕らえてイギリスに連れ帰り、戦勝パレードで披露するつもりだと公言していたからである。
ホワイト・ハウスは焼け落ちていたので、オクタゴン・ハウスが臨時の大統領官邸になった。ホワイト・ハウスの再建はそれから3年を要した。1812年戦争が終結した後、マディソン一家はオクタゴン・ハウスからさらに小さな家に移った。通行人が窓を覗き込めるようなごく普通の町家である。ドリーはペットのオウムに餌をやりながら、窓の外から見ている子供達に何か言葉を発するようによく促していたという。こうして通りすがりの子供達を喜ばせるだけではなく、戦争孤児の救済も行っている。
小さな家に移ったとはいえ、ドリーは接待を止めたわけではなかった。ドリーがその家で開いたパーティーは「絞りsqueezes」と呼ばれた。招待客にはニュー・オーリンズで勝利を収め一躍英雄となったジャクソンも含まれている。ジャクソンを招待した際は、地階の窓に灯火を持った召使を配置したという。窓の外の側道に集まった人々にも中が見えるようにするためである。
ファースト・レディとしてのドリーの役割は1817年3月4日で終わった。その日、モンローがマディソンの後を受け継いで大統領に就任したのである。
政権終了後
モンペリエの女主人
マディソン夫妻はワシントンからモンペリエに移った。ヴァージニアの農園がどこもそうであるように、モンペリエにも訪問客が絶えなかった。それでもドリーはモンペリエでの生活を十分に楽しんだ。この頃の様子を古くからの友人は「彼女はこれまで人類で最も幸福な1人でしたが、今でもそうです。[中略]。時は彼女にとって幸運と同じく望ましい影響を与えています。彼女は若く見え、彼女もそう感じると言っています」と述べている。
ドリーは、晩年、自ら文書の整理を始めたマディソンの手助けをしている。視力が衰え、リュウマチに苦しむ夫のために覚書を代筆することもあった。そうして整理した文書の多くはドリー自身が、ワシントン炎上から救い出したものであった。
太后
マディソンは亡くなる数ヶ月前はほとんど寝たきりであった。ドリーは夫を献身的に看護した。その様子をある訪問者は次のように述べている。
「彼女は20年前とほとんど変わらないように見えた。ターバンとクラヴァットを付けて同じように装い、朝は早く起きてとても活動的です。しかし、家から滅多に離れず、マディソン氏に対する献身は絶え間のないものであり、彼は彼女の世話を絶えず必要としていました」
マディソンが亡くなって暫く後、ドリーはワシントンに戻り余生を過ごした。ワシントンの社交界でドリーは重きをなした。タイラー大統領の息子の妻プリシラ・クーパーがホワイト・ハウスの女主人を務めることになった際に、ドリーは助言役となり、厚遇された。新しく就任した大統領が「太后Queen
Mother」ドリーのもとを訪れて祝福を受けることが恒例となった。
ある時、下院の観覧席にドリーの姿を見たある1人の議員が、「好きな時にいつでも使えるように」椅子を確保する決議を提出した。決議は即座に全会一致で可決された。ドリーが多くの人々に慕われていたことが分かる。またモールス信号ができた時に、ドリーは発明者サミュエル・モールスの次にメッセージを送る栄誉を与えられている。
しかし、経済的には困窮していたドリーは連邦議会にマディソン関連文書を売却している。またマディソンが残したモンペリエも売却している。こうした経済的困窮は主に息子のジョンによるものである。モンペリエの管理はジョンに任されていたが、ジョンがモンペリエの管理を怠っていたうえに、別の場所で新たに養蚕業に着手していたからである。
1849年7月12日、ドリーはワシントンで亡くなり、同地に葬られた。葬儀には ザカリー・テイラー大統領と閣僚をはじめ、両院の議員達、外交官、最高裁判事、陸海軍の代表、その他、数千人の市民が参集した。亡くなった当時、公式の肩書きを持っていなかったのにも拘らず、これだけ多くの人々が参集したことは異例のことである。1858年、ドリーの遺骸はモンペリエの墓所に改葬され、今でも夫の傍らで眠りについている。
記念銀貨
1999年、没後150年を記念して財務省から記念銀貨が発行された。ファースト・レディのためにそうした記念銀貨が発行されたのは前例にないことであった。また、ドリーは初めて写真に納まったファースト・レディである。
継子
ジョン・ペイン・トッド
