ウィリアム・ユースティス陸軍長官 |
ウィリアム・ユースティス(1753.6.10-1825.2.6)はマサチューセッツ植民地ケンブリッジの大工の家で生まれた。1772年にハーヴァード大学を卒業し、医学を学んだ。独立戦争時は病院の外科医として働いた。戦後はボストンで開業した。シェイズの反乱の鎮圧の際には志願医として従軍した。
1788年から1794年にかけてマサチューセッツ州議会議員を務め、行政評議会の一員にも選ばれた。1800年、連邦下院議員に選出された。さらに1802年、ジョン・クインジー・アダムズを破って再選を果たした。ユースティスは下院議員に1801年から1805年まで在職した。
1809年2月17日、ジェファソン大統領はユースティスを陸軍長官に指名した。さらに3月7日、マディソンの再指名を受け、4月8日に陸軍長官に就任した。大統領の求めに応じてユースティスは陸軍と陸軍省の再編を図った。1809年12月と1810年1月の議会に向けた報告では、5万の志願兵からなる国軍構想を提案している。さらに省内に兵站部と主計総監部を創設した。こうした部門は管轄領域が重複していたために後に混乱を生むことになった。
1812年戦争ではウィリアム・ハル将軍の降伏をはじめ、戦況が不利であったために、民主共和党内で辞職を求める声が高まった。ユースティスはそうした声に応じて辞職した。マディソンはその代わりにユースティスに駐蘭アメリカ公使の職を与えた。
1815年にボストンから旅立ったユースティスは1818年まで駐蘭アメリカ公使を務めた。帰国後、ボストン近郊のロックスベリーの地所を購入して居を定めた。1820年、ユースティスは空席を埋める形で連邦下院議員に再任した。1823年まで下院議員に在職するかたわら、ユースティスはマサチューセッツ知事選挙に出馬し続けたが1度も当選しなかった。1823年、民主共和党の州知事候補として連邦党が擁立した候補を破って初当選した。1825年にボストンで亡くなった。 |
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