ジョン・ブリキンリッジ司法長官 |
ジョン・ブリキンリッジ(1760.12.2-1806.12.14)は、ヴァージニア植民地スタントン近郊の農場で生まれる。ウィリアム・アンド・メアリ大学で学んだ後、1785年に法曹界に入った。1781年から州下院議員に就任し、ジェームズ・マディソンを支持した。
1793年にケンタッキー州に移住した。馬牧場をはじめ様々な事業に関わり、土地投機にも携わった。1793年12月、州検事総長に任命され1797年まで務めた。その後、ケンタッキー州下院議員に選ばれ、下院議長にも選ばれた。ブリキンリッジはケンタッキー決議に携わった。ジェファソンが秘かに起草した草案を、ブリキンリッジと数名が修正を施しうえで議会に提出している。
1800年、連邦上院議員に選ばれたブリキンリッジは、1801年の裁判所法、オハイオ州の連邦加盟などジェファソン政権の諸政策の立法化に尽力した。ジェファソンは憲法修正によりルイジアナ購入の憲法上の疑議を解消することをブリキンリッジに示唆した。ブリキンリッジ自身は州権尊重の立場にあったが、西部への拡大を推進していたためルイジアナ購入に対して特に疑議を差し挟まなかった。最高裁判事サミュエル・チェイスの弾劾に際してブリキンリッジは有罪票を投じた。
1805年8月、ジェファソンはブリキンリッジを司法長官に指名した。ブリキンリッジは西部出身の初めての閣僚として西部の利害を代表した。また行政府と立法府の橋渡しの役割を果たした。1806年、在任中に肺結核で亡くなった。
孫のジョン・キャベル・ブリキンリッジは、後にブキャナン政権下で副大統領を務めた。 |
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