マディソンには実子はなく、継子として夫人が前夫との間にもうけたジョン・トッド(1792.2.29-1852)がいるのみである。1793年に夫人はもう1人の子供を前夫との間にもうけているが夭折している。
ジョンの学業成績は標準以下であったために、継父の母校であるプリンストン・カレッジ(カレッジ・オブ・ニュー・ジャージー)進学は断念せざるを得なかった。ホワイト・ハウスでもこれといった仕事をするわけでもなく、養父の個人秘書が病になった際に一時的にその職務を代行した程度である。1813年、ロシア皇帝の仲介でイギリスとの講和交渉にあたる使節団派遣が決定された際に、マディソンはジョンに随行員として同行するように命じた。ジョンに立身する機会を与えようと考えたためである。出発に際してマディソンはジョンに800ドルの銀行為替を用立て、さらに使節のギャラティンに、もしジョンがさらにお金を必要とするのであればマディソンの個人口座から引き出すように委託している。
異国の地で多くのことを学ばせるというマディソンの配慮は仇となった。ジョンは外交にはほとんど興味を示さず、サンクト・ペテルスブルグの舞踏場に夢中になり「アメリカの王子American
Prince」という渾名まで付けられる始末であった。皇帝の娘と踊ったことさえある。
さらに使節団とともにパリに移ってからも、ジョンはダンスや飲酒、賭け事に溺れ借金を重ねた。マディソンは1813年から1836年の間に、少なくとも4万ドルを継子の借金返済にあてている。それも息子の不行跡で妻を悲しませないように秘かに支払いを済ませることが多かった。それにも拘らずジョンは1829年と1830年の少なくとも2度にわたって債務者監房に収監されている。継父の死後、ジョンはモンペリエの経営に携わったが失敗した。また養蚕にも手を出したがうまくいかなかった。そして1852年に未婚で亡くなった。
ペット
マディソンはペットとしてオウムを飼っていて「憲法」という言葉を覚えさせようとしたという。マディソンはあまり身体が強くなかったので激しい運動は避けていた。しかし、散歩や乗馬は医師の勧めもあって楽しんでいた。釣りや水泳やホイスト、チェスなどもあまりしなかったし、ギャンブルは避け、飲酒もほとんどしなかった。
抜粋ノート
マディソンは、勉学の一環として様々な書籍からの抜粋からなる「抜粋ノートCommonplace Book」をまとめていた。こうした抜書きを作ること自体は、 トマス・ジェファソンも同じようなノートを残しているように、当時の学習方法としてはごく当たり前の方法であった。残念ながら抜粋ノートは大半が失われており、現存するのは24頁のみである。
書かれた時期は少年期からカレッジ・オブ・ニュー・ジャージー在学時と考えられる。5冊の著作からの抜書きが記されている。その5冊とは、ド・レッス枢機卿の『ド・レッス枢機卿の回顧録Mémoires
du Cardinal de Retz』、モンテーニュの『エセーLes Essais』、ジャン=バプティスト・デュボの『詩作と絵画に関する批評的考察Réflexions
Critiques sur la Poésie et sur la Peinture』、『スペクテイター誌The Spectator』の551号、そして、『アメリカン・マガジン誌The
American Magazine』である。
最も多くの部分が残っているのは『ド・レッス枢機卿の回顧録』である。この著作は、ルイ14世親政以前のフロンド派時代(1648-1652)を描写している。権力闘争の中で枢機卿がどのような役割を果たしたか。また枢機卿が人間や社会の本質をどのようにとらえていたか。そうした点にマディソンは注目し、以下のような抜粋をしている。
「優柔不断な精神は、まさに行動という時に最も揺れ動く」
「私は生涯の中で人を、何してきたかということよりも、何をするのを差し控えてきたかということで評価してきた」
「何かを暗示する才能は、説得することよりも有用である。前者はしばしば成功するが、後者はほとんど成功しない」
さらに枢機卿は、人民の暴動に対して臆病な助言者が何もするべきではないと言う一方で、過激な助言者が厳しく弾圧せよと言う場合、どちらも実は火に油を注ぐようなものだと述べている。こうした見解に対してマディソンは以下のように記している。
「無分別と過度の臆病は、危険が分からない場合、同じ効果をもたらす。というのは両方とも危険が現実的ではないと納得しようとしているだけだ」
モンテーニュの『エセー』については以下のように記している。
