ロバート・スミス国務長官 |
ロバート・スミスの経歴については、ジェファソン政権のロバート・スミス海軍長官を参照せよ。
マディソンはジェファソン政権で財務長官を務めたアルバート・ギャラティンを国務長官に任命しようと考えたが、スミスの兄サミュエルも含めてギャラティンの就任に対して異を唱える者が多く、任命を撤回せざるを得なかった。反対派の意見を尊重し、代わってスミスを国務長官に任命した。国務長官としてスミスは出港禁止令で悪化した対外関係を修復することができなかった。さらにスミスはギャラティンと対立するようになった。ギャラティンはスミス兄弟が海軍省の公金を不正に流用したとまで言うようになった。さらにギャラティンはマディソンに自分とスミスのどちらかを選ぶように迫った。結局、マディソンはスミスを呼び、職務怠慢を理由に国務長官を辞し、外交官に就くように求めた。
スミスはマディソンの申し出を拒絶してボルティモアに帰った。1811年6月、『合衆国民に告ぐ』をスミスは発行し、マディソン政権を攻撃した。その後、ボルティモアで弁護士業を再開し、メリーランド大学で法学を教えた。 |
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