大統領就任
1974年8月9日、フォード副大統領はこれまでにない困難な状況下で
リチャード・ニクソン大統領から大統領職を引き継いだ。フォードは実質的に連邦下院議員の経験しか持っていなかった。下院でフォードは共和党の院内総務を務めた。1973年10月10日、アグニュー副大統領がボルティモア郡長官時代から収賄を続けていたという噂のために辞任した。1967年に成立した憲法修正第25条の下、ニクソンはアグニューに代わってフォードを副大統領に指名した。議会の承認を得た後、12月6日にフォードは副大統領に就任した。ウォーターゲート事件によってニクソンが辞任したことで、フォードは選挙で大統領にも副大統領にも選出されることなく大統領に就任した唯一の大統領となった。
その他の点でもフォードは独特な大統領であった。前任者の辞職によって大統領職を受け継いだ副大統領はフォードの他には存在しない。不名誉な形でニクソンが大統領職を去ったことでフォード政権は困難とともに始まった。フォードは選挙による人民の信任を欠いていたうえに、アメリカはヴェトナム戦争によって深く傷付き分裂していた。大統領への敬意は著しく減退し、国家の経済と外交関係は混乱を極めていた。
象徴的な行動と公共政策、そして、リーダーシップの形態の変化によって、フォードは大統領の威信を取り戻し、ウォーターゲートの影響を払拭しよう努めた。憲法修正第25条によってフォードは元ニュー・ヨーク州知事のネルソン・ロックフェラーを副大統領に選んだ。いわゆる帝王的大統領制度の多くの装飾が取り除かれた。フォードはホワイト・ハウスの職員を540人から485人に減らした。またしばしば海兵隊楽団に「大統領万歳」の代わりにミシガン大学の応援歌を演奏するように命じた。さらにホワイト・ハウスの居住区を「官邸」と呼ぶ代わりに「住居」と呼ぶように改めた。
象徴的変化とともに新しい政策と新しい大統領の形態が導入された。就任から3日後、フォードは、ホワイト・ハウスで経済に関する会議を開くように求める上院の決議を受け入れた。インフレに関する会議には実業や労働者の指導者、超党派の経済学者などが参加した。さらに大統領と知事、市長、その他の地方自治体の職員との会合も開かれた。それは孤立したホワイト・ハウスの扉を開けようとするフォードの試みであった。
おそらくフォードの国家の傷を癒そうとする最も劇的な行動は、5万人の徴兵忌避者とヴェトナム戦争からの逃亡兵に恩赦を与える計画である。フォードは無条件の恩赦を与えたわけではないが、求める者は恩赦を得ることができた。就任して11日後の1974年8月19日、フォードは恩赦の計画を公衆の前で宣言した。徴兵忌避者に対しては、合衆国に忠誠を誓い、公共奉仕を2年間行うという条件の下、恩赦が与えられた。逃亡兵に対しては、合衆国に忠誠を誓い、原隊で2年間軍務に服するという条件の下、恩赦が与えられた。退役兵の諸団体は、フォードの計画は寛大過ぎると批判した。その一方で不公正な戦争に参加することを拒んだことは適切であったと確信する徴兵忌避者は、恩赦の申し出を不公正を容認することに等しいとして一蹴した。
象徴、形式、そして政策におけるフォードの刷新は善意によって迎えられた。フォードの控えめな姿勢は大統領制度を減衰させるどころか、親愛の情を湧かせた。報道はフォードが朝に自分用のマフィンを焼く様子や1日の終わりに水泳を楽しむ様子を好意的に伝えた。就任して最初の1週間でフォードは71パーセントの支持率を獲得した。不支持率は僅かに3パーセントで未決は26パーセントであった。
しかしながらほぼ一夜にして報道と人民のフォードに対する好意的な姿勢は消え去った。1974年9月8日、大統領に就任して僅かに4週間でフォードはニクソンに無条件の特赦を与えた。ヴェトナム戦争に関連する特赦のように、ニクソンに特赦を与えることでフォードはウォーターゲート事件を早く水に流したいと思っていた。しかし、ニクソンに特赦を与えることでフォードはウォーターゲート事件の最後の犠牲者になった。ニクソンが辞任した後、大統領に就任すれば恩赦を与えるとニクソンに約束していたのではないかという疑念を示す者もいた。1974年10月17日、フォードは下院司法委員会でそのような取引は行われなかったと宣誓した。フォードはウィルソン以来、55年振りに議会で証言した最初の大統領になった。2006年に亡くなるまでフォードは一貫して宣誓と同様な態度をとり、たとえ政治的犠牲を払ってでも、ウォーターゲート事件によって政治が負った傷を癒すために正しいことを行ったと主張した。もしフォードがニクソンに恩赦を与えなければ法廷闘争が続いていただろう。9月終わりにフォードの支持率は50パーセントにまで低下した。気取らない性格を賞賛する報道の姿勢は軽蔑と嘲笑に取って代わられた。フォードは不器用で飲み込みが遅いと揶揄され、時にはニクソンに恩赦を与える秘密の取引をした卑怯な政治家と批判されることもあった。