「評判に関して敏感過ぎたり、中傷に対して過度に腹を立てたりする人々は、何らかの内的欠陥を自覚している」
他にもマディソンはラテン語による引用句や古代の歴史からの教訓を随所に書き加えている。
デュボの『詩作と絵画に関する批評的考察』に寄せてマディソンは各国の国民性について述べている。フランス人は見た目よりも賢明である一方、スペイン人は実際よりも賢明に見える。イギリス人は真意が分かりにくい一方、イタリア人はちょっとしたことでも心を動かす。イギリス人は発明の才能をほとんど持たないが、他者の発明を活かす才能を持っている。
科学的関心
ジェファソンがヨーロッパに滞在している間、マディソンは北アメリカとヨーロッパの動物の関係を解明しようとしている。特に、北アメリカに見られる動物は、その気候のために、ヨーロッパで見られる同種の動物よりも小型であるというビュフォンの理論に反駁しようと試みた。
マディソンは、モンペリエで見つけた33匹の雌のイタチを計測した結果とヨーロッパの同種の動物を測定結果を比較した表をジェファソンに送っている。測定は「重さ」、「鼻面から尻尾の先までの長さ」、「首の長さ」、「首の周り」、「歯の数」など17項目にも及ぶ。アメリカのイタチのほうがヨーロッパのイタチよりも大きいことをマディソンは示し、ビュフォンの理論が間違いであると主張している。その他にもマディソンは、モグラの測定結果屋や様々な四肢動物の皮、そして20種類ほどの樹木の苗や種を送っている。こうした活動が実を結んで、1785年1月22日、マディソンはアメリカ哲学協会の一員に選ばれている。
機転
1812年戦争の最中、修復されたフリゲート艦アダムズ号の進水式が行われた。困ったことにアダムズ号の進水はなかなかうまくいかなかった。その様子を見ていた1人の連邦党の下院議員は、マディソンに向かって「この船のように国家という船も滑らかに航路に就けないのは何とも残念なことです」と皮肉を言った。そう言われたマディソンは、「もしある乗組員[連邦党]がその義務を同じく果すのであれば[国家の運営が]うまくいくでしょう」と答えたという。
死馬を売る
マディソンはモンペリエからモンティチェロへ帰る トマス・ジェファソンに馬を貸したことがあった。ジェファソンは帰宅後、その馬を買い取りたいとマディソンに手紙を送った。しかし、2人で旅をした時に、どちらがより多く勘定を払うか揉み合いに何度もなった経験があるので、他の誰かに馬の適正価格を決めてもらうことになった。
しかし、支払いが済む前に馬は死んでしまった。取引は誠実なものであったのでマディソンには過失がなく、自分が馬の代金を支払うべきだとジェファソンは言った。しかし、マディソンは代金の受け取りを拒んだ。マディソンが言うには、自分はそのような無価値の動物を売り付けるような悪徳商人ではない。またその馬は自分の所にいる時から既に弱っていた。それ故、代金は受け取れない。それにも拘らずジェファソンは代金を、しかも多く送ってきたので、マディソンは多く送られてきた分だけを返し、残りは素直に受け取った。
盗まれた自分の帽子を買う
晩年、マディソンは次のようなエピソードを自ら語っている。盗まれた自分の帽子を買ったという話である。
「私はウィリアムズバーグの[ジェームズ・]マディソン師のもとにいたが、窓の外に置いた帽子が盗まれた。知事官邸から1マイル[約1.6キロメートル]ほど離れた家だったが、その帽子を見つけることができなくて2日間、知事官邸に行くことを避けた。しかし、遂に私は粗悪な嗅ぎタバコを売っているフランス人から頭部がとても小さく広いつばの帽子を入手した。それは友人達の笑いの種になった」
また1779年10月にはいなくなった12歳の栗毛の馬を探す広告を出している。その馬は迷っているか、それとも盗まれたかしたとマディソンは述べている。帽子の件も馬の件も盗まれたのではなく、単にマディソンが置き忘れた可能性がある。
マディソンの暗号
マディソンは手紙の内容を秘密にしておきたい時に様々な暗号を使って手紙を書いている。初期の暗号では鍵となる用語キーワードを使った複合アルファベット方式を使っている。それは予め決めておいたパターンにキーワードとともに数字とアルファベットを当てはめる方式であった。それは大陸会議のマサチューセッツ代表ジェームズ・ラヴェルが考案した方式であった。
