スミス・トンプソン海軍長官 |
スミス・トンプソン(1768.1.17-1843.12.18)は、ニュー・ヨーク州アメニアで生まれた。父は農業、土地投機、鉛鉱山業などを営んでいた。1788年にカレッジ・オブ・ニュー・ジャージーを卒業したトンプソンは、法律を学び1792年に法曹界に加入した。
1800年、ニュー・ヨーク州議会議員に選ばれ、翌年にはニュー・ヨーク州憲法改正会議の代表にも選ばれた。さらに1802年から1814年にかけてニュー・ヨーク州最高裁判事を務め、州の立法に対して拒否権を持つ審議会の一員となった。さらに1814年にはニュー・ヨーク州最高裁長官になった。トンプソンはニュー・ヨーク政界を支配したバックテイルズ派の影響力の下、1818年に海軍長官の職を得た。
海軍長官としてトンプソンは、国際的な奴隷貿易を取り締まるために、イギリスとアメリカが相互に臨検し合うことを認めた。1824年の大統領選出馬を考えてトンプソンは海軍長官を退き、連邦最高裁判事に就任した。
1827年、ブラウン対メリーランド州事件で、トンプソンは、憲法の解釈によれば、州は州内の通商に関する権利を明け渡していないという反対意見を述べている。また同年のオグデン対サウンダーズ事件では、州が実業を統制する必要があるという観点の下、ニュー・ヨーク州の破産法は実業の世界において必要不可欠であると述べた。最高裁判事の職務を果たす一方でトンプソンはジャクソン政権に反発する姿勢を示した。1828年にはかつての友人でありジャクソン政権の主要人物と見なされていたヴァン・ビューレンを相手にニュー・ヨーク州知事選挙を戦ったが敗れた。
1837年のニュー・ヨーク州対ミルン事件では、ニュー・ヨーク州の移民規制は、単に通商を規定する権限を行使しただけだとトンプソンは主張している。このようにトンプソンは州が州経済に介入する権利を推進した。またネイティヴ・アメリカンに関する事件では、1831年のチェロキー国家対ジョージア州事件で、チェロキー国家を独立した主権国家として認めている。さらに奴隷制問題に関わる事件については、奴隷主の財産権の擁護、州権の保持という観点から裁定を下した。1843年、ニュー・ヨーク州ポプキシーで在職のまま亡くなった。 |
|