ジョン・マーシャル国務長官 |
ジョン・マーシャル(1755.9.24-1835.7.6)はヴァージニア植民地ジャーマンタウン近郊の農園主の長子として生まれた。父トマスは土地の有力者で治安判事や植民地議会議員を務めている。母はヴァージニア植民地の名家であるランドルフ家の出である。母系を通じてマーシャルとトマス・ジェファソンは近縁関係にあたる。マーシャルは14才の頃、1年間学校に通った他は、主に家庭でラテン語や古典の教育を受けた。また父の導きによりイギリスの文学と歴史に親しんだ。ヴァージニア植民地の上流階層では、それは珍しいことではなかった。
独立戦争が勃発すると、郡の民兵隊の将校になり、ブランディワイン・クリークの戦い、ジャーマンタウンの戦い、モンマスの戦いなどに参戦した。1777年から翌年にかけてヴァレー・フォージの厳冬も体験している。1780年、マーシャルはウィリアム・アンド・メアリ大学で法と自然哲学を学んだ。
独立戦争後、弁護士として活躍したマーシャルは、1780年代の終わりまでに法曹界の中でも抜きん出た存在になっていた。1782年、ヴァージニア邦議会議員に選出された。合衆国憲法批准を推進した。この頃、既に司法府は憲法に違反する法律に対して無効を宣言できることを示唆している。それはマーシャルが早くから違憲立法審査権の概念を持っていたことを表している。
合衆国憲法の下、新政府が発足した際に、議員への出馬や司法長官、もしくは最高裁判事への就任を勧められたがマーシャルはすべて断った。経済的に恵まれた弁護士業を中断する余裕がなかったからである。ヴァージニア州の連邦派の指導者の1人としてマーシャルは、革命フランス政府の駐米公使エドモン=カール・ジュネに対する告発を主導した。ジュネがアメリカの中立を侵害する数多くの行為を止めようとしなかったからである。マーシャルはジョージ・ワシントン大統領の中立政策だけではなく、ジェイ条約についても条約の正当性を訴え、ワシントン政権を強く支持した。
1797年、ジョン・アダムズはマーシャルをフランスとの調停を図る特使の1人に任命した。いわゆるXYZ事件のために交渉は失敗に終わった。1798年6月に帰国したマーシャルは一躍、時の人となっていた。当時を代表する「防衛に大金をかけろ、賄賂には一銭たりとも使うな」という言葉はマーシャルを迎える晩餐会で唱えられた。その後、連邦下院議員を務めたが、国務長官就任にともない辞職した。
国務長官としてマーシャルは、独立前の負債に関するイギリスとの交渉を進めた。職務を行う傍ら、アダムズの信頼できる助言者として貢献し、年次教書の草稿も書いた。 |
|