その後、独立戦争が終わり、手紙が敵の手に落ちる危険性がなくなってもマディソンは暗号を使っている。モンロー宛ての手紙では600のキーワードを使って解読する暗号が用いられている。さらに解読用のキーワードの数は1,500語まで増やされた。さらに1,700語のキーワードを使った「ジェファソンの3番目の暗号」も使用している。
ネイティヴ・アメリカン観
地理学者ジェディダイア・モースは、ネイティヴ・アメリカンを文明化するための全国的な協会を作ろうと、大統領経験者をはじめ連邦政府や州政府の公職者、インディアン管理官、軍部の士官、教職者、そして、聖職者などに参加を呼びかけた。
ネイティヴ・アメリカンの文明化は政府が追求するべき目標であり、またそうした巨大な組織を作ることは政府を脅かす原因になりかねないとしてジェファソンは参加を拒み、マディソンにも同調するように求めた。しかし、マディソンは既に参加に同意していた。
「ウィグワム[ネイティヴ・アメリカンの小屋]の無気力な怠惰と文明化した生活の慣習と快適さを追求する物資の供給の不安定さを解消できない限り」ネイティヴ・アメリカンの状態を改善することは不可能であるとマディソンは述べている。また「この素朴な人種の見解、政治、社会状況など」を調べる必要があるとも勧めている。マディソンにとってネイティヴ・アメリカン問題は奴隷制と並んで「わが国の政策を最も困惑させる」問題であった。
奴隷制観
マディソン自身、農園主として奴隷を所有していたが、独立戦争が唱える自由の原理に奴隷制がそぐわないことは理解していた。兵士達の報奨として奴隷を与えるという案に対してマディソンは自らの考えを1780年11月28日付の手紙の中で以下のように明らかにしている。
「黒人自身を解放して即座に兵士にすることと、彼らを白人兵士を召集する手段とすることは同じでしょうか。黒人自身を解放して兵士にするほうが、自由をめぐる戦いの中で決して見失ってはならない自由の原理に確かに調和しています」
また1783年にフィラデルフィアからヴァージニアに戻る際に、マディソンはフィラデルフィアに連れて来た自分の奴隷が「ヴァージニアの同僚の奴隷とうまくやっていくには完全に[自由な気風に]染められている」ことに気が付いた。そこでその奴隷はフィラデルフィアで売却されることになった。当時、ヴァージニアの農園主が「生意気になった」奴隷を西インド諸島に売り飛ばすことは珍しいことではなかったが、マディソンは、いつか自由を与えられると考えてフィラデルフィアで奴隷を売却することにしたのである。
マディソンの考えは1783年9月8日付の父に宛てた手紙の中で如実に示されている。その手紙によると、奴隷が「我々が多くの血の代価を払い、度々、正しいと宣言され、すべての人間が追い求める価値があるとした自由を単に待望しただけ」で罰するべきなのかとマディソンは問うている。またマディソンは自分の農園で所有する奴隷を「必要な服従と仕事に矛盾しなければ、できる限り人道的、かつ親切に黒人を扱う」ように監督者に指示している。
マディソンの収入はその大半をモンペリエに依存していたが、それはすなわち奴隷労働に依存することであった。そのため農園以外からの収入源を確保する必要があった。土地投機が1つの手段であったが、そうしたマディソンの試みは必ずしもうまくいかなかった。
1785年にマディソンは、ジェファソンが提案した段階的な奴隷制廃止法案に賛意を示した。その法案は否決されたが、個人による奴隷解放を違法とする法案の成立を妨げることには成功した。
憲法制定会議上でマディソンは憲法で人間が人間を所有することを認めることは間違いだと指摘している。マディソンは、「我々は、最も啓蒙化された時代において、単なる[肌の]色の違いが、かつて人間が人間に対して行った支配の中でも最も抑圧的な支配の根拠とされるのを見てきました」と述べ、さらに「奴隷制が存在するような三流の場所では、共和制の理論はより誤りが多いものとなるでしょう」と断じていた。
連邦下院議員としてマディソンは奴隷制廃止を求める多くの請願を奴隷制廃止論者から受け取っている。それに対してマディソンは奴隷解放の条件として社会に黒人を統合する必要があるが、黒人に対する白人の根強い偏見があるので不可能であるとしている。そして、解放した奴隷をアフリカ海岸に入植させる措置が最も妥当な措置であると主張している。こうした考えはジェファソンも構想していた考えであった。
