サミュエル・サザード海軍長官 |
サミュエル・サザード(1787.6.9-1842.6.26)は、ニュー・ジャージー邦バスキング・リッジで生まれた。父ヘンリー(1747.10.7-1842.5.22)は連邦下院議員を務めた人物である。サザードは1804年にカレッジ・オブ・ニュー・ジャージーを卒業した後、ヴァージニアで家庭教師を務めた。この際にモンローをはじめヴァージニアの有力者と知り合った。
法律を学んだサザードは1810年、ヴァージニアの法曹界に加入した。その後、ニュー・ジャージーに帰ったサザードはハンタードン郡で開業した。1815年、ニュー・ジャージー州議会議員に当選した。さらにニュー・ジャージー州最高裁判事に選ばれ1820年まで務めた。トレントンに移り、短期間、町の法務官を務めた後、1821年に連邦上院議員に着任した。上院議員を務めるかたわら、サザードは閣僚のポストをモンロー大統領に求め続けた。1823年に前任者の退任によってようやく海軍長官のポストが与えられた。
海軍長官としてサザードはフォクサード事件でデイヴィッド・ポーター提督を停職処分とし、文民統制の原則の先例を作った。フォクサード事件とは、プエルト・リコのフォクサードで1人の将校が侮辱を受けたことに対してポーター提督が、もし謝罪がなされなければフォクサードの町を攻撃すると許可無く脅迫した事件である。またサザードは海軍省の指導の下で南極探検を行なう計画を立てていたが、議会が予算を付けることを拒んだので実現しなかった。ザザードはジョン・クインジー・アダムズ政権でも引き続き留任した。 |
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