しかし、最も冷笑的な批判でさえもフォード個人の尊厳に挑戦する者はほとんどおらず、ニクソンへの恩赦は騒ぎを引き起こしたものの、フォードの率直で飾りがない姿勢はアメリカを癒した。しかし、フォードは近代的大統領制度の権威を取り戻すことはできなかった。大統領の影響力の限界は、フォードが、積極的で、時には敵意に満ちた議会と協力関係をうまく築けなかったことで明らかになった。1974年の選挙で民主党は大幅に議席を伸ばし、議会の支配を確固たるものにした。それにより大統領が議会を主導するリーダーシップを発揮することがさらに難しくなった。
インフレ対策
フォードはエネルギー不足による景気後退とインフレの悪化に直面した。最初、フォードは支出を削減し、予算を均衡させ、金融の引き締めを図り、インフレの悪化を阻止しようとした。しかし、フォードは景気後退の対処に主な関心を向けるようになった。フォードは減税を提唱し、外国からの石油輸入に依存する度合いを減少させる措置をとり、政府支出の削減を図った。約2年間でフォードは政府支出を増加させると考えられる法案に対して50回以上も拒否権を行使した。フォードの反インフレ計画として、政府支出の削減や自発的な価格統制を含む「インフレを今、打破しよう」という勤倹貯蓄運動を展開する広報戦略が行われた。フォードは勤倹貯蓄運動のバッジをつけて議会で演説した。しかし、勤倹貯蓄運動はほとんど何も効果をもたらさなかった。
フォードは民主党の抵抗にあっても意気消沈しなかった。フォードは減税と規制緩和でいくらかの成功を収めた。しかし、フォードの影響力の大部分は防衛的に行使された。フォードは拒否権を66回も行使し、そのうち12回は議会に覆された。そうした点でフォード政権は、近代的大統領制度よりも19世紀の活発な大統領制度に似ていた。
選挙運動資金の規制
1974年10月、議会は連邦選挙運動法に修正を加えた。1974年連邦選挙運動法はアメリカ建国以来、お金と政治の関係に最も大きな変革をもたらした法であった。1974年連邦選挙運動法は、大統領選挙と連邦議会選挙で献金と支出の制限を設定する連邦選挙運動委員会を創設し、大統領選挙運動のための公的資金制度を創設した。連邦選挙運動委員会は選挙運動資金の規制を監督する超党派の組織であり、連邦選挙運動に関する法を執行する権限を持つ。連邦選挙の候補者は献金と支出を連邦選挙運動委員会に報告し、報告を受けた連邦選挙運動委員会はマス・メディアや民間利益団体に結果を開示する。
その他の重要な変化は献金額の制限である。個人に献金する場合は1人の候補あたり1回の選挙につき1,000ドル、政治活動委員会に献金する場合は1人の候補あたり1回の選挙につき5,000ドルの上限が定められた。その目的は政治腐敗を防止し、候補者に資金集めよりも選挙運動自体に力を注げるようにし、多額寄付者の影響を排除することである。政治活動委員会は、労働組合、企業、その他の利益団体が、自発的な献金をその構成員や従業員から求めることで、献金に関する規制を回避しようとするために設立された団体である。
1974年連邦選挙運動法は政治活動委員会を労働組合や企業が候補者のためにお金を使う合法的な手段とした。また1974年連邦選挙運動法は、大統領選挙に対して選挙運動のために政党と候補者に公的資金を拠出することを定めている。
諜報機関の再編
中央情報局や連邦捜査局の多くの違法行為が報じられると、フォードは1976年2月、諜報機関の再編を提示した。中央情報局や連邦捜査局といった諸機関の活動に対する監視が強められた。多くの措置は大統領令を通じて行われた。政府活動の研究に関する上院特別調査委員会は、1796年4月に、中央情報局や連邦捜査局による多くの違法行為を明らかにした。報告によれば、アイゼンハワー政権とケネディ政権で外国の指導者を暗殺する試みが行われ、連邦捜査局は1960年代に公民権運動家も含む過激派と見なされた人々に対する電話盗聴を行っていた。そうした活動は大統領の認可なしで行われていた。上院諜報委員会が常設委員会として設立された。同委員会は中央情報局を代表とする連邦の諜報機関に対して法的、予算的権限を持った。
外交政策