1791年にマディソンはニューヨーク州中東部にあるジョージ湖を訪れた時に250エーカー(約100ヘクタール)の農園を持つ「自由黒人」にあったと書き記している。その農園は、その黒人によって「白人の雇用人とともに耕され、彼の勤勉さと良い管理によって立派なものとなっていた」と驚きをマディソンは示している。マディソンによれば、その自由黒人は「知的で読み書きができ、勘定を理解することができ、いろいろなことを器用にこなした」という。
こうした見解に加えて、地理学者ジェディダイア・モースの照会に回答した1823年3月28日付のマディソンの手紙は当時の奴隷制の実情を知るうえで非常に参考になる。モースは、イギリスから寄せられたという奴隷制に関する質問票をマディソンに送ったのである。
例えば「勤勉さと秩序に関して解放奴隷の一般的な性質は奴隷と比較してどうでしょうか」という問いに対して、マディソンは「一般的に無気力であり堕落しています。彼らが関わり続ける奴隷達の悪い性質を保持する一方で、彼らの肌の色や特徴に対する偏見によって隔てられるので白人の良い性質を何も得ていないように思えます」と見解を示している。
他にも、「もしある男奴隷が異なる、もしくは遠くの農園の女奴隷と交際した場合、男女の所有者の間で彼らが一緒に住めるように何らかの協定がなされるのが一般的な慣習でしょうか」という問いに対して、「非常に離れた農園の間でも協定がまったくないわけではありません。奴隷は異なった農園にいる妻を好みます。外に出る機会と口実になりますし、家庭内の責任があるので休日のちょっとした呼び出しから除外されるからです」と具体的な回答を与えている 。
1825年、社会改革家として知られるフランシス・ライトが奴隷が共同で働いて自由を取り戻せるような集団農場を作る計画を持ってマディソンのもとを訪れた。マディソンはライトの提案を聞いたが、その実現性については疑問を抱き、積極的な支援は行わなかった。
マディソンの最晩年にはナット・ターナーの反乱が起き、反動として奴隷制の強化が進んだ。しかし、マディソンは奴隷制を悪弊と見なす信念を変えず、アフリカへの入植によって奴隷制を廃止する計画の有用性を強く信じていた。
世界政府の構想
1817年頃に書かれた「憲法に関する覚書Memorandum on Constitution」の中でマディソンは以下のように世界政府を樹立する構想を述べ、その利点を挙げている。国際連盟が発足する100年以上も前である。
「人間の工夫によって、地球のあらゆる場所の交流を促進することで、地球のすべての住民を世界的な議会の指導管理の下に統合することは可能だろうか。もしそうすれば人間の悪弊の多くが避けられるだろう。戦争や飢餓はいずれかの所産である疫病とともに存在しなくなり、戦争のために支払われる税や戦争遂行のための税は必要なくなり、すべての者に恩恵をもたらす交流を困難にして犠牲するような地域的な束縛が社会を圧迫することはもはやなくなるだろう」
合衆国の将来の人口を予測
マディソンは1829年に書いた「ヴァージニア州憲法修正会議の覚書Note During the Convention for Amending the Constitution of Virginia」の中でアメリカの人口が将来どのように推移するか次のように予測している。
「ここには良い例がなく、他の場所の例から導いた想像でしかないが、人口の過密状態が注意を引くのははるかに先のことだと仮定することはできない。合衆国の人口増加率は今後、以下のようになるだろう。1,200万人が25年で2,400万人になる。2,400万人が50年で4,800万人になる。4,800万人が75年で9,600万人になる。9,600万人が100年で1億9,200万人になる」
ちなみに1829年から25年後の1854年の実際の人口は2,685万6,000人、その50年後の1904年の人口は8,216万6,000人、さらに75年後の1979年の人口は2億2,505万5,000人となっている。マディソンは人口増加率は徐々に鈍化すると予測していたが、実際の増加率は予測を上回っている。
帽子の謝礼
夫人の姪の夫から帽子を贈られたマディソンは以下のようなユーモアに富んだ謝礼の手紙を送っている。
