アレグザンダー・ダラス財務長官 |
アレグザンダー・ダラス(1759.6.21-1817.1.16)は、英領ジャマイカ島のキングストンで生まれた。ダラスが5才の時に一家はエディンバラに移り、その後、ロンドンに移った。18才で学業を終え、1779年まで叔父の商社で事務と会計に携わった。1781年、父の遺産を相続するためにジャマイカ島に渡った。ジャマイカ島の気候が妻の健康に悪いと悟ったダラスは、1783年6月、フラデルフィアに移住した。
1785年、ダラスは法曹界に加入したが、思うように収入を得られなかったために、ペンシルヴェニア・ヘラルドやコロンビアン・マガジンなどの編集に携わった。さらに法律の知識を活かして『独立前後のペンシルヴェニア法廷における判例集』を編んだ。それに加えて後に連邦最高裁とペンシルヴェニアの連邦巡回裁判所の判例集をまとめている。ダラスの業績は初めて連邦最高裁の判例をまとめたものであり、今日でも引用されている。
1791年1月19日、ダラスはペンシルヴェニア州の州務長官に任命された。またペンシルヴェニア州の民主共和党の設立に加わった。1795年には『ジェイ条約の特徴』を出版してジェイ条約に反対した。州務長官を務めるかたわら、ダラスは4巻からなる『1700年から1801年までのペンシルヴェニア法』を編んでいる。
1801年から1814年にかけてペンシルヴェニア州東部管区の連邦地方検事として奉職した。その間、オルムステッド裁判を担当している。オルムステッド裁判は、アメリカ船の船長が独立戦争中に拿捕した船舶に対する報奨をペンシルヴェニア州に求めた裁判である。
1814年にダラスが財務長官に任命された時、国家財政は破綻寸前であった。ダラスの指導の下、財務省は再編され、連邦政府の負債は軽減され、正貨支払い制度が再建された。またダラスは第2合衆国銀行の創設と保護関税導入を推進した。1815年3月14日から8月8日までダラスは陸軍長官代理も兼任している。また臨時国務長官も務めた。ダラスは連邦政府の信用を著しく回復することに貢献した。退任後、間もなくしてニュー・ジャージー州トレントンで亡くなった。
息子のジョージ・ダラスは、後にポーク政権下で副大統領を務めた。 |
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