フォードと議会の関係は瀬戸際でも変わらなかった。国内政策と同様に、議会は、大統領が伝統的に最も強力な法的、政治的地位から遂行する外交政策でもフォード政権に思う通りに行動させなかった。1974年、議会は南ヴェトナムへの支援を強化するように求めるフォードの要請に応じなかった。1975年、ラオスで共産主義勢力が権力を握った。同様にカンボジアでも共産主義勢力が現政府を打倒して権力の座に着いた。さらに北ヴェトナム軍がサイゴンを陥落させた。サイゴンが陥落した時、アメリカ大使館は国を出ようとする南ヴェトナム人に囲まれた。1976年までに北ヴェトナムは南ヴェトナムを完全に掌握し、南北を統合した。ハノイが統一ヴェトナムの首都となり、サイゴンはホー・チー・ミンと改名された。
フォードは大統領の外交権限を縮小させないように決意した。1975年5月、フォードは議会に相談することなく、カンボジアに拿捕されたマヤグエース号を取り戻すために軍隊を送った。カンボジアはマヤグエース号が領海を侵犯したと主張した。それに対してアメリカは、マヤグエース号は領海から十分に離れていたと主張した。フォードは軍に命じて39人の乗組員がカンボジア本土に移送されるのを防止しようとした。カンボジア軍がアメリカ軍の救出作戦を妨害しないように、アメリカ軍はカンボジア本土を爆撃した。アメリカ海軍の駆逐艦と空母がカンボジアの艦船と交戦した。海兵隊がマヤグエース号の乗組員が拘束されていると考えられる島に上陸した。最終的に乗組員は解放され、アメリカの威信は保たれた。
議会は、南ヴェトナムへの緊急支援の他、トルコへの支援に対する輸出禁止の撤廃、アンゴラでの反マルクス主義者への支援などフォードの緊急を要する外交政策に対しても反応しようとしなかった。このように外交政策への支持を欠いていたために、フォードは議会に権力が移行し、大統領の統治能力が著しく損なわれたと考えた。
ヘルシンキ宣言
1975年7月、フォードは35ヶ国の代表とヘルシンキ宣言に調印した。ヘルシンキ宣言は、ニクソン政権から進められてきた全欧安全保障協力会議構想の最終合意文書であった。ニクソン政権は西欧諸国の要請に応え、1972年11月に開催された全欧安全保障協力会議準備会議に参加した。その後、安全保障、経済技術協力、人の移動や文化協力の3つの分野で協議が進められた。検閲と反体制者の収監で批判されていたソ連は国際的な人権の原則を遵守することを約束した。ソ連が人権の原則を遵守する代わりに、アメリカと西側諸国は第2次世界大戦後にソ連によって決められた東ヨーロッパの境界を認めた。それは初めてアメリカと西側諸国が東ヨーロッパをソ連の影響圏として公式に認めたことを意味した。ソ連の衛星国を公式に認めることで、フォードは文化的、外交的交流が拡大されることを期待した。フォードはヘルシンキ宣言によって緊張緩和が促進され、さらなる国際協調が達成されることを望んだが、既にアメリカ国内では緊張緩和に対する批判が高まっており、ヘルシンキ宣言は再選を目指すフォードの足枷となった。フォードは翌年の共和党全国党大会でヘルシンキ宣言を批判する綱領の承認を強いられた。冷戦中、アメリカ国内ではヘルシンキ宣言の評価は高くなかったが、冷戦終結後、ヘルシンキ宣言の人権条項が東側諸国の反体制派の活動に法的根拠を与え、東欧革命に導いたとして評価されるようになった。
結語
フォードの統治能力は大統領候補指名の改革によってさらに弱められた。政権の関心が統治から選挙に向けられるようになったので、フォードは大統領の座に腰を落ち着けておくことができなくなった。フォードはワシントンに滞在したままで大統領候補指名を獲得したいと考えていたが、敗北を避けるためには精力的に選挙運動を行う必要があった。新しい予備選挙に基づいたメディアを駆使した大統領候補指名の過程によって、保守派の元カリフォルニア州知事の
ロナルド・レーガンが党内で現職大統領に対抗する有力な候補となった。
フォードは共和党の穏健派として、議会を支配する民主党のリベラルな政策に対抗できないフォードに不満を抱く保守派の支持を完全に掌握することができなかった。さらなる心配は大統領の外交政策であった。レーガンはフォードのヴェトナム政策を批判した。フォードは初期の予備選挙や党員集会で圧倒的な勝利を得たので、レーガンの挑戦は当初は脅威とはならなかった。しかし、レーガンはノース・カロライナ州で勝利を収め、それからテキサス州でも勝利を収めた。その後、両者の戦いは接戦となった。その結果、フォードは1,130人の代表しか獲得できなかった。大統領候補指名を獲得するためには1,187人の代表を必要とする。
明確な勝者が決定できなかったために、フォードがレーガンを副大統領候補にするという噂が飛び交った。しかし、レーガンがリチャード・シュウェイカー上院議員を副大統領候補に指名することを宣告すると流れは変わった。穏健派のシュウェイカーの選択は保守派を反発させ、その結果、フォードは大統領候補指名獲得に必要な票数を獲得することができた。大統領候補指名で苦戦する現職大統領はたいてい本選で敗れている。フォードもその例外ではなかった。