「2、3日前に無事に私の手元に届いた暖かい帽子へのお礼を返します。それは流行を取り入れながらも快適であり、言ってみれば、すべての流行に優るものでしょう。同時に私は、スティーヴンソン夫人[夫人の姪]の手袋と同じく、私の従姉妹のサリーから1対の素晴らしい手袋を受け取りましたが、それがとてもお気に入りです。彼女自身の手作業は私の手にさらに暖かさを伝えてくれるようです。贈り物は[決闘の意思を示す]篭手ではないので、彼女の夫を通じて心に感じる礼状を贈ることができればと思います。またマディソン夫人は私の足に良いものをあてがってくれました。したがって私は、頭の先から爪先までボレアス[北風の神]とその同盟者である寒気と雪に対抗する作戦のための装備を整えたわけです」
ロバート・オーエン評
1825年、社会改革家として知られるロバート・オーエンはジェファソンとマディソンを訪れている。オーエンがマディソンとどのようなことを話し合ったかはほとんど知られていない。しかし、オーエンのニュー・ハーモニーの建設について友人から知らされたマディソンは、1828年1月29日付の手紙で以下のように述べている。
「オーエン氏のこうした社会の変動に対する救済策は、労働が通常の動機付けを伴わずに楽しむものであること、平等への愛好が区分への欲求に取って代わること、そして、機械の改良によって増加する余暇が、いかなる悪行も無為による怠惰もなく知的育成、道徳的な喜び、そして、無邪気な楽しみを促進することを暗示しています。慣習は適切にも第2の自然と呼ばれています。オーエン氏は慣習を自然そのものにしています。それにも拘らず、彼の計画は興味深いものです。[中略]。オーエン氏の仕組みでさえも、たとえ彼が意図する成功をすべて収めたとしても、疑問から免れることはできません。たとえ結婚を禁じたとしても何も得るものはないので結婚は認められていますが、私は彼に、土地の区画が生み出し得るすべての食糧に対して人口がいっぱいになった後はどうするのかと聞きました。彼の答えは、大地はより深く耕作すればするほど、無限に生産が向上するというものでした。この誤りは容易に認識し得るので、彼の頼みの綱は空き地に入植することでした。あなたの計画では、共同体が繁栄すればすべての土地が急速に覆われてしまいます。そうなれば増大した人口にどのような結果が生じるのでしょうか。これは非常に遥か先のことなので現在の注意を必要としない考えであるという答えは賢明ですが、断固たるものではありませんでした」
マディソンはその教育の大部分を牧師から受けているが、宗教的教育はそれほど熱心な行われたわけではなかった。マディソンにとって信教の自由は非常に重要な概念であったが、1785年6月20日に「宗教は政府の基礎であり基盤である」と記しているように反宗教的、もしくは反キリスト教的な立場であったわけではない。それは1825年11月20日にペンシルヴェニア大学の道徳哲学教授に宛てた手紙の中で次のように言っていることからも分かる。
「須らく賢明で善良な神を信じることは、世界の道徳的秩序にとっても、人類の幸福にとっても不可欠であるので、それを補強する論議はあまりに多くて引用もできませんし、あまりに性質が様々な故に配慮できないので適用することもできませんし、それを銘記することもできません」
しかし、国家と宗教の結び付きに対してマディソンは生涯にわたって強い警戒感を抱いていた。宗教は国家の支援を必要とせず、むしろ国家の支援を受ければ純粋性が損なわれ宗教自体に害を及ぼすというのがマディソンの信念であった。こうした信念は若い頃にヴァージニア植民地における監督派教会の支配体制を経験したことが大きい。
マディソン自身の世界観は純粋なキリスト教的な世界観ではなく、宇宙は驚くべき調和に満ちており、人間と社会に関する事実を発見することで進歩と啓蒙がもたらされるという理神論的な観点に基づいていた。神が司る宇宙の秩序は、人間の限りある能力では完全に理解することができないとマディソンは考えていた。
マディソンは聖書の随所に書き込みを残している。例えば使徒行伝19章には、「黙示録は、形式ではなくその実質においてキリストよりも大いなる奇跡に満ちている」と記され、さらに「恩寵を受けている信仰者は、教示と決意のために神の言葉を必要とするが、それは同時に堕落の可能性を暗示している」と記されている。
第2次就任演説(1813.3.4)より抜粋 原文
長きにわたって合衆国に戦争―現実には戦争と呼ばれていたわけではないけれども―が仕掛けられるまで、議論と忠告が尽きるまで、戦争を引き起こした不正行為が止むことはないだろうという確実な言明を受け取るまで、また、国の精神を崩壊させることなく、国自体とその政治機構に寄せられた信頼すべてを損なうことなく、そして、不名誉な被害を受け続けるか、さらなる犠牲と厳しい戦いによって、独立国家の間における、我々の失われた威信と尊厳を取り戻すかの瀬戸際で、最後の訴えをもはや遅らせることができなくなるまで合衆国側は宣戦布告しませんでした。
公海上の国家主権とその他の階層の市民の生業と同じく適切な価値を与えるべき生業に就く重要な階層の市民の安全に対する脅威が戦争の事由になっています。そうした脅威に対して何も主張しないことは、すべての国に共通する点において他国と平等であることを諦めることであり、社会のすべての構成員がその庇護を受けるべき神聖な権利を侵害することです。我が国の水夫が、[イギリスの]あらゆる艦船の士官の意のままに、自船から外国の船に移るように強いられた行為の不法性を検討する必要もなく、それと不可分の怒りに言及する必要もないでしょう。我が政府の歴代政権の記録に証拠はありますし、アメリカ市民の一部が受けた甚大な被害は、死者以外のあらゆる者の胸中に人間的な同情を呼び起こすでしょう。
戦争がその起源において公正であり、必要であり、かつその目的において高潔であれば、我々は戦争を行うにあたって、正義や名誉の原理、文明国の慣習、そして礼節や人間性が命ずるものに違反することはないと我々は誇らしく満足して思うことができます。こうした義務に細心の注意を払い、決して揺るがない公平無私の精神で我々は戦争を行っています。
残念ながら、それは敵の行いに対してほとんど模範的な行いとして影響を及ぼしていません。
彼らは、戦争における慣習の下では戦争捕虜とは考えられない合衆国市民を戦争捕虜として拘留しています。
彼らは、合衆国に思い切って移民し、帰化によって我々の政体の一員となって、第2の祖国の権威の下、その権利と安全を維持するための公然とした名誉ある戦争に従事している者を戦争捕虜として扱わずに、反逆者または脱走者として罰しようと脅迫している。
彼らは、実際は自ら斧やナイフを取ってはいないが、未開人を残虐な道具で武装させることで無差別殺戮に没頭している。未開人を唆して味
方につけて戦闘を行わせ、敗者の血に対する渇望で彼らを満たし、重症を負った無防備な捕虜に拷問と死を与える所業を完遂しようと望んでいます。さらに今まで見られなかったことですが、イギリスの指揮官は、我々の軍隊の挫かれざる勇気に対する勝利を、未開人の殺戮にさらされる捕虜に同情するふりをすることによって掠め取りました。そして、今や我々は、彼らが、我々の政治組織を解体し、連邦共和制を分断するような征服軍の立場を取ることで、名誉ある戦争形態をさらに侮辱していると理解しました。
幸いにも、他の事例と同じく、こうした行いは張本人に返ってくるでしょう。しかし、彼ら自身が発する堕落した考えに注意を払い、そうした考えに服さなければ、前例のない矛盾の感覚が生じ、解体と暴動を招こうとする敵対者[イギリス]の政策に対する[アメリカの]非難を知ることで[自国の矛盾が分かり]長期間にわたる戦争を行っている[アメリカ]政府から却って恩恵がもたらされるという大いなる驚きが喚起されるかもしれません。
我々の側の戦争の正義を考えることはより簡明ですが、開戦が不本意であったことは、戦争の進行を食い止めようとする考えを当初、強く表明していたことから明らかです。剣を鞘に収めるに足る条件を敵に告げる前に、剣が鞘から滅多に抜かれることはありません。もっと正確な文句で繰り返せば、国の軍事力に何でも頼ることを禁じる精神を受け入れることです。
五十嵐武士「アメリカ的政治観の成立-ジェイムズ・マディソンの連邦共和国観」『アメリカ独立革命 : 伝統の形成』(所収)東京大学出版会、1982年。
中野勝郎「ジェイムズ・マディソンの共和制観」『共和主義の思想空間―シヴィック・ヒューマニズムの可能性」(所収)名古屋大学出版会、2006年。
マディソン、ジェイムズ『ザ・フェデラリスト』(アレグザンダー・ハミルトン、ジョン・ジェイとの共著)福村書店、1991年。
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連邦議会図書館サイト
The Papers of James Madison Digital Edition
Online Library of Liberty
James Madison's Montpelier
James Madison Museum
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